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歩け、マヤ -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

タグ:中国

2021ねん 6がつ 1にち(かよーび、晴れ)

やぱ新しく勉強したり研究するには、どうしても定時以降とか、休み使わないとダメだな( -д-)ノ

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今回の考古学・歴史ニュースは中国でなんだかフィーバーしてるね!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台は中国、四川省、三星堆遺跡です。

この遺跡で大きな発見がありまして、それは下に挙げたリンク先の記事で紹介しました。





ここでもさくっと概要を書くと、三星堆遺跡は今から約3000年前に四川省にあった青銅器時代相当の遺跡です。

青銅器時代ですから、青銅製品が多数出てくるのは当然なのですが、ポイントはその青銅製品の精巧さと金製品を伴うことです。

この遺跡では1986年に2基の墓が発見されており、2020年に新たに6基の墓が見つかりました。

1986年の調査時に青銅製の人物像と黄金仮面が出土したのですが、その他にも精巧な副葬品が多数出ています。

新しく見つかった6基の墓(第3~8号墓)からも多量の遺物が出ていて、どれも精巧な奢侈品ばかりです。


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青銅製品はどれも精巧な作りですし、「黄金の葉っぱ」も細工が美しいですねヾ(´ω`=´ω`)ノ

まぁ個人的には最後に挙げた青銅製の小像の濃ゆい眉の感じが好きですし、ついそこに目が行っちゃいますけど、重要なのは色彩が残っている点ですね。


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さて、上に挙げた1枚目の写真は「象牙製品」です。

これも繊細な意匠が美しいです。

この時代に象牙を貴重品として交易していたことに驚きです。

どこのどの種の象さんの牙なのか知りたいですね。

そして象牙を素材として入手してこの地で加工・製作したのか、あるいは製品として入手したのか、これも気になるところです(*^・ェ・)ノ


2枚目の写真は「玉璋」です。

「ぎょくしょう」と読みます。

「玉」の字があることから分かるように玉製なんですが、斧とか刀とか実用の工具類を模したものです。

上の写真の場合は、「小刀」でしょうか?

上部が柄部で、下部が刃部に見えます。

この「玉璋」は三星堆遺跡で見つかっている独特の型式で、他には見られないレアな事例なのです(*・ω・)ノ

さて最後に、インディジョーンズ的なアドベンチャー映画のワンシーンかと思えるような画像を紹介しますね(*・ω・)ノ


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↑にょろにょろとにょろにょろ型玉製品


おわりに

どうも玉璋の柄部と刃部の間の装飾が気になって、、、

にょろにょろ(ムーミンに出てくるやつ)にしか見えなくて、、、

ちょっと最後にふざけました( -д-)ノ


・・・さて、この感じだとまだ色々と出てきそうな感じがしますね。

出土品が眩いので、そこばかりに着目してしまいますが、この地域の青銅器文化ってどのようなものだったのでしょう?

一般の住居とかも発掘して研究して欲しいなって思っちゃいます。

実はやられていて、ニュースにならないだけかもしれませんがね( -д-)ノ

ともかく、、、

また中国は観光で一儲けできるね!( ・Д・)



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2021ねん 4がつ 9にち(きんよーび、晴れ)

健康体になってきた(・∀・)つ

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今回の考古学・歴史ニュースは「3000年前の黄金仮面が見つかったよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台は中国、四川省、三星堆遺跡です。

中国の古代文明と言えば、教科書でお馴染みの「黄河文明」です。

これは広い中国の中でも黄河流域で栄えた文明なわけです。

この黄河文明で最古の王朝は「殷(いん)」です。

続く周王朝と同じく、所謂青銅器時代に属しています。

殷が1700BCE-1046BCE、周が1046BCE-256BCEなので、今回の発見した遺物の時期である3000年前(1000BCE)はちょうど殷・周青銅器時代の真ん中辺りの頃ということになります(*^・ェ・)ノ




今回のニュースのおよそ35年前に見つかったのが上に挙げた写真の黄金仮面になります。

青銅器時代ですので、顔の造形というか人の造形は青銅を用いて作られていて、そこに金箔の仮面が装飾として不随している形になっています。

三星堆遺跡は、この黄金仮面の他にも4mもの高さの青銅製の神樹や、世界最大の2.6mの青銅製人物立像が出土していたり、金の杖などの他の黄金製品も出土したり、象牙といった貴重な遺物も出たりと地元博物館にとっては願ったりの遺跡なのです。

この黄金仮面を始め素晴らしい精巧な遺物を作った文明は、およそ3000年前に四川省一帯で栄えた「古蜀国」と考えられています。

この一帯では5000年前(紀元前3000年前)頃から文化の興りが見られ、3000年前にはこのように青銅の扱いだけではなく、金箔を扱う技術を得るまでに発展していました。

この文明に対する調査はまだまだ極一部であり、今後その性格が明らかになることが期待されていますヾ(´ω`=´ω`)ノ




今回、新たに発見された黄金仮面も以前と同様にお墓の中の副葬品として出てきました。

上に挙げた写真群が墓壙内の平面図的な写真と、出土状況を示した写真になります。

ただでさえ、黄金製品はレアですし、いろんな意味で貴重ですし、柔らかいしで気を付けなければならないのですが、金箔だと猶更ですよね。

最後に挙げた写真のように金箔だとぐちゃぐちゃになった状態で出てくるようで、これを頑張って復元するようですねΣ(・ω・ノ)ノ


↓遺物をガジッた(掘る時に傷付けた)と言えばこれ!ヽ(TдT)ノ

↑しかも黄金製品だし( ・Д・)




そして上に挙げた写真が今回新たに見つかった黄金仮面で、向かって左半分が綺麗に残っています。

右半分と上部はガジッたか、トバした(掘ってる最中にぶっ飛ばして無くなった)かしたのでしょうか?(´・ω・`)

黄金製品としての質の高さ、美術的な美しさももちろん目を見張るのですが、、、

やはり考古学的に気になるのは技術力の高さですね!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

青銅器時代ですから冶金技術はあるとは言え、金箔を作って精巧に加工する技術を有していたという点がすごいです。

こうした技術はどのように生まれたのか、あるいは伝わったのか、そして中国の他の文明との関係性はいかなるものだったのか、知りたいことで一杯ですヾ(´ω`=´ω`)ノ


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おわりに

恥ずかしながら、正直、古蜀国なんて全然知りませんでした( ・Д・)

この春から所属が変わり、日本の弥生・古墳時代も少しかじっていこうと考えているので、中国や台湾、東南アジア辺りも勉強しなきゃなと思う今日この頃です( -д-)ノ

でもやっぱりニュースになるような発見っていいよね・・・

考古学はそんなトレジャーハンターみたいな仕事ではないと思いつつも、、、

いつか言いたい!

あれ、見つけたの俺!( ・Д・)



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2020ねん 12がつ 4にち(きんよーび、くもり)

あと少し!頑張るよ~!( ・Д・)

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今回の考古学・歴史ニュースはアジアのカジノ区の印象のあるマカオで西洋の大砲が見つかったよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台は中国、マカオです。

マカオは特別行政区で珠江河口を挟んで香港の対岸に位置しています。

1999 年までポルトガルの植民地であったことから東西文化が融合しており、一見するとヨーロッパのような景色を楽しむことができます。

マカオと言えば巨大なカジノが有名であり、「アジアのラスベガス」の異名を有しています。


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大航海時代はスペインとポルトガルが世界の覇権を握っており、その内のポルトガルは1513年に中国に初渡来し、明王朝との交易を開始しました。

その後、ポルトガルは継続的に献金を続けることでマカオを居留地として交易を続けていましたが、アヘン戦争(1840~1842年)の後に献金を停止、その後、1887年の中葡和好通商条約を経てマカオはポルトガルの植民地となります。

先にも述べたようにマカオは1999年までポルトガルの植民地でした。

このおよそ100年の間にポルトガルによって西洋風の建物が多く建設されたわけですが、現在でも観光地として知られているのが、上の写真に挙げた『モンテの砦』です。

モンテの砦は1617~1626年にイエズス会の修道士によって、聖ポール天主堂とともに造られたものです。

外部の攻撃から町を守るための砦で、22門の大砲が海側に向けて並んでいます。

大砲は3方向に向いていますが全て海向きであるのは、中国と戦う意思がないことを表していました。

上に挙げた写真ではマカオの街並みが映っているじゃないかと思うかもしれませんが、モンテの砦はポルトガル語で ”Fortaleza do Monte"、つまり「山城、山砦」を意味するので小高い丘の上にあり、またマカオ地区は沖合にあるタイパ島とコロアネ島を主とした島々の間を埋立てているため、現在マカオの砦の眼下にはマカオの街並みが広がっているのです。


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上に挙げた写真は2020年4月に下水管整備のための道路工事の際に見つかった大砲です。


この大砲の埋蔵時期は1889年から1933年の間で、マカオで製造されたものではないようです。


大砲の形態と、構造の特徴が19世紀中期に英国で製造されたブロームフィールドフロントガンに相似していると判定されました。


このタイプの英国製砲台は他にも複数、マカオ各地の砦の砲台に現存しているそうです。


恐らく売買のため内港一帯に置かれていたものが、後の周辺の埋立造成時に埋められたと考えられています。




上に挙げた写真は2020年11月に見つかった別の大砲です。


この大砲は砲身部が全長約1.4mで口径が約80mmあるものでした。


見るからに保存状態が良く、カッコいいですよね。


私、家に1門欲しいですもん( ・Д・)


大砲に関してずぶの素人である私にも美術的価値の高さが伺えるこの大砲は、マカオ政府文化局(ICM)も当然その重要性を認めて直ちに工事を一時中断し、出土地点周辺の測量調査や発掘調査を実施しました。


しかし他の遺物は発見されなかったそうです。


まだこの大砲の時期やタイプは判別できていません。

しかし恐らくポルトガルの植民地期にポルトガル軍が沿岸部に設置したもの、あるいはポルトガルの軍艦が遺棄したものである可能性があるとのことです。  


こうしたマカオで発見された大砲は、マカオにおける大砲の鋳造の歴史、武器貿易の歴史、沿岸防衛の歴史、海域の埋立ての歴史を知る上での高い史料価値を有するものとして、一般公開が予定されています。


先ほど紹介した「モンテの砦」はマカオの街並みや中国本土を見渡す展望台として有名なだけではなく、『マカオ博物館』が併設されていることで知られています。


おそらくこの大砲たちはこのマカオ博物館にて展示されるのでしょうね(*・ω・)ノ






おわりに

囲最後に挙げた写真が、大砲が見つかった工事現場なのですが、フツーに工事現場ですね( -д-)ノ

中国の報道では「考古学的価値の高い重要な発見」としているのですが、その割に本当にただの工事現場過ぎて何だかなって思います。

これらの大砲の発見によって学術調査が行われるということで、そういうところはポーズとしてしっかりしてるように見えますけど、こんな状態から考古学者が掘って何かわかるのかな~って疑問です( ・Д・)

ただの考古学者のわがままであるのは重々承知なのですが、もう少し平らに掘って欲しいものです( -д-)ノ

さて、こうして工事現場から遺物が出るのってけっこうよくある話で、熟練の重機の乗り手がショベルをぶつけた感覚から遺物だと気付いた、なんて話もよく聞きます。

日本の考古学の話でその関連だと、『銅鐸』が大量に見つかった話が有名でしょうかね(*・ω・)ノ

これまでも「世界各地の工事中に何々が見つかった!」って記事を挙げてきましたが、今回の写真だけが現場の写真を見て何も言えないレベルのものですね……

もしかしたら撮影者がおかしな部分を撮っただけって可能性も考えられますね(*^・ェ・)ノ

考古学では写真記録は大事なものです。

だから、、、

考古学関連記事でも写真は大事!( ・Д・)



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2020ねん 11がつ 7にち(どよーび、晴れ)

梅干しと食べると元気でる気がする(*^・ェ・)ノ


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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今回の考古学・歴史ニュースは「2800年前の青銅製車輪付き馬車がバエるよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


元記事が分かりにくいなと、そしてこの馬車の写真は何だか見覚えあるなと思っていたら、、、

やはり今回の発見は2014年のものでした( -д-)ノ

元記事における今回のニュースは「この馬車が復元されたよ!」ってことなのですが、肝心の復元された写真がないので混乱しました。

なのでここでは単純に、「2800年前の青銅製車輪の付いた馬車の残り方がスゴイよ」って形で紹介することにします(。・ω・)ノ゙


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発見の舞台は中国、陝西省にある周原遺跡です。

西周(紀元前1100年頃-紀元前771年)の末期に帰属する馬車と推定されています。

馬車の長さ(馬との連結部含み)は3.13m、幅は2.7m、高さは1.5mメートルです。

馬車の前方には馬の骨があり、4頭分あることが確認されています。

この馬の骨の一部を用いてDNAを解析した結果、4頭の馬はいずれも雄の黒馬だったことが判明したそうです(*^・ェ・)ノ



この周原遺跡では多くの奢侈性の高い遺物が出土しており、かつて大規模に盗掘が行われ、闇ルートでの遺物の売買が行われたことで知られています。

この遺跡ではそうした保存状態の良い遺物が豊富であり、またこの馬車も稀に見る保存状態の良さなわけですが、これらは意図的に黄土で埋められたことに起因しています。

埋葬形態のひとつに「陪葬(ばいそう)」というものがあり、これは主君を埋葬した墳墓の近くに近臣たちを埋葬することを指します。

一種の殉葬なわけですが、陪葬の場合は埋められた場所が異なるという点が違いです。

また例えば殉葬の場合、メキシコ、テオティワカンの事例のように多くは後ろ手に縛られていたり、斬首されていたりと強制的に生贄にされていることが多いです。

一方で陪葬の場合は、死後も主君にそのまま仕えることができるように丁寧に埋められているケースが多いのです。



さて、写真に見られるように馬車の車輪のフレームは青銅製なのですが、それだけではなく馬車の装飾も豪華で、大量のトルコ石が埋め込まれた青銅部材に薄壁青銅獣面装飾、玉細工、彩色上絵が施された部材が大量に発見されたとのことです。

残念ながらこの装飾品に関する写真はなく、元記事において考古学研究所はこのバラバラの装飾品類を復元したようですが、その写真もありませんヽ(TдT)ノ

元記事における「復元した」の意味が、下に挙げる写真のような元々の位置関係を明らかにして3D復元予想図を作ったという意味なのか、あるいはそれを基に馬車を作り上げたのか不明です( -д-)ノ

周原遺跡に関連した大きな博物館があること、中国は文化遺産の観光活用に力を入れて莫大な資金を投じる傾向にあることから、恐らくは展示用に馬車を復元していそうですね。




保存状態の良さから馬車の構造や工法について色々なことが分かっており、この馬車があまり使われていなかったことも分かっています。

「あまり」ということは陪葬用に準備した馬車ではなく、実際に君主によって使われていた可能性が高いと考えられます。

また形態的には軍事用馬車なのですが、非常に装飾性が高いことから、戦闘用ではなく当時の上流貴族の儀仗(ぎじょう)用だったと考えられています。

ちなみに儀仗というのは儀礼のために用いられる武器・武具のことです。

こうした陪葬の車馬坑は周原遺跡ではいくつか事例がありますが、今回紹介した事例はこれまでで最高の保存状態であり、各部品が最も完全な形で残っている馬車なのです(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!




おわりに

最後に挙げた写真の馬車の保存状態もスゴイですよね。


ポンペイで見つかった馬を思い出すレベルの保存状態の良さです。


2800年前の馬車というと当然、木製部位も多いでしょうによく残るものです。



……丁寧に扱えば、良く残る……


逆に雑に扱えば、残らない……


なるほど、それで「アカハラ万歳な」研究室では学生が残らないわけか!



考古学知識が現代社会に役立ったね!( ・Д・)



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2020ねん 8がつ 9にち(にちよーび、晴れ)

私は頑張るよ~っ!たくさん応援して~っ!( ・Д・)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




今回の考古学・歴史ニュースは「中国で東アジア最古の彫像が見つかったよ!( ・Д・)」ってお話です(*・ω・)ノ


……のっけからアレですが、コレほんとかなと、なんだか怪しい匂いを感じ取っております( -д-)ノ


ま、ひとまずはご紹介をしますね!






これまでの記録を8500年も上回る大発見!?

発見があったのは中国・河南省にある霊井遺跡です。

調査責任者は中国・山東大学の李占揚です。

(これまで考古学者の実名は大部分敢えて控えてましたけど、今後はガンガンに出していきますね(*^・ェ・)ノ)

上に挙げた写真のスケール(2mm)から分かるようにこの遺物はとても小さいものです。

この彫像の大きさは、全長19.2mm、高さ12.5mm、幅5.1mmなのですΣ(・ω・ノ)ノ



この問題の遺物は土器片や動物の焼骨などの遺物と共に見つかったそうです。

そこで貴重な発見であるこの彫像を傷つけないように彫像に対しては放射性炭素年代測定法を使いませんでした。

代わりに彫像と共に出土した同様の骨の一つを放射性炭素法で調べ、鳥の彫像の年代が1万3500年前のものと推定しました。

結果、東アジア最古の彫像であり、同地域での彫像の記録を8500年も上回るものとして報告されました。






怪しい予感……*あくまで元記事の記述に基づく個人の見解です( -д-)ノ


さて、東アジアにおける彫像の歴史が一気に8500年さかのぼったわけですが、、、

まずは時期を確認しましょう。

13500年前と言いますと、日本では縄文時代の初め、縄文草創期(およそ16000~9000年前)に相当します。



せっかくなので今度記事にしますが、日本でもこの草創期に当たる時期、1万1000年前に相当する『土偶』が最古として発見されています。

日本の事例では彫像ではなく、土偶です。

時期差は多少あるものの、3点ほど見つかっています。

またこれらの土偶は住居址や縄文土器(当然、草創期の土器)と共に出土しています。

なので時期判定は土器を中心として複数の根拠に支えられています(*・ω・)ノ



何故日本の事例を紹介したかと言うと、この中国の事例は状況が大きく違うよ!と言いたかったからです( -д-)ノ






さて、この霊井遺跡ではこれまでの調査で12万年前から3000年前の青銅器時代までの11層の地層が検出されています。

この内の5番目の地層の大部分が1958年に実施された井戸の掘削作業で取り除かれ、近くにある廃棄物の集積地に捨てられていたそうです。

この集積地はその後何年も手付かずのままだったようで、研究チームが土をふるいにかけて詳細に調べたところ、土器片や焦げた動物骨と今回の遺物があったという経緯なのです。




(。´・ω・)ん?・・・・・・・





・・・・・・





・・・





1次資料じゃないじゃん!( ・Д・)

がっつりコンタミじゃん!( ・Д・)




註;コンタミネーション(英語: contamination)は、特に科学実験の場における汚染のこと。「実験汚染」「実験室汚染」「試料汚染」などの訳語があてられる場合もあるが定訳はなく、そのままコンタミネーションとして、あるいは略してコンタミと呼ばれることが多い。 (wikiより転載)


(以下「歩け、マヤ管理人」による追記)

考古学では『攪乱』のことをコンタミと呼ぶことが一般的だと思います。

今回の事例のように後世の人為的な攪乱の場合や、植物の根の広がり、倒木、動物の巣作りなど様々な原因で土がかき混ぜられてしまったり、遺物が”本来の位置”から移動してしまうことがあります。



普通、井戸掘ったら、地表面から地下水に当たるまで掘り抜くから、5番目の層だけの集積地ってあり得る???(゚Д゚≡゚д゚)エッ!?



まぁこれだけで怪しいんですけど、最初に挙げた図のように成分分析やってるんですよね。

焼けた骨を彫刻して作った鳥って判断してるのに……

なら、分析かけずとも骨じゃんって思うんですけどね。



なのに、傷つけることを恐れて炭素年代測定法は直接用いずに、他の骨に適用しています。

しかも1点だけ!


そして土器片も出てるのに、土器編年的にはどうなのだろうか。

一切記述ない。

写真もない。

よくわからんくらいの小破片ということなのか……


誠に以って謎!
( ・Д・)






おわりに

まぁなんだか怪しい発見ですけど、この「5番目の層」は広く広がってるはずですから、今後通常の発掘の過程で傍証となるような発見があることに期待したいですね(*・ω・)ノ

実際、「素材である骨自体が古くとも、加工した時期が古いとは限らない」んですけどね。

写真で見た限り、整形後に焼けた感じしないですしね( -д-)ノ




……まぁ最古っていいよね。

「8500年も記録を大更新するくらい古いんだ!」って言えたらかっこいいよね。



……うん、気持ちは分かるが、、、

誠実にいこうぜっ!( ・Д・)

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2020ねん 7がつ 19にち(にちよーび、まぁまぁ晴れ)

効果あり!素数足し算、日課にする!( ・Д・)

あとはイライラ対策用の牛乳と、鬱対策用のカルピス飲めば元気ハツラツのはず(*^・ェ・)ノ


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




今回の考古学・歴史ニュースは「有名な神風で沈んだ船が見つかったよ!( ・Д・)」ってお話です(*・ω・)ノ



教科書で歴史上の人物の発音は変化している!

さてさて、日本の教科書っていつの頃からか、「現地の発音に合わせる」って仕様に変更になったのご存じですか?

なので、(歴史の教科書では特に)有名なフランシスコ・ザビエルは、今では「シャビエル」なんですよ。

私は昭和生まれですから当然「ザビエル」勢ですが、皆さんは如何ですか???ヾ(´ω`=´ω`)ノ



ザビエル勢にとって(こんな言葉は今作った言葉です( -д-)ノ)、元寇で日本に攻めてきたのは「フビライ・ハン」ですよね?

シャビエル世代にとっては「クビライ・ハン」だそうです。

モンゴル語のラテン語への転写だと『Qubilai Qa'an』、このように書くそうなので、確かにクビライですよね。

じゃあ「皇帝(称号)」の意味の発音も「カーン」で良くない?(*^・ェ・)ノ

とか思いますが、まぁ大人の事情でしょう、知らんけど( -д-)ノ




クビライ・ハンと元寇と神風とぼく


さて、日本史で習ったことを簡単におさらいしましょう。

表記は新世代に合わせます(*・ω・)ノ


クビライ・ハンは、チンギス・ハンの血族として1215年に生まれます。

長いことモンゴル王朝内でハーン(カーン)の名を競って争い、1260年に漢語風の名を始めて付けた王朝を創始します。

それが『元』です。

簡単に言うならば、元はクビライ・ハンの政策により中国王朝化したモンゴル王朝です。



この元が日本に攻めてきたのが『元寇』です。

『神風』という名の、言わば台風でクビライ・ハンの船団は大打撃を受けて、二度の日本侵略に失敗するというお話です。


arukemaya919
↑再掲


発見されたクビライ・ハンの軍船

Twitterの情報なので今のところ情報も少ないのですが、元寇で沈んだ船が発見されたそうです。

水中考古学では基本的に歴史書に残っているものを探します。

続報というか論文読まないと詳細は不明ですが、史実を裏付ける発見はこれが初めてのようです。



以前紹介した、バルト海などの静かな海では船の残りも良好ですが、さすがに大荒れの日本海だと残ってるだけで奇跡のように思えます。

上の写真で見ても、、、

「これが船ですか?( ・Д・)」

ってなります。



まぁ日本海のど真ん中にこれだけしっかりとした木材が沈んでいるのは不自然ですし、『13世紀の遺構』とか「これは1281年に沈んだ船」と書かれているので、何らかの遺物(たぶん陶器とか)によって年代が割り出されているのでしょう。


・・・・・・

・・・

というか一回目の元寇って1274年……


わずか7年の差を判定できる基準があるのか、、、

文字か、文字なのか???

やはり続報に期待です( -д-)ノ





おわりに

以前は特段理由もなく水中考古学を毛嫌いしていましたが、やはり発見があるのは面白いですね。

そして文献史料で示されている事柄を、考古学的にクロスチェックするという姿勢は好きです。



【追記:2020/07/19】
↓沈没船関係の記事へのリンクを載せておきます(*・ω・)ノ







いいなぁ……

潜りたいなぁ……

マヤ文明でも場所によっては水中考古学はできるけどさ

いや、ティカルでもできるもんね!


ティカルは緑の海の中だからねっ!( ・Д・)

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2020ねん 6がつ 20にち(どよーび、晴れ)

シンクタンク作りたいけどすでに多忙過ぎる( ・Д・)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




今回の考古学・歴史ニュースは「万里の長城の役割って、チンギス・ハーンの軍勢を止めるためじゃなかったらしいよ!( ・Д・)」ってお話です(*・ω・)ノ


まぁちょっとオーバーなタイトルかも知れませんが、今回分かったのはそういうことです( -д-)ノ



万里の長城は現存する長さだけでも約6259kmもある非常に長い壁です。

まぁ所謂「中国史」では北方の異民族との対立と彼らの侵入を繰り返してきたわけですが、その防御のために作られたのが「長城」です。



長城といっても時代として8期に分かれていて、色々な場所に建設されています。

BCE500頃から始まる戦国時代において各国が防御壁を作り始めたのが最初ですが、北方の異民族問題としては匈奴対策としてBCE214年に秦の始皇帝によって長大な防御壁が築かれたのが最初になります。

その後も前漢、北魏、北斉、髄・明などで長城は建設され続けました。



戦国時代の長城のように全ての長城が北方民族対策目的で建設されたのではなく、分裂期には隣国との境界にも造られています。

しかしながら概ね北方の異民族の対策と言えるでしょう。



arukemaya899


万里の長城について

こうした多々ある長城の内、最も大きいことからよく知られているのが「万里の長城」です。

先に述べたように、最初に築いたのは秦の始皇帝です。

BCE214年に匈奴対策として建設され、その後も増改築が繰り返され、ほぼ現在のような状態になったのは明代(CE1368-1644)になってからです。

北方の異民族集団は騎馬民族として有名なため、漢民族系である農耕民族と北方の遊牧民族の境界線として長城が説明されることが多いです。

しかしながら実際には長城は草原の中に建っているところが多く、長城を草原側にじわりじわりと侵入して建設することで遊牧民族に対し優位に立ち、勢力圏を可能な限り北方へと広げようとしたためと考えられています( ・Д・)

なんかやることがセコイ気がしますが、このように万里の長城の役割は北方の異民族対策と考えられてきたのです(*^・ェ・)ノ


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↑説明のため再掲


今回の発見と新解釈

ヘブライ大学のギデオン・シェラク・ラヴィ率いる研究者グループが無人機のレーダーシステムと高解像度の衛星画像を使用して長城の北線の地図を作成しました。

その長さは約750km!Σ(・ω・ノ)ノ

そうした中で上に挙げたような方形構造物も発見したそうです。



立体地図を作成してみると、長城の北方線のほとんどはモンゴルを通過しているものにも関わらず、土で造られていることが分かりました。

しかもその高さは非常に低いものだったのです。


一方で発見された方形構造物は関所や見張り小屋のような役割を果たした可能性を当初考えていましたが、この建造物基壇も土製で、高さはともて低く、さらに交通に便利な小道の傍に造られていました。

つまりこのエリアの長城も関所(?)も全く防御力がないことが分かりましたΣ(・ω・ノ)ノ



この区域が建設されたのはCE1001~1300頃で、ちょうど明が現在のような万里の長城に改築する前の頃になります。

従来はこの頃からチンギス・ハーンによる侵略から防御するために長城が改築されていたと考えられていました。

しかし今回の発見により、(あくまでこのエリアに関して)この時期の長城の役割は敵の侵略を抑止することを目的としていたのではなく、人や家畜の動きを監視したり、妨害したりすることで、課税するためのものだったのではないかと考られるということです。



まぁあれだけ大きい壁を建造するにもお金たくさんかかるもんね……( -д-)ノ

世の中、金だね!( ・Д・)






おわりに

高解像度の衛星画像とかLiDAR(小型航空機等を用いたレーザー測量技術)とか流行ってますけど、お金がねぇ( -д-)ノ

無料で利用できるものも存在してはいるのですが、とりあえず今の自分のやりたい研究とはマッチしないからいいかな……



そう言えば、(私自身は文系・理系の区別を好ましく思ってはいないが……)人文科学を中心としたシンクタンクを作りたいのですよ。

研究助成金は獲得してくるので、獲れたら誰か適切な若手研究者に手伝ってもらいたいなと思っております。

『子供の教育問題』とか『自然環境問題』とか色々な調査研究助成はあるものなのです。

全国の若手研究者(アンケート調査やフィールドワーク可能であれば誰でも可能)に登録して頂いて、専門性として適切な方に調査研究の仕事を振っていく形のオープンシンクタンクを構想しております。

興味ある方は是非ご連絡下さい(ひとまずはTwitterのDMでお願い致します)ヾ(´ω`=´ω`)ノ


あ、気付いた?そう、今回の終わりはただの宣伝だよっ!( ・Д・)


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2020ねん 5がつ 23にち(きんよーび、曇りのち雨)

報告書があと二日で終わる。てか終える。

結局週末働かにゃ終わらんってことやな、、、

どうなってる、私の「ひとり働き方改革」!?( ・Д・)


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今回の考古学・歴史ニュースは「発掘調査で多量の金銀財宝が出て、中国版の埋蔵金伝説が真実だったことが分かったよ!」ってお話です(*・ω・)ノ


今回の舞台は中国・四川省にある彭山江口明末古戦場遺跡です。

名前めちゃくちゃ長いですねΣ(・ω・ノ)ノ

この遺跡は、彭山区の江口鎮に所在しているので「彭山江口」と付いています。

次の「明末」は中国王朝のひとつである明王朝(1368-1644)の末期に帰属するという意味のようです。

で、「古戦場跡」はそのままですが、以前の調査で銃や様々な種類の鉛弾が発見されたことで古戦場跡であると解釈されたことによるネーミングだそうです。

ということで、長ったらしい名前ですが、遺跡の性格を端的に示している名称ということになります(*・ω・)ノ




3シーズンに渡って長期的な調査が実施されていて、今回の調査では重要文化財指定の遺物だけで2000点、トータル1万点の文物が出たそうです。

1万点の遺物ならば、マヤ文明の場合、土器片や石器片でいいなら簡単に出る量なのですが、時代が時代ですからね、きっといいもの(文物)ばかりで1万点のはずです(*^・ェ・)ノ

あまりにも出土遺物の質も量も良いため、約76億円をかけて「江口沈銀博物館」を来年建設開始するそうです。

この博物館の名前になっている「江口沈銀」というのが、中国版の埋蔵金伝説のひとつなのです。




江口沈銀の伝説の証明

「江口沈銀」の伝説とは1643年に大西王となった農民軍の首領・張献忠の軍船が岷江を南下する際に、明軍の攻撃を受けて沈没してしまい、積んでいた財宝が川底に沈んだというものです。

先に挙げた金印が最も重要な発見で、金の含有量がなんと95%!

重量が8kgだそうですよ!



……これ、誤植じゃないのかな?( ・Д・)

金印は1辺10センチメートル、厚さ3センチメートルの方形の印台って書いてますけどね。

紐を通すための穴が開いた亀形の飾り持ち手が付いていて、そのサイズ情報はないけれど……



印台の体積は10×10×3cm=300㎤になりますよね。

金の比重は1㎤=19.32gだから、300㎤だと約5.8kgか。

あ~、金ってとっても重いのね!!!

全然持ったことないから!ヽ(TдT)ノ




それにしても8キロの印鑑って使える???

数字が事実ならば、実用品ではなくて権威を示すための象徴、威信材なのかも知れませんね( -д-)ノ

ちなみに金印には「蜀世子宝」の4文字が鋳込まれており、蜀王の世継ぎである太子が歴代受け継いできたものと推定されています。

王が使う金印は卑弥呼の金印でもおなじみですけど、太子が使う金印の事例としては中国国内でこれが最初の事例だそうです!ヾ(´ω`=´ω`)ノ


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おわりに

発掘調査自体も大規模なもので、相当な予算が組まれているはずです。

というか、これ、大河川の一部をせき止めてまで行っている調査らしいので、お金の掛け方が違いますよね。

そして約80億円も投じて博物館を造るわけですが、観光地として一躍有名になるでしょうし、元は取れそうですよね(*・ω・)ノ



やはりメキシコ、エジプト、中国かな。

こういった、国を挙げて考古学調査を支援して、しっかりと外貨獲得につなげようとしているのは。

日本は予算出さずに、何かいいもの出たらとりあえずニュースにして博物館で展示して小銭を稼ぐといった『搾取型考古学(搾取されるがまま考古学)』ですからね。

そう言えば、なんかTwitterで見ましたけど、埼玉の博物館で資料調査(写真撮影とか)に対してお金取るって決めたとこがあるらしいですね。

どれだけ搾取する気なのか。

そこまでされたら、、、



出土品、博物館に収めずに闇ルートで売るぞ!と思っちゃいますね。

(↑上手いこと炎上してお気楽に有名になりたいわ~なんて( ・Д・))



話は変わって最近、日本の埋蔵金伝説は下火ですね。

出ないかな~( -д-)ノ

日本にも明るい話題が欲しいよ!!!( ・Д・)


【謝辞】
今回の記事は以前にコメントを頂いた「M+さん」より情報提供を頂きました。

末筆ながら記して感謝申し上げる次第です。

(*_ _)激しくペコリ

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2019ねん 4がつ 7にち(にちよーび、ちょい雨)

一日あった休みを利用して、長距離ドライブした。

目的は河砂の採取。

この努力の成果も記事にできるといいな( ・Д・)


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今回の考古学・歴史ニュースは『2500年前の古代中国の墓から大量の無傷の卵が見つかったよ!』ってことです!(*・ω・)ノ

この大発見があったのは中国の江蘇(こうそ)省です。

日本海に面する省で上海の北に位置しています。

この江蘇省の溧陽(リーヤン)市に所在する遺跡にて古代の墓を発掘していたところ見つかったわけですね(*・ω・)ノ

世界各地で珍しい出土品が出る度に、いいな~うらやましいな~と思っておりますが、中国もけっこう色々残る地域なんだなって今回改めて思いました!

というのも以前、『麺』が出土するというケースがあったからです(。・ω・)ノ゙


↓中国における奇跡のラーメンΣ(・ω・ノ)ノ
↑「ラーメンの考古学」の第1回記事、最近外食でラーメン食べてないんで更新してないですねヽ(TдT)ノ

↓そう言えば、日本でも変わった「モノ」が出土してましたね

↑「最古のビールシリーズ①~④」も奇跡的だし、人気記事!良かったら、併せてどうぞ~( -д-)ノ




さて、遺物は基本的に残り易い物しか残らないわけですが、埋蔵環境によっては通常残らないものが奇跡的に残存するケースがあるわけです。

今回の事例では「卵」は2500年以上前の大型の土墩墓(どとんぼ)から出土しました。

土墩墓は中国江南地方特有の埋葬形態で、遺体を地面や石の床に置き、その上に盛り土をして土饅頭状にするものです。

近親者が亡くなると、墓を同心円状に拡張し、一つの大家族を埋葬するそうです。

(まぁ私は江南と聞いた時点で、PSYの「江南スタイル」しか思い浮かびませんけどね( ・Д・))

この地域での発掘調査でこれまでに38基の埋葬遺構を検出しており、いずれも時期は西周時代から春秋時代(BCE771-221)に帰属するものです。




問題の卵が出土したのは「子午墩」(しごとん)と呼ばれる直径約40m、高さ7.4mの大型の円形土墩墓です。

内部には上に挙げた写真のようにたくさんの副葬品を有する墓が見つかり、この内の一つの土器からたくさんのほぼ無傷の卵が発見されました。

卵が入っていたのは陶罐(とうかん;土器の一形態で所謂、「甕」)です。

この陶罐は出土した際には蓋がされており、中には鳥類のものと思われる卵が詰められていました。




無傷とは言うものの、中身の白味と黄身はほぼ分解されているそうです。

なので殻だけで空洞なのですね。

慎重に扱わないと割れますので、卵の具体的な数量はまだ確認を終えていないそうです。

X線CTスキャンを用いての土器の中の卵の数量を確認する予定だということです。

この多量の卵は少なくとも2500年を経ているという推定ですが、卵は一つが割れていただけで、残りは完全な状態を保っています。

本当に奇跡的な発見ですね!(・∀・)つ




卵の殻の内部には白味・黄身等の成分が僅かに残っていると考えられ、DNA鑑定などの方法を用いればこの卵が生卵の状態で副葬されたのか、何か醤油のような液体に漬けられたものなのか(味玉なのか?(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!)が分かる可能性があるそうです。


また卵の年齢も分かる可能性があるそうです。



さて、墓に卵が入れられた理由についてですが、雛鳥は卵から生まれることから、万物の生まれ変わり、子孫の繁栄を象徴しています。

世界的に卵は「再生や復活、生命力」の象徴として用いられています。

(そのせいで一部の方々には「宇宙卵」と呼ばれているようです。詳しくはYoutube等でヒストリーチャンネル、「古代の宇宙人」シリーズをどうぞ( ・Д・))。

何を副葬するか、つまりお墓に何をお供えするかは、人々の信仰や生活習俗と関係している可能性があります。

例えば墓の主人が生前、卵が大好きだったので、死後も卵を食べられるようにしたとも考えられるわけですね。

このような食器に食事を盛り付けて副葬したのであろうと考えられる事例も世界的に見られるのです(*・ω・)ノ

現在でもお盆等の際にお墓へのお供え物として、故人の好きだったものを選んだりしていませんか?

故人を想い、偲ぶ行動は、人類共通であり、かつ今も昔もさほど変わらないものなのかも知れませんね。


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……ところで、江南の土墩墓で卵が出土したのは『今回が5度目』だそうです。

もちろん今回のような保存状態の良いものは初めてですけどね。

きっとこの地域の人々はめちゃくちゃ卵大好きで死後でも卵食べたいのでしょう……

うむ、個人的意見として「江南の朝食スタイル」は卵料理な気がしますね!( ・Д・)

↓卵、大好きなひと~?ヽ(・ε・)人(・ε・)ノ ナカマ↓

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2019ねん 2がつ 21にち(もくよーび、晴れ)

某100均での話。

理科の実験で使うシャーレが欲しかった。

店の人に訊いたら、ポカ~ンってされた。

説明したら、「あ~、ビーカーならあります!」

……ビーカー!?( ・Д・)


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↑レプリカ法で見つかったゴキブリの卵(「EurekAlert」の記事内画像より転載;credit: 小畑弘己、熊本大学



今回の考古学・歴史ニュースは「土器の研究から、日本のゴキブリの起源が中国である可能性が分かったよ!」ってことです!


この研究は熊本大学の小畑弘己教授によるもので、土器表面に対するレプリカ法(圧痕法)を用いたものです。


より正確には「土器圧痕のレプリカ法」と言います。


土器の器面(表面)に何らかの要因で押し付けられた痕跡(圧痕)に対して、シリコンを流して型を取った標本(レプリカ)を電子顕微鏡等で観察して分析する手法のことです。





対象となった資料は宮崎県、宮崎市田野町の本野原遺跡(もとのばるいせき)で出土したものです。

この本野原遺跡は縄文時代後期の遺跡であり、西日本において最大級の集落跡が発見されています。


この遺跡から出土した約4300年前の土器と約4000年前の土器との器面からゴキブリの卵の痕跡が見つかったわけです。


本記事内で述べている検出されたゴキブリの「卵」というのは実際には「卵鞘(らんしょう)」と呼ばれるもので10~11mm程度のサイズだそうです。

この「卵鞘」の中に複数の卵が入っている構造なのです。

そのため「卵のさや」と書くのですね。しかし記事内では分かり易く、「卵」と表記します( -д-)ノ




今回検出されたゴキブリの卵は、中国南部が原産とされるクロゴキブリの卵と形態的に強い類似性を示しているということが分かりました。


クロゴキブリとは屋内に生息する種のゴキブリとして代表的なものです。

ちなみにこの屋内ゴキブリであるクロゴキブリがが縄文時代の遺跡から確認されたのは初めての事例のようです。


つまり今回の発見によって縄文時代の家屋の中にもゴキブリがいたことになります。

どうやら我々と”G”との戦いの歴史はとても長いようですね( ・Д・)



日本の在来種とされるヤマトゴキブリは平安時代(CE794-1192)の文献に記載されています。

それに対して今回の発見は約4300年前のことですので遥か昔の話になります。


このクロゴキブリが船によって渡って来たのか、本当は日本の在来種であるのかはまだ分かりませんが、日本におけるゴキブリの起源に関わる重要な発見なのです。


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レプリカ法、面白そうですね!(・∀・)つ


だが、私のフィールドではどのような発見に繋がるのだろうか……

やってみなきゃ分からんか!( ・Д・)

↓”G”が嫌いなひと~?(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!↓

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