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あるけまや -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

タグ:古代マヤ文明

2020ねん 10がつ 24にち(どよーび、曇り)

山超えた、と思ったら連峰だった( ・Д・)


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今回の考古学・歴史ニュースは「マヤ文明にも海底遺跡ならぬ湖底遺跡があったよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


今回の舞台はグアテマラ南部、ソロラ県にあるアティトラン湖です。



8万4千年前の火山の噴火によってできたカルデラ湖です。


上に挙げた写真にも一部見えていますが、周囲は3つの火山に囲まれています。




グアテマラも観光業に力を入れていて、『アティトラン湖は世界一美しい湖』と称しています。


誰か有名な人物のセリフかと思いきや、勝手に命名したようで、言ったもん勝ちですね( -д-)ノ



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↑外国人観光客はどこでも飛び込むのが好きだと思う( -д-)ノ(「Ready Set PTO」の記事内画像より転載;英文)



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↑のどかなとこですよ(・∀・)つ(「Bi」のホームページ画像より転載)



上に挙げた写真でも少し分かるように、けっこう透明度あって綺麗な湖です。


とは言ってもむちゃくちゃ透明度が高いわけではありません。



その代わり魚やエビなど多数の生物が生息していて、古代から現代に至るまで人々の生活を支えてきました。


この辺りは現在でも現代マヤ人が住んでいて、民芸品などのお土産が多数売られています(*・ω・)ノ



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↑グアテマラの新聞に掲載されたサマバフ(「puebloclick」の記事内画像より転載;スペイン語)



湖底遺跡サマバフはグアテマラシティに住む、ロベルト・サマヨア・アスマスが1996年に潜水した際に発見されました。


この発見者の苗字の半分である「サマ」とマヤ語で石を意味する「アバフ」を繋げて、サマバフ遺跡と命名されました。




上に挙げた写真のように、グアテマラの新聞では大発見として取り上げられ、ナショナルジオグラフィックにも取り上げられました。


しかしながら水中遺跡公園としてはまだ整備が進んでいません。




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↑湖底にしっかりとラインを引いて、グリッドを設定している。手前は土器の口縁部(「Pinterest」の画像より転載)



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↑サマバフの考古学調査で作成された測量図(Samoyoa 2000)



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↑分かりやすい沈降の図(「Guatemala.com」の記事内画像より転載)




ナショナルジオグラフィックが助成しただけあって、グアテマラの技術とは思えないほどしっかりと水中考古学調査が行われました。


上に挙げた写真に見られるような、きっちりとしたグリッド作成なんて本当にすごいことです。


ちなみに私の知っている現地考古学者は地上でもこんなにしっかりやりません( -д-)ノ


資金力は偉大なり( ・Д・)




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↑切り石の石列(「Prensa Libre」の記事内画像より転載;スペイン語)


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↑恐らく四脚の付いた碗の底部が見えている(「Facebook」のAmigo Atitlanの画像より転載)

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↑完形の壺(「Pinterest」の画像より転載)



小さな島の上にあったサマバフは、450×350mの面積で、湖周辺に居住するマヤ人達にとっての巡礼センターだったと推定されています。


しかしサマバフはおよそ1,700年前に突如として湖底に沈んだと考えられています。


遺跡は現在水深30m付近で水没しており、湖がそこまで上昇した原因については現在までに3つの説があります。




第1の説では、アティトラン火山の溶岩流が湖に流れ込んだために水位が上がったとされています。


この場合、地質学的データによると2000年前に溶岩が流れ込んで、サマバフは沈んだことになります。




もう一つの可能性としては、アティトラン湖が8万年前に巨大な噴火を起こして出来た火山性カルデラであることから、1700年前頃に溶岩の影響で湖底が膨張したことで、湖の水位が上昇したと考えられます。



第3の説では、極端な雨で大洪水が発生し、周囲を火山と断崖に囲まれた地形のアティトラン湖の水位が上がってしまったことが示唆されています。




本格的な調査は2008年から開始され、祭壇やステラ(石碑)など18基の石彫が確認されました。


上に挙げた測量図にもあったように多くの住居の他、蒸し風呂(サウナの一種)も確認されました。

最近の調査では、島の周りに4つの石を積み上げて造った埠頭があり、船の乗り降りができる場所も整備されていたことが分かっています。


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↑切り石の石列②(「Prensa Libre」の記事内画像より転載;スペイン語)



おわりに

実は一度だけアティトラン湖に行ったことがあります。

普通に観光ですけど。

のんびりしていていいとこですよ。

個人所有の博物館があって、お金にモノ言わせてけっこういいものを集めてるな~と思った記憶があります。


私が行ったのはちょうど最初の4年間の調査が終わる2012年頃だったので、湖底遺跡発見の話は聞きましたが、

「どうせガイドの言うことだし、伝説かホラだろ」なんて思ってました( -д-)ノ

向こうのガイドは気を惹いてチップもらうために嘘を積み上げる傾向があるのでね( ・Д・)


……いくら考古学者と言えど、、、


数多の嘘の中から真実を発掘しろと!?( ・Д・)

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2019ねん 7がつ 6にち(どよーび、晴れ)

週1の休みで十分研究していけるなと思っていたが、甘かった。

やはり2日欲しい!

だってその1日の休みを調査・研究に充ててたら休めてないじゃないか!( ・Д・)


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さて、今回の考古学・歴史ニュースは「古代マヤ文明のウシュル遺跡にて、斬首された大量の人々のお墓と、王子様のカップが見つかったよ!」というお話です。


  1. ウシュル遺跡の概要
  2. 斬首された大量の人々の墓の発見
  3. 史上初となる王子様のカップの発見
  4. おわりに


1.ウシュル遺跡の概要

ウシュル遺跡は古代マヤ文明に属する遺跡で、現在のメキシコに位置しています。

上に挙げた図で分かるようにユカタン半島の中央部付近にウシュル遺跡は所在しています。

このユカタン半島の中央部一帯は「マヤ中部低地」として所謂、最盛期である古典期(CE250-1000)の中心地として多く語られる地域です。

マヤ文明の遺跡としてよく目にするであろう「ティカル」や「カラクムル」もこの地域に属しています。

ウシュルはこの中心的な地域においてちょうど古典期に最盛期を迎えた都市国家遺跡であり、重要なマヤ遺跡のひとつとして認識されています。

(*「中心」とか「最盛期」とか表現上、ナイーブな問題を抱えていますが、ここでは割愛します( -д-)ノ)


細かく見ると、ウシュルは北東にカラクムル、南にエル・ミラドールというより大きな都市の間に立地してます。

古典期においてエル・ミラドールは既に衰退していましたが、ウシュル周辺域は古典期マヤ地域の中でも人口の集中したエリアだったと考えられます。

その他の古代マヤ都市国家と同様に、ウシュルは長距離交易に参加しており、およそ400km南方に位置する現在のグアテマラ高地や、およそ1000km西方に位置するメキシコ中央高原との諸関係が遺物・遺構から推定されています。

また残された碑文によると、ウシュルは西暦630年に近隣のより強大な都市国家であるカラクムルの支配下に入ったことが分かっています。

ちなみにウシュル(Uxul)はマヤ語であり、意味は「終わり」です。

これはオリジナルの名前ではなく、1934年にそれを再発見した2人の男性、カール・ルパート(Karl Rupper)とジョン・デニソ(John H. Deniso)によって与えられた名前です。


(↓「ティカル」も後から付けられた名前で、元々は「ムタル」と考えられています。

↑併せてどうぞ!ヾ(´ω`=´ω`)ノ)




2.斬首された大量の人々の墓の発見

ウシュル遺跡における本格的な考古学調査は2009年から実施されてきました。

主導しているのはドイツのボン大学(University of Bonn)に所属するニコライ・グルーベ(Nikolai Grube)で、彼は特に碑文研究者として著名です。

調査の初期は上に挙げた測量図を作成するために時間の多くが充てられました。

上の図の上部、左右端にくすんだ水色に塗られた方形の遺構がありますが、これがアグアダ(Aguada;貯水池)になります。

それぞれおよそ250m×500mという規模であり、推定貯水量はそれぞれ2500万Lと巨大な貯水池を有していたことが分かりました。

この貯水池は調査され、水が溜まるように内面が焼成粘土で覆われていたことが確認されました。

前述のマヤ中部低地は大きな河川や湖沼といった水資源に乏しい環境にあるため、多くのマヤ都市は巨大な貯水池を造営していましたが、内面に対してセラミック化という大掛かりな加工を施していたことが確認された事例としてもウシュルは重要な遺跡です。

さて、貯水池の調査の後、2013年には付近の発掘調査によって大型の墓地が発見されました。

古代マヤの葬制では、親族の遺体を床面や新たに付加する階段の下部に埋葬して、「死者と共に暮らす」というスタイルが取られていました。

日本ではお墓は別にありますが、仏壇が家庭にある場合もありますから、「祖先と共に暮らす」という点で理解しやすい風習かなと思います。

古代マヤではそういった葬制の特徴から、住居・神殿建造物と墓が密接な関係にあり、「生の空間」と「死の空間」を区別しません。

そのため所謂「墓所」や「墓域」という空間を構成しないのが通例ですが、このウシュルの事例では24体の人骨がまとまって出土した大型の墓場が検出されたのです。

これたの人骨を調査したところ、24体の全てが埋葬前に首を切り離されていたことが分かりました。

また人骨には、頸骨への斧痕、治癒痕のない頭蓋骨折、頭骨表面の死亡時の切創痕などを含む、激しい受傷痕跡が確認されました。

これらの人骨の多くは男性であり、その何人かは栄養失調や歯が崩壊した特徴を示していました。

古代マヤ美術では土器や壁画に対してペインティングにより様々な情景が描かれていますが、有名なボナンパクの壁画では他の都市国家の敵、つまり戦争捕虜を斬首等の方法で取り扱う情景が描かれています。

そのため恐らくウシュルでのこの発見は、ボナンパクの壁画に見られるような戦争による捕虜の獲得と儀礼的処刑という文化が存在したことの物的な証拠となるでしょう。

古代メキシコ文化では戦士の殉葬が多く見られ、このような大量の人骨が一度に発見されることも珍しくありませんが、古代マヤ文化における事例としては注目に値する大きな発見だと思います(*・ω・)ノ





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3.史上初となる王子様のカップの発見

さてこのウシュル遺跡からは王子様のカップが史上初めて発見されました。

何故、王子様のカップと分かるかというと、

①王族の墓の副葬品として出土した点

②土器に描かれた文字に「王子のコップ」と書いてあった点

この2点が根拠となっています。

古代マヤ文明の地の大部分は現在のグアテマラとメキシコの熱帯雨林地帯、所謂ジャングルの中にあります。

その環境も相まって、昔から盗掘が絶えません。

グアテマラでは最近になっても「盗掘天国」として地元新聞の一面を飾ったように、現在も抱える文化財保護上の大きな問題となっています( -д-)ノ

一方で特に古典期後期(CE600-1000)の多彩色土器はマヤ文字情報を含み、「その土器の所有者や用途」について記載されていることが、近年の碑文研究成果によって明らかとなっていました。

ですので「王子や王様の器」と解読できるマヤ文字を含む土器資料はこれまでにも確認されていましたが、どれもアメリカやヨーロッパの博物館が所蔵する土器資料群、つまり過去の盗掘品だったわけです。

つまり今回「史上初」としているのは「学術的な調査で出土した資料として初めて」という意味なのです。

ウシュルでの発見は、考古学的な一次情報を全て有している資料の事例として、実は大変重要な考古学的価値があるのです(*・ω・)ノ


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さて、上に挙げた写真が実際に発見された若い王子の古代の墓です。

墓が検出されたのは宮殿と考えられる複合建造物であり、最初の測量図における「上部の白抜き部」に相当します。

この宮殿は短軸120m、長軸130mの規模であり、5つの中庭を囲む少なくとも11基の個別の建物で構成されています。

(個人的には右下に見える大きな複合建造物群も宮殿クラスじゃないかと思うのですが、まぁいいでしょう( ・Д・))

建造物の詰土から出土する土器破片資料の分析から、これらの複合建造物群(宮殿)は西暦650年頃に建てられたと推定されています。

上の写真で見て取れる人骨を分析したところ、王子の年齢は20~25歳で男性と考えられ、周辺には9点の土器が副葬品として捧げられていました。

この9点の副葬された土器の内の1点には、「これは若い男の杯/王子様」というマヤ文字表記がなされていました。

また別の土器には「西暦711年」と考えられる日付が記されており、被葬者の生きていた年代を示す資料が確認されています。

(マヤ土器の土器編年では一つの時期が200~250年程度の年代幅を有することが多いため、個人レベルの同定にはこうした文字情報による「暦年」の記載が重要なのです( -д-)ノ)




4.おわりに

この件の王子には王位継承権がなかったと推定されています。

というのも、王位継承者であれば「翡翠製の装飾品」が副葬されているはずだからです。

「王の墓」はよく話題に上がるので知っていますが、「王子の墓」って例を私はあまり知りません。

王の墓には確かに豪華な翡翠製品が見られますが、数ある王族の中で墓の副葬品の一つである翡翠製品が個人の王位継承権の有無を直接的に反映していることを証明した論文を知りません。

翡翠製品の研究をしていた知り合いもいますので、聞いてみようかな。

感覚では、それほど一対一の関係で考古学遺物が特定の事柄を直接的に反映することはなかなかないかなと思っています。

まぁそれが考古学の難しいところであり、面白いところなのです( -д-)ノ(と思います)。



・・・・・・ところでこの王子様はイケメンだったのでしょうか?

気になるところですね( ・Д・)



↓気になった方はどーぞ( -д-)ノ( -д-)ノ
↑とても古い記事ですけどね( -д-)ノ( -д-)ノ

↓微妙にフォロワー数1000人に届きそう……で届かない!( ・Д・)↓

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2019ねん 3がつ 22にち(きんよーび、雪)

寒い。

早くフィールドに出たいから暖かくなって欲しかったのに、

気温は例年並みかそれ以下に急下降。

春よ、来い!ヽ(TдT)ノ


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今回の考古学・歴史ニュースは『マヤ北部低地の主要都市遺跡チチェン・イツァの地下にあるバラムク洞窟で大量の儀礼品が発見された!』ということです(*・ω・)ノ

古代マヤ文明の地であるユカタン半島では、特に北部地域において石灰岩層が陥没して生じるセノーテ(上の写真)が集中して見られます。


この北部地域において主要なマヤ都市のひとつであるチチェン・イッツァは観光地としても非常に有名です。


特に春分・秋分の日に、エル・カスティーヨの階段側面に見られる「ククルカン(羽毛の生えた蛇)の降臨」のイベントで知られています。



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↑階段の側面部に蛇のうねうねした影が映る仕組みになっている(「Queen Angel」さんの記事内画像より転載)



今回の発見の舞台はこのチチェン・イツァ遺跡の地下にある洞窟です。


チチェン・イツァ遺跡の地下には複数の洞窟が確認されており、その多くは連結していることが分かっています。


この洞窟群のひとつである「バラムク洞窟」にて150点以上の儀式用の遺物集中が発見されました。


バラムク洞窟は1966年に発見されて、内部に遺物があることも記録されていましたが、調査されないまま50年以上が経過していました。


鍾乳石が発達するような洞窟内のためか、落盤もなく、非常に良好な保存状態で多くの土器を中心とする遺物がそのまま眠っていました。



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↑まるで時間が経過していないかのような大量の遺物集中が見られる(「NACIONALGEOGRAPHIC」における関連記事のギャラリー画像より一部加工;credit: KARLA ORTEGA)




私はナショナルジオグラフィックが好きですが、色々見ててやはりここの助成を受けた調査は華やかな発見が多いな~って思います。


これだけの良好な保存状態の遺物集中をもし見つけたら、私ならその場でお祭り騒ぎになりますね!


……ま、冷静になれば、図面取るのが面倒くさいなと思い始めるでしょうが( -д-)ノ


↓こんな発見をしてみたい!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!↓

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