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あるけまや -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

タグ:弥生時代

2023ねん 6がつ 14にち(すいよーび、やや雨)

寝ようと思ったのに微積やったら興奮して覚醒した、謎( ・Д・)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



今回の考古学・歴史ニュースは残念だったが、そんなもん!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台は佐賀県、吉野ヶ里遺跡です。

なんだか記事でもニュースとしてもむちゃくちゃに連日報道していましたよね。




まぁ私は冷たい感じで、きっと出ないだろうなぁと思っていたのですが、、、

一般の人はやはり「邪馬台国」とか「謎のエリア」とか「有力者の墓」とかのキーワードでドキドキするのだなぁと思ったし、

『何かの発見』が考古学と一般の人々を結ぶ上でいかに重要かを思い知らされた気がします。

普段だったら発見至上主義的な考古学は嫌いなんですけどね( -д-)ノ





さてさて私があまり期待していなかった理由はいくつかあるのですが、、、


とりあえず神社があった「謎のエリア」で長軸3.2m、短軸1.7mの墓坑が見つかったとの報道がありました。

神社があったからこれまで掘れなかっただけなのに、「謎のエリア」とはさすがテレビは上手いなぁと思いましたね(*^・ェ・)ノ


で、墓坑は大きくて、最初に挙げた写真で分かるように蓋石も立派なので少し期待できるかなとはこの段階では思ってました。




蓋石を外したあとの写真が上のものですが、箱式石棺墓であることが分かり、赤色塗料が側壁に付着していたことから有力者の墓の可能性が高いと言われるようになりました。

だけど石棺内部のサイズが長軸180cm、短軸36cmということが分かり、あぁこれはなんだか怪しいなぁと感じ始めましたね( ・Д・)




まぁ結局、人骨は消失していて、しかも副葬品がまさかのゼロ!

ちょっとはあると思ってたのに、それだけは予想外でしたね(*^・ェ・)ノ






邪馬台国論争と言えば、地元愛が強すぎるのか様々な候補地がありますよね。

まぁ考古学的には畿内説と九州説が有力で、特に畿内説が最有力だと思います。





テレビは何かとオーバーなので「邪馬台国発見か?」みたいな見出しも平気で付けますが、まぁそんなことはないだろうなと思っていました。

というのも考古学は珍しいものを発見する仕事ではありません。

膨大に出てくる土器などをデータとして扱う、そうした地道に集めた各種のデータの積み重ねで解釈がなされる世界です。




だから今回の発見の一発で歴史が変わるとか日本の考古学界に激震が走るなんてことはまず起こりません。

あるとしたら、「ここ邪馬台国!」とか「私、卑弥呼様!」とか直接的な文字情報が刻まれた遺物が出土したら一撃ですけど、、、

そんなのロゼッタストーンが驚き過ぎて自ら爆散するくらいの奇跡ですよ( ・Д・)



確かに残念ではあったけれども、これを機に、邪馬台国に関する議論が考古学者やアマチュア考古学者の中で再燃したり、一般の方々が古代世界にロマンを感じて考古学というものの存在を再認識してくれるとありがたいなぁなんて思いますね。




↓邪馬台国関連だよヾ(´ω`=´ω`)ノ



↑邪馬台国関連だよ(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!


おわりに

ん~、マヤ文明、ティカルの調査データを用いて史上初の数的考古学理論を構築中な私ですが、古墳時代への応用を少しやり始めたのですよ。

でも複雑でなかなかうまくいかず、縄文とか弥生から始めるかな~って思ってた矢先のこのニュースだったんですよね。



邪馬台国と関連付けているからには弥生時代後期でしょう。

それなら有力者の墓なら当然立派な副葬品が出てくれないと私の理論上「困る」んですけど!ヽ(TдT)ノ



骨も残ってないからどうしようもないけれど、子供の墓ってことで例外的に処理する他ないかな・・・

日本は遺跡の状況がマヤと全然違うけど、やっぱどこも面白いね、難しいけど。

うん、マヤ文明の方が考古学的にイージーな気がする・・・がんばろーっと(*^・ェ・)ノ



何はともあれ、

卑弥呼様~!( ・Д・)



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2023ねん 5がつ 8にち(げつよーび、曇り)

今年度はめっちゃ頑張るよ!(・∀・)つ

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今回の考古学・歴史ニュースはクジラの絵が描かれた弥生土器が発見されたよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台は福岡県、糸島市の深江城崎(ふかえじょうざき)遺跡です!

糸島と言えば、みんな大好き「邪馬台国論争」で出てくるやつですね。

魏志倭人伝に記された伊都国があったのが糸島周辺だったとされています。

「いとこく」の名が「いとじま」の地名として残ったとする解釈から来てるものです。

これってどれだけ信憑性のあるものなのか謎だなと昔から秘かに思っているのですが、まぁきっと専門にやってる人からしたら”当然そう”なのだろうと誰にも聞けずにいます( -д-)ノ




さて、今回はこの深江城崎遺跡から弥生時代に帰属する土器が出土し、その器面に「クジラ」が刻まれていたというお話です。





出土した土器は高さ60cmの壺です。

壺のくびれ部を頸部(けいぶ)と呼びますが、そのあと器の形としては膨らみますよね?

その部分を肩部(けんぶ)と言います。




今回のクジラはその肩部に描かれていました。

日本考古学だと正確にはなんて言うのか分からないのですが(申し訳ない!)、たぶん大きく分けると沈線文として扱われるはず!

アメリカ考古学ないしマヤ考古学では大枠がないので、刻線文(incision)になりますね。

画像サイズが小さいものしか見つからなかったので見にくいですが、ちょっと「ガリガリ削った感じ」がしません?




器面が柔らかい状態で施文したのか、乾燥してから施文したのかで分類しているのです。

乾燥した状態でゴリゴリ削ると刻線文です。




このクジラは全長8cmで尾びれまで描かれています。

胴体の左右には6本のラインが伸びていますが、これは恐らく「モリ(銛)」を表現したもので、つまりは弥生時代における捕鯨を表現したものと考えられます。





これまでに見つかった同様の事例は、長崎県壱岐市の原の辻(はるのつじ)遺跡での1例のみなので今回の発見は2例目というとってもレアな発見なのです。

恐らく湾や浜辺近くに迷い込んだクジラを狩猟したのでしょうが、大量の肉や油を提供してくれるクジラはまさに豊穣の象徴だったのでしょう。

きっとこの壺にクジラに対する畏敬の念や豊穣に対する祈りを込めて描いたのだと思われます。





クジラの脳油は古代から利用されていたようですがそのお話はまた別の機会に!

あと、現在でも漂着したクジラの死骸はこの油のため危険なのでむやみに近づくことを禁止されていますのでご注意を!( -д-)ノ





↑良かったら応援してね!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!


おわりに

弥生時代後期から古墳時代初頭に出現する”謎”の「手焙形(てあぶりがた)土器」というのがあるのですが、、、

クジラの脳油と関係していると考える研究者もいるようですね。

ちょっと調べてみて今度記事にしてみます。




手焙形土器自体が形態も変だし、時期も限定されてるし、何に使われたのか謎だし、面白い題材なのです。

形態が特徴的だから記事を読んで知識を得てもらえば、博物館で実際のモノを見つけた時にはきっともっと楽しめるはずです。

ということでその内ちゃんと取り組みますね(*^・ェ・)ノ



何はともあれ、

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2022ねん 6がつ 18にち(どよーび、晴れ)

何度でも言おう、スマホ割れた。゚(゚´Д`゚)゜。ウァァァン

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今回の考古学・歴史ニュースは「こんなもん残る!?糸玉が見つかったよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台は徳島県、徳島市、南蔵本遺跡です。


サムネ画として上に挙げた写真があまりにインパクトつよつよですよね!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!



時期は弥生時代前期!

長軸6.2cm、短軸4.5cmの大きさです。

見た目通り、保存状態は非常に良好です。

糸を巻き巻きしてまとめている感じがそのまま残っています。




これまでにも「まだ食べれるよ!シリーズ」とかやってきましたけど、これはまだ編み編みできるよ!って遺物です。

実際には用途は分かっていません。

現代的なイメージで、セーターを編むための糸玉ではなかったようです。

というのも、この糸玉は漆で固められているので、装飾品として機能した可能性が指摘されています。
 


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上に挙げたように、実際には小片もいくつか見つかっています。

問題は出土地点なのですが、「畑」です。




日本では「古代人の脳みそ」や「クワガタ」とかレアな発見も結構見られるわけですが、こうしたレアな発見を支えているのは「水分」です。

水場付近は絶え間なく水分が供給されるので無酸素状態が維持されて分解が進まないことがあります。

最近流行りの水中考古学で古い船舶が海底に残っているのはこのためです。




弥生時代は水耕や水の儀礼も盛んなためにこうしたレアな発見が多々見られるのですが、今回は畑(通常比較的乾燥している)なので様相が少し異なります。



1点目は湿度!

この南蔵本遺跡の出土地点は湿度が高く、乾燥するタイミングがなかったのです。

湿潤・乾燥の繰り返しでモノは分解されていくのです(*^・ェ・)ノ




2点目に漆!

縄文時代や古墳時代、それ以降も含めてですが、漆が塗られていると有機質の遺物も残り易いのですヾ(´ω`=´ω`)ノ



このような条件が整って始めて残存した超レアな今回のケース、弥生時代の糸玉は史上初の発見となったわけです!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!



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↑縄文時代の糸玉①(「東北歴史博物館」のHP画像より転載)



さて、史上初の発見と書きましたが、これはあくまで「弥生時代の糸玉として」です!

より古い時期である縄文時代ではなんと、すでに12例も見つかっているのです。





上に挙げたのは新潟県、青田遺跡の出土資料です。

この遺跡はレアな発見が多い所謂「低湿地遺跡」で水場遺構も見つかっているのです。


そんなタイムカプセルような素晴らしい埋没環境で、かつ漆でコーティングされているため、しっかりと残存しています。




下の写真の出土情報は不明ですが、どうやら縄文時代の糸玉の出土事例は全て漆コーティングによるもののようです。

つまり「水分+漆」の組み合わせが考古学における奇跡的な発見を生み出しているといっても良いでしょう、知らんけど( -д-)ノ



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↑縄文時代の糸玉②(「日本古来の「麻」手しごと暮らし日記」)







おわりに

色んな記事見てると、特に新聞会社の記事って考古学・歴史担当の記者がいるようですね。

みんな思い思いに写真を撮るのですが、見栄えをよくするためか「斜めから撮影する」ことがほとんどです。

私は記事を眺めながら、この写真はダメ、この写真はまぁヨシ、とか勝手に評価して遊んでるんですけど、今回最も良かった写真は上に挙げた徳島新聞の写真です。





おめでとうございます(!?( ・Д・))




ガッツリ斜めから撮ってる感じがアウトなのですが、唯一スケール入ってるところが評価点です(゚Д゚≡゚д゚)エッ!?



多分考古学やってない人ばかりなのでしょうが、接写に慣れてないのかピンボケばかりなんですよね。

何様ですが、プロなのだから被写体深度くらい上げて撮って欲しいものですねとか思ったり(´・ω・`)




何はともあれ、レアな発見はテンション上がるね!

うるし最強!( ・Д・)



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2021ねん 10がつ 2にち(どよーび、だいたい晴れ)

生まれ変わるぅ~( ・Д・)

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今回の考古学・歴史ニュースはお墓251基出ただけでスゴイのに、三種の神器も出たってさ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台は佐賀県、大和町の七ヶ瀬遺跡です。

弥生時代後期(1~2世紀頃)に属する遺跡で長軸61m、短軸25mの大規模な墓域遺構が見つかっています。

これまでの調査で251基の墓がまとめて見つかりました。

私が調査者なら嬉し涙半分、哀し涙半分ってくらい、231基の墓ってめちゃくちゃ多いんですけど、、、

これでも九州北部域では有数ってくらいで最多記録ではないのですΣ(・ω・ノ)ノ

縄文時代は土壙墓(どこうぼ)っていう単純に穴掘って埋葬する方式が一般的でした。

縄文時代でも後期や晩期になると所謂「甕棺(墓)」(かめかん(ぼ))のような土器棺墓が一部見られるようになります。

弥生時代になると集団としての規模も多くなるので、自然と墓の数も増えるのはなんとなく分かるでしょう?

それだけではなく、弥生時代の葬制が変わることで考古学的に墓が発見しやすい状況になるのです(*・ω・)ノ


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↑弥生時代の埋葬方法(赤穂市立有年考古館 2015の画像を一部加工)


上に挙げたようにまず弥生時代には埋葬方法が少し変わります。

土壙墓と土器棺墓は継続的に見られますが、弥生時代になると被葬者の身分によって異なる埋葬方法が取られるようになると考えられているのです。

縄文時代から見られる最も一般的な土壙墓は相変わらず一般的に見られる一方で、特に新たに見られる木棺墓や石槨墓は有力者と思われる人物に用いられるのです(*^・ェ・)ノ


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↑弥生時代の埋葬方法2(赤穂市立有年考古館 2015の画像を一部加工)


弥生時代には墓域を形成しますが、上に挙げたように一般向けの墓(左)と有力者向けの墓(右)に分けられる傾向が見られるようになります。

時期差もありますし、本当に『一般向け』なのかは問題ですが、こういった方形周溝墓や円形周溝墓は考古学的に検出しやすいのです。

更にこの(恐らく家族のためのお墓だから)複数のお墓を有する方形周溝墓は墓域において集中する傾向が見られます。

単独で立地するわけではなく、すぐ隣接した他の方形周溝墓が見られるのです。

なので結果として弥生時代の遺跡において一つの墓域を検出した際に非常に多くのお墓が見つかることがけっこうあるものなのです(*・ω・)ノ


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さて、話を戻しますと、七ヶ瀬遺跡では多数の墓が見つかっているわけですが、その中の墓から三種の神器が見つかりました。

三種の神器は天皇一族の伝世品として有名なもので、日本神話において天孫降臨の際に天照大御神が瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に授けた三種の宝物、つまり八咫鏡(やたのかがみ)・天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ;草薙剣)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を指します。

三種の神器がセットで見つかる事例としてはこれが佐賀県で初の事例となります。

勾玉は翡翠製、剣は鉄製、鏡は銅製でした。

鏡は4面いずれも中国製であり、前漢に作られたものと後漢に作られたものを含んでいます。

一つの墓に鏡が複数面伴う事例は全国的にはけっこうあるのですが、佐賀県では4面も出ることは珍しく、同県の二塚山遺跡に並んで最多の事例となります。

こういう発見を見ていると、邪馬台国論争、九州説の論者の気持ちも分かる気がしますね(*^・ェ・)ノ




↑天叢雲剣(草薙剣)について触れてます(*・ω・)ノ


おわりに

「三種の神器発見!」ってだけで私は『お~!』ってなったのですが、「佐賀県で初」ってだけあって全国的にはけっこう出土例があるようですね。

私はそっちの方に驚きました、全然知らなかった!Σ(・ω・ノ)ノ

次回は国内出土の三種の神器の事例について調べて記事にしてみようかなと思います!

あ、今日誕生日だから生まれ変わって記事もYoutubeも頑張るよ!( ・Д・)



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2020ねん 12がつ 15にち(すいよーび、晴れ)

もう年末!一日一日確実に仕事を終わらせていきたいものだ(*^・ェ・)ノ

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今回の考古学・歴史ニュースは石包丁の工房が見つかったよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台は奈良県、橿原市の慈明寺(じみょうじ)遺跡です。

この慈明寺遺跡ではおよそ2500年前の弥生時代前期に帰属すると考えられる環濠集落が見つかっています。

この遺跡で石包丁の原材料となる流紋岩の岩片が約200点も見つかったのです(・∀・)つ




さて、記事の最初に挙げた写真は弥生時代の石包丁と石鏃です。

歴史の教科書には必ず出てくるのがこの『石包丁』になります。

何故かというと、「石包丁の存在=稲作の存在」を示すため、縄文時代から弥生時代への移り変わりを示すメルクマールとして有用だからです。

最初に挙げた写真のように紐を通して使うもので、実際に出土した際には上に挙げた写真のように2つの穴が開いています。

右下に穿孔が見られないものもありますが、このまま使われたのか、未成品なのか不明ですね。

超有名な事例ですから、きっと使用痕研究がなされていると思うのですがこの事例は私は知らないです( -д-)ノ

片手のみで作業する場合には紐は必須だと思いますが、両手で、つまり片手で稲を支えて、右手で石包丁を扱って切る場合は紐がなくても扱えますからね。

個々の事例については研究されていない可能性もありますね(*^・ェ・)ノ



さて実際に使う際にはこのように扱います。

写真で分かるように石包丁は穂摘み具なのですが、『包丁』という名称を冠しています。

これは明治期に最初に石包丁が出土した際に、北アメリカの「ウーマンズ・ナイフ」に形態が類似していることから「石製の包丁」として命名されました。

その後、刃部の厚さなどからナイフや包丁とは異なる機能を持ち、恐らく穂摘み具であろうと解釈・認識されるようになりましたが、最初の名称がそのまま残りました。

なので石包丁は包丁じゃないけど、『石包丁』なのですヾ(´ω`=´ω`)ノ


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↑見つかった岩片の一部と完形土器(「産経新聞」の記事内画像より転載;credit: 不明)


さて、慈明寺遺跡に話を戻しますと、この遺跡は先に述べたように環濠集落遺跡なのですが、これまでのところ環濠の一部だけが見つかっている状態です。

今回の発見はこの環濠の外側で起きました。

下部に写真を載せましたが、環濠の外部に2つの穴があるのが見つかり、その中から大量の流紋岩の破片が見つかりました。

石包丁の素材には凝灰岩が使われる傾向が強いのですが、素材が限定されていたわけではなく、今回のケースのように流紋岩も使われていました(・∀・)つ

この流紋岩片が200点以上も見つかったわけですが、穴に廃棄された状態でした。

遺跡の南方500mには畝傍山(うねびやま)があり、この山は流紋岩の産地であるため、石包丁の素材の採取地の可能性があります。

慈明寺遺跡の人々は山まで石材を取りに行き、遺跡の周辺で石材を粗割りして、加工に都合の良いものを集落内に持ち込み、それ以外は環濠の外に直径2~3mの穴を掘ってまとめて廃棄していたのだと思われます(*・ω・)ノ

慈明寺遺跡内には少なくとも石包丁の製作工房があったでしょうし、もしかすると慈明寺遺跡自体が石包丁製作集落だった可能性があります。


周辺遺跡の発掘調査が進めば、慈明寺遺跡で造られた石包丁が出土するかも知れませんし、慈明寺遺跡を中心とした石包丁の古代の流通範囲が分かるかも知れません。


大いに期待できますねヾ(´ω`=´ω`)ノ



おわりに

最近は遺跡間関係に興味があるので、なんだか気がせいてしまう自分がいます( -д-)ノ

しかしやはりこうした単一の遺跡における地道な調査と発見があることで、周辺との関わりに迫ることができるのだなと、改めて地道で精緻な調査研究の重要さを感じます。

今回の記事における成果の延長として、石包丁の生産と流通をやってる研究者もいそうな気がしますが、どうなんでしょうね。

来年からは暫く弥生~古墳時代のお勉強もしようと思うので、何か面白いことが分かりましたら記事として報告しますね(。・ω・)ノ゙

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

とは言ってもやっぱり知りたいものは知りたいです(*^・ェ・)ノ

同じレベルで調査してくれるプロジェクトと組むか……

自分でたくさん研究費獲って、がっつり一大プロジェクトを推進するか、、、

後者だな!( ・Д・)

なんとかして、

死ぬまでにマヤ社会の都市間関係に迫りたいね!( ・Д・)



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2020ねん 3がつ 15にち(どよーび、晴れ)

午後から夕方まで、半日使えば2記事書けるのね。

むしろ1本3時間ちかくかかってる???( ・Д・)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


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今回の考古学・歴史ニュースは「九州最大の弥生時代のお墓が文化財労六されたけど、市長がぶっ壊したよ!」ってお話です(*・ω・)ノ


まぁちょっと語弊のある書き方してますけど(わざとですけど( -д-)ノ)、内容はざっとこんな感じです!

場所は福岡県、北九州市の城野遺跡です。

城野遺跡は付近の重留遺跡などの遺跡と本来一つの集合単位であり、弥生時代における当該地域の拠点的な一大集落だったと推定されています。

福岡県教育委員会は県文化財保護審議会の答申に基づき、この城野遺跡を県史跡に指定しました。


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城野遺跡の重要性

先に述べたように、この地域における一大集落だったわけですが他にも重要なポイントがあります。

①弥生時代終末期のものとされる方形周溝墓(東西約16メートル、南北約23メートル)が発見されていること

これは九州における弥生時代の最大級の埋葬遺構です。

②このお墓から2基の箱式石棺が出土したこと(上の画像を参照)

この地域の有力者に関係する人物が埋葬されたと考えられています。

おそらく有力者の子供二人が病気等の原因で若くして亡くなり、手厚く葬られたのだと推測されています。

石棺の内部は大量の朱(赤色塗料;血液や力の象徴として世界各地で用いられてきた)で充填されており、被葬者らが如何に大切に扱われていたが分かります。

③九州で2例目となる玉作り工房の跡が見つかったこと。

玉作りだけに限りませんが、工房の跡という遺構自体がとても貴重です。

それに加えて、管玉等の玉製品は「奢侈品(しゃしひん;高価な物!)」であるため、当時の共同体単位の社会組織が複雑化し国家へと至る過程や階層性の発達、所有の発生と発達、職能の多様化など多くの学術的テーマに関して非常に重要な発見です。

こうした点で城野遺跡は、かの有名な邪馬台国と同年代に帰属する「クニ」の実態を知る上で重要と評価されているのですヾ(´ω`=´ω`)ノ



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↑復元された埋葬儀礼の様子(「城野遺跡公園を実現する会」の記事内画像より転載)



だけど市長が遺跡を売り払ってぶっ壊したよ!


この城野遺跡の発掘調査と発見は2009年に行われたものなのです。

先に述べたように、城野遺跡と本来一つであったと考えられる重留遺跡は国の重要文化財に指定されている祭祀用の広形銅矛が出土した遺跡でもあります。

なので北九州市で初となる一大遺跡公園の実現が市民らによって望まれました。

また遺跡群の重要性から、日本考古学会からも遺跡保護の要請がありました。

しかしながら北九州市市長の『北橋健治は遺跡の土地を民間に売却』したのです。

城野遺跡の広大な範囲の内、工事によって東区域は全壊して全て失われました。

最大級のお墓を含む西区域もほぼ全壊状態で、おまけにお墓の一部まで壊しました。






悲惨なものですね( -д-)ノ

以下に挙げたのが、以前の大阪市における事例ですけど、これとは大違いですよ。

よくここまで壊せたなと(゚Д゚≡゚д゚)エッ!?

文化財保護とか活用とか知らないんでしょうね。

調査実施等で文化財保護法自体はクリアしているから、その後売ろうが破壊しようが法律的に問題なし……法律家って悪用しか考えてないよね( ・Д・)

所謂「先進国」とは思えない行政による文化財破壊、恥ですね。

ヨーロッパとかこういうのに超敏感だから叩かれますね( -д-)ノ

まぁいつ終わるか分からぬ沼のような不況の日本だから、目先の利益に飛びつくのも分かるが・・・・・・

果たしてそれで良いのか???


↓金はかかるけど、これがこの先大事だと思うよ!(*^・ェ・)ノ

↑是非、見てみて!遺跡が出ても、こんな方法・取り組みがあるのです(*・ω・)ノ


特に海外で低学歴な人々を見て思うのは、未来を見通す力がなく、目先の欲に走る傾向にあるな~ってこと。

高学歴でも欲には勝てないか、、、高学歴だからこそ自己顕示欲の塊か、、、

まぁきっとこの北橋市長も民間業者もがっつり繋がってるよね……

世の中、金だね!( ・Д・)

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2020ねん 3がつ 8にち(にちよーび、曇り)

仕事が終わらない( ・Д・)

コロナ騒ぎで帰りの便が変更になった( ・Д・)


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今回は考古学・歴史ニュースではないですね。

「ティカル遺跡、観光エリア(考古学遺跡エリア)でジャガーの子供が歩いているところを観光客に激写されたよ!」ってお話です(*・ω・)ノ

一番最後にどれだけジャガーとの遭遇確率が低いか所見を述べますね(下部には可愛いジャガーの赤ちゃんの写真もあります(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!)。

マヤ文明と言えば、『羽毛の生えた蛇』の神様である『ククルカン』が有名でしょうか。

別名の『ケツァル・コアトル』の方が有名かも知れませんね。

『グクマッツ』とも言いますけど、これは普通の人は知らない呼称でしょう( -д-)ノ

ククルカンとグクマッツはマヤ語表記です(グクマッツはマヤ神話「ポポル・ブフ」に出てくる表現)。

有名な『ケツァルコアトル』はアステカ文明のナワトル語表記です。

この羽毛の生えた蛇は創造神であり、人類に文明を与えた神でもあります。

またディズニーシ―の『クリスタルスカルの宮殿』で見ることができます(*・ω・)ノ




マヤ神話ではこの羽毛の生えた蛇が最も有名ですが、古代マヤ人の信仰は日本と同じ多神教的な性格を有するため、実際には様々な神様がいます。

その内のひとつが『ジャガーの神』です。

マヤ神話で最も取り上げられる『双子の英雄神話』に出てくるイシュバランケーが『ジャガー神』の人間の姿と考えられています。

中米最大の肉食獣であるジャガーは夜の王でもあり、古代マヤの人々にとって畏怖の対象でした。

そんなジャガーの子供がティカルの観光客用の普通の散策路を歩いていたようで、観光客によって写真を撮られました。

それが最初に挙げた写真になります。




残りの2枚の写真は動物園で撮られたものですが、可愛いですよね。

ネコそのものですカワ(・∀・)イイ!!


ティカルにおけるジャガーとの遭遇率

さて、私の経験からジャガーに遭える確率を紹介したいと思います。

私はティカルを最も多く訪れたことのある日本人で間違いないと思います。

勤務期間は2年でしたので、バケーションや休日を除くと500回は訪れています。

その後の発掘調査プロジェクトの期間を含めるともう少し増えるでしょうけど、キリよく500回にしておきましょう!( -д-)ノ

さて、2年間ほぼ毎日(平日のみである)ティカルに通っていて、500回もティカル中を練り歩いて、私がジャガーに遭遇した回数は・・・・・・



・・・・・・・・・



・・・・・・



・・・



1回です!( ・Д・)


たったの1回なのです。

というのも、ジャガーは夜行性ですから、私の勤務時間とは活動時間が合いません。

ティカルやワシャクトゥン(ティカルの北方23kmに位置する遺跡で、ティカル国立公園内にある遺跡&集落)に仕事関係で宿泊したことは数度しかありません。

とは言っても夜間にジャングルを出歩くのは危険すぎて無理です。

本当に真っ暗闇で道も見えません。

どこまでが道でどこまでが樹々の壁なのか判断付きません。

また樹々の背が高く、見上げても星も月もほぼ見えません。

なので普通にティカルを訪れるとジャガーを見る確率は1/500程度しかありません。

たった0.2%です。

そのためジャガーとの遭遇確率を上げるためには、ティカル内のホテルやキャンプを利用して一泊することですね。

夜間は危険ですし、そもそも暗くて見えません。

なので早朝と夕方に散策するのが良いでしょう。

ちなみに4号神殿から朝日を見るツアーもありますが、有料です。

なので夕方から閉園まで頑張って練り歩き、キャンプして朝方キャンプ傍や自然林散策コースを散歩するのが最も安上がりです。

ただ何かあったら困るので単独行動は避けてくださいね!

ディズニーランドのジャングルクルーズのセリフにあるように、

最も怖いのは文明社会・人間です( ・Д・)

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2020ねん 2がつ 9にち(にちよーび、晴れ)

ティカル遺跡の中心部から最も近い河川で粘土を採取、、、

それでミニチュア土器を作ったよ!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!


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今回の考古学・歴史ニュースは「弥生時代中期に属すると思われる国内最古級の硯がどんどん出てきているよ」ってお話です(*・ω・)ノ


国内最古級となる弥生時代後期(1~2世紀ごろ)のすずりが福岡県糸島市の三雲・井原遺跡で見つかり、市教育委員会が1日、発表した。この遺跡は中国の史書「魏志倭人伝」に登場する「伊都国」の都とされ、邪馬台国時代の倭(わ)国(日本)が文字を用いて外交した裏づけとなる。

 出土したすずりは石製で、長さ6・0センチ、幅4・3センチ、厚さ6ミリの破片。薄く裏面の粗い加工など中国・漢代の板石すずりと特徴が一致し、復元すると長さ10~17センチのほぼ長方形とみられる。弥生土器や朝鮮半島製の楽浪(らくろう)系土器が集積した「土器だまり」で見つかった。弥生時代のすずりは田和山遺跡松江市)に続き国内2例目。

 中国や朝鮮半島に近いこの一帯は日本列島と海外をつなぐ外交窓口だった。倭人伝は、伊都国には女王卑弥呼が派遣したともいわれる役人や海外からの使いがおり、文書類も点検したと記す。市教委は、すずりは倭人伝の記述を裏づけ贈答品の返礼書作成など外交文書のやりとりが行われていた、とみる。

 西谷正・九州大名誉教授(東アジア考古学)は「文字文化や外交文書行政の始まりを知る資料だ。先進文化は外交拠点のここに入り、国内に広がったのではないか。すずりの時期は(紀元前の)弥生中期にさかのぼる可能性もある」と話す。

前回、国内最古の文字の可能性のある硯(すずり)が出土したお話をしました。





そこでも少し触れたのですが、最近やけに「最古級」のすずりがどんどんと出土するようになっているのです。

まぁ考古学において、『認識が遺物の発見を作る』ことはよくあるのです。

例えば、『この古さ、時代にこんなものがあるはずがない』と思っていると叩かれないように公にしなかったり、自信の無さから特別アピールしたりしないので、情報がそのまま埋もれてしまうことがあります。

最悪の場合、あり得ないからという理由で帰属時期の推定に影響を及ぼし、ほぼほぼ改ざんされてしまうこともあるのです( -д-)ノ

でも誰かが「発見した~!ヾ(´ω`=´ω`)ノ」ってなれば、

『俺も俺も!むしろ俺の方が古い!最古だ、最古だ!』

という風に「サイコ祭り」もとい「最古祭」が始まる傾向があります(*・ω・)ノ

……考古学者も人の子なのです( ・Д・)

では一気に紹介していきましょ~!




福岡県糸島市の三雲・井原遺跡で出土した硯の破片です。

弥生時代後期(1~2世紀)の遺物です。

大きさは長軸6cm、短軸4.3cm、厚さ6mmです。




佐賀県唐津市の中原遺跡で出土した硯の破片資料。

弥生時代中期(紀元前1世紀頃)の最古級資料。

大きさは長軸約4~19cm、短軸約4~7cm、厚さ1cm程度。

中国製の硯と類似の特徴が多いそうです。

基本的に大陸から伝わった文字文化の象徴ですからね。



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↑硯と研石がセットで出土(「読売新聞」の記事内画像より転載)


有名な吉野ヶ里遺跡の出土の硯と研石と思われる石板。

弥生時代中期に帰属すると思われます。





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こちらも佐賀県、吉野ヶ里遺跡出土の硯と研石。

長軸7.8cm、短軸5.2cm、厚さ1.0cm。

先ほどの写真は展開図のようになっていますが、こちらは普通の写真なので分かり易いかも知れませんね。

*同じ遺物ですよ(*・ω・)ノ


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まだまだたくさん硯は見つかっています。

これまで弥生時代と言えば、「弥生土器」のイメージしかないと思います。

縄文時代よりは進んでいるけれど、古墳時代の初期国家へのイメージとは異なる。

どちらかと言うと縄文時代に近いイメージだと思います。

これからは弥生時代にはすでに文字文化があったと考えられるのが普通になり、教科書等で伝えられる復元画等のイメージも変わっていくでしょうね!(・∀・)つ

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2020ねん 2がつ 9にち(にちよーび、晴れ)

ティカル遺跡の中心部から最も近い河川で粘土を採取、、、

それでミニチュア土器を作ったよ!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!


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今回の考古学・歴史ニュースは「弥生時代中期に属すると思われる国内最古の文字の痕跡が見つかったよ!」ってお話です(*・ω・)ノ

これまでに国内で見つかっていた文字の痕跡の事例は、福岡県糸島市の三雲・井原遺跡における刻線による『鏡』と、三重県松坂市の貝蔵遺跡における墨書による『田』でした。

これらはおよそ1700~1800年前のものと推定されています。

今回の発見はそれより古い約2000年前のものです。

これは福岡県松江市の田和山遺跡から出土した弥生時代中期の硯(すずり)に見られる文字です。

従来は古墳時代に入ってから大陸との交流が進み、文字文化が流入したと考えられてきました。

しかし近年は福岡県を中心に北九州周辺で、弥生時代に属する硯と思われる遺物が相次いで発見されており、北九州の弥生時代からの大陸への玄関口としての役割について、弥生時代における文字文化流入の可能性について見直され始めています。

研究者らが観察・考察した結果、『2つの文字が縦に並んでいる』と判断でき、『上の字は子どもの「子」など、下の字ははっきりしないものの「戊」などの可能性が考えられる』としています。


それがこれです↓ (*・ω・)ノ

国内最古級となる弥生時代後期(1~2世紀ごろ)のすずりが福岡県糸島市の三雲・井原遺跡で見つかり、市教育委員会が1日、発表した。この遺跡は中国の史書「魏志倭人伝」に登場する「伊都国」の都とされ、邪馬台国時代の倭(わ)国(日本)が文字を用いて外交した裏づけとなる。

 出土したすずりは石製で、長さ6・0センチ、幅4・3センチ、厚さ6ミリの破片。薄く裏面の粗い加工など中国・漢代の板石すずりと特徴が一致し、復元すると長さ10~17センチのほぼ長方形とみられる。弥生土器や朝鮮半島製の楽浪(らくろう)系土器が集積した「土器だまり」で見つかった。弥生時代のすずりは田和山遺跡松江市)に続き国内2例目。

 中国や朝鮮半島に近いこの一帯は日本列島と海外をつなぐ外交窓口だった。倭人伝は、伊都国には女王卑弥呼が派遣したともいわれる役人や海外からの使いがおり、文書類も点検したと記す。市教委は、すずりは倭人伝の記述を裏づけ贈答品の返礼書作成など外交文書のやりとりが行われていた、とみる。

 西谷正・九州大名誉教授(東アジア考古学)は「文字文化や外交文書行政の始まりを知る資料だ。先進文化は外交拠点のここに入り、国内に広がったのではないか。すずりの時期は(紀元前の)弥生中期にさかのぼる可能性もある」と話す。

国内最古級となる弥生時代後期(1~2世紀ごろ)のすずりが福岡県糸島市の三雲・井原遺跡で見つかり、市教育委員会が1日、発表した。この遺跡は中国の史書「魏志倭人伝」に登場する「伊都国」の都とされ、邪馬台国時代の倭(わ)国(日本)が文字を用いて外交した裏づけとなる。

 出土したすずりは石製で、長さ6・0センチ、幅4・3センチ、厚さ6ミリの破片。薄く裏面の粗い加工など中国・漢代の板石すずりと特徴が一致し、復元すると長さ10~17センチのほぼ長方形とみられる。弥生土器や朝鮮半島製の楽浪(らくろう)系土器が集積した「土器だまり」で見つかった。弥生時代のすずりは田和山遺跡松江市)に続き国内2例目。

 中国や朝鮮半島に近いこの一帯は日本列島と海外をつなぐ外交窓口だった。倭人伝は、伊都国には女王卑弥呼が派遣したともいわれる役人や海外からの使いがおり、文書類も点検したと記す。市教委は、すずりは倭人伝の記述を裏づけ贈答品の返礼書作成など外交文書のやりとりが行われていた、とみる。

 西谷正・九州大名誉教授(東アジア考古学)は「文字文化や外交文書行政の始まりを知る資料だ。先進文化は外交拠点のここに入り、国内に広がったのではないか。すずりの時期は(紀元前の)弥生中期にさかのぼる可能性もある」と話す。


松江市の田和山遺跡で出土した弥生時代中期後半(紀元前後)の石製品にある文様について、福岡県の研究者グループが、文字(漢字)の可能性が高いとの研究成果を明らかにした。石製品は国産のすずりと判断しており、国内で書かれた文字ならば従来の確認例を200~300年さかのぼって最古となる。一方で、偶然の着色など慎重な意見があり、文字使用の起源を巡って議論を呼びそうだ。

 福岡市埋蔵文化財課の久住猛雄・文化財主事、柳田康雄・国学院大客員教授らのグループ。岐阜県大垣市で1日にあった学会で久住氏が発表した。

 田和山遺跡は弥生時代の環濠(かんごう)遺跡。石製品は約8センチ四方の板状で、出土時は砥石(といし)とされていた。研究者グループは材質や形状を調べ、現地で採れる石製で、擦った痕跡があるくぼみなどから国産のすずりと判断した。

 さらに裏の中央部に黒っぽい文様が上下二つあり、岡村秀典(中国考古学)、宮宅潔(中国古代史)両京都大教授らに画像の分析を依頼。中国・漢の時代の木簡に記された隷書に形が類似しており、上は「子」、下は「戊」などを墨書きした可能性があるとの結論を出した。

 これまで国内の文字確認例は、三雲・井原遺跡(福岡県糸島市)の土器に刻まれた「竟(鏡)」、貝蔵(かいぞう)遺跡(三重県松阪市)の土器に墨書きされた「田」などがあるが、いずれも2~3世紀だった。

 九州から近畿にかけて近年、弥生時代のすずりとみられる遺物が相次いで見つかり、古墳時代より数百年早い時代に中国・朝鮮半島との交易を背景に北部九州から文字文化が流入した説が出ていた。久住氏は「国産すずりならば国内で書かれた最古の文字。倭人(わじん)(当時の日本人)ではなく渡来系の人々が書いた可能性もある」としている。

 一方、松江市埋蔵文化財調査室は研究者グループの結論を受け、石製品を赤外線で撮影するなどして調査。同室は「赤外線ではっきり写らず、墨書ではなく汚れの可能性もある。今後の研究に期待したい」と慎重な見方をしている。【大森顕浩】

 岡村秀典・京都大教授の話 実物を見ていないが、画像で見る限り隷書の2文字に見える。石製品の中央付近に書いており、人名の可能性がある。国産の石製品なら倭人の名前で、物の私有意識が芽生えていたことになり、日本史の大問題となる。



まぁ確かに言われてみれば、上の字は『子』のようにも見えます。

でもやはり私には『壱』の字にか見えません( -д-)ノ

だって、上の字と下の字のサイズバランス変だもん。

まぁ下手くそだった可能性もあるけど!(私も下手ヽ(TдT)ノ)

『壱』に見えるよって人は是非、Twitterで拡散して共に研究者を脅かしましょう!ヽ(・ε・)人(・ε・)ノ ナカマ

さて、今回の発見は非常に重要な発見なわけですが、以下の問題点により今後一層精密な分析が必要となります。


問題点① 本当に時期判定は正しいのか? 弥生時代中期の製品なのか?

問題点② 本当に墨書か? 汚れではないのか?

問題点③ 本当に日本国内産の硯か? 大陸の製品ではないのか?

問題点④ 何と書かれているのか?


こう見てみると、日本最古の文字として広く認定されるにはまだまだ時間がかかりそうですね。

特に上記問題の内、帰属時期に関しては、土器と違って石製品は時期判定が困難な点がひっかかるでしょう。

文字についても私は『壱』に見えるけど、担当している研究者にはどうしても『子+戌』に見えるのだそうです。

そこで……


【研究者の気持ち(邪推( ・Д・))】

やはり『最古』であることはニュースになるし、次の研究費のことも考えるとインパクトが欲しい。



これまでは全て1文字だけど、これは2文字である。


2文字だと名前である可能性が高い。


最古の文字と言うだけではなく、『個人所有意識の最古の事例』にもなる。


インパクトも強く、研究意義も高まる。


松江市の田和山遺跡で出土した弥生時代中期後半(紀元前後)の石製品にある文様について、福岡県の研究者グループが、文字(漢字)の可能性が高いとの研究成果を明らかにした。石製品は国産のすずりと判断しており、国内で書かれた文字ならば従来の確認例を200~300年さかのぼって最古となる。一方で、偶然の着色など慎重な意見があり、文字使用の起源を巡って議論を呼びそうだ。

 福岡市埋蔵文化財課の久住猛雄・文化財主事、柳田康雄・国学院大客員教授らのグループ。岐阜県大垣市で1日にあった学会で久住氏が発表した。

 田和山遺跡は弥生時代の環濠(かんごう)遺跡。石製品は約8センチ四方の板状で、出土時は砥石(といし)とされていた。研究者グループは材質や形状を調べ、現地で採れる石製で、擦った痕跡があるくぼみなどから国産のすずりと判断した。

 さらに裏の中央部に黒っぽい文様が上下二つあり、岡村秀典(中国考古学)、宮宅潔(中国古代史)両京都大教授らに画像の分析を依頼。中国・漢の時代の木簡に記された隷書に形が類似しており、上は「子」、下は「戊」などを墨書きした可能性があるとの結論を出した。

 これまで国内の文字確認例は、三雲・井原遺跡(福岡県糸島市)の土器に刻まれた「竟(鏡)」、貝蔵(かいぞう)遺跡(三重県松阪市)の土器に墨書きされた「田」などがあるが、いずれも2~3世紀だった。

 九州から近畿にかけて近年、弥生時代のすずりとみられる遺物が相次いで見つかり、古墳時代より数百年早い時代に中国・朝鮮半島との交易を背景に北部九州から文字文化が流入した説が出ていた。久住氏は「国産すずりならば国内で書かれた最古の文字。倭人(わじん)(当時の日本人)ではなく渡来系の人々が書いた可能性もある」としている。

 一方、松江市埋蔵文化財調査室は研究者グループの結論を受け、石製品を赤外線で撮影するなどして調査。同室は「赤外線ではっきり写らず、墨書ではなく汚れの可能性もある。今後の研究に期待したい」と慎重な見方をしている。【大森顕浩】

 岡村秀典・京都大教授の話 実物を見ていないが、画像で見る限り隷書の2文字に見える。石製品の中央付近に書いており、人名の可能性がある。国産の石製品なら倭人の名前で、物の私有意識が芽生えていたことになり、日本史の大問題となる。


やはり次の資金繰りが楽になる。


結論:最古の文字&2文字


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まぁそんなことはないか!

そんなことはないと信じたい。

しかしダークサイドに堕ちている研究者は決して少なくないのであった( ・Д・)

……なんてまぁ冗談はさておき、日本における『文字の歴史、個人所有意識の歴史』が大きく変わる一大発見ですので、今後の分析・研究に期待ですね(*^・ェ・)ノ

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2019ねん 9がつ 23にち(げつよーび、雨)

世はここ2週連続で三連休だ。

3連休ではないが、私もそれなりに休みつつ、リサーチマップの記入欄を埋めている(´・ω・`)


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↑建設された大型物流センターの所在(「産経新聞」の記事内画像より転載;Credit by Sankei Digital)



さて、久々の考古学・歴史ニュースですが、今回は「弥生時代以降の集落跡の上に大型物流センターがイイ感じに建ちましたよ!」ってお話です(。・ω・)ノ゙

今回のお話は、何も遺跡を壊して建てたわけではなくて、むしろ現代社会において私たちの文化遺産との向き合い方を考える上でいいテーマかなと思っています。




調査の概要と発見物

今回のお話の舞台は、大阪府藤井寺市で、ついこの前(2019年7月)世界文化遺産に登録されたばかりの百舌鳥・古市古墳群が所在する街です。

ネット通販で有名なのアマゾン(Amazon)など約10社が入る大型物流施設「レッドウッド藤井寺ディストリビューションセンター」を建設する目的で、甲子園球場のおよそ2つ分に当たる約8万3000平方メートルの広大な敷地を緊急調査しました。


この広大な範囲には、弥生時代から室町時代にかけての集落遺跡である「津堂遺跡」が含まれています。


建設工事に伴う緊急調査は2015年5月から約5カ月間実施され、古墳時代の住居址群や、古墳時代から飛鳥時代にかけての灌漑用水路とみられる溝状遺構などが検出されました。


特に住居址として、地面に穴を掘って柱を建てた掘立柱建物が15棟以上集中して検出される成果がありました。


これらの住居址群が示す時期は、この建設地の近くに位置する「古市古墳群」の築造時期と合致するとみられ、また付近にある「津堂城山古墳」との関係性も示唆されています。


建設予定地の範囲からは多くの土器資料が発見され、遺物整理用コンテナ約230箱分になったそうです。



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何故、面白いニュースなのか?

上に挙げた画像のように、日本には「文化財保護法」が存在します。

現在の建設工事は基礎をかなり地中深くまで入れますので、その際に私たちの共有の財産である文化財(遺跡・遺構・遺物)が壊れないように、事前に調査してデータを取ろうというものです。

例えば明らかにどこを掘っても遺跡である京都では、「文化財保護法のせいで建設が進まない!」、「莫大な予算がかかる!」と悲鳴が上がっているとも聞きますけど、

文化遺産を守るという意味では世界的に見て、画期的な法律なのであります。

この法律が最も叩かれる部分は、「調査費は建設予定者自身が負担する」という点です。

なので個人でマンション建てるといった際に非難の声が挙がります。

私も、京都のど真ん中にマンション建てる予定の女性が「私たちのような普通の個人では払えない!」と言っていたニュースを見たことがあります。

まぁ、京都の真ん中に土地持ってて、新たにマンション経営始める人が「普通の個人」かどうかは甚だ疑問ですけどね( ・Д・)


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↑(「プレスリリース」の記事内画像より転載;ESR株式会社提供)

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↑展示室のガラス張りの床から遺構を見ることができる(ESR株式会社提供のPDFデータを加工)


さて、今回のESR株式会社が建設した大型物流センターは5階建ての施設で、その内の1階部分を展示施設にしたのです。

「企業が積極的に文化を守り、地域との共生を意識することは重要」として、もの凄い素敵な展示室が完成しました。

上に挙げた写真のように、一部ガラス張りの床面からは調査によって明らかとなった遺構面を観察することができます。

海外の新しいタイプの博物館でよく採用されているものですが、子供たちに大人気の展示方法です。

かく言う私も大好きで、割れるわけないと思いつつも恐る恐るガラス面に乗ってみたりします(*^・ェ・)ノ

まぁたぶんガラスじゃないと思うんですけどね(強化何とか?)、少なくとも簡単に割れるものではないのは確実です。

この施設のガラス面はあまり範囲が広くない(2.4×3m)ので、上に乗って観察する必要のないもののようにも思えますので、実際に行ってみる方は勝手に乗らないでくださいね( -д-)ノ




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↑実際に調査で出土した展示物①(「プレスリリース」の記事内画像より転載;ESR株式会社提供)

この物流センターは2017年に完成しており、今年(2019年)の7~8月の平日に展示スペースを一般公開しました。

これまでは完全予約制でしたが、百舌鳥・古市古墳群の世界文化遺産登録を記念して、夏休み限定の企画として行ったそうです。


しかし考古学ファンらが多数訪れるなど好評だったため、ESRは予約なしでの公開を2019年12月27日まで平日午後に続けることにしたそうです。


考古学の世界でも「パブリック・アーケオロジー」なるものが提唱されて、かなりの時間が経ちますが、日本ではさほど浸透していないようにも思います。


これはパブリック・アートのような、文化財を守り伝えていくために考古学と一般市民をもっと近づけていこうとする理念に基づいた考古学の在り方です。


そうした中、今回の事例のような企業が特に地元の住民との連携を図って文化を共に守っていくという活動はとても重要に思えます。


実際に細かく見ていくと、遺物の保管・警備の問題や、重要な資料が日本各地に散在してしまうなどの弊害もあるわけですが、

一方で遺物の保管場所が不足して廃棄しなければならない現状や、倉庫に眠ったままの多くの資料の存在をも踏まえると重要な試みかなと思います。

こういった事例は他にもあるようなので、探してみて紹介したいと思います。

いつか周りのどこの建物も1階や地下階は展示施設&収蔵庫なんて日が来たら、散歩に飽きることがないだろうなと思ったり(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

↓久々の考古学に関するまともな記事でしたね!( -д-)ノ↓

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