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あるけまや -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

タグ:埋葬儀礼

2021ねん 10がつ 20にち(すいよーび、晴れ)

無理せず適度に働いてよく寝ることはとっても大事ですね( -д-)ノ

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今回の考古学・歴史ニュースは黒魔術リベンジ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ



さて、今回の舞台は愛知県、三河湾です。

前回の記事でも紹介したように、足の骨や腕の骨といった長い骨を使って井桁状(四角形状)に組んだ中に頭蓋骨や肋骨などの他の骨を入れる埋葬形態がこの地域では見られます。

これは「盤状集積葬」と呼ばれるもので、この三河湾地域を特徴付ける縄文時代の一風変わった埋葬方法です。

では早速、おどろおどろしい黒魔術の儀式っぽい埋葬事例を見ていきましょう!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!



↓前回の記事(*^・ェ・)ノ




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どうですか???( ・Д・)

一般的にお墓の中の人骨のイメージと言えば「伸展葬」と呼ばれる、『気を付け』した状態のものだと思います。

それがこのように意図的に配置を変えられるとちょっと違和感を覚えませんか?

この事例は綺麗に方形に並べられているので分かりやすい事例である一方で、頭蓋骨がよく分からない状態なので「怖さ」があまり感じられないですね(´・ω・`)

まぁしょうがない、他にも事例を見ていきましょう!





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頭蓋骨や顎の骨が方形の四隅に配置されています。

でも四角形の枠組みも見えるでしょう?

右側の縦ラインだけ不明瞭ですけどね( ・Д・)



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↑ちょっと変形した事例(「水嶋ら 2004」の図1より転載)


上に挙げたのは保美貝塚における、今からおよそ3500年前~2500年前の縄文時代晩期の事例です。

こんな風に六角形に組む事例もあります。

まぁでもこれはレアなもので、基本的にはやはり四角形です。




さて、皆さんも目が慣れてきたでしょうから、ここからは写真の中のどこに盤状集積葬が認められるのか探してみてくださいねヾ(´ω`=´ω`)ノ


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↑保美貝塚の事例(「水嶋ら 2004」の図1を転載)










おわりに

調べてみると、思ったより事例がなかったなぁと、、、

古い調査の成果が大多数なのか写真が全然見つからなかったです(TДT)

結局、あんまり黒魔術の儀式っぽくなかったですかね?

リベンジ失敗かな?ヽ(TдT)ノ

でも前回の記事の直後、昨日の今日の話なんですけど、例のグーグルアドセンスの問題が突然解決して広告制限解除されたんですよ。


黒魔術が効いた!( ・Д・)



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2021ねん 10がつ 19にち(かよーび、ぷち雨)

考古学ネタがあり過ぎて困る!( ・Д・)

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今回の考古学・歴史ニュースは「縄文時代に焼かれた人骨が意図的に並べられて埋められてたよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台は新潟県、阿賀野市、土橋遺跡です。

この土橋(つちはし)遺跡は今からおよそ4000年前の縄文時代後期の集落が見つかっている遺跡として知られています。

立地が良いのか、この遺跡からは弥生時代、古墳時代、中世の集落跡も見つかっています。




さて、この土橋遺跡から今回は「焼けた人骨が意図的に並び替えられた状態」で見つかりました。

この発見は「焼けた人骨」と「意図的に並び替えられた状態」という2点に分けて考えることが出来ます。


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まず「焼けた人骨」と言うと、「火葬」を想像してしまいますが、今回のものはそれとは異なります。

火葬と思われる最初の痕跡は2世紀の弥生時代後半に見られ、高い蓋然性をもって火葬と推定できる事例は6世紀になります。

文字記録に残る最古の事例は700年で、元興寺の開祖である道昭が火葬されました。

その後日本では仏教の影響により度々火葬が用いられますが、現在のように火葬が一般化するのは明治期以降なのでとても新しい習俗です。




私たちの感覚だと埋葬行為は一度きりですが、かつては「再葬」という儀礼行為が行われていました。

文字通り、一度埋葬した遺体(人骨)を取り出して儀礼を行い、再び埋葬します。




再葬の定義は2回以上なので2度とはかぎらない点がポイントです。

但し基本的には2度でしょうし、以下に述べるような奇跡的・理想的な好条件でない限り考古学的には何回再葬されたか判別できません。

例えば石棺や墓穴といった明確な遺構に人骨の一部が残っていて、別の明確な遺構に再葬された人骨がやはり一部残っていて、更に別の明確な遺構に再葬された人骨が残っていて、それぞれ副葬品として時期の異なる土器などの遺物を伴っている場合です。

これならば人骨の分析から同一個体であることが判明しますから、3度埋葬されたこと、つまり2度再葬されたと言えるでしょう。




再葬はおよそ5500年前の縄文時代中期頃に始まり、弥生時代にも続きます。

同時期に人骨を焼いて再葬する「焼人骨葬」が現れ、この風習も弥生時代に引き継がれます。

なので、今回の発見の一つである「焼けた人骨」というのは珍しい事例ではないのです( -д-)ノ





これまでに人骨集中遺構の写真を2枚挙げてきましたが、小型の遺構のため薬品で固めてズボっとそのまま回収しています。

先ほど「珍しい事例ではない」と書きつつも、実際にはレアな事例のため、こうした保存方法が選ばれたのだと思います。




さて、今回の発見の2点目が「意図的に人骨が並べられていること」なのですが、これがちょっと『黒魔術』っぽい方法が取られているのです( -д-)ノ

その方法とは、一度埋葬した骨をまず取り出して、大腿骨(足の骨)で井桁状に組み、その中に他の骨を入れます。

今回の事例では、上腕骨(腕の骨)と足の脛骨を用いて四角形に組み、その中に頭蓋骨や肋骨を入れています。

挙げた写真だと分かりにくいのですが、説明を聞くとなんだかおどろおどろしくありませんか?ヽ(TдT)ノ




このタイプの埋葬方法は『盤状集積葬』と呼ばれ、愛知県の三河湾域で多数見つかっているものです。

でも愛知県の三河湾周辺域に集中している上に、他の地域では見られません。

そして愛知県の事例では「骨は焼かない」のです。

つまり今回の土橋遺跡の事例がレアな理由は、、、

愛知県の中でも限定的な地域でしか見つからない埋葬方法が新潟県で見つかり、更にオリジナルの埋葬方法では見られない「焼人骨再葬」との組み合わせの方法が取られている点です。




現在の愛知県の三河湾周辺に居住した人が遥々新潟県に移り住み、それぞれの葬制が混じり合った結果なのでしょうかね?

今後の類例の発見に期待です(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!





おわりに

今回は写真の問題で『黒魔術』っぽいおどろおどろしさが伝わらなかったと思います。

黒魔術をイメージしたサムネ画像に名前負けしたような感じがしますヽ(TдT)ノ

なので、次回、リベンジします。

「日本にもこんなのあるんだ~!?」って驚かせるのを目標にしたいなと思います( -д-)ノ




そう言えば、グーグルアドセンスに不正なトラフィックがあるって言われて、現在、広告制限受けてるんですよね。

自分でクリックとかしないし、全然身に覚えないのに・・・

グーグル稼いでるくせに・・・

黒魔術かけるぞっ!( ・Д・)



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2020ねん 11がつ 8にち(にちよーび、晴れ)

昨日は一日中頭痛でぽんこつだった(´・ω・`)


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今回の考古学・歴史ニュースは「17世紀の子供の共同墓地に見られる葬制が古代ギリシアものだったよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


今回の発見の舞台はポーランド南東部のポトカルパチェ県です。

ここでポーランドを縦断する形でバルト3国とギリシャを接続する高速道路を建設していたところ、子供の共同墓地と思われる埋葬遺構集中が検出されました。

合計115体もの遺体が発見され、全体の70~80%は子どもの遺骨だと推定されています。

この埋葬遺構集中に見られる葬制の特徴は、頭部を西に向けている点、伸展葬である点、口に硬貨が入った状態である点です。

この区域では1604年にこの地域で最初の教区教会が建立されたことが分かっており、工事開始時は墓標等はなかったものの、小さな礼拝堂が残っていたことから、かつて子供用の共同墓地であったと考えられています。



こうした推測される教会との関係や共伴した硬貨の鋳造時期から、この子供の共同墓地は17世紀に帰属すると推定されています。

上に挙げた写真が工事現場、且つ発掘現場なのですが、人骨の周囲には石棺や木棺の痕跡が見当たりません。

またお墓は家族と共に埋葬されるケースが多いですから、もしかしたら孤児院のような身寄りのない子供たちのためのお墓だったのかも知れません。

そうであるならば、埋葬行為を行った側の人間、恐らく教会関係者には経済的な余裕がなく、木棺を使用することができなかったと解釈できると思います。

上の写真ではけっこう浅いところから発見されている気がしますし、深く掘るのも大変ですから余裕の無さを感じます。

一番上に挙げた写真では人骨の周りは根切りをしきれていない状態で、細かな植物の根が見て取れます。

そうした点から、けっこう浅いのかなと思います。

ただ遺構の周囲にはやや粘土質か、シルト質のようなしまりの強さを感じる土が積み上げられていて、黒っぽい腐植土が見られません。

上の写真では重機も写ってますし、高速道路の建設のために重機で粗方削平した後に埋葬遺構群が見つかったというのが妥当かなと思います。

なので、きっと野犬などの野生生物に掘り返されない程度には深く掘って、埋葬されていたと考えられます。




人骨の口の中から見つかった硬貨は、1587年から1632年までポーランドを治めていたジグムント3世の時代に鋳造されたものや、1659年から1668年にかけてポーランド・リトアニア共和国で使用されていた硬貨でした。

こうした口の中に硬貨を入れる風習は古代ギリシア(BCE???-BCE3650-BCE146)から受け継いだ埋葬儀礼におけるひとつの風習なのです。

ギリシア神話に登場する冥界の河の渡し守カロンには河の渡し賃として1オボロスを払わなければならず、払えないと死者は後回しにされ、200年間あたりをさまよわなければならないとされていました。

こうした風習は古代ローマにも引き継がれ、CE313年のミラノ勅令によりキリスト教が公認となった後、少しずつと廃れていきました。

それがこうして17世紀にまで細々と受け継がれていたということが今回のニュースなわけです(*・ω・)ノ




おわりに、渡し賃を計算してみた(・∀・)つ

今回発見された115体もの人骨は、研究・分析の後で別の教会にて再び埋葬されるそうです。

一度露出させた人骨を再埋葬すると空気に触れたこともあって、一気に分解が進んで研究資料としてはダメになってしまいます。

17世紀というとおおよそ300年前ですから、遺族(?)のことを想っての行為なのかもしれません。

日本のアイヌの事例やアメリカの先住民の事例だと500年くらい前でも返還を要請したりしていますからね。

本当に「土に返す」前に十分なデータの取得を行って欲しいものです( -д-)ノ


・・・・・・

ところで冥府の河の渡し賃が「1オボロス」なわけで、これが「1ドラクマの1/6」の価値だそうです。

1ドラクマはBCE500年段階で25USドル(2600円)の価値と推定されていて、古代ローマ期初期に当たるCE60年頃には一日の労働の対価ということで58USドル(約6000円)と推定されています。

ということは、渡し賃は約430円~1000円ってことになりますね。


冥府でも物価上昇か!( ・Д・)



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2020ねん 10がつ 17にち(どよーび、晴れ)

片っ端から仕事片付けねば、年内に終わらんヽ(TдT)ノ


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↑浅い柱穴跡が多数見られる(「福島民友新聞」の記事内画像より転載)



今回の考古学・歴史ニュースは「色々大発見がありました!およそ4000年前の縄文人の人骨も多量に見つかったよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


今回の発見があったのは福島県、川俣町小綱木地区に所在する前田遺跡です。



国道の改良工事に合わせ、2018年から発掘調査が行われていました。



これまでの調査で、縄文時代中期の火おこしの道具として使われていたとされる「火切り臼」を始めとしてレアな遺物が多数出土する重要な遺跡と考えられていました。




この前田遺跡では、縄文時代中期に相当する土層から、流木が積もった小川の跡が発見されており、その周辺から大量の木製品や漆製品も出土しました。


水分があると余計腐ってしまいそうなイメージがありますが、実際には酸素の供給が絶たれるため木製品等の通常は腐敗して失われてしまう遺物が残りやすい傾向にあります。



そんな当該遺跡では保存状態の良好な木製の弓も見つかっており、縄文時代の様子が良く分かる遺跡としてその重要性が増しているのです(*・ω・)ノ



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↑柱穴の傍に横たわる人骨(「福島民友新聞」の記事内画像より転載)



今回前田遺跡では新たに埋甕や土壙墓が多数確認され、被葬者は縄文時代に一般的な屈葬の形態を取っていました。


この墓域では縄文時代の後期(約4400~3700年前)に相当すると考えられている人骨が約40~50体も出土したのです!Σ(・ω・ノ)ノ

40~50体と数が不確定なのは、複数個体がまとめて埋葬されている場合に骨の部位をチェックし個体数の確認を行う作業が完了していないためです。





日本の特に内陸部の場合、酸性土壌の影響で人骨はなかなか残りません。


そのためこの前田遺跡のように縄文時代の遺跡で大量に人骨が出土する事例は全国的に希少なのです(*・ω・)ノ



先ほど述べたように、前田遺跡ではその昔、河川が流れていたと考えられていますから、河川の流れによって堆積した水分を含む砂質の土が人骨を覆ったことで空気を遮断し、腐敗の進行を遅らせたと推測されます。


こうした良好な埋蔵環境の結果、全体の骨格が分かるほどに保存状態が良好な人骨が5体検出されているため、これを対象にDNAの解析を実施する予定でいるそうです(・∀・)つ




更に前田遺跡では縄文時代晩期(約3500~3000前)の地層から、全国的にあまり類のない木柱を伴う柱穴が100基以上も検出されましたΣ(・ω・ノ)ノ


木柱は直径約30~40cmが多く、最大で直径約60cmのものも確認されています。


木柱が残っているなんてレアケースですが、そこはやはり旧河川のおかげなのでしょう(*^・ェ・)ノ




上の写真で確認できるように、柱穴の掘り込みは浅いものばかりのようです。


木柱の周りに石を詰めた状態が確認されており、かつて掘立柱建物やモニュメントがあったと推測されています。




更に、墓域からは縄文時代後期に相当する状態の良いハート形土偶が1点出土しました。


高さ約20cmセンチで右腕が欠損している状態の女性像です。

全国的にも珍しいことに、この土偶は土器を布団のようにかぶった状態で出土し、祭祀と関連して意図的にこのような配置を取ったと考えられています。




おわりに

大発見ばかりなのに調べても写真が全然出てきませんでした。


まだ新しい情報なので、未報告資料ということもあり、伏せられているのでしょう。


これだけの発見があれば現地説明会はもちろん、最寄りの博物館で遺物の展示会も開催されるでしょうから、その際に今回紹介したレアな発見物の写真が見られるかなと思います。


写真を含め、また続報があれば紹介しますので、お互い楽しみにしましょうね!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!


これは考古学史に残る勢いだね!
……道路工事はどうなるのかな?( ・Д・)


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2018ねん 5がつ 22にち(かよーび、晴れ)

暑い!めちゃくちゃ暑い!

日も長くなって、夏が来るなぁと実感する。

さて汗だくになって頑張って働きますかーい!( -д-)ノ

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今回はニューヨークタイムズの記事から紹介します。タイトルにあるように、「中世ヨーロッパの墓から赤ちゃんの骨が出土したけれど、何故か右手だけミイラ化してた!」という謎についてのお話です。良かったら、二番目の写真を確認したところまでで「何故右手だけ?」の理由を推理してみてくださいねヽ(・ε・)人(・ε・)ノ ナカマ

さて、ハンガリーのセゲド大学の生物人類学科に所属するヤーノス・ボラージュ(János Balázs)らは、2005年にハンガリー南部の村、Nyárlőrinc(にゃるろりんく…読めません!ヽ(TдT)ノ)での古い墓地で発掘調査をしていました。

この調査成果として、主に12世紀から16世紀の間に作られた500基以上の墓を検出しました。しかし、それらの埋葬のどれもがミイラ化した緑の手のようなものではなかったのです。

最初に挙げた写真で示した、ミイラ化した緑色の赤ちゃんの手を発見した当初、ボラージュは、この小さな右手の骨だけが緑色でミイラ化していた理由を分かりませんでした。

この謎にボラージュらは10年以上もの時間をかけて挑み、今回そのユニークなミイラ化のプロセスが明らかになったとのことです(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

下の写真に見られるように、赤ちゃんの古人骨の内、いくつかの椎骨、股関節骨および脚骨を含むいくつかの部位が緑色に変色していました。どちらの前腕も緑色ですが、右側の手は依然として乾燥した肉で覆われていました。背中の近くの皮膚もミイラ化しており、5つの椎骨片が埋め込まれたままでいたそうです。肋骨のほとんどの部分や、肩の骨および上腕骨2つは変色していませんでした。

ボラージュらは、小さな骨格を調べることによって、故人が誕生直後に死亡した死産または未熟児の早産のいずれかであると判断しました。研究者らは子供の体重が11〜13インチで、重さは1〜2ポンドと推定しています。



・・・・・・はい!(。・ω・)ノ゙推理タイムはここまでです( -д-)ノ・・・・・・



・・・・・・



・・・


実は、考古学的に言えば、緑色の骨は中世ヨーロッパの墓地では珍しいことではありません。ブロンズ製や銅製のジュエリーによって骨格が劣化した際に変色することが多いのです。そのため研究者らは子供の体が何らかの金属と接触していると考えました。しかしどうしてその謎の金属物体はその小さな手の近くだけに影響を与えたのでしょうか?

研究者らは遺骨の化学分析を行い、その子どもが平均よりも数百倍も高い銅濃度を有することが分かりました。実際にこれまで彼らは分析したミイラの中でも最高レベルの濃度でした。

そしてボラージュは赤ちゃんが見つかったお墓内部に収納ボックスがあることを発見しました。彼が箱を調べると、中には小さい陶器と腐食した銅のコインが入っていたのです。これがヒントになりました。

研究者らは、小さな子供が土器の中に入れられて埋葬される前に、誰かが銅のコインをその小さな手に持たせたからと結論づけました。古代の多くの文化は、魂を後世に連れて行くために神話的な「渡し守」に支払う方法として、コインを死者に捧げて葬っています。

この場合、コインの銅の抗菌性が子供の手を腐敗から保護したと考えられます。埋葬土器内の状況に加えて、赤ん坊の手をミイラ化するのを助けたのです。研究者らは、この子供の埋葬が、銅がミイラ化を引き起こすことを示した最初の科学的事例かもしれないと考えているそうです。
恐らく埋葬土器内の子供は窮屈な姿勢にあった可能性が高く、そのためコインの銅の腐食が骨格の他の部分をも変色させたと考えています。

またこのボラージュらの研究チームは未熟児の埋葬が他にもう2例あることも突き止めました。今回の事例のように 1つの墓では緑色の骨を持ち、コインと埋葬土器がある類似の事例でしたが、もう一方の墓では骨は通常の色調でコインも埋葬土器もなかったたそうです。

何故埋葬方法が皆同じではないのか? ということで、手に添えられた銅貨幣は1つの謎を解決しましたたが、別の謎を提示したのです。

赤ちゃんと一緒に発見された特定の銅貨、すなわち「Kreuzer」または「krajcár」は、1858年から1862年の間に流通していました。つまり、この事例は発掘によって多数検出された他の周りの墓とは異なり、中世の埋葬事例ではなかったのです。この期間のクリスチャンは、伝統的に死者に硬貨をつける風習はありませんでした。

ボラージュらは、この子供が生まれる前または直後に死亡したため、バプテスマ(キリスト教の洗礼)を受けていない可能性が高いと推測しています。そのためコインと土器で子供を葬った者は、亡くなった子供を宗教的に安心して送るための方法を見つけたのだと考えています。

そしてある意味で、それは機能したと言えます。主に右手だけですけども。

研究者は「150年後にまだ赤ちゃんとその葬儀の状況について話しているので、この幼児の救済に成功しただろう」と述べているそうです。確かにね(*・ω・)ノ

ちなみに現在のこの赤ちゃんの古人骨は、ハンガリーのモラ・フェレンチク博物館で遺物が展示されているそうですよ!

やはり、こういう発見ものや、謎解き系は考古学の醍醐味ですし、記事にしても面白いですよね!(。・ω・)ノ゙ 今後もこのような記事を紹介していきますので、全部読み終えるまでに推理してみるのも楽しみ方のひとつですよ(・∀・)つ

↓ここをぽちっとするのも楽しみのひとつ…だったらいいのにヽ(TдT)ノ↓

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