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あるけまや -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

タグ:戦国時代

2024ねん 6がつ 7にち(きんよーび、晴れ)

あとでお昼寝が必要だ( -д-)ノ

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今回の考古学・歴史ニュースは明智光秀が造った城の一部が見つかったよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


今回の舞台は滋賀県、大津市の坂本城址です。

この坂本城はかの有名な比叡山の焼き討ちの後、1571年に明智光秀により築造されました。

織田信長が築造した安土城に次いで天下第2の城と評されるほどの豪壮華麗なものであったと伝えられています。



しかしながら1586年豊臣秀吉の命により坂本城は廃城になり、石垣等の資材は大津城築城に使用されました。

そのため歴史情報だけが残り、考古学的な遺構としはほぼ残っていない状況なのです。



上に挙げた復元図のように、坂本城は「水城」であり、水路で隔てられつつ、最右手の本丸、二の丸、三の丸で構成されています。



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今回見つかったのは三の丸の一部です。

三の丸の地点は現在そのほとんどが住宅の下にあり、一部は田畑の下にあります。

宅地開発に伴って事前調査したところ、上に挙げたような石垣と外堀が見つかったのです(*・ω・)ノ

それにしてもかなりの残りの良さですよねΣ(・ω・ノ)ノ



下の写真を見るとよくわかるように石組も綺麗に残っています。

長さは30m、高さは高いところで1m程度です。



宅地開発を行う予定であった地元の会社「三王不動産流通」は開発中止を決定し、更に遺跡の国史跡指定に向け相互協力する覚書を締結しました。

本島に素晴らしい会社ですよねヾ(´ω`=´ω`)ノ







おわりに

文化財保護って大事ですよね。

失われたらもう後からは何もできないのだから。



今回開発をストップした「三王不動産流通」は本当に凄い、偉い!と思うけれど、、、

基本的に大体ぶっ壊すもんね。


↑こんな悪どい人もいる( ・Д・)

↓他方でこんな神もいる( ・Д・)



上の事例が本当にヒドイやつですね。

下の記事は本当に素晴らしい。

お金に余裕あったら工事して、こうした地下博物館で一杯の世の中になったらいいのにね。



野外は野外でいいのだけれど、今回の宅地建設も自分たちの地下にプチ博物館あったら素敵じゃない?(。・ω・)ノ゙



何はともあれ、

やぱ世の中、金だな!( ・Д・)



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2024ねん 5がつ 13にち(げつよーび、めちゃ雨!)

風邪ひいて痰がまだ絡む~(TДT)

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今回の考古学・歴史ニュースは戦国時代の籠手がいい感じで出てきたので公開するぜ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


今回の舞台は埼玉県行田市の忍城跡です。

2019年の発掘調査時に保存状態が極めて良好な籠手が出土しました。



長さ59.6cm、最大幅45cmの鉄製の籠手でした。

鉄製であるのに保存状態が極めて良好なのは出土地点の環境によります。

今回の出土位置は、忍城の本丸と二の丸の間の堀の底付近でした。



出土地点が堀の跡ですが、長いこと水に浸かっていたことから良好な状態で保存されたと考えられます。

ちなみに出土状況としては右腕用の籠手が左腕用の籠手の上に重なって固着した状態でした。

2019年の発見なのに2024年5月になってからの一般公開となった理由は保存処理と、この固着状態からの解放に時間を要したということです。






おわりに

博物館に行くと戦国時代の刀剣や甲冑ってけっこう展示されていますよね。

まぁ「刀剣女子」とか生まれるくらいに全国にはたくさんあるのでしょう。



そういったものは基本的に伝世品だと思います。

それに対して今回の発見は考古学的なものなので、出土地点・状況のデータがあることが特異ですね。

堀の中からは他にも様々な出土品が出ていて、それらからの類推により今回の展示の目玉となっている籠手の帰属期間は1400年代後半から1500年代前半と考えられています。



展示は埼玉県行田市の郷土博物館にて展示中です。

籠手の他にも忍城に関連した具足や刀剣類を含めて計37点公開しているそうです。



とりあえず、戦国期の籠手がほぼ完全な形で発掘されるのは激レアなので、是非見に行ってみましょう!




何はともあれ、

戦国時代は人気あっていいな!( ・Д・)



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2021ねん 1がつ 27にち(すいよーび、くもり)

もう1月が終わってしまう~ヽ(TдT)ノ

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↑白い大きな石がごろごろ転がってるね( ・Д・)(「東愛知新聞」の記事内画像より転載;現在、リンク先が存在しない)


今回の考古学・歴史ニュースは古墳時代のお墓の石が、戦国時代のお城の石になったよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台は愛知県豊橋市、大塚南古墳です。

上に挙げた写真で分かるように、調査のトレンチ内には真っ白な石というか岩がごろごろ転がっていますね。

何の岩石なのか分かりませんが、白い色調と解像度の甘さが相まって、私には大きなレキが骨のように見えてしまいました( -д-)ノ

さて、今回紹介する大塚南古墳は国指定史跡である馬越長火塚古墳群の中のひとつです。

ちなみに馬越長火塚古墳群は6世紀末~7世紀初頭に東三河地方を治めた豪族の墓とされている前方後円墳です。

これまでに朝鮮半島由来の金銅装馬具が出土し、大和王権との関わりが推定されているそうです。

一方で大塚南古墳は直径約19mの円墳で、今回初めて石室内部が調査されました。


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↑どの角度でも白い岩がごろごろしてるだけ( ・Д・)(「JIJI.COM」の記事内画像より転載)


上に挙げたどの写真でも、結局白い岩がごろごろしてるだけのように思えるのですが、実はこれ、大塚南古墳の内部にある横穴式石室の残骸のようです( ・Д・)

どういうことかと言うと、本来石室を構成していた側壁の石材がほとんど持ち去られているのです。



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おわりに

最後に挙げたのが豊橋市内にある吉田城です。

戦国時代の16世紀初頭に最初の築造が行われ、江戸時代には吉田藩の政庁として機能しました。

石垣の石材を調べたら、大塚南古墳から持ち出した石材を特定することが出来たりしないものなのでしょうかね?

直接利用されているのではなく、運んだ後に再加工されていると難しいかも知れませんが、絞ることくらいはできそうですね(*^・ェ・)ノ

もし出来たらお城の説明として深みが出る!( ・Д・)



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2019ねん 7がつ 19にち(きんよーび、雨)

トイレって大事だよね!

でもトイレ我慢してる時が一番仕事に集中出来る気がする!( ・Д・)


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今回の考古学・歴史ニュースは、「佐賀県の名護屋城博物館でトイレの歴史に関する特別展が開催されるよ!」というお話です(*・ω・)ノ

佐賀県、唐津市鎮西町にある名護屋城博物館は2019年7月19日から、戦国時代のトイレ遺構を中心としたトイレに関する特別展を実施するそうです。

その名もトイレのナゾを追え!! 肥前名護屋城の厠と雪隠」です。


使わない!見るだけのトイレがある!

さて、企画展のタイトルにある文字ですが、ゆきがくれと書いて雪隠(せっちん)と読むそうで、トイレの別名称だそうです。

何でもここ名護屋城跡周辺では、前田利家ら4人の陣跡から、茶庭に置かれて実際には使わずに外観だけを楽しむ「荘雪隠(かざりせっちん)」とみられるトイレの遺構が見つかっているそうです。

そんなトイレがあることを知りませんでしたが、全国でも数例見つかっているそうで、その中でもここ名護屋城跡周辺の荘雪隠の遺構は最も古い発見例なのだとか。

昔からトイレの問題は衛生面と関係してけっこう大きな問題なのですが、どうやら佐賀県の武将達は陣の中にも「見るだけのトイレ」を作っていたようで、なんだか余裕ですねΣ(・ω・ノ)ノ




上に挙げた写真は肥前名護屋城にある木村重隆陣屋跡の一部で、これが荘雪隠なのだそうです。

想像と違いましたけど、展示ではこのトイレ遺構の実物大フロアパネルが紹介されるそうです。

他にも全国のトイレに関連する発掘資料を取り寄せるそうで、福井県鳥浜貝塚から出土した縄文時代の「糞石」(排せつ物が化石化したもの)や、日本で初めて「トイレ」と確認された佐賀県一乗谷朝倉氏遺跡の「金隠し」などが見られます。

開催期間中は毎週土曜日の午後1時から「トイレの自由研究」として学芸員が展示内容を解説するコースがある他、7月28日午前9時半から、トイレ遺構が発見された前田利家陣跡などを巡る「ミステリートイレツアー」(事前申し込み必要、先着40人程度)もあるそうです。



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昔のトイレットペーパーは痛い!

さて、縄文時代のトイレ遺構からは糞石と共に土器片が出土しているそうで、何でもトイレットペーパー代わりに土器片でお尻を拭いていたと考えられているそうです。

ケガしそうですね( ・Д・)

まぁ葉っぱとかも使っていたのでしょうが、「あ、紙がない!」みたいな時は割れた土器片をある意味で再利用したのかも知れません。

こういったリサイクル文化は江戸時代まで連綿と続くわけですが、平安時代でも籌木(ちゅうぎ/ちゅうぼく)という木の棒状の板を使っており、上に挙げた写真のように戦国時代でもトイレットペーパーの代わりに木簡を再利用して使っていたそうです。

この「木のトイレットペーパー(?)」は一部の農村などでは江戸時代後期まで使われていたそうで、他に藁(わら)も使用されていたそうです。

まぁ痛いよね( ・Д・)

江戸時代には都市部で再生紙を用いたトイレットペーパーが使用され始め、一般に普及するのは明治時代だそうです。

一方で中世から近代にかけて人の糞尿を肥料として利用してきたリサイクルの歴史もあり、これについても今回の企画展で紹介するそうです。

ちなみに江戸時代には人の糞尿は売り物でした。

ランク分けされていて大名とか良い物食べてる人の糞尿の方が高かったそうです。

ちなみに中ランクの糞尿樽一杯で500円、船一艘分で10万円の価値があったのだとか( ・Д・)




おわりに

個人的にはトイレの遺構って面白いなと思っています。

古代マヤでも建造物の配置は分かっているけども、トイレの位置は分からないんですよね。

あと糞石も面白いなと思います。

最近は様々な科学技術が発達していますから、糞石から分かることも多いのです(・∀・)つ

せっかくなので「ウェブ内、糞石ミュージアム」を開催しようかな。

糞石を見慣れて、発掘調査の際に糞石を検出できるようにさ!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

↓昔も今もトイレって大事!ヾ(´ω`=´ω`)ノ↓

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2019ねん 7がつ 13にち(どよーび、雨)

毎週土曜日は徹夜の日にしようかなと考え中。

時間の確保のために( ・Д・)


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一乗谷朝倉氏遺跡復原町並
一乗谷朝倉氏遺跡復原町並
一乗谷朝倉氏遺跡復原町並
一乗谷朝倉氏遺跡復原町並
福井県、「一乗谷朝倉氏遺跡復原町並」における戦国時代の城下町の様子(「毎日新聞」の記事内画像より転載)


今回の考古学・歴史ニュースは、『駿府城にて国内でも非常に珍しい戦国時代の「道」が見つかったよ!』というお話です(*・ω・)ノ

  1. 駿府城における「戦国時代の道」の発見
  2. 日本における「道の歴史」
  3. おわりに


1.駿府城における「戦国時代の道」の発見

つい先日、静岡県、駿府城公園の天守にて大きな発見があったばかりですが、更なる重要な発見がありました。


↓瓦の歴史】安土桃山時代、徳川家康の駿府城から豊臣秀吉の金箔瓦が大量に出土したよ!( ・Д・)【歴史考古学・城郭考古学】↓



上に挙げた写真は福井県にある「一乗谷朝倉氏遺跡復原町並」で行われたイベントの様子で、戦国時代の城下町に武士や町人に扮した人々を配置して当時の雰囲気を味わってもらうというものです。

この「朝倉氏遺跡」では国内でも数例しかない「戦国時代の道」が検出されており、「復原町並」ではその調査成果を活かした復原がなされています。

写真には復原された「武家屋敷の石垣と道」が写っていますが、けっこう道幅が広い印象を受けます。

一方で今回、駿府城周辺にて検出された「石垣に囲まれた道」はイメージとしては同様のものですが、道幅はより狭いものになります。



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上の1枚目の画像で分かるように、前回の発見の舞台は駿府城公園内の天守台でしたが、今回の発見場所は公園の周辺に当たります。

この位置に歴史文化施設を建設すべく、事前に調査がなされていたところ今回の発見に至りました。

「戦国時代の道」は貴重な発見ですから、博物館展示の目玉の一つとして、床面をガラス張りにして遺構を確認できるような方法を取るのかなと私は予想しております( -д-)ノ

さて、最初に挙げた朝倉遺跡の写真は当時の道の様子をイメージしてもらうのに最適で、上に挙げた2枚の画像は実際の遺構の状態と道の様子をリンクさせるのに適切かなと思って載せました。

次に実際の遺構の写真を挙げますが、「よく分からないよ!ヽ(TдT)ノ」という方はこれまでの3枚の画像と比較してみると理解が深まるかと思います(。・ω・)ノ゙




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これが検出された道なのですが、お分かり頂けたでしょうか?

現地表面から60~100cm掘り下げた位置にて検出されたとのことで、けっこう浅目ですからね、よく残っていたなと思います(・∀・)つ

検出された道の全長は約30m、幅は約2.7mでした。

この「戦国時代の道」の検出場所は三の丸であり、この一帯には駿府城の本丸、二の丸を囲むように、重臣級の武家屋敷が立ち並んでいたと考えられます。

武家屋敷の石垣と考えられる石列に挟まれた道は、表面が土で固められており、その表層部分は厚さ約10cmとなっています。

検出された石垣の高さは約30cmであり、天然の石がそのまま積まれる技法の「野面積み」です。

これは前回の記事で紹介した駿府城の「旧」天守台における技法と同じものになります。

この石垣に用いられた技法と出土品から、「旧天守台」と類似の時期(家康期~中村一氏期;1585~1606年頃)に造営されたものと推測されています。

また天下人となった家康が駿府城に戻った1607年以降、大御所政治を始めたころ、秀吉時代に築かせた天守閣とともにこれらの武家屋敷や道も埋められた可能性が高いとされています。



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2.日本における「道の歴史」

「其实地上本没有路,走的人多了,也便成了路」
(訳:実際、地上に道は初めからあるのではなく、多くの人が歩くから、それが路となるのだ)

魯迅『故郷』より引用、一部改変(着色・太文字化のみ)

僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る

ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちにさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため

高村光太郎『道程』より引用、一部改変(着色・太文字化のみ)

さて、上に引用したように「道」に関するカッコイイ表現があります。

これらの場合の道は「物理的な道」のことのみを取り扱っているようには思えませんが、字義通りに捉えるとすると、まぁ確かに道は元々あるわけではないですし、人が歩くことで道は出来ますね。

「獣道」っていうんですど( -д-)ノ

獣道は実際にイノシシなどの大型の哺乳類が頻繁に通ることで形成されますが、一部の林道・山道など整備することなく人がただ歩くことで形成される場合も獣道と呼びます。

考古学の性質上、人類を対象とした場合、こうしてヒトによって踏み固められることで自然と出来上がった所謂「獣道が最初の道」と言えるでしょう。

こういった最初期の道は原始的な生活を送っていた文化に見られるものというイメージがありますが、青森県の三内丸山遺跡では縄文時代に帰属する全長約12mの舗装された道路が検出されており、国内における道路の歴史はかなり古いものと言えます。

また日本書紀における神武東征の箇所で、「皇師兵を勅へて歩より龍田に赴く。而して其の路嶮しくして、人並み行くを得ず。」という記述が見られます。

これが国内における道路に関するの最も古い記述であり、当時の道路は人が2列で行進することができないほど狭いものであったようです。

同じく日本書紀の推古天皇下の613年に「難波より京に至る大道を置く」とあり、これが日本における道路整備に関する最初の記述です。


上に挙げた図は、7世紀後半に律令制が制定されて広域地方行政区画として定められた五畿七道の図です。


ここから日本で最初の計画的な道路網の整備が始められることとなります。


鎌倉時代には、源頼朝が支配圏を拡大していくために道路整備を積極的に行っており、特に東国の関東武士が鎌倉へ集結するための関東各地と鎌倉とを結ぶ鎌倉街道が切り開かれました。

一方で室町時代は、道路や交通に対する目立つような施策はほとんど見られず、数多くの関所を設けて通行人から通行税をとる政策しか行われなかったようです。


さて、今回の記事と繋がる戦国時代には、各戦国大名にとって物資の往来、敵からの防御が死活問題であったため、軍事面の問題から領内の道路整備や峠の開削が積極的に行われました。


室町時代からの慣習で領国の境には多くの関所が設けられて通行税の徴収が行われるようになっていたましたが、織田信長や豊臣秀吉は天下統一のための支配圏拡大を行っていくにあたり交通路を重要視し、道路改修や橋梁整備を積極的に行い、国の境にあった関所を廃止しました。


「全ての道はローマに通ず」とありますけども、あちらでも古代の道路網は軍道の整備として充実していきますから、「道の歴史」として共通性を感じますね。

何はともあれ、物流の効率化を図ること、そのための道路整備は国家段階の集団にとって重要だったのだろうと思います(*・ω・)ノ



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3.おわりに

静岡市では駿府城公園を文化資源として活用しようという動きが活発であり、現市長が全面的に支援しています。

そうした中、このように立て続けにニュースになるような発見がなされることは市長だけではなく、静岡市民、関係者らにとっても嬉しいことだろうなと思います。

戦国時代好き、歴史好きな皆さんにとっても、貴重な「戦国時代の道」を博物館で生で見ることができるようになるかも知れないと思うときっと喜ばしいことだと思います。

ふるさと納税など様々な試みがなされている中、こういった各市町村が有する具体的な文化財をしっかりと調査して歴史的意味付けを行い、上手に活用していくことで、「真の地元愛」を育てたり、歴史ファンを含む多くの観光客を惹き付けることに繋がるんだろうなと思います(。・ω・)ノ゙

↓あ~それそれ!ヽ(・ε・)人(・ε・)ノ ナカマ↓

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2019ねん 3がつ 22にち(きんよーび、曇り)

3月も残すところ、あと1週間程度。

充実した新年度を送るためにも、今頑張らねば!( ・Д・)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・



今回の考古学・歴史ニュースは『大阪城の三の丸跡から大名屋敷址と考えられる大型建造物の痕跡が見つかったよ!』ってことです。

大阪城は安土桃山時代に相当する1583年(天正11年)に豊臣秀吉によって築城されました。

江戸時代(1620年)には2代将軍、徳川秀忠によって修築され、1868年(明治元年)には廃城となりました。

1931年(昭和6年)から大阪城公園として開園され、現在も多くの人々の憩いの場となっています。


さて、上に挙げた写真は今回の発見があった大阪城の西側に位置する三の丸跡地ですが、奥にビルが立ち並んでいるのが分かりますね。




このような感じで三の丸跡は大阪城公園の外部に立地しているのです(*・ω・)ノ

また最初に挙げた写真で、現場には鉄骨が複数本垂直に立ち並んでいるのが分かったと思います。

この地点は地方合同庁舎の新庁舎の建設予定地なのです。

検出された大型の建造物址は東西約20m、南北約15mの規模で、敷地範囲は100坪を超えるものです。

また多数検出された柱穴から、礎石の上に柱を据える構造であったことが分かりました。

その規模だけではなく、この大型建造物の周囲を囲む玉砂利が見つかったことからも、格式高い建造物であったと思われます。






この調査現場における高い部分が大名屋敷址と思われる大型建造物址が検出された地点になります。

この大型建造物とは別の東側に並んだ建造物跡から、「さ竹(たけ)内」と墨書された木簡や、佐竹氏の家紋「扇に月丸紋」を有する瓦が出土しました。

そのことから、徳川氏や島津氏らと同じ豊臣政権六大将の一人とも呼ばれる「佐竹義宣の屋敷跡」と推定されています。

また敷地内の低い場所には、杭を打って建てた簡素な建物群が作られていました。

この低い地点からは鋳型に鉛を注いだ「鋳バリ」がついたままの火縄銃の弾が出土しています。

そのことから豊臣方が大坂の陣(1614~1615年)に備えた武器工房があった可能性が指摘されています。



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↑(「朝日新聞DIGITAL」の記事内画像より転載;credit: 朝日新聞)


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↑大名屋敷周辺から出土した安土桃山時代の陶磁器類(「朝日新聞DIGITAL」の記事内画像より転載;credit: 朝日新聞)






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以上のように貴重な資料が多数発見されただけではなく、大阪城に関わる大名屋敷が発見されたこと自体が大きな発見だそうです。

今回発見された大名屋敷は大坂城の一等地に築かれており、佐竹義宣や妻子が過ごした書院造りの奥御殿であったと推測されています。

 

↑発掘現場の様子(「産経新聞(産経ニュース)」の動画)


新庁舎の建設に伴う緊急発掘だと思いますが、これだけの遺物・遺構が出土したとなれば調査者や歴史ファンの方だけではなく、恐らく早期の建設開始を期待している方々もワクワクしていることでしょう!

もし余裕があるならば新庁舎の地下に一部でも遺構を保存し、遺構や出土遺物を見学できるようにしてくれると嬉しいのですが、そうもいかないのかも知れませんねヽ(TдT)ノ

↓フォロワーもいっぱい発掘したいものですね!( ・Д・)(プレッシャーをかけておく(・∀・)つ)↓

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2019ねん 1がつ 18にち(きんよーび、雪)


何故だか今日はふと幸せを感じた。


特別何もないのに……


こういう日々が続けばいいなと思う( -д-)ノ



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↑調査現場風景、奥に玉石敷きが見える(「毎日新聞」の記事内画像より転載)



さて、今回の考古学・歴史ニュースは「信長の屋敷とお風呂の跡が見つかった!」です!



私、戦国時代にとても疎い(どこの時代も大体疎いが…)ので今回は二本立ての構成です( ・Д・)……まずはお屋敷の方から!( -д-)ノ



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↑発掘が進むと玉石敷きが続いていました(「朝日新聞」の記事内画像より転載; credit: 本間久志)



上に挙げた写真に見られるように西の建物跡には「玉石敷き(たまいしじき)」があり、織田信長本人、あるいはその身内が住んでいた可能性があるとのこと。


また曲輪からは高級品の天目茶碗と青磁の小碗が出土したそうです!




一般的にはどうなんでしょう? やはり「石ころの集中」が見つかるよりも、特殊な遺物が見つかった方がわくわくするのでしょうか?



・・・・・・まぁ私は「高級品」という言葉にわくわくしてますけども( ・Д・)





小牧山城に屋敷建物があったとする記録はないそうですが、岐阜城安土城の事例では信長のための特別な生活空間が主郭部分に設けられていたことが宣教師の記録等で判明しているそうです。


それを根拠として今回発見された2棟の屋敷建物は信長の城館の一部だった可能性があるということです。



上で紹介したように2棟の建物の奥行きが不明でしたが、これはまだ発掘調査が未だ及んでいないためです。今後の調査で織田信長ゆかりの品が発見されるといいですね.。゚+.(・∀・)゚+.゚



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↑同地点より出土した「高級」な遺物(「寺井 半兵衛《お城ばかり》」さんのTwitterより画像を転載)



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↑現地説明会に参加した際に撮影した写真のようです。美しいですね!(*・ω・)ノ(「寺井 半兵衛《お城ばかり》」さんのTwitterより画像を転載)




さて、次は信長も入ったかも知れないお風呂の跡です!



京都市中京区において行われていた発掘調査によって、織田信長が安土桃山時代に造営した二条殿御池城(二条屋敷)の風呂の遺構が見つかりました!



二条屋敷は信長が自身の住まいとして1576年に造営したものです。


池と泉の庭園で有名であった二条家の邸宅を利用して造営されたと考えられ、その規模は約120メートル四方であったと推定されています。



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↑戦国時代のお風呂の跡!(「あめかるの気儘な日記」さんの記事内画像より転載)



上に挙げた写真の黒い部分が炭に覆われた箇所であり、所謂「竈(かまど)跡」です。 

もちろん調理のための竈遺構とは異なります。根拠は検出された位置とサイズです。位置としては庭園に接する配置だったのです。


そして今回見つかったお風呂の遺構のサイズは、東西約7m、南北約6mのという規模で、大型の竈2基と井戸、土間が確認されました。



そのうち竈1基の周囲には風呂屋形(ふろやかた;浴室建物)を支えたとみられる約10個の礎石が確認されています。


恐らく竈に鉄製の桶を置きその上に簀の子をしいて、湯をわかして蒸し風呂にしたと推測しているとのこと。



・・・・・・蒸し風呂?



構造的に「五右衛門風呂」かと思ったや( ・Д・) 平安時代には蒸し風呂だったようで、江戸時代にはお湯に浸かるタイプの入浴が行われています。



でもいつからお湯に入るようになったのかは分かっていないそうです。


常識を覆す男のイメージが強い、織田信長が入浴した最初の日本人だったら面白いですね!.。゚+.(・∀・)゚+.゚




早くも平安時代には町湯(銭湯みたいなもの;江戸時代のような大衆化はしていない&蒸し風呂!)が登場しているそうですが、それでも当時、入浴は贅沢な楽しみでした。



見事な大庭園を望み、客人をもてなすために建てられた可能性があると解釈されていますが、まぁ私の中の信長像としては自分自身も入ったろうと、むしろ率先して入ったのではないかと思います(*・ω・)ノ

 


・・・・・・・・・・・・・・・・・・


正直、戦国時代とか普通に好きなんですけど、詳しくなさ過ぎて特別なこと書けないな~と思って少し避けてました( -д-)ノ


お城好きな人とか、城郭や神社仏閣巡りが好きな人、御朱印集めが好きな人とか色々な方がいますからね。


頑張って今後は様々なものの歴史について触れていきたいなと思っております(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!


↓・・・・・・あ、温泉行きたいな!( ・Д・) 同感な人はぽちっとな!↓


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