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あるけまや -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

タグ:博物館

2023ねん 2がつ 19にち(にちよーび、晴れ)

今日はもう春!(・∀・)つ

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↑マヤとテオティワカンって遠い、1000km離れてる!( ・Д・)(「Google Map」の画像を一部加工)


今回の考古学・歴史ニュースは「マヤとテオティワカンってどんな関係?( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台はグアテマラ、北部ペテン県にあるティカルと、前回説明したメキシコ、メキシコシティからやや北に位置するテオティワカンです。

両方ともメソアメリカ文化領域の遺跡ですが、ティカルはマヤ文明、テオティワカンはテオティワカン文明に帰属します。

上に挙げた地図で分かるように両者は直線距離でも約1000kmも離れています。




このシリーズの第1回「マヤの話」の中でも書いたように、旧大陸文明は独自に発展したというイメージが付いて回りますが、実際には様々な文明が興亡し相互に関係し合っていました。

マヤとテオティワカンもそうした相互関係にあった事例のひとつなのです。



↓以前の記事はこちらヾ(´ω`=´ω`)ノ


↑以前の記事はこちら(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!



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↑テオティワカンのタルー・タブレロ様式建造物(あるけまや管理人撮影)


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↑テオティワカンの三足円筒土器(Griffith 2018の発表画像より転載)


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マヤ文明に与えた「テオティワカンの影響」

前回の「テオティワカンの話」のところでも少し書きましたが、、、

テオティワカンは古代メキシコ文化のひとつですから土器や建築などの物質文化要素に独自の特徴があるわけです。

そうしたテオティワカン的特徴をもつ遺物・遺構、つまりテオティワカン様式遺物・遺構が異文化であるマヤ地域において広く見られるようになる(出土する)現象を「テオティワカンの影響」と呼んでいます。




この「テオティワカンの影響」の指標となる遺物・遺構の代表例は上に挙げた写真のものになります。

つまりタルー・タブレロ様式建造物、三足円筒土器、蓋付き高台付き碗、シアタータイプ土器です。

(『蓋付き高台付き碗』って碗に色々付いてるなっていう長い名前なんですけど「おわりに」で少し触れますね)

少々細かいですが他にも、メキシコ的なモチーフ、三足形態と浅スタンプ文、土器器面への単位文配置、焼成後漆喰画技法、エメラルドグリーン色塗料などけっこうたくさんのテオティワカン要素がマヤ地域で見られるようになります。



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テオティワカン-マヤ VS 純粋なマヤ?

では何故1000kmも離れた異文化であるテオティワカンの要素がマヤ地域に現れるのでしょうか?

実は、マヤ地域は当時最大の都市であったテオティワカンに侵略を受けて支配されてしまった、という説があります。

マヤ地域がテオティワカンによって支配された/されていないという両説は常にあって、振り子のようにどちらかの説が有力な時期が行き来するような状況にあります。

現在はどちらかというと支配されていた説が強いと思っています。

かく言う私も支配されていた説を指示しています(一部のアッパークラスの入れ替えのみであった説を唱えています)。




この「テオティワカンの影響」について語る際に絶対に外せないのがティカルです。

マヤ地域の一大中心地であったティカルがテオティワカンの支配を受けることで、その後『影響』がマヤ地域に広がっていくことになるのです。




ここで碑文学成果としてサイモン・マーティンらによる著名な研究を紹介することにします。

伝統的な学説として、マヤ地域は個別の都市国家が林立したとする説と、有力国家を中心とする広域国家であったとする説があります。

一方で彼らの説ではマヤ地域は王の神聖性に基づく緩い統合状態であった、つまり従来の2説の中間をいく説明をしています。




マヤ地域は元々都市国家が林立する状態でした。

378年にテオティワカンの軍隊が遠征してきてティカルを征服し当時の王を殺害、メキシコ系の王を擁立して新王朝を打ち立てます。

その後、ティカルを始点として周辺の首長レベル集団あるいは初期国家レベル集団に遠征し、各地に新王を擁立していきます。

結果として新たなメキシコ系ティカル王を頂点とした王朝間の連携、ティカルを宗主国とする都市国家同盟のような連携が誕生します。

他方で別の一大都市国家であったカラクムルも都市国家同盟のような周辺集団との連携を図り、ティカル同盟との長きにわたる対立・武力抗争を行っていくことになります。



マヤ文明史とテオティワカンの関係は簡単に述べるとこんな感じです。

私見ではありますが、ティカル同盟の方はテオティワカンの力を背景にしたテオティワカン-マヤのような血統集団で、カラクムル同盟の方は純粋なマヤ系集団だったのかなと考えています。

この辺は今やってる研究のずっと後に向かい合うものなので、証明はライフワークになりそうです( -д-)ノ




ちなみに上に挙げた土器と下に挙げた土器は、マヤ地域で出土する三足円筒土器の典型例です。

先に挙げたテオティワカンの三足円筒土器とはなんだか違いますよね?

マヤ地域で見られるものの方が縦長で直線的で、蓋が付いてて、蓋の取っ手部に人物などを模した造形があります。




これはテオティワカン産とマヤ産の土器の簡単な見分け方なので、是非博物館展示の際に着目してみてください。

ちなみにこうした『マヤ的なテオティワカン様式』の遺物・遺構がティカル周辺域には多いこと、もっと南の南部高地域などでは様相が異なり『Theテオティワカン!』の遺物・遺構が多いことを根拠に、私はマヤ地域の中でもティカル及び周辺域では土器工人を伴うようなテオティワカン系人口の大量流入はなく、王を含む支配層の一部が入れ替わったのみであると考えています。






おわりに 『蓋付き高台付き碗』って?

さて、最後に『蓋付き高台付き碗』という長ったらしい名前の土器について簡単に説明しますね。

実はこれ私が付けた名前です。

あくまで仮なんですけどね・・・




まずは高台についてなんですけど、これは現代のお茶碗の底に付いている環状の少し高さを出すような部位の名称です。

この高台は元々マヤ地域には見られないものだったのです。

テオティワカンの方にはあって、それがマヤ地域にもたらされたと考えられています。




ちなみにオリジナルであるテオティワカンの方の高台は高く、マヤ地域のものは低い傾向にあります。

それでおおよその見分けが付くので『古代メキシコ展』で両者の土器を見た際には着目してみてください。



あと、「碗」って表現してますが、これも実は微妙なのです。

マヤ地域の研究での一般的な形式分類で「浅皿(plate)」「深皿(dish)」「碗(bowl)」というのがあります。

口径と器高の比率で機械的に分けているものです。

テオティワカンの高台付き”土器”は深皿形のものですが、マヤ地域の高台付き”土器”は深皿形が多数派としつつ碗形もあるのです。




それなら「深皿」と呼べよ!って思うかもしれませんが、、、

この時期のマヤの”高台が付きそうな形状の土器”は鍔付き(flange;また『付き』が出てきた)である事例が含まれ、時期の変遷を見る上でこの鍔の位置が重要なのです。

ちなみに位置はどんどん下がっていきます。

鍔の位置に着目すると「テオティワカンの影響」の時期は碗が主流で、次時期に深皿形に変わっていきます。

なのでこの時期は『碗の方が都合がいい』のです( -д-)ノ




さあ最後に「蓋付き」ですが、、、

実は蓋付き&高台付き碗はマヤ地域でしか出土しません。

テオティワカンの高台付き碗(本当は深皿形で正式な名称は薄手オレンジ色土器)は蓋を伴わないのです。




つまりマヤの人々としては土器に『土製の蓋があること』が『異文化っぽい / 異国情緒感じる』ということだったのか、オリジナルを知らないのか、分かりませんが、、、

古典期前期後半(CE350-550)の時期はマヤ人は蓋付けたがりだったのです( -д-)ノ




こういった状況があって、長ったらしい例のあの名前、「蓋付き高台付き碗」という名前を当てていました。

この土器群には先ほど出てきた「鍔付き」のものとそうでないものがあるということになります。




部位に着目すると地域性や時期の指標になるので面白いですし、展示資料を見てて見方も変わると思うので是非試してみてくださいね!



そう言えば展示会も楽しみだけど、、、

インディジョーンズ新作6月末公開!( ・Д・)



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2023ねん 2がつ 14にち(かよーび、晴れ)

お酒絶ってもたくさん食べたら太る!( ・Д・)

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↑月のピラミッド、右端にタルー・タブレロ建築が見える、、、ように撮った!( ・Д・)(あるけまや管理人撮影)


今回の考古学・歴史ニュースはテオティワカンって何?( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ



前回はマヤ文明史概観と言っておきながら、ほんとにさらっと流して、ガチ勢向けの部分的な細かい説明をしてしまいました( -д-)ノ

まぁというのも、次回の「マヤとテオティワカンの関係」について書く際に、どうしてもマヤ文明史を見直す必要があるからなのです。



と言い訳をしつつ、今回はテオティワカンの話!

でもまずは「クイクルコ」から始めましょうヾ(´ω`=´ω`)ノ








クイクルコって何?

さて、まずは「クイクルコ」です。

これは遺跡名です。

当サイトに初めて来訪される方もいるかと思い、分かりやすい図を上に用意しました。




一般の方と話してるとメキシコの位置が分からない人が多いので、まぁこれならわかるでしょう!

北米と南米の間の細いとこら辺で、アメリカ合衆国の南にあるやつです!

上の2枚の図にあるポイントの位置は両方ともクイクルコの位置です。




2枚目の地図を見て分かるように、クイクルコ遺跡はメキシコシティの中にあります。

南の外れですし、さして見栄えも良くないので(アステカの首都テノチティトランやテオティワカン遺跡に比べたらそりゃあそう(/TДT)/)、観光客はほとんどいません。

古代遺跡を観光名所として、外貨獲得源としてメキシコ政府は多額のお金を投資しているのですが、そんな中にありながらクイクルコ遺跡は全然力が入っておらず、博物館内の説明文も印刷された「紙」の状況でした(2014年時;下の写真参照)。




まぁそれはさておき、遺跡の位置関係を整理すると、メキシコシティの南部にクイクルコ遺跡があって、メキシコシティの北東部にテオティワカン遺跡があって、更に北にいくとパチューカ山地があります。

パチューカについては後からテオティワカンの話の際に出てくるので気に留めておいてくださいな(*・ω・)ノ




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↑手作り感いっぱいの普通紙に印刷された説明文(あるけまや管理人撮影)




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↑クイクルコ遺跡にある円形ピラミッド(あるけまや管理人撮影)



なんでこんな撮り方したのか大いに謎ですが、ピラミッドの基壇が円形であることが分かるかと思います( ・Д・)

(たぶん他の観光客が来る前に慌てて撮ったからパノラマじゃないのかと思われ……)


こうした円形基壇のピラミッドは古代メキシコ文化にはよく見られます。

後古典期(CE1000-1500)に特によくあるのです。




さて、なんでクイクルコ遺跡の話をしているかというとテオティワカンの前身という説があるからなのです。

クイクルコ遺跡は先古典期遺跡で、BCE800年頃に居住が開始されます。

BCE150-CE1頃に最盛期を迎え、人口は2万人と推定されており、当時のテオティワカンよりも大きな重要都市だったのです。




しかしながらCE70年頃にポポカテペトル山、CE150年頃にチチナウツィン山、CE275年頃にシトレ火山が噴火し、クイクルコは連続で被害を受けました。

特に最後のシトレ火山の噴火の際には5~8mの溶岩がクイクルコに大量に流れ込んだために放棄されてしまったのです。



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↑クイクルコに流れ込んだ溶岩の痕跡(あるけまや管理人撮影)



上に挙げた写真のようにクイクルコに流れ込んだ大量の溶岩は都市中心部(遺跡中心部)を完全に覆い尽くしています。

壁に見えるものが溶岩が固まったもので、手前の歩道になっている面が発掘によって姿を現した当時の文化面(生活面)です。




この先古典期に一大都市であったクイクルコが度重なる噴火によって衰退したために、噴火の影響がより少ない立地にあったテオティワカンなどの別の遺跡が急成長しました。

そのためクイクルコの放棄に伴って大人口がテオティワカンに移動したのではないかという説があるのです。



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↑テオティワカン中心部の測量図(Morton et al. 2012: Figure 1より転載)



テオティワカンって何?


テオティワカンはBCE200年頃から居住が始まっており、CE1年頃に都市として成立しました。

その後、上図の赤い部分の真ん中にある上下に走る直線部、「死者の大通り」が建設され、周辺部も整備されていきます。

最も人口が増えたのはクイクルコがシトレ火山の噴火で衰退した後のCE300年以降と考えられています。




一気に人口が増加したので、上図のような非常に計画的な都市建設が一気に行われたのかなとも思えます。

一方で気になるのは、クイクルコは円形基壇の神殿を造っていたわけですが、テオティワカンの建造物は上図のプランを見ての通り、方形基壇です。

大量の人口移動はあったものの、主導権はあくまで元からテオティワカンにいた集団だったということなのでしょうか?


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↑タルー・タブレロ建築の構造(今泉 2019: 図3-4-1より転載)



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↑実際のタルー・タブレロ構造(あるけまや管理人撮影)


テオティワカンの最盛期はCE200-550年頃であり、人口は10~20万人と推定されています。

この最盛期にはメソアメリカ最大の都市として広く周辺地域へ強い影響を与えており、それにはマヤ地域も含まれるのです。

他文化地域にテオティワカンに由来する遺物や図像モチーフ等が現れる現象を「テオティワカンの影響」と呼んでいます。




「テオティワカンの影響」によりマヤ地域で見られる特殊なテオティワカン様式の遺物・遺構には、三足円筒土器、蓋付き高台付き碗、シアタータイプ土器(香炉)を代表として、他に石碑や祭壇、土器、壁画などの様々な図像モチーフにテオティワカン様式の図像が出現します。

建造物装飾としてはタルー・タブレロ様式が有名です。

これは上の図・写真に挙げたようにタルー(斜壁)とタブレロ(方形壁)を交互に組み合わせた基壇装飾です。

「テオティワカンの影響」に関しては長くなるので次回の「マヤとテオティワカンの関係」の際に触れたいと思います。



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↑ケツァルコアトルの神殿から見た太陽・月のピラミッド(あるけまや管理人撮影)


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↑ケツァルコアトルの神殿の基壇装飾に見られるケツァルコアトルとトラロック(あるけまや管理人撮影)


メソアメリカにおいて広域に影響を及ぼした大国テオティワカンは7世紀頃に急激に衰退し、放棄されてしまいます。

滅亡理由はマヤ地域と同様で複数の候補があり、恐らく複合的と考えられています。

つまり、よーわからんってことです( -д-)ノ




大干ばつ、森林伐採による環境破壊、宗教対立、異民族の侵入・・・と内容は古典期マヤと大差ありません。

メシカ人(アステカの人々)が12世紀にこの地を訪れた時にはテオティワカンは無人の廃墟でした。

しかし多数の美しい建造物が立ち並ぶ姿を見て、ナワトル語で「神々の都市」、つまりテオティワカンと名付けたのです。



メソアメリカには多数の文化・文明が勃興していますが、体系的な文字を使用し現在にまで残ったのはマヤ文字だけです。

なのでテオティワカン人に関する文字記録(文字状記録を除く)は存在せず、彼らが使用していた言語も推定はされていますがはっきりとは分かっていません。




所謂旧大陸の諸文明、ヨーロッパに代表されるそれらの事例では、大体どれもが戦争で滅びて、同じ土地が次の文明・国家の支配領域になります。

でもメソアメリカでは放棄されがちですね。

亜熱帯や乾燥気候だと、森林破壊+干ばつによる地力の弱体化があまりに著しくそう簡単には回復せず、放棄せざるを得ないのかも知れませんね( ・Д・)

この辺も新大陸文明の発達の遅れと接触時の新大陸文明の勝利・支配の要因のひとつなのだと思います。



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↑テオティワカン遺跡の中(?)にある地下&洞窟内レストラン(あるけまや管理人撮影)




おわりに

上に挙げたのはレストランの写真です。

メキシコ的な原色カラフルな椅子が可愛いですよね。




テオティワカンは乾燥しつつ暑いなって感じです。

遺跡公園自体が広大ですし、ティカルのようなジャングルと違って巨大だけど背の低いサボテンくらいしかないので日陰がないのです。

だからとても暑い!




このレストランは地下洞窟内部に造られているので涼しくて快適です。

雰囲気も素敵!

ただお高いです。




ちなみに私はここで「アリの卵」と「イモムシの素揚げ」を食べました。

それぞれ100米ドル近くした気がする。

たぶん一人で食べるようじゃないので無駄に量が多くて辛かったです。

後半はビールで流し込みました(笑)




ちょっとアクセスしづらいけれど、メソアメリカの古代文明を感じる上ではとてもいいところですので、是非機会があれば行ってみてください。

その際は少し足を延ばしてティカルへもどうぞ!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!



何はともあれ、

気付けば長くなった!( ・Д・)



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2023ねん 2がつ 12にち(にちよーび、晴れ)

もう暖かだ、春!( ・Д・)

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今回の考古学・歴史ニュースは70年ぶり?マヤ展やるらしいから概説するね!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、東京国立博物館で古代メキシコ展が開催されるそうで、今回から連続で「マヤ文明の話」、「テオティワカンの話」、「マヤとテオティワカンの関係」について概観していこうと思います。

私は例によって回し者ではございませんので悪しからず( -д-)ノ



さて、今回の特別展は大阪の国立国際美術館でも開催されるそうで、国内をいくつか周るようです。

大阪は2024年開催と書いていたので、今年(2023年)から2年くらいかけてグルグルめぐるのかな~と思ってます。

私は詳しく調べておりませんので、是非公式サイト等の情報をご覧になってください。


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↑メソアメリカにおける主要諸文明・遺跡の空間・時間的分布の(今泉 2019より転載)


マヤ文明史概観(?)


古代マヤ文明と言えば、最近日本語のでの概説書や一般書が増えてきているのでその歴史展開について知る機会も増えてきたかと思います。

メソアメリカ史の変遷は石期(上表にはない)・古期・先古典期・古典期・後古典期・植民地期・独立期/現代(上表にはない)の大まかな7区分が広く用いられています。




考古学は物質文化を扱うのでモノさえあれば古代から現代まで全ての時期が射程となりますが、有名どこはやはり先古典期中期から古典期を経て後古典期の終わりまでの2500年間です。

古代マヤ文明には例の有名なマヤ文字があるのですが、そこから得られる情報はあまりに限定的です。

なので皆さんが古代エジプトや古代ローマ、日本の古代に関する歴史関係の書籍などを学んで得たイメージとは大きく異なります。

ピラミッド建造に携わった人が二日酔いを理由に欠勤した、なんて具体的に分かるような世界と比べてしまうと、マヤ文明なんてほとんどよく分かっていないじゃんと感じてしまうのは仕方ないことなのです。

だからこそ、先古典期から後古典期はマヤ文字があるものの、考古学が”強い”時期であり、対象として主流となる時期なのです。




さて、マヤ文明史概観の話に戻すと、概説書等では先古典期から後古典期までの文化的変遷について記述されることが一般的です。

その中では特に「マヤ文明は独特な素晴らしい文化を有する」ことが自然と記述されていると思います。

こうしたマヤ文明を特別視する見方は1990年代以降にマヤ考古学史の中で刷新されているはずなのですが、自分の扱う対象を持ち上げる”質(たち)”は今も昔も変わっていないようです。

だって人間だもの・・・




上表を見ると分かるようにメソアメリカ地域にはマヤやテオティワカンの他にオルメカやサポテカなど様々な文化・文明があって、同時期に存在している事例も多々あるのです。

何かと所謂新大陸文明は旧大陸文明と接触を持たずに独自に発展したというイメージがあると思いますし(そうしている学者がいるから)、新大陸文明の代表としてマヤ文明を用いるから(そうしている研究者の主対象だから)、、、

結局、一般のイメージとして「マヤ文明=独自に発展した文明」を持つようになってしまっているという構造があると個人的には感じています。




でも違います。

メソアメリカには多数の文化・文明があって、その多くが同時併存していて相互に影響し合う関係にあったのです。

つまりマヤ文明はそうした数多ある文化・文明のひとつに過ぎず、様々な相互関係の中、たまたま特に古典期に大きく華開いた文明なのです。


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もう一つよくある誤解が、マヤ文明が滅んだって話に関してです。



先古典期にマヤ文化は国家形成期として人口が増え、階層化が起き、頑張ってピラミッドなどのモニュメントを造り始めます。

古典期には複雑なマヤ文字を使用して長期暦を含む石碑を建立し、ピラミッドや宮殿などの石造りの見事な特殊建造物をたくさん建てました。

古典期の終わりには大干ばつや戦争が原因でマヤ文明は崩壊しました、、、




ここまでが ”よくあるマヤ文明の概説” です。

実際に古典期マヤの中心地であったティカル遺跡などがあるペテン地域は後古典期には空白地帯になってしまいます。

文明としては崩壊しましたが、人が完全にゼロになったわけではなく、細々と暮らし続けていました。

なので古代マヤ人が全滅したわけではありません。




むしろペテン地域(ユカタン半島の真ん中ぐらいの位置)にいた人々は南北に移動したと考えられています。

そのため後古典期にユカタンの中間部は空白っぽくなりますが、中心地が南北に移動するだけで存続はしているのです。

現代マヤ人がいるのもそのためで、やはり全滅したり、文明が完全に失われたわけではないという点が重要です。

様々な形で南北端の地域の後古典期文化に崩壊してしまった古典期文化が引き継がれているのです。




↑参考程度に…もうちょっと時間をかけたいとは思ってはいるが( -д-)ノ




おわりに

結局マヤ文明史の流れについてはすごいはしょりながら、皆さんが誤ってイメージしがちな部分を修正してみた形になってしまいました・・・

次回は「テオティワカンの話」となりますが、最後の「マヤとテオティワカンの関係」について説明する際に、今回話したような、マヤ文明が決して単独で『鎖国的』に成立・発展した文明ではないことが分かってもらえるのではないかなと思っています。



何はともあれ、

特別展いいね!( ・Д・)



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2021ねん 6がつ 13にち(にちよーび、晴れ)

なんだかんだ1週間サボったので今日頑張る( -д-)ノ

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↑コンパクトなオシャレなとこだった( ・Д・)(管理人撮影;今回の写真は全部そう!( -д-)ノ)


今回の考古学・歴史ニュースはMINO SOILの展示会に行ってきたよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台は東京、渋谷です(。・ω・)ノ゙

この「歩け、マヤ」で『渋谷』を扱うなんて、きっと最初で最後かもね( ・Д・)

今回紹介するのは「MINO SOIL」です。

Soilって土とか土壌って意味で使いますが、この場合は「美濃の土」ってことでしょう。

美濃は陶磁産業で有名で、このMINO SOILも作品としての陶磁器を並べるのではなく、素材を展示するという一風変わった催し物なのです。

なので土といっても「粘土」のことです(*・ω・)ノ


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↑概観その2(入り口は右手)

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↑もらったパンフレット(*・ω・)ノ


美濃の土(考古学としては土と粘土は異なる用語なのですが、彼らの意図を汲んで以下、土と表記します)は古くより陶磁器生産に用いられてきた歴史があります。

現在ではムンバイに拠点を置く建築設計事務所などとコラボレーションしていて、伝統的な従来の陶磁器への土の利用だけではなく、建築材やオブジェとしての利用が模索されているようです。

まぁ陶芸もそもそもアートだと思いますけども、従来のように作品を「器」に限定しなくなり、自由度が増したということなのでしょう。

展示会も非常にオシャレなアート空間という感じで、ごっちゃり遺物をとりあえず並べて置く考古学展示とは全く異なる空間でしたヽ(TдT)ノ

ちょうどここに来る前に江戸東京博物館の「発掘された日本列島2021」の展示を見に行ってたので、両者の違いを強く感じました。

上に挙げたパンフレットの写真に見られるように、「Archaeology of Mino(美濃の考古学)」とあるんですが、考古学らしさはなかったですね( ・Д・)

『美濃の考古学』なんて、シンプルなタイトルで書けるのは大御所しかいないのでビビりますが、実際の内容は「美濃におけるヒトと土の関わり」について広く知って欲しいというような印象でした。


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↑これが「美濃の土」

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↑500~1000万年前の木の化石、粘土層によるがこれが美濃の土のにたくさん含まれている

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↑ただの粘土塊なのにアートな感じ。こういった展示をする感性もハートの強さもほとんどの考古学者にはない( ・Д・)




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↑これが私が展示会を見に行った理由ヾ(´ω`=´ω`)ノ


さて、上に挙げた色とりどりの四角い塊がたくさん映っている写真がありますが、これが私のお目当てです(*・ω・)ノ

これは全て「粘土ブロック」なのです。

どれも美濃の地で採れたものですが、採れた地層によって含有物も異なり、様々な色調が見られます。

この中には未焼成粘土ブロックもあれば、焼成後の粘土ブロックもあるそうで、色調などの特徴から「美濃の土」は9種類あるそうです。

美濃における陶磁器生産の歴史は1300年と説明されていましたが、その長い歴史の中で異なる土を調合して様々な色調を生み出したり、用途に合わせて適切な生地作りをしてきたそうです(*^・ェ・)ノ

上に参考として縄文土器の写真を挙げましたが、やはり一般的な縄文・弥生などの土器はみんな似たような色をしていますよね。

でも実資料をよく見てみると、個体によっては胎土の色調が明らかに異なったりするわけで、なので、元々の粘土の色調が焼成後に影響をどれだけ与えるのだろうかということを私は質問しに来たのです( -д-)ノ

どうやら粘土の色調は鉄分とか含有物の種類と量に影響されているため、元の粘土が焼成後の粘土の色調に影響を与えているのは間違いないようです。

でも含有物によっては焼成中に化学変化してしまうので、元の色と同じ色調になるとは限らないそうです( -д-)ノ


arukemaya1550 (4) - コピー
↑こんな感じで色がガラッと変わることもΣ(・ω・ノ)ノ


上の画像の中の上の事例では右端の赤褐色の粘土が焼成後に青みがかった黒灰色の胎土に変わっています。

これは鉄分の含有量が多いからだそうです。

確かに焼成後のブロックは、「鉄っぽい」感じがしました。

一方で下の事例では、リサイクルのためにプラスチックなどの成分を混ぜて作った再利用粘土(?)らしく、灰色から黄銅色に変化していますね(((( ;゚д゚)))

私が対象とするような古代の人々は現代の工人のように、そこまで複雑な混ぜ方はしないでしょうが、複数種の粘土を混ぜて使用したのではないかという議論は考古学の世界でも存在します。

粘土単体でも産地同定等が困難で、当時の土器生産者や生産体制の理解には様々な障壁があるわけですから、複数種の粘土や混和材を混ぜるような複雑な操作をされると現時点では考古学者はお手上げと言っても過言ではないでしょう( ・Д・)


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↑両方とも粘土ボール。直径50cmくらい(?)あって写真で見るよりも実際はデカい!プロが作った「泥ボール」みたい( ・Д・)


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↑いずれも展示されていた写真パネル。粘土採掘場だけどもなんだか「塩湖」みたいだなと思ったら、本当に元々は「湖」だった。美濃地方は200~500万年前、東海湖と呼ばれる巨大湖の底にあり、そこに長い時間をかけて大量に堆積した粘土が現在の「美濃の土」なのである(。・ω・)ノ゙


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↑割れた陶器片と器の中に粘土塊が片隅に・・・説明用でもないようだが


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↑盛り塩すらアートな感じ( ・Д・)


おわりに

展示室はガラス張りなのでオシャンティーなのですが、光が入って上手く写真撮れませんでした、ごめんなさいヽ(TдT)ノ

さて、コロナ禍における短期開催なのですが、アプリを使って1時間ごとの入場者数をコントロールしていました。

スタッフも十分いて、質問すると何でも丁寧に答えてくれました。

私なんか、陶芸とは関係ない、考古学の話とか粘土の生地の色と焼成後の変色の話をしていたのにも関わらず、丁寧な対応をして頂きました( -д-)ノ

ありがたいことです(*_ _)ペコリ

開催期間が2021年6月8日~6月13日まで・・・

って今日までかい!( ・Д・)

私も今回偶然に知ったのでご容赦くださいヽ(TдT)ノ

まぁ初回のプレゼンテーションということで、今後もこういった展示会があるようなので、是非気にしてみてくださいね。


今回は私の写真と説明で我慢して!( ・Д・)



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2020ねん 5がつ 8にち(きんよーび、晴れ)

毎日チンチロ500回振るのに小一時間使うのはけっこう辛い!( ・Д・)


・・・・・・・・・・・・・・・



今日の考古学・歴史ニュースは、「コロナの影響もあって、考古学のデジタルによる普及・広報活動が活発化してるよ(素敵な博物館編)」ってお話です(*・ω・)ノ


前回はコロナウィルスの蔓延に伴う自粛・休館措置に対する、日本国内における地方博物館の努力について紹介しました。



今回は海外の、しかも超有名組織における活動の紹介です!(*・ω・)ノ



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ルーブル美術館によるバーチャルツアー



フランス、パリにある、あの有名なルーブル美術館もコロナウィルス蔓延の影響を受けて、休館措置を講じているそうです。

海外の場合は日本と異なり、都市のロックダウンもしますし、政府の権限が強い印象です。

ルーブル美術館は国立美術館であり、政府からの通達があるまで無期限休館だそうです( -д-)ノ

そのような折り、同博物館が公式ホームページ上で『ヴァーチャルツアー』を公開しました。

公開されたのは「古代エジプト美術」、「ルーブル濠の跡」、「アポロンのギャラリー」の三つです。

上のリンクからヴァーチャルツアーのページに飛べますので、是非お試しあれ(*・ω・)ノ

試しにアポロンのギャラリーに入ってみたところ、ヴァーチャルツアー自体はフランス語と英語表記しかありませんでした。

そしてあまりヴァーチャルツアーっぽくない( ・Д・)

でも見出しに挙げたような画像を4種類ダウンロードすることができます。

今流行のネット会議の壁紙にいいかも知れませんね(*^・ェ・)ノ


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↑古代エジプト美術のヴァーチャルツアー(「古代エジプト美術」のページより転載)


上に挙げましたように、「古代エジプト美術」のヴァーチャルツアーもやってみたところ、こっちの方はちょっとヴァーチャルツアーっぽかったです!

ちゃんと博物館内を歩けるし、展示品データも見れるし(説明は英語)!

ちなみに「ルーブル濠の跡」も古代エジプト美術と同様のコンテンツでした。

天下のルーブルの仕事としては正直物足りないですが、ルーブルに行ったことの無い私にとっては「あ~、こんなとこなんだな~」って十分楽しめましたよ!ヾ(´ω`=´ω`)ノ




エジプト観光考古省のヴァーチャルツアーが凄い!

さて、次はエジプト観光考古省が公開しているヴァーチャルツアーです。

前の記事でも書いたように、現在エジプトの観光は大きな制限を受けています。




一番上に挙げた画像や、この見出し画像が、そのヴァーチャルツアーの写真なのですが、とても綺麗!!!

その割にサクサク動くんですよ。

遺物・遺構の紹介は英文や3D画像で行われおり、見やすいですよ。

英語が苦手でもてくてくと歩き回るだけで楽しいです!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

さて、このページは「エジプト観光考古省のFacebookの公式ページ」から飛ぶことができて、かつこのページで新しく公開されるデータについての情報が得られるのですが、、、

言語の違いもあり、如何せん、探しづらいし飛びづらい!!!( ・Д・)

なので以下にリンクを貼っておきますねヾ(´ω`=´ω`)ノ













どれも面白いので是非、おうちで遺跡・博物館散策してみてくださいね!

マニア・専門家向けですけど、このヴァーチャルツアーの最も凄いところは……

距離が測れるってこと!( ・Д・)

さっき表示した石造彫刻の身長だって測れちゃいます!

あとはこれは一般向けに凄いところなんですけど、、、

VR表示に対応していること!( ・Д・)

これ凄いですよ、建造物の構造の違いはあれど、マヤ遺跡でも本気でやりたい!ヽ(TдT)ノ




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おわりに


私の所属する大学研究室でもヴァーチャルツアーやヴァーチャルミュージアム構想がありましたが、なかなかいいものが作れず困っていました。

そもそも機材やソフトはもちろんなのですが、事前に「どのように見せたいか?」を十分に考えなければいけないのです。

当たり前だろうと思うかも知れませんが、発掘調査のデジタル報告の一種として構想していたものなので、従来通りの発掘調査と上手くマッチアップしなかったのです。



で、結局、調査成果を優先して、なんだかんだいつも通りの発掘調査に・・・・・・てな感じでしたね。

今回私の現場では調査記録を動画にしてYoutubeにアップしてみるという試みを開始しました。

また下に挙げるような360度動画も撮りました(カメラ壊れて、これしか撮れなかったけど(TДT))。





考古学現場では、発掘調査が終わると埋め戻し作業を行います。

私のフィールドでは、掘り上げた土を使って直接埋めてしまいます。

穴開けたままだと落とし穴になってしまいますからねヽ(TдT)ノ

なのでこういった掘っている最中や掘りきった後の撮影って貴重なものなのです。

もちろん調査の性格上、写真撮影はしっかりと行います。

でも動画って撮らないんですよ、通常。



今回エジプト観光考古省で用いたのは「Matterport」という会社の製品のようですが、いいですね……

元々、考古学成果の普及をいかに行うべきか、デジタルデータといかに付き合っていくべきかが考古学における一つの課題であったと私は思っていますが、、、

コロナウィルスの影響でネット上における様々な活動が急加速していますよね。

研究予算の都合がありますが、私もエジプト観光考古省を見習って、

『新しい考古学の発掘現場作りと成果の公表』を行っていきたいと考えておりますヾ(´ω`=´ω`)ノ

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2020ねん 5がつ 6にち(すいよーび、曇り時々雨)

なかなか痩せないぜ( ・Д・)


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今日の考古学・歴史ニュースは、「コロナの影響もあって、考古学のデジタルによる普及・広報活動が活発化してるよ」ってお話です(*・ω・)ノ


まぁ当サイトも考古学の情報提供の場としての役割があるとは思ってますが、今回紹介するのは博物館や各の地方埋蔵文化財センターなどが行っている活動です(*・ω・)ノ

海外では、もうかれこれ20年前くらいから考古学へのデジタルアーカイブ化と普及が叫ばれていて、前に紹介した大英博物館の例もその内のひとつですね。



↑スマホ対応です(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!



もちろん日本でもアメリカを追随するかの如く、デジタルアーカイブ化が叫ばれてました。


しかし結局その時は流行として助成金獲っていただけでずっと継続している人とか本当に何かしらに役立てている研究者は知らないですね。


もちろん博物館展示とか単発的に終わるべきテーマの方々もいるでしょうけどね。


まぁ何はともあれ研究としてはデジタルとの付き合い方を今後も考えていく必要がある一方で、博物館などの広報をメインとした業種の方にとっては新しい技術をどんどん取り入れていって欲しいなと一考古学ファンとして期待するとことであります( -д-)ノ



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↑「かそりーぬ」でいっぱいカワ(・∀・)イイ!!(「加曾利貝塚博物館」のHPより転載)



加曾利貝塚博物館の「館長の考古学日記」が面白い


最初に紹介するのは、千葉市加曾利貝塚博物館の公式HPです。


上に挙げたように、「かそりーぬ」というキャラが可愛いですし、HP中に溢れています。


当該HPには上のキャプションをクリックすればトップページに飛びますので、是非!


さて、HP上部のタグにある「調査研究」も面白いですけど、やはり一番おススメしたいのは『館長の考古学日記』です!ヾ(´ω`=´ω`)ノ


上部タブの『総合案内』を選択するとその中に「館長の考古学日記」がありますので是非ご覧ください。


↓あるいはここから(直リンク)



どうやらコロナ禍を契機に始めたわけではないようですが、2019年末に開始し、本記事を書いている5月初頭現在まで精力的に更新されているようです。


内容としては、とても分かりやすい例えで考古学研究とはいかなるものかを紹介していますよ(*・ω・)ノ




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↑先行公開した絵本など(「北國新聞」の記事内画像より転載)


小松市埋蔵文化財センターのはにわが可愛い!


次に消化するのは石川県、小松市埋蔵文化財センターの活動です。


当館はコロナ禍と緊急事態宣言の延長を受けて5月末まで閉館することを決定したそうです。


そのため市内の遺跡や出土品、古代の歴史を紹介するホームページを開設し、外出を自粛している親子が家庭で楽しく学べる内容を発信し、考古学への関心を高めようと試みています。




矢田野エジリ古墳から出土した埴輪や代表的な遺跡を記した歴史年表が掲載されていて、綺麗ですし、面白いなと思います。

特に、個人的には弥生時代のつぼや、古墳から出土した兜をモデルにしたペーパークラフトがいいかなと(*・ω・)ノ

 

また北陸を代表する弥生時代中期の遺跡・八日市地方(じかた)遺跡を題材とした絵本「白いお米とミドリの玉」を現在製作中でその内容を先行公開しています。


実際に出土した資料と解釈を基に、碧玉(へきぎょく)を加工して作った装飾品「管玉(くだたま)」が出土した同遺跡にまつわる物語を紹介する内容となっています。


序盤は絵本なので子供に読みやすく書かれていますし、一方で後半部は遺跡調査の現地説明会用資料のようになっており、大人も十分楽しめますよ!


この絵本を読んで育った子供が、少し大きくなってから読み返すと考古学の面白さに気付くかもしれませんね(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!




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↑いろんな土偶の頭(「平出博物館」のHPより転載)



小学生向けだが縄文時代が良く分かる!


最後に、長野県塩尻市、平出博物館の活動です。


当館も新型コロナウィルスの影響で休館措置を講じています。


そうした中、「チャレンジ子供ミュージアム2020・子供ネットミュージアム」が開設されました。




内容はこのような感じです。


内容は小学生向けとなっていますし、サイトは本当に手作り感満載です。


でも、国内外の有名な大規模博物館が最新のデジタル技術でどうこうやるのも好きですけど、こうした地方博物館の地道な努力もいいなと思います。


いかにも手作りなのだけれど、休館を決めてから僅かな期間で準備したのですから凄いものだと思うのです(*・ω・)ノ



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↑私も頑張ります( ・Д・)(「note 頑張れない君へ」の記事内画像より転載)



おわりに


今回、いつもとは違って、小さいところの活動ばかり紹介しましたが、どこも大変な中頑張ってるなと感じました。

サイトの出来には差はありますけども、是非今回の成果を土台にして、ネット上における考古学成果の広報活動を推し進めて欲しいなと思います。

考古学が好きになれば、結局、遅かれ早かれ直接モノを見に行きますよ。

写真で満足することないですからね、だから出し惜しみしないでもらいたい!( -д-)ノ

考古学者の立場としても、所蔵品の簡易写真を含んだデジタルリスト化と公表を行ってもらえれば資料集成も楽になりますしね。

考古学徒や研究者が町を訪れればそれなりの観光収入にもなるかも知れませんし(我々お金ないけど( ・Д・))、是非頑張って欲しいなと思います。

普通は各自のデータはしまい込んでしまうものですが、私も海外での資料集成成果はデジタル化して公表しようかな~?

皆さん、マヤ土器デジタルミュージアムに興味ありますか?ヾ(´ω`=´ω`)ノ

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2019ねん 7がつ 19にち(きんよーび、雨)

トイレって大事だよね!

でもトイレ我慢してる時が一番仕事に集中出来る気がする!( ・Д・)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・



今回の考古学・歴史ニュースは、「佐賀県の名護屋城博物館でトイレの歴史に関する特別展が開催されるよ!」というお話です(*・ω・)ノ

佐賀県、唐津市鎮西町にある名護屋城博物館は2019年7月19日から、戦国時代のトイレ遺構を中心としたトイレに関する特別展を実施するそうです。

その名もトイレのナゾを追え!! 肥前名護屋城の厠と雪隠」です。


使わない!見るだけのトイレがある!

さて、企画展のタイトルにある文字ですが、ゆきがくれと書いて雪隠(せっちん)と読むそうで、トイレの別名称だそうです。

何でもここ名護屋城跡周辺では、前田利家ら4人の陣跡から、茶庭に置かれて実際には使わずに外観だけを楽しむ「荘雪隠(かざりせっちん)」とみられるトイレの遺構が見つかっているそうです。

そんなトイレがあることを知りませんでしたが、全国でも数例見つかっているそうで、その中でもここ名護屋城跡周辺の荘雪隠の遺構は最も古い発見例なのだとか。

昔からトイレの問題は衛生面と関係してけっこう大きな問題なのですが、どうやら佐賀県の武将達は陣の中にも「見るだけのトイレ」を作っていたようで、なんだか余裕ですねΣ(・ω・ノ)ノ




上に挙げた写真は肥前名護屋城にある木村重隆陣屋跡の一部で、これが荘雪隠なのだそうです。

想像と違いましたけど、展示ではこのトイレ遺構の実物大フロアパネルが紹介されるそうです。

他にも全国のトイレに関連する発掘資料を取り寄せるそうで、福井県鳥浜貝塚から出土した縄文時代の「糞石」(排せつ物が化石化したもの)や、日本で初めて「トイレ」と確認された佐賀県一乗谷朝倉氏遺跡の「金隠し」などが見られます。

開催期間中は毎週土曜日の午後1時から「トイレの自由研究」として学芸員が展示内容を解説するコースがある他、7月28日午前9時半から、トイレ遺構が発見された前田利家陣跡などを巡る「ミステリートイレツアー」(事前申し込み必要、先着40人程度)もあるそうです。



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昔のトイレットペーパーは痛い!

さて、縄文時代のトイレ遺構からは糞石と共に土器片が出土しているそうで、何でもトイレットペーパー代わりに土器片でお尻を拭いていたと考えられているそうです。

ケガしそうですね( ・Д・)

まぁ葉っぱとかも使っていたのでしょうが、「あ、紙がない!」みたいな時は割れた土器片をある意味で再利用したのかも知れません。

こういったリサイクル文化は江戸時代まで連綿と続くわけですが、平安時代でも籌木(ちゅうぎ/ちゅうぼく)という木の棒状の板を使っており、上に挙げた写真のように戦国時代でもトイレットペーパーの代わりに木簡を再利用して使っていたそうです。

この「木のトイレットペーパー(?)」は一部の農村などでは江戸時代後期まで使われていたそうで、他に藁(わら)も使用されていたそうです。

まぁ痛いよね( ・Д・)

江戸時代には都市部で再生紙を用いたトイレットペーパーが使用され始め、一般に普及するのは明治時代だそうです。

一方で中世から近代にかけて人の糞尿を肥料として利用してきたリサイクルの歴史もあり、これについても今回の企画展で紹介するそうです。

ちなみに江戸時代には人の糞尿は売り物でした。

ランク分けされていて大名とか良い物食べてる人の糞尿の方が高かったそうです。

ちなみに中ランクの糞尿樽一杯で500円、船一艘分で10万円の価値があったのだとか( ・Д・)




おわりに

個人的にはトイレの遺構って面白いなと思っています。

古代マヤでも建造物の配置は分かっているけども、トイレの位置は分からないんですよね。

あと糞石も面白いなと思います。

最近は様々な科学技術が発達していますから、糞石から分かることも多いのです(・∀・)つ

せっかくなので「ウェブ内、糞石ミュージアム」を開催しようかな。

糞石を見慣れて、発掘調査の際に糞石を検出できるようにさ!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

↓昔も今もトイレって大事!ヾ(´ω`=´ω`)ノ↓

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2019ねん 7がつ 13にち(どよーび、曇り)

本を買いたい欲が凄い。

自分が本当にやりたい研究のために、様々な勉強が必要だと実感した今日この頃。

今年は有意義な一年になりそうだ( -д-)ノ


・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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さて、今回の考古学・歴史ニュースは『古代ローマ、ポンペイで出土した「最後の晩餐」はまだ食べれますよ?』ってお話です(*・ω・)ノ

【目次】
  1. 世界最古の博物館と、イベントの紹介
  2. 驚きの保存状態の食べ物を見よ!
  3. おわりに

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↑ハリー・ポッターでお馴染みのグレートホール(「Google」の画像検索結果より;*元ページが存在しないようです)


1.世界最古の博物館と、イベントの紹介

ということで、まず上に挙げた画像たちはイギリスにある超名門大学、「オックスフォード大学」の様子です。

オックスフォード大学は英語圏で最古の大学であり、記録では11世紀の終わりには講義を行っていたそうです。

当時の学生は弓矢等の武器類を携えて受講したのだとかΣ(・ω・ノ)ノ

そんな世界一の大学が有する博物館はぱっと数えたところ、5つもあるようです。

特に考古学博物館を二つも有しており、その所蔵数も莫大な量を誇ります。

今回紹介するアシュモレアン博物館(Ashmolean Museum of Art and Archeology)はその内のひとつなのです。

今回新たに開催される特別展、「Last Supper in Ponpeii(ポンペイにおける最後の晩餐)」は、2019年7月25日より2020年1月12日までの日程で行われます。

イギリスなので気軽に行けるわけではありませんが、よろしければどうぞ!

今回の記事では日本在住の方はなかなか気軽には行けないので、特別展と展示物の一部を紹介したいと思います。





2.驚きの保存状態の食べ物を見よ!





先にも述べたように、この特別展のタイトルは「Last Supper in Ponpeii」です。

レオナルド・ダ・ヴィンチの名画で有名な「最後の晩餐」にかけて訳してみましたが、実際に「Supper」は「晩餐」という意味の他に、「軽食」の意味があるそうです。

昼に正餐(しっかりとした夕食)を取った場合に軽く夕食を取ることをサパーというようです。

昼に夕食というのは何だか妙な感じがしますが、中世ヨーロッパではそれが普通だったようです。

当時は一日2食が一般的で昼と夜に食べていました。

(朝ごはん抜きの文化は古いんですね( -д-)ノ)

そして一番エネルギーの必要な昼に正餐を取り、夕食はサパーで軽く済ましていたようです。

なんだか健康的な食習慣ですよね?Σ(・ω・ノ)ノ

ということで、ポンペイから出土した今でも食べれそうな遺物はこちらです!


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一気に紹介しましたがいかがでしたでしょうか?

パンはたくさん出土しています。

丁度、サパーを取る時間帯に噴火したのでしょうね(/TДT)/

一番最初に挙げたパンが本当に、その辺で売ってそうなパンですよね。

実際に古代ローマのフレスコ画に残るパンも形状が一致していますし、驚きの保存状態です。

色調だけは変わってしまっていると思いますが、チョコレートパンにしか見えませんね。

触れることのできる展示なら、私は間違えて食べます( ・Д・)

たくさんパンが出土する中で、やはりヒビが入っていたり、押しつぶされているものも実際には多数ありました。

そのような中で、半分に切ってある状態のパンは上に挙げた写真しかありませんでした。

まさに夕食を取っていた際に起こった悲劇なんだなと痛感させられますヽ(TдT)ノ





3.おわりに

まぁ今回、勝手に「まだ食べれるよ?( ・Д・)シリーズ」と題しましたけど、以前にもまだ食べれそうな遺物の話があったと思います。


↓【「ラーメンの考古学」番外編】人類史上最古の麺が今でも食べれそうな件について。4000年前の麺はお湯かけて3~5分でイケそうである( ・Д・)【むしろこっちが正当な考古学】



上のこれがライブドアブログの新機能である「リッチリンク」なんですけど、当サイトのタイトルは基本的にバカ長いので内容分かりませんね( ・Д・)

しかも書き出しが「幼稚園児の日記風」にしてあるので猶更中身が分からんという事態になってますヽ(TдT)ノ

しょーがないので、上の例みたいにタイトルを併記したいと思います( -д-)ノ


他にも食べれそうな保存状態いいやつと言えば、こんなのもありましたね。


↓【中国の奇跡】2500年前の古代中国にも『超卵好き』がいた!?墓から大量の卵が無傷で見つかったよ!( ・Д・)【考古学】


↓お酒の考古学~フィンランド編~】最古のビールシリーズ④!古代人も現代人も世界中みんなビールが大好き過ぎる!【お酒の歴史】
 


他にも「弥生人の脳みそ」とかポンペイネタでも色々ありましたけど、今後このシリーズではあくまで食べれる系を紹介することにします。

まぁ滅多にないでしょうけどね!( ・Д・)

↓食べれそうだと思ったらぽちっとな!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!↓

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2019ねん 2がつ 1にち(きんよーび、雪)

寒い!

フロントガラス凍って、前見えなかった!( ・Д・)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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今回紹介する考古学・歴史ニュースは『PCやスマホ上で大英博物館の中を歩けるよ!』というものです。

実際には2015年末には一般公開されていたので『ニュース』ってほど新しくはないのですが、私は知らなかったもので紹介することにしました!


インターネットでの公開のために大英博物館における収蔵品の内、4,500点以上が写真撮影されたそうです。現在までに6894点の資料が撮影され、ネット上で見ることができます!

また館内の写真も多数撮られ、そのデータを基にしたヴァーチャル・ミュージアム内を歩き回って鑑賞することができるのです。






下に大英博物館の公開デジタルデータにアクセスできるページのリンクを貼っておきます。




さて、上に挙げた写真のように、様々な資料の写真データがあって、眺めているだけでも楽しいです。

歴史好きにとっては時系列で資料を並び替えて表示できるのもニクイ仕様となってます(*・ω・)ノ


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ちなみに私個人に関するものとしてはメソアメリカに関する歴史的な資料が多数データ化されています。

古代マヤ文明に関する研究初期の考古学者、アルフレッド・モーズリーを始めとして、メキシコ、グアテマラ、ホンジュラスにおける古い資料群(計2700点程度)が見られます。



上に挙げた写真のように、ティカル遺跡に関する発見当時・調査初期における神殿の姿を映した写真や、当時の文書が見られます。


古い考古記録というのも、また別の『歴史』を感じさせるもので、見てていいなぁ~と思ってしまいました( -д-)ノ



・・・・・・ヴァーチャル・ツアーも試しにやってみましたが、大英博物館を訪れたことがないこともあり、土地勘がないというか・・・

めちゃくちゃ広いので、どこに何があるかもわからず、ひたすら練り歩いてました。


ちなみに意味なく、わけ分からんとこの博物館の壁を拡大して見つめるなんてこともできます( ・Д・)


時間に余裕がある時にじっくり散策するか、前もって大英博物館の別の公式ページ(日本語表示に変更可能)で館内見取り図を頭に入れておいた方が良いですね。


平面的に広いだけではなく、複数階層ありますから!(*・ω・)ノ



・・・・・・今はヴァーチャルで楽しむけど、いつか訪れて直接見てみたいものですね!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

↓ぽちっと押すか、拡散するか、さぁ選びなさい!( ・Д・)↓

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019ねん 1がつ 27にち(にちよーび、晴れ)

久しぶりに「アナザーエデン」(スマホのゲーム)をやってみた。

1人用王道RPGと銘打つだけあってレベル上げしなきゃならん。

そんな折、リアルの私のレベル上げをしたいと思った、今日この頃( ・Д・)



・・・・・・・・・・・・・・・・・・




今回の考古学・歴史ニュースは、「福井洞窟遺跡の魅力を届ける博物館ができるよ!」ってお話です。


長崎県ではなくて「佐世保市」では国内最多の31カ所の洞穴遺跡が見つかっています。「市」のレベルで物凄い数です!Σ(・ω・ノ)ノ

中でも長崎県、佐世保市吉井町には国指定史跡である「福井洞窟」があります。



旧石器時代から縄文時代にかけて人々が生活した痕跡が残る遺跡として知られ、狩猟道具の細石刃や、石鏃(せきぞく;石製矢尻の意)等の遺物が約7万点も出土しています。

旧石器時代の洞窟遺跡として国内で初めて炉跡(焚火の痕跡)が検出されたことでも有名です。


主にこの福井洞窟遺跡での出土品の展示や、遺跡の価値を解説するガイダンス機能を備えた複合施設を建設する予定で、年末(12月)までに完成するそうです。

音声ガイダンス機能は2021年春からのスタートとなるそうです。


この複合施設は何が複合化というと、吉井地区の公民館と市役所支所も併設する計画とのことで、約6億8千万円で建設するそうですΣヾ( ̄0 ̄;ノ



お金かけてるだけあり、展示スペースは約600㎡で、目玉として実際の発掘現場から剥ぎ取った約6mの地層を設置するそうです。

また出土した遺物の内、選抜された約500点の資料を展示し、検出された最古の炉跡等の複製品や当時の人々の暮らしを再現したジオラマを展示するそうです。


近年の博物館によく見られますが、子どもが遺跡の発掘について勉強する体験室や、同博物館から福井洞窟までのルートや見どころを案内する情報コーナーも設置するそうです






さて、福井洞窟遺跡は考古学史上でも非常に重要な遺跡になります。


雪山とかで遭難した時(まぁ実際になかなか遭難しないのでドラマとかのシーンで)、洞窟を利用して一時的に避難したりすると思います。


洞窟は屋根がありますからね、昔の人も天然の住居ないし、何等かの活動の場として利用していたのです。



洞窟というのは天井が結構崩落してくるもので、そのため比較的に地層が発達しやすいのです。

つまり考古学でいうところの層序を細かく認定しやすいので、細かな時間的な変化に関する情報を得やすい状況にあります。




そのような洞窟遺跡のひとつである福井洞窟遺跡では、


①多数に分類された各層位から多種多様な細石核が出土し、日本全土で旧石器時代末期に流行した細石器の製造法の変遷が確認された。この福井洞窟遺跡の細石核を基準として、細石器の編年が可能となった。


②石器の石材としてサヌカイトの使用から黒曜石の使用へと変化する過程が分かった。


最下層から出土したサヌカイト製の大型石器が炭素年代測定法によって31,900年以上前と推定された。


④最古の土器が出土した(発見当時)。この福井洞窟遺跡での発見まで土器は縄文時代草創期に属する土器資料が最古のものであり、日本で初めて発掘された旧石器時代の土器(旧石器時代の終わりが遡ることになった)である。この発見を契機として土器製作の歴史を遡る調査研究が盛んになった。


ということが判明しました。

そのため福井洞窟遺跡は日本考古学史上、数々の重要な契機を与えた大事な遺跡であるのですヾ(´ω`=´ω`)ノ



・・・・・・・・・・・・・・・・・・

新しい博物館となるととりあえず行きたくなりますけども、実は近年出土した遺物の保管場所に困り、廃棄する動きも出ていますヽ(TдT)ノ

そのような現状を踏まえると、新設の博物館のような建物の地下に大きな所蔵施設を作って地域の資料の集成と保管をしてもらいたいな~とも思いますね( -д-)ノ

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