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あるけまや -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

タグ:墓

2024ねん 8がつ 12にち(げつよーび、晴れ)

疲れ溜まってたのか11時間寝た( ・Д・)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



今回の考古学・歴史ニュースは黄金がっぽり!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


今回の舞台はエジプト、ダミエッタにあるテル・エルディール遺跡です。



テル・エルディール遺跡は「ネクロポリス(死者の都)」として知られています。

考古学的に簡単に言えば ”墓域” です。

一般的に簡単に言えば ”規模のでっかい墓地” です(*・ω・)ノ

マヤ文明やこの前紹介したトルコのチャタル・ヒュユクのような『居住域=墓域』な文化の方が珍しく、この古代エジプトや現代日本のように住むところと居住域を分け隔てる方が一般的です。




なので今回の発見では63基もの墓が見つかったとありますが、ネクロポリスであればそうだろうなという感想です( -д-)ノ

墓地に肝試しに行って、墓石見つけた!って喜ばないでしょ?( ・Д・)

上に挙げた写真のようにボコボコたくさんあるんですから、あって当然なのですから。






今回見つかった63基の墓からは青銅製硬貨の詰まった壺や上に挙げた写真にあるような黄金製品が副葬されているケースが多かったため、テル・エルディール遺跡というネクロポリスそのものが比較的社会階層の高い人々のための埋葬エリアと推測されています。

そうした中であっても同遺跡では墓に社会階層性が見て取れます。

最も下位の墓は墓壙として穴を掘っただけのもので副葬品も僅かです。

高位の墓ではアドベ(日干しレンガ)製の墓や石灰岩製の墓が見つかっています。




やはり高位のしっかりした造りの墓にあればなるほど、墓の規模も大きくなります。

現代日本社会でもお墓に行くと、金持ちの家かな?って思う黒い墓石で出来たデカいお墓ありますよね?

大体専有面積もデカかったりします。

あれと同じなのです(*・ω・)ノ




今回の発見では63基のほとんどがアドベ製の墓で、ウシャブティやバステト、ホルスなどの様々な神を模した像が金箔で覆った製品として副葬されるケースが多数見つかっています。

以前の調査ではビザンティン時代の金貨も出土していますから、やはり社会的地位として高位の人物は黄金製品を副葬する習慣があったのだということが分かります。



ネクロポリスですから今後もどんどん新たな発見があるでしょう。

時間的な変遷と墓の造りと副葬品の種別・多寡との相関が分かると面白いですね(*・ω・)ノ






おわりに


こういう記事書く度に「黄金製品いいな~」って思って素直にそう書いてますが、、、

いやだって皆さんお好きでしょ???

ハイボールや綺麗なお姉さんより好きじゃないの?ってくらい一般ウケはいいんですよね。




ニュースでもそうですけど、博物館の特別展とかやると差は歴然としますよ、ほんと。

人間って昔から変わらない生き物なんですよ( ・Д・)



でもまぁそうした嫉妬心は抑えて冷静に考えると、、、

黄金が出るってことは常に盗掘の被害を考えなければならないし、

古代から現在までの盗掘によって情報が欠落していることも考慮に入れなければならないしで、

考古学研究としては結構めんどくさい気がしますね。




私、自分の理論研究の拡張で日本にも手を出していますが、古墳時代のデータ取ってたら実際面倒でしたもの。

貴重品が入っていたり、墓自体が目立つとどうしても盗掘されちゃうんですよね。

その点、マヤの場合は場所にもよるけれど、ティカルなどの場合は亜熱帯のジャングルに守られていますし、重層建築のおかげで物凄い労働力を投下しないと墓に当たらない上に、当たるとも限らないんですよね。

墓を内包しないケースもあるので。。。



そう考えるとなんだかんだ研究する上で、特に数理を扱うような詳細なデータが必要な研究の上では……

やぱマヤ文明が一番!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

(自分の取り扱う文明や遺跡が一番だと考えるのは考古学者の性です( ・Д・))





何はともあれ、

やぱ黄金いいな!( ・Д・)



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2021ねん 1がつ 20にち(すいよーび、晴れ)

なんか最近心の声が外に漏れる( ・Д・)

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今回の考古学・歴史ニュースは海賊のお墓は陸(おか)にあるぜ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台はノルウェー、ハルデンです。

この地では道路の傍に丘があり、そこをレーダー探査したところ、墳丘であることが分かりました。

レーダー探査で船葬墓の存在が明らかになったのは2018年で、その時に記事を書いてます.

未読の方、あるいは忘れてしまった方は併せてご一読下さい(。・ω・)ノ゙


↓this is it !ヾ(´ω`=´ω`)ノ

↑こんな風に映るのね~ってレーダー画像が興味深いよ(*^・ェ・)ノ


さて、今回の記事は現在時点(2021年1月末)までに発掘調査が進んで、お墓として(?)埋められた船の全体像が分かったよ、というそれだけのニュースです。

「それだけ」のことですが、発見から3年が経過し、精緻な考古学調査がいかに時間のかかる、根気のいる作業なんだなと思って頂けると幸いです(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

前記事にも書きましたが、ノルウェーにおけるバイキング船(ロングシップ)の発見例はこらまでに3例のみなので、この発見は4例目としてとても重要なものになります。

それに加え、最後のロングシップの発見からなんと100年も経っており、世紀の発見と言っても良いくらいレアな発見なのですΣ(・ω・ノ)ノ




さて、上に挙げたのが発掘調査によって姿を現したバイキング船です。

全長は約20mで木造です。

全体的に腐食が進んでいるそうで、発掘作業自体困難な作業です。

更に、木製品などのレアな遺物は、そもそも土中で奇跡的な保存状態を保ってきたわけです。

なので埋没中がある種の理想的な環境だったわけで、外気に触れると一気に状態が悪くなります。

そのためここからは一気に掘り進めて様々な考古学情報を入手・記録して、遺物の取り上げが行われることでしょう。

なので早い段階で続報が聞けそうですね!(*・ω・)ノ




さて、これが紹介したい写真です!

もしこれが記録用の写真ならば、「遺物の左に見える植物を排除しろよ」と思ってしまいますが、スナップ写真だと植物の緑が映えて途端に素敵な写真になりますね.。゚+.(・∀・)゚+.゚

この遺物は船に使われた鉄製の鋲(びょう)です。

それ自体、別に何とも思わないのですが、、、( -д-)ノ

見て欲しいのは鋲の上方の地面に刺さっている海賊旗!

考古学調査において、小さな遺物などは行方不明になってしまうこともあります。

でも全体の遺物の出土位置の関係を図化したい等の目的のために、遺物の取り上げを保留することがあります。

この鋲も小さいですし、錆びていて土の色と紛らわしいので無くしてしまいそうでしょ?

なので竹串などを傍に刺して、「ここに遺物あるよ!」っていう目印にしておくのです。

その目印である竹串の代わりに、ここでは調査対象遺構がバイキングの船葬墓であることから、海賊旗が刺さっているのです。

この遊び心というか茶目っ気がいいですよねヾ(´ω`=´ω`)ノ

私のいた研究室が日本でも異常な方だとは思いますが、上下関係は絶対的だし、調査自体が軍隊の徴兵か強制労働みたいな環境でしたから、、、

こんなことやったら殺されますね、ほんとに( ・Д・)

そんな地獄経験を反面教師に、私の調査では明るく和気あいあいとした環境作りを徹底しております( -д-)ノ

遊び心大事!それすなわち心の余裕!( ・Д・)



↑エジプトでも船を副葬していたよ!( ・Д・)


おわりに

さて、船葬墓として今回の記事を紹介しています。

しかしながら一口に船葬墓と言っても、船自体が木棺の役割を果たしている場合もあれば、副葬品として埋められている場合もあるのです。

今回はまだ被葬者に関する情報や、副葬品に関する情報がありません。

これだけ船の全体像が分かっていて人骨や副葬品が出ていないのならば、後者の可能性が高いのかも知れませんね。

であれば、被葬者と船以外の副葬品が埋められたポイントは近くの別の地点なのでしょう。

何はともあれ、続報が気になりますね(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!


・・・・・・さて、世界的に見て船葬墓はバイキングのものがほとんどです。

一方で、上に過去記事を挙げたように、古代エジプトでも類例が報告されています。

ちなみに日本でも船がお墓から出てきた事例があるようですね。

それはまたの機会に記事にするとして、、、

最後に一言、

遊び心を常に持って生きていきたいね!( ・Д・)



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2020ねん 2がつ 29にち(きんよーび、曇り)

昨日、めちゃくちゃ寒かった。

そして今日、曇り続けてやや肌寒い感じ。

異常だ、これは一月初めの気温だよ!Σ(・ω・ノ)ノ


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今回の考古学・歴史ニュースは「黄金都市エル・ドラド伝説に影響を与えた失われた古代都市が南米のジャングルに眠ってるよ!」ってお話です(*・ω・)ノ

今回の話題は南米コロンビアでのお話です。

中米のマヤ地域でもそうですが、南米のコロンビアやブラジルには鬱蒼としたジャングルがたくさん残っています。

あるいは今回のケースのように国立公園として保護されています。

航空レーザー測量も導入開始された現代考古学ですが、そういったジャングルの中にはまだまだたくさんの古代都市遺跡が残されているものなのです(*・ω・)ノ




エル・ドラドとは?

さて、最初に挙げた絵画に見られるように、南米地域には「黄金都市伝説」があります。

大航海時代、多くの人々が冒険を求めて旅に出ました。

ドラゴンが守る塔にはお姫様が捕まっていて騎士が彼女を救うといった「騎士道物語」が本気で信じられていた時代です。

この手の小説の中にはディズニーで有名な「生命の泉」の話もあります。

こういった当時の伝説の一つが「黄金都市、エル・ドラドの伝説」です。

多くの人々が夢物語として未知の島や大陸には金銀財宝が眠っていると信じていたわけですが、ただエル・ドラドの伝説は噂に基づくもので小説等の作り話ではありません。

エル・ドラードとはスペイン語で「金箔をかぶせた」、または「黄金の人」を意味し、ムイスカ文化の儀式が基になっています。

ムスイカ文化では金の採掘が行われており、また加工技術が発達していました。

そして首長が全身に金粉を塗り儀式を行う風習をもっていました。

この話をスペインのコンキスタドール達がを聞き、南米アマゾンには黄金郷があるという伝説が生まれたのです。

特に、上に挙げた写真は 『ムイスカ人の黄金の筏(La Balsa Misca)』と呼ばれる資料で、これがヨーロッパ人に対してエルドラード伝説(黄金郷伝説)を生み出す大きなインパクトとなったのです。


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コロンビアに眠る「失われた都市」

さて、今回の話題はコロンビア北部が舞台となります。

3枚の地図画像の内、1枚目が最寄りの大都市サンタ・マルタの位置です。

マニアックな切り取り方をして、マヤ地域である中米のユカタン半島を敢えて画像内に収めてみましたが、有名なキューバも入ってますので何となく位置が分かるでしょうか?( -д-)ノ

2枚目の地図画像の位置がシエラ・ネバダ・デ・サンタ・マルタ国立公園で、深い森に覆われた丘陵地帯です。

この国立公園内にはシウダー・ペルディーダ(失われた都市)の名を冠する土地があり、実際に古代都市遺跡があります。

3枚目はタイロナ国立公園の位置で、先コロンブス期のタイロナ文化が栄えた場所になります。

タイロナ文化の人々は大きな領域を有しており、シエラ・ネバダ・デ・サンタ・マルタ国立公園の方まで広がっていました。

彼らは16世紀にスペイン人のコンキスタドールの侵入に対して抵抗し続けますが、17世紀後半まで都市を放棄します。

この放棄の理由はスペイン人が持ち込んだ疫病のためと考えられています。

先に述べたように「失われた都市」の地名を有する土地もあるのですが、実際にこの周辺域に残るタイロナ文化の都市遺跡が全て「失われた都市」として呼ばれているのです。




この地域に考古学者の手が伸びたのは1976年のことでした。

中南米あるあるなのですが、密林の中の行軍は有毒の植物や昆虫、蛇、ジャガーと脅威で一杯なため遺跡への到達はかなり最近の話ばかりなのです。

道が開けた現在でも到達するのが困難な遺跡がたくさん存在しています( -д-)ノ

当時は道なき道を、感覚便りの現地ガイドに従ってナタで切り開いての強行軍ですからとてつもない辛さだったでしょうねヽ(TдT)ノ

簡易の考古学調査や踏査が進行するにしたがって、タイロナ文化はCE200年頃から発達し、エル・ドラドの伝説の基となったムイスカ文化と交易関係にあることが分かりました。


そのためムイスカの民と同じように、タイロナの民は金や銅を始めとする貴金属細工技術に優れていることが分かりました。


また16世紀半ばのフアン・デ・カステリャノスを始めとして多くの年代記によれば、タイロナの民は贅沢な服飾をしており、皆が模様入りのケープ、羽根の頭飾り、ビーズの首飾り、大ぶりの真珠、カーネリアン(紅玉髄)、そして黄金を身につけていると報告しています。


こうした年代記や考古学的な発見によって、エル・ドラド伝説は再び日の目を見ることになり、つまり盗掘者に狙われることになりました。


中南米のジャングル地帯は「インフィエルノ・ベルデ(緑の地獄)」と呼ばれることもあり、現在でも考古学者の侵入を阻んでいます。


一方で盗掘者たちはお構いなしなのでジャングル地帯は「盗掘天国」と揶揄されることもあります。


翡翠しか出ないマヤ地域でも被害は甚大なのに、黄金という分かり易い「財宝」があると南米での遺跡保護は非常に難しい問題だと思います(TДT)



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↑テユナ遺跡の景観(「viator」の記事内画像より転載)



20世紀終わりから現在まで、遺跡を保護すべく数々の大規模なプロジェクトも実施されてきました。


結果、上に挙げた写真に見られるテユナ遺跡が整備されたのです。


この遺跡では円形の家々、舗装された道、階段、テラス、広場、儀式の場、運河、倉庫など、200基余りに及ぶ各種の構造物が復元されており、現在公開されています。


しかしこの都市は険しい山の尾根に沿って作られているので、観光と言えど到達はかなり大変なようです( ・Д・)


このテユナの建設は9世紀と考えられおり、マヤ研究をしてる立場としては新しいなと感じます。


しかしそのテユナという名前は当時のチブチャ語で「地上の人々の起源」を意味するそうです。


テユナの最盛期の人口は2000~8000人と推定されており、タイロナ文化の中心地として機能しました。


またタイロナ文化は文字を持たず、車輪も、動物に荷を引かせる技術もありませんでしたが、十分な余剰農産物を何世紀にも渡って生産できていました。


そのため金細工を始めとする高度な文化を築くことが出来たわけです(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!


・・・・・・ところで、私達日本の食料自給率は僅か37%です。


まぁ科学技術が発達していようとも特殊な自然環境を整えるより、海外から買った方が早いかつ安い、日本では通常獲れない野菜や肉類もあるでしょう。


かく言う私も世界中の食べ物を国内で食べられる日本が大好きです(*^・ェ・)ノ


それにしても37%は酷過ぎます。


地震大国日本とか頻繁に目にするけど、いざという時どうするの?


同盟国、親日国に頼るの?


政治家よ、大臣よ、人々よ、文系大学要らね~とか言ってる場合ではなく、、、


国とは何か、良き政治とは何か、滅びを避けるために我々は何をすべきか、


そろそろ古きに、歴史に学ぶべき時かも知れませんね( ・Д・)


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2020ねん 2がつ 24にち(にちよーび、晴れ)

忙しい時に限って、仕事が次から次へと舞い込んでくる(ρ゚∩゚) グスン


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arukemaya776


今回の考古学・歴史ニュースは「古代王政ローマ、建国神話に出てくるロムルス王のものと思しきお墓が公開されたよ!」ってお話です(*・ω・)ノ

ローマの歴史は、王制ローマ、共和政ローマ、帝政ローマと大きく分けられます。

この内の最初の王政ローマは約250年間続いたことになっていますが、歴史書に現れるのは王制ローマが終わってから500年も後のことなのです。

なので恐らくは王制ローマに関する歴史書の内容の多くは神話であると考えられます。

しかしながら現在のローマ市では神話時代の最初期に関する記述通り、上に挙げた「狼に育てられたロムルスとレムス」の像が飾られており、また4月21日は建国記念日として盛大に祝われているのです。




建国神話における最初の王、ロムルス

ローマの建国神話はロムルスとレムスの誕生から始まります。

軍神マルスと古代イタリアの都市国家の王女、レア・シルウィアの間に生まれた双子は、王女の叔父によってすぐに捨てられてしまいます。

しかし最初に挙げた写真や上のコインのように、狼に育てられ生き延びます。

後に祖父に出会い、孫であることが判明し、自分たちが捨てられた土地に都市を建設することにします。

この都市がローマなのです。

都市の境界を決める際に兄弟は揉め、兄のロムルスは弟レムスを殺してしまいます(後半部で関係してきます(*^・ェ・)ノ)

兄の名前ロムルス(Romulus)はロームルスとも発音します。

つまりローマの語源は初代王ロムルスに由来するのです(*・ω・)ノ

ロムルス王はその後およそ40年の間、ローマを統治し、その後消えてしまいます。

後の歴史家たちは元老院議員らによってロムルス王が暗殺されたと考えており、中心となった人物はユリウス・プロクルスと推定されています。

彼は後のユリウス氏族の祖先と考えられています。

ユリウス……カエサル?

政治家は親も子も、昔からロクでもないのか( ・Д・)


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本当にロムルス王の石棺?

上に挙げた写真がイタリア、ローマ市のフォロ・ロマーノにある元老院議事堂跡です。

ちょうど地下への入り口に人が立ってます。

この地下から100年以上前に祭壇と共に石棺が発見されました。

調査者はロムルス王の石棺であると解釈しましたが、学会全体の合意には至りませんでした。

1980年代後半にはこの議事堂跡の近くから巨大な石を特徴とした長く深い溝が発見されました。


調査者はロムルスが都市の境界として掘った「聖域の溝」だと主張しました。


でもやはり合意には至っていません( -д-)ノ 





上に挙げた写真が問題の石棺ですが、かなり質素ですね( -д-)ノ

まぁ暗殺されてぶち込まれたのだから、墓があるだけマシなのか( ・Д・)

これらの遺構に関連して出土した遺物から石棺の帰属時期はBCE6世紀と考えられています。

伝説ではローマの建国はBCE753年だから統治期間を考えてぎりぎり同時期と言えるかなって感じですねヽ(TдT)ノ

現在も地元の考古学者らが、ロムルス王の石棺であると証明すべく精力的に調査を行っているそうです。

是非、証拠をどんどん集めて、「伝説の王様のお墓!」を証明して欲しいですね!

こういう地元密着型の調査は周辺地域の人々の活力にも繋がりますし、考古学の果たせる重要な仕事のひとつだと思います。

いや、ほんとにすごい夢のある、浪漫溢れるテーマだなと思います……

ローマンだけに( ・Д・)

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2020ねん 2がつ 23にち(にちよーび、晴れ)

けっこう働いてる方だと思うんだけどな~(´・ω・`)


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今回の考古学・歴史ニュースは「あの有名なクレオパトラとマルクスの墓は水中にあるらしいよ!」ってお話です(*・ω・)ノ


フランスの哲学者、パスカルはその著名な「パンセ」の中で後世に残る名言を残しています。

『人間は考える葦(あし)である。』

聞いたことありませんか?

そしてもうひとつが、

『クレオパトラの鼻がもう少し低かったなら、世界の歴史は変わっていただろう。』

です(*・ω・)ノ(訳し方は色々とあると思います( -д-)ノ)

このパスカルの記述によってクレオパトラは絶世の美女としての地位を確たるものにしたと思います。




古代のロミオとジュリエット

表題に『古代のロミ&ジュリ』と書きましたが、二人の最期について簡単に説明しますね。

BCE44年、「ブルートゥス、お前もか!?( ・Д・)」と言い放って、23カ所も滅多刺しにされて独裁で有名なカエサルが暗殺されます。

「お前もか!?」のセリフはシェークスピアの戯曲中のセリフで、自身の言葉としては「賽は投げられた」が最も有名かと思います( -д-)ノ

カエサル暗殺の後に成立する第二回三頭政治の支配者の一人が、マルクス・アントニウスです。

1人目の妻を亡くした後に、オクタヴィアヌスの姉、オクタヴィアを後妻として迎えますが、クレオパトラと出逢い恋に落ちます。

映画では絨毯にくるまれたクレオパトラが登場するシーンが印象的ですね(*・ω・)ノ

結果、マルクス・アントニウスは一方的にオクタヴィアと離縁し、クレオパトラや親族に支配領域を分割することで、「エジプト女王に骨抜きにされ、ローマ人の自覚を失った男」としてローマ市民に評価されることになります。

これを機にオクタヴィアヌスとの激しい対立が生じ、BCE31年にオクタヴィアヌスはプトレマイオス朝エジプトに対して宣戦布告します。

当然、エジプト側に付いたマルクス・アントニウスでしたが敗走することになります。

その最中、クレオパトラの自害を知ってマルクス・アントニウスは自刃します。

しかしこれは誤報であり、最後はクレオパトラの腕の中で死んだとされます。

その後すぐにクレオパトラは毒蛇に自らを噛ませて自殺します。

プトレマイオス朝エジプトを滅ぼした後、オクタヴィアヌスが認めたため、マルクスの遺言に従ってマルクスはクレオパトラと共に埋葬されました。





2人の墓はどこ?

こうしてローマ人であるマルクス・アントニウスとプトレマイオス朝エジプト最後のファラオ、クレオパトラ7世の墓が出来上がったわけです(*・ω・)ノ

BCE30年に自殺した2人の埋葬についてはローマ帝国五賢帝時代の歴史家であるスエトニウスと、帝政ローマ期のプルタルコスによって記述されていますが、その場所が不明でした。

上の写真の色んな意味で著名なエジプト考古学者、ザヒ・ハワス博士は、美人考古学者としても有名なキャサリン・マルティネス博士の指揮の下、二人の墓を探しました。

結果、エジプトの西方、アレクサンドリア近郊のオシリスを祭る神殿であるタップ・オシリス・マグナ神殿跡でプトレマイオス朝時代の墓を発見しました。

そこでは27体のミイラや貴族の墓、クレオパトラの横顔が刻印されたコインが多数発見されました。

しかしこの神殿を12年間もの間発掘し続けた結果、どうやらそこには二人の墓はないようなのです( -д-)ノ

これを受けて、つい先日(2020年2月)マルティネス博士を熱烈に支持していたハワス博士が「マルティネス博士の理論は間違っていた」とインタビューで述べました。

そして「クレオパトラはマルコ・アントニオと共にアレクサンドリア沖の水中の墓に埋葬されている」と述べています。

現在は世界中で水中考古学が盛んになってきており、水中考古学に助成金を出す団体も増えています。

今後、アレクサンドリア沖が集中的に調査される可能性がありますね!(・∀・)つ


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著名考古学者の闇
 
ザヒ・ハワス博士と言えば、ピラミッドを建設した人々の墓をピラミッドの傍から発見し、彼らは奴隷ではなかったとの説を唱えたことで有名です。

優秀な考古学でもあるとは思いますが、考古最高評議会事務総長としてムバラク政権下では実質的にエジプト考古学を支配していたような状態だったようです。

外国人研究者や自説とは異なる研究者に発掘許可を出さなかったようですね。

中米ホンジュラスでは僅かしかいない現地考古学者同士が対立し、負けた方は国外退去になった事例もあります。

グアテマラでも政権ごとに対立が存在し、4年ごとに配置が大きく入れ替わります。

アメリカでもハーバード大学やペンシルヴァニア大学等の著名な大学出身者による学閥形成の話を少し聞いたことがありますし、どこにでもグループ構図はあるようですね。

かく言う日本でも「旧石器時代ねつ造」の事件では、現在の著名考古学者の数名に関してかなり深い闇があるようですしねヽ(TдT)ノ

怖い怖い、触れてはいけません(/TДT)/

・・・・・・ところで美人考古学者のマルティネス博士は弁護士らしいんですけど、考古学者でもある?

幼少期からクレオパトラに関心があり、資金提供をして発掘調査指揮を執ったのは間違いないのですけど、考古学者なのか?博士なのか?微妙ですね。

ドミニカ共和国出身の所謂エリート層出身のようですけど、さくっと調べた程度では出てきませんでした(TДT)(スペル間違ったかな?)

考古学者の世界も資本主義ですから、お金ないと発掘できないですし、超高価な分析機材も買えないのです。

ナショナルジオグラフィックとかまさにいくつか王墓当てて、テレビ露出増やして有名になっていかないとお金くれないので(しかし一度OK出れば大量にくれる(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!)、そういった助成金をくれる団体の性格も関係しているのでしょう。

ま、何はともあれ、皆さんが覚えておくべきはひとつ!

テレビに露出の多過ぎる研究者にロクな奴はいない!( ・Д・)

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2020ねん 2がつ 20にち(すいよーび、晴れ)

3月~5月もガチ乾季に向けて、もうすでに暑くなり始めたよ。

体力奪われる~( ・Д・)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

だんご大発見
↑ようやく見つかった!(「歩け、マヤ」管理人、撮影)


今回の考古学・歴史ニュースは「ティカル遺跡の一般住居址でお墓を見つけたよ!」ってお話です(*・ω・)ノ

王墓や貴族の墓じゃないので大したことないかも知れませんが、個人的に人生初の墓の検出なのでテンション上がりました!ヾ(´ω`=´ω`)ノ

さて、色々とあった第2週目ですが、成果の報告をしますね!

これまでの経過とかよく分からんよって人は是非前回の記事をまず初めにご覧ください( -д-)ノ


↓これです(*^・ェ・)ノ

↑ティカルの位置とか、ティカルにおける発掘区の位置についても説明しています(*^・ェ・)ノ


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↑発掘前の様子(「歩け、マヤ」管理人、撮影)


前回掘っていたのは『L字状の建造物グループ』の西側の住居です。

今回掘ったのはより大きな北側の住居、『建造物4F-20』です。

上に挙げたように掘る前はこんな感じで何の変哲もありません( -д-)ノ


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↑表土層を剥いだ時の様子(「歩け、マヤ」管理人、撮影)


でもちょっと掘り始めただけで、長い切り石が出てきました。

しかし写真の手前側に続かず、なんでかなと思ってました。



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↑倒壊した壁が見えます(「歩け、マヤ」管理人、撮影)


少し深く掘ってみると、倒壊した壁らしきものがどんどん出てきました。

最初に見えてた奥の長い切り石はやはり壁の一番下の基礎部分であることが分かりました。

でもはやり写真手前側に続かない。

倒壊した壁の一部達も写真の手前側(東側)には見当たらないので、植物といっても主に大樹の根の影響で破壊されてしまったのかなとひとまず考えていました。

最終居住面である床面もはっきりしませんからね( -д-)ノ


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↑床面の様子(「歩け、マヤ」管理人、撮影)


どんどん掘っていくと前回の住居同様に複数の床面が見えてきました。

上層の方の床面は保存状態が悪く、不明瞭でした。

特に東側は。

上の写真は2番目の床面です。

1番目の床面よりはマシですが、非常にボロボロとした薄い漆喰層です。



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↑表土層近くから出てきた動物骨たち(「歩け、マヤ」管理人、撮影)


そんな折に、骨が出てきました。

古代マヤ人が食べた動物骨ですね。

しかし上の写真で1点だけ新しい綺麗な骨ありますよね?

これは牛の肋骨です。

ネズミ等の小動物が齧った痕跡があるので、けっこう深い部分まで攪乱(土が遺物ごと混ぜられてしまっている状態)が見られるのだなと思ってました。

だから、「あ~、この住居はヤラレ(攪乱のこと)がひどいから、層位資料は期待できないな~」とか思ってたら……



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↑指の骨!(「歩け、マヤ」管理人、撮影)


もう何も出ることもなく、最下層面である母岩面に辿り着いちゃうなヽ(TдT)ノ

って時に、骨がぽろぽろと出てきました。

しかし上の写真のように焼けているんですよ。

大体の骨がしっかりと焼けていて、すっかり炭化しているものも少なくなかったのです。

古典期(CE250-1000)のマヤ地域では土葬が一般的であり、火葬は後古典期(CE1000-1500)に一般的になるのです。

古代都市ティカルは古典期の終わりに放棄されていて、ティカルを中心とするマヤ地域中部低地の人々も次々と都市国家を放棄して南北に大移動します。

つまり後古典期のマヤ文化は時代も地域も大きく異なるです。

当然、火葬の文化の時間的位置や分布域も異なるわけです(TДT)

だから、『焼けている骨=食べるために焼いた=動物骨』って図式が頭の中にあって、動物骨の集中かなって思ってたら、、、

上の写真の通り、人の指の骨があったのです!!!(TДT)

(指の上に載せてるやつです。ちなみに一番手前の骨は歯)


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↑お墓の様子(「歩け、マヤ」管理人、撮影)
 

お墓かも知れない!!?ということになり、テンションアゲアゲで掘り進んでいったら、上の写真のような状態になりました。

上の方の茶色いのが『頭蓋骨』です(*^・ェ・)ノ

で、下の方にあるのが『捧げもの』ですヾ(´ω`=´ω`)ノ

いや~嬉しいものですね(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

最大の疑問は、なぜ古典期後期(CE500-900)に帰属する一般層マヤ人の住居に埋葬された人骨が焼けていたのか?

続く調査でおおよそ、その状況が解明されていきます。

第2週目のお墓に関する発掘の詳しい様子については下記のYouTubeに上げた動画を見て下さい。

調査5日目からが、お墓(?)の出た「建造物4F-20」に関する動画です。

↓面白そうなのはこの辺り(7日目)かな?(。・ω・)ノ゙
チャンネル登録よろしくお願いします!ヽ(・ε・)人(・ε・)ノ ナカマ

↑他にも色々あるので見てみてくださいな(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!


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まぁYouTubeに挙げてる動画はただの『動画による記録』なので、帰国したら編集して少しはマシな動画を作りたいな~と思っています。

カメラの能力で画質も良くないですし、回線速度の問題でアップも大変ですが、ひとまず今回はこんな感じで頑張って行きます。

調査はまだ続きますので、是非、応援よろしくお願いします!ヽ(・ε・)人(・ε・)ノ ナカマ

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2020ねん 1がつ 10にち(きんよーび、晴れ)

何だか暫くすごく考古学っぽいものから離れていた気がする。

なのですごく考古学っぽい記事を書こうかと思い立ったわけである( -д-)ノ


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今回の考古学・歴史ニュースは「黄金製の副葬品を伴うアマゾネスの墓が見つかったよ!」ってお話です(*・ω・)ノ

アマゾネスとはギリシア神話に登場する女性だけで構成される狩猟部族です。

アマゾネスの語源は不明瞭ですが、仮面ライダーアマゾンみたいに南米のアマゾンとは無関係です。


そういった俗説もあるようですが、ギリシア神話に見られる記述の古さと新大陸『発見』の時期を考慮すれば無関係であることが分かるかなと思います( -д-)ノ

神話上では、アマゾネスたちは子供を産むときは他部族の男性のもとに行き、男児が生まれた場合は殺すか、あるいは父親のもとに引き渡し、女児のみを後継者として育てたとされています。

こうした「戦う女性部族」については、ギリシア神話の中でも有名な「ヘラクレスの冒険」や「トロイア戦争」にも登場しています。


↓トロイア戦争、シュリーマンに触れた記事です(*・ω・)ノ



さて絵画として残る史料によれば、アマゾネスはスキタイ人風のレオタードのような民族衣装を着た異国人として描かれています。


スキタイは紀元前9世紀〜紀元後4世紀にかけてイラン系の遊牧騎馬民族国家です。


黒海の北側を主な領域としていて、現在のウクライナ、モルドバ、ルーマニアに相当する地域を支配していました。



↓スキタイの前のサルマタイの頃から古墳と黄金製品が特徴でした(*・ω・)ノ






今回の発見はロシア南西部に位置するヴォロネジです。

上に挙げた図のようにヴォロネジはウクライナや黒海に近く、スキタイの領域にとても近いことが分かります。

この地域でおよそ2500年前のスキタイに属する女性戦士(アマゾネス)4人の埋葬遺構が発見されました。

4人の内、年配の女性戦士はスキタイの上流階級に典型的な黄金の冠飾りを副葬品として身に着けていました。

このことから当時のアマゾネスの社会的地位の高さが窺い知れます。




これまでにスキタイに属するのアマゾネスの痕跡は既に発見されていました。

しかしながら今回の発見では、様々な年齢のアマゾネス達が、まとめて埋葬されていた点が特徴的でした。

4人のアマゾネスの年齢は約45〜50歳が1名、20〜35歳が2名、約12〜13歳の10代が1名でした。

またこの埋葬遺構における副葬品は後世の盗掘被害に遭っておらず無傷だったことが非常に重要です。

一番年配の女性は、上に挙げた写真の黄金の冠を被っており、上流階級を示す副葬品です。

この黄金製のヘッドバンドは、破片として同地域で以前にも発見されていますが、今回発見されたそれは非常に保存状態が良好なのです。

分析の結果、このヘッドバンドは70%の金を主要成分として、銅、銀、鉄を含む合金で作られていることが分かり、考古学的・美術的価値が非常に高いものとして重要視されています。

それぞれのアマゾネスの遺体の近くには鉄製のナイフと矢尻がありました。

また二人の少女のうちの一人の遺体は、「馬に乗る者」のポーズで埋葬されていました。

当時の葬制として「馬に乗る者」が死んだ際には「足の腱を切って埋葬する必要がある」と考えられているそうです。

彼女の隣には青銅鏡、槍、そして手にガラスのブレスレットがありました。

彼女のように東ヨーロッパのペルシャ語族の遊牧民および半遊牧民の間では、スキタイ時代に女性の馬の乗り手が存在したと推定されています。

これらの馬に乗るアマゾネスは、長期の軍事作戦で男性が不在の際に、おそらく牛、財産、家を守っていたと考えられています。

今回発見された埋葬遺構周辺の遺跡全体としては、30点を超える鉄製の矢じり、鳥の形をしたフック、騎兵の道具の要素、手綱を吊るす鉄製のフック、鉄製のナイフ、古代ギリシャの花瓶が出土しています。

この遺跡全体では他にも多数の墓が見つかっていますが、どれも埋葬後100年~200年の間に盗掘被害に遭っており、今回の4名のアマゾネスたちの墓だけが奇跡的に盗掘被害を避けて残った貴重な発見であることが分かっています。






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いや~やはり墓の発見とか、黄金製品の副葬品の発見とか、『花』があっていいですよね。

本当に羨ましい!ヽ(TдT)ノ

考古学と言えば、やっぱ墓か!?

調査の目的と一切関係ないんだけど、大した副葬品なくても全然いいから、今回の発掘調査でお墓出たらいいな~なんて思ったり!( ・Д・)

↓やっぱお墓、発見したいな!!!( ・Д・)↓

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2019ねん 7がつ 17にち(すいよーび、晴れ)

最近、数学ばかりやっている。

どれだけ数学・統計学の世界を理解したら、考古学の各事例に用いるべき手法の正しい選択ができるのだろうか。

まぁとりあえず資格あるらしいので取ろうかな( ・Д・)


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↑ヨーロッパにおけるギリシャとコザニの位置(「「Google Map」の画像を一部加工」)




【目次】
  1. はじめに -基礎情報-
  2. コザニにおける発見
  3. 古代ギリシアにおける窯の構造
  4. おわりに

1.はじめに -基礎情報-

今回の考古学・歴史ニュースは「ギリシアでビザンツ帝国時代の陶磁器を焼成した大きな窯址が検出されたよ!&青銅器時代のお墓も出たよ!」ってお話です(*・ω・)ノ

上に地図を挙げましたが、今回の舞台であるギリシャは地中海に面しており、有名なイタリアのブーツ状の土地のヒールの先方向にありますね(分かりくいか( -д-)ノ)

遺構が発見されたコザニは北ギリシアに位置し、西マケドニア及びコザニ県の都です。

このコザニのアンソニーのグラットサニス(Gratsanis)地区で発見があったらしいのですが、詳しい場所が分かりませんでした。

というのも記事自体が

Δυο καλοδιατηρημένοι κλίβανοι της βυζαντινής περιόδου εντοπίστηκαν στην περιοχή Γρατσάνη του Ανθότοπου Κοζάνης, κατά τη διάρκεια εργασιών……(記事より一部抜粋)

こんな感じなので、よく読み取れないし、こともあろうかグーグルマップもギリシア語表記が多かったので探せませんでした。

学生時代に「古典ギリシア語」を履修していましたが、まぁ大体「なるほど!よく分からん!( ・Д・)」程度の能力だったのでご容赦願いたいヽ(TдT)ノ

ギリシア語の記事に興味ある方は下に挙げる遺構の写真のリンクから、元の記事に飛べますのでどうぞ(*・ω・)ノ




2.コザニにおける発見

まず今回の発見の契機は、「Aeolian Park East and West Asia」という名称の公園を建設するための工事です。

一つ目の発見は青銅器時代のお墓が見つかったことです。

この発見に関して、当時、送電ケーブルの巻き取り作業を行うべく、30㎡の広さの発掘調査がなされました。

この際にお墓が検出され、それが上に挙げた写真になります。

見た感じ、現地表面にかなり近い深度に遺構が広がっている模様です。

出土遺物から後期青銅器時代(BCE1600-1100年)と推定されています。

墓の傍には同時期の建造物と思われる遺構が存在し、青銅製の鳩の装飾品が出土しました。

人骨は確認されなかったようですが、副葬品から女性の墓であると推定されています。




今回のもう一つの発見がこちらの穴ぼこ群です。

変電所を建設しようと工事を行っていたところ、発見されたそうです。

これはビザンティン帝国時代(東ローマ帝国時代;CE395-1453年)の陶磁器の焼成に用いられた窯の跡です。

上に挙げた写真の右下隅に横穴が見えますが、この部分(及び、より手前部分;写真では切れている(TДT))で薪を燃やします。

「もぐら叩きゾーン」にはよく乾燥させた未焼成の陶磁器類を並べます。

このゾーンは10㎡の大きさがある大きなものです。

「もぐら叩きゾーン」の周囲からは10本のアーチ状の支柱の痕跡が確認されており、かつてはこのゾーンが壁と屋根で覆われており、小部屋のようになっていたたわけです。

このように上部構造は失われていますが、下部構造としては非常に保存状態のいい遺構です。

今回の発見ではこの種の窯址が2基検出されたのです。

この2基の窯址では薪をくべる部分の穴の入り口がタイルと石で慎重に閉じられていました。

そのことから、当時の土器工人らは将来的に再びこの窯群を使用する見込みで、一次的に工房を封鎖したのだと推定しています。






3.古代ギリシアにおける窯の構造

古代ギリシアの土器焼成窯の構造について紹介します。

この上に挙げた模式図と模型が非常に分かり易いかなと思います!(*・ω・)ノ

下の模型では「もぐら叩きゾーン(焼成部屋)」もしっかりと示されていますね。

上の模式図では燃料の燃焼場所が、焼成部屋の直下になっていますが、実際にはトンネル状の箇所で燃やします。

ちょうど模型ではトンネルの断面において薪が積まれているのが見えますね。

今回のような焼成部屋の一部である「もぐら叩きゾーン」を特徴とする土器焼成窯址はイタリア、エジプトでもいくつかの検出例がありますので、この下で紹介します。

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↑イタリア、セリヌンテにおける検出例①(「italy magagine」の記事内画像より転載;英文)


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4.おわりに

古代ギリシア文化に属する都市は現在のイタリア、シチリア島にも広がっていましたから、現在のギリシャの外であるイタリアでも多く検出されています。

またこの「もぐら叩き式窯」は古代ローマ、ビザンツ帝国にも引き継がれていますので非常に広い年代幅でヨーロッパを中心に見られるのです。

いくつか写真にて類例を挙げましたが、今回ギリシャで発見された土器焼成址は焼成部屋のグリル板の保存状態が本当によく、そして大型の施設である点で重要な発見だと思いますね(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

また最後に挙げた粘土板に描かれた当時の土器を焼成する工人の様子も興味深いなと思います。

こういった一般層の人々の暮らしぶりが分かる資料は貴重ですね(*・ω・)ノ

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↓頻繁に更新するとは限らないけどね!( ・Д・)↓

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2019ねん 5がつ 19にち(にちよーび、晴れ)

運動不足解消のためにランニングしてみた。

軽い筋トレ、ストレッチもした。

習慣になると良いが……

ついでに腹筋も割れてくれると尚良いのだが( ・Д・)


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今回の考古学・歴史ニュースは『アングロサクソンの王族の墓から鯨の骨を加工した精巧なボードゲームが見つかったけど、遊び方が分からんよ!』と言う内容です(*・ω・)ノ

「ゲームの考古学」のテーマは以前も少々扱ったので紹介しておきますね。


↓バックナンバーです(*・ω・)ノ
↑2本しかこれまでにこのテーマで書いてないのねヽ(TдT)ノ



6世紀のアングロサクソン王家の墓から出土したゲームに関する遺物は、木製のゲームボード、鯨の骨で作った2点のサイコロと57点のカウンターです。

賭博も含めたゲームに関する副葬品はこれまでにも発見されているようですが、セットとして出土することは非常に珍しいのです。

木製のゲームボードについては情報はありませんが、あまり状態が良くないのかも知れません。

イギリスに旅行に行く人や、在住の方は是非、サウスエンド中央博物館に行って、写真撮影して情報を頂けると幸いです( -д-)ノ



鯨の骨を使って製作されたもののため、サイコロとカウンターについては保存状態が良好です。

上に挙げた写真がゲームに使用したカウンターと思われる資料です。

全57点ありますが、装飾などは見られず外見に違いがありません。

そのため「トークン」のような何らかの数を数えるために用いたのかも知れません。

ゲームボードがどのようなものか不明なため詳細は分かりませんが、オセロのように用いた可能性もあります。

このカウンターの特徴は片側だけが山なりになっている点なので、バランスは悪いですが、表裏のある駒として使用することもできるでしょう。



サイコロは非常に精巧に作られています。

特に数字記号の掘り込みは特殊な道具を使用して彫り込んだものと思われます。

サイズも微細な特徴も深さも一定ですからね。

ただしそれぞれの掘り込み点の配置は均等配置ではないため、「穴を一つ開ける専用の道具」があって、それを手作業で彫りこんでいったと推測されます。

今回発見されたボードゲームセットがどのようなルールのものだったのかは最終的に不明なのが残念ですヽ(TдT)ノ

しかしゲームカウンターの存在からチェスのような頭脳戦の戦争ゲームとも考えられますし、サイコロの存在から同時に以前に紹介したレースゲームのような偶然に左右されるゲームであったとも考えられます。

あるいは一つのボードゲームセットでその両方がプレイできたかも知れませんね。




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前回の記事で初めて「この遺物は何でしょう?」クイズを出してみました。

今回は「ウォーリーを探せ」的な感じで出題してみました。

こういうことが出来る記事内容は限られているでしょう。

それでも考古学・歴史に興味をもってもらうためにもちょっとした娯楽性があってもいいのかな~と思うので新たな試みとして「考古学クイズ」をやっていこうかなと考えています。

……まぁそもそも「歩け、マヤ」の読者の皆様は、既に考古学・歴史が好きだと思いますけども!(・∀・)つ

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2019ねん 5がつ 13にち(げつよーび、晴れ)

今日もいい天気である。

お散歩したいが、時間がなさそうだ( ・Д・)


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今回の考古学・歴史ニュースは『イギリス、サウスエンド=オン=シーで発見されたアングロサクソン王家初期の王子の墓と副葬品が博物館・デジタルミュージアムで公開されたよ!』ってお話です(*・ω・)ノ

発見の舞台はイギリス、エセックス州にある自治都市サウスエンド=オン=シーです。

イギリスには「MOLA」という考古学調査・分析会社があり、日本における建設工事に伴う緊急調査を請け負ったりしている会社です。

MOLAには多数の考古学者が在籍しており、各分野の分析専門家も配置しているそうです。

所謂、「調査会社」というよりは「独立した研究機関」の方が近いかも知れません。

名前も「ロンドン考古学博物館(Museum of London Archaeology; MOLA)」ですし、国立研究機関が独立法人化したのかも知れませんね。

さて、このMOLAが依頼を受け、プリトルウェル修道院公園の端を発掘調査したところ、非常に豪華な埋葬遺構が検出されました。

この発見は2003年になされ、2005年まで継続的な発掘調査がなされました。

それから14年もの年月を経て全ての分析を終え、一般公開となったわけです。


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この埋葬遺構からは様々な副葬品が出土し、当時のアングロサクソン王家の埋葬儀礼の様子が明らかとなりました。

例えば副葬された大きな釜や杯は王族・貴族を招くパーティーの主催者としての被葬者の立場を示し、目の上に置かれた十字形の黄金製品は被葬者がクリスチャンであることを示しています。

上に挙げた写真のように木製品などの腐敗しやすい資料も多く出土しています。

それらの貴重なアングロサクソンの工芸品や古代の楽器について、考古学を始めとして工学、土壌科学といった様々な専門分野から成る40人以上の専門家チームによって分析・研究が行われました。

彼らにより炭素年代測定や、土壌微細形態学による分析、CTスキャン、ラマン分光法、走査電子顕微鏡法による分析、質量・組成分析に至るまで様々な分析・研究が行われたために公開まで長い年月がかかったわけです。



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ところで、今回の考古学・歴史ニュースは「アングロサクソン」についてのお話です。

アングロ・サクソン(Anglo-Saxons)は、5世紀頃に現在のドイツ北岸からグレートブリテン島南部へと侵入してきた「アングル人、ジュート人、サクソン人のゲルマン系の3つの部族の総称」である。特にこの中でアングル人が、イングランド人としてイングランドの基礎を築いた。
(参考:wikipedia)

このようにアングロサクソンはイングランドの基礎を築いた集団であり、彼らの使用した言語が現在の英語の基礎となったという歴史があります。


イングランドは一時期デーン人(現在のデンマーク周辺に勢力を持つ集団)によって支配されていましたが、アングロ・サクソン人の支配は1066年のノルマン・コンクェストまで続きます。

アングロサクソン人、デーン人、ノルマン人と色々出てきて複雑な印象を受けますが、どれも結局ゲルマン系民族の集団なのです( -д-)ノ



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さて、今回は写真が盛り沢山になっていますが、これまでに写真で紹介したように本当に様々な副葬品が多量に出土しています。

これらの副葬品は地元で造られた製品も多く含まれていますが、その品質は非常に高いものです。

一方で下部に挙げる写真に見られる美しい青いガラス製の容器のような輸入された贅沢品の存在は初期のアングロサクソン王家の権威の強さを分かり易く示しています。

この王家の墓に埋葬された人物の候補としては、調査の最初の段階では6~7世紀にキリスト教に改宗したことが知られている2人の東サクソン王が挙げられました。

それはエセックス王のサベルト王(Sæberht)または彼の孫のシゲベルト2世(Sigeberht II)です。

前者は西暦616年に亡くなり、後者は西暦653 年に殺害されています。

いくつかの遺物の証拠が7世紀初頭の日付を示したことから、サベルト王である可能性が高いと考えられていました。

しかしながら、その後木製遺物等の植物依存体を対象とした炭素年代測定法から、埋葬時期がサベルト王の死去時期の少なくとも11年前である西暦575年から605年であることが示されました。

この結果、最新の研究成果として、この墓の帰属年代は6世紀後半頃であり、被葬者はサベルト王の兄弟であるサークサ(Saexa)である蓋然性が高いと推定されています。



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さて、長くなりましたが最後に、今回の発見や研究に関する最新の情報は『MOLAのウェブサイト(英語サイト)』で公開されています。

また王家の墓から出土した多数の豪華な出土品はイギリスのサウスエンド中央博物館に常設展示されているそうです。

……やっぱり黄金とか多くの人々の関心を集める出土品はいいな~って羨ましく思いますね( ・Д・)

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