
↑世の中基礎研究が軽視されてるっていうけれど、考古学では基礎研究が過剰に重視されてると思う!( ・Д・)
今回の考古学・歴史ニュースは
「コロンビアとベネズエラを流れるオリノコ川の岩山に、全長約42メートルもの大蛇、人間、鳥、巨大ムカデが刻まれ、それらが川を旅する者へ神話と集団の記憶を示すと同時に、「ここから先は別の世界だ」と知らせる巨大な境界標識だった可能性が見えてきた――けれども、誰がいつ刻んだのかは今も分からず、世界最大級の蛇が答えではなく新しい謎を川辺へ描き出した!( ・Д・)」
ってお話です(*・ω・)ノ
📰はじめに
それでは今回は、南米を横断するオリノコ川とアトゥレス急流、約一万年前まで遡る人々の暮らし、1691年の宣教師が見た「託宣」、フンボルト以来の研究史、ドローンで記録された157か所の岩刻画遺跡、蛇を祖先や創造者とする先住民神話、そして「領土への警告」説がどこまで証拠に支えられているのかまで、大河を見下ろす巨大蛇の正体を追いかける!
南アメリカ北部を流れるオリノコ川。
その中流域を舟で進むと、平らなサバンナの向こうに、丸い花崗岩の丘が浮かび上がる。
丘の黒い岩肌をよく見ると、一本の明るい線がジグザグに走っている。
線は十メートルを越えても終わらない。
頭には角のような突起があり、胴は大きくうねり、尾は渦巻く。周囲には人間、四足動物、鳥、幾何学模様、そして巨大なムカデまで並んでいる。
最大のものは、ベネズエラのセロ・ピンタードに刻まれた推定約42メートルの大蛇。
研究チームによれば、単独の岩刻画としては、現在までに記録された世界最大級、あるいは最大の可能性がある。
だが、この大蛇は遠くから眺めるためだけの美術作品だったのだろうか。
なぜ、これほど苦労して川を見下ろす岩壁へ刻んだのだろうか?
↑所在地はこのように山もあり川もある!( ・Д・)(Riris et al. 2024, Fig. 0, 1より転載)
🌊 密林ではなく、空の広い大河だった
オリノコ川と聞くと、深いアマゾンの密林を想像するかもしれない。
しかし巨大岩刻画が集中する中流域の景観は、むしろ広い草原と川沿いの森、そして所々に突き出した花崗岩の丘から成る。
この孤立した岩山は「インセルベルク」と呼ばれる。
周囲の土地が長い時間をかけて削られるなか、硬い岩体だけが島のように残った地形である。平坦なサバンナでは遠くからでも目立ち、川を移動する人々にとって天然の目印になった。
オリノコは単なる一本の川でもない。
西にはアンデス、北にはカリブ海、南にはアマゾン川流域、東にはギアナ高地が広がる。上流ではカシキアレ川を通じ、オリノコ水系とアマゾン水系が自然につながっている。
人、土器、石材、食物、儀礼、物語は、現代の国境が造られるよりはるか以前から、この水路を行き来していた。
巨大蛇が集中するのは、アトゥレス急流の北端から、ビチャダ川とオリノコ川の合流点付近までの約100キロである。
アトゥレスは、下流から来た舟が容易に進める最後の地点だった。
岩と激流に行く手を阻まれれば、荷物を降ろし、舟を引き、人は陸路で急流を迂回しなければならない。
それは障害であると同時に、人々が立ち止まり、出会い、交換し、交渉する場所でもあった。
巨大な蛇は、人のいない辺境に置かれたのではない。
南米北部のさまざまな世界がぶつかる、大河の交差点に刻まれていたのである。
↑確かに山の一部として岩肌も草原もでっかい河もある!( ・Д・)(「THE PAST」の記事内画像より転載)
🪨 黒い岩を削ると、白い蛇が現れた
オリノコの巨大蛇は、岩へ顔料を塗った「岩絵」ではない。
より正確には、岩面を削って造る「岩刻画」、すなわちペトログリフである。
現地の花崗岩は、シアノバクテリアなどが作る生物膜によって、表面が黒っぽく覆われている。
古代の人々は、その黒い表層を擦り削り、下にある明るい花崗岩を露出させた。
彫りの深さは一センチにも満たない。
すぐ近くまで寄ると、かえって線は浅く、分かりにくい。ところが数百メートル離れると、黒い岩壁と白っぽい線の対比によって、巨大な動物の輪郭が浮かび上がる。
つまり、細部を手元で鑑賞する絵ではない。
川や対岸、別の丘から「そこに何かがいる」と気付かせるための図像だった可能性が高い。
ただし、現在見える明暗が、刻まれた当初とまったく同じだったとは限らない。
岩は日差し、雨、流水、生物膜の成長によって変化する。急流の島々にある岩刻画の一部は、雨季に水没し、乾季に再び現れる。
流れの強い場所では線が削られ、ほとんど消えた図像もある。一方、島陰の穏やかな流れに守られ、浅い彫りが鮮明に残る場所もある。
古代人は黒い岩を明るく変えた。
その後は川そのものが、毎年、絵を隠し、見せ、削り直してきたのである。
↑分かる?( ・Д・)(「THE PAST」の記事内画像より転載)
✝️ 1691年、宣教師は丘の図像を「悪魔の声」と呼んだ
これらの巨大岩刻画は、2024年に初めて発見されたものではない。
地元の先住民や川を行き来する人々は、何世代にもわたってその場所を知っていた。
ヨーロッパ側の記録にも、早い時期から断片が現れる。
1691年、イエズス会の宣教師たちは、アトゥレス地方の丘の高所にある図像を、サリバ系の人々が言葉を受け取る「託宣」の場としていたと記録した。
しかし宣教師は、その声を先住民の神聖な存在とは認めなかった。
キリスト教の力によって悪魔を沈黙させた、と報告したのである。
急流の岩には、先住民の図像群の中央へ後から刻まれた十字架も残る。
それは古い絵が無視された証拠ではない。
むしろ宣教師たちが、その場所に別の宗教的な力が宿ると理解し、十字架によって意味を上書きしようとした痕跡なのかもしれない。
19世紀初頭には、博物学者アレクサンダー・フォン・フンボルトもオリノコの岩刻画と伝承を記録した。
カイカラ周辺では、岩がまだ若く柔らかかった時代に祖先が描いたのだ、と語られていたという。
20世紀に入ると、ベネズエラの考古学者ホセ・マリア・クルクセントが1940年代の日記にセロ・ピンタードを記し、1950年代にはバルトロメ・タベラ=アコスタが巨大な角のある蛇とサリバの怪物退治神話を比較した。
巨大蛇は、長く「知られていなかった」のではない。
知られてはいたが、川の両岸を一つの文化景観として測り、ほかの巨大図像と並べることができなかったのである。
↑言われてみれば分かるが、同じ写真を加工してくれればいいのにね!( ・Д・)(「THE PAST」の記事内画像より転載)
🚁 一匹だけだと思った蛇が、大河沿いに増えていった
物語が大きく動いたのは2015年だった。
フィリップ・リリス、ホセ・オリバー、ナタリア・ロサダ=メンディエタらの研究チームは、アトゥレス急流とその周辺で考古学調査を開始した。
この年はオリノコの水位が歴史的に低く、普段は水に隠れる岩盤や島の図像まで記録できた。
チームはデジタル一眼カメラ、計測尺、GPSを使い、巨大な場所ではドローンを飛ばした。多数の写真をつなぎ合わせ、歪みの少ない平面画像や三次元記録を作った。
ピクレ島では、面積304平方メートルの岩面から少なくとも93点の図像が確認された。
手作業で写し取れば、時間がかかるだけでなく、岩の傾きによって形や位置を誤る危険がある。上空から撮影することで、初めて岩面全体を一枚の図として比較できるようになった。
だが、研究を前へ進めたのは機械だけではない。
2015年にセロ・ピンタードの42メートルの蛇を見た研究者たちは、当初、それが孤立した特別な一例だと考えていた。
すると地元の教育者で写真家でもある案内人フアン・カルロス・ガルシアが、コロンビア側の丘を指し、その向こうにも同じほど大きな蛇がいると教えた。
現地の知識を手掛かりに、既刊報告、古い地図、学位論文、地元案内人の情報、新しい現地調査を重ねると、一匹の怪物は、大河沿いに連なる伝統へ変わっていった。
2024年の研究では、中・上流オリノコの岩刻画遺跡157か所が整理された。
そのうち、景観の目立つ位置にあり、縦または横が4メートルを超えるものを「巨大岩刻画」と定義すると、11遺跡13面が該当した。
これは157か所すべてを2024年に新発見したという意味ではない。
地元で知られていた場所、過去の研究者が報告した場所、新たに正式記録された場所を、初めて同じ物差しで結び直した成果なのである。
↑川沿いにも似たような彫刻がある!( ・Д・)(Riris et al. 2024, Fig. 4より転載)
🐍 42メートルの蛇は、すべて川を向いていた
巨大岩刻画に描かれたのは、蛇だけではない。
人間、四足動物、横向きの鳥、円や同心円、渦巻き、円を囲む長方形などが刻まれている。
なかでも奇妙なのが、アマゾンオオムカデと考えられる節足動物である。
巨大ムカデは単独、または蛇と一緒に現れ、ほかの岩刻画では珍しい。セロ・ピンタードでは42メートルの蛇の近くに、ムカデと仮面のような人面まで配置されている。
それでも主役は、やはり蛇だった。
セロ・カスアリート・ノルテの蛇は約26メートル、パロマソンは約23メートル、マイプレズは約15メートル、セロ・ピンタードは遠隔計測で約42メートルに達する。
蛇はほかの図像より不釣り合いに大きく、画面の中央を占める。
しかも描き方には地域差がある。
アトゥレス急流より北では横向きの蛇が多く、マイプレズ急流とその上流では縦向きの蛇が多い。
異なる集団の作風なのか、古い文化境界の名残なのか、同じ蛇に別の役割を与えたのかは分からない。
だが、共通点はさらに強烈である。
巨大蛇を持つすべての岩面が、オリノコ川の方向を向いていた。
蛇から最寄りの川岸までの平均距離は約2.02キロ。最も近いマイプレズの蛇は約46メートル、最も遠いセロ・ピンタードは約4.16キロ離れている。
蛇同士の平均間隔は約16.5キロだった。
偶然に空いた岩へ刻んだだけなら、これほど一貫して川を意識する必要はない。
大蛇は川辺に立つ人を見るだけでなく、川を旅する人から見返される位置を選ばれていたのである。
↑蛇大好きなのね!( ・Д・)(Riris et al. 2024, Fig. 3より転載)
🛶 急流の手前では、言葉も土器も混じり合った
では、巨大蛇を刻んだのは、どのような人々だったのだろうか。
ひとつの民族名を答えることはできない。
中流オリノコは、アラワク語族、カリブ語族、サリバ語族など、異なる言語を話す集団が移動し、隣り合い、交易した地域だった。
初期の宣教師は、アトゥレス急流の島々に、サリバ系の言語を話すアドレスと呼ばれる人々の大きな集落があったと記している。
しかし、それ以前にも以後にも、同じ場所を別の集団が利用した。
考古学調査では、アトゥレス周辺に大きく二つの居住期が確認されている。
ひとつは紀元前100年頃から西暦620年頃まで。もうひとつは西暦1030~1480年頃である。
後期には集落が成長し、異なる土器製作の伝統を持つ人々が同じ地域へ集まった。
ピクレ遺跡では石製ビーズを作った痕跡と、身体や布へ模様を押した可能性のある土製ローラー印章が見つかっている。近くのラボ・デ・コチノ遺跡でも、異なる作り方の土器と交換品が確認された。
西暦1000~1480年頃のアトゥレスは、孤立した小集落ではなく、複数の共同体が物を交換し、互いの技術をまね、儀礼によって関係を結び直す場所だった可能性が高い。
巨大岩刻画のすぐ近くに大集落が重なるわけではない。
むしろ主要な居住地は、巨大蛇がよく見える範囲の外縁に置かれる傾向がある。
日常生活の中心から少し離れ、しかし旅人なら見逃せない場所。
そこは誰か一人の家の印ではなく、異なる人々が出会う直前に、共通の物語や違いを確認する舞台だったのかもしれない。
↑色々な彫刻があるね!( ・Д・)(「THE PAST」の記事内画像より転載)
⏳ 「約2,000年前」とは、蛇を測った年代ではない
各国の報道では、巨大岩刻画はしばしば「約2,000年前」と紹介された。
しかし、岩そのものを直接年代測定できたわけではない。
花崗岩を削った線には、放射性炭素年代測定に使える木炭や骨が含まれない。刻み目の上に新旧の図像が重なる例も少なく、どちらが先かを並べる相対年代も作りにくい。
周辺には、約一万年前まで遡る人間活動の痕跡がある。
岩絵のある岩陰からは約一万年前の人間活動と結び付く赤色顔料も見つかっているが、それが巨大な蛇を刻んだ年代を示すわけではない。
一方、パロマソンの岩山にある埋葬洞窟からは、角のある頭、ジグザグの胴、渦巻く尾を持つ蛇を飾った土器が見つかった。
その形は、同じ岩山に刻まれた巨大蛇とよく似ている。
また、岩刻画にある三角形の顔や渦巻きに似た文様も、先コロンブス期後半の土器に現れる。
これは、巨大蛇が比較的新しい先コロンブス期に刻まれた可能性を示す。
ただし逆の順序もあり得る。
後代の土器職人が、すでに古かった岩刻画の図像を器へ取り入れたのかもしれない。
現状では、形成期以降、特に紀元前後から先コロンブス期末までのどこかで多くが造られた可能性は高いが、もっと古い制作を排除することはできない。
「約2,000年前」は便利な見出しではあっても、42メートルの蛇に刻まれた製造年月日ではないのである。
🌌 蛇は、川と人間と天の川を運んできた
巨大蛇の意味を考える時、現在まで伝わる先住民神話は重要な手掛かりになる。
ただし、現在の神話をそのまま何千年も前の彫刻へ貼り付けることはできない。
語りは時代とともに変化する。似た神話を語る人々の祖先が、特定の岩刻画を造ったと証明されたわけでもない。
その限界を踏まえても、南米北部の広い地域で、蛇が繰り返し同じ役割を担うことは無視できない。
ピアロア、すなわちウォトゥハの神話では、文化英雄ワハリとアナコンダのクアモイが対立する。
クアモイは巨大な力を持つが、親しみやすい守護者だけではない。敵対する親族、洪水、捕食、危険な生命力とも結び付く存在である。
クアモイの娘クアウアは、追放されてオリノコ川を旅する途中、岩へ図像を造ったとされる。
別の神話では、ワハリが怪物の蛇を倒す。ピアロアの主要な舞踊には、アナコンダの動きをまねるものもある。
アラワク系やトゥカノ系の神話では、祖先を乗せた「蛇のカヌー」が水源から現れ、移動しながら川を形作った。
蛇の水路は地上の川だけでなく、空を流れる天の川にも重ねられる。
祖先の蛇が現れ、休み、別れた場所は、どの集団が親族で、どこから先が非親族の世界なのかを説明する。
蛇は世界を生んだ創造者であり、人々を運ぶ舟であり、洪水を起こす捕食者でもある。
歓迎と危険、誕生と死、移動と領域。
巨大岩刻画の蛇が一つの意味だけに決められないのは、古代人が意味を曖昧にしたからではない。
蛇そのものが、相反する力を同時に宿す存在だった可能性があるのだ。
↑広い範囲に色々あるね!( ・Д・)(Riris et al. 2024, Fig. 2より転載)
🚧 「ここから先へ来るな」か、「同じ蛇を知る者は入れ」か
研究チームは、地形データを使って、巨大蛇がどこから見えるのかを計算した。
その結果、すべての蛇が常に舟からはっきり見えたわけではなかった。
最もよく見えるのは別の高い丘で、草原からの視認性は比較的低い。だが、急流の内部や下流、川岸の一部には、丘と同じほど蛇を見やすい場所があった。
そして蛇そのものが見えない距離でも、蛇を載せた岩山はさらに遠くから目印になった。
古代の旅人は「岩刻画の座標」を知らなくても、あの丘の向こうが急流であり、交換の場であり、別の集団と出会う場所だと理解できたのかもしれない。
ここから生まれたのが、巨大蛇を「境界を働かせる存在」と見る説である。
それは現代の国境標識や私有地の看板と同じではない。
蛇は、ここに強い力と古い物語があることを知らせ、外から来た者へ慎重な振る舞いを求めたのかもしれない。
知らない者には、「この先は別の世界だ」という警告になる。
同じ神話と儀礼を知る者には、「あなたも蛇の物語を共有する者だ」という歓迎や身元確認になる。
また、巨大蛇を刻む共同作業そのものが、複数の人々を一つの集団として結び直した可能性もある。
岩へ領土を描いたというより、岩と蛇と川を使って、人間同士の関係を作ったのである。
とはいえ、この説が最終回答になったわけではない。
蛇同士が平均16.5キロ間隔で川を向くことは、意図的な配置を強く思わせる。だが、どの集団の境界だったのか、同時期に一斉に造られたのか、すべての蛇が同じ役割を持ったのかは分からない。
今後は、未確認地域の調査、岩面と生物膜の年代研究、周辺集落との比較に加え、現地の先住民が持つ知識と解釈を研究の中心へ置く必要がある。
なにより、巨大岩刻画を「失われた文明の暗号」にして、現在そこに暮らす人々から切り離してはいけない。
セロ・ピンタードの蛇は、文字の代わりに単純な答えを残したのではない。
川は道であり、境界でもある。
蛇は祖先であり、怪物でもある。
岩山は誰かを拒み、同時に誰かを迎える。
42メートルの大蛇が二千年近く見張っていたのは、固定された一本の国境ではなく、人々が出会うたびに結び直される「世界と世界の境目」だったのかもしれない!( ・Д・)
なにはともあれ……
私は蛇よりはトカゲ系の方が好き!( ・Д・)













































