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あるけまや -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

タグ:中国

2019ねん 2がつ 21にち(もくよーび、晴れ)

某100均での話。

理科の実験で使うシャーレが欲しかった。

店の人に訊いたら、ポカ~ンってされた。

説明したら、「あ~、ビーカーならあります!」

……ビーカー!?( ・Д・)


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↑レプリカ法で見つかったゴキブリの卵(「EurekAlert」の記事内画像より転載;credit: 小畑弘己、熊本大学



今回の考古学・歴史ニュースは「土器の研究から、日本のゴキブリの起源が中国である可能性が分かったよ!」ってことです!


この研究は熊本大学の小畑弘己教授によるもので、土器表面に対するレプリカ法(圧痕法)を用いたものです。


より正確には「土器圧痕のレプリカ法」と言います。


土器の器面(表面)に何らかの要因で押し付けられた痕跡(圧痕)に対して、シリコンを流して型を取った標本(レプリカ)を電子顕微鏡等で観察して分析する手法のことです。





対象となった資料は宮崎県、宮崎市田野町の本野原遺跡(もとのばるいせき)で出土したものです。

この本野原遺跡は縄文時代後期の遺跡であり、西日本において最大級の集落跡が発見されています。


この遺跡から出土した約4300年前の土器と約4000年前の土器との器面からゴキブリの卵の痕跡が見つかったわけです。


本記事内で述べている検出されたゴキブリの「卵」というのは実際には「卵鞘(らんしょう)」と呼ばれるもので10~11mm程度のサイズだそうです。

この「卵鞘」の中に複数の卵が入っている構造なのです。

そのため「卵のさや」と書くのですね。しかし記事内では分かり易く、「卵」と表記します( -д-)ノ




今回検出されたゴキブリの卵は、中国南部が原産とされるクロゴキブリの卵と形態的に強い類似性を示しているということが分かりました。


クロゴキブリとは屋内に生息する種のゴキブリとして代表的なものです。

ちなみにこの屋内ゴキブリであるクロゴキブリがが縄文時代の遺跡から確認されたのは初めての事例のようです。


つまり今回の発見によって縄文時代の家屋の中にもゴキブリがいたことになります。

どうやら我々と”G”との戦いの歴史はとても長いようですね( ・Д・)



日本の在来種とされるヤマトゴキブリは平安時代(CE794-1192)の文献に記載されています。

それに対して今回の発見は約4300年前のことですので遥か昔の話になります。


このクロゴキブリが船によって渡って来たのか、本当は日本の在来種であるのかはまだ分かりませんが、日本におけるゴキブリの起源に関わる重要な発見なのです。


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レプリカ法、面白そうですね!(・∀・)つ


だが、私のフィールドではどのような発見に繋がるのだろうか……

やってみなきゃ分からんか!( ・Д・)

↓”G”が嫌いなひと~?(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!↓

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2019ねん 2がつ 20にち(すいよーび、晴れ)

今日はよく歩いた日であった。

珍しく元気に歩き回ったせいか靴ズレしてしまった( ・Д・)


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今回の考古学・歴史ニュースは「曹操の墓から世界最古の白磁が出土した!」です!



↓曹操の墓については以前、まとめで簡単に触れていますので宜しければことらもどうぞ!(*・ω・)ノ↓
↑バックナンバーですヾ(´ω`=´ω`)ノ↑



さて、曹操と言えば三国志に出てくる魏の英雄ですね。

ひと昔前だと漫画で三国志に関する知識を得ていたような気がします。

最近だと「三国無双」とか「恋姫無双」(美少女化してます( -д-)ノ)とか、ゲームの方から入る人が多いかも知れません。



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「最古の白磁」というのが今回の考古学ニュースにおける目玉なわけですが、、、

まず、最古とはいつなのでしょうか?



曹操は2~3世紀(CE155-220)に活躍した英雄です。

(CEはCommon Era;共通紀元です。今後この表記を使おうかなと(*・ω・)ノ)


最古と考えられる白磁は、曹操の墓から副葬品として出土しているわけですから、220年頃に製作された磁器と考えられます。


曹操は死後に眠りを妨げられないように、墓のダミーを多く建造させたと記録にあるそうで、そう考えると曹操の墓&ダミーの建造は生前から計画的に行われた可能性がありますね。

となると出土した白磁の帰属時期はおよそ200~220年となるかなと思います( -д-)ノ



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次に「白磁」ですが、これは簡単に言うと白色の磁器です。

白色の粘土と透明の釉(ゆう)を用いているので白色になります。



見つかった資料は磁器なので、縄文土器・弥生土器のような土器とは異なります。


「土器」は窯を使用せずに、野焼き(簡単に言うと地面で焼きます)で作ります。

焼成温度は比較的低く、700~900度で、釉薬(ゆうやく、うわぐすり)を使いません。



一方で「磁器」ですが、一般的には「陶磁器」という表現で知られているかも知れません。

窯を使って高温焼成(1100~1300度)します。

釉薬を使いますので、器面がテカテカとガラス質の光沢を持つようになります。

磁器は特に硬く、叩くと金属音がします。



ということで今回見つかった「世界最古の白磁」とは、3世紀初頭に作られた白色粘土と透明な釉薬を用いて作られた磁器(白磁)であり、曹操の墓にて副葬品として見つかったものということになります。


出土した白磁のサイズは器高13.4cm、口径8.7cmだそうです。


肩部に四つの耳(環)をつけた「罐(かん)」と呼ばれる特徴的な形式です。


また曹操のものと同定されるた墓の中央部の前室(棺を納めた主室の前にある部屋)から出土したことから、出土資料の時期判定の精度は高そうですね(。・ω・)ノ゙



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曹操の墓か……棺とか遺体とか、副葬品類とか諸々の写真が見たくなりますね!

この先公開されて、データが集まったら紹介しますね!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

↓私もダミーの墓を作ろうかな……お寺が儲かるだけ!?( ・Д・)ア"-!↓

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2019ねん 1がつ 30にち(すいよーび、晴れ)

頑張って夜食の誘惑に打ち勝った!

2日目の徹夜の結果、体重が落ちた!

昼は好きなもの食べる!夜は炭水化物抜く!

これが私のダイエット方法である。

・・・・・・ビールはおやつに入りません( ・Д・)



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今回紹介する考古学・歴史ニュースは「中国で最古のビールの痕跡が見つかったよ!」というものです!


個人的には中国のビールってよく知らないので、

……青島(チンタオ)ビールくらいかな?


なので、現在の中国のビール生産の歴史を概観してから、今回の考古学ニュースに入っていきたいと思います(*・ω・)ノ




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↓『お酒の考古学』のバックナンバーです(*・ω・)ノ
↑~イラク編~にミスがあったので一部修正を行い、また別のデータを追記として加えました!ヾ(´ω`=´ω`)ノ

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中国のお酒は多数種類があますが、大きく分けると 黄酒、白酒、果酒の3種があります。これが基本となる3種のお酒です。

これに加えて、強精補と酒薬味酒があります。



強精補酒(チャンチンプーチュウ)は、 白酒・黄酒・果酒に動物や昆虫、人参などを浸漬した混成酒です。

薬味酒(ヤオウェイチュウ)は、白酒・黄酒・果酒に香味付けした混成酒です。



基本となるお酒の一つ、黄酒(ホワンチュウ)は穀物を麹(こうじ)で糖化して醸造する酒のことです。

黄酒に分類される有名なお酒には紹興酒(しょうこうしゅ)や老酒(ラオチュウ)があります。

日本でも紹興酒はひとつのお酒として飲み放題プランに含まれていたりしますが、本場では製法により紹興酒は4種に分類できるそうです。



白酒(パイチュウ)は穀物を原料とする蒸留酒です。

日本では聞いたことないですけど(私だけ?)茅台(マオタイ)や汾酒(フェンチュウ)がこの白酒の代表的お酒だそうで、宴席で行う乾杯に用いられるそうです。


最後の果酒( クアチュウ)はブドウ以外の果実から造る甘口のお酒です。

白葡萄酒に金木犀の花を浸して作った香りのよいお酒「桂花陳酒」は楊貴妃が自分のために作らせたという伝説があるそうです。




さて何故ここで中国のお酒の紹介をしたかというと、中国産の伝統的なお酒にビールが含まれていないということを言いたかったのです( -д-)ノ


ということでここからようやくビールの話になりますが、中国で最初のビール会社の製品は『ハルビンビール』です(一つ前の写真を参照)。


黒竜江省のハルビン市に造られた工場とその製品なのでハルビンビールです。

サッポロビールみたいなものでしょうか、由来は地名ということです(*・ω・)ノ



このハルビンビールの会社は1900年にロシア人が設立した中国最古のビール会社です。


1937年には大日本麦酒(現在のサッポロビール、アサヒビール、エビズビールの前身)も関係してビールの生産が行われていました。



一方で上に挙げた写真の青島(チンタオ)ビールは日本でも有名ですね。

現在中国で消費率1位なのだそうです。


山東省の青島市に造られたためにこれも地名から青島ビールと名付けられており、この会社は1903年にドイツ人の投資家によって設立されました。

名前は「ゲルマンビール会社 青島株式会社」!

思いっきりドイツビールなんですね。


第一次世界大戦後には大日本麦酒が青島ビールの経営を行い、第二次世界大戦の日本の敗北によって中国経営になります。



まぁつまるところ、近現代史においては中国におけるビール生産はロシア・ドイツ・日本の影響下で始まり、成長したという歴史を有しています。


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さて、そのようなお酒とビールの歴史を有する中国ですが、中国で最古のビールが醸造された証拠が発見されたそうです。


場所は陝西省西安市の米家崖(ミーチアヤー)遺跡にて5000年前にビールの醸造が行われていた痕跡として発表されています。

これは中国における最古の酒造りの証拠であり、古代中国人が5000年前よりビールを飲み始めた可能性があることを意味するそうです。




米家崖遺跡にある2つの貯蔵穴と思われる遺構から、酒造りに使われた器物(上に挙げた茶飲みみたいな土器;サイズ不明)が出土しました。


土器の帰属年代は紀元前3400-2900年で、内部の残留物の科学分析によりビール醸造に関する証拠としてキビやオオムギ、ハトムギ、塊茎(かいけい)植物を発酵させた成分が検出されたそうです。


今回検出されたオオムギは中国における最古のオオムギの痕跡であり、西洋由来のオオムギと中国由来のキビ、ハトムギ、塊茎作物を使ったビール製法は、中国と西洋の伝統的な要素が融合していると評価しています。


この研究成果により、これまでオオムギが中国に渡ったと思われる時期を1000年早める可能性があり、またオオムギは当初ビールの原料として利用された後に一般的な農作物になったと推測されるとのことです。


またこの米家崖遺跡からは上に挙げたようなビールの醸造に使われたと思われる『ろ過や保存用の道具』が見つかっていることからも、この時期・この地域においてビール作り(あるいはアルコール作り)が行われていた蓋然性が高いと評価しています。



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やはりこれまでに紹介した他の事例と同様に、最古のビールの再現が行わたようです。


分析結果からは、太古の中国人は主にキビ・アワや大麦などの穀物や、アジア原産のイネ科植物であるジュズダマ、ヤマモモやユリ根が含まれていることが判明しましたが、正確なレシピは不明です。



再現実験では、麦・アワ・大麦種子を材料として用いられました。

穀物類を水洗いすることで発芽させるという「麦芽製造」を行い、発芽した穀物と砕いた大麦種子を水に浸し、それをオーブンに入れて、65度で1時間加熱し「糖化」を促します。その後容器をラップで密封し、室温で1週間発酵させたそうです。


 
最古のビールの味は発酵した穀物の酸味と塊茎作物の甘みがあったと推測されていました。

実際に「再現された5000年前の中国最古のビール」も酸っぱい匂いが強いものの、味わいは現代の苦みの効いたビールよりも甘くてフルーティーだったそうです




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さて、世の中には世界のビールを揃えたダイニングバーとありますよね。

世界中の各種の最古のビール(再現)とワイルドな食べ物(マンガ肉?)を揃えたダイニングバーなんてどうですか?

開いたら、来てくれますか!!?( ・Д・)


……あ、個人で作ったお酒を販売したら違法かヽ(TдT)ノ

どこかのビール会社とコラボせねば!(/TДT)/

↓ビールは美味しいよね!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!↓

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2018ねん 11がつ 19にち(げつよーび、晴れ)

久々に更新した。

ネタに溢れてはいるが時間が溢れていない( ・Д・)

12月は頑張るから許して~( -д-)ノ


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さて、今回の考古学・歴史ニュースは、中国の巨大人工洞窟、龍游石窟(ロンユーせっくつ)です!

この遺跡における発見はミステリーに溢れていて、世界9番目の不思議と名高いそうです(世界的には七不思議じゃないのね、今度他のも調べますね( -д-)ノ)。

場所は中国の浙江省(せっこうしょう)です。東シナ海に面していて、上海のすぐ南(南西約400km)に位置しています。

龍游石窟は1992年6月9日、地元の村人が「底なし池」の水を抜いたことで偶然発見されたという経緯を有しています。「底なし池」というのは地元の人々がそう呼んでいたというだけです。が、なんかオカルト的にはウケそうな響きだからか、どの記事にもその呼称が用いられて書かれてますね。

この龍游石窟が有するミステリーは簡単に述べると以下の通り!


①生命が存在しない

龍游石窟は元々水没していたわけで内部は水浸しになっていたにも関わらず、不思議なことにそこには魚はおろか、あらゆる生物が一切存在しなかった、そうです。


②巨大な空間

龍游石窟は36個の大小の人工石窟群からなります。一つの空間の高さは30メートル、広さは1000㎡で、合計すると3万㎡という面積になります。掘削・採取された石材は東京ドーム約1個分に相当する100万㎥になり、1000人の人間が昼夜問わず作業にあたったとしても6年もの歳月がかかると試算されている、そうです。


③歴史に残っていない

これだけ大規模な労働力を投下できるのは地方の有力者では不可能であり、王のクラスであったと考えられます。しかし歴史記録として一切残っておらず、そのため莫大な石材が何に使われたのか、あるいは石窟自体に用途があったかも知れませんがその用途も不明です。


④暗闇での作業方法が不明

洞窟内は暗いです。上に挙げた写真のように入り口付近には太陽光が差し込みますが、奥の空間には当然光が届かず完全な暗闇になります。しかし松明やランプ等の採光手段を使った際の煤の残滓が一切発見されていません。写真に見られるように、天井や壁、残柱には縞状の文様が付けられているため、暗い中での作業は不可能だったでしょう。


⑤高精度の測量技術

36個ある石窟の内部はそれぞれ完璧な対称性があり、正確な製図・測量技術があったことを意味するとのこと。またそれぞれの空間は互いに独立しており、連絡通路は存在しません。場所によってはわずか厚さ50cmの壁で区切られており、意図的に連結しなかったことは明らかだ、そうです。


⑥保存状態が素晴らしい

少なくとも2000年以上前の構造物にもかかわらず、一切の崩落や損傷がなく、完璧な状態で保存されていたそうです。この石窟のある地域では歴史上、何度も洪水や地震に襲われており、近隣の山は形を変え、外気に曝された岩石には浸食がみられるにもかからず、石窟内はまるで完成したばかりのような状態とのこと。


⑦建造年代は少なくとも2000年前

建造年代については諸説あるようです。

A:紀元前500年~紀元前800年説
B:中国最初の王朝である秦朝(紀元前221年~206年)以前に建設された説
C:春秋戦国時代(紀元前770~221年)、特に春秋時代(紀元前770~500年)

これらの説を参考に、多くの記事では「2000年前」、「少なくとも2000年前」、「2500年前」と記述しているようです。


以上のように7つの不思議なことがまことしやかに様々なサイトで散見されます。まぁ基本的にオリジナル記事から参考・引用してるのでしょうから、似たような内容に落ち着くのでしょうね。


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☆検討!( ・Д・)

ではここで先に述べた7不思議について検討していきたいと思います。


①生命が存在しない件について

存在しないわけないですね。水を放置しておくだけで植物プランクトンとか増えますしね、お魚類を飼育したことがある人でグリーンウォーターを作ったことのある人なら経験的に分かるでしょう。そうなると当然それを餌とする動物プランクトン、昆虫類、水鳥も生息しているでしょう。つまり明らかに誇張です。

これは『村人が水を抜く前に発見した大きな魚を、水を抜いた後に発見できなかった』という内容が膨れ上がってます。

元々、何故村人は水を抜いたのか? 実は放流していたコイ類を捕獲するためです。だから普通に生命いますよ。

では何故発見できなかったのか? 石窟は発見当時は24か所の空間だけしか見つかっていませんでした。その内、水を抜いたのは6か所だけです。現在までに36か所が発見されていますが、現在でも水を全部抜いているわけではありません。つまり水を抜いている間にお魚さんは水の残るより深い部分に逃げて行ったからですね、水ないと困るからっ!( ・Д・)

結論:生命はいたと思います( -д-)ノ




②巨大な空間、③歴史に残ってない、⑦建造年代

巨大な空間、確かに広い。石材・空間の用途不明、歴史に残ってない。まぁこれらは謎ですね。

建造年代については、A:紀元前500年~紀元前800年説は、天井とか壁に描かれた縞模様が該当する時期の土器に見られるというのが根拠だそうです。このような模様の建造物が他に残って発見されているなら分かりますけど、土器の模様と同じと言われてもかなり単純な模様ですからね、根拠として薄いでしょう。

B:中国最初の王朝である秦朝(紀元前221年~206年)以前に建設された説は、龍游石窟について歴史に一切残ってないからというのが根拠みたいですが、根拠になってないですね。いつだろうが残るものは残るし、残らんものは残らんと思います。

C:春秋戦国時代(紀元前770~221年)、特に春秋時代(紀元前770~500年)については、これが唯一の考古学的根拠に基づいた説です。

2001年に行われた学際的調査の際に、ひとつの石窟空間の中心部にある貯水場らしき構造物に堆積した泥土の中から半完形の土器資料が出土し、その土器が春秋時代に属する遺物だったのです。

しかし考古遺物が1点のみであり、後世に古い時期の土器が持ち込まれた可能性も否定できないとして、プロジェクトでは可能性の一つとして扱い、時期の断定を行いませんでした(谷本 2003: 1394)。



*引用文献
谷本 親伯
2003 「岩盤工学の最近の話題 4.古代遺跡保存と岩盤力学」『材料』Vol.52、No.11、pp.1391-1397、日本材料学会、京都市



上記論文で紹介されている説では、呉王が越王を征服し、越王が20年後に復讐し呉国を滅ぼした事件、「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」と関連する遺構である可能性を一例として指摘しています。

「史記」によれば、越王が急いで復讐しようとしたところを部下に止められ、製造した大量の兵器を山中に隠したとする伝説が残っており、これが相当する可能性があります。

石窟の用途としては上記の倉庫の他に、秘密裏に軍人を訓練する空間との指摘もありますが、谷本は地形・地質条件から否定的な見解を述べており、この石窟が食糧庫であった可能性を指摘しています(谷本 2003: 1395)。

四字熟語として国語で習うこの「臥薪嘗胆」と龍游石窟が関係しているのであれば、時期は紀元前6世紀末~5世紀初頭となるでしょう。



それにしてもただの食糧庫なら、何故、壁や残柱、そして天井まで縞状文様が付けられているのでしょうね。元々他の装飾を伴う必要のある用途で造られていた空間を食糧庫として利用したのか、あるいは一定のノミ痕を残すような掘削技術が用いられていたためで意図的な装飾ではないのか、この辺りは謎ですね( -д-)ノ

手の届かないような高い部分に鳥・馬・魚の模様が描かれているそうですが、元々は儀礼的な意味合いがあった空間なのかも知れませんね。まぁデータがないので模様の精巧さや量が分かりませんが、採掘場の壁って往々にして作業員のいたずら書きがあったりしますからね。

あと各空間の中央には貯水池状の長方形の掘り込み遺構があるということで、やっぱり備蓄庫? 気になるところですね(。・ω・)ノ゙



④暗闇での作業方法が不明

確かに松明とか使うと煤が残りますね、天井とかに。ノミを用いて手作業で削るわけですし、天井までは30mもあるし、梯子とかを組んで手元を照らすとしたら、やはり壁や残柱にも煤が付着するでしょうね。

1000人程度で寝ないで作業して6年間かかる……まぁ1000人動員したという数字に根拠があるのか分かりませんけど、仮に1000人働いて、ちゃんと寝てもらったら18年くらい? 越王は20年後に復讐してるからまぁもうちょっと急いで空間作って欲しいよね、軍事用の備蓄庫だとすると。

私の疑問①:約20年働いたことで溜まる煤ってどれくらいなのか?
私の疑問②:2000年以上水没してる間になくならないものなのか?

この辺はちょっと分かりません( -д-)ノ

あともし食糧庫として使われる前に儀礼用に使用されていたなら、完成した後に煤を取り払っていたかも知れませんよね。

(まぁ個人的には吞気に泳いでるコイが煤をツンツンして食べちゃったことに一票入れたいけど( -д-)ノw)



⑤高精度の測量技術

正確な製図と測量技術によって空間同士がわずか厚さ50cmの壁で区切られており、意図的に連結しなかったことは明らかだってことでしたが、この50cmの壁ってNo.1、No.2と名付けられた2空間の間のことだけなんですよね。

他の大多数である34空間の間は普通にがっつり距離あるようです。だから、言うほど各空間は左右対称じゃないし、偶然の産物でしょう。

壁の分析によると、地層と既往の割れ目を利用して掘削されていることが分かっています。製図したプランに基づいて正確な測量によって掘削したのであれば、複数個所で均一な薄い壁が造られるはずですね(谷本 2003: 1394)。


⑥保存状態が素晴らしい

確かに綺麗ですよね。写真で見ると。ここは観光地化された空間ですけどね。

奥の方がどうなっているのかは分かりません!

完全に水没したのがいつかは不明ですが、掘削を行ってからは少なくとも2000年は経ってそうです。でも「底なし池」ということで恒常的な水の流れはありませんし、洞窟内は完全に水没していますから風の影響も少ないですよね。

この状態でどれだけ風化・浸食されるのでしょうか? 日本の研究者、特に岩石学や地質学の方々も実は現地に赴いて様々な理化学分析を基に僅かに見られる浸食の度合いから時期判定を行っているようですが、なかなか時期決定の決め手となるような成果は上がっていないようです。

考古学でもそうですけど、石材の加工に関する時期判定って難しいと思います。地質年代じゃなくて、比較的短い人類史の中で判定していかなければなりませんからね。

奥まで全部水抜いて、時期判定に繋がるような遺物を発見することの方が早い気もしますね( -д-)ノ


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さて、ここまで書いておいて、違う記事見つけてしまいました。最初から中国の記事を読めば良かった。現地の記事だもんね~ヽ(TдT)ノ

ということで2017年4月に龍游石窟の近くでより巨大な石窟群が見つかったそうです。

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龍游石窟の事例で縞状文様と表現されていたノミ痕はこの画像からすると装飾というよりはただのノミ痕に見えますね。

あと龍游石窟で空間の中央に配置されていた貯水池状遺構ですけど、ここではレンガブロックを積み上げたような背の低い構造物が林立してますね。

これって現代でも見られる、セメント作るために材料こねて混ぜ合わせる水槽では?とか思うんですけど。砂岩等の堆積岩はセメントの原料に使われますから、採掘された大量の石材とかズリは古代コンクリのようなセメント状の接着剤として加工して使われたのかも知れませんね。

あるいはここにあるようなレンガブロックに姿を変えたかも知れませんね。分析によると龍游石窟の壁は砂岩でできていて、モンモリロナイトという粘土鉱物を多く含んでいますから、砂岩ブロックの素材として有用だったでしょう。

地面も洞窟壁面もレンガも赤っぽいですよね。これは龍游石窟を含むこの辺りの砂岩が赤鋏鉱を含んでいるからで、たぶんここにあるレンガの素材と洞窟を構成している砂岩は同じものな気がします。

……なんか分かっちゃった!?( ・Д・)

まぁ新聞記事なので詳しい情報は書いてませんが、このような分かり易い遺構が見つかっているなら、共伴する遺物も含めて、龍游石窟の時期判定もできそうな気がしますね!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

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↑奥はこんな感じだった。水溜まってますね(「Japanese.CHINA.ORG.CN」の記事内画像より転載;;日本語!)


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あー、久々だからか、気合入って長くなりましたね( -д-)ノ

お付き合い頂きありがとうございました。まぁ検討してみたら、7つの不思議については色々と胡散臭い部分も出てきたわけですが、それでも考古学・歴史学的な謎と浪漫はしっかりと残ります!

今後の調査で龍游石窟の時期や性格の解明に繋がるような遺物が発見されることを祈ってます(。・ω・)ノ゙

↓お久しぶりです。ほい、ぽちっとな(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!↓

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