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あるけまや -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

タグ:埋葬

2019ねん 7がつ 6にち(どよーび、晴れ)

週1の休みで十分研究していけるなと思っていたが、甘かった。

やはり2日欲しい!

だってその1日の休みを調査・研究に充ててたら休めてないじゃないか!( ・Д・)


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さて、今回の考古学・歴史ニュースは「古代マヤ文明のウシュル遺跡にて、斬首された大量の人々のお墓と、王子様のカップが見つかったよ!」というお話です。


  1. ウシュル遺跡の概要
  2. 斬首された大量の人々の墓の発見
  3. 史上初となる王子様のカップの発見
  4. おわりに


1.ウシュル遺跡の概要

ウシュル遺跡は古代マヤ文明に属する遺跡で、現在のメキシコに位置しています。

上に挙げた図で分かるようにユカタン半島の中央部付近にウシュル遺跡は所在しています。

このユカタン半島の中央部一帯は「マヤ中部低地」として所謂、最盛期である古典期(CE250-1000)の中心地として多く語られる地域です。

マヤ文明の遺跡としてよく目にするであろう「ティカル」や「カラクムル」もこの地域に属しています。

ウシュルはこの中心的な地域においてちょうど古典期に最盛期を迎えた都市国家遺跡であり、重要なマヤ遺跡のひとつとして認識されています。

(*「中心」とか「最盛期」とか表現上、ナイーブな問題を抱えていますが、ここでは割愛します( -д-)ノ)


細かく見ると、ウシュルは北東にカラクムル、南にエル・ミラドールというより大きな都市の間に立地してます。

古典期においてエル・ミラドールは既に衰退していましたが、ウシュル周辺域は古典期マヤ地域の中でも人口の集中したエリアだったと考えられます。

その他の古代マヤ都市国家と同様に、ウシュルは長距離交易に参加しており、およそ400km南方に位置する現在のグアテマラ高地や、およそ1000km西方に位置するメキシコ中央高原との諸関係が遺物・遺構から推定されています。

また残された碑文によると、ウシュルは西暦630年に近隣のより強大な都市国家であるカラクムルの支配下に入ったことが分かっています。

ちなみにウシュル(Uxul)はマヤ語であり、意味は「終わり」です。

これはオリジナルの名前ではなく、1934年にそれを再発見した2人の男性、カール・ルパート(Karl Rupper)とジョン・デニソ(John H. Deniso)によって与えられた名前です。


(↓「ティカル」も後から付けられた名前で、元々は「ムタル」と考えられています。

↑併せてどうぞ!ヾ(´ω`=´ω`)ノ)




2.斬首された大量の人々の墓の発見

ウシュル遺跡における本格的な考古学調査は2009年から実施されてきました。

主導しているのはドイツのボン大学(University of Bonn)に所属するニコライ・グルーベ(Nikolai Grube)で、彼は特に碑文研究者として著名です。

調査の初期は上に挙げた測量図を作成するために時間の多くが充てられました。

上の図の上部、左右端にくすんだ水色に塗られた方形の遺構がありますが、これがアグアダ(Aguada;貯水池)になります。

それぞれおよそ250m×500mという規模であり、推定貯水量はそれぞれ2500万Lと巨大な貯水池を有していたことが分かりました。

この貯水池は調査され、水が溜まるように内面が焼成粘土で覆われていたことが確認されました。

前述のマヤ中部低地は大きな河川や湖沼といった水資源に乏しい環境にあるため、多くのマヤ都市は巨大な貯水池を造営していましたが、内面に対してセラミック化という大掛かりな加工を施していたことが確認された事例としてもウシュルは重要な遺跡です。

さて、貯水池の調査の後、2013年には付近の発掘調査によって大型の墓地が発見されました。

古代マヤの葬制では、親族の遺体を床面や新たに付加する階段の下部に埋葬して、「死者と共に暮らす」というスタイルが取られていました。

日本ではお墓は別にありますが、仏壇が家庭にある場合もありますから、「祖先と共に暮らす」という点で理解しやすい風習かなと思います。

古代マヤではそういった葬制の特徴から、住居・神殿建造物と墓が密接な関係にあり、「生の空間」と「死の空間」を区別しません。

そのため所謂「墓所」や「墓域」という空間を構成しないのが通例ですが、このウシュルの事例では24体の人骨がまとまって出土した大型の墓場が検出されたのです。

これたの人骨を調査したところ、24体の全てが埋葬前に首を切り離されていたことが分かりました。

また人骨には、頸骨への斧痕、治癒痕のない頭蓋骨折、頭骨表面の死亡時の切創痕などを含む、激しい受傷痕跡が確認されました。

これらの人骨の多くは男性であり、その何人かは栄養失調や歯が崩壊した特徴を示していました。

古代マヤ美術では土器や壁画に対してペインティングにより様々な情景が描かれていますが、有名なボナンパクの壁画では他の都市国家の敵、つまり戦争捕虜を斬首等の方法で取り扱う情景が描かれています。

そのため恐らくウシュルでのこの発見は、ボナンパクの壁画に見られるような戦争による捕虜の獲得と儀礼的処刑という文化が存在したことの物的な証拠となるでしょう。

古代メキシコ文化では戦士の殉葬が多く見られ、このような大量の人骨が一度に発見されることも珍しくありませんが、古代マヤ文化における事例としては注目に値する大きな発見だと思います(*・ω・)ノ





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3.史上初となる王子様のカップの発見

さてこのウシュル遺跡からは王子様のカップが史上初めて発見されました。

何故、王子様のカップと分かるかというと、

①王族の墓の副葬品として出土した点

②土器に描かれた文字に「王子のコップ」と書いてあった点

この2点が根拠となっています。

古代マヤ文明の地の大部分は現在のグアテマラとメキシコの熱帯雨林地帯、所謂ジャングルの中にあります。

その環境も相まって、昔から盗掘が絶えません。

グアテマラでは最近になっても「盗掘天国」として地元新聞の一面を飾ったように、現在も抱える文化財保護上の大きな問題となっています( -д-)ノ

一方で特に古典期後期(CE600-1000)の多彩色土器はマヤ文字情報を含み、「その土器の所有者や用途」について記載されていることが、近年の碑文研究成果によって明らかとなっていました。

ですので「王子や王様の器」と解読できるマヤ文字を含む土器資料はこれまでにも確認されていましたが、どれもアメリカやヨーロッパの博物館が所蔵する土器資料群、つまり過去の盗掘品だったわけです。

つまり今回「史上初」としているのは「学術的な調査で出土した資料として初めて」という意味なのです。

ウシュルでの発見は、考古学的な一次情報を全て有している資料の事例として、実は大変重要な考古学的価値があるのです(*・ω・)ノ


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さて、上に挙げた写真が実際に発見された若い王子の古代の墓です。

墓が検出されたのは宮殿と考えられる複合建造物であり、最初の測量図における「上部の白抜き部」に相当します。

この宮殿は短軸120m、長軸130mの規模であり、5つの中庭を囲む少なくとも11基の個別の建物で構成されています。

(個人的には右下に見える大きな複合建造物群も宮殿クラスじゃないかと思うのですが、まぁいいでしょう( ・Д・))

建造物の詰土から出土する土器破片資料の分析から、これらの複合建造物群(宮殿)は西暦650年頃に建てられたと推定されています。

上の写真で見て取れる人骨を分析したところ、王子の年齢は20~25歳で男性と考えられ、周辺には9点の土器が副葬品として捧げられていました。

この9点の副葬された土器の内の1点には、「これは若い男の杯/王子様」というマヤ文字表記がなされていました。

また別の土器には「西暦711年」と考えられる日付が記されており、被葬者の生きていた年代を示す資料が確認されています。

(マヤ土器の土器編年では一つの時期が200~250年程度の年代幅を有することが多いため、個人レベルの同定にはこうした文字情報による「暦年」の記載が重要なのです( -д-)ノ)




4.おわりに

この件の王子には王位継承権がなかったと推定されています。

というのも、王位継承者であれば「翡翠製の装飾品」が副葬されているはずだからです。

「王の墓」はよく話題に上がるので知っていますが、「王子の墓」って例を私はあまり知りません。

王の墓には確かに豪華な翡翠製品が見られますが、数ある王族の中で墓の副葬品の一つである翡翠製品が個人の王位継承権の有無を直接的に反映していることを証明した論文を知りません。

翡翠製品の研究をしていた知り合いもいますので、聞いてみようかな。

感覚では、それほど一対一の関係で考古学遺物が特定の事柄を直接的に反映することはなかなかないかなと思っています。

まぁそれが考古学の難しいところであり、面白いところなのです( -д-)ノ(と思います)。



・・・・・・ところでこの王子様はイケメンだったのでしょうか?

気になるところですね( ・Д・)



↓気になった方はどーぞ( -д-)ノ( -д-)ノ
↑とても古い記事ですけどね( -д-)ノ( -д-)ノ

↓微妙にフォロワー数1000人に届きそう……で届かない!( ・Д・)↓

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2019ねん 6がつ 3にち(げつよーび、晴れ)

今日は暑い!

そーめんが美味しい季節になってきた~

ここ最近はつけ麺ばかりだけども、そうめん、ひやむぎの出番かな~( ・Д・)


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さて、今回の考古学・歴史ニュースは、「2000年前の古代エジプトで犬もペットとして手厚く葬られていたよ!」ってお話です。

ペットの歴史とか、日本の縄文時代における犬の手厚い埋葬例の話も過去にありましたね。

確か渡来人が犬を食べる風習があったけど、縄文系の人々にその風習は根付かず狩りのパートナーであり家族でもあった犬を手厚く葬っていた事例が考古学的に確認されたという紹介だったような。

……うむ、過去の記事が見当たらない!( ・Д・)

ライブドアブログの記事検索は使いにくいからと人のせいにしておきます( -д-)ノ


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さて、今回の発見の舞台は現在のエジプトの中部にあるミニヤ(Minya)県に所在する遺跡、トゥーナ・エル・ガバル(Tunah Al-Gabalです。


遺跡はエジプトの首都カイロの南方およそ260kmに位置しています。


この遺跡は墓地遺跡で、所謂「ネクロポリス」です。


エジプト考古省の発掘調査によって同遺跡の地下に墳墓があることが確認されました。


地下墳墓は、地下およそ9mの位置に造られており、墓室はこれまでに6つ確認されています。


発見されたミイラは全部で40体以上にのぼり、内22体が成人、12体が子供、6体が動物でした(他に保存状態が良好ではないミイラが発見されている)。


これらの大量のミイラはその多くが墓室床面に設置されており、一部の限られたミイラだけが最初に挙げた写真のように棺に納められていました。


この棺は石棺ではなく、粘土由来の陶製棺であり、蓋がないのが特徴です。


陶製棺に納められた人々は、より高い社会階層に属した人々であったと考えられています。



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↑たくさんのミイラが安置されていた(「AFP BB NEWS」の記事内画像を一部加工;Credit: MOHAMED EL-SHAHED / AFP



古代エジプトにおけるミイラ作りの歴史は長いですが、共伴して出土したパピルスの分析から、地下墳墓とこれらのミイラは古代エジプトのプトレマイオス朝(紀元前323~30年)の時期にに帰属すると推定されています。

 

今回発見された6体の動物のミイラのほとんどが「イヌ」であると同定されており、ヒトのミイラと共に安置されていました。


イヌは1万5000年前頃にオオカミと分化し、当時の人々の狩猟生活を支える上で実用面で非常に重要でした。

1万2000年前までには人間には欠かせないパートナーとなっていたと考えられています。

今回の発見からは、2000年前の古代エジプトの人々にとって犬が実用面だけではなくペットとして家族として非常に大切な存在だったことを示しています。

現在の私達のペットを想う気持ちと関係が、既にこの頃には誕生しており、ミイラとして共に埋葬するという形に現れているわけですね(*・ω・)ノ。


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ミイラと言えばやはりエジプトを思い浮かべますが、ミイラは歴史的に世界各地で見られる風習です。

また自然環境の影響を受けて自然にミイラができる地域もありますね。

以前、世界のミイラについてまとめて書いたような気がしますが見つかりませんでした( ・Д・)

何の考古学・歴史ニュースに併せて書いたのだったか……ヽ(TдT)ノ

探しておきますが、ひとまずミイラ関係の記事を紹介しておきます。


↓「ミイラ」関係のバックナンバー
↑良かったら併せてどうぞ!(。・ω・)ノ゙

↓あ、縄文のイヌに関する記事が見つかりました~!
↑こちらも良かったらど~ぞ~ヾ(´ω`=´ω`)ノ

↓SEO対策として「歴史」って無駄に書いてみるぞ!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!↓

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2019ねん 1がつ 13にち(にちよーび、晴れ)

運動しないとな・・・・・・

食事制限だけでダイエットすると、

ストレスたまります!( ・Д・)


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↑仲良く並んだ男女二人の遺体、右の男性が傍らの女性の方を向いている(「CNN.co.jp」の記事内画像より転載; credit: Nilesh Jadav/Deccan College )



今回、紹介する考古学・歴史ニュースは、「インダス文明の遺跡にて寄り添う男女のお墓が見つかる!」です(*・ω・)ノ


この発見が成された場所は古代文明の1つ、インダス文明の中心地だったハラッパーの都市遺跡です。

日本の歴史教育においても「世界四大文明」(かつてはそう言われてましたよね)としてインダス文明を習うと思います。高校の世界史ではハラッパも教科書に出てくると思います。

この発見に関係する記事を見ていると、分かり易さのためでしょうか、インドでの発見って見出しに書いてあるんですよね。


インダス文明って音がインドっぽいけど、インダス文明の標識遺跡であるハラッパーやモヘンジョダロはパキスタンにあります。




上に挙げた画像の通り、ハラッパー遺跡はパキスタンに所在します。分かり易いように日本を右上端に表示し、周辺国の位置関係が分かるようにかなり引いてますので、画面の端が歪んでます(地球丸いので)。

ちなみにインダス文明の別名はハラッパ―文化です。領域としてインドも含みますが、インドの文明というのは思い込みです。インダス川に由来する名称ですからね。



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さて、世界を対象としたマクロな視点では男女が仲睦まじく埋葬される事例がいくつか検出されています。

しかしインダス文明、ハラッパー遺跡にてこのような事例が発見されるのは初めての事例になります。


墓の年代は紀元前4500~2500だそうで、この他にも1個体が埋葬される一般的な墓が数十例確認されているとのこと。


最初に挙げた写真から分かるように、2体の人骨が並べて配置されています。そして右側の男性の頭部が傍らの女性の方を向いた状態になっており、意図的に配置した可能性があるようです。


このような並んで横たわる様子から男女二人は極めて親密な関係にあっただろうと、恐らくは夫婦だったのではないかと推測されています。


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となると「問題は、二人揃って死亡したのか?」ということですね。



男性は35~45歳、女性は20代前半という年齢推定結果が出ていますから、一緒に死んだにしては女性が若過ぎるなと思いますね


(若い奥さんで羨ましいなという意味ではありません、、、羨ましいけども!( ・Д・))。



骨には病気にかかっていた痕跡や殺害された痕跡は見つからなかったとのことです。



また古代には夫が死亡すると妻が後を追って自ら命を絶つしきたりもあったとされていますが、専門誌が今回の発見について述べているようにその事例の引用は不適切だろうと私も思います。



もしそのような風習が一般化しているならば、このような埋葬事例が多数見つかるはずです。



同遺跡の同区域内で数十例の墓が検出されているのに、この1例だけが妻が殉葬するというのはおかしいのです。



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さて、偶然このような年齢差のある夫婦が共に死亡する事例が起きたというのも味気ないですので


(例えば、骨に痕跡が残らないだけで、二人揃って毒キノコ混入のスープを飲んでしまったとか;注:学問的には解釈が別に味気なくても良い)( -д-)ノ・・・





・・・とても個人的な意見として、再葬ではないのか?と思います。



調査者の見解である、女性に対して男性が顔を向けるという配置が意図的なものであると仮定した場合、何故女性は男性側を向いていないのでしょう?


仲睦まじさを表現するのならば、女性も男性側を向いていても良いと思うのですが……





憶測ですが、


①女性が何らかの要因で早逝する。女性は通常通り、上向きの伸展葬で埋葬される。


②夫である男性がその後やや長生きし、死後は妻の傍らに葬るように遺言する。


③男性の遺言に従い、近親者(遺族)は女性の墓を『丁寧に』掘り起こし、その傍らに男性の顔を妻の方に向けて配置して埋葬する。



これなら説明付きそうですし、二人の愛も証明されそうです♡(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!


・・・ただし、調査者が再葬の痕跡を見逃していると指摘することになりますが( ・Д・)


↓愛って素敵ですね。私にもお裾分けをお願いします!↓

↓それぽちっとな( ・Д・)↓


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