あるけまや -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

    お金にならない考古学をお金にしよう╭( ・ㅂ・)و ̑̑ グッ ! 考古学・歴史ニュースの決定版╭( ・ㅂ・)و ̑̑ グッ !

    弥生時代

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    2026ねん 5がつ7にち(もくよーび、晴れ)
    GW、たくさん休んでしまった!( ・Д・)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


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    ↑鉄製品良く残ったねぇ!( ・Д・)




    今回の考古学・歴史ニュースは国内最古かもしれない弥生時代ののこぎりが福井の林・藤島遺跡で見つかって、しかも玉づくりに使われた可能性があるらしい!( ・Д・)」ってお話です(*・ω・)ノ



    📰 はじめに


    のこぎりって、現代ではあまりにも当たり前の道具だから、考古学ニュースとして聞くと少し地味に見えるよね。

    でも今回の話は、たぶんそんなに地味ではない。
    というのも、福井市の林・藤島遺跡で見直された鉄製品1点に、保存処理の過程で鋸歯がはっきり確認され、弥生時代の鉄製鋸である可能性が出てきたからだ。もしこれが妥当なら、日本列島でこれまで最古とされてきた古墳時代前期の鋸より古く、鋸の導入時期が弥生時代後期までさかのぼることになる。しかもこの遺跡は、ただの集落ではなく、玉づくり工房をともなう大規模集落なんだよね。


    つまり今回の話は、
    「古いのこぎりが出ました」
    で終わらない。

    むしろ大事なのは、
    弥生時代の北陸で、玉づくりみたいな精密な手工業に鉄の工具がどう入り込んでいたのか、
    そこが急に具体的になってきたことなんだよね。


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    ↑遺跡の全景、フィルムで撮った?って思うくらい古い印象!( ・Д・)(「魚津知克らによる資料報告」の第1図より転載)


    🌏 まず、弥生時代ってどんな時代だったのか

    弥生時代は、水稲農耕の広がりとともに、中国大陸や朝鮮半島を経由して鉄器が入ってくる時代として知られている。だいたい紀元前300年ごろから300年ごろまでの時期とされ、北部九州に現れた新しい文化が東へ広がっていったと説明されている。つまりこの時代は、田んぼの時代であると同時に、外から入ってきた新しい技術が日本列島の各地でローカルに組み替えられていく時代でもあるんだね。


    しかも弥生時代後期になると、地域どうしのまとまりと交流がかなり強くなっていく。
    1・2世紀ごろには、中国大陸、朝鮮半島、日本列島各地の結びつきが濃くなり、外部との交渉を担うような特別な人びとも現れてくると整理されている。だからこの時代の工房や工具の話は、単なる職人仕事の話ではなく、広域交流の中で何が伝わり、どこで高度化したのかという話にもつながってくるんだよね。


    💎 その弥生時代に、玉づくりはかなり重要だった

    弥生の玉というと、ついアクセサリーくらいに見えがちなんだけど、実際にはかなり重要です。

    勾玉や管玉は、弥生時代になると有力者の墓に副葬されるようになり、青銅器などと並んで「力」の象徴としての意味を持つようになっていく。とくに貴重な石材で作られた玉を持つことは、遠隔地との交渉力や入手力を示すことでもあったらしい。さらに日本海側では、碧玉やヒスイなどをめぐる交流が強く、北陸の玉づくりはかなり広域のネットワークの中に置かれていたことが分かっている。


    だから玉づくりの工房って、単なる町工場ではないんだよね。
    そこには原石の確保、切断、穿孔、研磨、流通まで含めた高い技術とネットワークが必要になる。
    北陸の事例でも、2300年前には硬い碧玉を切断し、細い孔をあける高度な加工技術が成立していたことが語られている。つまり今回の福井の話は、弥生の工芸技術の中でも、かなり“精密機械寄り”の現場の話なんだ。



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    ↑明らかにのこぎりだね!( ・Д・)(「魚津知克らによる資料報告」の第2・3図より転載)


    🏺 林・藤島遺跡って、そもそもどんな遺跡なのか

    林・藤島遺跡は、福井市泉田町、九頭竜川中流域左岸の自然堤防上にある複合遺跡で、縄文時代晩期、弥生時代後期から古墳時代、さらに鎌倉時代の遺構を含んでいる。その中でも特に注目されてきたのが、弥生時代後期の玉づくり工房をともなう大規模集落だね。発掘では、竪穴住居や平地住居、掘立柱建物、土坑、溝などに加えて、玉の完成品・未成品・石材・砥石、そして大量の鉄製工具が出土している。こうした出土品の一部944点は、国の重要文化財にも指定されている。


    しかもこの遺跡、玉づくりの工程がかなり見える。
    細い錐は管玉に孔をあけるため、鏨は原石を割って角柱状に加工するために使われたと考えられていて、北陸の玉づくり工具が石製から鉄製へ移っていく様子をかなり具体的に示している。福井県側も、この遺跡を日本海側一帯の中でも高水準の生産技術を示す例として位置づけているんだよね。


    🔍 そして今回、その中から“のこぎりらしい鉄製品”が見えてきた

    今回おもしろいのは、この資料が最初から「のこぎり」として知られていたわけではないところだ。

    保存修理の過程でX線透過画像を撮ったところ、鉄製品1点に明瞭な鋸歯が見つかった。発掘報告書ではもともと「鋸歯が刃部すべてにある鎌」とされていたものだったけれど、X線やCTスキャンで細部を見直したことで、のこぎりとして再評価できる可能性が出てきたわけだ。こういうの、かなり好きなんだよなあ。昔の発掘品が、新しい観察技術で別の顔を見せるやつ。


    資料そのものは、保存修理後の現状で長さ4.1センチ、最大幅2.1センチ、厚さ1ミリほど。折れ曲がりを元に戻すと、少なくとも5.7センチ以上の、先端が尖る「くちばし形」に復元できるという。歯は下辺につき、1センチあたりおよそ5〜6枚、深さは1〜3ミリ程度。しかも歯には切れ込みや面取りまで確認されていて、かなりちゃんと加工された刃だと分かる。


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    ↑X線・CTスキャンで見るとしっかり歯が残ってるね!( ・Д・)(「魚津知克らによる資料報告」の第4・5図より転載)


    ⏳ どれくらい古いのか

    ここが今回の核心だね。

    この資料は、遺構に直接伴うものではなく、弥生時代後期の包含層から出土したものなので、研究チームも断定は避けている。
    ただ、直上が厚い弥生時代包含層で、上層からの混入は考えにくく、同じ層から刀子・鏨状・棒状の鉄製工具も出ていることから、弥生時代後期後半に属すると見るのが自然だとされている。だから現段階では、「国内最古の弥生時代鉄製鋸である可能性が高いが、確定ではない」という言い方がいちばん正確なんだね。


    それでもインパクトは大きい。
    これまで日本列島で最古の鋸類例とされていたのは、古墳時代前期の兵庫県権現山51号墳の副葬品だった。つまり今回の資料が妥当なら、鋸の導入時期は古墳時代から弥生時代へ一気にさかのぼることになる。研究チームは、鋸は日本列島で最も「鉄器化」が遅れた道具の一つと評価されてきたとしたうえで、この資料はその理解に一石を投じると述べている。


    🪵 しかもこれ、玉づくりに使われた可能性がある

    ここがタイトルのいちばん面白いところ。

    林・藤島遺跡では、鉄製工具の多くが鏨や錐のような打割具・穿孔具で、玉づくりの現場に重点的に投入されていたことが分かっている。未成品の観察からも、打割や穿孔で鉄器が使われていたことが復元できる。さらに、一部の未成品には「施溝分割」の痕跡があって、この工程に鉄製工具が使われた可能性が指摘されている。研究チームは、薄手の鑿だけでなく、この鋸も施溝分割に使われた可能性があると見ているんだね。


    要するに、今回ののこぎりは木工用の大ぶりな道具というより、石材や玉材を細かく加工するための精密工具として考えたほうがしっくりくる。
    弥生時代の工房で、石を割り、溝を入れ、孔をあけ、磨いていく。
    その流れの中に、のこぎりが入っていたかもしれない。
    これ、かなりいいよね。弥生時代の工房が、急に手元の細かい作業の世界として見えてくる。






    🌊 しかも北陸の技術って、かなり外とつながっていたかもしれない

    今回の報告では、この鋸には日本列島内に類例の少ない歯の形態があり、あるいは舶載品の可能性もあるとされている。研究チームは、石川県小松市の八日市地方遺跡で見つかった鉇の祖型とみられる鉄製品なども踏まえ、弥生時代後期の北陸には、中国大陸起源の鉄器文化の影響が日本海を通じて及んでいた可能性を考えている。もしそうなら、林・藤島ののこぎりは、単なる一工具ではなく、日本海側に入ってきた鉄器技術のかなり前衛的な痕跡になる。


    ここ、かなり大きいです。
    弥生時代の鉄器って、つい農具か武器の話になりがちなんだけど、実際には手工業の現場にどう入ったかも重要なんだよね。
    しかもその入口が、日本海側の工房だったかもしれない。
    こうなると今回の発見は、「のこぎり」そのもの以上に、「弥生時代の北陸って、思っていた以上に技術先進地だったのでは?」という話にもなってくる。


    ✍️ あるけまや的まとめ

    今回の話を雑に言うと、

    福井市の林・藤島遺跡で出土していた鉄製品1点が、保存修理とX線・CT調査によって、弥生時代の鉄製鋸である可能性が高いと分かってきた。資料は弥生時代後期後半の包含層から出土していて、確定ではないものの、妥当なら国内最古の鋸になる。しかも林・藤島遺跡は玉づくり工房をともなう大規模集落で、鏨や錐など鉄製工具が大量に出土しており、今回の鋸も玉材の施溝分割などに使われた可能性がある。つまりこの発見は、弥生時代の北陸で、かなり高度な手工業生産に鉄器が入り込んでいたことを示すかもしれないんだね。


    だから今回の発見は、

    「古いのこぎりが見つかった」
    だけじゃなく、

    「弥生時代の工房では、石の玉をつくるために、思っていたより早い段階から鉄の精密工具が使われていたかもしれない」

    というところまで見せてくる。


    のこぎりって、日用品すぎて逆に見落としやすい。
    でも考古学だと、そういう当たり前の道具が、いちばん時代の輪郭を変えてくることがあるんだよね。

    こういう発見、かなり好きなんだよなあ( ・Д・)



    なにはともあれ・・・・・・

    私はのこぎりを上手く使えない!( ・Д・)







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    2024ねん 8がつ 7にち(すいよーび、晴れ)

    たくさん食べて飲んで寝た( ・Д・)

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    今回の考古学・歴史ニュースは大阪の弥生時代の遺跡から色々見つかったよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


    今回の舞台は大阪府茨木市の郡(こおり)遺跡・倍賀(へか)遺跡です。

    この2つの遺跡は隣接しているようで、発掘調査においても調査区に同時に2遺跡が入るように掘られたりしています。



    主要な遺跡としては弥生時代の中期から後期、約2200~1900年前の住居&お墓の遺跡なのですが、上層からは平安時代の中期~後期、約1000~800年前のムラも見つかっています。

    平安時代の方でも、掘立柱建物群や屋敷、井戸、お墓も出ているので重要な遺跡です。

    この辺りは住みやすい地域だったのかも知れませんね。




    さて、今回の弥生時代の方の発見では上の写真にあるような鍵穴形の住居が見つかっています。

    この他にも通常の竪穴住居が50基見つかっています。

    中には焼失住居も含まれるので、室内の遺物の分布状況のデータも取れそうです。




    住居も方形周溝墓もたくさん見つかっている郡遺跡・倍賀遺跡ですが、その他にも船を線刻した土器、銅鐸形土製品の破片、用途不明の土製品などレアな発見が続いているそうです。



    また木棺墓が13基も見つかっていて、その中の幼児用の小さな墓から青いガラス玉が出土しています。

    子供に貴重な副葬品を入れることができるってことは階層化が進んでいそうです。

    ちなみにこのガラス玉は茨木市文化財資料館で展示される予定だそうなので見に行きたいですね。



    ・・・弥生時代中後期か、うん、階層化の研究に使えそうで良き(*・ω・)ノ




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    ↑出土したガラス玉、綺麗( ・Д・)(「静岡新聞」の記事内画像より転載)




    おわりに

    いやー最近自分の研究の影響で、海外遺跡にしても今回のような遺跡にしても、

    住居址が出てて、副葬品とかで格差の有無が分かるようなとこが結構あって、

    データ取りたいな~ってなるんですよね。




    なんだかんだ最近飛鳥、奈良、平安あたりのデータを取ってるので、

    縄文、弥生、古墳辺りやりたいんだけどな~

    研究費獲れたら誰かに任せたい気持ちがあってズルズルと手を付けずにいるんですよね……( ・Д・)



    が、やはり人類史面白い!




    何はともあれ、

    やぱ研究費欲しい!( ・Д・)



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    2023ねん 6がつ 14にち(すいよーび、やや雨)

    寝ようと思ったのに微積やったら興奮して覚醒した、謎( ・Д・)

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    今回の考古学・歴史ニュースは残念だったが、そんなもん!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


    さて、今回の舞台は佐賀県、吉野ヶ里遺跡です。

    なんだか記事でもニュースとしてもむちゃくちゃに連日報道していましたよね。




    まぁ私は冷たい感じで、きっと出ないだろうなぁと思っていたのですが、、、

    一般の人はやはり「邪馬台国」とか「謎のエリア」とか「有力者の墓」とかのキーワードでドキドキするのだなぁと思ったし、

    『何かの発見』が考古学と一般の人々を結ぶ上でいかに重要かを思い知らされた気がします。

    普段だったら発見至上主義的な考古学は嫌いなんですけどね( -д-)ノ





    さてさて私があまり期待していなかった理由はいくつかあるのですが、、、


    とりあえず神社があった「謎のエリア」で長軸3.2m、短軸1.7mの墓坑が見つかったとの報道がありました。

    神社があったからこれまで掘れなかっただけなのに、「謎のエリア」とはさすがテレビは上手いなぁと思いましたね(*^・ェ・)ノ


    で、墓坑は大きくて、最初に挙げた写真で分かるように蓋石も立派なので少し期待できるかなとはこの段階では思ってました。




    蓋石を外したあとの写真が上のものですが、箱式石棺墓であることが分かり、赤色塗料が側壁に付着していたことから有力者の墓の可能性が高いと言われるようになりました。

    だけど石棺内部のサイズが長軸180cm、短軸36cmということが分かり、あぁこれはなんだか怪しいなぁと感じ始めましたね( ・Д・)




    まぁ結局、人骨は消失していて、しかも副葬品がまさかのゼロ!

    ちょっとはあると思ってたのに、それだけは予想外でしたね(*^・ェ・)ノ






    邪馬台国論争と言えば、地元愛が強すぎるのか様々な候補地がありますよね。

    まぁ考古学的には畿内説と九州説が有力で、特に畿内説が最有力だと思います。





    テレビは何かとオーバーなので「邪馬台国発見か?」みたいな見出しも平気で付けますが、まぁそんなことはないだろうなと思っていました。

    というのも考古学は珍しいものを発見する仕事ではありません。

    膨大に出てくる土器などをデータとして扱う、そうした地道に集めた各種のデータの積み重ねで解釈がなされる世界です。




    だから今回の発見の一発で歴史が変わるとか日本の考古学界に激震が走るなんてことはまず起こりません。

    あるとしたら、「ここ邪馬台国!」とか「私、卑弥呼様!」とか直接的な文字情報が刻まれた遺物が出土したら一撃ですけど、、、

    そんなのロゼッタストーンが驚き過ぎて自ら爆散するくらいの奇跡ですよ( ・Д・)



    確かに残念ではあったけれども、これを機に、邪馬台国に関する議論が考古学者やアマチュア考古学者の中で再燃したり、一般の方々が古代世界にロマンを感じて考古学というものの存在を再認識してくれるとありがたいなぁなんて思いますね。




    ↓邪馬台国関連だよヾ(´ω`=´ω`)ノ



    ↑邪馬台国関連だよ(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!


    おわりに

    ん~、マヤ文明、ティカルの調査データを用いて史上初の数的考古学理論を構築中な私ですが、古墳時代への応用を少しやり始めたのですよ。

    でも複雑でなかなかうまくいかず、縄文とか弥生から始めるかな~って思ってた矢先のこのニュースだったんですよね。



    邪馬台国と関連付けているからには弥生時代後期でしょう。

    それなら有力者の墓なら当然立派な副葬品が出てくれないと私の理論上「困る」んですけど!ヽ(TдT)ノ



    骨も残ってないからどうしようもないけれど、子供の墓ってことで例外的に処理する他ないかな・・・

    日本は遺跡の状況がマヤと全然違うけど、やっぱどこも面白いね、難しいけど。

    うん、マヤ文明の方が考古学的にイージーな気がする・・・がんばろーっと(*^・ェ・)ノ



    何はともあれ、

    卑弥呼様~!( ・Д・)



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    2023ねん 5がつ 8にち(げつよーび、曇り)

    今年度はめっちゃ頑張るよ!(・∀・)つ

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




    今回の考古学・歴史ニュースはクジラの絵が描かれた弥生土器が発見されたよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


    さて、今回の舞台は福岡県、糸島市の深江城崎(ふかえじょうざき)遺跡です!

    糸島と言えば、みんな大好き「邪馬台国論争」で出てくるやつですね。

    魏志倭人伝に記された伊都国があったのが糸島周辺だったとされています。

    「いとこく」の名が「いとじま」の地名として残ったとする解釈から来てるものです。

    これってどれだけ信憑性のあるものなのか謎だなと昔から秘かに思っているのですが、まぁきっと専門にやってる人からしたら”当然そう”なのだろうと誰にも聞けずにいます( -д-)ノ




    さて、今回はこの深江城崎遺跡から弥生時代に帰属する土器が出土し、その器面に「クジラ」が刻まれていたというお話です。





    出土した土器は高さ60cmの壺です。

    壺のくびれ部を頸部(けいぶ)と呼びますが、そのあと器の形としては膨らみますよね?

    その部分を肩部(けんぶ)と言います。




    今回のクジラはその肩部に描かれていました。

    日本考古学だと正確にはなんて言うのか分からないのですが(申し訳ない!)、たぶん大きく分けると沈線文として扱われるはず!

    アメリカ考古学ないしマヤ考古学では大枠がないので、刻線文(incision)になりますね。

    画像サイズが小さいものしか見つからなかったので見にくいですが、ちょっと「ガリガリ削った感じ」がしません?




    器面が柔らかい状態で施文したのか、乾燥してから施文したのかで分類しているのです。

    乾燥した状態でゴリゴリ削ると刻線文です。




    このクジラは全長8cmで尾びれまで描かれています。

    胴体の左右には6本のラインが伸びていますが、これは恐らく「モリ(銛)」を表現したもので、つまりは弥生時代における捕鯨を表現したものと考えられます。





    これまでに見つかった同様の事例は、長崎県壱岐市の原の辻(はるのつじ)遺跡での1例のみなので今回の発見は2例目というとってもレアな発見なのです。

    恐らく湾や浜辺近くに迷い込んだクジラを狩猟したのでしょうが、大量の肉や油を提供してくれるクジラはまさに豊穣の象徴だったのでしょう。

    きっとこの壺にクジラに対する畏敬の念や豊穣に対する祈りを込めて描いたのだと思われます。





    クジラの脳油は古代から利用されていたようですがそのお話はまた別の機会に!

    あと、現在でも漂着したクジラの死骸はこの油のため危険なのでむやみに近づくことを禁止されていますのでご注意を!( -д-)ノ





    ↑良かったら応援してね!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!


    おわりに

    弥生時代後期から古墳時代初頭に出現する”謎”の「手焙形(てあぶりがた)土器」というのがあるのですが、、、

    クジラの脳油と関係していると考える研究者もいるようですね。

    ちょっと調べてみて今度記事にしてみます。




    手焙形土器自体が形態も変だし、時期も限定されてるし、何に使われたのか謎だし、面白い題材なのです。

    形態が特徴的だから記事を読んで知識を得てもらえば、博物館で実際のモノを見つけた時にはきっともっと楽しめるはずです。

    ということでその内ちゃんと取り組みますね(*^・ェ・)ノ



    何はともあれ、

    クラファン応援して!( ・Д・)



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    2022ねん 6がつ 18にち(どよーび、晴れ)

    何度でも言おう、スマホ割れた。゚(゚´Д`゚)゜。ウァァァン

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




    今回の考古学・歴史ニュースは「こんなもん残る!?糸玉が見つかったよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


    さて、今回の舞台は徳島県、徳島市、南蔵本遺跡です。


    サムネ画として上に挙げた写真があまりにインパクトつよつよですよね!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!



    時期は弥生時代前期!

    長軸6.2cm、短軸4.5cmの大きさです。

    見た目通り、保存状態は非常に良好です。

    糸を巻き巻きしてまとめている感じがそのまま残っています。




    これまでにも「まだ食べれるよ!シリーズ」とかやってきましたけど、これはまだ編み編みできるよ!って遺物です。

    実際には用途は分かっていません。

    現代的なイメージで、セーターを編むための糸玉ではなかったようです。

    というのも、この糸玉は漆で固められているので、装飾品として機能した可能性が指摘されています。
     


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    上に挙げたように、実際には小片もいくつか見つかっています。

    問題は出土地点なのですが、「畑」です。




    日本では「古代人の脳みそ」や「クワガタ」とかレアな発見も結構見られるわけですが、こうしたレアな発見を支えているのは「水分」です。

    水場付近は絶え間なく水分が供給されるので無酸素状態が維持されて分解が進まないことがあります。

    最近流行りの水中考古学で古い船舶が海底に残っているのはこのためです。




    弥生時代は水耕や水の儀礼も盛んなためにこうしたレアな発見が多々見られるのですが、今回は畑(通常比較的乾燥している)なので様相が少し異なります。



    1点目は湿度!

    この南蔵本遺跡の出土地点は湿度が高く、乾燥するタイミングがなかったのです。

    湿潤・乾燥の繰り返しでモノは分解されていくのです(*^・ェ・)ノ




    2点目に漆!

    縄文時代や古墳時代、それ以降も含めてですが、漆が塗られていると有機質の遺物も残り易いのですヾ(´ω`=´ω`)ノ



    このような条件が整って始めて残存した超レアな今回のケース、弥生時代の糸玉は史上初の発見となったわけです!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!



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    ↑縄文時代の糸玉①(「東北歴史博物館」のHP画像より転載)



    さて、史上初の発見と書きましたが、これはあくまで「弥生時代の糸玉として」です!

    より古い時期である縄文時代ではなんと、すでに12例も見つかっているのです。





    上に挙げたのは新潟県、青田遺跡の出土資料です。

    この遺跡はレアな発見が多い所謂「低湿地遺跡」で水場遺構も見つかっているのです。


    そんなタイムカプセルような素晴らしい埋没環境で、かつ漆でコーティングされているため、しっかりと残存しています。




    下の写真の出土情報は不明ですが、どうやら縄文時代の糸玉の出土事例は全て漆コーティングによるもののようです。

    つまり「水分+漆」の組み合わせが考古学における奇跡的な発見を生み出しているといっても良いでしょう、知らんけど( -д-)ノ



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    ↑縄文時代の糸玉②(「日本古来の「麻」手しごと暮らし日記」)







    おわりに

    色んな記事見てると、特に新聞会社の記事って考古学・歴史担当の記者がいるようですね。

    みんな思い思いに写真を撮るのですが、見栄えをよくするためか「斜めから撮影する」ことがほとんどです。

    私は記事を眺めながら、この写真はダメ、この写真はまぁヨシ、とか勝手に評価して遊んでるんですけど、今回最も良かった写真は上に挙げた徳島新聞の写真です。





    おめでとうございます(!?( ・Д・))




    ガッツリ斜めから撮ってる感じがアウトなのですが、唯一スケール入ってるところが評価点です(゚Д゚≡゚д゚)エッ!?



    多分考古学やってない人ばかりなのでしょうが、接写に慣れてないのかピンボケばかりなんですよね。

    何様ですが、プロなのだから被写体深度くらい上げて撮って欲しいものですねとか思ったり(´・ω・`)




    何はともあれ、レアな発見はテンション上がるね!

    うるし最強!( ・Д・)



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    2021ねん 10がつ 2にち(どよーび、だいたい晴れ)

    生まれ変わるぅ~( ・Д・)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



    今回の考古学・歴史ニュースはお墓251基出ただけでスゴイのに、三種の神器も出たってさ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


    さて、今回の舞台は佐賀県、大和町の七ヶ瀬遺跡です。

    弥生時代後期(1~2世紀頃)に属する遺跡で長軸61m、短軸25mの大規模な墓域遺構が見つかっています。

    これまでの調査で251基の墓がまとめて見つかりました。

    私が調査者なら嬉し涙半分、哀し涙半分ってくらい、231基の墓ってめちゃくちゃ多いんですけど、、、

    これでも九州北部域では有数ってくらいで最多記録ではないのですΣ(・ω・ノ)ノ

    縄文時代は土壙墓(どこうぼ)っていう単純に穴掘って埋葬する方式が一般的でした。

    縄文時代でも後期や晩期になると所謂「甕棺(墓)」(かめかん(ぼ))のような土器棺墓が一部見られるようになります。

    弥生時代になると集団としての規模も多くなるので、自然と墓の数も増えるのはなんとなく分かるでしょう?

    それだけではなく、弥生時代の葬制が変わることで考古学的に墓が発見しやすい状況になるのです(*・ω・)ノ


    arukemaya1633
    ↑弥生時代の埋葬方法(赤穂市立有年考古館 2015の画像を一部加工)


    上に挙げたようにまず弥生時代には埋葬方法が少し変わります。

    土壙墓と土器棺墓は継続的に見られますが、弥生時代になると被葬者の身分によって異なる埋葬方法が取られるようになると考えられているのです。

    縄文時代から見られる最も一般的な土壙墓は相変わらず一般的に見られる一方で、特に新たに見られる木棺墓や石槨墓は有力者と思われる人物に用いられるのです(*^・ェ・)ノ


    arukemaya1634
    ↑弥生時代の埋葬方法2(赤穂市立有年考古館 2015の画像を一部加工)


    弥生時代には墓域を形成しますが、上に挙げたように一般向けの墓(左)と有力者向けの墓(右)に分けられる傾向が見られるようになります。

    時期差もありますし、本当に『一般向け』なのかは問題ですが、こういった方形周溝墓や円形周溝墓は考古学的に検出しやすいのです。

    更にこの(恐らく家族のためのお墓だから)複数のお墓を有する方形周溝墓は墓域において集中する傾向が見られます。

    単独で立地するわけではなく、すぐ隣接した他の方形周溝墓が見られるのです。

    なので結果として弥生時代の遺跡において一つの墓域を検出した際に非常に多くのお墓が見つかることがけっこうあるものなのです(*・ω・)ノ


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    さて、話を戻しますと、七ヶ瀬遺跡では多数の墓が見つかっているわけですが、その中の墓から三種の神器が見つかりました。

    三種の神器は天皇一族の伝世品として有名なもので、日本神話において天孫降臨の際に天照大御神が瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に授けた三種の宝物、つまり八咫鏡(やたのかがみ)・天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ;草薙剣)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を指します。

    三種の神器がセットで見つかる事例としてはこれが佐賀県で初の事例となります。

    勾玉は翡翠製、剣は鉄製、鏡は銅製でした。

    鏡は4面いずれも中国製であり、前漢に作られたものと後漢に作られたものを含んでいます。

    一つの墓に鏡が複数面伴う事例は全国的にはけっこうあるのですが、佐賀県では4面も出ることは珍しく、同県の二塚山遺跡に並んで最多の事例となります。

    こういう発見を見ていると、邪馬台国論争、九州説の論者の気持ちも分かる気がしますね(*^・ェ・)ノ




    ↑天叢雲剣(草薙剣)について触れてます(*・ω・)ノ


    おわりに

    「三種の神器発見!」ってだけで私は『お~!』ってなったのですが、「佐賀県で初」ってだけあって全国的にはけっこう出土例があるようですね。

    私はそっちの方に驚きました、全然知らなかった!Σ(・ω・ノ)ノ

    次回は国内出土の三種の神器の事例について調べて記事にしてみようかなと思います!

    あ、今日誕生日だから生まれ変わって記事もYoutubeも頑張るよ!( ・Д・)



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    2020ねん 12がつ 15にち(すいよーび、晴れ)

    もう年末!一日一日確実に仕事を終わらせていきたいものだ(*^・ェ・)ノ

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



    今回の考古学・歴史ニュースは石包丁の工房が見つかったよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


    さて、今回の舞台は奈良県、橿原市の慈明寺(じみょうじ)遺跡です。

    この慈明寺遺跡ではおよそ2500年前の弥生時代前期に帰属すると考えられる環濠集落が見つかっています。

    この遺跡で石包丁の原材料となる流紋岩の岩片が約200点も見つかったのです(・∀・)つ




    さて、記事の最初に挙げた写真は弥生時代の石包丁と石鏃です。

    歴史の教科書には必ず出てくるのがこの『石包丁』になります。

    何故かというと、「石包丁の存在=稲作の存在」を示すため、縄文時代から弥生時代への移り変わりを示すメルクマールとして有用だからです。

    最初に挙げた写真のように紐を通して使うもので、実際に出土した際には上に挙げた写真のように2つの穴が開いています。

    右下に穿孔が見られないものもありますが、このまま使われたのか、未成品なのか不明ですね。

    超有名な事例ですから、きっと使用痕研究がなされていると思うのですがこの事例は私は知らないです( -д-)ノ

    片手のみで作業する場合には紐は必須だと思いますが、両手で、つまり片手で稲を支えて、右手で石包丁を扱って切る場合は紐がなくても扱えますからね。

    個々の事例については研究されていない可能性もありますね(*^・ェ・)ノ



    さて実際に使う際にはこのように扱います。

    写真で分かるように石包丁は穂摘み具なのですが、『包丁』という名称を冠しています。

    これは明治期に最初に石包丁が出土した際に、北アメリカの「ウーマンズ・ナイフ」に形態が類似していることから「石製の包丁」として命名されました。

    その後、刃部の厚さなどからナイフや包丁とは異なる機能を持ち、恐らく穂摘み具であろうと解釈・認識されるようになりましたが、最初の名称がそのまま残りました。

    なので石包丁は包丁じゃないけど、『石包丁』なのですヾ(´ω`=´ω`)ノ


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    ↑見つかった岩片の一部と完形土器(「産経新聞」の記事内画像より転載;credit: 不明)


    さて、慈明寺遺跡に話を戻しますと、この遺跡は先に述べたように環濠集落遺跡なのですが、これまでのところ環濠の一部だけが見つかっている状態です。

    今回の発見はこの環濠の外側で起きました。

    下部に写真を載せましたが、環濠の外部に2つの穴があるのが見つかり、その中から大量の流紋岩の破片が見つかりました。

    石包丁の素材には凝灰岩が使われる傾向が強いのですが、素材が限定されていたわけではなく、今回のケースのように流紋岩も使われていました(・∀・)つ

    この流紋岩片が200点以上も見つかったわけですが、穴に廃棄された状態でした。

    遺跡の南方500mには畝傍山(うねびやま)があり、この山は流紋岩の産地であるため、石包丁の素材の採取地の可能性があります。

    慈明寺遺跡の人々は山まで石材を取りに行き、遺跡の周辺で石材を粗割りして、加工に都合の良いものを集落内に持ち込み、それ以外は環濠の外に直径2~3mの穴を掘ってまとめて廃棄していたのだと思われます(*・ω・)ノ

    慈明寺遺跡内には少なくとも石包丁の製作工房があったでしょうし、もしかすると慈明寺遺跡自体が石包丁製作集落だった可能性があります。


    周辺遺跡の発掘調査が進めば、慈明寺遺跡で造られた石包丁が出土するかも知れませんし、慈明寺遺跡を中心とした石包丁の古代の流通範囲が分かるかも知れません。


    大いに期待できますねヾ(´ω`=´ω`)ノ



    おわりに

    最近は遺跡間関係に興味があるので、なんだか気がせいてしまう自分がいます( -д-)ノ

    しかしやはりこうした単一の遺跡における地道な調査と発見があることで、周辺との関わりに迫ることができるのだなと、改めて地道で精緻な調査研究の重要さを感じます。

    今回の記事における成果の延長として、石包丁の生産と流通をやってる研究者もいそうな気がしますが、どうなんでしょうね。

    来年からは暫く弥生~古墳時代のお勉強もしようと思うので、何か面白いことが分かりましたら記事として報告しますね(。・ω・)ノ゙

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    とは言ってもやっぱり知りたいものは知りたいです(*^・ェ・)ノ

    同じレベルで調査してくれるプロジェクトと組むか……

    自分でたくさん研究費獲って、がっつり一大プロジェクトを推進するか、、、

    後者だな!( ・Д・)

    なんとかして、

    死ぬまでにマヤ社会の都市間関係に迫りたいね!( ・Д・)



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    2020ねん 3がつ 15にち(どよーび、晴れ)

    午後から夕方まで、半日使えば2記事書けるのね。

    むしろ1本3時間ちかくかかってる???( ・Д・)


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


    arukemaya834


    今回の考古学・歴史ニュースは「九州最大の弥生時代のお墓が文化財労六されたけど、市長がぶっ壊したよ!」ってお話です(*・ω・)ノ


    まぁちょっと語弊のある書き方してますけど(わざとですけど( -д-)ノ)、内容はざっとこんな感じです!

    場所は福岡県、北九州市の城野遺跡です。

    城野遺跡は付近の重留遺跡などの遺跡と本来一つの集合単位であり、弥生時代における当該地域の拠点的な一大集落だったと推定されています。

    福岡県教育委員会は県文化財保護審議会の答申に基づき、この城野遺跡を県史跡に指定しました。


    arukemaya833


    城野遺跡の重要性

    先に述べたように、この地域における一大集落だったわけですが他にも重要なポイントがあります。

    ①弥生時代終末期のものとされる方形周溝墓(東西約16メートル、南北約23メートル)が発見されていること

    これは九州における弥生時代の最大級の埋葬遺構です。

    ②このお墓から2基の箱式石棺が出土したこと(上の画像を参照)

    この地域の有力者に関係する人物が埋葬されたと考えられています。

    おそらく有力者の子供二人が病気等の原因で若くして亡くなり、手厚く葬られたのだと推測されています。

    石棺の内部は大量の朱(赤色塗料;血液や力の象徴として世界各地で用いられてきた)で充填されており、被葬者らが如何に大切に扱われていたが分かります。

    ③九州で2例目となる玉作り工房の跡が見つかったこと。

    玉作りだけに限りませんが、工房の跡という遺構自体がとても貴重です。

    それに加えて、管玉等の玉製品は「奢侈品(しゃしひん;高価な物!)」であるため、当時の共同体単位の社会組織が複雑化し国家へと至る過程や階層性の発達、所有の発生と発達、職能の多様化など多くの学術的テーマに関して非常に重要な発見です。

    こうした点で城野遺跡は、かの有名な邪馬台国と同年代に帰属する「クニ」の実態を知る上で重要と評価されているのですヾ(´ω`=´ω`)ノ



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    ↑復元された埋葬儀礼の様子(「城野遺跡公園を実現する会」の記事内画像より転載)



    だけど市長が遺跡を売り払ってぶっ壊したよ!


    この城野遺跡の発掘調査と発見は2009年に行われたものなのです。

    先に述べたように、城野遺跡と本来一つであったと考えられる重留遺跡は国の重要文化財に指定されている祭祀用の広形銅矛が出土した遺跡でもあります。

    なので北九州市で初となる一大遺跡公園の実現が市民らによって望まれました。

    また遺跡群の重要性から、日本考古学会からも遺跡保護の要請がありました。

    しかしながら北九州市市長の『北橋健治は遺跡の土地を民間に売却』したのです。

    城野遺跡の広大な範囲の内、工事によって東区域は全壊して全て失われました。

    最大級のお墓を含む西区域もほぼ全壊状態で、おまけにお墓の一部まで壊しました。






    悲惨なものですね( -д-)ノ

    以下に挙げたのが、以前の大阪市における事例ですけど、これとは大違いですよ。

    よくここまで壊せたなと(゚Д゚≡゚д゚)エッ!?

    文化財保護とか活用とか知らないんでしょうね。

    調査実施等で文化財保護法自体はクリアしているから、その後売ろうが破壊しようが法律的に問題なし……法律家って悪用しか考えてないよね( ・Д・)

    所謂「先進国」とは思えない行政による文化財破壊、恥ですね。

    ヨーロッパとかこういうのに超敏感だから叩かれますね( -д-)ノ

    まぁいつ終わるか分からぬ沼のような不況の日本だから、目先の利益に飛びつくのも分かるが・・・・・・

    果たしてそれで良いのか???


    ↓金はかかるけど、これがこの先大事だと思うよ!(*^・ェ・)ノ

    ↑是非、見てみて!遺跡が出ても、こんな方法・取り組みがあるのです(*・ω・)ノ


    特に海外で低学歴な人々を見て思うのは、未来を見通す力がなく、目先の欲に走る傾向にあるな~ってこと。

    高学歴でも欲には勝てないか、、、高学歴だからこそ自己顕示欲の塊か、、、

    まぁきっとこの北橋市長も民間業者もがっつり繋がってるよね……

    世の中、金だね!( ・Д・)

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    2020ねん 3がつ 8にち(にちよーび、曇り)

    仕事が終わらない( ・Д・)

    コロナ騒ぎで帰りの便が変更になった( ・Д・)


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


    arukemaya808


    今回は考古学・歴史ニュースではないですね。

    「ティカル遺跡、観光エリア(考古学遺跡エリア)でジャガーの子供が歩いているところを観光客に激写されたよ!」ってお話です(*・ω・)ノ

    一番最後にどれだけジャガーとの遭遇確率が低いか所見を述べますね(下部には可愛いジャガーの赤ちゃんの写真もあります(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!)。

    マヤ文明と言えば、『羽毛の生えた蛇』の神様である『ククルカン』が有名でしょうか。

    別名の『ケツァル・コアトル』の方が有名かも知れませんね。

    『グクマッツ』とも言いますけど、これは普通の人は知らない呼称でしょう( -д-)ノ

    ククルカンとグクマッツはマヤ語表記です(グクマッツはマヤ神話「ポポル・ブフ」に出てくる表現)。

    有名な『ケツァルコアトル』はアステカ文明のナワトル語表記です。

    この羽毛の生えた蛇は創造神であり、人類に文明を与えた神でもあります。

    またディズニーシ―の『クリスタルスカルの宮殿』で見ることができます(*・ω・)ノ




    マヤ神話ではこの羽毛の生えた蛇が最も有名ですが、古代マヤ人の信仰は日本と同じ多神教的な性格を有するため、実際には様々な神様がいます。

    その内のひとつが『ジャガーの神』です。

    マヤ神話で最も取り上げられる『双子の英雄神話』に出てくるイシュバランケーが『ジャガー神』の人間の姿と考えられています。

    中米最大の肉食獣であるジャガーは夜の王でもあり、古代マヤの人々にとって畏怖の対象でした。

    そんなジャガーの子供がティカルの観光客用の普通の散策路を歩いていたようで、観光客によって写真を撮られました。

    それが最初に挙げた写真になります。




    残りの2枚の写真は動物園で撮られたものですが、可愛いですよね。

    ネコそのものですカワ(・∀・)イイ!!


    ティカルにおけるジャガーとの遭遇率

    さて、私の経験からジャガーに遭える確率を紹介したいと思います。

    私はティカルを最も多く訪れたことのある日本人で間違いないと思います。

    勤務期間は2年でしたので、バケーションや休日を除くと500回は訪れています。

    その後の発掘調査プロジェクトの期間を含めるともう少し増えるでしょうけど、キリよく500回にしておきましょう!( -д-)ノ

    さて、2年間ほぼ毎日(平日のみである)ティカルに通っていて、500回もティカル中を練り歩いて、私がジャガーに遭遇した回数は・・・・・・



    ・・・・・・・・・



    ・・・・・・



    ・・・



    1回です!( ・Д・)


    たったの1回なのです。

    というのも、ジャガーは夜行性ですから、私の勤務時間とは活動時間が合いません。

    ティカルやワシャクトゥン(ティカルの北方23kmに位置する遺跡で、ティカル国立公園内にある遺跡&集落)に仕事関係で宿泊したことは数度しかありません。

    とは言っても夜間にジャングルを出歩くのは危険すぎて無理です。

    本当に真っ暗闇で道も見えません。

    どこまでが道でどこまでが樹々の壁なのか判断付きません。

    また樹々の背が高く、見上げても星も月もほぼ見えません。

    なので普通にティカルを訪れるとジャガーを見る確率は1/500程度しかありません。

    たった0.2%です。

    そのためジャガーとの遭遇確率を上げるためには、ティカル内のホテルやキャンプを利用して一泊することですね。

    夜間は危険ですし、そもそも暗くて見えません。

    なので早朝と夕方に散策するのが良いでしょう。

    ちなみに4号神殿から朝日を見るツアーもありますが、有料です。

    なので夕方から閉園まで頑張って練り歩き、キャンプして朝方キャンプ傍や自然林散策コースを散歩するのが最も安上がりです。

    ただ何かあったら困るので単独行動は避けてくださいね!

    ディズニーランドのジャングルクルーズのセリフにあるように、

    最も怖いのは文明社会・人間です( ・Д・)

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    2020ねん 2がつ 9にち(にちよーび、晴れ)

    ティカル遺跡の中心部から最も近い河川で粘土を採取、、、

    それでミニチュア土器を作ったよ!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


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    今回の考古学・歴史ニュースは「弥生時代中期に属すると思われる国内最古級の硯がどんどん出てきているよ」ってお話です(*・ω・)ノ


    国内最古級となる弥生時代後期(1~2世紀ごろ)のすずりが福岡県糸島市の三雲・井原遺跡で見つかり、市教育委員会が1日、発表した。この遺跡は中国の史書「魏志倭人伝」に登場する「伊都国」の都とされ、邪馬台国時代の倭(わ)国(日本)が文字を用いて外交した裏づけとなる。

     出土したすずりは石製で、長さ6・0センチ、幅4・3センチ、厚さ6ミリの破片。薄く裏面の粗い加工など中国・漢代の板石すずりと特徴が一致し、復元すると長さ10~17センチのほぼ長方形とみられる。弥生土器や朝鮮半島製の楽浪(らくろう)系土器が集積した「土器だまり」で見つかった。弥生時代のすずりは田和山遺跡松江市)に続き国内2例目。

     中国や朝鮮半島に近いこの一帯は日本列島と海外をつなぐ外交窓口だった。倭人伝は、伊都国には女王卑弥呼が派遣したともいわれる役人や海外からの使いがおり、文書類も点検したと記す。市教委は、すずりは倭人伝の記述を裏づけ贈答品の返礼書作成など外交文書のやりとりが行われていた、とみる。

     西谷正・九州大名誉教授(東アジア考古学)は「文字文化や外交文書行政の始まりを知る資料だ。先進文化は外交拠点のここに入り、国内に広がったのではないか。すずりの時期は(紀元前の)弥生中期にさかのぼる可能性もある」と話す。

    前回、国内最古の文字の可能性のある硯(すずり)が出土したお話をしました。





    そこでも少し触れたのですが、最近やけに「最古級」のすずりがどんどんと出土するようになっているのです。

    まぁ考古学において、『認識が遺物の発見を作る』ことはよくあるのです。

    例えば、『この古さ、時代にこんなものがあるはずがない』と思っていると叩かれないように公にしなかったり、自信の無さから特別アピールしたりしないので、情報がそのまま埋もれてしまうことがあります。

    最悪の場合、あり得ないからという理由で帰属時期の推定に影響を及ぼし、ほぼほぼ改ざんされてしまうこともあるのです( -д-)ノ

    でも誰かが「発見した~!ヾ(´ω`=´ω`)ノ」ってなれば、

    『俺も俺も!むしろ俺の方が古い!最古だ、最古だ!』

    という風に「サイコ祭り」もとい「最古祭」が始まる傾向があります(*・ω・)ノ

    ……考古学者も人の子なのです( ・Д・)

    では一気に紹介していきましょ~!




    福岡県糸島市の三雲・井原遺跡で出土した硯の破片です。

    弥生時代後期(1~2世紀)の遺物です。

    大きさは長軸6cm、短軸4.3cm、厚さ6mmです。




    佐賀県唐津市の中原遺跡で出土した硯の破片資料。

    弥生時代中期(紀元前1世紀頃)の最古級資料。

    大きさは長軸約4~19cm、短軸約4~7cm、厚さ1cm程度。

    中国製の硯と類似の特徴が多いそうです。

    基本的に大陸から伝わった文字文化の象徴ですからね。



    arukemaya731

    ↑硯と研石がセットで出土(「読売新聞」の記事内画像より転載)


    有名な吉野ヶ里遺跡の出土の硯と研石と思われる石板。

    弥生時代中期に帰属すると思われます。





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    こちらも佐賀県、吉野ヶ里遺跡出土の硯と研石。

    長軸7.8cm、短軸5.2cm、厚さ1.0cm。

    先ほどの写真は展開図のようになっていますが、こちらは普通の写真なので分かり易いかも知れませんね。

    *同じ遺物ですよ(*・ω・)ノ


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    まだまだたくさん硯は見つかっています。

    これまで弥生時代と言えば、「弥生土器」のイメージしかないと思います。

    縄文時代よりは進んでいるけれど、古墳時代の初期国家へのイメージとは異なる。

    どちらかと言うと縄文時代に近いイメージだと思います。

    これからは弥生時代にはすでに文字文化があったと考えられるのが普通になり、教科書等で伝えられる復元画等のイメージも変わっていくでしょうね!(・∀・)つ

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