にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ

あるけまや -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

タグ:地震

2019ねん 6がつ 22にち(どよーび、激しく雨)

ここの日記スペースに何を書くべきかをいつも悩む(´・ω・`)

下手すると本文以上に悩んでいる( ・Д・)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・

arukemaya443
↑仙台市、沓形遺跡の所在(「Googleマップ」より画像を転載)


今回の考古学・歴史ニュースは、「仙台市、沓形(くつかた)遺跡で弥生時代に水田を廃絶してしまうほどの大津波の痕跡が見つかったよ」というお話です(*・ω・)ノ

さて、前回スマトラ島沖地震を発端とした過去の大津波被害について考古学調査が明らかにしたよというお話を紹介しましたが、今回は日本の事例です。


↓これです(*・ω・)ノ
↑もう読みました?ヾ(´ω`=´ω`)ノ


上に挙げた図から分かるように、沓形遺跡は,宮城県、仙台市の東部にある遺跡です。

標高2~4mの後背湿地に立地しており、現在の海岸線から約3.8~4.km内陸に位置しています。

この沓形遺跡では最も新しい層では近現代の水田造営の痕跡が見られる層が確認されていますが、古くは縄文時代から弥生時代、古墳時代、平安時代と水田が営まれ続けた地点であることが分かっています。








この遺跡は2007年にに地下鉄東西線建設に伴う試掘調査が実施され、調査面積は213,600㎡にも及びます。

上の1枚目の写真から分かるように広大な遺跡であり、良く見ると「白いライン」が無数に走っているのが見て取れます。

これは2枚目の写真で分かるように、古代の「畦(あぜ)」を示したラインになります。

ちなみに「畦(あぜ)」とは「稲作農業において、水田と水田の境に水田の中の泥土を盛って、水が外に漏れないようにしたもの」です。       (wikipediaより引用)

分かり易い図を探していたら「畦カバー」なる商品の紹介画像を見つけたので、貼っておきました(いつものように回し者ではありません( -д-)ノ)。

上図の中で「ピンク色の矢印が付いている部分」が畦に相当する箇所であり、植えてある稲の周囲にある盛り上がった部分のことを言うわけです。


arukemaya440



さて、この沓形遺跡の地点は先に述べたように、現在の海岸線から4kmほど内陸に位置していますが、今からおよそ2000年前の弥生時代には2kmほど内陸に位置していたようです。

発掘調査から弥生時代に1度、この一帯が大きな津波被害を受けたことが確認されました。

上に挙げた写真で見られるように、水田を覆う「砂の層」が確認されたのです。

この砂は粒度組成分析などによって海浜起源の砂であることが明らかになりました。

この砂の層によって弥生時代中期の水田跡は完全に覆われており、津波被害によって廃絶したことが推定されました。

そしてこの場所に再び水田が営まれるのは古墳時代前期であり、つまり約400年後にようやく再開したことから確認された津波被害は当時のの集落に大きな影響を与えたことが推測されます。

この発見に伴い、沓形遺跡を中心とする周辺地域での津波堆積物の分布調査が実施されました。

それによって約2,000年前に生じた津波の遡上距離は当時の海岸線から約4.2㎞と算定され、2011年に発生した東日本大震災の津波(遡上距離約4㎞)と同規模の大津波が弥生時代に仙台平野を襲ったことが明らかになりました。

また沓形遺跡は2014年まで複数回の発掘調査が実施され、弥生時代中期に営まれていた水田域は東西約300m、南北約1.2km、面積20haを超える広範囲に及ぶことが判明しました。

これが全て約2000年前の津波被害で廃絶されてしまったことが分かったのです( ・Д・)



・・・・・・・・・・・・・・・・・・



ここ最近、多忙を理由に記事の紹介ができていませんでした。

時間が取れてもサクッと書けるような記事を選択していたので、特に考古学関係のニュースには触れていなかったです。

「考古学・歴史ニュース」という副題に恥じぬよう善処していきますね( ・Д・)( ・Д・)

前回のスマトラ島沖地震・津波関連記事を書いていた時から、日本における事例の紹介をしようと思っていたので、ようやく紹介できてよかったなと思います。

この事例では「東日本大震災と津波被害の前に」この範囲まで津波が到達して大被害をもたらしていたことが考古学的に分かっていたわけです。

こういった古代の地震や津波の被害が判明している事例は他にもたくさんあると思いますが、現代の地震・津波に対する避難対策といった防災にどうにか役立てることはできないものかと思いますね(。・ω・)ノ゙

↓応援よろしくお願いしますっ!ヾ(´ω`=´ω`)ノ↓

このエントリーをはてなブックマークに追加

2019ねん 6がつ 7にち(きんよーび、曇り)

なんだか天気がよろしくない。

次の晴天時は絶対にお散歩する!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

いかに暑かろうとも!( -д-)ノ


・・・・・・・・・・・・・・・・・・



さて、今回の考古学・歴史ニュースは、「現代の地震・津波被害を発端に、考古学調査によって約600年前の大津波の被害によって歴史から消え去った王国がスマトラ島で発見されたよ!」というお話です(*・ω・)ノ

今回も管理人の大好きなナショナルジオグラフィックの記事を参考にしたものです。

日本は元より地震大国なわけで、近年だけでも様々な地域で大地震による被害が出ています。

それにしても「南海トラフ地震」のせいでしょうか、最近はやたらと騒がれているように思えます。

さて、古代マヤ文明研究を中心として有名なリチャード・ウィルク(Richard Wilk)による「古代マヤ文明と現代政治(原題:The Ancient Maya in the Political Present)」では古代マヤ研究に関する論文と政治問題の関連性について述べています。

同論文ではアメリカ人研究者の「古典期マヤ文明の崩壊」のテーマに関する研究に対して、アメリカの政治問題が関係していることを指摘しました。

1960年代のベトナム戦争の頃は古代マヤ文明の衰退は「戦争・征服」が原因とされ、1970年代に環境保護運動が叫ばれるようになると古代マヤ文明の衰退は「環境問題」が原因とされました。

つまるところ、「学者も人の子」なわけで、現在の身の回りのことに知らず知らずの内に影響を受けてしまうということですね。

この研究事例からも分かるように、近年の考古学では地震や津波に関する研究・報告が目立つように思えます。

単純に社会環境に影響を受けたというわけではなく、積極的に社会問題を利用している場合もありますけどね、研究費の取り易さとか諸々の下心によって( -д-)ノ


arukwmaya374


さて、2004年12月26日にスマトラ沖を震源とした巨大な地震が発生しました。

マグニチュード9.1という観測史上3番目という大規模な地震でした。

この地震により、最大で高さ30mに達する津波がインド洋各地を襲い、インドやアフリカ大陸にも被害をもたらしました。

そして震源に近いインドネシア、スマトラ島北西のアチェ州でも大きな被害が生じ、死者は16万人に達しました。

このアチェ州にはかつてアチェ王国が存在していました。

16世紀に興ったイスラム教国であるアチェ王国は、東南アジアのなかでも数百年の間、植民地化に抵抗し続けた数少ない国のひとつでした。

しかし20世紀初頭まで存続したアチェ王国は近現代の歴史記録に残っているものの、その成立・勃興期である17世紀以前に集落があった証拠はこれまでにほとんど確認されていませんでした。


arukwmaya373
↑スマトラ島におけるアチェ王国の位置(「Wikipedia」の画像より転載)



今回の考古学的発見の契機となったのは先に述べた2004年の地震と津波の発生であり、それによって損壊した文化財の保全活動でした。


海岸部にて倒壊したイスラム教の古い墓石が数多く見つかったことから、過去においても同様の津波による被害があったのではないかと推測し、海岸部における土層の堆積状況を確認するための発掘調査が行われました。


結果、600年以上前の14世紀末にも同様の強烈な津波がアチェ周辺を襲っていたことが分かりました。


つまりこれまでに確認されていなかった17世紀以前の集落の痕跡は津波によって押し流されてしまっていたのです。


古い墓石や、陶器片、古いモスクの土台といった各種の考古学的遺物の分布を記録し整理した結果、遺物群が極めて多く集中するエリアが確認できたことから、かつて10の集落がこの地域にあったと推定されました。


陶器片から分かる時期判定によってこれらの集落はいずれも11~12世紀頃に出現したことが分かりました。


そして過去の巨大な津波が周辺を襲った西暦1400年前後に海岸沿いの低地にあった9つの集落は放棄され、高台にあった1つの集落だけが存続したことが分かりました。


この高台に残る遺跡からは、中国で製造された陶器やシリア産の陶器が出土しており、一方で9つの低地の村からはこうした遠方から搬入された陶器は確認されていません。


このことから、中世の「海のシルクロード」に関する歴史文献に記されている「ラムリ」という交易の地が、この生き残った高台の集落だったのではないかと推測されているのです(。・ω・)ノ゙




・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「文系学問は金にならんし、役に立たない」と政府や企業にレッテルを貼られてから久しいですね(「令和」の改元時に手のひら返し的な復興の兆しが見えましたけども( ・Д・))。

私も「考古学は一体何の役に立つのだろう」と真剣に悩んだこともありました。

確かに現在のところ、考古学は単独でお金を生みません。

例え、あと1000年経っても考古学はIT的な新商品も開発しないし、宇宙にも飛び出したりしないでしょう。

(そういう意味では、ある種「超古代文明」に関するテーマの方が宇宙にも飛び出しそうだし、お金になる気がする( ・Д・))

考古学は他学問の方法論は借りるのが好きですが、他に貢献できる独自の一般理論もありません。

しかしながら今回の記事だけを見ても、文化財保護は国際協力に関する諸活動や当該国の観光資源活用に関係するし、発掘調査という手法だけでも文献史学を始めとする近隣の諸学問の発展に寄与しているように思えるんですけどね~( -д-)ノ

「役に立つ」って一体何なんでしょうね?( ・Д・)

皆さんはどう思いますか?

↓それはともかく押してくれぃ( ・Д・)!↓
↓それ、押してくれぃ!ほい!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!↓

このエントリーをはてなブックマークに追加

↑このページのトップヘ