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あるけまや -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

タグ:伝説

2021ねん 1がつ 20にち(すいよーび、晴れ)

最近毎日眠いな!( ・Д・)

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1.はじめに

今回の考古学・歴史ニュースは「エクスカリバーの発見!?( ・Д・)」についてです!

この記事、2018年12月に書きかけたままになっていたことにたまたま気付いたため(実際に書きかけ記事はたくさんあります(/TДT)/)、今回仕上げることにしました。

……さて、冒頭で、巷で大人気の『Fate』の画像を、怒られるだろうなと思いつつも使ってみたのには訳がありまして……(怒られたら変更しますのでご指摘下さい( -д-)ノ)

この記事を書くに当たって、アーサー王伝説について色々と調べてみたわけですよ。

ネット情報を基本として、書籍や論文も少々。

するとですね、YouTubeのアーサー王伝説に関する動画のコメント欄にですね、

「え、アーサー王って男なんですね。ショックです。女の子だと思ってました……」

というような書き込みを見つけまして、こっちの方がショックだわ!Σ(・ω・ノ)ノと、

そしてアニメ等々の影響って凄まじいなと、驚きつつも関心してしまったわけです( ・Д・)

そんな皆さんがよく知ってるようで知らないアーサー王伝説が今回の記事のテーマですが、『おわりに』の部分でアーサー王伝説のオリジナルとされるお話についても軽く触れようと思います(*・ω・)ノ


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↑湖で見つかった剣と発見者の少女(「うたまるニュース」の記事内画像より転載)


2.スウェーデン少女による湖での剣の発見

2018年夏、スウェーデンのヨンショーピング県に位置するウィーデステン湖において、8歳の少女が古代の剣を発見しました!

2018年はヨーロッパ各地で干ばつが起きており、それによって様々な考古学的発見が起きてることを以前に紹介しましたが、今回の発見も干ばつが起因となっています。

発見当時、湖はかなり干上がって水位が低くなっていたようです。発見者の少女、サーガ・バネチェクちゃん(名前が既にカッコいいΣ(・ω・ノ)ノ)は湖で泳ぐために普段は到達できない深い部分まで歩き回っていたようで、その結果、剣を踏んで発見に至ったそうです。

アーサー王伝説における湖の乙女からのエクスカリバーの取得と統治権の譲渡のエピソードにちなんで、『新たなスウェーデン王女の誕生』と冗談交じりに報道されたようです。

この発見された剣は地元の博物館員による鑑定によっておよそ1500年前のバイキング時代のものと推定されました。剣は非常に残りが良く、握り部に使われた木材や革も残存しているとのことです。

また少女の発見を受けて、地元博物館主導の調査をこのウィーデステン湖で実施し、剣と同時代のものと思われる3世紀相当のブローチを発見したそうです。




2.イングランド少女による湖での剣の発見

さて、実は2017年にも湖から剣が発見されているので、紹介しますね。

舞台はイングランドです!

しかも発見された湖は、コーンウォール地方のドズマリープール、つまりアーサー王伝説の最後のシーンでアーサーがエクスカリバーを湖の乙女に返却した時の湖です!

7歳の少女、マチルダ・ジョーンズちゃんが発見した剣が伝説のエクスカリバーであれば、マチルダ女王の誕生!となるわけですね。

しかしな分析結果では、残念ながらこの剣はここ20~30年の間に作られた新しい剣ということで、アーサー王伝説ファンの方が投げ込んだものかも知れません。

湖は海や河川に比べると水の流れが激しくないので、湖底に堆積した泥土等には遺物や古代の花粉といった様々な情報が含まれています。

今後の調査で本物のエクスカリバーが出土する日が来るかも知れませんね!?




4.おわりに ~聖剣はどこにある?~

有名なアーサー王伝説ですが、私たちがよく知っている最後のシーンでは騎士ベディヴィアがエクスカリバーを湖に投げ入れます。

これは『アーサー王の死』という書籍に書かれた内容が発端になっており、15世紀後半のものです。

13世紀初頭に書かれた『ランスロ=聖杯サイクル』では騎士グリフレットが湖に剣を投げ込みます。

この他、より古い時期、例えば12世紀相当の『マビノギオン』や『ブリタニア列王史』などアーサー王伝説に関係する中世の書物がいくつかあるわけですが、こうした全てのアーサー王伝説の元になっている神話があると考えられています。

いくつかある説のひとつが『ナルト叙事詩』という黒海東岸地域に由来する神話です。

この神話では神剣を『海』に投げ入れます。

黒海周辺域の神話なので、やはり剣を投げ入れたのは黒海?

仮にこの神話に何らかの史実が混じっているのならば、イングランドの湖だけではなく、是非黒海も探してみて欲しいものですね!(。・ω・)ノ゙

いつか黒海を潜って、巨大な神の剣を探したいね!( ・Д・)


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2020ねん 10がつ 28にち(すいよーび、晴れ)

本気出したらガガガッと書けるものだね、間に合わなかったけどもヽ(TдT)ノ


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今回の考古学・歴史ニュースは「モンゴルで匈奴の首都が見つかったよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、匈奴と言えば世界史にも出てくる遊牧民族です。

BCE4世紀~CE5世紀にかけて、ユーラシア大陸の中央部を支配しました。



遊牧民族と言えば、馬に乗って常に移動しているイメージですが、BCE200~BCE60年頃には遊牧国家を築いていました。

主な生業は牧畜と狩猟で、広大な領地はいくつかの単位に分けられており、それぞれの小領地を治める首長がいました。

その首長らを束ねる大首長がいて、まさに「匈奴帝国」を築いていたのです(*・ω・)ノ


国家形成も研究テーマである私にとっては、首長なのか王なのか、首長制なのか国家なのか、帝国なのかどうなのか、本当に謎な用語の使用法だなと思いますが、恐らく匈奴研究における慣例的な呼称なのでしょう( -д-)ノ



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↑文章構成の都合により再掲( -д-)ノ



さて、モンゴル中央部を流れるオルホン川沿いの発掘調査で、ルンチェン、またはルウトと考えられる遺跡が発見されました。

ルンチェンというのは「竜の都」という意味で、匈奴が築いた遊牧帝国の首都だそうです。

名前がカッコイイですよねヾ(´ω`=´ω`)ノ


さて、上に挙げた再掲の3D復元図が「竜の都」の遺構配置を示したものです。

ため池が中心にあり、付近に建造物マウンドがいくつか散見されて、その防壁のような方形の盛り土が見られます。

調査者によると、都市全体を囲むように二重の防壁があるとのことですが、この画像からはどれのことなのかよく分かりません( -д-)ノ


二枚目の写真では発掘調査の様子が見て取れます。

乾燥地帯ということもあり、ほとんど平地で建造物遺構の残りは良くないようですね。

ため池が現存していることにも驚きますが、、、

人のサイズとため池のサイズからして、この「竜の都」って小さくないですか?( ・Д・)



発見者は匈奴の遊牧国家(ないし帝国)の首都って表現しているけど、首都って都市でしょ?

遊牧民族なので定住の痕跡が少ないことは想像に難くないし、そうであれば古代人口の推定は極端に難しくなるし、、、

遺跡としてこの規模で、都市の定義に入るのか疑問ですね( ・Д・)


では何故、調査者はこの遺跡が文献にも僅かにしか記載されていない「幻の都」だと判断したのでしょうか?Σ(・ω・ノ)ノ


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その根拠がこちらの遺物ですヾ(´ω`=´ω`)ノ

ぱっと見、石板にも見えますが、この割れ方からすると恐らく土製かな……


調べてみたところ、瓦当(がとう)という軒瓦の先端部分でした。

だから土製(陶製)ですね。

日本にも古い瓦の歴史があり、様々な用語がありますが、こちらは中国の用語です。



さて、この瓦は建物跡から出土したわけですが、重要な理由は『天子単于』の銘が入っていることです。


天子」は中国で用いられる(日本でも使われていますが、本記事はモンゴルの話なので省きます)言葉で、君主の称号です。

天命を受けて、天帝の代わりに天下を治める者の意味があります(*^・ェ・)ノ

単于」は「ぜんう」と読み、匈奴の大首長を意味するものなのです。


なので、この建造物は匈奴の大首長のもの、だからこの遺跡は「幻の都、竜の都であるルンチェン」という解釈なのです(*・ω・)ノ



ちなみに度重なる資金不足により発掘調査は完了していないようです。

現在のところ、他の専門家から批判的な意見が多いようですが、今後も有力な証拠が見つかるといいですね!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!



↑匈奴関係でこんなのありました~(。・ω・)ノ゙



↑こちらは匈奴?とも言われるフン族と感染症パンデミックのお話( -д-)ノ


おわりに

匈奴と言えば、幾度となく古代中国国家に侵入し略奪を繰り返したことで知られています。

彼らの侵入を防ぐために「万里の長城」が築かれたことでも有名です。

(上に挙げた過去記事(2つの内の上側)では、必ずしもそうではない可能性が指摘されています( -д-)ノ)




あと、匈奴は遊牧民族で、農耕はしていないと思われがちですが、実はしていたようです。

古代中国に侵入して、奴隷を確保して、彼らを自分の領地内で定住させて農業を行わせていたそうです!Σ(・ω・ノ)ノ

意地でも自分たちでやらない!

凄いですね、強い意思を感じます( ・Д・)



そう言えば、匈奴と言えば、ヨーロッパに侵攻した遊牧騎馬民族フン族との関係を示唆してか、「フンヌ」とも呼ばれています。

……さて、私も彼らのように強く自由に生きていこう!

フンヌッ!( ・Д・)


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2020ねん 2がつ 2にち(にちよーび、曇り)

アルコール&トマト効果が切れてきた。

暑い……ヽ(TдT)ノ


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今回の考古学・歴史ニュースは「古代マヤ文明の中心地を研究するための拠点、フローレスを紹介するよ!」ってお話です(*・ω・)ノ

『中心地』とか言うと、専門が被るレベルの同業者には文句言われるでしょうけどね。

日本におけるマヤ文明の知名度はたかが知れてますから、古典期マヤ(CE250-1000)を語る上で絶対に外せないペテン地域を中心と言っても過言ではないのです!

……なんて強い心で、今回の記事をお届けします(*^・ェ・)ノ



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フローレス市はどこ?

所在地としてはグアテマラ共和国、ペテン県、フローレス市ですね。

そもそもグアテマラってどこよ?

ってよく訊かれますけど、私はこう応えるようにしています。

「アメリカの南がメキシコでしょ? そのさらに南!」

まぁ経験上、これで大体伝わります。

伝わらなければ、メキシコってことにします。

それでもだめならアメリカ、さらにダメなら地球の裏側!って言いますね( ・Д・)


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↑(「Pinterest」の画像より転載)


フローレスの歴史


フローレス自体はとっても大きいのです。

北に約60kmに位置するティカル国立公園まで含みます。

普段「フローレス」と言うならば基本的に「イスラ(島)」の意味で使いますね。

まぁ間違えないように現地人は「イスラ」の方を良く使います。

混乱を避けるため、この記事では以下、「フローレス島=島の範囲」という意味で表記していきますね。

じゃないと観光客とかには訳分からんことになるので( ・Д・)



写真にあるように、フローレスは島です!



島と言っても大きな湖にある島です。

この湖を「ペテン・イツァ湖」と呼びます。

気付いたでしょうか?

ペテンは、フローレス市を含む『県』の名前です。

ペテンは元々マヤ語で『島』を意味する言葉なのです。

「イツァ」も聞いたことありませんか?

メキシコ、ユカタン半島北部にある有名な世界遺産、「チチェン・イツァ」です。


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↑「歩け、マヤ」のトップ画にも使用しているチチェン・イツァのエル・カスティーヨ


チチェン・イツァは観光地として非常に有名で、特に春分・秋分の日にエル・カスティーヨで見られる「ククルカンの降臨」イベントが大人気ですね(*・ω・)ノ

1221年にこのチチェン・イッツァのトルテカ・マヤ系の支配者に対して反乱が起き、ユカタンに中心となる統治機構をつくろうと集まり、「マヤの旗」を意味する「マヤパン」を建設します。

15世紀にはこのマヤパンが衰亡し始め、それに伴ってチチェン・イツァの王族が現在のペテン県に向かって南下、設立した王国が「タヤサル」です。

このタヤサルは「イツァの場所」を意味するタフイツァ(TajItza)に由来した現在の呼称で、かつては王国として首都だけでなくイツァ族の支配する土地全体を意味していました。

現在はタヤサルはフローレス島の北に位置する1遺跡を指します。

先ほどのペテン・イツァ湖は「イツァ族の島」を意味しており、この島がフローレス島のことなのです。

つまりタヤサル王国の王都がかつてノフペテン(Nojpetén;大きな島)と呼ばれたフローレス島にあったのです(*^・ェ・)ノ


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↑これが王都だ!( ・Д・)(「ドラクエウォーク」の画面のスクショ)


さて、16世紀前半までにスペイン人は北のユカタン半島と南の高地マヤを征服しました。

しかし亜熱帯ジャングルであるマヤ中部低地の内陸部であるペテン地方は侵略が困難でした。

そのためペテン県のマヤ王国、つまりタヤサルは独立を維持できていました。

タヤサルに関する西洋人の最初の記録は1525年で、エルナン・コルテスはホンジュラス遠征の途上でタヤサルを通過し、タヤサルのカネク王に歓迎されたとあります。


17世紀にはいると宣教師による布教が何度か試みられたが、成功しませんでした。


その結果、ユカタン総督のマルティン・デ・ウルスアはユカタン半島北部のメリダからタヤサルまでの道を建設して侵攻、1697年にタヤサルは軍事的に征服されました。


ちなみにこの時のスペイン軍はたったの108人だったのですΣ(・ω・ノ)ノ





フローレスにまつわる伝説

かつての王都であるフローレス島やその周辺には写真の通り、スペイン植民地期に西洋風の建物が建てられました。

征服者であるスペイン人はどこでもやったことですが、ここフローレス島でも例外なく、マヤ人の神殿や建物を破壊し、その石材を使ってキリスト教会や他の建造物を建設しました。

結果として現在タヤサルの正確な領土の範囲等は分かっておらず、そのまま観光地になり得るような地上に残る遺跡もありません。

かつてのマヤ王国の王都ならば博物館などもありそうなものですが、当時はそういった文化財を守るような感覚はなく、何もかも徹底的に破壊されたため、博物館も何もありません。

一方でタヤサル王国やその王都であったフローレス島にまつわる伝説・逸話は数多く残っているのですが、どれも後世の創作であるようです。

有名なのはタヤサル王国のお姫様「サク・ニクテ(白い花)」のお話などです。

今回はタヤサル王国の滅亡に関わる伝説を紹介しますね!(*・ω・)ノ



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↑島の外はサンタ・エレナと呼ばれていますがここもかつてはタヤサル王国の領域だったでしょうね(「ドラクエウォーク」の画面のスクショ)


先に述べたように17世紀にはタヤサル王国をキリスト教化しようと布教活動が開始されます。

1695年にはフランシスコ会のアンドレス・デ・アベンダーニョ・イ・ロヨラが直接タヤサル王国を訪れました。

この時、スペイン側からタヤサル王国へ、『1頭の馬』が贈られたそうです。

馬は新大陸にはいませんし、侵略戦争時にはマヤ人にとって大きな脅威となっていました。

そんな珍しい馬をタヤサルの人々はもらい受けたはいいものの、馬が何を食べるのかも知りません。

飼い方をそもそも知らないため、ほどなく馬は死んでしまいます。

この馬を大切に思っていたカネク王は『馬の石像』を造らせました。

さっそく完成した『馬の石像』を石工のいる領域から、王都フローレスへとペテン・イツァ湖を通して舟で運ぼうとします。

しかし舟が転覆して『馬の石像』が湖に沈んでしまったそうです。

結局、スペイン人宣教師はカネク王への布教が失敗に終わり、ま『たせっかく送った馬を殺した』という口実の下、軍を派遣してタヤサル王国を滅ぼしてしまいます。

タヤサルは滅び、かつての栄華を象徴する遺物はほとんど残っていませんが、最後の傑作である『石の馬』は今でも巨大な湖のどこかに眠っているそうです。


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馬の写真追加スペース( ・Д・)


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おわりに

この伝説に出てくる「石の馬」は現地では有名な話で、現在はフローレス島の対岸にこの伝説を象徴した馬の石像が造られて設置されています。

カネク王の下に辿り着けなかった『石の馬』が遥か遠くの対岸からフローレス島の方を見つめるように設置されていたかと思います。

近々、別の調査でこの対岸に行く予定なので、上に追記として馬の写真アップしておきますね(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

さて、地名等、聴き慣れない名前がたくさん出てきましたが、これまでの文章を暗記すればもう現地のツアーガイドより詳しくなれますよ( ・Д・)

↓出張中は物凄く高いモチベーションで仕事とダイエットが捗ります!(*・ω・)ノ↓

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2020ねん 1がつ 10にち(きんよーび、晴れ)

連投で真面目な(?)考古学・歴史ブログであることを再度示そうと思うよ!( ・Д・)


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今回の考古学・歴史ニュースは大航海時代、スペイン征服期以前に白人がアメリカに到達していた!?」というお話です(*・ω・)ノ

当サイトでは「オカルト」ちっくなものは基本的に扱いませんし、扱っても科学的・論理的に批判してしまうのですが、今回のはちょっと毛色が異なります。

たぶん……他サイトでは見たことないテーマなので、日本語の記事としては初めてかな?

きっと楽しんでもらえると思います(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!



「新大陸」への白人の到達時期

メソアメリカ(ざっくり言うとメキシコとかの所謂「中米」域)へのスペイン人の到達は15世紀半ばから始まる大航海時代によってなされます。

ちなみに大航海時代と言えばスペインとポルトガルが有名ですが、だからこそ現在の中南米においてブラジルだけがポルトガル語、残りは全てスペイン語の文化圏となっています。

高校の世界史Bなどでピサロによるインカの征服についてさら~っと習うと思います。

メソアメリカでは、エルナン・コルテスにより1521年にアステカ王国が滅ぼされてしまいました。

それに先立つ1492年にクリストファー・コロンブスが「新大陸を発見」するわけです。

コンキスタドール(征服者)としてのコルテスの非道さは有名なのですが、コロンブスも略奪を繰り返し、男は殺し、女は強姦するというスペイン軍のやり方(遊び方;面白半分に殺し犯していたという記録があります)を最初にアメリカで実行した十分にヤバイ人物です。

さて、ということでメソアメリカへの白人の到達は歴史上1492年ということになります。


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↑ローマ人を模した彫刻(「ABC HISTORIA」の記事内画像より転載;スペイン語)


アステカの「白い神」の神話

最初に挙げた「This is Spartaaaaa!」は正直言って関係ないんですけども、まぁ顔の濃い白人のイメージとして用いました。

上に挙げたのはローマ人を模した彫刻です。

顔立ちとして明らかに彫りが深いですし、少なくとも、「あ~白人の顔立ち」だなって思えますよね。

先に述べましたようにコルテスにより1521年にアステカが陥落するわけですが、簡単に陥落した理由の一つが「アステカの白い神の神話」の存在なのです。



 アステカには、かつてテスカトリポカ(ウィツィロポチトリ)神に追いやられた、白い肌をもつケツァルコアトル神が「一の葦」の年(西暦1519年にあたる)に戻ってくる、という伝説が存在した。

 帰還したケツァルコアトルが、かつてアステカに譲り渡した支配権を回復すると信じられていた。

 「一の葦」の年の10年前には、テノチティトランの上空に突然大きな彗星が現れた。また女神の神殿の一部が焼け落ちてしまった。その後も次々と不吉な出来事が起こった。アステカ人たちは漠然と将来に不安を感じていた。

 そうした折であった「一の葦」の年の2年前(1517年)から東沿岸に現れるようになったスペイン人は、帰還したケツァルコアトル一行ではないかと受け取られ、アステカのスペイン人への対応を迷わせることになった。

(Wikipedeia より一部改変)


この神話の概要は上の参考文の通りです。

ちなみにケツァルコアトルは、マヤではククルカンと呼ばれる重要な神様で「羽毛の生えた蛇神」として顕現する至高神です。

メソアメリカにはこうした白い肌を持つ「コーカソイド(白人)」を神聖視するような伝説が見られるのです。


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白い神の神話は実話を基にしているのか?

この神話のポイントは白い肌の神が追い出されて支配権を譲渡したという点です。

元々は白い神が支配権を有していたということになるわけです。

そこで……『神話になるほど古い時代に、かつて本当に白人がメソアメリカに到達し、珍しいその肌の色から指導者として君臨し、後に在地の有力者によって排除された』なんてことがあったかも知れません。

『こういった手の解釈』はオカルト、疑似科学でよくあることですが、ただの想像であって根拠はありません。

でも今回のお話は当サイトで扱うくらいですからね、そう、根拠あるんですよ( ・Д・)



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↑報告書にある遺物の掲載写真(Garcia-Payón 1993; Figure 1より転載)


スペイン征服期以前のお墓からローマ人の頭が見つかった!?


さて、上に挙げた写真は「本物の発掘調査報告書からの転載写真」になります。

1933年にホセ・ガルシア=パヨン(José Garcia-Payón)によってメキシコの首都、メキシコシティの南西部に位置するトルーカで発掘調査が実施されました。

ここには現在はカリストラウワカ(Calixtlahuaca)と呼ばれている遺跡があります。

調査当時はマタジンカという名の古代都市遺跡として知られていました。

この遺跡は後古典期(c.a. CE1000-1500)に属しており、当時のメキシコ建築様式として代表的な円形基壇を有した建造物が多数見られます。

この遺跡でガルシア=パヨンは埋葬遺構の調査を行ったわけです。




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発掘された埋葬遺構は上に挙げた写真のような神殿ピラミッドの内部から検出されました。

この埋葬遺構は未盗掘であり、金、ターコイズ、クリスタル、陶器などの副葬品が見られ、それらと共伴して「ローマ人の頭」が見つかったのです。

この人頭像はテラコッタ製、つまり土製小像に分類されるものです。

調査結果として、遺構が未盗掘であることと、共伴する土器等の遺物の分析から、埋葬遺構の帰属時期はCE1476~1510年と推定されました。

記録上、スペイン人らコンキスタドーレスは1519年までメキシコの海岸に到達しなかったため、この遺物はスペインの征服以前の作品でなければならないことになります。





当然と言えば当然のことですが、このガルシア=パヨンによる報告は「あり得ないこと」として無視されました。

そして時は流れて1995年、理化学分析として熱ルミネッセンス法による試験のためにこの『ローマ人頭像』がドイツに送られました。

この分析結果では、なんと紀元前184年から紀元前616年の生産日であり、発見された墓よりもはるかに古く、調査報告における推定よりも古い時代にアメリカに運ばれた可能性があることを証明しました。

古典派の歴史家エルンスト・ベーリンガーは、2世紀および3世紀のローマの芸術作品に照らし合わせてこのローマ人頭像の美術様式を特定したことで、制作の日付をさらに狭めました。

更にローマのドイツ考古学研究所のバーナード・アンドレアによって、2世紀の作品とまでにさらに狭められました。

最終的には『ローマンヘッド』として知られるこの遺物について、「このヘッドは間違いなくローマンであり、研究室の分析によってそれが2世紀頃のローマの作品であり、髪型とひげの形がセビリア皇帝時代(CE193-235)の典型的な特徴を正確に表現している」と評価されたのです。



上に挙げた写真は古代メキシコの美術様式と比較したものです。

考古学調査の結果を信用するのであれば、コロンブスの新大陸発見が1492年ですので、『白い神』と思しき人物の情報がマヤ地域からメキシコまで一気に伝わって非常に写実的に土製小像が作られたとも考えられます。

ただ当時の美術様式と比較すると写実的にも程があるというか、全くの別様式であることが分かりますので、強引過ぎる解釈でしょう。

一方で理化学分析や美術様式との比較研究を信用すると、2世紀の古代ローマの遺物がメキシコに伝わり、その後『伝世品』として1300年もの間大事に保管された上で、16世紀初頭に副葬されたことになります。

まさに『考古学ミステリー』ですね( ・Д・)


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現在の解釈はこう! それでも真偽は謎のまま……


「盗掘者がバレないように細心の注意を払って丁寧に掘って、しかも服装品を盗らずに考古学者を悩ますために遺物を追加した」とはもちろん考えられませんよね( ・Д・)

となると「ローマンヘッド」自体は各種分析・研究結果から本物なのだと思います。

そうすると考えられる可能性は『いたずら』です(/TДT)/

ロミオ・H.・フリストフとサンティアゴ・ジェノベスの1999年の『ローマンヘッド』に関する出版物を出し、続いてメキシコ大学(UNAM)のポール・シュミット(Paul Schmidt)も『真実』について以下のように書いています。

「...この人形はドン・ペペ(ホセ・ガルシア=パヨンの愛称)の調査中に埋められました。ドン・ペペはそれを非常に真剣に受け止めたので、誰も彼にそれが冗談だと​​言う強い心を持っていませんでした。そのようにジョン・パドックから言われたことを覚えています。(歩けマヤ管理人、一部修正)」

しかし問題は調査実施から半世紀以上もの多大な時間が経っていて、発掘中に立ち会った人は誰も生きていませんでした。

また発掘関係者であるパイオンの息子は、父から聞いた話ではパドックやモエダノ(別の証言者)は発掘現場にさえいなかったと述べています。

さらにシュミットはこの暴露話を手紙で知ることとなったとしていますが、その手紙自体は非公開なのです。

したがって、シュミットの結論(あるいは暴露)は最も論理的ですが、それに真実があるという証拠はどこにもないのです。


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↑こんなのあるのね!( ・Д・)(「アマゾン」より転載;回し者ではありませぬ)



この『考古学ミステリー』を再度考えてみよう!( ・Д・)


もしローマンヘッドが現代における攪乱・混入ではないと仮定しましょう。

そうなるとローマンヘッドは埋葬時とヨーロッパ人が本土に到着する前に持ち込まれなければなりません。

先に述べたようにコンキスタドールは1519年までメキシコ本土に到達していませんでしたが、近くのカリブ海の島々は15世紀後半から植民地化されていました。

最初期にコロンブスらがマヤ地域のホンジュラスからパナマまでの沿岸地域に到達していたためです。

そうするとこの遺物はヨーロッパから持ち込まれ、先住民と取引された後、貿易ネットワークを介してカリストラウワカまで移動した可能性があります。

この解釈だと、小さなローマンヘッドがどのようにして埋葬地にたどり着いたのかを説明できます。

しかしスペインの植民地主義者や探検家が、何故2世紀の小さなローマンヘッドを持って取引するのか、何故アステカの貴族が死後の世界に同行させるためにローマンヘッドを選ぶのかが説明できません。

後者については多少の説明ができそうです。

先行するオルメカ文明(BCE1200~CE1)に帰属するサポテカに見られる巨石人頭像ではひげを生やした外国人風の男性像様式が使用されていました。

トルテカ文明(CE700~1200)では彼らの文明はひげを生やした白人であるケツァルコアトルという神によって設立されたという神話があります。

したがって、アステカの貴族が「髭を生やした異国人を神聖視する風習」の下で、ローマンヘッドを副葬する可能性はあるわけです。




おわりに ~考古学研究とは~


最近はあまり見かけませんが、所謂『オーパーツ』が非常にもてはやされた時期がありました。

変わったモノが見つかるとやはり注目はされます。

でも考古学という学問は、何か1つ変わったモノが見つかったからと言って直ちに定説が覆るような学問ではありません。

上に挙げた写真のように、多くの人々の地道な調査・研究によって、多くの証拠が集められてようやく何かが少し言える、そんな学問なのです。

メソアメリカにおける最初期の接触時に、ヨーロッパ勢と現地人の間で「物の交換」が行われた可能性は十分にあります。

基本的に略奪者であるコンキスタドール達の性格からすると恐らく僅かにしかそういった行為は行われていないとは思いますが、タイムマシンがない以上、『新旧大陸の先スペイン期の接触』については今回の事例のような『奇跡的な発見』をもう少し繰り返す必要があるのです( -д-)ノ

今回の記事で取り上げた『カリストラウワカのローマンヘッド(Calixtlahuaca Roman Head)』は現在、メキシコシティの国立人類学博物館で展示されており、ひとまずは植民地時代の作品としてアーカイブされています。

↓たまにはオカルト関連もあって良い(*・ω・)ノ↓

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