あるけまや -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

    お金にならない考古学をお金にしよう╭( ・ㅂ・)و ̑̑ グッ ! 考古学・歴史ニュースの決定版╭( ・ㅂ・)و ̑̑ グッ !

    戦争

      このエントリーをはてなブックマークに追加
    2025ねん 11がつ 18にち(かよーび、晴れ)

    今日からまた頑張る!( ・Д・)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    arukemaya_y365
    ↑焼けてる感がすごいね!( ・Д・)
    (「沖縄タイムスプラス」の画像より転載)




    今回の考古学・歴史ニュースは沖縄の空襲跡はこんな感じかぁ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ



    📰はじめに

    沖縄・那覇。現在の県庁や市役所が立つその場所には、かつて 陶器(やちむん)を焼く村 がありました。しかし、1944年10月10日の朝、米軍の猛烈な空襲がこの地を襲い、 湧田(わくた)村 は一夜にして焼け落ちたのです。近年、その痕跡が本格的な発掘調査で明らかになり、瓦や陶器の破片、焼け焦げた土の痕跡などが見つかりました。80年の時を越えて、戦争によって奪われた人々の日常、そして文化が、静かに語り始めています。


    あるけまや風に言えば──戦火に飲まれた窯の炎。その火とともに消えてしまった笑い声、釉薬をかける手のぬくもり、やちむんを囲んだ暮らし。今、地中から掘り起こされるのは、戦争という暴力だけでなく、そこにあった「文化」と「生活」の証拠です。




    🔍 湧田村とは何だったのか — 瓦と陶器の村の歴史

    • 湧田村は那覇市の現在の 県庁敷地や泉崎あたり にあった集落で、古くから瓦や陶器を生産する「湧田窯(やかまや)」が存在した。

    • 歴史を遡ると、1616年ごろにはもう陶器づくりが行われていたという記録があり、琉球王国時代から続く窯業の地だった。

    • 那覇の伝統的な陶器「やちむん/琉球焼(琉球やき)」も、この湧田村の窯から発展してきた可能性があります。




    arukemaya_y363
    ↑めちゃ街中にあるね!( ・Д・)
    (「琉球新報」の画像より転載)


    💣 10・10空襲の惨禍 — 一夜にして村が焼け落ちた日

    • 1944年10月10日、米軍機による「10・10空襲(テン・テン空襲)」が那覇を襲撃。

    • 空襲は朝6時45分ごろ始まり、延々と爆撃が続き、那覇市街のおよそ 90%が焼失したという記録が残る。

    • 湧田村もその被害の中心のひとつで、発掘調査では 焼けた地面(黒焦げ・赤茶の土)、瓦や陶器の破片、溶けたガラス などが発見されている。



    🧱 発掘調査で見えてきた村の日常の断片

    • 那覇市の県庁敷地で行われている 県立埋蔵文化財センター の発掘調査で、湧田村の遺構が詳しく調べられている。

    • 調査で見つかった遺構の面積は 700~800平方メートル に及び、焼けた足跡(火災痕)が広く残っていた。

    • 下層からは 窯の床面や炉跡 とみられる構造も確認され、近世後半〜近代にかけての陶器製造拠点の実態が具体化してきている。

    • 金属加工用の炉やるつぼも出土しており、陶器だけでなく複合的な工業活動があった村であったことがうかがえる。



    🔥 炎が焼いた景色、そして壊れた暮らし

    • 発掘現場には 割れた陶器の色絵器 が散らばっており、当時の生活の豊かさ、そして喪失の深さを物語っている。

    • 屋根瓦が破損し、建物の穴や爆弾痕とみられる穴が複数あったとの報告もあり、 爆撃の激しさと建物の構造破壊 を示している。

    • 地中に残された焼土層は 高温の炎が地面を焼いたまま固まった証拠 で、空襲の火災が古い住宅地を文字どおり焼き尽くしたことが鮮明に残されていた。



    🕊️ 証言が伝える「戦争の日の記憶」

    • 当時を生き延びた住民の証言には、「あたり一面が焼け野原になった」「爆撃とともにナパーム(焼夷弾?)が降ってきた」といった、強烈な記憶が語られている。

    • 10・10空襲は沖縄戦の始まりを象徴する事件ともされ、市内にはその被害の記憶を伝える証言や資料が多数残されている。

    • 発掘調査の意義は、単に「壊れたものを見る」だけでなく、 生活を営んでいた人たちの断片を掘り起こすこと にあり、戦後世代への継承の一歩となっている。




    🌱 湧田村の遺産とこれから — 戦争と復興、文化の再生へ

    • 発掘調査は 2024年11月から始まり、令和7年度(2025年度)まで継続予定

    • 今後、出土遺物や遺構は報告書や展示を通じて 広く一般に公開される見込み がある。

    • かつて焼け落ちた窯の跡が、人々の記憶と結びついて 平和のメッセージを伝える場 になる可能性も指摘されている。


    arukemaya_y364a
    ↑やぱ焼失跡として生々しいな!( ・Д・)
    (「琉球新報」の画像より転載)





    おわりに

    東京都内掘ってても、墨田区やってると空襲の痕跡はたくさん出てきますね。高温で変形したガラスとか焼けた黒曜石っぽいやつが出てくる。あと不発弾とか焼夷弾とか出てくる。しかも稀に出てくるってよりは普通にけっこう出てくる。範囲の広い調査なら出会う確率は高い気がする。ちなみに焼夷弾は警察に伝えれば済むけど、不発弾出てくると自衛隊来て調査3か月とか止まるそう。私は不発弾に出会ったことはないが出会いたい!調査止まってもいいから!( ・Д・) 

    あ~そう言えば、府中市の方では旧陸軍のカルバート(分厚いコンクリートに覆われた地下トンネルみたいなやつ)が出てきたや。すごいなぁ思うた。重機で一部ぶっ壊したんだけど、もし私が責任者だったら内部探検して残留物探しちゃうなぁ、てか中てくてく歩いて探検したい!って思った!

    まぁ戦争の記憶は沖縄でも墨田区でも当事者にとっては今でも重大な関心事なのだけれど、痛みと失敗は忘れてはならないし、未来に活かしていければいいよね。まぁ最近私は戦争もデータに使ってるけど、戦争って難しい。「戦争反対」と叫ぶのは意味あるのかないのかわからん。残念ながら人類史を振り返ると、戦争はしたくなくても巻き込まれるんだよね!( ・Д・)




    何はともあれ、、、

    焼夷弾は危なくないらしいから一個欲しい!( ・Д・)







    ↓マヤ遺跡の調査速報等をアップしてます!↓
    ↓祝!登録者数1000人突破!↓
    ↓逃避行動で実験考古学キャンプとかゲーム実況もやってるよ!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!↓

      このエントリーをはてなブックマークに追加
    2024ねん 10がつ 8にち(かよーび、晴れ)

    引越しの荷造りなう、掃除めんどい( ・Д・)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



    今回の考古学・歴史ニュースは大量の武器と人骨が見つかったよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


    今回の舞台はドイツ東北部に位置するトレンゼ遺跡です。

    この遺跡は古戦場跡なのですが、世界最古の大規模戦闘の痕跡が見られる遺跡として超重要遺跡です。

    過去にも当サイトで取り上げていました。



    ↓結構頑張って取り上げていますねΣ(・ω・ノ)ノ


    ↑我ながら良く書けてるな~(゚Д゚≡゚д゚)エッ!?




    「戦争の考古学」なんて、良識ある考古学者から見れば大それた名前を掲げてるなと思ってしまうものですが、そうした分野や書籍は存在します。

    当たり前ですけど、考古学って遺物・遺構を主要なデータとして取り扱うのですが、戦闘の痕跡って遺物・遺構として残りにくいんですよね。




    多くの事例において、戦闘終了後に目ぼしい武器や防具は回収されてしまいますし、

    運良く人骨や武具類が残ったとしても遺跡化の過程において後世の人類活動、農耕とか都市化とかで壊されて失われることも多々あるわけです。




    なので”バトルフィールド”の遺跡自体がそもそもほとんどないんです( ・Д・)

    ざっと2000年も期間があるようなマヤ文明だって一つもそうした遺跡はないような気がします。

    あっても都市が破壊された痕跡くらいでしょう。

    なので「戦争の考古学」はそもそもデータ量的に難しいのです( -д-)ノ




    arukemaya_z059



    トレンゼ遺跡では紀元前1250年に起きた戦闘の痕跡がまざまざと残っています。

    約150体分の人骨として約1万2500本出てます。

    上に挙げた画像のように、頭蓋骨を青銅製の鏃が貫通しているような明らかな戦闘の痕跡が残るものも含まれます。

    青銅器時代なので、下に挙げた画像のような鏃が多数出ている他、剣やこん棒も出土しています。




    過去記事の方に挙げた写真で分かるように、遺跡のすぐ横を流れるトレンゼ川はうねうねと蛇行していて渓谷を形成しているのですが、

    河川の位置がコロコロ変わることで、常に水分が供給される状態になっていて、多数の人骨や木製品が残ったと予測できます。

    そして河川がもたらす土砂であっという間にパッキングされたために武器や装飾品が残ったのでしょう。

    さらにはトレンゼ川流域は一部が農地利用されているものの、大部分は未開発であることも大きな要因です。



    そうした様々な要因が重なって残った貴重な「最古のバトルフィールド」なわけです(*・ω・)ノ







    おわりに

    私も戦争・戦闘関係の研究を数的に行いたいとは思っているのですが、なかなかねぇ。

    古代マヤ文明における戦闘シミュレーションとかやりたいんだけど、、、




    お金も時間もないなぁヽ(TдT)ノ

    まぁ少しずつ取り組んでみます(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!




    何はともあれ、

    やぱお金かせがにゃ!( ・Д・)



    ↓マヤ遺跡の調査速報等をアップしてます!↓
    ↓祝!登録者数1000人突破!↓
    ↓逃避行動で実験考古学キャンプとかゲーム実況もやってるよ!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!↓

      このエントリーをはてなブックマークに追加
    2022ねん 2がつ 4にち(かよーび、曇り)

    めんどいから暫くグアテマラ標準時で日記書く( -д-)ノ(書き始めの時間( ・Д・))

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


    arukemaya1689

    ↑このうさぎ大好き( ・Д・)(「すべての最高のイラスト」「イラストAC」の記事内画像を加工・作成;credit: あるけまや)


    今回の考古学・歴史ニュースは北海道で撲殺された縄文人の骨がたくさん見つかったよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


    さて、今回の舞台は北海道伊達市、有珠モシリ遺跡です。

    まずは位置から!









    伊達市は北海道南部(?;南の方の意)にあるんですよ。

    札幌人としはそんな感覚です(*^・ェ・)ノ



    なんでかというと、伊達市は積雪量が少なくて住みやすいことで有名なのです。

    だからリタイアした高齢の方々が本州の都会の喧騒から逃れて移住してくるケースが多いことでも知られています!

    だから札幌人からすると、、、「南部」というか「あったかい!」ってイメージがあるんですよね( -д-)ノ

    「南=あったかい」みたいな感じです。

    まぁ函館もっと南なのにけっこう寒いけどね!( ・Д・)





    実はスゴイ有珠モシリ遺跡!

    そんな噴火湾(内浦湾)沿岸にある伊達市ですが、ここの有珠モシリ遺跡はスゴイんですよ。

    上に挙げた写真のように1万㎢程度の「小島」なんですけども……



    この島全体が貝塚なんですΣ(・ω・ノ)ノ



    縄文晩期~続縄文時代に帰属する遺跡で、本州の感覚だと縄文の終わりから弥生時代の遺跡ってことになります。

    日本は酸性土壌なので人骨や骨角器や動物骨などの動物依存体が残りにくい環境なのですが、貝塚は貝片などがたくさんあるので貝塚周辺はアルカリ性になる(ないし中性方向に傾く)のです。

    なので、遺物の残存状態がすこぶる良い!

    この有珠モシリ遺跡は巨大な貝塚遺跡ですから出るものがスゴイのですよ。

    最後に一例を載せておきますね(*・ω・)ノ






    人類はみんな暴力的!( ・Д・)


    まぁよくある「縄文人はECOだった」とか、「縄文人は自然と共に生きた(共生の理想)」とか聞きますけど、まぁ大体が嘘ですね。

    現代よりはマシってだけです。

    科学が発達して知識があっても、敢えて無視する現代人よりマシなだけで、人類は常に周辺環境に大きな影響を与えながら存続してきたのです( -д-)ノ




    さて、こうした一般に流布した説(商業的な意味合いがあるのでしょう……)の中には「縄文人(あるいは縄文時代)は平和だった」というものがあります。

    これも明らかに現代人の理想を古代人に押し付けているに過ぎません。

    まっとうな考古学者はこんなこと誰も思っていないでしょう。

    考古学者に限らず一般的に「ふつうに」歴史を学んだ者であるならば「争いで満ちた人類史」をよく知っているはずです( ・Д・)




    さてそんなこんなで今回この有珠モシリ遺跡から、脳内お花畑論者の「幻想を打ち砕く」発見がなされました!

    それが上に挙げた写真にある、打撲によると思われる傷痕のある頭蓋骨が複数個体見つかったことなのです。

    1人なら事故もあり得ると思いますが、複数ということは集団同士で頭蓋骨にダメージが到達するほどの争いがあったことを示します。



    調査担当者は『本州側で弥生時代に移行し、ヒトの移動があった中で玉突き的に集団間の衝突が起きた可能性がある』と述べています。





    ……さすが大人な回答だなと思います。




    はっきり言えばいいのに、、、縄文晩期、つまり縄文時代に争いがあったって!

    平和じゃなかったって!( ・Д・)( ・Д・)( ・Д・)




    この調査担当者の青野先生は「出来た人」ですからね。

    私なら言っちゃう……

    言わんか?

    後々、もっとデータ集めて、自分の書籍とかで思いっきりぶちまけるかな。

    新聞で言うと敵ばかり大量生産することになるからね~。


    いや~、やっぱ大人だわ(*^・ェ・)ノ

    私も大人になりたい( ・Д・)



    arukemaya1692


    arukemaya1694
    ↑骨角器も残りがいいね!(「むしゃなび」の記事内画像より転載)



    おわりに

    この遺跡、私の大先輩が中心となって後輩らも参加して掘ってる遺跡なんです。

    北海道大学の調査は私が学生の頃からずっと伊達市周辺で行っているので色々と思い出深いな~と思いつつ、元の記事を読んでいました。

    唯一引っかかったのが「青野友哉准教授(骨考古学)」……

    骨考古学??? (゚Д゚≡゚д゚)エッ!?


    新聞の問題なのか、彼も新しい学問領域を打ち出しているのか……

    形質人類と何が違うのかよくわかならないけども……



    何はともあれ、私は大先輩相手でも変なものは変って言う!

    骨考古学、謎!( ・Д・)



    ↓マヤ遺跡の調査速報等をアップしてます!↓
    ↓登録者数、目指せ1000人!↓
    ↓逃避行動で実験考古学キャンプとかゲーム実況もやってるよ!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!↓

      このエントリーをはてなブックマークに追加
    2020ねん 11がつ 10にち(かよーび、晴れ)

    次の休み、カモン!( ・Д・)


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    arukemaya1160
    ↑川の右側の発掘区がトレンゼ遺跡(「DW」の記事内画像より転載)


    今回の考古学・歴史ニュースは「トレンゼ・バトルフィールドで新たな発見と共に新たな謎が生まれたよ!ー後編ー( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


    さて、ドイツ北部、トレンゼ川のほとりにあるトレンゼ遺跡(トレンゼ・バトルフィールド)の復習をさらっとしましょう。

    今からおよそ3200年前の青銅器時代に4000~5000人による大規模な「戦争」があった証拠がトレンゼ・バトルフィールドから見つかっています。

    これは最古の戦争の事例であり、これほど昔から大規模な闘争が起きていたことを示す重要な事例でもあります。

    前の記事にも書いたように、この争いは「1日で終わった」と考えられていますが、恐らく明確な証拠はないでしょう。

    戦闘規模からの類推や、兵糧の存在を示す証拠の不在から、恐らく1日で終わったと推定しているのだと思います。

    最古の戦跡なのに、この頃から既に兵糧を準備し、長期の戦闘行為に備えていたとあればそれこそこれまでの歴史の常識がひっくり返されることになります( -д-)ノ

    恐らく1日で終わったとは言え、こうした大規模な戦闘(少なくとも2000人 V.S. 2000人)が何故このトレンゼ・バトルフィールドで起きたのでしょうか?

    誰が戦ったのでしょうか?

    ドイツ北部に住む同一集団内の抗争でしょうか?

    ドイツ北部に住む他集団間の抗争でしょうか?

    あるいはドイツ北部の地元集団と、他地域の集団との抗争なのでしょうか?

    これがトレンゼ・バトルフィールドにおける『大規模戦闘の謎』なのです(*^・ェ・)ノ




    さて、トレンゼ・バトルフィールドにおける発掘調査で進展がありました。

    調査範囲が拡大することで、どうやら戦いはトレンゼ河の両岸の土手道で始まり、河下へと移動していったと推定されています。

    両岸の土手道で戦闘があったのは考古学的に分かるとして、河下へ移動していったと何故考えるのかはよく分かりません( -д-)ノ

    もしかすると、河下で上に挙げた写真に見られる『一風変わった』遺物が出土したことに根拠を置いているのかなと思います。

    これらの遺物集中は古代の土手道から約300m下流の川床の堆積物から見つかったものです。


    合計31点の青銅器で、本来有機物製の入れ物に入っていたものがここに流れ着いて堆積したと推定されています。


    こうした証拠から下流へと逃げながら戦闘が続いたと考えているのだと思いますが、上流で死んだ戦士の持ち物が下流へと流されたとも考えられるので、私としてはこれだけでは下流方向へと移動しながら戦闘が続いたとは言えないと思っています。


    そもそも考古学は時間を扱うとは言え、「一日で終わった戦闘中の更に細かな時間の変化」なんて捉えることができません。


    考古学で扱う時間とは土器などの遺物の変化に着目したもっと長期的な時間なのです(*^・ェ・)ノ



    arukemaya1157
    ↑丸いカンカンのような青銅製ケース(「ナショナルジオグラフィック」の記事内画像より転載)



    これらの青銅製の遺物はキリ、ノミ、ナイフ, 青銅のくずなどでした。


    また上に挙げた写真に見られる円筒形をした青銅製の小さな丸い箱が見つかっています。


    この丸い箱はベルトに取り付けられる形になっています。


    同じ下流の川底の堆積物の中から人骨も見つかっているそうです。


    この人骨が破片なのか全身骨格なのかで、河に流されたのか、下流まで来てここで死んだのかを考える上で大きく変わってくるポイントなのですが、それに関する情報はまだありません( -д-)ノ


    他に先に挙げた写真の中に見られる青銅製の筒状の遺物が3点見つかっています。


    これは個人的な持ち物を入れる袋か箱の付属品だったと想定されており、同様の品は数百キロ離れたドイツ南部とフランス東部でしか今のところ見つかっておらず、この場所では珍しい出土品だということです。


    これはトレンゼ・バトルフィールドで戦った戦士たちの少なくとも一方が遥か遠くの地域からやってきた集団である可能性を示しています。


    ただ新たな疑問が生まれます。


    戦場へ赴く戦士が何故、キリ、ノミといった工具類や青銅のくずといった加工過程でできる副産物を携行しているのでしょう?


    「考古学あるある」であり、且つ、ある意味考古学の限界とも言えるのですが、『よく分からないことは(とりあえず)儀礼行為とする』というものがあります。


    トレンゼ遺跡の調査者たちも、恐らくは青銅器時代の戦士たちが儀礼的・呪術的な目的で戦闘とは無関係に思える金属加工用品を携行していたと推定しています。


    繰り返しになりますが、トレンゼ・バトルフィールドのようなケースは「SSR」級ですから、今後青銅器時代の類例が見つかるまでは、こうした金属加工用品を戦士が携行することが「普通」なのかそうではないのか未定のままとなるでしょう。


    また人骨のDNA分析結果では、ドイツ北部の現地人集団と、南ヨーロッパを含む遠隔地の多様な戦士の集団との戦いであったことを示しており、ドイツ南部やフランス東部でしか出土例のない金属加工用品の出土を根拠とした現地集団と遠隔地集団との戦いという類推を後押ししています。


    戦士の歯の同位体分析でも2つの戦闘集団を特定しており、1つはドイツ北部出身の現地人集団、もう1つは多様な中央ヨーロッパ、ボヘミア(ドイツ南東部)などから来たと考えられる集団です。


    こうした研究成果は異なる少なくとも2つの集団が交戦したことを示唆しています。


    おわりに、ー謎は謎のままー

    実は新たな研究成果として、別の人骨のDNAに関する分析では戦士たちがヨーロッパ中部と北部の人々だったと結論付けています。

    よくヒトとチンパンジーは2%しかDNAの違いがないなんて言い、なので人類における所謂「人種」なんてものはそれ以下の僅かな違いでしかない、だから「人種差別は不当」なんて論理展開も多々見受けられます。

    ということはヨーロッパ内、特にドイツ北部を中心とした「狭い」エリアの中で、かつて住んでいた人々の間のDNAの違いはいかほどなのでしょうか?

    少なくともドイツ北部の同一集団内における闘争という解釈は非常に弱まっていますが、現地人集団 V.S. 他地域集団の構図が適当にせよ、他地域集団というものが多様な複数地域出身者から成る集団なのか、そしてそれはどれだけ遠隔地なのかという点については現在も謎のままなのです。

    今や、人骨に対する形質人類学的分析や、理化学的なDNA分析や歯の分析は、考古学における学際的研究として不可欠なものとなっています。

    しかし地道な考古学調査も重要なわけで、やはりトレンゼ・バトルフィールドにおける調査範囲の更なる拡大によってデータを収集すること、トレンゼ・バトルフィールド周辺の「集団が居住したと考えられる拠点」の発見などがこの謎を解く上での鍵となることは間違いないでしょう。

    一方で今ある状況証拠だけでも色々と考えることができると思います。

    我々考古学者は「鑑識」として働きますので、皆さんも「考古学探偵」としてこの考古学ミステリーに挑戦してみてはいかがでしょうか?

    (名探偵コ〇ン!)


    真実はいつも土の中!( ・Д・)



    ↓マヤ遺跡の調査速報等をアップしてます!↓
    ↓登録者数、目指せ1000人!↓
    ↓逃避行動で実験考古学キャンプとかゲーム実況もやってるよ!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!↓

      このエントリーをはてなブックマークに追加
    2020ねん 11がつ 9にち(げつよーび、雷を伴う暴風+霰)

    今日は論考一気に書き終える日( ・Д・)


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    arukemaya1161


    今回の考古学・歴史ニュースは「人類史上とても重要な発見、最古の大戦場跡が見つかったよ!ー前編ー( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


    戦争は「行為」であって、土器や石器のように「道具」として残るわけではないので、その痕跡はなかなか発見されにくいものです。

    そのため、人類史研究において「戦争」は重要な研究対象なのですが、その残りにくさから扱いにくいテーマでもあります。

    遺体は野ざらしになる傾向が強いですから、丁寧に埋葬された場合と違って腐敗が進んで朽ちてしまいますし、戦死者が埋葬されてしまうと普通の埋葬墓との区別が付かなくなってしまいます( -д-)ノ

    火事場泥棒的に、戦死者の武具などが回収されてしまう場合もありますし、どうしても戦争はその性格から考古学では取り扱いにくいものなのですヽ(TдT)ノ

    そういうこともあって、今回紹介する古戦場跡はその発見自体がレアな大発見なわけですが、それだけではなく欧州最古の事例&青銅器時代に大規模な戦争の痕跡という点で重要な発見なのですヾ(´ω`=´ω`)ノ





    発見の舞台はドイツ北部のトレンゼ遺跡です。

    上の1枚目に挙げた写真で見られるように、河のほとりにある遺跡です。

    河から供給される水分が遺物や人骨の良好な保存状態を保ち、今回の大発見に繋がったと言えるでしょう。

    ここではBCE1200年頃に河岸で戦って死んだと考えられる1万2000点もの人骨や武器類が見つかっています。

    上の2枚目の写真に見られるように、かなりの量の人骨が集中しており、この写真の地点では12㎡の範囲から20個体分の頭蓋骨を含む1478点もの人骨が出土しました。

    人骨が集中して見つかっただけでは「戦争」があったことにはならず、乱雑に配置された合葬事例や共同墓地ということも考えられます。

    この事例の場合では多数の武器だけではなく、明白な状況証拠が揃っていたため、見つかった多量の人骨は戦死者と考えられたのです。

    その証拠を見ていきましょう。






    これらが武器を伴う人骨よりも直接的証拠として扱われた例になります。

    最初の写真では、見事なフリント製の石鏃が上腕骨に突き刺さっています。

    2枚目の写真では、保存状態の良い頭蓋骨の頭頂部付近に、不自然な陥没が見られます。

    これは棍棒などによる強い打撃で頭を割られたことに起因する痕跡だと推定されています。

    3枚目の写真では、石鏃が頭蓋骨を貫通して脳まで到達している状態を示しています。

    これに加えて発見された1万2000点もの人骨が少なくとも140人分であるとの個体数を推定する結果が出たこと、この140人のほどんどが20~30代の上記のような外傷以外で病気などの見られない健康な「男性」であったことがトレンゼ遺跡がバトルフィールドである根拠になっています(*・ω・)ノ






    おわりに、ートレンゼ・バトルフィールドの謎(前編)ー

    さて、最後に挙げた写真と図は「Science」誌に載ったものです。

    上の写真のような出土品が多数見られ、これらが「青銅器時代の戦士」の携行品と考えられています。

    こうした携行品や他に出土した武器類から推定されたのが下の図の「青銅器時代の戦士」です。

    勇ましく描かれていますねヾ(´ω`=´ω`)ノ

    さて、人類史は戦いの歴史であり、特にヨーロッパ史は常に戦争ばかりなわけですが、20世紀までは青銅器時代のヨーロッパは比較的平和な社会だと考えられていました。

    より古い時代にヨーロッパで大規模な戦いがあったという歴史記述が、ギリシャやエジプトなどに残されていましたが、最初に述べた「戦争」の痕跡は発見されにくいため、これまでトレンゼ・バトルフィールド級の古戦場の遺跡は見つかっていなかったのです。

    これまでにも青銅器時代の武器は出土していましたが、埋葬遺構における副葬品や、儀礼に伴う埋納品としての出土しかなかったのです。

    トレンゼ・バトルフィールドの特徴は考古学的に認められる最古の事例というだけではなく、最大規模の戦闘行為の痕跡が残る事例だということです。

    調査範囲からは140人分の人骨が出ましたが、遺跡全体の10%ほどを調査したと考えられることから、全体の死者数は1400人程度になる見込みです。

    戦争は生き残りをかけたバトルロワイアルではありませんので、実際に戦争に参加したのはその2~3倍程度、4000~5000人ではないかと推定されています。

    戦闘自体はおそらく1日で終わったと考えられていますが、この規模の戦闘行為は青銅器時代ではこれまでに見られない圧倒的なものなのです。

    ここで問題なのは、何故トレンゼ遺跡で大規模な戦闘が起こったのかということです。


    欧州各地から来た他集団同士が争ったのか、トレンゼ地方の同一集団における内紛だったのか・・・・・・


    誰が、何故この地で戦ったのかは現在も謎のままなのです。


    どう思いますか?ー後編へ続くー( ・Д・)



    ↓マヤ遺跡の調査速報等をアップしてます!↓
    ↓登録者数、目指せ1000人!↓
    ↓逃避行動で実験考古学キャンプとかゲーム実況もやってるよ!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!↓

      このエントリーをはてなブックマークに追加
    2020ねん 3がつ 12にち(もくよーび、晴れ)

    渡航開始前の最終日……のんびりできない( ・Д・)


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


    arukemaya812


    今回の考古学・歴史ニュースは「エジプト文明はねこを盾にされて戦争に負けたよ!」ってお話です(*・ω・)ノ


    ネコ大好き、古代エジプト人

    前回ティカル遺跡に現れたジャガーの子供のニュースがありましたが、ライオンやらトラやらネコ科動物はたくさんいます。

    その中でも私たちがペットにしているのはイエネコ(Felis silvestris catus)です。

    このイエネコの祖先がヤマネコなわけですが、西アジアのリビアヤマネコを起源とすると考えられています。

    ネコとの共生の歴史はより古いのですが、家畜化されたのは
    約3700年前のエジプトと推定されています。

    古代エジプト人は穀物をネズミの害などから守るためにネコを利用し、やがて家畜化したのです。


    この辺りの流れは他の地域と変わりありません。


    しかし古代エジプトでは家畜化開始期であるおよそ紀元前2000年前頃から、ペットとしてだけではなく、ネコを崇拝し、信仰の対象としても扱っていきます。





    上に挙げたのは「神々の記」で描かれるネコの神様、バステトです。

    以前にも「神々の記」は紹介したことありました↓↓↓


     





    上のリンクが『神々の記』関連で、下のリンクは「バステト神」を祭る神殿からライオンとか猫のミイラが出たよ!ってお話です。

    下のリンクでバステト神について語ってますので今回は割愛させて頂きますが、つまるところ、古代エジプト人はネコを神格化してしまうほど、ネコ好きだったのです(*^・ェ・)ノ


    非道なる所業、許すまじ、カンビュセス2世( ・Д・)

    今回のメインテーマは、「ねこを盾にされたので戦争に負けちゃったよ」ってことなのですが、実際のお話なのです( ・Д・)

    BCE525年のペルシウムの戦いでは、アケメネス朝ペルシア第2代王カンビュセス2世と、古代エジプト第26王朝ファラオ、プサメティコス3世が戦いました。

    しかしカンビュセス2世が、兵士に「ネコの絵を描いた盾」を持たせました。

    あるいは一部、本当に盾にネコを括り付けたそうですが、こちらは史実かどうか不明です。

    エジプトの兵士たちは「絵」なのに、猫の絵の盾をもつ敵兵を攻撃できず退散してしまいます。

    カンビュセス2世はプサメティコス3世を捕虜とし、聖なる動物のために国を犠牲にしたエジプト人を軽蔑し、エジプト人たちの顔に猫を投げつけたそうです。

    少なくとも何らかの効果を期待して卑怯な手段を取ったくせにね!( -д-)ノ

    後にプサメティコス3世は処刑され、エジプト第26王朝は断絶してしまいます。

    本当に戦争とは非情なるものです。

    例え、可愛いネコを盾にしようとも、勝てば官軍負ければ賊軍、世の中間違ってるぜ( ・Д・)




    ちなみにこれがカンビュセス世のご尊顔!

    わっるい顔してるわ~、許すまじ( ・Д・)

    ↓マヤ遺跡の調査速報等をアップしてます!↓
    ↓登録者数、目指せ1000人!現在17人!↓
    ↓最近、全然増えないよ!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!↓

    このページのトップヘ