2019ねん 6がつ 5にち(すいよーび、雨)

今日は激しく雨!

激しい雨音を聞いて、わざわざ外を見に行った。

何故か「最後の雨」のMVみたいに土砂降りの中、外に立って雨に打たれていたい気分になった( ・Д・)


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今回の考古学・歴史ニュースは、「京都の六波羅で、平家一門が築いた堀の跡と石垣が発見されたよ!初めての発見なんだよ!」というお話です(*・ω・)ノ

さて、舞台は京都の六波羅です。

歴史の勉強で習った「六波羅探題」をぱっと思い浮かべる人もいるのではないでしょうか?

「六波羅探題」とは鎌倉時代の職名の一つであり、執権や連署に次ぐ重職でした。

1221年の承久の乱の後に六波羅の南北に設置され、六波羅探題北方・南方のそれぞれに北条氏一族の優秀な人材が就いていました。

実は今回の発見は、この六波羅探題と無関係ではないのです。


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さて、発掘現場は有名な「清水寺」から西に約1kmの地点です。

検出された堀の跡は幅が約3m、深さ約1.3mでした。

断面形態は逆さ台形状で、堀は東西方向に伸び、その全長は約15mの規模でした。


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ところで上に挙げた写真は現場説明会の際のものです。

ぱっと見で、説明会に参加している人の数が多い!

さすが所謂「歴史」は日本人に人気あるなと思います。

特に戦国史とか人気は衰えることを知らないですもんね。

「歴史」時代の考古学には疎いですが、今後なるべく取り上げるようにしますね(*・ω・)ノ


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と言うことで話を戻しますと、写真の左下に様々な遺構(たくさんの穴ぽこがそれです)が検出されているのが分かるかと思います。

そしてその中央部から下部に向かって2本の白線が伸びているのが分かるでしょうか?

それがかつて掘られた溝の跡になっています。

このようにこの遺跡では複数の時期の複数の遺構が複雑に重なっている状態なのです。




上に挙げた写真が検出された堀の跡の写真になります。

写真の手前の深い落ち込みが堀です。

この堀の南側で堤防状の土塁跡が検出され、また堀の西側の約5mが土で埋められており、倒壊防止用の石垣が組まれていることが分かりました。

上の写真で見えているのがその石垣の一部です。

最初に挙げた写真はこの裏側から撮影したものです(下部に再掲)。




上の写真に見られる、この石垣の建造技術としての石材の積み方は、ほぼ同時期の白河天皇陵の石垣のものと類似しているそうです。

城郭考古学なるものを見聞きしたことがありますが、石垣の組み方を分類・類型化して編年を組んでいるということですよね。

そう思うと、お城巡りして石垣見るのも楽しくなりますよね。

今度調べて紹介しますね(*・ω・)ノ

さて、以下に出土した遺物を紹介します。


先に述べましたように、複数の時期の遺構が重なっていますから、様々な出土品が見られます。


*写真は全て『京観心々』(きょうみしんしん)、京都検定1級合格、才蔵ガイドのほっこりしましょ。(管理人:才蔵さん)の記事内画像より転載しております。



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↑石製の笠塔婆①(「『京観心々』(きょうみしんしん)、京都検定1級合格、才蔵ガイドのほっこりしましょ。」さんの記事内画像より転載)




以上の様々な遺物の内、出土した土器や瓦の同定作業によって、今回見つかった堀は有名な「平清盛」の祖父に当たる「平正盛」が邸宅を構えるなど六波羅に拠点を置いた12世紀前半に建造されたものと推定されています。

この当時は世情が不安定で、平家一門を守る目的として設置されたものと考えられています。

このような平家と関係のある遺構が京都、六波羅で発見されるのは初めての事例であり、希少な発見なのです。

その後、1156年の保元の乱や1160年の平治の乱を経て平清盛が政治の実権を握ったことで戦乱が治まりました。

この平正盛によって設置されたと考えられる堀は、承久の乱を経て13世紀前半に鎌倉幕府が朝廷の監視や西国の支配を目的に「六波羅探題」を設けた頃には全て埋め戻されたと推定されています。


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↑残りの良い方形周溝墓(「『京観心々』(きょうみしんしん)、京都検定1級合格、才蔵ガイドのほっこりしましょ。」さんの記事内画像より転載)


さて、最後に、今回の発見の場である六波羅政庁跡は、音羽・五条坂窯跡でもあります。

古くは上の写真に見られるような弥生時代の方形周溝墓が検出されています。

上の写真の事例では発掘調査で方形周溝墓を半裁して断面が見える状態になっています。

また江戸時代には清水焼の生産地として登り窯が設置されていました。

このように複数の時期に帰属する遺構がいくつも重なり、六波羅は今も昔も重要な区域であったと考えられるのです(*・ω・)ノ

・・・・・・あ、そうだ、京都へ行こう!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

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