2018ねん 11がつ 19にち(げつよーび、晴れ)

久々に更新した。

ネタに溢れてはいるが時間が溢れていない( ・Д・)

12月は頑張るから許して~( -д-)ノ


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さて、今回の考古学・歴史ニュースは、中国の巨大人工洞窟、龍游石窟(ロンユーせっくつ)です!

この遺跡における発見はミステリーに溢れていて、世界9番目の不思議と名高いそうです(世界的には七不思議じゃないのね、今度他のも調べますね( -д-)ノ)。

場所は中国の浙江省(せっこうしょう)です。東シナ海に面していて、上海のすぐ南(南西約400km)に位置しています。

龍游石窟は1992年6月9日、地元の村人が「底なし池」の水を抜いたことで偶然発見されたという経緯を有しています。「底なし池」というのは地元の人々がそう呼んでいたというだけです。が、なんかオカルト的にはウケそうな響きだからか、どの記事にもその呼称が用いられて書かれてますね。

この龍游石窟が有するミステリーは簡単に述べると以下の通り!


①生命が存在しない

龍游石窟は元々水没していたわけで内部は水浸しになっていたにも関わらず、不思議なことにそこには魚はおろか、あらゆる生物が一切存在しなかった、そうです。


②巨大な空間

龍游石窟は36個の大小の人工石窟群からなります。一つの空間の高さは30メートル、広さは1000㎡で、合計すると3万㎡という面積になります。掘削・採取された石材は東京ドーム約1個分に相当する100万㎥になり、1000人の人間が昼夜問わず作業にあたったとしても6年もの歳月がかかると試算されている、そうです。


③歴史に残っていない

これだけ大規模な労働力を投下できるのは地方の有力者では不可能であり、王のクラスであったと考えられます。しかし歴史記録として一切残っておらず、そのため莫大な石材が何に使われたのか、あるいは石窟自体に用途があったかも知れませんがその用途も不明です。


④暗闇での作業方法が不明

洞窟内は暗いです。上に挙げた写真のように入り口付近には太陽光が差し込みますが、奥の空間には当然光が届かず完全な暗闇になります。しかし松明やランプ等の採光手段を使った際の煤の残滓が一切発見されていません。写真に見られるように、天井や壁、残柱には縞状の文様が付けられているため、暗い中での作業は不可能だったでしょう。


⑤高精度の測量技術

36個ある石窟の内部はそれぞれ完璧な対称性があり、正確な製図・測量技術があったことを意味するとのこと。またそれぞれの空間は互いに独立しており、連絡通路は存在しません。場所によってはわずか厚さ50cmの壁で区切られており、意図的に連結しなかったことは明らかだ、そうです。


⑥保存状態が素晴らしい

少なくとも2000年以上前の構造物にもかかわらず、一切の崩落や損傷がなく、完璧な状態で保存されていたそうです。この石窟のある地域では歴史上、何度も洪水や地震に襲われており、近隣の山は形を変え、外気に曝された岩石には浸食がみられるにもかからず、石窟内はまるで完成したばかりのような状態とのこと。


⑦建造年代は少なくとも2000年前

建造年代については諸説あるようです。

A:紀元前500年~紀元前800年説
B:中国最初の王朝である秦朝(紀元前221年~206年)以前に建設された説
C:春秋戦国時代(紀元前770~221年)、特に春秋時代(紀元前770~500年)

これらの説を参考に、多くの記事では「2000年前」、「少なくとも2000年前」、「2500年前」と記述しているようです。


以上のように7つの不思議なことがまことしやかに様々なサイトで散見されます。まぁ基本的にオリジナル記事から参考・引用してるのでしょうから、似たような内容に落ち着くのでしょうね。


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☆検討!( ・Д・)

ではここで先に述べた7不思議について検討していきたいと思います。


①生命が存在しない件について

存在しないわけないですね。水を放置しておくだけで植物プランクトンとか増えますしね、お魚類を飼育したことがある人でグリーンウォーターを作ったことのある人なら経験的に分かるでしょう。そうなると当然それを餌とする動物プランクトン、昆虫類、水鳥も生息しているでしょう。つまり明らかに誇張です。

これは『村人が水を抜く前に発見した大きな魚を、水を抜いた後に発見できなかった』という内容が膨れ上がってます。

元々、何故村人は水を抜いたのか? 実は放流していたコイ類を捕獲するためです。だから普通に生命いますよ。

では何故発見できなかったのか? 石窟は発見当時は24か所の空間だけしか見つかっていませんでした。その内、水を抜いたのは6か所だけです。現在までに36か所が発見されていますが、現在でも水を全部抜いているわけではありません。つまり水を抜いている間にお魚さんは水の残るより深い部分に逃げて行ったからですね、水ないと困るからっ!( ・Д・)

結論:生命はいたと思います( -д-)ノ




②巨大な空間、③歴史に残ってない、⑦建造年代

巨大な空間、確かに広い。石材・空間の用途不明、歴史に残ってない。まぁこれらは謎ですね。

建造年代については、A:紀元前500年~紀元前800年説は、天井とか壁に描かれた縞模様が該当する時期の土器に見られるというのが根拠だそうです。このような模様の建造物が他に残って発見されているなら分かりますけど、土器の模様と同じと言われてもかなり単純な模様ですからね、根拠として薄いでしょう。

B:中国最初の王朝である秦朝(紀元前221年~206年)以前に建設された説は、龍游石窟について歴史に一切残ってないからというのが根拠みたいですが、根拠になってないですね。いつだろうが残るものは残るし、残らんものは残らんと思います。

C:春秋戦国時代(紀元前770~221年)、特に春秋時代(紀元前770~500年)については、これが唯一の考古学的根拠に基づいた説です。

2001年に行われた学際的調査の際に、ひとつの石窟空間の中心部にある貯水場らしき構造物に堆積した泥土の中から半完形の土器資料が出土し、その土器が春秋時代に属する遺物だったのです。

しかし考古遺物が1点のみであり、後世に古い時期の土器が持ち込まれた可能性も否定できないとして、プロジェクトでは可能性の一つとして扱い、時期の断定を行いませんでした(谷本 2003: 1394)。



*引用文献
谷本 親伯
2003 「岩盤工学の最近の話題 4.古代遺跡保存と岩盤力学」『材料』Vol.52、No.11、pp.1391-1397、日本材料学会、京都市



上記論文で紹介されている説では、呉王が越王を征服し、越王が20年後に復讐し呉国を滅ぼした事件、「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」と関連する遺構である可能性を一例として指摘しています。

「史記」によれば、越王が急いで復讐しようとしたところを部下に止められ、製造した大量の兵器を山中に隠したとする伝説が残っており、これが相当する可能性があります。

石窟の用途としては上記の倉庫の他に、秘密裏に軍人を訓練する空間との指摘もありますが、谷本は地形・地質条件から否定的な見解を述べており、この石窟が食糧庫であった可能性を指摘しています(谷本 2003: 1395)。

四字熟語として国語で習うこの「臥薪嘗胆」と龍游石窟が関係しているのであれば、時期は紀元前6世紀末~5世紀初頭となるでしょう。



それにしてもただの食糧庫なら、何故、壁や残柱、そして天井まで縞状文様が付けられているのでしょうね。元々他の装飾を伴う必要のある用途で造られていた空間を食糧庫として利用したのか、あるいは一定のノミ痕を残すような掘削技術が用いられていたためで意図的な装飾ではないのか、この辺りは謎ですね( -д-)ノ

手の届かないような高い部分に鳥・馬・魚の模様が描かれているそうですが、元々は儀礼的な意味合いがあった空間なのかも知れませんね。まぁデータがないので模様の精巧さや量が分かりませんが、採掘場の壁って往々にして作業員のいたずら書きがあったりしますからね。

あと各空間の中央には貯水池状の長方形の掘り込み遺構があるということで、やっぱり備蓄庫? 気になるところですね(。・ω・)ノ゙



④暗闇での作業方法が不明

確かに松明とか使うと煤が残りますね、天井とかに。ノミを用いて手作業で削るわけですし、天井までは30mもあるし、梯子とかを組んで手元を照らすとしたら、やはり壁や残柱にも煤が付着するでしょうね。

1000人程度で寝ないで作業して6年間かかる……まぁ1000人動員したという数字に根拠があるのか分かりませんけど、仮に1000人働いて、ちゃんと寝てもらったら18年くらい? 越王は20年後に復讐してるからまぁもうちょっと急いで空間作って欲しいよね、軍事用の備蓄庫だとすると。

私の疑問①:約20年働いたことで溜まる煤ってどれくらいなのか?
私の疑問②:2000年以上水没してる間になくならないものなのか?

この辺はちょっと分かりません( -д-)ノ

あともし食糧庫として使われる前に儀礼用に使用されていたなら、完成した後に煤を取り払っていたかも知れませんよね。

(まぁ個人的には吞気に泳いでるコイが煤をツンツンして食べちゃったことに一票入れたいけど( -д-)ノw)



⑤高精度の測量技術

正確な製図と測量技術によって空間同士がわずか厚さ50cmの壁で区切られており、意図的に連結しなかったことは明らかだってことでしたが、この50cmの壁ってNo.1、No.2と名付けられた2空間の間のことだけなんですよね。

他の大多数である34空間の間は普通にがっつり距離あるようです。だから、言うほど各空間は左右対称じゃないし、偶然の産物でしょう。

壁の分析によると、地層と既往の割れ目を利用して掘削されていることが分かっています。製図したプランに基づいて正確な測量によって掘削したのであれば、複数個所で均一な薄い壁が造られるはずですね(谷本 2003: 1394)。


⑥保存状態が素晴らしい

確かに綺麗ですよね。写真で見ると。ここは観光地化された空間ですけどね。

奥の方がどうなっているのかは分かりません!

完全に水没したのがいつかは不明ですが、掘削を行ってからは少なくとも2000年は経ってそうです。でも「底なし池」ということで恒常的な水の流れはありませんし、洞窟内は完全に水没していますから風の影響も少ないですよね。

この状態でどれだけ風化・浸食されるのでしょうか? 日本の研究者、特に岩石学や地質学の方々も実は現地に赴いて様々な理化学分析を基に僅かに見られる浸食の度合いから時期判定を行っているようですが、なかなか時期決定の決め手となるような成果は上がっていないようです。

考古学でもそうですけど、石材の加工に関する時期判定って難しいと思います。地質年代じゃなくて、比較的短い人類史の中で判定していかなければなりませんからね。

奥まで全部水抜いて、時期判定に繋がるような遺物を発見することの方が早い気もしますね( -д-)ノ


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さて、ここまで書いておいて、違う記事見つけてしまいました。最初から中国の記事を読めば良かった。現地の記事だもんね~ヽ(TдT)ノ

ということで2017年4月に龍游石窟の近くでより巨大な石窟群が見つかったそうです。

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龍游石窟の事例で縞状文様と表現されていたノミ痕はこの画像からすると装飾というよりはただのノミ痕に見えますね。

あと龍游石窟で空間の中央に配置されていた貯水池状遺構ですけど、ここではレンガブロックを積み上げたような背の低い構造物が林立してますね。

これって現代でも見られる、セメント作るために材料こねて混ぜ合わせる水槽では?とか思うんですけど。砂岩等の堆積岩はセメントの原料に使われますから、採掘された大量の石材とかズリは古代コンクリのようなセメント状の接着剤として加工して使われたのかも知れませんね。

あるいはここにあるようなレンガブロックに姿を変えたかも知れませんね。分析によると龍游石窟の壁は砂岩でできていて、モンモリロナイトという粘土鉱物を多く含んでいますから、砂岩ブロックの素材として有用だったでしょう。

地面も洞窟壁面もレンガも赤っぽいですよね。これは龍游石窟を含むこの辺りの砂岩が赤鋏鉱を含んでいるからで、たぶんここにあるレンガの素材と洞窟を構成している砂岩は同じものな気がします。

……なんか分かっちゃった!?( ・Д・)

まぁ新聞記事なので詳しい情報は書いてませんが、このような分かり易い遺構が見つかっているなら、共伴する遺物も含めて、龍游石窟の時期判定もできそうな気がしますね!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

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↑奥はこんな感じだった。水溜まってますね(「Japanese.CHINA.ORG.CN」の記事内画像より転載;;日本語!)


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あー、久々だからか、気合入って長くなりましたね( -д-)ノ

お付き合い頂きありがとうございました。まぁ検討してみたら、7つの不思議については色々と胡散臭い部分も出てきたわけですが、それでも考古学・歴史学的な謎と浪漫はしっかりと残ります!

今後の調査で龍游石窟の時期や性格の解明に繋がるような遺物が発見されることを祈ってます(。・ω・)ノ゙

↓お久しぶりです。ほい、ぽちっとな(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!↓