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歩け、マヤ -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

タグ:古墳

2019ねん 6がつ 5にち(すいよーび、雨)

資料調査の際は週5~6日で一日6~8時間は土器を見ている。

それが2週間から1ヶ月続く。

普通に博物館を訪れて写真を撮りつつ、メモを取るだけの時も1~2日かけて限られた僅かな資料を見ている。

今、川砂中の鉱物の同定精度に苦しんでいるが、やはり時間のかけ方が問題な気がしてきたヽ(TдT)ノ

毎日、少しでも鉱物を観察することにする( -д-)ノ

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【目次】
  1. 考古学遺物の修復・保存と展示について
  2. サルマタイ(サルマート文化)と古墳について
  3. おわりに -遺跡・遺物にとっての新しい歴史と考古学調査の意義-


1.考古学遺物の修復・保存と展示について

今回の考古学・歴史ニュースは、「バシコルトスラン共和国にて2400年前の古墳から出土した黄金製品を発掘調査の際に激しく傷つけてしまい、そのまま展示しているよ!」ってお話です(*・ω・)ノ

美術の世界ではプロフェッショナルの修復士がいて、誰もが知っているような有名な作品の修復・保存に貢献していますね。

考古学の世界でも修復・保存は重要な課題として提起されてから決して短くない歳月が流れていますが、美術の世界に比べると特化した人材育成と考古学研究・調査への参加具合は芳しくないと思っています。

例えば古代マヤ文明では「絵文書土器」に代表されるようなペインティング(彩文)の技法が用いられた多彩色土器が有名ですが、ほんのひと昔前までは「出土した状態のままでは『美しくない』」という理由から、オリジナルの彩文の上から現代の塗料を塗って見栄えを良くして展示するということが実際になされていました。

現在では特に遺跡を文化財として保存・活用しようという試みから(邪推するならば観光活用と外貨獲得のため)、修復・保存の必要性を強く訴える考古学者もいますが、技術・制度面としては特別進展は見られないように思います。

遺物の保存に関しても経済的、そして技術的理由からなかなか進展していません。

このようなお話をしたのも、今回の古代の黄金製品は「出土した状態のまま」で展示しているからです。

調査中にミスで大きく傷つけてしまったなら、多少の修復をして展示する、あるいはそれが分からないような展示方法を取ることが一般的です。




上に挙げた写真が、調査中に盛大に「ガジッた」黄金製品です。

あまりにも大きく激しく傷ついてますから、元からこういう造形なのかと思ってしまうほどです。

恐らく小型のピッケルでがっつり一撃加えてますねヽ(TдT)ノ

金は柔らかいとは言え、全力で振り切った感がします。

何故、このような見事な黄金製品が出土する「古墳」でそのような発掘方法を取ったのかは謎ですが、考古学者あるいは「ガジッた」経験のある発掘調査参加者には色々な意味で面白いと思います。

ちなみに「ガジッた」=「傷付けた」で、発掘調査中に移植ゴテやエンピ等の堀具によって遺物を掘り出す際に、遺物を傷付けてしまうことを言います。

新しい傷は、新しい剥離、割れの断面の様相が見て取れるので、考古学者や見慣れた人には一目で「やったな」ってのがバレます(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

話を戻しまして、この黄金製品はこれだけ激しく傷付いているのに、一切直さず、かつ360度見えるような展示方法を取っています。

展示スペースを壁側にして、傷の面を壁の方に向ければ済むのですが、敢えてそれをしていません。

何故このような展示方法を取るのかは本当のところは分かりませんが、「発掘調査中の経緯」が当事者には分かるので面白いなと思います。

これだけ変形させられたのもこの遺物にとっての「歴史」なのであり、博物館案内でもその「歴史」を紹介することでくすっと笑えますし、考古学調査をより身近に感じる契機になるかも知れません。

そういう意味で、出土した際のありのままの状態で展示・保存することにも意味があるのだなと考えさせられる展示でした(。・ω・)ノ゙




2.サルマタイ(サルマート文化)と古墳について

さて、今回の「ガジッちゃった黄金製品」が出土したのはバシコルトスラン共和国です。

私達日本人には一般的には聞き慣れない国名だと思いますが、ロシアの首都モスクワから東に約1000kmの位置にあります。

バシコルトスタン共和国の首都はウファであり、およそ140もの民族が居住する超多民族共和国です。

上に挙げた写真はサルマタイ文化あるいはサルマート文化(以下、サルマタイ文化で統一して記述します)の中心部の位置を示したものです。

このサルマタイ文化はサルマタイ人あるいはサルマティア人(以下、サルマタイ人で統一して記述します)というイラン系の遊牧民集団が紀元前4世紀~後4世紀に築いた文化です。

中心地は黒海北岸周辺なのですが「遊牧民」なのでかなり広範に活動していたようです。

というのもバシコルトスラン共和国は上に挙げた画像の通り、黒海からかなり離れているのです。

計測してみると黒海北岸まで約1900km離れています。

これだけサルマタイ文化の中心地とは離れた場所に位置していますが、バシコルトスラン共和国ではサルマタイ文化の古墳群が存在しており、そこから多くの黄金製品が出土しています。


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さて、これまで分かり易く「古墳」として紹介してきましたが、実際の用語としては「クルガン」が用いられています。

クルガンは日本の古墳と同様に墳丘墓であり、上の写真で紹介したように、石を積んで造られたマウンドと土を盛って造った所謂「土饅頭」状のマウンドに分けられます。

日本の古墳には石製の玄室が見られますが、クルガンでは木製の玄室が見られます。

クルガンも支配階級の人物の埋葬施設であり、サマルタイ文化等のクルガンを有する文化の担い手は遊牧民集団であることから、一般的に見られる豪華な副葬品の他に、弓矢(鏃)・矢筒、馬や馬で引く構造の古代戦車などが納められました。

ちなみにサルマタイ文化の葬制では仰臥伸展葬、南枕が慣例だということで、中国思想の影響を受けた日本の古墳時代の北枕とは異なりますが、やはり方角を気にしていたという点で興味深いですね(*・ω・)ノ

さて、今回の黄金製品が出土したのは紀元前4世紀に属するフィリポフ・クルガン群(古墳群)から発見されたものです。

フィリポフ・クルガン群は6kmに渡って25基の古墳が建造されています。

日本にもたくさんの古墳が密集した古墳群が見られますが、黒海を中心とした西ユーラシアから東ヨーロッパにかけてたくさんのクルガン群が確認されています。


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またクルガンを建造するという文化は遊牧民集団の性質も相まって広範な分布を見せます。

このことから1956年にマリヤ・ギンブタス (Marija Gimbutas)により 「クルガン仮説」が提唱されています。

クルガンを有する文化をクルガン文化とし、クルガン型の墳丘墓がヨーロッパを含めて広く伝播したと考えるものです。

この時、サルマタイ文化の中心地である黒海周辺が原インド・ヨーロッパ語を話す人々の起源であり、遊牧民としての諸活動や文化の伝播の過程で原インド・ヨーロッパ語の方言が多数派生したことで、多様なインド・ヨーロッパ語族が生まれたとする仮説です。

「インド・ヨーロッパ語族」については歴史、特に世界史で勉強すると思いますが、あの歴史の教科書で見た印欧語族の広い分布と彼らによる長い長い興亡の歴史はクルガンから始まっているのですね(。・ω・)ノ゙

・・・まぁ本記事は「盛大にガジッた黄金製品」から始まっていますけどね( -д-)ノ


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さて、「古代の遺物は現代における調査の際の歴史をも有するんだ!」ということから始まったわけですが、うん、思い返してみても、調査者としてはガジッた思い出は忘れないですね。

私も実は初めての発掘調査に参加した際に、最古級の石核をガジッた記憶があります。

しかもその資料の発見は地元新聞に載ったそうで・・・古いからね!ガジッたからじゃないですからね( ・Д・)

古代マヤ文明の調査史として聞く話は、ガジッちゃったみたいな軽いお話じゃなく、ヤバめのお話(犯罪と権力に関するお話)ばかりなので、ここでは書けないでしょうね(「象牙の塔」という言葉もありますけど、もじるなら、黒い巨塔、「黒曜石の塔」かな)。

まぁかるーいストーリーがあれば紹介したいなと思います(。・ω・)ノ゙

聞くところによれば、悲しいことにどこのフィールドでもどこの業界でも悪い奴はいくらでもいてピンピンしてるってことですね、世知辛い世の中だよ!ヽ(TдT)ノ

↓黄金製品が出土するのはやはり羨ましいな!なっ!!!( ・Д・)↓

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2019ねん 5がつ 30にち(もくよーび、晴れ)

22連勤目、疲れが溜まってきたようだ。

あと15連勤ある……

しかし学生時代の強制参加の無給(むしろ大きくマイナス)の発掘調査(15連勤くらい?)を思うと、超余裕である。

社畜ならぬ、「学畜」とか「院畜」という言葉はないのだろうか?( ・Д・)

今を苦しむ学生・院生諸氏のために拡散してたもれ!

……「いんちく」か、「うんちく」くらいしか知らないな( ・´ー・`)ドヤぁ


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↑古墳築造のための石材運搬の様子(復元)、「木製のそり」を使用している(「エナガ先生の講義メモ」の記事内画像より一部加工)


今回の考古学・歴史ニュースは、「国内で2例目となる古墳時代の石材運搬に用いたと考えられる木製の大きな「そり」が見つかったよ!」というお話です(*・ω・)ノ

国内で2例目、東日本では初めての事例となり、希少な歴史的発見なのです。

というのも、この「そり」は木製ですからね、そもそもなかなか残らないのです。

また「そり」は石材運搬に用いたと考えられる「実用品」ですから、お墓に丁重に副葬された他の木製品とは異なり、使ってた人々の「残そうという意思が薄弱」です。

壊れたらその辺にポイっと捨てたかも知れませんし、バラして薪として使ったかもしれません。

後者の場合はほぼ後世に残りませんよね。

もしそうしていたなら、古墳時代の人々よ、見事なリサイクルである( -д-)ノ




さて、出土した遺跡は千葉県木更津市に所在する松面古墳(まつめんこふん)です。

帰属時期は7世紀前半です。

松面古墳は祇園・浜長須賀古墳群(ぎおん・ながすがこふんぐん)の一つで、一辺約45mの方墳であり、周濠(しゅうごう;古墳の周りにある濠(ほり)のこと)から今回の修羅の一部が出土しました。

上に挙げた写真のキャプション、あるいは記事タイトルにあったように、「そり状の巨石運搬具」を「修羅(しゅら)」と言います。

最初に挙げた復元図でも、あるいは恐らく皆さんが見慣れているであろう古代エジプトのピラミッド建築の復元予想でも、「コロ」の上に台を載せて、その上に石材を積んでみんなで押したり引っ張ったりしていると思います。

その「コロの上の台」が見つかったということです。

日本の古墳時代の例ではコロの上の台が「V字状のそりのような形態」を成しています。

修羅と呼ばれるようになったのは近世以降とされており、その語源は「運搬する大石をタイシャクと読み、それを帝釈天に引っ掛け、帝釈天を動かせるものは阿修羅すなわち修羅であるとの語呂合わせからきたものとされている(wikiより転載;一部筆者修正)」そうです。

上に挙げた画像から分かるように、今回見つかった修羅は長さ約140cmの破片であり、大きな修羅のほんの一部ということになります。


分析結果から使用された木材はムクノキであることが分かっています。


一部とはいえ、良く残ったなぁと思いますね(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!



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↑しっかりと原型を留めていますね(「文化遺産オンライン」の紹介ページより画像を転載)



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↑下にミニのそりが見えるカワ(・∀・)イイ!!(「藤井寺市HP」の修羅紹介ページの画像より転載)



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↑サイズが大きいのがよく分かりますね(「組積石工技能」の記事内画像より転載)



さて、上に挙げた画像は国内で最初に見つかった修羅のものです。


1978年(昭和53年)に大阪府の藤井寺市に所在する三ツ塚古墳で発見されました。


こちらも周濠の底から出土しています。


この事例では大小2つの修羅が同時に出土しており、大型の修羅は全長8.8mに及びます。


先ほど紹介した松面古墳の事例ではおよそ三分の一が残存している状態で140cmでしたから、本来の全長はおよそ4.5mくらいと推定できます。


三ツ塚古墳の修羅はその2倍程度の大きさということになりますね。


まぁ個人的には小さい修羅の方が好きですけどねカワ(・∀・)イイ!!





この大型修羅は実は一本の木を丸彫りして作っています。

幹がちょうど二股に分かれた巨大なアカガシの樹を利用して作られているのです。

どの写真にも綺麗に加工された「孔」を見て取れます。

石材の固定の際に紐・縄を通すのに使用した孔であったり、あるいは前方部の孔は引っ張るための縄を通したものと考えられます。

注意して写真を見てみると、どれも綺麗な長方形に穿孔されていて、丁寧な加工が施されていること、そして素晴らしい保存状態であることが分かりますね(*・ω・)ノ


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さて、最後に挙げました写真のように、三ツ塚古墳にて出土した修羅は大阪府南河内郡河南町にある「近つ飛鳥博物館(ちかつあすかはくぶつかん)」にて展示されています。

非常に貴重な資料ですから、「国宝・重要文化財」に指定されています。

この博物館は陵墓・古墳に関する遺物を多く収蔵しており、古代の国際交流と国家の形成過程をテーマとしています。

興味ある方は是非足を運んで、直接その大きな修羅を目の当たりにしてみてください。

(例によって回し者ではありません、というか私も行きたい!( ・Д・))

↓ところで検索流入では何故か「超古代文明」が1位らしい……↓

↓うち専門ブログだから思いっきり批判してるけど大丈夫か?( ・Д・)↓


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2019ねん 4がつ 27にち(どよーび、曇り)

GW初日、とてものんびりと過ごした。

GW中も毎日ちょっとした仕事をすることにした。

僅かずつでも進むのである( -д-)ノ

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今回の考古学・歴史ニュースは『奈良県斑鳩町の住宅街にある古墳から5世紀のミニ銅鏡が出土したよ!』ってお話です(・∀・)つ

上に挙げた写真のように奈良県斑鳩町の住宅街にポツンと古墳があります。

この古墳は、「甲塚(かぶとづか)古墳」と呼ばれてきましたが、実際に古墳であるのかどうかはこれまで分かっていませんでした。

地元に残る伝承では「聖徳太子の孫の墓」とされてきたそうです。

今回の発掘調査によって、古墳の頂上部で埋葬施設が検出され、古墳であることが確定しました。

しかしながら出土した銅製の鏡が見つかったことから、5世紀中頃以降に造営された有力者の墓と推定されています。

「聖徳太子の孫の墓」ではなかったのです( ・Д・)




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埋葬施設から出土した銅製の鏡は直径約6cmという非常に小さなサイズのものです。

3枚目の写真で分かるように、中心部にある紐を通すための半球形の膨らみ部分の周辺に3重の圏線が巡っています。

この特徴から「重圏文鏡」という鏡だということがわかりました。

この銅鏡の種類を根拠に古墳の建造・埋葬時期は5世紀の中頃であったと推測しています。


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小さなものが好きな私にとってはミニ銅鏡、可愛いなと思ってしまいます。

小さいながらに精巧な作りであることがより良いですよねカワ(・∀・)イイ!!

それにしてもこれだけの住宅街の中にひっそりとあって、よく子供たちのいたずら等で掘り起こされなかったなと思ってしまいます。

「聖徳太子の孫の墓」ではなかったけれども、重要な人物の墓であるという伝承が古墳を守ってきたのかも知れませんね(。・ω・)ノ゙

↓ブログリーダーに登録しておくれ!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!↓

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2019ねん 4がつ 14にち(にちよーび、晴れ)

今日は暖かだった。

自然乾燥させてるので砂が乾いて良い。

何故、砂を集めるのかと聞かれる。

土器製作に際して、粘土に砂などの混和材を混ぜることはあまり知られていないんだなと気付いた今日この頃( ・Д・)


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今回の考古学・歴史ニュースは『岡山県で最古級の横穴式石室が見つかったよ!』ってことです!(*・ω・)ノ

実はこれまでにあまり古墳の話は取り上げていないんですよね。

関係ある記事ないのかな~と思い、ふと思い出したのがコレ↓( -д-)ノ


↓考古学の怪談話ってあまりないな~

↑「呪い」の話は多少あるか……まだ墓を当ててないから大丈夫( -д-)ノ


怪談話をするには季節早めですけど、良かったらどうぞ!(。・ω・)ノ゙

あ、こんなのもあったか!


↑あわせてどうぞ!


ということで、今回の発見は岡山県です!

津山市高尾にある桑山2号墳で、県北最古級の横穴式石室が見つかったとのことです。

そもそも横穴式石室を造る風習は4~5世紀に朝鮮半島から九州に伝わったものです。

その後日本全国に広がるのが6世紀以降と考えられています。

今回発見された横穴式石室の帰属時期は6世紀半ばと推定されていますから、一早く外来様式を取り入れた古墳だったと考えられます。

桑山2号墳は津山市南西部に所在する佐良山古墳群の一つで、直径約13mの円墳です。

検出された横穴式石室のサイズは奥行き約2.3m、幅は最大で約1.9mだそうです。

上に挙げた写真からも分かるように天井部と側壁の大半は損壊していたものの、盗掘を受けた痕跡はないそうです。

正方形状を呈する床面には河原石が敷き詰められており、側壁には小型の礫が使用されていました。

こういった構造的特徴は、岡山県の北部において確認されている横穴式石室が造られる最初期のものと同様であることが分かりました。




横穴式石室内からは副葬品として柄頭に装飾が施された環頭大刀(かんとうたち)や馬具一式が出土しました。

上に挙げた写真は副葬品の環頭大刀であり、全長は約80cmだそうです。

全体が錆に覆われているため、今後レントゲン撮影等のスキャン分析によって装飾の有無などを確認するそうです。

今回の発掘は岡山県における国道53号、津山南道路の整備に伴う緊急発掘調査です。

桑山2号墳周辺には他に同1~4号墳があり、残る3基も発掘する予定だそうです。

距離的に恐らく他の古墳も盗掘にあってないでしょうから、豪華な副葬品が出土することを期待できそうです!(・∀・)つ

今回出土した馬具にも金細工が施されていたようですから、資料の公開が待ち遠しいですねヾ(´ω`=´ω`)

↓たくさん押すときっといいことあるよ!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!↓

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2018ねん 4がつ 26にち(もくよーび、晴れ)

昨日と友人と大人飲みをした。

がっつり飲むのを我慢した。バッとあおりたい気持ちに耐えた。

結果、会計の額を抑えることができた。

「大人」は様々な制約の中で生きているものだなと思った。

しかしながら、酒量よりも友人の存在に頼った一時の幸せも悪くない。

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↑宮内庁の書陵部所蔵資料目録・画像公開システムより転載

【目次】
  1. 日本最大の古墳が一回り大きくなりました!
  2. 考古学と国家 -「大人」の事情による制限-

1.日本最大の古墳が一回り大きくなりました!
日本最大の古墳と言えば、歴史の教科書にも出てくる大山古墳(だいせんこふん)です。大阪府堺市にある大山古墳(あるいは大仙陵古墳)は全長486mの前方後円墳です。

44基の百舌鳥古墳群(もずこふんぐん;史跡指定は内、17基)を構成する古墳の1つです。宮内庁により「百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)」として第16代仁徳天皇の陵に治定されている。そのため「仁徳天皇陵」や「仁徳陵古墳」との名称を有しています。

宮内庁の書陵部によって公開された最新情報によれば、大山古墳の全長が実はかつて言われてきたよりもかなり大きかったことが明らかになったそうです。

大山古墳は深い内濠に囲まれているため、最新の測量機材として音の反響によって水深を測る装置を船に搭載して測定し、そこで得られた水深のデータを全地球測位システム(GPS)の位置情報と組み合わせて3次元化したものが上の図像になります。

この最新の測定方法により、内濠内の水中に残る墳丘の裾部分を確認することができ、濠の底で測った古墳の長は約525メートルだったことが分かりました。造営当初の全長はさらに大きくなる見込みのようです。

この技術を使えば、流行りの「天皇陵の周りの池の水を全部抜いてみた!」みたいなことしなくても正確な測量ができるようですね。


2.考古学と国家 -「大人」の事情による制限-
さて、ここで「全長」と言っているのは「墳丘長」のことです。過去のデータとの差は実に49m!約50mの差が出るなんて凄いですよね。

何故このような大きな差が出るのでしょうか。

昔は技術がなかったから?けっこう前からあったでしょう。調査資金がなかったから?調査主体は宮内庁の書陵部ですけどね。

…さて、一度話を変えまして、「考古学って何の役に立つの? 現代社会と関係なくない?」って思いませんか?

まぁ考古学は対象が古代であるイメージが強いですから、間違いじゃないとは思います。人類史が研究の射程とは言え、歴史時代に入ると史学系が強いですし、現代になれば直接的にアプローチや実験のできる人類学や社会学等々がありますからね。時代が新しくなればなるほど「モノ」以外の情報が多くなる傾向がありますし、考古学が肩身の狭い思いをするわけですね。

ところで考古学と国家、あるいは社会との関係を考えた際に、考古学の講義でよく出てくるのが、グスタフ・コッシナです。彼は「考古学的な文化の領域」=「民族の領域」と考えたわけです。

特徴的な遺物・遺構の組み合わせの広がりは、同一の文化集団の広がりとして、かなり短絡的に文化領域と民族(注:現在は用語としてほとんど使いません。あるいはとても気を付けて使います。ここでは分かりやすく一般的な意味での「単語」として使っています)を結び付けたわけです。

この考古学研究成果に基づく考え方は第二次世界大戦のナチスの思想に大きく影響を与えました。つまるところ、古代ゲルマン民族(あるいはアーリア人)の文化が残る範囲は全て「本来我々の土地であるため、それを取り返すことは当然である」として周辺国家への侵略を正当化する論理に利用されたわけです。

これは極端な事例かも知れませんが、考古学と国家あるいは現行の社会を結び付けた有名な事例ですので紹介しました。このような危険性は考古学だけに限ったことではありません。

しかしながら考古学は国の起源に触れる可能性の高い分野ですので、一部の人々にとっては明らかにされては困る、都合の悪いものを「掘り返してしまう」可能性があるわけです。

戦後の事例としてグアテマラの事例を挙げましょう。グアテマラでは1960年から1996年まで内戦が続きました。この間に約20万人もの国民が虐殺されました。

内戦終結後、とある現地考古学者が発掘調査を行っていたところ、大量の人骨集中を発見するに至りました。彼はそれが内戦時に虐殺された人々であるとして、虐殺行為があったことの証明として、また遺骨を遺族に返すことを目的に、自身のそれまでの調査研究の方向性を変えて現在も突き進んでいます。

当時の軍部の人間、特に将軍などは有罪として禁固刑の判決が出ていますが、当時の大統領は今でも権力者の一人として普通に生活を送っています。

知人の考古学者に聞いた話では、この考古学者は現在ボディーガードと共に行動し、防弾車で移動しており、常に誰かに命を狙われているそうです。

これらのことは海外だけの話でしょうか? 戦跡考古学というものがあります。その専門の方は第二次世界大戦時の基地の跡などを発掘調査し、実際にはどのような状態であったのか、文書として残らない部分を解明しています。

調査によって、機密文書が出土することもあるようで、当然国から調査の停止・禁止措置が取られるそうです。

最初のニュースとして挙げた大山古墳はどうでしょう? いわゆる陵墓問題です。大山古墳の被葬者は明らかになっていません。でも被葬者は仁徳天皇です。何故? 宮内庁がそう言うからです。

掘って確かめたら? 掘れません。禁止されていますから。現在も皇室による儀礼が行われている神聖な場所なのでダメ!が理由です。ちなみに宮内庁が陵墓指定している墳墓の数は約900基。一日3基で儀式を行えば十分終わる数ですね。

まぁ私も日本人考古学者なので正直これ以上詳しくは書きませんし、完全にど真ん中の専門というわけでもないので強く批判もしたくもありません(この辺が怖いところかも知れません)。

ちなみに宮内庁書陵部は年に一度の報告書(「書陵部紀要」)を数量限定で印刷・公開しています。書陵部の考古学者になれる人ってどのような人なのでしょうね?とかふと思ってしまいます。

古墳研究で著名なとある日本考古学者が書陵部が行う発掘調査の現地説明会に招待されたそうです。人生で一度だけとか。もちろん招待されない人は参加できません。当日呼ばれた考古学者は10名程度、厳重な警備の中で行われたそうです。

情報公開が叫ばれるこの現代社会で、不思議なものです。どうでしょうか、考古学は国家や現代社会と全く無関係なわけではないのです。もちろん研究者としてこちらから現代社会への繋がりを求める努力、社会還元を考えることは必要ですが、意図せず向こうから寄ってきて制限されることもあるのです。

書陵部によって復元される解釈とは一体何なのか。高校の世界史や日本史で学んできたことと思います。これが「歴史の作り方」です。

コナン君も言ってたな、「真実は全て闇の中!」...うろ覚えなので間違ってたらすみません。

↓よし、勇気を出してぽちっとな!それ、ぽちっとな!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!↓

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