あるけまや -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

    お金にならない考古学をお金にしよう╭( ・ㅂ・)و ̑̑ グッ ! 考古学・歴史ニュースの決定版╭( ・ㅂ・)و ̑̑ グッ !

    南米

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    2026ねん 9がつ3にち(もくよーび、くもり)

    下半身筋肉痛でバキバキ!( ・Д・)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



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    ↑世の中基礎研究が軽視されてるっていうけれど、考古学では基礎研究が過剰に重視されてると思う!( ・Д・)





    今回の考古学・歴史ニュースは

    コロンビアとベネズエラを流れるオリノコ川の岩山に、全長約42メートルもの大蛇、人間、鳥、巨大ムカデが刻まれ、それらが川を旅する者へ神話と集団の記憶を示すと同時に、「ここから先は別の世界だ」と知らせる巨大な境界標識だった可能性が見えてきた――けれども、誰がいつ刻んだのかは今も分からず、世界最大級の蛇が答えではなく新しい謎を川辺へ描き出した( ・Д・)」

    ってお話です(*・ω・)ノ





    📰はじめに


    それでは今回は、南米を横断するオリノコ川とアトゥレス急流、約一万年前まで遡る人々の暮らし、1691年の宣教師が見た「託宣」、フンボルト以来の研究史、ドローンで記録された157か所の岩刻画遺跡、蛇を祖先や創造者とする先住民神話、そして「領土への警告」説がどこまで証拠に支えられているのかまで、大河を見下ろす巨大蛇の正体を追いかける!

    南アメリカ北部を流れるオリノコ川。

    その中流域を舟で進むと、平らなサバンナの向こうに、丸い花崗岩の丘が浮かび上がる。

    丘の黒い岩肌をよく見ると、一本の明るい線がジグザグに走っている。

    線は十メートルを越えても終わらない。

    頭には角のような突起があり、胴は大きくうねり、尾は渦巻く。周囲には人間、四足動物、鳥、幾何学模様、そして巨大なムカデまで並んでいる。

    最大のものは、ベネズエラのセロ・ピンタードに刻まれた推定約42メートルの大蛇。

    研究チームによれば、単独の岩刻画としては、現在までに記録された世界最大級、あるいは最大の可能性がある。

    だが、この大蛇は遠くから眺めるためだけの美術作品だったのだろうか。

    なぜ、これほど苦労して川を見下ろす岩壁へ刻んだのだろうか?




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    ↑所在地はこのように山もあり川もある!( ・Д・)(Riris et al. 2024, Fig. 0, 1より転載)


    🌊 密林ではなく、空の広い大河だった

    オリノコ川と聞くと、深いアマゾンの密林を想像するかもしれない。

    しかし巨大岩刻画が集中する中流域の景観は、むしろ広い草原と川沿いの森、そして所々に突き出した花崗岩の丘から成る。

    この孤立した岩山は「インセルベルク」と呼ばれる。

    周囲の土地が長い時間をかけて削られるなか、硬い岩体だけが島のように残った地形である。平坦なサバンナでは遠くからでも目立ち、川を移動する人々にとって天然の目印になった。

    オリノコは単なる一本の川でもない。

    西にはアンデス、北にはカリブ海、南にはアマゾン川流域、東にはギアナ高地が広がる。上流ではカシキアレ川を通じ、オリノコ水系とアマゾン水系が自然につながっている。

    人、土器、石材、食物、儀礼、物語は、現代の国境が造られるよりはるか以前から、この水路を行き来していた。

    巨大蛇が集中するのは、アトゥレス急流の北端から、ビチャダ川とオリノコ川の合流点付近までの約100キロである。

    アトゥレスは、下流から来た舟が容易に進める最後の地点だった。

    岩と激流に行く手を阻まれれば、荷物を降ろし、舟を引き、人は陸路で急流を迂回しなければならない。

    それは障害であると同時に、人々が立ち止まり、出会い、交換し、交渉する場所でもあった。

    巨大な蛇は、人のいない辺境に置かれたのではない。

    南米北部のさまざまな世界がぶつかる、大河の交差点に刻まれていたのである。





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    ↑確かに山の一部として岩肌も草原もでっかい河もある!( ・Д・)(「THE PAST」の記事内画像より転載)


    🪨 黒い岩を削ると、白い蛇が現れた

    オリノコの巨大蛇は、岩へ顔料を塗った「岩絵」ではない。

    より正確には、岩面を削って造る「岩刻画」、すなわちペトログリフである。

    現地の花崗岩は、シアノバクテリアなどが作る生物膜によって、表面が黒っぽく覆われている。

    古代の人々は、その黒い表層を擦り削り、下にある明るい花崗岩を露出させた。

    彫りの深さは一センチにも満たない。

    すぐ近くまで寄ると、かえって線は浅く、分かりにくい。ところが数百メートル離れると、黒い岩壁と白っぽい線の対比によって、巨大な動物の輪郭が浮かび上がる。

    つまり、細部を手元で鑑賞する絵ではない。

    川や対岸、別の丘から「そこに何かがいる」と気付かせるための図像だった可能性が高い。

    ただし、現在見える明暗が、刻まれた当初とまったく同じだったとは限らない。

    岩は日差し、雨、流水、生物膜の成長によって変化する。急流の島々にある岩刻画の一部は、雨季に水没し、乾季に再び現れる。

    流れの強い場所では線が削られ、ほとんど消えた図像もある。一方、島陰の穏やかな流れに守られ、浅い彫りが鮮明に残る場所もある。

    古代人は黒い岩を明るく変えた。

    その後は川そのものが、毎年、絵を隠し、見せ、削り直してきたのである。







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    ↑分かる?( ・Д・)(「THE PAST」の記事内画像より転載)


    ✝️ 1691年、宣教師は丘の図像を「悪魔の声」と呼んだ

    これらの巨大岩刻画は、2024年に初めて発見されたものではない。

    地元の先住民や川を行き来する人々は、何世代にもわたってその場所を知っていた。

    ヨーロッパ側の記録にも、早い時期から断片が現れる。

    1691年、イエズス会の宣教師たちは、アトゥレス地方の丘の高所にある図像を、サリバ系の人々が言葉を受け取る「託宣」の場としていたと記録した。

    しかし宣教師は、その声を先住民の神聖な存在とは認めなかった。

    キリスト教の力によって悪魔を沈黙させた、と報告したのである。

    急流の岩には、先住民の図像群の中央へ後から刻まれた十字架も残る。

    それは古い絵が無視された証拠ではない。

    むしろ宣教師たちが、その場所に別の宗教的な力が宿ると理解し、十字架によって意味を上書きしようとした痕跡なのかもしれない。

    19世紀初頭には、博物学者アレクサンダー・フォン・フンボルトもオリノコの岩刻画と伝承を記録した。

    カイカラ周辺では、岩がまだ若く柔らかかった時代に祖先が描いたのだ、と語られていたという。

    20世紀に入ると、ベネズエラの考古学者ホセ・マリア・クルクセントが1940年代の日記にセロ・ピンタードを記し、1950年代にはバルトロメ・タベラ=アコスタが巨大な角のある蛇とサリバの怪物退治神話を比較した。

    巨大蛇は、長く「知られていなかった」のではない。

    知られてはいたが、川の両岸を一つの文化景観として測り、ほかの巨大図像と並べることができなかったのである。





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    ↑言われてみれば分かるが、同じ写真を加工してくれればいいのにね!( ・Д・)(「THE PAST」の記事内画像より転載)



    🚁 一匹だけだと思った蛇が、大河沿いに増えていった

    物語が大きく動いたのは2015年だった。

    フィリップ・リリス、ホセ・オリバー、ナタリア・ロサダ=メンディエタらの研究チームは、アトゥレス急流とその周辺で考古学調査を開始した。

    この年はオリノコの水位が歴史的に低く、普段は水に隠れる岩盤や島の図像まで記録できた。

    チームはデジタル一眼カメラ、計測尺、GPSを使い、巨大な場所ではドローンを飛ばした。多数の写真をつなぎ合わせ、歪みの少ない平面画像や三次元記録を作った。

    ピクレ島では、面積304平方メートルの岩面から少なくとも93点の図像が確認された。

    手作業で写し取れば、時間がかかるだけでなく、岩の傾きによって形や位置を誤る危険がある。上空から撮影することで、初めて岩面全体を一枚の図として比較できるようになった。

    だが、研究を前へ進めたのは機械だけではない。

    2015年にセロ・ピンタードの42メートルの蛇を見た研究者たちは、当初、それが孤立した特別な一例だと考えていた。

    すると地元の教育者で写真家でもある案内人フアン・カルロス・ガルシアが、コロンビア側の丘を指し、その向こうにも同じほど大きな蛇がいると教えた。

    現地の知識を手掛かりに、既刊報告、古い地図、学位論文、地元案内人の情報、新しい現地調査を重ねると、一匹の怪物は、大河沿いに連なる伝統へ変わっていった。

    2024年の研究では、中・上流オリノコの岩刻画遺跡157か所が整理された。

    そのうち、景観の目立つ位置にあり、縦または横が4メートルを超えるものを「巨大岩刻画」と定義すると、11遺跡13面が該当した。

    これは157か所すべてを2024年に新発見したという意味ではない。

    地元で知られていた場所、過去の研究者が報告した場所、新たに正式記録された場所を、初めて同じ物差しで結び直した成果なのである。





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    ↑川沿いにも似たような彫刻がある!( ・Д・)(Riris et al. 2024, Fig. 4より転載)


    🐍 42メートルの蛇は、すべて川を向いていた

    巨大岩刻画に描かれたのは、蛇だけではない。

    人間、四足動物、横向きの鳥、円や同心円、渦巻き、円を囲む長方形などが刻まれている。

    なかでも奇妙なのが、アマゾンオオムカデと考えられる節足動物である。

    巨大ムカデは単独、または蛇と一緒に現れ、ほかの岩刻画では珍しい。セロ・ピンタードでは42メートルの蛇の近くに、ムカデと仮面のような人面まで配置されている。

    それでも主役は、やはり蛇だった。

    セロ・カスアリート・ノルテの蛇は約26メートル、パロマソンは約23メートル、マイプレズは約15メートル、セロ・ピンタードは遠隔計測で約42メートルに達する。

    蛇はほかの図像より不釣り合いに大きく、画面の中央を占める。

    しかも描き方には地域差がある。

    アトゥレス急流より北では横向きの蛇が多く、マイプレズ急流とその上流では縦向きの蛇が多い。

    異なる集団の作風なのか、古い文化境界の名残なのか、同じ蛇に別の役割を与えたのかは分からない。

    だが、共通点はさらに強烈である。

    巨大蛇を持つすべての岩面が、オリノコ川の方向を向いていた。

    蛇から最寄りの川岸までの平均距離は約2.02キロ。最も近いマイプレズの蛇は約46メートル、最も遠いセロ・ピンタードは約4.16キロ離れている。

    蛇同士の平均間隔は約16.5キロだった。

    偶然に空いた岩へ刻んだだけなら、これほど一貫して川を意識する必要はない。

    大蛇は川辺に立つ人を見るだけでなく、川を旅する人から見返される位置を選ばれていたのである。





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    ↑蛇大好きなのね!( ・Д・)(Riris et al. 2024, Fig. 3より転載)


    🛶 急流の手前では、言葉も土器も混じり合った

    では、巨大蛇を刻んだのは、どのような人々だったのだろうか。

    ひとつの民族名を答えることはできない。

    中流オリノコは、アラワク語族、カリブ語族、サリバ語族など、異なる言語を話す集団が移動し、隣り合い、交易した地域だった。

    初期の宣教師は、アトゥレス急流の島々に、サリバ系の言語を話すアドレスと呼ばれる人々の大きな集落があったと記している。

    しかし、それ以前にも以後にも、同じ場所を別の集団が利用した。

    考古学調査では、アトゥレス周辺に大きく二つの居住期が確認されている。

    ひとつは紀元前100年頃から西暦620年頃まで。もうひとつは西暦1030~1480年頃である。

    後期には集落が成長し、異なる土器製作の伝統を持つ人々が同じ地域へ集まった。

    ピクレ遺跡では石製ビーズを作った痕跡と、身体や布へ模様を押した可能性のある土製ローラー印章が見つかっている。近くのラボ・デ・コチノ遺跡でも、異なる作り方の土器と交換品が確認された。

    西暦1000~1480年頃のアトゥレスは、孤立した小集落ではなく、複数の共同体が物を交換し、互いの技術をまね、儀礼によって関係を結び直す場所だった可能性が高い。

    巨大岩刻画のすぐ近くに大集落が重なるわけではない。

    むしろ主要な居住地は、巨大蛇がよく見える範囲の外縁に置かれる傾向がある。

    日常生活の中心から少し離れ、しかし旅人なら見逃せない場所。

    そこは誰か一人の家の印ではなく、異なる人々が出会う直前に、共通の物語や違いを確認する舞台だったのかもしれない。




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    ↑色々な彫刻があるね!( ・Д・)(「THE PAST」の記事内画像より転載)


    ⏳ 「約2,000年前」とは、蛇を測った年代ではない

    各国の報道では、巨大岩刻画はしばしば「約2,000年前」と紹介された。

    しかし、岩そのものを直接年代測定できたわけではない。

    花崗岩を削った線には、放射性炭素年代測定に使える木炭や骨が含まれない。刻み目の上に新旧の図像が重なる例も少なく、どちらが先かを並べる相対年代も作りにくい。

    周辺には、約一万年前まで遡る人間活動の痕跡がある。

    岩絵のある岩陰からは約一万年前の人間活動と結び付く赤色顔料も見つかっているが、それが巨大な蛇を刻んだ年代を示すわけではない。

    一方、パロマソンの岩山にある埋葬洞窟からは、角のある頭、ジグザグの胴、渦巻く尾を持つ蛇を飾った土器が見つかった。

    その形は、同じ岩山に刻まれた巨大蛇とよく似ている。

    また、岩刻画にある三角形の顔や渦巻きに似た文様も、先コロンブス期後半の土器に現れる。

    これは、巨大蛇が比較的新しい先コロンブス期に刻まれた可能性を示す。

    ただし逆の順序もあり得る。

    後代の土器職人が、すでに古かった岩刻画の図像を器へ取り入れたのかもしれない。

    現状では、形成期以降、特に紀元前後から先コロンブス期末までのどこかで多くが造られた可能性は高いが、もっと古い制作を排除することはできない。

    「約2,000年前」は便利な見出しではあっても、42メートルの蛇に刻まれた製造年月日ではないのである。

    🌌 蛇は、川と人間と天の川を運んできた

    巨大蛇の意味を考える時、現在まで伝わる先住民神話は重要な手掛かりになる。

    ただし、現在の神話をそのまま何千年も前の彫刻へ貼り付けることはできない。

    語りは時代とともに変化する。似た神話を語る人々の祖先が、特定の岩刻画を造ったと証明されたわけでもない。

    その限界を踏まえても、南米北部の広い地域で、蛇が繰り返し同じ役割を担うことは無視できない。

    ピアロア、すなわちウォトゥハの神話では、文化英雄ワハリとアナコンダのクアモイが対立する。

    クアモイは巨大な力を持つが、親しみやすい守護者だけではない。敵対する親族、洪水、捕食、危険な生命力とも結び付く存在である。

    クアモイの娘クアウアは、追放されてオリノコ川を旅する途中、岩へ図像を造ったとされる。

    別の神話では、ワハリが怪物の蛇を倒す。ピアロアの主要な舞踊には、アナコンダの動きをまねるものもある。

    アラワク系やトゥカノ系の神話では、祖先を乗せた「蛇のカヌー」が水源から現れ、移動しながら川を形作った。

    蛇の水路は地上の川だけでなく、空を流れる天の川にも重ねられる。

    祖先の蛇が現れ、休み、別れた場所は、どの集団が親族で、どこから先が非親族の世界なのかを説明する。

    蛇は世界を生んだ創造者であり、人々を運ぶ舟であり、洪水を起こす捕食者でもある。

    歓迎と危険、誕生と死、移動と領域。

    巨大岩刻画の蛇が一つの意味だけに決められないのは、古代人が意味を曖昧にしたからではない。

    蛇そのものが、相反する力を同時に宿す存在だった可能性があるのだ。





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    ↑広い範囲に色々あるね!( ・Д・)(Riris et al. 2024, Fig. 2より転載)


    🚧 「ここから先へ来るな」か、「同じ蛇を知る者は入れ」か

    研究チームは、地形データを使って、巨大蛇がどこから見えるのかを計算した。

    その結果、すべての蛇が常に舟からはっきり見えたわけではなかった。

    最もよく見えるのは別の高い丘で、草原からの視認性は比較的低い。だが、急流の内部や下流、川岸の一部には、丘と同じほど蛇を見やすい場所があった。

    そして蛇そのものが見えない距離でも、蛇を載せた岩山はさらに遠くから目印になった。

    古代の旅人は「岩刻画の座標」を知らなくても、あの丘の向こうが急流であり、交換の場であり、別の集団と出会う場所だと理解できたのかもしれない。

    ここから生まれたのが、巨大蛇を「境界を働かせる存在」と見る説である。

    それは現代の国境標識や私有地の看板と同じではない。

    蛇は、ここに強い力と古い物語があることを知らせ、外から来た者へ慎重な振る舞いを求めたのかもしれない。

    知らない者には、「この先は別の世界だ」という警告になる。

    同じ神話と儀礼を知る者には、「あなたも蛇の物語を共有する者だ」という歓迎や身元確認になる。

    また、巨大蛇を刻む共同作業そのものが、複数の人々を一つの集団として結び直した可能性もある。

    岩へ領土を描いたというより、岩と蛇と川を使って、人間同士の関係を作ったのである。

    とはいえ、この説が最終回答になったわけではない。

    蛇同士が平均16.5キロ間隔で川を向くことは、意図的な配置を強く思わせる。だが、どの集団の境界だったのか、同時期に一斉に造られたのか、すべての蛇が同じ役割を持ったのかは分からない。

    今後は、未確認地域の調査、岩面と生物膜の年代研究、周辺集落との比較に加え、現地の先住民が持つ知識と解釈を研究の中心へ置く必要がある。

    なにより、巨大岩刻画を「失われた文明の暗号」にして、現在そこに暮らす人々から切り離してはいけない。

    セロ・ピンタードの蛇は、文字の代わりに単純な答えを残したのではない。

    川は道であり、境界でもある。

    蛇は祖先であり、怪物でもある。

    岩山は誰かを拒み、同時に誰かを迎える。

    42メートルの大蛇が二千年近く見張っていたのは、固定された一本の国境ではなく、人々が出会うたびに結び直される「世界と世界の境目」だったのかもしれない!( ・Д・)




    なにはともあれ……

    私は蛇よりはトカゲ系の方が好き!( ・Д・)








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    2026ねん 8がつ3にち(げつよーび、くもり)

    暑さに負けていたら7月おわた!( ・Д・)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



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    ↑( ・Д・)





    今回の考古学・歴史ニュースは

    アマゾン南西部の密林を航空機からレーザー測量したら、樹木の下に隠れていた432カ所もの土塁が浮かび上がり、そのうち396カ所が未記録だったうえ、紀元前600年頃から約15世紀にわたって続いた巨大な社会圏に、最盛期には125万~300万人が暮らしていた可能性まで出てきたぞ( ・Д・)」

    ってお話です(*・ω・)ノ




    📰 はじめに


    上空からアマゾンを見下ろす。

    どこまでも緑。

    木。

    木。

    木。

    大河と支流の周囲を、巨大な森林が覆っている。

    地上へ降りれば、視界はさらに狭くなる。

    数十メートル先に大きな溝があっても分からない。

    人間が何十年もかけて築いた土塁があっても、その上に木が生えれば、ただの森の起伏にしか見えない。

    石造神殿なら、木の根に覆われても壁が残る。

    しかし、アマゾンの人々が築いた記念物の多くは、土でできていた。


    穴を掘る。

    出た土を積む。

    円を描く。

    四角形を描く。

    何本もの直線道路を伸ばす。

    そして人々がいなくなれば、森が戻ってくる。

    地上から巨大文明の姿が消えたのではない。

    森の下に、そのまま隠されてしまったのである。

    今回、航空機からレーザーを照射して森林の地表面を測ったところ、確認された土塁は432カ所。

    過去に知られていたのは、そのうち36カ所だけだった。

    残る396カ所は、樹冠の下に隠れていた未記録の構造物である。

    しかも研究者たちは、調査地域全体には2万4000~3万カ所もの土塁が存在し、紀元後100~300年頃の最盛期には、125万~300万人が暮らしていた可能性があると推定した。

    これが正しければ、アマゾンは、

    「少数の狩猟採集民が、手付かずの自然の中で静かに暮らした場所」

    ではない。

    巨大な公共空間を造り、道路を伸ばし、農作物と有用樹木を育て、森の構成まで変えた人々が暮らす、もう一つの人間世界だったのである!( ・Д・)





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    ↑アマゾンらしい風景、アナコンダいそう!( ・Д・)(「Expedia」のページ内写真より転載)


    ✈️ 飛行距離4430キロメートルのレーザー調査

    今回の研究は、フィンランド、ブラジルなどの研究者からなる国際チームによって行われ、2026年7月29日付で学術誌『Nature』に発表された。

    調査対象は、ブラジル西部のアクレ州とアマゾナス州を中心とするアマゾン南西部である。

    航空レーザー測量は2024年6月6日から7月1日にかけて実施された。

    航空機は合計4430キロメートルを飛行し、約4497平方キロメートルを測量した。

    東京23区のおよそ7倍に当たる広大な面積である。

    ただし、地域全体を隙間なく塗り潰すように飛んだわけではない。

    航空機は幅約1キロメートルの帯を測りながら、約10キロメートル間隔で長い直線状の調査区を設定した。

    森全体の一部を、規則正しく切り取って標本調査する方法である。

    特に重点調査された区域では、約445キロメートルの平行線を6本設定し、リオ・ブランコ周辺からラブレア方面へ向けて測量した。

    わずかな帯状調査から、地域全体の遺跡密度を推定しようとしたのである。


    🔦 LiDARは、木々を透視しているわけではない

    使われた技術はLiDAR――Light Detection and Ranging、日本語では「光検出と測距」などと呼ばれる。

    航空機から地表へ向けて、大量のレーザー光を発射する。

    光は葉、枝、幹、地面などへ当たり、反射して戻ってくる。

    その往復時間を測れば、レーザーが当たった地点までの距離を計算できる。

    森林では、ほとんどの光が葉や枝に遮られる。

    それでも大量のレーザーを照射すれば、ごく一部は葉と葉の隙間を通り、地面まで届く。

    研究者は樹木に当たった点を取り除き、地表面に到達した点だけを集める。

    すると森林を消したような「デジタル地形モデル」を作れるのである。

    もちろん本当に森を透視しているわけではない。

    樹冠が極端に密な場所では、地面までレーザーが届かない。

    今回の調査でも、場所によって地表の約4~5割が十分に測れない区域があった。

    つまりLiDARを使っても、すべての土塁が見つかったわけではない。


    ⭕ 森の下から現れたのは、円と四角と長い道路

    発見された構造物は、単なる土の盛り上がりではない。

    巨大な円形。

    正方形。

    長方形。

    多角形。

    二重、三重に囲まれた区画。

    そこから外部へ伸びる、真っすぐな道路。

    深い溝の外側には、掘り出した土を積んだ土塁が造られていた。

    溝は幅9~13メートルに達し、発掘された例では地表から最大5メートル近く掘り下げられていた。

    一般的な施設は0.35~14ヘクタールほどだが、最大級の土塁は約50ヘクタールにもなる。

    東京ドームおよそ10個分である。

    土を掘り、何十万立方メートルもの土砂を運び、正確な幾何学形へ積み上げる。

    重機はない。

    シャベルも鉄製ではない。

    人力である。

    しかも一度造って終わりではない。

    溝が崩れれば修復する。

    道路へ木が生えれば取り除く。

    広場を使い続けるためには、長期的な維持管理が必要になる。

    それには大勢の労働力、作業の分担、測量知識、指揮する仕組みがなければならない。





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    ↑場所はこんなとこ!( ・Д・)(Parssinen et al. 2026, Fig.1より転載)


    🏛️ ただし、432カ所すべてが「都市」ではない

    ここで注意したい。

    報道だけを読むと、森の下から432都市が発見されたようにも見える。

    だが、研究チームは多くの幾何学土塁を、常時人々が住む集落ではなく、公共的・儀礼的・政治的な集会センターだった可能性が高いと考えている。

    内部には、大人口が長期間暮らしたことを示す住居や生活廃棄物が少ない例がある。

    防御施設として造られたとも限らない。

    周辺の分散した集落から人々が集まり、祭祀、政治的決定、宴会、踊り、音楽、競技、贈与などを行った場所だった可能性がある。

    現代にたとえるなら、すべてが住宅街ではない。

    神社。

    広場。

    議会。

    市場。

    競技場。

    祭り会場。

    これらの機能を複合した巨大な公共空間だったのかもしれない。

    つまり、

    土塁の数=都市の数

    ではない。

    しかし、何百もの共同体が、共通する形の公共空間を築き、道路と儀礼によって結ばれていたとすれば、それは十分に高度な地域社会なのである。


    🌿 新しく名付けられた「アキリー文明」

    研究チームは、この幾何学土塁を共有した広域社会を「Aquiry civilization」、日本語ではアキリー文明などと呼んでいる。

    Aquiryは、現在のアクレ川に使われていた先住民系の名称に由来する。

    ただし、紀元前後の人々が自分たちを「アキリー人」と呼んでいたことが分かったわけではない。

    彼ら自身が残した文字記録はなく、どの言語を話していたかも分からない。

    一つの王国や帝国だった証拠もない。

    論文でも、アキリーは一枚岩の国家ではなく、異なる言語・文化集団を含む「多文化的な複合社会」として扱われている。

    共通していたのは、政治組織の名称ではなく、景観の造り方や儀礼の世界観だった可能性がある。

    円や四角の広場を造る。

    直線道路を伸ばす。

    一定の時期に人々が集まる。

    踊る。

    食べる。

    競う。

    贈り物を交換する。

    そうした共通の「社会宇宙観」が、18万平方キロメートルを超える地域へ広がっていたというのである。

    現在のシリア一国に近い広さであり、日本の本州より一回り小さい程度の巨大な文化圏だった。


    ⏳ 始まりは紀元前600年頃

    放射性炭素年代を統計的に整理した結果、アキリー系の幾何学土塁は、紀元前600年頃から紀元後850年頃まで造られたと推定された。

    1500年近く続く長い伝統である。

    一つの王朝が1500年間続いたという意味ではない。

    世代が替わり、集団が移動し、土器や建築様式が変わりながらも、幾何学的な公共空間を造る文化が受け継がれたと考えられている。

    紀元前600年頃といえば、地中海ではギリシアの都市国家が発展し、中国では春秋時代、日本列島では弥生時代が進行していた頃である。

    紀元後100~300年頃の最盛期は、ローマ帝国が最も広大になり、マヤ地域で巨大都市が成長を始め、日本では弥生時代後半から古墳時代へ向かう時期に当たる。

    世界各地で国家、都市、階層社会が発展していた頃、アマゾンでも別の形をした大規模社会が成立していたのである。





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    ↑よく見通せるもんだよね~!( ・Д・)(Parssinen et al. 2026, Fig.2より転載)


    📊 432カ所から、なぜ3万カ所へ増えるのか

    研究者が直接確認したのは432カ所である。

    それなのに、地域全体で2万4000~3万カ所という推定は、どこから出てきたのだろう。

    鍵となったのは、衛星画像とLiDARの差である。

    森林が伐採された区域では、以前からGoogle Earthなどの衛星画像で土塁を探せた。

    ところが同じ場所をLiDARで再調査すると、衛星画像で30カ所しか見つからなかった区域から、156カ所が確認された。

    約5倍である。

    浅い土塁や、溝を伴わない低い囲いは、草地や衛星画像では判別しにくかったのだ。

    そこで研究チームは、土塁密度の高い中核地域と、密度の低い周辺地域を分けた。

    中核部の標本調査結果を同程度の地域へ当てはめ、周辺部にはより低い密度を設定した。

    一つの計算法では2万3760カ所。

    衛星画像との比較や、レーザーが地面へ届かなかった割合まで考慮すると、約2万6400~2万9500カ所となった。

    これを丸めて、2万4000~3万カ所としている。

    したがって、3万カ所がすべて発見済みという話ではない。

    432カ所の実測値から、未調査地域へ統計的に外挿した推定値である。

    今後、別の地域をLiDARで測れば、数字は増える可能性も、減る可能性もある。


    👥 300万人という数字も、遺骨を数えたわけではない

    人口125万~300万人という推定にも、多くの仮定が含まれている。

    研究チームはまず、全土塁のうちアキリー期に属するものを約1万6660カ所と推定した。

    ただし1500年間に造られた土塁が、全部同時に使われていたわけではない。

    年代測定結果から、紀元後100~300年頃には、およそ25~60%の施設が同時に機能していた可能性があるとした。

    つまり約4165~1万カ所である。

    さらに、平均的な土塁一カ所を建設・維持する共同体を約300人と仮定した。

    すると、

    4165カ所×300人=約125万人。

    1万カ所×300人=約300万人。

    という計算になる。

    一共同体300人という数字は、必要労働力、後世の環状集落、複数家族が暮らす長大住居、現代先住民の大規模儀礼などを比較して出された。

    しかし、すべての土塁に必ず別々の300人がいたとは限らない。

    同じ共同体が複数施設を使ったかもしれない。

    一カ所へ周辺の数集落が集まった可能性もある。

    したがって300万人は、国勢調査のような確定値ではない。

    今回の研究で最も議論を呼ぶ部分は、土塁の発見そのものより、この人口推定かもしれない。

    それでも数万人程度と考えられていた地域に、少なくとも数十万、あるいは100万人を超える人口が存在した可能性が出たことは、非常に大きい。


    🏘️ アマゾンの都市は、石造都市とは姿が違った

    マヤ文明やインカ帝国の都市を思い浮かべると、神殿、宮殿、石碑、城壁を想像しやすい。

    アキリー地域には、巨大な石造建築がない。

    そもそも利用しやすい石材が乏しい。

    代わりに、人々は土、木、植物を使った。

    広場を掘り囲む。

    土を積む。

    道路を伸ばす。

    周囲へ家屋を分散させる。

    森と農園の間に居住域を造る。

    一カ所へ人口を密集させた石造都市とは異なり、広い景観の中に小さな集落と公共施設が網状に広がっていた。

    こうした社会を説明するため、「低密度都市」「森林都市」「庭園都市」といった言葉が使われるようになっている。

    研究者の間でも、これを本当に「都市」と呼ぶべきかについて合意はない。

    だが都市を、

    高層建築が密集した場所

    とだけ定義する必要はない。

    道路網。

    集落階層。

    公共空間。

    大量動員。

    政治的・宗教的中心。

    地域を結び付ける共通様式。

    これらが存在するなら、石がなくても都市的な社会は成立し得る。



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    ↑すごい密集してるね!( ・Д・)(Parssinen et al. 2026, Fig.3より転載)


    🌽 森の中で、何を食べていたのか

    かつてアマゾンで大規模社会が成立しにくいと考えられた最大の理由は、土壌だった。

    熱帯雨林は緑が豊かなので、土も肥沃に見える。

    ところが大量の雨によって栄養分が流され、多くの地域では農耕を長期間続けにくい。

    森林を切り開いても、数年で収穫量が落ちる。

    だから大人口を養う集約農業は難しいという議論である。

    しかしアマゾンの土壌は一様ではない。

    今回の調査地域には、比較的栄養分に富む場所も存在した。

    さらに住民は、トウモロコシ、カボチャ、キャッサバ、サツマイモ、豆、トウガラシ、落花生など、性質の異なる作物を組み合わせていたと考えられる。

    主食一種類を巨大畑で生産するだけではない。

    畑。

    果樹。

    ヤシ。

    木の実。

    狩猟。

    漁労。

    採集。

    多様な資源を、季節と場所に応じて組み合わせる。

    アマゾンの大規模社会は、メソポタミアの麦畑や東アジアの水田とは異なる食料生産体系によって支えられていたのである。


    🔥 森を焼き尽くしたのではなく、選びながら作り変えた

    研究者たちは、アキリー地域の住民が、竹の多い森林を周期的に焼き、耕作地や公共空間を維持した可能性を指摘している。

    しかし現代の大規模伐採のように、地域全体を一度に裸地へ変えたわけではない。

    同じ場所を選択的に焼く。

    畑を作る。

    休ませる。

    有用な樹木を残す。

    食用になる木を植える。

    森と畑を明瞭に分離するのではなく、食べられる森そのものを育てたのである。

    ブラジルナッツ。

    モモヤシ。

    バカバヤシ。

    ウリクリヤシ。

    現在も土塁周辺に多く見られる有用樹木の中には、古代の人間活動によって分布が広げられたものがある可能性が高い。

    森は「人間が触れていないから自然」なのではない。

    何世代もの人々が、特定の植物を選び、育て、残した結果として形成された部分もある。


    ⚫ 人間が作った黒い土「テラ・プレタ」

    アマゾン各地には、周囲の赤黄色い土とは異なる、黒く肥沃な土壌が存在する。

    テラ・プレタ・デ・インディオ――「インディオの黒い土」と呼ばれる土である。

    炭。

    灰。

    食物残滓。

    魚骨。

    動物骨。

    土器片。

    有機廃棄物。

    人々が同じ場所で長期間暮らし、火を使い、ごみを捨て、土を管理したことで形成された人工土壌と考えられている。

    テラ・プレタが広がる場所は、古い大規模集落の位置を示す重要な手掛かりとなる。

    つまり古代アマゾンの人々は、痩せた土壌へただ従っていたのではない。

    人間活動によって、より肥沃な土地を作り出していたのである。

    ただしアキリーのすべての土塁が、巨大なテラ・プレタ集落だったわけではない。

    公共空間と居住地は離れていた可能性がある。

    土塁だけを数えて人口を求めることが難しい理由の一つでもある。



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    ↑開けてるとこだと痕跡がしっかり残ってるものだね!( ・Д・)(「LiveScience」の記事内画像より転載;credit: Martti Pärssinen


    🌱 アマゾンの人間史は、文明よりはるかに古い

    では「古代アマゾン文明」は、いつ頃から存在したのだろうか。

    ここでは、人間の居住、農耕、複雑社会を分けなければならない。

    アマゾンに人間が暮らし始めたのは、少なくとも1万年以上前である。

    ブラジルのペドラ・ピンターダ洞窟では、約1万1000~1万3000年前の人間活動が確認されている。

    アマゾン南西部では、約1万850年前から人々が人工的な「森林島」を作り始め、約1万年前にはカボチャやキャッサバに関係する植物を栽培していた証拠がある。

    同地域は、世界でも早い段階から植物栽培が始まった地域の一つと評価されている。

    アマゾン河口域では、約8000~7000年前の土器も発見されている。

    これは南北アメリカでも最古級の土器である。

    ただし、古い居住や土器があることと、「文明」があることは同じではない。

    巨大な公共建築、地域統合、人口集中、階層化などが明瞭になるのは、地域によって異なるものの、おおむね紀元前1千年紀以降である。

    今回のアキリー土塁は、その開始を紀元前600年頃までさかのぼらせている。


    📜 1542年、最初のヨーロッパ人は「町」を見た

    大規模な古代アマゾン社会については、実は考古学より先に記録があった。

    1541~1542年、フランシスコ・デ・オレリャーナの遠征隊がアマゾン川を下った。

    同行した修道士ガスパル・デ・カルバハルは、川岸に大きな集落が連なり、道路が内陸へ伸び、豊富な食料を持つ人々が暮らしていると記録した。

    ところが、その後に訪れたヨーロッパ人が目にしたのは、人口の少ない集落と森林だった。

    カルバハルは誇張した。

    空腹と恐怖で幻を見た。

    征服の価値を高めるため、都市を作り上げた。

    長いあいだ、そのように扱われたのである。

    だが最初の遠征と後続の調査の間には、感染症が広がる時間があった。

    天然痘、麻疹、インフルエンザなどの旧世界由来感染症は、直接ヨーロッパ人と会わなかった地域へも、交易網を通じて先行した可能性がある。

    大人口を支えた社会が短期間で崩れ、畑と道路が森に戻ったなら、後から来た人々が「何もない森林」を見たことにも説明がつく。

    現在ではカルバハルの数字をそのまま信じる必要はないが、彼が大規模集落を見た可能性は、以前よりはるかに真剣に検討されている。


    🏺 19世紀から、豪華な土器は知られていた

    アマゾンに複雑な社会が存在した証拠は、完全に20世紀末まで知られていなかったわけではない。

    アマゾン川河口のマラジョ島では、巨大な盛土、墓、精巧な彩文土器、人物像などが19世紀から注目されていた。

    サンタレン周辺からも、複雑な造形を持つ土器や石製品が見つかっていた。

    問題は、

    「これほど高度な文化が、アマゾン内部で独自に発達できたのか」

    という解釈だった。

    遺物が高度であることは認めても、

    アンデスなど外部から移住した集団が、一時的に文化を持ち込んだだけではないか。

    熱帯雨林では長期間維持できず、すぐ衰退したのではないか。

    という説明が有力だった。





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    ↑これアマゾンツアーらしいけれど、やぱティカルの中とそんなに変わらんね!( ・Д・)(「アンディーナトラベル」のページ写真より転載)


    🌧️ 「熱帯雨林は文明を育てられない」という強力な理論

    20世紀のアマゾン考古学へ大きな影響を与えたのが、アメリカの考古学者ベティ・メガーズである。

    1954年、彼女は環境が文化発展の上限を規定するという論文を発表した。

    アマゾンの痩せた土壌、豪雨、低い農業生産力では、大人口、高度な階層制、国家のような複雑社会を長期的に支えられないと考えた。

    このモデルでは、アマゾンの先住民社会は小規模で移動性が高く、余剰生産を蓄積できない。

    マラジョ島に見られる高度な文化も、外部から来た人々が環境の制約によって次第に単純化したものと説明された。

    この見方は、20世紀後半の教科書や一般認識へ強く影響した。

    「アマゾンは巨大文明の空白地帯」

    というイメージには、森林だけでなく、学術理論による覆いもかかっていたのである。


    🔄 1970年代から、反論はすでに始まっていた

    一方で、すべての研究者が環境制約論へ従っていたわけではない。

    ドナルド・ラスラップは1970年の研究で、アマゾンの大河川沿いには人口の多い農耕社会が成立し、土器文化や言語集団が河川交通を通じて広がったと論じた。

    ウィリアム・デネヴァンやクラーク・エリクソンらも、盛土畑、堤道、運河、養魚施設などを調べ、先住民が環境へ受動的に適応しただけではなく、巨大な景観を人工的に改変したと主張した。

    つまり「古代アマゾンに複雑社会があった」という発想は、突然2026年に生まれたわけではない。

    数十年にわたる論争の片側に、すでに存在していたのである。


    👩‍🔬 1980~90年代、アンナ・ルーズベルトが流れを変えた

    大きな転換をもたらした研究者の一人が、アンナ・カーテニアス・ルーズベルトである。

    彼女はマラジョ島の盛土遺跡を調査し、大規模で階層化された社会がアマゾン内部で発展した可能性を論じた。

    1991年には『Moundbuilders of the Amazon』を刊行し、マラジョ社会を単純な外来文化の衰退形として扱う見方へ反論した。

    同じ時期、タペリーニャで約8000~7000年前の土器を報告し、1996年にはペドラ・ピンターダ洞窟の古い居住を『Science』で発表した。

    アマゾンの人間史は浅い。

    土器や複雑社会は外から来た。

    という前提が、次々に崩れていったのである。

    ただし彼女の解釈も、すぐ全員に受け入れられたわけではない。

    大規模遺跡は、異なる時期の小集落が同じ場所へ重なっただけではないか。

    人口推定が大きすぎるのではないか。

    環境への影響は局地的だったのではないか。

    1990年代から2000年代初頭にかけても、論争は激しく続いていた。


    🛣️ 2003年、森の中から道路網が現れた

    学界全体の空気を変えた大きな節目の一つが、2003年だった。

    マイケル・ヘッケンバーガーらは、ブラジルの上シングー地方で、巨大な環濠集落、広場、道路、橋、管理された森林景観を報告した。

    論文タイトルは、

    「1492年のアマゾン――原生林か、文化的な公園景観か?」

    である。

    発見されたのは、一カ所の「失われた都市」ではなかった。

    複数の大集落が道路で結ばれ、一定の規則に従って配置された地域ネットワークだった。

    研究には現地のクイクロの人々も共同研究者として参加し、口承史と考古資料が組み合わされた。

    さらに2008年、同チームは『Science』で、上シングー社会を「先コロンブス期の都市的社会」として報告した。

    集落群は独立した小政治体でありながら、共通の地域システムを形成していた。

    この頃から、「石造都市はないが、アマゾン独自の都市性があった」という議論が、国際的な考古学の中心へ入り始める。


    🛰️ 2009年、アクレの幾何学土塁が「複雑社会」と呼ばれた

    今回のアキリー研究へ直接つながる土塁は、アクレ州で1977年に最初の例が確認された。

    しかし密林の中では全体像が見えず、当初は孤立した構造物と考えられた。

    1970年代以降の牧場開発と森林伐採によって木が失われると、上空や衛星画像から円や四角の形が見えるようになった。

    皮肉にも、森林破壊が遺跡を発見させたのである。

    2000年代に航空写真と衛星画像の利用が進むと、土塁が一カ所や二カ所ではなく、広域に分布していることが明らかになった。

    2009年、マルッティ・パルシネン、デニース・シャーン、アルセウ・ランジらは、上プルス川流域の幾何学土塁を報告し、西部アマゾンに複雑社会が存在したと論じた。

    当時確認されていた土塁は約200カ所、推定人口は最低6万人ほどだった。

    それが今回、2万4000~3万カ所、125万~300万人へ拡大したのである。


    🛩️ 2022年以降、LiDARが「新しい常識」を作った

    2022年、ボリビアのモホス平原でLiDAR調査が行われた。

    カサラベ文化の巨大集落、段状基壇、高さ20メートルを超える土製ピラミッド、道路、運河、貯水池が、森林の下から一気に浮かび上がった。

    最大集落は315ヘクタールに達し、大小の集落が四段階の階層を形成していた。

    研究者はこれを、南米熱帯低地で初めて明瞭に確認された「低密度都市」と評価した。

    2024年には、エクアドル東部のウパノ川流域で、道路によって接続された多数の土壇と集落が報告された。

    人々は紀元前500年頃から土壇都市を築き、2000年近くにわたって地域を利用した。

    2026年のアキリー研究は、これらよりさらに広い面積を帯状に調査し、都市一カ所の詳細ではなく、文明圏全体の規模と人口へ踏み込んだ点が新しい。


    📚 では、学術的に認められたのはいつなのか

    ここまでの研究史を踏まえると、「古代アマゾン文明が認められた年」を一つだけ挙げることはできない。

    人間の古い居住や農耕は、別々の問題である。

    マラジョ島の大規模社会。

    上シングーの道路集落。

    モホス平原の土製都市。

    アクレの幾何学土塁。

    これらも別の文化、別の年代、別の地域である。

    アマゾン全体を統一した一つの帝国が発見されたわけではない。

    そのうえで、大まかな流れを示すなら、

    1980~90年代――複雑社会説が強力な対抗仮説となる。

    2003年――上シングー研究が『Science』に掲載され、大きな転換点になる。

    2008~2009年――「アマゾン都市性」「複雑社会」が国際的な主要研究課題として定着する。

    2010年代――テラ・プレタ、栽培植物、土塁分布研究が積み重なり、地域によって大人口と大規模景観改変があったことが広く認められる。

    2022年以降――LiDARによって都市構造が視覚的に示され、疑いにくい段階へ入る。

    という感じだろう。

    つまり学術的に真剣な研究対象となったのは、少なくとも1990年代。

    大きく流れが変わったのは2003~2009年頃。

    広い意味で定説化したのは2010年代以降、と考えるのが妥当である。


    🎓 20年前なら、引いてしまったのも分からなくはない

    ここで、わたしの学生時代の話へ戻る。

    およそ20年前、2006年頃。

    「学会で古代アマゾン文明を研究したい」

    と話す学生がいた。

    それを聞いて、

    「え、アマゾン文明? 大丈夫か、この人」

    と少し引いた。

    当時の空気を考えれば、その反応はかなり理解できる。

    2005年頃には、ヘッケンバーガーの上シングー研究も、ルーズベルトの研究も、すでに発表されていた。

    したがって古代アマゾンの複雑社会は、完全な疑似科学ではなかった。

    むしろ最先端の学術論争だった。

    しかし一般的な考古学教育では、南米文明といえば、

    インカ。

    ナスカ。

    モチェ。

    ティワナク。

    アンデス高地と太平洋岸。

    アマゾンは狩猟採集民や小規模園耕民の地域として扱われやすかった。

    しかも「失われたアマゾン文明」という言葉には、黄金郷エル・ドラド、失われた都市Z、謎の白人文明など、探検家の伝説や怪しい古代文明論がまとわり付いていた。

    研究計画の中身を聞かずに「古代アマゾン文明」とだけ言われたら、

    「学術考古学じゃなくて、失われた超文明の話じゃないだろうな?」

    と警戒しても不思議ではない!( ・Д・)


    🧐 あの学生は、早すぎただけだったのかもしれない

    今から振り返れば、その学生が何を考えていたかで評価は変わる。

    アマゾン全域を支配した石造帝国を探す。

    未知の超技術文明を証明する。

    そういう話なら、やはり引いてよかった可能性が高い。

    しかし、

    モホス平原の盛土農耕。

    マラジョ島の土壇社会。

    上シングーの道路集落。

    アクレの幾何学土塁。

    テラ・プレタと森林管理。

    こうしたテーマを研究したかったのなら、その学生は怪しかったのではなく、単に日本での一般的理解より10~20年ほど先を見ていたのかもしれない。

    おそらく当時いちばん難しかったのは、

    証拠がなかったことではなく、証拠が広大な森の中へ点在し、社会全体の形として見えなかったこと

    だった。

    一個の土器。

    一つの盛土。

    一本の道路。

    黒い土。

    それぞれは知られていた。

    だが、それらが巨大な地域システムを構成していると示す地図がなかった。

    LiDARは、その散らばった点を線で結び、初めて「星座」にしたのである。


    ⚠️ それでも「古代アマゾン文明」を一つにしてはいけない

    今回の発見を受けて、

    「アマゾン文明が発見された」

    と言いたくなる。

    だが、古代アマゾンには一つの文明だけがあったわけではない。

    アキリー。

    カサラベ。

    マラジョアラ。

    サンタレン。

    上シングー諸社会。

    ウパノ川流域の文化。

    それぞれ年代も、建築も、食料生産も、政治組織も異なる。

    マヤ文明という言葉の中にも、多数の都市国家と地域文化が含まれる。

    同じように「アマゾン文明」も、複数形で考える必要がある。

    また今回のアキリー文明という名称も、今後すべての研究者がそのまま採用するとは限らない。

    一つの統一国家だったのか。

    緩やかな儀礼ネットワークだったのか。

    同じ土塁様式を共有する複数文化だったのか。

    議論は始まったばかりである。


    🌲 「原生林ではなかった」は、森を破壊してよいという意味ではない

    古代人がアマゾンを改変していたと聞くと、

    「ではアマゾンは元々人工林だから、現代人が伐採しても問題ない」

    という議論に利用される危険がある。

    これは完全な飛躍である。

    古代の住民が、モザイク状に畑を開き、有用樹木を育て、低強度の火を使っていたことと、重機で森林を皆伐し、巨大牧場や単一作物畑へ変えることは同じではない。

    古代の人口規模が大きかったとしても、1500年間にわたって森と農地を組み合わせた管理体系を維持していた。

    現在の森林には、古代人が育てた有用植物だけでなく、その後1000年以上にわたる自然回復の歴史も含まれている。

    「手付かずではない」と「保護する価値がない」は、まったく別の話である。

    むしろ古代の景観管理を理解することは、現在のアマゾンを持続的に利用する方法を考える手掛かりになる。


    🔥 西暦850年頃、何が起きたのか

    アキリーの幾何学土塁は、西暦850年頃までに使われなくなったと推定されている。

    なぜ衰退したかは分からない。

    気候変動。

    政治的対立。

    人口移動。

    交易網の変化。

    食料生産体系の変化。

    感染症。

    複数の要因が考えられる。

    同じ頃、中央アメリカでは古典期マヤ南部低地の多くの都市が衰退し、アンデスではティワナク社会も後に大きな変化を迎える。

    しかし年代が近いからといって、共通原因があったとは限らない。

    アマゾン、マヤ、アンデスを一つの「9世紀世界崩壊」で結ぶには、まだ証拠が足りない。

    またアキリー土塁が放棄された後も、この地域から人間が消えたわけではない。

    紀元後1000~1200年以降には、円形の盛土集落や長大住居を持つ別の集落形式が現れている。

    文明が突然消滅したというより、社会の形が変わった可能性もある。


    🗺️ 今回見つかったのは、森の「空白」ではなかった

    432カ所の土塁。

    そのうち396カ所は、今まで地図になかった。

    しかし、古代人がそれを隠したわけではない。

    人々は見えるように造った。

    真っすぐな道路を伸ばし、巨大な円と四角を地上へ描いた。

    当時の人々にとっては、誰もが知る集会場だったはずである。

    それが見えなくなったのは、

    人口崩壊。

    森林の回復。

    土で造る建築文化。

    研究者の少なさ。

    移動の難しさ。

    そして「ここには大文明など存在しない」という先入観が重なったからだった。

    今回LiDARが発見したのは、誰にも知られていなかった謎の超文明ではない。

    先住民の口承。

    初期ヨーロッパ人の記録。

    黒い土。

    有用樹木。

    盛土。

    道路。

    土器。

    これまで別々に知られていた証拠が、想像以上の密度で同じ景観へ並んでいたことなのである。


    🌳 森は文明を消したのではなく、保存していた

    紀元前600年頃。

    人々は森を切り開き、巨大な溝を掘った。

    出た土を積み、円や四角を描いた。

    道を造った。

    農作物を育てた。

    ブラジルナッツやヤシを残した。

    ある季節になると、分散した集落から人々が集まった。

    踊った。

    歌った。

    食べた。

    競った。

    政治を話し合った。

    祖先や人間以外の存在と関係を結んだ。

    やがて社会の形は変わった。

    広場は使われなくなった。

    道路へ草が生えた。

    溝へ土が流れ込んだ。

    その上に木が育った。

    数百年後には、巨大土塁は森の一部になった。

    そして現代人は、その森を見て、

    「ここには昔から、ほとんど人が住んでいなかった」

    と考えた。

    だが、森は歴史の空白ではなかった。

    森そのものが、古代人の活動を取り込んだ巨大な遺跡だったのである。

    20年前なら、「古代アマゾン文明を研究したい」という言葉は、少し危うく聞こえたかもしれない。

    今でも「一つの失われた帝国」という意味なら危うい。

    けれども、複数の地域社会が、土、道路、農園、儀礼、森林管理によって作り上げた文明世界という意味なら、もはや無視できない。

    今回の432カ所は、その存在を初めて証明したのではない。

    数十年かけて積み重ねられてきた議論へ、

    「あなたたちが想像していたより、さらに一桁大きかったかもしれない」

    と答えたのである。

    古代アマゾン文明を隠していたのは、森だけではない。

    石造神殿がなければ文明ではないという、私たち自身の文明観だったのだ!( ・Д・)




    なにはともあれ……

    今更だけどあの時内心引いてごめんね!( ・Д・)








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    2025ねん 10がつ 17にち(きんよーび、晴れ)

    きんよーびだぜ!がんばろーっと!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




    今回の考古学・歴史ニュースは古代のパーティーナイト!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ



    📰はじめに


    ── 樹々のこだま、石の息づかい。文明が消えても、その“声”は地中から響く ――


    インカ帝国以前、アンデスの世界にはいくつもの文明があり、それぞれが神殿を建て、儀礼を行い、信仰と政治を融合させていました。最近の発掘によって、Tiwanaku(ティワナク)をはじめとする“失われた文明”の痕跡が新たに明らかになり、その神殿や遺構が社会の構造・宗教観・交易圏を再考させる鍵となっています。


    本記事では神殿発見の現場、生物・物質文化との接点、そしてなぜこの発見が「インカ以前」の歴史理解を塗り替えるのかをじっくり掘ります。






    🏛 発見の概要 — 神殿はいかにして見つかったのか

    最近、ボリビア高地ラパス周辺、ティワナク文明圏の南側、標高の高い丘陵地で「Palaspata」という名の古代神殿が発見されました。130マイル(約200km)南、ティワナク中心地から少し離れた場所で、これまで注目されてこなかった丘の上にその遺構はあったのです。


    発掘を主導したのはペン・ステート大学の José Capriles 教授らのチーム。神殿は数多くの長方形囲い(quadrangular enclosures)、中庭、石材配列などを備えており、儀礼目的・交易ハブとして機能した可能性が指摘されています。


    また、ペルー北部、ラ・オトラ・バンダ(La Otra Banda)という新しい現場でも、インカ以前の宗教的・儀礼的役割を求める神殿・劇場遺構が出土。紀元前2000〜3000年という古さで、建築や信仰形態における非常に初期の宗教空間として注目されています。






    🔍 神殿の構造と出土物 — 石と土器が語る儀式と暮らし

    この古代神殿、パラスパタ(Palaspata) の構造はおよそ 125メートル × 145メートル という広さを持ち、約15の長方形区画が中庭を囲む形で配置されています。日照・天体現象(春分・秋分など)との整合性を意図した配置も見られるそうです。


    儀礼用の「keru(祝杯)」用の杯の破片、交易物資(トウモロコシ製品など)の痕跡、さらには標高の違う地域から運ばれた材料が使われていることも指摘されています。


    ラ・オトラ・バンダの神殿遺構からは、粘土と泥で作られた壁、劇場的な石積み構造、装飾的な陶器断片などが見つかっており、その色彩や様式は後の文化に影響を与えた可能性があります。儀式空間・公共集会の機能を持っていたと考えられる証拠が強いです。




    arukemaya_y252



    📜 文化的帰属と年代 — Tiwanaku とは何か、ラ・オトラ・バンダとは何者か

    Palaspata はカーボン年代測定で西暦 630〜950年頃 の活動期とされ、ティワナク文明の最盛期および下降期にあたる時期に対応しています。ティワナク文明自体は紀元500〜1000年頃に南アンデスで台頭した文明で、都市・宗教・農業の複合体を持ち、その後インカ帝国にある程度影響を与えたと考えられています。


    一方、ラ・オトラ・バンダは紀元前2000〜3000年という非常に古い時代で、インカより遥か昔。建築様式や儀礼の痕跡は、その後のアンデス文化に連続性をもたらす“原型”という見方もされつつあります。






    🧠 なぜこの発見が歴史観を変えるか — 意義を多面的に考える

    ・失われた“神殿ネットワーク”の拡張

    これまでティワナク神殿の主要な遺跡は湖畔周辺に集中していると考えられていましたが、Palaspata の発見はその影響圏が想像以上に拡がっていたことを示します。交易・儀礼・信仰が遠隔地まで波及していた可能性。

    ・儀礼空間/宗教と政治の融合が早期から始まっていた証拠

    割礼・祝杯・天体と季節暦などを意識した空間設計は、この社会において宗教と統治が密接に絡んでいたことを示す。庶民・貴族・祭司のような階層構造の存在が推測される。

    ・物資流通と環境適応の複雑性

    例として、祭祀用飲食物(maize/chicha飲料)や、異なる植生帯からの材料輸送などの証拠は、環境・生態リスクを乗り越えて社会を維持していた組織力を物語る。

    ・“文明の発生”と“信仰の空間”の履歴をたどる鍵

    ラ・オトラ・バンダのような遺構は、信仰や宗教空間というものがいつごろどのように生まれ広まったかを考える上で欠かせない。さらに、このような発見は、アンデス以外の古代文明(メソポタミア、エジプト等)と比較することで、人類史の共通性・相違点を浮き彫りにする。






    🧮 研究が抱える課題とこれからの視点

    1. サイズの正確な計測と地形との関係分析 — 天体・季節暦との整合性を精密に測るための測量技術、衛星画像の活用など。

    2. 副葬品・祭具の材質分析 — 色素・金属・植物性素材などから交易圏や技術水平を明らかにする。

    3. 社会階層性の検証 — 居住区・儀礼区・墓制における差異の定量的比較。

    4. 気候・環境変動との関係 — ティワナク文明の衰退が気候変化とどうリンクしていたか、発掘物の植物・動物遺存体から環境史を読み解く。

    5. 地元・先住民との協働、文化遺産の保護 — 発見の共有と観光化・保存のバランスを取ることが重要。






    おわりに

    南米もけっこう建造物とか遺物の残りがいいなって感じるんですけれど、この地域っていつも神殿と儀礼パーティーの話題ばかりニュースになりますよね。

    中米もまだ植民地考古学時代の雰囲気がなくならないのか、巨大建造物ばかり狙った発掘調査が続いてますけれども、南米もそんな感じなのかな~って気がしますね。



    聞いた話によると、アメリカでマヤ地域の小規模遺跡の発掘調査のために資金申請したら却下されて、その理由がインパクトが足りないかららしい。

    大きい遺跡の大きい建造物を掘れば、そりゃあ『イイモノ』出ると思うけれど、そんなんじゃデータ偏ったままじゃん!って思うんですけどねぇ。



    まぁその分、私が小さいところ掘るので、その内私の報告書が爆売れするでしょう!ヾ(´ω`=´ω`)ノ

    時間はかかるが、目先の欲より未来を見た方が勝つのです、きっと!( ・Д・)




    何はともあれ、

    やぱ美味しいご飯いいな!( ・Д・)



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    2025ねん 9がつ 14にち(げつよーび、晴れ)

    豆腐常温で置いちゃって溶けた、においとか大丈夫だったからワサビ殺菌力を信じて食べたけど明日死ぬかも( ・Д・)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



    今回の考古学・歴史ニュースは🥂 華やかなる食卓 — モチェの小宮殿で見つかった『1400年前のごちそうの跡』!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


    今回の舞台は、ペルー北部、ラ・リベルタ州のモチェ(Moche)遺跡、Licapa II(リカパ II)です。

    ここで発掘された「1,400年前の小宮殿(エリート居室)」と、その空間から出てきた“普通じゃない食べものの残り”の話!




    🏛️ 発見の一行メモ — 何が見つかったのか?

    Licapa II で発掘されたのは、AD 600–700(約1,400年前)に遡ると見られる「小さな宮殿」的建物。この建物は複数室からなり、住居区と工房区が区画で分かれていて、彩色が残る壁面や高級陶器、輸入品、織物片、そして食物残滓(ルクマ等の果実や動物骨)が大量に出土しています。幾つかの動物骨は遠隔地(アマゾンのカプチンモンキー、アンデスのラクダ類、沿岸の鳥類)に由来すると見られ、地域を跨いだ「贈答・交易」の痕跡が示唆されています。






    🍽️ 「ごちそうの跡」が示すもの — 贅沢は何を意味したのか?

    出土した食物痕跡は「地元の魚とトウモロコシ」だけにとどまりません。ルクマ(lucuma)などの果実や、アマゾン産のカプチンモンキーの骨、アンデスラクダ科の骨、そして沿岸の鳥の残骸が混在している点が衝撃的です。これは単なる食物の多様性ではなく、“遠方からやってきた贈答品”や「政治的・宗教的な供物」としての意味合いを強く持つと考えられます。つまり、ここに住んだ人々は食材の選択権だけでなく、広域ネットワークを動かす経済力と儀礼的権威を持っていた――そう読むのが自然でしょう。




    arukemaya_y123

    ↑セビチェって書かれてるけど、私的にはカルパッチョに余計なものが加わっているように見える( ・Д・)・・・あ、写真が全然なかったのでペルー料理をば!( -д-)ノ(「味の素 食の文化センター」の記事内画像より転載)



    🔀 「小宮殿」ってどんな建物? — 空間の分節が語る支配のかたち

    発掘チーム(Chicama Archaeological Program)は、この建物を「小宮殿(small palace)」と呼んでいます。理由は明快で、住居系の空間と工房/職人系の空間が明確に分かれていたこと、外装に黄色などの彩色が施されていたこと、そして高級陶器や輸入品が日常的に使われていた痕跡があること。言い換えれば、ここは単なる富裕家庭の家ではなく、経済と政治をコントロールする“ローカルエリート”の拠点だった可能性が高い。発掘責任者は「この建物は地域の経済と政治を支配していた者の居住だった可能性がある」と語っています。






    🌎 なぜ「遠方のもの」がここに? — 交易・贈与・支配のネットワーク

    アマゾンのサルやアンデスのラクダ類が“食卓にのぼる”という現象は、単純な食料調達では説明し切れません。むしろ、遠隔地からの贈答、トリビュート(貢物)、あるいは特別な儀式用の供物として持ち込まれた可能性が高い。Moche時代の墓葬や壁画資料でも、特権階層が遠方の珍品を使って儀礼を行う描写が知られており、ここでも同様の“象徴的消費”が実践されていたと考えるのが筋です。こうした物質は政治的資本として機能し、同盟関係や支配関係を維持・表象するために使われただろう、というのが現在の考え方です。






    🔬 科学が教えてくれること — どのように判定したのか?

    発掘チームは以下の方法で「豪華食材」の由来や意味を検証しています:

    • 動物骨・歯の形態学的同定(カプチン類、ラクダ科、鳥類の種同定)。

    • 植物遺存体(果実)や種子の顕微鏡同定(ルクマの種子断片等)。

    • 放射性炭素年代測定(建物層位と被覆アドベの年代で AD 600–700 の確度)。
      これらが合わさることで、単なる「多様食材」ではなく「意図的な贈与・儀礼利用」という解釈に収束していきます。





    🧾 なぜ“意図的に埋められた”のか — 覆土の意味と保存状態

    発掘チームは、この宅地が放棄された際にわざわざアドベ(圧縮日干しレンガ)で1メートル以上被覆され、結果として内部が良好に保存された点を注目しています。こうした「わざと覆う」行為は、最良の保存のためというより「重要な空間を記憶する・保護する」儀礼的行為だった可能性があり、地域社会がこの建物に特別な敬意を払ったことを示しています。被覆が結果的に“豪華な副産物”を私たちに残した、という見方もできます。




    arukemaya_y124



    🧭 あるけまや的まとめ

    豪華な食材が並んだ小宮殿のテーブルを思い浮かべてみてください。そこには単なる「うまい飯」ではなく、ネットワークと権力が折り重なった物語があります。アマゾンの猿、アンデスの家畜、海の鳥――異なる生態系の生き物が一つの食卓に集まるとき、そこには交換と服従、婚姻と同盟、儀礼と見せ物が混ざり合っていた。考古学はその混合物の一片を掘り出したに過ぎませんが、その一片から見える世界は非常に生々しく、そして魅力的です。


    発掘はまだ続きます。新しい分析結果(安定同位体や古環境データ、DNA解析)が出れば、この「ごちそう」がどれほど“日常”だったのか、それとも“ショー”だったのかがより明瞭になるでしょう。




    ・・・ってことで、格差研究してて、、、

    やっぱ食べ物の格差が一番興味あるんだけど、なんでだろうw

    考古学的には一番分かりにくいのに、、、

    やっぱ日本人は食べ物大好きだよね!ヽ(・ε・)人(・ε・)ノ ナカマ



    何はともあれ、

    やぱ美味しいご飯はいいな!( ・Д・)



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    2025ねん 7がつ 12にち(どよーび、晴れ)

    一昨日の雷雨でちょっと涼しくなったけど今日はもう暑い!( ・Д・)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    arukemaya_y023


    今回の考古学・歴史ニュースは「なんかまた新しい都市遺跡が見つかったよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


    今回の舞台はペルー北部のぺニコです。

    発見自体は2007年ですが、基本的な調査を終えて一般公開に至ったようです。




    🌄 マチュピチュに次ぐ衝撃?3500年前の“ペニコ”が姿を現す

    「マチュピチュに次ぐ大発見」と話題を呼んだペルー北部バランカ州のペニコ遺跡。2025年7月3日、8年にわたる発掘調査の成果としてついに一般公開へ――標高約600mに位置し、約3,500年前(紀元前1800~1500年)に築かれたこの古代都市は、南太平洋岸、アンデス、アマゾン盆地をつなぐ交易拠点だったと考えられています。



    🏛 都会のかたち、円形広場と神殿/住宅群の共存

    ドローン撮影の映像では、丘陵斜面に広がる半円形/円形の中央広場を中心に、石と泥で築かれた建物群が輪を描くさまが映し出されています。調査で18の構造物が確認され、その中には拡声用貝殻ラッパ(プトゥトゥ)を模した儀式用ホールも含まれていたそうです




    🎨 出土品に息づく文化交流:塑像・ビーズ・貝殻ネックレス

    ピラミッド型の石造りではなくとも、ペニコは祭礼と暮らしが息づく“生活都市”。粘土製の人形や動物像、貝殻や骨、ビーズで作られたネックレスなどが出土。アマゾン系模様のアートも確認されており、当時の交易地域の広さと文化的なつながりが浮かび上がります。


    こうした一般公開系の記事は遺跡の全景や部分的なスナップ写真ばかりで遺物の写真がないのが考古学者としては残念ですね。まぁ恐らくは未だ分析中なのか、博物館展示を控えているのか、あるいは記者がわざわざ公開済みであっても博物館まで足を運ぶのが面倒なのか、の3択あたりでしょうか?( ・Д・)









    🌱 キャラル文明とのつながりと歴史的意義

    ペニコ遺跡は、約5000年前に栄えたキャラル文明から27km東に位置し、その衰退(気候変動の影響とされる)後、難民や移民たちが築いた“後継都市”の可能性が強いそうです 。ここでは鉄鉱石・ヘマタイトの取引も想定され、赤い顔料を使った宗教的な役割もあったともいわれています





    👐 いま門戸開かれる3500年前の都市

    遺跡はついに一般公開が始まり、ペルー文化省の主導でデジタル復元や案内ツアーを実施中。太陽祭(レイミ)と合わせた公開初日は文化イベントも行われ、地域振興も視野に入れた整備が進んでいます。




    arukemaya_y024
    ↑なんかスターウォーズにこんな宇宙船出てきそう!( ・Д・)(「AFP BB news」の記事内画像より転載)




    おわりに

    うわあ…ドローン越しに見えるあの丸い広場と古代都市の佇まい、まるで太古の集いの場に時間旅行したみたいですね。粘土像にビーズにプトゥトゥ…あれだけ多様な文化が交わっていたんだって感動します。


    “マチュピチュの次”って呼ばれるからには、本当に、古代と現代を繋げるタイムカプセルのよう。気候変動で失われたキャラル文明の“あと”を紡ぎ、アマゾンから海までの“線”を指すこの都市は、まさに歴史のリンクポイント。人が人と出会って交換して、都市を築いて…そんな人間のドラマが感じられて、なんだか胸が熱くなっちゃいます。


    夏のペルーは、古代の息づかいと今をつなぐ旅になるかもしれませんね。気になるところや次に知りたいテーマがあれば、いつでも教えてください〜🌿



    何はともあれ、

    やぱ出るもん良くても砂漠はやだな!( ・Д・)



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    2021ねん 4がつ 22にち(もくよーび、晴れ)

    今月はけっこう頑張ってます(・∀・)つ

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



    今回の考古学・歴史ニュースはオウムやインコのミイラが見つかったよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


    さて、今回の舞台は南米、チリ、アタカマ砂漠です。

    上に挙げた地図で見と取れるようにチリの北部のほとんどを広大な砂漠が占めています。

    これがアタカマ砂漠で、「世界で最も乾燥した砂漠」としても知られています。

    一方で星がとても綺麗に見えるため、観測拠点として多くの天文学者が訪れる地域でもあります。


    arukemaya1505




    arukemaya1503


    上に挙げた写真の中に花が咲いているものがありましたが、このアタカマ砂漠にも他の砂漠と同様にオアシスがあります。

    どこの砂漠でもそうですが、オアシスに人が集まり交易の要所として機能します。

    今回の記事はそうしたチリの古代文明が利用したオアシス遺跡での発見のお話です(。・ω・)ノ゙




    さて、当然ですがアタカマ砂漠にはインコやオウムは生息していません。

    コンゴウインコなど色鮮やかな鳥たちは熱帯のジャングルに住んでるイメージです。

    今回のケースでは直線距離でおよそ500kmも離れたアマゾン地方に生息しているオウムやインコを、アンデス山脈を越えて遥々このアタカマ砂漠まで連れてきたことが分かりました。

    時期はCE1100-1450頃で、オウムやインコはオアシス遺跡の有力者の権力の象徴として機能しました。

    遠隔地由来の簡単に手に入らないオウムやインコはペットとして飼育された他、権威を示す頭飾りの材料としてその綺麗な羽が用いられました。

    この鳥のミイラの調査に当たったのはペンシルベニア州立大学の研究チームですが、オウムやインコが死後にミイラにされていることを明らかにしました。

    また口を大きく開けていたり、飛んでいるかのように翼を広げた状態のミイラが見つかっています。

    そのことから研究チームは、オウムが人の言葉を真似る能力に関係した儀礼の一部だった可能性があると解釈しています。



    ・・・このアタカマ砂漠のオアシス遺跡における文化(11~14世紀)がどのようなものだったのか知らないので何とも言えませんが、、、

    素人質問で大変恐縮ではございますが、、、


    そんな儀礼あるんですかね?( ・Д・)


    剥製の起源って古代エジプトとかで2000BCEとかだから古いですけど、そちらもミイラです。

    剥製標本の技術が高くなるのは日本だと明治期です。

    江戸時代でもミイラ状にする技術はありました。

    なのでアタカマ砂漠におけるこの時期のミイラ作りって、乾燥気候と夜の寒さを利用した所謂フリーズドライ(冷凍乾燥)法で剥製標本を作っているような感覚なのじゃないかなと思いますけどね。

    希少なオウムやインコだからこそ、死後も剥製として飾っておくことに価値があったので、まるで生きているかのように口を大きく開けた状態にしたり、翼を広げた状態にしたのではないでしょうか?


    ↓動物のミイラ関係の記事を挙げてみた(*・ω・)ノ




    ↑最後のだけ動物と関係ない!みんな好きかと思って・・・( ・Д・)





    おわりに

    上に挙げた写真はコンゴウインコの一種です。

    とても綺麗ですよね。

    確かにこれで羽飾り作ったら映えますねΣ(・ω・ノ)ノ

    古代マヤ文明でもコンゴウインコやケツァル鳥の羽が奢侈品あるいは威信財として重要視され、頭飾りなどの装飾品を製作する上で重宝されていました。

    元記事に「定期的に羽を毟り取っていた」と書かれていて、一瞬可哀想だなと思ってしまいましたが、、、

    この可哀想という感覚は倫理的に間違っていないかもしれませんが、声を大にして言うには難し過ぎる問題だと思います。

    現代社会でも有力者・お金持ちは高価な物や所謂贅沢品を消費し誇示することが一種のステータスとして機能しています。

    そう、モノは変わったかもしれないけど、本質的に私たち人類社会の在り方は遥か昔から全然変わっていないのです( -д-)ノ

    ブランド物の代表格はバッグとか財布とかでその多くは皮革製ですし、原材料を得るために動物を殺してるわけですからね。


    そう、我々は何も変わってないよ!( ・Д・)



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    2021ねん 2がつ 11にち(もくよーび、晴れ)

    さて、1日2本書かなきゃ遅れを取り戻せないね(´・ω・`)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



    今回の考古学・歴史ニュースはもっぱらサメ獲って生きてた先住民文化がブラジルに存在したよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


    さて、今回の舞台はブラジル、リオ・ド・メイオ遺跡です。

    この遺跡はブラジルの南海沖にあるサンタ・カタリーナ島にある遺跡です。

    リオ・ド・メイオ遺跡では大きな「貝塚」が見られます。

    日本でもよく見られるあの「貝塚」です。

    日本の貝塚からは、様々な種類の魚骨、ウニトゲ、フジツボ、カキなどの貝殻、イルカやオットセイの海獣類の骨がよく出ます。

    貝塚やその付近からは人骨も出ます。

    ちなみに日本近代考古学の父であるエドワード・モースが大森貝塚を調査した結果、「古代日本人は人喰い人種だった」と述べた有名なエピソードがあります。

    貝塚は多量の貝類などがあるのでアルカリ性の小山になっており、日本の酸性土壌ではなくなってしまうような人骨も残りやすいというのが理由のひとつです。

    また単純に「貝塚=ゴミ捨て場」ではなく、貝塚が儀礼の場であったというのが大きな理由になります。

    本当に「食人」があった場合、骨にその痕跡が残るものなのです( -д-)ノ

    ちなみに今回紹介するブラジルの海岸に見られる貝塚はサンバキと呼ばれており、大きなものでは7階建てのビルの高さがあるとか(゚Д゚≡゚д゚)エッ!?

    このサイズからしてサンバキは明らかに儀礼的な目的で積まれた遺構のようですね。

    さて、そんな特徴・性格を有する貝塚ですが、リオ・ド・メイオ遺跡の貝塚では変わった物が出土するのです。




    それは「サメの歯」です(。・ω・)ノ゙

    上に挙げた写真は標本なので顎付きの状態です。

    話はややそれますが、古代のメガロドンは現代でもとても人気でパニック映画にもよく登場しますが、メガロドンの体長は歯の化石からおおよその推定をしたものであることもよく知られています。

    これはメガロドンやサメが「軟骨魚類」なのでほとんど歯しか残らないからなのです。

    なのでこのリオ・ド・メイオ遺跡の貝塚でも歯ばかり出てきます。

    本当にたくさん出てくるので、個体数を推定してみたところ、どうやらこのリオ・ド・メイオ遺跡に住んでいた人々はサメの肉を主に食べていて、それは全体の食事量の半分以上を占めていた可能性があると考えられています。

    分析では食べていた肉の54~75%がサメであったと推定しています。

    彼らが獲っていたサメの種類も豊富で、ハンマーヘッド、タイガー、ホオジロザメなど、体長10フィート以上、体重1000ポンド以上のサメを含む15種のサメ、そして小型のサメを47種を同定できました。


    arukemaya1391


    そしてリオ・ド・メイオ遺跡の人々は上に挙げた写真がのようサメの歯を加工して道具として使っていました。

    ちなみにこの写真は展開図状になっているので、左右は同一の資料であり、左が表面、右が裏面になっています。

    このサメの歯の下部には2つの穿孔痕があります。

    この穴に紐を通して木製のシャフトに縛り付けて固定した上で、切削工具として使用したと推定されています。

    こうしてサメを獲り、その歯を加工して利用するという風習は約8000年前から1500年代まで続いていました。




    おわりに ー武器としてのサメの歯ー

    実験考古学では黒曜石製の石槍や細石刃を用いた槍を作成して、海獣などの動物に対して実際に使用してみるというものがあります。

    今回の発見を受けて、実験考古学の一環としてサメの歯を実際に鏃として使用し、ブタに向けて弓をを射てみたそうです。

    するとサメの歯の矢はブタの厚い肉に十分に突き刺さり、鏃である歯が破損することはありませんでした。

    肋骨などの骨に当たった際にのみ破損しました。

    ちなみに黒曜石の石槍だと肉にしっかり刺さりますが当たった衝撃で先端が折れてしまいます。

    なので再使用するために再度加工が必要なのです。

    ちなみにギザギザなサメの歯は、魚の鱗取りにも有用だっただけではなく、のこぎりとして木材を切断するためにも有用でした。

    サメの歯、万能!( ・Д・)



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    2019ねん 4がつ 3にち(すいよーび、晴れ)

    「考古学者は女性にとって最良の夫である。

    妻が年を取れば取るほど妻に関心を持つようになるからだ。」

    by アガサ・クリスティ

    ……なんというプレッシャーだ!( ・Д・)


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    arukemaya_0171
    ↑発見された遺跡周辺のチチカカ湖の様子と地元の方々(「The Guardian」の記事内画像より転載;credit: Teddy Seguin )


    今回の考古学・歴史ニュースは『南米のチチカカ湖の湖底から、1000年前の遠隔地産の黄金製品や宝石を伴う祭祀遺跡が見つかったよ!』ってことです(*・ω・)ノ

    今回の発見の地は南米のボリビアとペルーにまたがって存在するチチカカ湖です。

    今から1000年前、このチチカカ湖の一帯はティワナク文化の領域でした。

    ちなみにティワナク文化はヒストリー・チャンネルの「古代の宇宙人」シリーズでよく出てきます。

    中心地であるティワナク遺跡は、この動画でよく取り上げられる「太陽の門」や「半地下式方形広場」、精巧な石彫で有名な「プマ・プンク」で有名です。

    ティワナク文化はチチカカ湖流域においてBCE100~200年に始まり、その最盛期はCE800~1100年と推定されています。

    今回発見されたのは1000年前の遺物ですから、ティワナク文化の最盛期の頃のものですね


     
    (↑私が眠る時によくお世話になっている動画です。回し者ではございません( -д-)ノ)




    さて、今回はチチカカ湖の真ん中辺り、イスラ・デ・ソル(「太陽の島」)の北西方向にある岩礁から、儀式の供物として屠殺された動物の遺体や黄金製品を回収したことから、同地点が祭祀遺跡であると推測されています。

    古代アンデス文明においてこのような儀礼的遺物の水中からの発見は前例がないそうで、特別な遺跡であることが分かります。

    発見地点はチチカカ湖の「太陽の島」の北西端から約10kmの平面的位置における水面下5m以上の深さの場所です。

    発見の経緯として最初はアマチュアダイバーが岩礁の広がるこの地点でいくつかの古代の遺物を見つけました。

    その後、報告を受けた海洋考古学者はこの岩礁の一帯を探索し、ラピスラズリ製のピューマの置物やその他の動物を模した石製のミニチュア、土製品であるピューマの香炉、プーマとコンドルのシルエットのマークを有するL字型の造形物が見つかりました。

    これらの遺物は全て奢侈性の非常に高い品々であり、儀礼を執行したティワナク文化の人々は、古代アンデス帝国で入手できた中でも最も貴重なこれらの品々を儀礼行為として湖底に沈めたことになります。

    出土した黄金製品や磨かれた宝石の他に、およそ2,000km離れたエクアドルの海岸沖の暖かい海で獲れるとげのある貝殻が見つかりました。

    こういった長距離交易でのみ得られる希少品も彼らは儀礼に用いたわけです。


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    ↑海底から見つかった遺物群(「The Guardian」の記事内画像より転載;credit: Teddy Seguin )


    これらの貴重な品々と共に見つかったのは、焼けた魚とラマの骨の残骸です。

    焼けた魚の残骸は儀礼の際に食べられたものであると考えられています。

    遺跡に残る炭化物と骨片を基にした炭素年代測定の結果からは、CE8世紀~10世紀を通してこのような儀礼が行われていた可能性を示しています。

    一方でラマの骨は、儀礼に際して生贄に捧げられたものであると推定されています。


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    ↑出土した黄金製品(「The Guardian」の記事内画像より転載;credit: C.Delaere/ULB )


    この発見地点の傍に位置する「太陽の島」では10基以上のティワナク文化に関する遺構が発見されています。

    その内の1つは、今回の発見地点である北西海岸近くに位置するもので、当該地域で最強の肉食動物であるピューマを象徴した儀式用複合施設です。

    ティワナク文化の人々にとって儀式と宗教は古代国家おけるで非常に重要な関心ごとであったと考えられます。

    恐らくはティワナク文化の貴族層の人物が、遠隔地の希少品や黄金製品、宝石で美しく飾られた若いラマをこの岩礁で儀礼的に屠殺するといった、国家の繁栄を願い続けた古代の儀礼行為の痕跡が今回発見された遺跡なのでしょう。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    条件にもよるようだけれども、水中でもこれほど動物骨や炭化物が保存されるとは……

    やはり保存状態のいい遺物がたくさん出るのは嬉しいことです。

    それにしても今回の発見は大発見です!

    今回の儀礼に関する多量の遺物だけでも、博物館の特別展を開けそうですね!(。・ω・)ノ゙

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