あとでお昼寝が必要だ( -д-)ノ
やぱ世の中、金だな!( ・Д・)
「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙
やぱ世の中、金だな!( ・Д・)
戦国時代は人気あっていいな!( ・Д・)
つまり後世の人間活動による破壊を受けているわけですが、古墳の石材をお城の石垣として再利用する事例がこれまでにいくつか確認されています。
こうした古代の遺跡の石材を後世の人が利用する事例は世界的に見られるのですヾ(´ω`=´ω`)ノ
今回のケースでは大塚南古墳から持ち去られた石材が、近くに位置する吉田城の石垣に使われた可能性があるようです。
ちなみに古墳から吉田城までの距離は約8kmということで、ありえそうな距離感ですね(*^・ェ・)ノ
もし出来たらお城の説明として深みが出る!( ・Д・)
また天下人となった家康が駿府城に戻った1607年以降、大御所政治を始めたころ、秀吉時代に築かせた天守閣とともにこれらの武家屋敷や道も埋められた可能性が高いとされています。
「其实地上本没有路,走的人多了,也便成了路」
(訳:実際、地上に道は初めからあるのではなく、多くの人が歩くから、それが路となるのだ)魯迅『故郷』より引用、一部改変(着色・太文字化のみ)
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちにさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため
高村光太郎『道程』より引用、一部改変(着色・太文字化のみ)
同じく日本書紀の推古天皇下の613年に「難波より京に至る大道を置く」とあり、これが日本における道路整備に関する最初の記述です。
上に挙げた図は、7世紀後半に律令制が制定されて広域地方行政区画として定められた五畿七道の図です。
ここから日本で最初の計画的な道路網の整備が始められることとなります。
一方で室町時代は、道路や交通に対する目立つような施策はほとんど見られず、数多くの関所を設けて通行人から通行税をとる政策しか行われなかったようです。
さて、今回の記事と繋がる戦国時代には、各戦国大名にとって物資の往来、敵からの防御が死活問題であったため、軍事面の問題から領内の道路整備や峠の開削が積極的に行われました。
室町時代からの慣習で領国の境には多くの関所が設けられて通行税の徴収が行われるようになっていたましたが、織田信長や豊臣秀吉は天下統一のための支配圏拡大を行っていくにあたり交通路を重要視し、道路改修や橋梁整備を積極的に行い、国の境にあった関所を廃止しました。
2019ねん 1がつ 18にち(きんよーび、雪)
何故だか今日はふと幸せを感じた。
特別何もないのに……
こういう日々が続けばいいなと思う( -д-)ノ
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↑調査現場風景、奥に玉石敷きが見える(「毎日新聞」の記事内画像より転載)
さて、今回の考古学・歴史ニュースは「信長の屋敷とお風呂の跡が見つかった!」です!
私、戦国時代にとても疎い(どこの時代も大体疎いが…)ので今回は二本立ての構成です( ・Д・)……まずはお屋敷の方から!( -д-)ノ
↑発掘が進むと玉石敷きが続いていました(「朝日新聞」の記事内画像より転載; credit: 本間久志)
上に挙げた写真に見られるように西の建物跡には「玉石敷き(たまいしじき)」があり、織田信長本人、あるいはその身内が住んでいた可能性があるとのこと。
また曲輪からは高級品の天目茶碗と青磁の小碗が出土したそうです!
一般的にはどうなんでしょう? やはり「石ころの集中」が見つかるよりも、特殊な遺物が見つかった方がわくわくするのでしょうか?
・・・・・・まぁ私は「高級品」という言葉にわくわくしてますけども( ・Д・)
小牧山城に屋敷建物があったとする記録はないそうですが、岐阜城と安土城の事例では信長のための特別な生活空間が主郭部分に設けられていたことが宣教師の記録等で判明しているそうです。
それを根拠として今回発見された2棟の屋敷建物は信長の城館の一部だった可能性があるということです。
上で紹介したように2棟の建物の奥行きが不明でしたが、これはまだ発掘調査が未だ及んでいないためです。今後の調査で織田信長ゆかりの品が発見されるといいですね.。゚+.(・∀・)゚+.゚
↑同地点より出土した「高級」な遺物(「寺井 半兵衛《お城ばかり》」さんのTwitterより画像を転載)
↑現地説明会に参加した際に撮影した写真のようです。美しいですね!(*・ω・)ノ(「寺井 半兵衛《お城ばかり》」さんのTwitterより画像を転載)
さて、次は信長も入ったかも知れないお風呂の跡です!
京都市中京区において行われていた発掘調査によって、織田信長が安土桃山時代に造営した二条殿御池城(二条屋敷)の風呂の遺構が見つかりました!
二条屋敷は信長が自身の住まいとして1576年に造営したものです。
池と泉の庭園で有名であった二条家の邸宅を利用して造営されたと考えられ、その規模は約120メートル四方であったと推定されています。
↑戦国時代のお風呂の跡!(「あめかるの気儘な日記」さんの記事内画像より転載)
上に挙げた写真の黒い部分が炭に覆われた箇所であり、所謂「竈(かまど)跡」です。
もちろん調理のための竈遺構とは異なります。根拠は検出された位置とサイズです。位置としては庭園に接する配置だったのです。
そして今回見つかったお風呂の遺構のサイズは、東西約7m、南北約6mのという規模で、大型の竈2基と井戸、土間が確認されました。
そのうち竈1基の周囲には風呂屋形(ふろやかた;浴室建物)を支えたとみられる約10個の礎石が確認されています。
恐らく竈に鉄製の桶を置きその上に簀の子をしいて、湯をわかして蒸し風呂にしたと推測しているとのこと。
・・・・・・蒸し風呂?
構造的に「五右衛門風呂」かと思ったや( ・Д・) 平安時代には蒸し風呂だったようで、江戸時代にはお湯に浸かるタイプの入浴が行われています。
でもいつからお湯に入るようになったのかは分かっていないそうです。
常識を覆す男のイメージが強い、織田信長が入浴した最初の日本人だったら面白いですね!.。゚+.(・∀・)゚+.゚
早くも平安時代には町湯(銭湯みたいなもの;江戸時代のような大衆化はしていない&蒸し風呂!)が登場しているそうですが、それでも当時、入浴は贅沢な楽しみでした。
見事な大庭園を望み、客人をもてなすために建てられた可能性があると解釈されていますが、まぁ私の中の信長像としては自分自身も入ったろうと、むしろ率先して入ったのではないかと思います(*・ω・)ノ
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正直、戦国時代とか普通に好きなんですけど、詳しくなさ過ぎて特別なこと書けないな~と思って少し避けてました( -д-)ノ
お城好きな人とか、城郭や神社仏閣巡りが好きな人、御朱印集めが好きな人とか色々な方がいますからね。
頑張って今後は様々なものの歴史について触れていきたいなと思っております(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!
↓・・・・・・あ、温泉行きたいな!( ・Д・) 同感な人はぽちっとな!↓