あるけまや -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

    お金にならない考古学をお金にしよう╭( ・ㅂ・)و ̑̑ グッ ! 考古学・歴史ニュースの決定版╭( ・ㅂ・)و ̑̑ グッ !

    日本

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    2026ねん 8がつ15にち(どよーび、晴れ)

    うぉ~!急遽弟と遊べなくなったから今日も頑張る~!( ・Д・)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



    arukemaya_y964

    ↑いつもより多くふざけております!( ・Д・)





    今回の考古学・歴史ニュースは

    約130年前に富山で見つかった隕鉄から、本当に日本刀『流星刀』を作った人がいる!ぼくのかんがえたさいきょうの『星のうんこ剣』も見て!( ・Д・)」

    ってお話です(*・ω・)ノ




    ☄️ 約130年前、「宇宙の鉄」から本当に日本刀を作った

    富山県で見つかった隕石から作られた日本刀「流星刀」が改めて話題になっている。

    もう名前からして強い。

    流星刀。

    ゲームで入手したら終盤まで使えそうな名前である!( ・Д・)

    ただし、最初に一つだけ修正しておこう。

    「約130年前に富山へ流れ星が落ち、その直後に拾われた」ということが確認されているわけではない。

    材料となった「白萩隕鉄第1号」が発見されたのが1890年頃なのであって、実際に地球へ落下した時期は分かっていない。発見場所も現在の富山県上市町、上市川ダムより上流と考えられているものの、正確な地点までは不明である。重さは約22キログラム、U字形をした鉄隕石だった。

    当初は大阪造幣局へ持ち込まれたものの、ただの鉄塊と判断され、本格的な分析はされなかった。

    ところが1895年、農商務省地質調査所で改めて調べると、鉄隕石特有のウィドマンシュテッテン構造が確認された。

    こうして、

    「そのへんにあった変な鉄の塊」

    から、

    「宇宙からやって来た白萩隕鉄」

    へ昇格したのである。

    ちなみに現在の分類ではIVA型のオクタヘドライトとされている。

    つまり「流れ星を刀にした」という表現はロマンとしては大正解なのだけれど、科学的には、大気中で一瞬光る流星そのものを捕まえたわけではなく、燃え尽きずに地上まで到達した鉄隕石を鍛えた刀なのである。





    arukemaya_y961

    ↑美しいなぁ!( ・Д・)(「wikipedia」の画像より転載)


    ⚔️ 榎本武揚「ロシア皇帝が隕石剣を持ってる? じゃあ日本刀を作ろう」

    この妙な計画を始めた人物が、榎本武揚だった。

    幕末には幕府海軍を率いて箱館戦争を戦い、その後は明治政府で外交官や大臣を務めた人物だが、同時に科学技術、とくに鉱物学や製鉄にも強い関心を持っていた。

    榎本はロシア滞在中、ツァールスコエ・セロー宮殿でロシア皇帝が所有していた隕鉄製の刀剣を目にし、自分でも隕石から刀を作りたいと考えたと伝えられている。

    そして1895年。

    白萩隕鉄が本物の隕石だと分かると、榎本はこれを購入。

    刀工・岡吉国宗に渡して、

    「これで日本刀を作ってくれ」

    という、とんでもない注文をした。

    しかし隕鉄は、そのまま日本刀へ加工するには扱いにくかった。

    そこで試行錯誤しながら日本の鋼と組み合わせ、最終的に1898年、長刀2振、短刀3振の計5振が完成した。

    榎本はこれを「流星刀」と命名した。

    刀身には普通の日本刀とは違う、木目やまだら模様のような独特の肌が現れる。

    今回のニュースでも富山市科学博物館の流星刀について、その模様と「星鉄」の銘が特徴として紹介された。

    なお、これは「100%宇宙の鉄だけで作った剣」ではない。

    隕鉄と地球上の鋼を組み合わせて鍛えた日本刀である。

    でも、

    地球ができる以前から太陽系を漂っていた金属を、

    明治の日本人が火に入れ、

    叩き、

    折り返し、

    日本刀へ変えた。

    と考えれば、十分すぎるほどロマンがある。


    🌠 5振しかない「流星刀」は、科学実験でもあった

    完成した5振のうち、長刀1振は当時の皇太子、後の大正天皇へ献上された。

    もう1振の長刀は現在、東京農業大学に保管されている。

    短刀では富山市科学博物館が1振を所蔵し、別の1振は榎本家ゆかりの小樽・龍宮神社へ奉納されている。

    そして榎本は「珍しい刀できた! やったー!」で終わらなかった。

    1898年12月には「流星刀記事」をまとめ、隕石の意味、日本国内外の隕石、白萩隕鉄の分析、そして隕鉄を刀へ加工した経緯まで記録した。

    榎本にとって流星刀は、工芸品や珍品というだけでなく、

    「宇宙から来た未知の鉄を、日本の製鉄技術でどう扱えるのか?」

    という科学・技術上の実験でもあったのである。

    実際、残された白萩隕鉄そのものも国立科学博物館で保管・展示されている。

    宇宙物質、明治の科学史、日本刀製作史。

    この三つが一個の物に集約されている点が、流星刀のおもしろさなのだ。

    ……ということで流星刀の話はここまで!

    ちゃんとカッコいい話だった。

    でもですね。

    私はさらに強そうな名前の石器産地を知っているのですよ。




    arukemaya_y962

    ↑こう見ると確かに文様が特殊だね!( ・Д・)(「竜宮神社」の画像より転載)


    💩 長野県には本当に「星糞峠」という場所がある

    場所は長野県小県郡長和町。

    霧ヶ峰高原の北東部に、

    「星糞峠」

    という、信じられないくらい良い名前の峠がある。

    読み方はもちろん、

    「ほしくそとうげ」。

    そしてこの名前の「星糞」は、少なくとも江戸時代には黒曜石を指す言葉の一つとして知られていた。地元には、地面いっぱいに散らばるキラキラした黒曜石を「空から落ちてきた星のかけら」と考えたという伝承も残っている。

    つまり現代語の勢いだけで訳すなら、

    星糞

    星のうんこ

    黒曜石

    である。

    ならば黒曜石で刃物を作れば、

    「星のうんこ剣」

    が完成するじゃないですか!( ・Д・)

    ……とはいえ、ここには少しだけ真面目な注釈が必要である。

    昔の「糞」という字には、現在の排泄物だけでなく、掃き散らされたもの、屑のようなニュアンスもあったという説明がある。また江戸期の辞書では「星糞」を石の名称として扱い、隕石を指す用例もあったらしい。

    そして地元の黒耀石体験ミュージアム自身も、語源について完全に分かったわけではないとしている。

    だから、

    「縄文人が黒曜石を星のウンコと呼んでいた」

    と書くのはダメ。

    縄文人が何と呼んでいたかは分からない。

    歴史的に確認できるのは、後世に黒曜石を「星糞」と呼ぶ言葉が存在し、星のかけらが降ったという伝承が生まれていたというところまでである。

    でも「星のうんこ剣」というネタは捨てない!( ・Д・)





    arukemaya_y006

    ↑やぱマヤの黒曜石は一番だぜ!さすがずっと石器時代なだけある……( ・Д・)



    ⛏️ しかも星糞峠、ふざけた名前なのに中身はガチの縄文鉱山

    名前だけ聞くと珍地名で終わりそうだが、考古学的には相当すごい場所である。

    正式名称は、

    「星糞峠黒曜石原産地遺跡」。

    2001年に国史跡へ指定された。

    この周辺の黒曜石は約87万年前の火山活動によって形成されたと考えられている。

    旧石器時代になると、人々は麓の川などで黒曜石を集め、約3万年前から石器材料として盛んに利用した。

    そして縄文時代になると、地表で拾うだけではなく、ついに山を掘り始める。

    星糞峠から虫倉山にかけて、現在確認されている採掘跡は195基。

    範囲は約6.6ヘクタール。

    地表には直径10メートル前後のクレーター状の窪みが並び、その下には直径数メートル、深さ数メートルに達する採掘坑が複雑に重なっている。

    要するにここは、

    「縄文人がたまたま黒曜石を拾った場所」

    ではない。

    本格的な鉱山である。

    発掘では木製の掘り棒や土砂崩れを防ぐ施設まで確認されており、何度も同じ場所を掘り返しながら原石を採取していたことが分かっている。

    しかも黒曜石はここだけで消費されたわけではない。

    霧ヶ峰・和田峠周辺産の良質な黒曜石は、中部・関東を中心に、さらに遠方まで流通した。

    現在では黒曜石に含まれる微量元素などを比較することで、

    「この遺跡の石器は、どこの山から来た石なのか」

    まで産地推定できる。

    つまり星糞峠は、

    縄文時代の採掘、

    加工、

    搬出、

    交換、

    地域間ネットワーク

    を丸ごと研究できる巨大な資源供給拠点なのである。

    名前は星のうんこなのに!( ・Д・)




    arukemaya_y963

    ↑物理系ならこれ強そうだよね、これでFEの流星剣使えば確殺だよ!( ・Д・)


    🗡️ では「星のうんこ剣」は、本当に最強なのか?

    黒曜石は火山ガラスである。

    割れると非常に鋭い縁ができる。

    そのため旧石器・縄文時代には、槍先、鏃、ナイフなど非常に優秀な石器材料として使われた。

    星糞峠の麓でも旧石器時代の石槍が見つかっており、この地域から得た黒曜石が遠方へ持ち運ばれていた。

    だから、

    星糞峠産黒曜石を大量に持ってきて、

    巨大な剣を作る。

    名付けて、

    「星のうんこ剣」。

    流星刀に勝った!( ・Д・)

    ……とはならない。

    黒曜石は鋭い一方で脆い。

    長い日本刀のような形にすると、曲げや衝撃に弱く、金属剣のようにガンガン打ち合う武器には向いていない。

    だから実際の石器では、小さな刃や尖頭器としてその性質を活用する。

    「最強の切れ味」と「最強の剣」は別問題なのである。

    しかし考古学的には、むしろそこがおもしろい。

    流星刀では、

    宇宙から来た鉄

    明治の科学者

    刀工

    日本刀

    という物質の履歴がある。

    星糞峠では、

    火山活動で生まれた黒曜石

    数十万年後に地表へ現れる

    旧石器人が拾う

    縄文人が山を掘る

    石器へ加工する

    数百キロ離れた集落まで運ばれる

    という、とんでもなく長い履歴がある。

    流星刀は「宇宙の物質を人間が刀に変えた物語」。

    星糞峠は「地球が生んだガラスを、人間が何万年も追い続けた物語」。

    方向性は違うけれど、どちらも素材の由来まで知ると急にカッコよくなる。

    ということで、

    流星刀 vs 星のうんこ剣、

    私は後者を推したい!( ・Д・)

    名前だけなら圧勝である。




    ob.exentric_001

    ↑魔法系ならこっちかな!( ・Д・)




    🌽 おわりに――いや、やっぱりマヤのエキセントリックが最強だわ

    ……と思ったけれど。

    石器の「変なカッコよさ」で勝負するなら、最後に古代マヤを出しておきたい。

    古代マヤには「エキセントリック」と呼ばれる、とんでもなく複雑な形へ打ち欠いた燧石・黒曜石製品がある。

    人間の横顔。

    神。

    動物。

    ギザギザした刃。

    普通のナイフとして使うには明らかに変な形。

    実用品というより、儀礼や王権と結び付いた特別な石器と考えられている。実際、古典期マヤには人間や神々の横顔を幾重にも組み合わせた30センチ級の燧石製エキセントリックまで存在する。

    黒曜石製のエキセントリックも確認されている。

    ということで最終結果。

    流星刀。

    カッコいい。

    星のうんこ剣。

    名前が強い。

    マヤのエキセントリック。

    形がおかしい。

    ……うん。

    やっぱりマヤが最強だな!( ・Д・)




    なにはともあれ……

    いくつになってもうんこって言いまくると何故かテンション上がるぜ!うんこ!( ・Д・)








    ↓マヤ遺跡の調査速報等をアップしてます!↓
    ↓祝!登録者数1000人突破!↓
    ↓逃避行動で実験考古学キャンプとかゲーム実況もやってるよ!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!↓

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    2026ねん 7がつ24にち(きんよーび、曇りからの雨?)

    最近、おなか痛い!なぜ?( ・Д・)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



    arukemaya_y869

    ↑新しい時期の考古学にも興味津々になってきた!( ・Д・)





    今回の考古学・歴史ニュースは

    京急川崎駅から徒歩数分の新アリーナ建設地で、教習所の舗装を取り除いていたらレンガ造りの水路らしい構造物が現れて、まだ年代も用途も確定していないけれど、大正から昭和初期に川崎が巨大な工業都市へ変わっていった、その足元の歴史を伝える遺構かもしれないぞ( ・Д・)」

    ってお話です(*・ω・)ノ




    📰 はじめに

    アスファルトを剥がす。

    その下の土を取り除く。

    すると地中から、規則正しく積まれた赤褐色のレンガが現れた。

    場所は、山奥でも古い集落でもない。

    京急川崎駅から徒歩数分。

    電車の音が絶えず響き、多くの人が東京、横浜、羽田空港方面へ行き交う、現在の川崎市中心部である。

    ここでは、プロバスケットボールチーム・川崎ブレイブサンダースの新たな本拠地となる、1万人以上収容のアリーナを中核とした都市開発が計画されている。

    最先端の環境技術。

    スポーツと音楽。

    屋上公園。

    多摩川との連携。

    2030年に向けた「未来の川崎」を作ろうとしている、その建設予定地の地下から、今度は「過去の川崎」が姿を現したのである。

    発見されたのは、レンガを積んで造られた細長い構造物。

    現在のところ、水を流すための水路だった可能性があると考えられている。

    過去の地形図などを照合すると、大正時代に存在した工場敷地内の水路ではないかという。

    ただし、まだ正式な年代も、所有した工場も、流れていた水の種類も分かっていない。

    工業用水だったのか。

    排水路だったのか。

    雨水を逃がす暗渠だったのか。

    工場から出た廃水を運ぶ設備だったのか。

    あるいは、現在考えられているものとは別の施設なのか。

    私たちの目の前に現れたのは、「大正時代の水路」という答えではない。

    川崎が宿場町から工業都市へ変わっていった時代について、新たに投げかけられた問いなのである!( ・Д・)


    🏀 発見場所は、2030年開業予定の新アリーナ建設地

    レンガ構造物が見つかったのは、川崎市川崎区駅前本町にある「Kawasaki Arena-City Project」の予定地である。

    DeNAと京浜急行電鉄が共同で進める計画で、京急川崎駅に隣接する地域へ、川崎ブレイブサンダースのホームアリーナを含む複合施設を建設する。

    現在の計画では、アリーナは1万人以上を収容でき、屋上には大規模な公園を設置する。

    周辺地域や多摩川河川敷との連携も進め、年間約330万人の来訪を見込む都市拠点として、2027年中にアリーナ本体の建設を始め、2030年10月に開業する予定である。

    予定地には以前、自動車教習所「KANTOモータースクール川崎校」があった。

    教習所は2024年3月に営業を終え、その後、期間限定のスポーツ施設としても利用された。

    2025年11月以降、舗装などを撤去する敷地整備が進められ、その途中の2026年4月末、地中からレンガ造りの構造物が偶然発見された。

    つまり、考古学者が「ここに遺跡がある」と予測して掘り始めた調査ではない。

    未来のアリーナを造るため、現代の教習所を解体していたところ、その下にさらに古い土地利用の痕跡が残っていたのである。





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    ↑ほんとに街中だし多摩川の横だね!( ・Д・)(「川崎アリーナ」の計画紹介ページより転載)


    🔍 2026年7月、川崎市も現地を確認した

    発見後、DeNA側は適切な調査を行い、今後の取り扱いを検討すると説明した。

    川崎市教育委員会文化財課も2026年7月15日に現地を訪れ、構造物の状態を確認している。

    現在公表されている情報では、過去の地形図などから、ここが大正時代に工場敷地として利用されており、構造物はその内部に設けられた水路である可能性が考えられている。

    しかし、「大正時代の工場水路」として正式に確定したわけではない。

    川崎市市民ミュージアムの研究者は、レンガ構造物としては比較的新しく、大正から昭和初期頃という印象を示している。

    これは写真や構造を見た段階での暫定的な見解であり、製作年代を示す銘板や記録が発見されたという意味ではない。

    新聞報道の見出しにある「大正期か」という最後の一文字――。

    この「か」が非常に大切なのである。


    ⚠️ 「水路」なのかどうかも、まだ調査中

    細長く、内部に空間があり、水が通りそうな構造だから、水路と考えるのは自然である。

    けれども、近代工場の地下にはさまざまな設備が造られていた。

    原材料を洗う水を運ぶ給水路。

    機械を冷却した水を流す排水路。

    雨水を敷地外へ出す側溝。

    生活排水や工場廃水を流す下水道。

    蒸気管や配線を通す共同溝。

    湿地を乾燥させるための暗渠排水。

    現在は同じような形に見えても、造られた目的は大きく異なる。

    水路の傾斜を測れば、どちら側へ水が流れていたのかが分かる。

    内壁に付着した泥、砂、石灰質、水垢、油、化学物質などを調べれば、どのような水を流していたのか推測できるかもしれない。

    周囲に工場建物の基礎、機械台、配管、井戸、排水桝などが残っていれば、工場内での役割も見えてくる。

    現時点で言えるのは、

    レンガ造りの、水路とみられる構造物が発見された

    というところまでである。


    🌊 川崎は、もともと「水の町」だった

    現在の川崎駅周辺を見ると、ビル、商業施設、道路、鉄道が隙間なく並んでいる。

    しかし、この都市の歴史を考えるうえで、水は欠かせない。

    北には多摩川が流れ、東側には東京湾が広がる。

    市域には二ヶ領用水をはじめとする用水路が巡り、かつての低地には水田、湿地、旧河道、排水路が存在していた。

    「川崎」という地名そのものも、川に囲まれた土地の景観を思わせる。

    水は農業を支えた。

    物資を運んだ。

    工場へ原料を届けた。

    製造工程に使われた。

    一方で、洪水や浸水を起こし、湿地を乾かすための排水設備も必要とした。

    今回発見された水路が工場設備だったとしても、その背景には、それ以前から続いていた低地の水管理や古い水路網が影響している可能性がある。

    レンガ水路だけを孤立した建築物として見るのではなく、多摩川、旧河道、農業用水、工場用水、都市下水という長い「水の歴史」の中へ置く必要があるのだ。


    🍵 工業都市になる前の川崎は、東海道の宿場町だった

    江戸時代の川崎は、東海道の宿場として知られていた。

    ただし江戸の日本橋から比較的近く、旅人が必ず一泊する大宿場だったわけではない。

    江戸を早朝に出発すれば、昼前後には川崎へ着いてしまう。

    そのため川崎宿は、宿泊地としてよりも、多摩川を渡る前後の休憩地点として機能した面が大きかった。

    江戸時代後期になると、厄除けで知られる川崎大師への参詣者が増えた。

    川崎宿で休み、多摩川沿いの道を通って寺へ向かう人々が、地域の商業を支えた。

    名物の奈良茶飯を出す大きな茶屋も存在した。

    当時の周辺には、田畑、果樹園、海苔養殖地、材木置き場などが広がっていた。

    多摩川上流から切り出された木材は筏に組まれ、川を下って川崎を経由し、江戸方面へ運ばれた。

    川崎は工業化する以前から、水運と交通によって外部世界につながる土地だったのである。





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    ↑見つかったのはこのレンガ造りの水道管みたいな構造物!( ・Д・)(「NEWS.jp」の記事内画像より転載)


    🚂 1872年、鉄道が川崎の時間を変えた

    川崎の景観を大きく変えた最初の近代インフラは、鉄道だった。

    1872年、新橋と横浜を結ぶ日本最初期の鉄道が開業し、途中駅として川崎駅が設けられた。

    東京と横浜を結ぶ国家的交通路の上に置かれたことで、川崎を通過する人と物の量は急増した。

    川崎大師の縁日には臨時列車が運転されるほど、多くの参詣者が訪れるようになった。

    その後、大師参詣客を運ぶために大師電気鉄道が生まれた。

    これが現在の京急電鉄へつながる鉄道である。

    当初は多摩川の六郷橋付近と川崎大師を結んでいたが、やがて川崎の町中へ乗り入れ、東京、横浜方面へ路線を延ばしていった。

    今回の発見場所は、その京急川崎駅のすぐ近くにある。

    言い換えれば、近代川崎を作った鉄道の隣で、同じ時代の工場インフラらしい構造物が見つかったことになる。


    🏭 明治末、川崎は工場を呼び込んだ

    明治初期の川崎周辺は、駅ができたとはいえ、まだ農村的景観を多く残していた。

    この状況を変えたのが、明治末から大正期にかけて進められた工場誘致である。

    当時の川崎町長・石井泰助らは、川崎が東京と横浜の間にあり、鉄道と多摩川を利用できる点へ注目した。

    東京では人口と産業が増え、都心部の広い工場用地が不足しつつあった。

    川崎なら比較的広い土地を確保できる。

    鉄道で製品を運べる。

    多摩川の水を工業用水に使える。

    川や東京湾を通じて原料を船で運ぶこともできる。

    こうして川崎町は、工場を積極的に誘致する方針を打ち出した。

    1906年には川崎駅西側へ横浜精糖の工場が進出した。

    その後、電球や電気製品を製造する東京電気、蓄音機とレコードを作る日本蓄音器商会、調味料を製造する味の素、紡績会社などが相次いで川崎へ工場を建設した。

    今回の構造物が大正期のものなら、まさに川崎の土地へ工場が急速に広がっていた時代に造られたことになる。


    💧 工場を動かしたのは、機械だけではなく水だった

    近代工場の写真を見ると、煙突、巨大な機械、鉄骨、鉄道引き込み線などが目立つ。

    けれども、多くの工場は大量の水なしには操業できなかった。

    食品工場では原料や設備を洗う。

    紡績工場では繊維の洗浄や湿度調整に使う。

    製糖工場では原料を溶かし、加熱し、冷却する。

    金属、化学、電気関係の工場でも、冷却、洗浄、蒸気発生などに水が必要になる。

    使った水は、そのまま工場内へ置いておけない。

    安全に外へ排出するため、給水路、排水溝、下水管、沈殿槽などが造られた。

    多摩川沿いへ工場が集中した理由には、水運だけでなく、工業用水を確保しやすいという事情もあった。

    大正期の企業資料には、多摩川へ近いことや、必要であれば運河を造って工場へ接続できることが、川崎進出の利点として語られている。

    今回のレンガ水路は、工場の看板でも、製品でもない。

    しかし、それがなければ工場の生産自体が成り立たなかった可能性がある。

    目立たない排水施設こそ、工業都市の日常を支えた設備だったのである。


    🧱 なぜ水路をレンガで造ったのか

    日本では近世まで、建築や水路に木、石、土が多く使われていた。

    明治時代になると、西洋の建築・土木技術とともに、焼成レンガ、鉄、ガラス、セメントなどの材料が本格的に導入された。

    レンガは規格化された部材を積み上げられ、圧縮する力に強い。

    壁だけでなく、円形やアーチ形の天井を組み、地中の下水道や暗渠を覆うこともできた。

    土だけの水路より崩れにくく、木材のように腐りにくい。

    石材ほど一つひとつが大きく重くないため、都市や工場の地下設備へ利用しやすかった。

    明治から大正期には、工場、倉庫、鉄道施設、橋台、トンネル、下水道、護岸などで、レンガ造りが広く採用された。

    文化庁は、幕末から第二次世界大戦期までに造られ、日本の産業、交通、土木の近代化へ貢献した施設を「近代化遺産」と位置付けている。レンガは、その時代を代表する材料の一つである。

    ただし大正末から昭和へ進むと、鉄筋コンクリートが急速に普及する。

    レンガだけで造る構造物は次第に減り、コンクリートと組み合わせて使われるようになる。

    そのためレンガの種類、積み方、モルタル、コンクリートの有無を調べれば、大まかな建設年代を絞り込める可能性がある。





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    ↑今でも多摩川沿いにレンガ造りの護岸壁が残っている!( ・Д・)(「川崎市」のHP内画像より転載)


    📏 レンガの積み方は、時代を読む手掛かりになる

    レンガ構造物を調査するとき、考古学者や建築史研究者は、単に「赤いレンガがある」と記録するだけではない。

    レンガ一個の長さ、幅、厚さを測る。

    長い面と短い面をどのように並べたかを見る。

    縦横の目地がどの位置で重なるかを記録する。

    アーチの組み方を調べる。

    レンガ同士をつなぐモルタルを採取する。

    表面に刻印があれば、製造工場を探す。

    明治、大正、昭和初期では、レンガの規格や製造方法、積み方に変化がある。

    工場ごとに刻印を押した製品も存在する。

    レンガだけでなく、目地へ使われた石灰モルタルやセメントの成分も、年代を判断する材料となる。

    一方、古いレンガを再利用して後の時代に水路を造ることもある。

    レンガが大正期の製品だからといって、構造物も必ず大正期とは限らない。

    材料の年代と建設の年代を分けて考える必要がある。


    🗺️ 古地図は、地下の構造物へ名前を与える

    現在の川崎駅周辺は、再開発によって土地の区画や建物が何度も変わっている。

    工場がなくなり、教習所になり、さらにアリーナへ変わろうとしている。

    地表だけを見ていても、過去の敷地境界は分からない。

    そこで重要になるのが、古地図、地形図、土地台帳、工場配置図、火災保険図、営業案内、航空写真などである。

    川崎市は、1880年以降に作られた地形図を所蔵し、過去の地形や土地利用を調べる資料として公開している。国土地理院にも各年代の地形図や空中写真が残されている。

    まず、発見された水路の正確な位置と方向を測る。

    その線を大正、昭和初期の工場図面へ重ねる。

    工場建物の外周に沿っているのか。

    多摩川へ向かっているのか。

    道路下の公共下水へ接続するのか。

    製造棟、ボイラー室、貯水槽などへ延びているのか。

    図面上の一本の線と、地中のレンガ水路が一致すれば、その施設の名称や用途が判明する可能性がある。

    今回、過去の地形図などから工場敷地内の水路と推定されているのも、このような照合によるものとみられる。

    ただし、現在までに工場名や図面上の施設名称は公表されていない。

    ここで勝手に近隣の著名企業と結び付けてしまうのは危険である。


    🧪 水路に残った「汚れ」が最も大切かもしれない

    レンガの見た目がきれいかどうかは、考古学的価値と関係しない。

    むしろ内壁へこびり付いた汚れの方が重要な場合がある。

    砂と泥が層状に積もっていれば、流れの速さや洪水を考えられる。

    白い付着物があれば、水に含まれた鉱物が沈着した可能性がある。

    油分や重金属、化学物質が残っていれば、工場排水だった可能性が高まる。

    植物の種、花粉、珪藻、昆虫の殻などが残っていれば、周辺環境や水源を復元できることもある。

    もちろん、現代の教習所や解体工事に由来する物質が混ざっている可能性もある。

    どの付着物が構造物の使用中に形成され、どれが廃棄後に入り込んだのかを、層ごとに判断しなければならない。

    水路の底に積もった数センチの土が、工場名の書かれた看板以上に、施設の本当の用途を語るかもしれないのである。


    🏙️ 大正時代、川崎の人口と市街地は急膨張した

    工場が増えると、そこで働く人々が全国各地から移住してきた。

    住宅が建つ。

    商店が増える。

    道路、学校、病院、水道、下水、交通機関が必要になる。

    川崎町では人口増加に対応するため、上水道の整備や耕地整理、道路区画の再編が進められた。

    大正末の地図を見ると、市街地に隣接する地域へ碁盤目状の道路が造られ、農地だった場所が計画的な都市空間へ変わっていく様子が分かる。

    1924年、川崎町、大師町、御幸村が合併し、人口約5万人の川崎市が誕生した。

    つまり今回の水路が大正期に造られたものなら、それは単に一工場の設備ではない。

    川崎という自治体が現在の都市へ生まれ変わろうとしていた、まさにその時代の構造物なのである。

    水路を流れていた水の向こう側には、増え続ける工場労働者、住宅、道路、都市行政の姿まで見えてくる。


    🌍 同じ時代、世界でも地下インフラが都市を変えていた

    19世紀後半から20世紀初頭、世界各地の工業都市では、上下水道、地下排水路、鉄道、ガス管、電力網などの整備が進んだ。

    人口が急増する都市では、雨水や汚水を安全に排出しなければ、道路の冠水、悪臭、感染症、工場操業の停止につながる。

    そのため地上の記念建築だけでなく、地下へ巨大なレンガ下水道や暗渠が造られた。

    産業遺産を扱う国際組織TICCIHは、工場や機械だけでなく、エネルギー、水、交通を支えたインフラも産業遺産に含めている。

    産業考古学とは、建物、遺物、地層、文書、集落、都市景観を組み合わせ、産業によって作られた過去と現在を研究する学問である。

    今回の発見自体を独自取材した海外報道は、現在のところ確認できない。

    しかし川崎の小さなレンガ水路は、ロンドン、マンチェスター、ベルリン、ニューヨークなど、近代工業都市の地下へ造られたインフラと同じ世界史的変化の中に位置付けられる。

    近代化とは、地上へ工場の煙突が立つことだけではない。

    見えない地下へ水と排水の網が張り巡らされることでもあった。


    🏗️ 川崎には、別のレンガ産業遺産も残っている

    今回の発見地点から多摩川を挟む周辺地域には、近代川崎の水運と工業を伝えるレンガ構造物が残されている。

    川崎駅西側に建設された旧横浜精糖・明治製糖の工場では、多摩川沿いにレンガ造りの護岸壁が設けられた。

    川を船で運ばれてきた原料は、「テルファー」と呼ばれる移動式クレーンによって陸揚げされ、工場内へ運ばれた。

    そのレンガ護岸の一部は現在も残っている。

    多摩川沿いには、大正13年頃の鉄筋レンガ造りとされる護岸や、昭和初期の川崎河港水門など、都市と工場の水利用を物語る近代土木遺産も存在する。

    もちろん、今回の水路が旧明治製糖やこれらの施設と直接つながっていたという証拠はない。

    ただし、川崎でレンガが工場、水運、護岸、水路へ用いられていたことを示す比較資料にはなる。

    レンガ水路は、孤立した珍品ではなく、川崎を「水と工場の都市」にした技術体系の一部だった可能性がある。


    🌏 1923年の関東大震災を越えたのか

    大正期の構造物を考えるとき、避けられないのが1923年の関東大震災である。

    川崎の工場や住宅も大きな被害を受けた。

    旧明治製糖川崎工場は壊滅的な被害を受け、その後、最新設備を備えた工場として復興している。

    今回のレンガ水路が震災以前に造られたのか、震災後の復興時に造られたのかで、意味は変わる。

    震災前の設備を修復して使い続けたのか。

    倒壊した工場の再建時に、新たな排水路を設けたのか。

    ひび割れや補修跡はあるか。

    途中から異なるレンガやコンクリートへ交換されていないか。

    一つの水路の壁面に、震災前の建設、被害、補修、再利用という複数の時期が刻まれている可能性もある。

    研究者が示した「大正から昭和初期」という年代幅は、まさに震災と都市復興をまたぐ時期なのである。


    🗿 100年前でも、考古学の対象になるのか

    「考古学」というと、縄文土器、古墳、城跡など、何百年、何千年前の遺跡を想像しやすい。

    大正時代なら写真も地図も新聞も残っている。

    まだ100年ほどしかたっていない。

    それでも、十分に考古学の対象となる。

    文書には、企業が公式に残した計画や成功が記録されやすい。

    一方、実際にどのように施工し、どこを修理し、何を捨て、どの設備を使い続けたかは、必ずしも書類へ残らない。

    設計図と実際の構造物が異なる場合もある。

    公式記録から消えた小さな工場、下請企業、現場労働者の仕事もある。

    地中の水路は、計画書ではなく、実際に造られ、使用された設備である。

    レンガの不揃いな積み方。

    急いで補修した跡。

    内壁に残る水垢。

    現場で再利用された古い部材。

    こうした物的証拠は、文書だけでは見えない「働く現場」を伝える。

    近代考古学は、記録がある時代だから不要なのではない。

    文書と物質を比較できるからこそ、より強力なのである。


    📚 日本で近代化遺産が注目されたのは、比較的新しい

    長いあいだ文化財保護の中心となったのは、寺社、城郭、古民家、美術品、古代・中世の遺跡だった。

    工場、倉庫、鉄道橋、発電所、下水道などは、古くなれば撤去される実用品と見なされやすかった。

    しかし高度経済成長を経て、明治・大正期の工場施設が急速に姿を消すと、それらも日本の近代化を伝える歴史資料であるという認識が広がった。

    文化庁は1990年代以降、各地の近代化遺産を把握する総合調査を進め、産業、交通、土木に関する建造物の保存と活用を検討してきた。

    現在ではレンガ工場、鉄道施設、炭鉱、橋梁、ダム、水道施設などが重要文化財や登録有形文化財となっている。

    ところが、地上に大きく残る建物に比べ、地下の排水路や工場内側溝は見つけにくい。

    地図にも名前が記載されない。

    使われなくなれば埋められ、その上に新しい施設が建つ。

    今回の発見は、文化財として目立ちにくい近代インフラを、どう記録し評価するのかという問題も投げかけている。


    ⚖️ そこは「周知の埋蔵文化財包蔵地」ではなかった

    川崎市によると、発見場所は周知の埋蔵文化財包蔵地には該当していない。

    そのため、通常の遺跡範囲内で工事を行う場合と同じ法的手続きが、自動的に求められる場所ではなかった。

    市は事業者へ協力を求め、現地を調査する機会を作りたいとしている。

    ここには近代遺跡保護の難しさが表れている。

    縄文集落や古墳なら、過去の発見記録から遺跡範囲が地図へ登録されている場合が多い。

    しかし近代工場の地下設備は、文化財調査の対象として認識されないまま、都市開発を重ねていることがある。

    工場が閉鎖され、図面が散逸すれば、どこに水路があったかも分からなくなる。

    知られていないから遺跡地図に載らない。

    遺跡地図に載らないから、工事前の調査対象にならない。

    工事で初めて見つかったときには、既に一部が壊れている可能性もある。

    今回、事業者が発見を公表し、市が現地確認へ入ったことは、近代都市の地下遺産を考えるうえで重要な事例となる。


    🚧 保存するか、記録して撤去するか

    レンガ水路が古いと判明しても、必ずその場へ永久保存しなければならないとは限らない。

    新アリーナは巨大な基礎を必要とする。

    構造物の位置によっては、建物計画との両立が難しい可能性がある。

    一方で、発見された部分をすべて壊してしまえば、二度と調査できない。

    現実的には、いくつかの選択肢が考えられる。

    構造物を現地に残し、その上を保護して建設する。

    計画の一部を変更し、見学できる状態で保存する。

    代表的な一部分を切り取って移設する。

    三次元計測、写真、図面、試料採取を行ったうえで撤去する。

    取り外したレンガを、新施設の展示や外構へ再利用する。

    最適な方法は、年代、希少性、保存状態、全体規模、工事への影響を調べた後でなければ決められない。

    「古いから全部残す」と「工事の邪魔だから全部壊す」の間には、さまざまな記録・保存方法がある。


    🏟️ 新アリーナで、古い水路を語ることはできるか

    今回の構造物が、川崎の工業化を伝える重要な遺構だと確認されたなら、新しいアリーナの中で紹介する方法も考えられる。

    例えば、保存したレンガの一部を展示する。

    水路の位置を床面へ線で示す。

    発掘時の三次元映像を公開する。

    旧工場、教習所、アリーナへと変わった土地利用を年表にする。

    多摩川から工場へ水と原料が運ばれた仕組みを解説する。

    2030年の環境技術と、1920年代の水管理技術を同じ場所で比較する。

    現在のプロジェクトは、環境、資源循環、水、持続可能な都市づくりを重要なテーマとしている。

    その地下から昔の水路が出てきたのは、奇妙な偶然でもある。

    未来の水利用を考えるアリーナが、過去の工場を支えた水路の記憶も受け継ぐなら、土地の歴史と新開発を結び付ける象徴的な展示になり得る。


    🔬 これから調べるべき十のこと

    今回の構造物の正体へ近づくには、少なくとも次のような調査が必要になる。

    第一に、水路全体の位置、長さ、幅、深さ、方向を測る。

    第二に、水が流れる勾配を確認する。

    第三に、レンガの寸法、積み方、焼成状態、刻印を記録する。

    第四に、モルタルやコンクリートの材料を分析する。

    第五に、底へ堆積した泥や付着物を採取する。

    第六に、水路と接続する建物基礎、配管、排水桝を探す。

    第七に、大正・昭和期の地形図と重ねる。

    第八に、土地台帳、企業名簿、工場配置図、新聞広告を調べる。

    第九に、震災や戦災、教習所建設時の補修・切断跡を確認する。

    第十に、構造物が一時期に造られたのか、増設と改修を繰り返したのかを見極める。

    その結果、「大正期の工場水路」という現在の仮説が支持されるかもしれない。

    昭和初期の排水施設と判明するかもしれない。

    あるいは工場以前の農業水路を、後にレンガで改修したものかもしれない。

    最初の見立てと異なる答えが出ても、それは失敗ではない。

    調査によって思い込みが修正されることこそ、考古学の役割である。


    🧱 レンガ一枚から、誰の仕事が見えるのか

    巨大工場の歴史では、企業名、経営者、発明、主力製品が語られやすい。

    けれども工場を実際に成立させたのは、名も残らない多くの人々だった。

    湿った地面を掘る人。

    レンガを運ぶ人。

    モルタルを練る人。

    狭い溝の中で一枚ずつ積む人。

    水路の勾配を測る技師。

    詰まりを取り除く作業員。

    汚れた排水路へ入り、補修する人。

    今回の構造物に会社名が書かれていなくても、レンガの表面には彼らの仕事が残っている。

    厚さの違う目地。

    少しずれたレンガ。

    後から埋められた穴。

    急いで直した部分。

    設計図には現れない施工の癖が、約100年後まで残っているかもしれない。

    産業考古学が研究するのは、巨大企業の成功物語だけではない。

    工場と都市を日々動かした、普通の労働者の物質的な痕跡でもある。


    🚉 毎日通る駅の下にも、歴史は眠っている

    今回のニュースが魅力的なのは、発見場所が遠い遺跡ではないからだ。

    京急川崎駅から数分。

    通勤や通学で毎日通る人もいる。

    教習所へ通った記憶を持つ人もいる。

    数年後には、バスケットボールや音楽ライブを楽しむ人々が集まる。

    その同じ土地が、大正期には工場だった可能性がある。

    さらにさかのぼれば、水田や湿地、旧河道に近い土地だったかもしれない。

    地面の上では、工場が教習所に変わり、教習所がアリーナへ変わる。

    地面の下には、それぞれの時代が完全には消えず、薄い層となって積み重なる。

    考古学的な時間は、古代で終わらない。

    昨日取り壊された建物も、今日地中へ残れば、未来の歴史資料になる。


    ✨ 未来を造る工事が、過去の都市を見つけた

    2030年、京急川崎駅の隣には、新しいアリーナが建つ予定である。

    大勢の観客が集まり、歓声を上げる。

    屋上では人々が憩い、多摩川から風が吹く。

    最先端の環境技術によって、未来の都市モデルを目指す。

    けれども、その未来を造るために地面を開いたとき、約100年前の技術が現れた。

    赤いレンガを積み、水を流した人々がいた。

    川崎へ工場が集まり、全国から労働者が移り住み、宿場町が工業都市へ変わった時代である。

    現時点では、構造物が本当に大正期なのかは分からない。

    何という工場が造ったのかも分からない。

    何の水を流したのかも分からない。

    だからこそ、今の段階で丁寧に記録する必要がある。

    派手な宝物ではない。

    人骨も土器も出ていない。

    ただの古い排水路に見えるかもしれない。

    しかし都市は、宮殿や記念碑だけで動いているのではない。

    道路。

    鉄道。

    配管。

    排水路。

    名もない地下設備の網によって支えられている。

    このレンガ水路が語るのは、一企業の歴史だけではない。

    多摩川の水を使い、鉄道で人と物を運び、工場と住宅を急速に広げながら、現在の川崎へ変わっていった都市そのものの歴史である。

    新アリーナの地下で見つかったのは、100年前の古い穴ではない。

    未来の川崎を支える地面の中に、今も残っていた「工都の血管」なのだ!( ・Д・)





    なにはともあれ……

    昔は興味なかったけど最近こうした新しい遺構・遺物も好き!( ・Д・)








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    2026ねん 5がつ7にち(もくよーび、晴れ)
    GW、たくさん休んでしまった!( ・Д・)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


    arukemaya_y625
    ↑鉄製品良く残ったねぇ!( ・Д・)




    今回の考古学・歴史ニュースは国内最古かもしれない弥生時代ののこぎりが福井の林・藤島遺跡で見つかって、しかも玉づくりに使われた可能性があるらしい!( ・Д・)」ってお話です(*・ω・)ノ



    📰 はじめに


    のこぎりって、現代ではあまりにも当たり前の道具だから、考古学ニュースとして聞くと少し地味に見えるよね。

    でも今回の話は、たぶんそんなに地味ではない。
    というのも、福井市の林・藤島遺跡で見直された鉄製品1点に、保存処理の過程で鋸歯がはっきり確認され、弥生時代の鉄製鋸である可能性が出てきたからだ。もしこれが妥当なら、日本列島でこれまで最古とされてきた古墳時代前期の鋸より古く、鋸の導入時期が弥生時代後期までさかのぼることになる。しかもこの遺跡は、ただの集落ではなく、玉づくり工房をともなう大規模集落なんだよね。


    つまり今回の話は、
    「古いのこぎりが出ました」
    で終わらない。

    むしろ大事なのは、
    弥生時代の北陸で、玉づくりみたいな精密な手工業に鉄の工具がどう入り込んでいたのか、
    そこが急に具体的になってきたことなんだよね。


    arukemaya_y628
    ↑遺跡の全景、フィルムで撮った?って思うくらい古い印象!( ・Д・)(「魚津知克らによる資料報告」の第1図より転載)


    🌏 まず、弥生時代ってどんな時代だったのか

    弥生時代は、水稲農耕の広がりとともに、中国大陸や朝鮮半島を経由して鉄器が入ってくる時代として知られている。だいたい紀元前300年ごろから300年ごろまでの時期とされ、北部九州に現れた新しい文化が東へ広がっていったと説明されている。つまりこの時代は、田んぼの時代であると同時に、外から入ってきた新しい技術が日本列島の各地でローカルに組み替えられていく時代でもあるんだね。


    しかも弥生時代後期になると、地域どうしのまとまりと交流がかなり強くなっていく。
    1・2世紀ごろには、中国大陸、朝鮮半島、日本列島各地の結びつきが濃くなり、外部との交渉を担うような特別な人びとも現れてくると整理されている。だからこの時代の工房や工具の話は、単なる職人仕事の話ではなく、広域交流の中で何が伝わり、どこで高度化したのかという話にもつながってくるんだよね。


    💎 その弥生時代に、玉づくりはかなり重要だった

    弥生の玉というと、ついアクセサリーくらいに見えがちなんだけど、実際にはかなり重要です。

    勾玉や管玉は、弥生時代になると有力者の墓に副葬されるようになり、青銅器などと並んで「力」の象徴としての意味を持つようになっていく。とくに貴重な石材で作られた玉を持つことは、遠隔地との交渉力や入手力を示すことでもあったらしい。さらに日本海側では、碧玉やヒスイなどをめぐる交流が強く、北陸の玉づくりはかなり広域のネットワークの中に置かれていたことが分かっている。


    だから玉づくりの工房って、単なる町工場ではないんだよね。
    そこには原石の確保、切断、穿孔、研磨、流通まで含めた高い技術とネットワークが必要になる。
    北陸の事例でも、2300年前には硬い碧玉を切断し、細い孔をあける高度な加工技術が成立していたことが語られている。つまり今回の福井の話は、弥生の工芸技術の中でも、かなり“精密機械寄り”の現場の話なんだ。



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    ↑明らかにのこぎりだね!( ・Д・)(「魚津知克らによる資料報告」の第2・3図より転載)


    🏺 林・藤島遺跡って、そもそもどんな遺跡なのか

    林・藤島遺跡は、福井市泉田町、九頭竜川中流域左岸の自然堤防上にある複合遺跡で、縄文時代晩期、弥生時代後期から古墳時代、さらに鎌倉時代の遺構を含んでいる。その中でも特に注目されてきたのが、弥生時代後期の玉づくり工房をともなう大規模集落だね。発掘では、竪穴住居や平地住居、掘立柱建物、土坑、溝などに加えて、玉の完成品・未成品・石材・砥石、そして大量の鉄製工具が出土している。こうした出土品の一部944点は、国の重要文化財にも指定されている。


    しかもこの遺跡、玉づくりの工程がかなり見える。
    細い錐は管玉に孔をあけるため、鏨は原石を割って角柱状に加工するために使われたと考えられていて、北陸の玉づくり工具が石製から鉄製へ移っていく様子をかなり具体的に示している。福井県側も、この遺跡を日本海側一帯の中でも高水準の生産技術を示す例として位置づけているんだよね。


    🔍 そして今回、その中から“のこぎりらしい鉄製品”が見えてきた

    今回おもしろいのは、この資料が最初から「のこぎり」として知られていたわけではないところだ。

    保存修理の過程でX線透過画像を撮ったところ、鉄製品1点に明瞭な鋸歯が見つかった。発掘報告書ではもともと「鋸歯が刃部すべてにある鎌」とされていたものだったけれど、X線やCTスキャンで細部を見直したことで、のこぎりとして再評価できる可能性が出てきたわけだ。こういうの、かなり好きなんだよなあ。昔の発掘品が、新しい観察技術で別の顔を見せるやつ。


    資料そのものは、保存修理後の現状で長さ4.1センチ、最大幅2.1センチ、厚さ1ミリほど。折れ曲がりを元に戻すと、少なくとも5.7センチ以上の、先端が尖る「くちばし形」に復元できるという。歯は下辺につき、1センチあたりおよそ5〜6枚、深さは1〜3ミリ程度。しかも歯には切れ込みや面取りまで確認されていて、かなりちゃんと加工された刃だと分かる。


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    ↑X線・CTスキャンで見るとしっかり歯が残ってるね!( ・Д・)(「魚津知克らによる資料報告」の第4・5図より転載)


    ⏳ どれくらい古いのか

    ここが今回の核心だね。

    この資料は、遺構に直接伴うものではなく、弥生時代後期の包含層から出土したものなので、研究チームも断定は避けている。
    ただ、直上が厚い弥生時代包含層で、上層からの混入は考えにくく、同じ層から刀子・鏨状・棒状の鉄製工具も出ていることから、弥生時代後期後半に属すると見るのが自然だとされている。だから現段階では、「国内最古の弥生時代鉄製鋸である可能性が高いが、確定ではない」という言い方がいちばん正確なんだね。


    それでもインパクトは大きい。
    これまで日本列島で最古の鋸類例とされていたのは、古墳時代前期の兵庫県権現山51号墳の副葬品だった。つまり今回の資料が妥当なら、鋸の導入時期は古墳時代から弥生時代へ一気にさかのぼることになる。研究チームは、鋸は日本列島で最も「鉄器化」が遅れた道具の一つと評価されてきたとしたうえで、この資料はその理解に一石を投じると述べている。


    🪵 しかもこれ、玉づくりに使われた可能性がある

    ここがタイトルのいちばん面白いところ。

    林・藤島遺跡では、鉄製工具の多くが鏨や錐のような打割具・穿孔具で、玉づくりの現場に重点的に投入されていたことが分かっている。未成品の観察からも、打割や穿孔で鉄器が使われていたことが復元できる。さらに、一部の未成品には「施溝分割」の痕跡があって、この工程に鉄製工具が使われた可能性が指摘されている。研究チームは、薄手の鑿だけでなく、この鋸も施溝分割に使われた可能性があると見ているんだね。


    要するに、今回ののこぎりは木工用の大ぶりな道具というより、石材や玉材を細かく加工するための精密工具として考えたほうがしっくりくる。
    弥生時代の工房で、石を割り、溝を入れ、孔をあけ、磨いていく。
    その流れの中に、のこぎりが入っていたかもしれない。
    これ、かなりいいよね。弥生時代の工房が、急に手元の細かい作業の世界として見えてくる。






    🌊 しかも北陸の技術って、かなり外とつながっていたかもしれない

    今回の報告では、この鋸には日本列島内に類例の少ない歯の形態があり、あるいは舶載品の可能性もあるとされている。研究チームは、石川県小松市の八日市地方遺跡で見つかった鉇の祖型とみられる鉄製品なども踏まえ、弥生時代後期の北陸には、中国大陸起源の鉄器文化の影響が日本海を通じて及んでいた可能性を考えている。もしそうなら、林・藤島ののこぎりは、単なる一工具ではなく、日本海側に入ってきた鉄器技術のかなり前衛的な痕跡になる。


    ここ、かなり大きいです。
    弥生時代の鉄器って、つい農具か武器の話になりがちなんだけど、実際には手工業の現場にどう入ったかも重要なんだよね。
    しかもその入口が、日本海側の工房だったかもしれない。
    こうなると今回の発見は、「のこぎり」そのもの以上に、「弥生時代の北陸って、思っていた以上に技術先進地だったのでは?」という話にもなってくる。


    ✍️ あるけまや的まとめ

    今回の話を雑に言うと、

    福井市の林・藤島遺跡で出土していた鉄製品1点が、保存修理とX線・CT調査によって、弥生時代の鉄製鋸である可能性が高いと分かってきた。資料は弥生時代後期後半の包含層から出土していて、確定ではないものの、妥当なら国内最古の鋸になる。しかも林・藤島遺跡は玉づくり工房をともなう大規模集落で、鏨や錐など鉄製工具が大量に出土しており、今回の鋸も玉材の施溝分割などに使われた可能性がある。つまりこの発見は、弥生時代の北陸で、かなり高度な手工業生産に鉄器が入り込んでいたことを示すかもしれないんだね。


    だから今回の発見は、

    「古いのこぎりが見つかった」
    だけじゃなく、

    「弥生時代の工房では、石の玉をつくるために、思っていたより早い段階から鉄の精密工具が使われていたかもしれない」

    というところまで見せてくる。


    のこぎりって、日用品すぎて逆に見落としやすい。
    でも考古学だと、そういう当たり前の道具が、いちばん時代の輪郭を変えてくることがあるんだよね。

    こういう発見、かなり好きなんだよなあ( ・Д・)



    なにはともあれ・・・・・・

    私はのこぎりを上手く使えない!( ・Д・)







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    2020ねん 12がつ 15にち(すいよーび、晴れ)

    もう年末!一日一日確実に仕事を終わらせていきたいものだ(*^・ェ・)ノ

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



    今回の考古学・歴史ニュースは石包丁の工房が見つかったよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


    さて、今回の舞台は奈良県、橿原市の慈明寺(じみょうじ)遺跡です。

    この慈明寺遺跡ではおよそ2500年前の弥生時代前期に帰属すると考えられる環濠集落が見つかっています。

    この遺跡で石包丁の原材料となる流紋岩の岩片が約200点も見つかったのです(・∀・)つ




    さて、記事の最初に挙げた写真は弥生時代の石包丁と石鏃です。

    歴史の教科書には必ず出てくるのがこの『石包丁』になります。

    何故かというと、「石包丁の存在=稲作の存在」を示すため、縄文時代から弥生時代への移り変わりを示すメルクマールとして有用だからです。

    最初に挙げた写真のように紐を通して使うもので、実際に出土した際には上に挙げた写真のように2つの穴が開いています。

    右下に穿孔が見られないものもありますが、このまま使われたのか、未成品なのか不明ですね。

    超有名な事例ですから、きっと使用痕研究がなされていると思うのですがこの事例は私は知らないです( -д-)ノ

    片手のみで作業する場合には紐は必須だと思いますが、両手で、つまり片手で稲を支えて、右手で石包丁を扱って切る場合は紐がなくても扱えますからね。

    個々の事例については研究されていない可能性もありますね(*^・ェ・)ノ



    さて実際に使う際にはこのように扱います。

    写真で分かるように石包丁は穂摘み具なのですが、『包丁』という名称を冠しています。

    これは明治期に最初に石包丁が出土した際に、北アメリカの「ウーマンズ・ナイフ」に形態が類似していることから「石製の包丁」として命名されました。

    その後、刃部の厚さなどからナイフや包丁とは異なる機能を持ち、恐らく穂摘み具であろうと解釈・認識されるようになりましたが、最初の名称がそのまま残りました。

    なので石包丁は包丁じゃないけど、『石包丁』なのですヾ(´ω`=´ω`)ノ


    arukemaya1300
    ↑見つかった岩片の一部と完形土器(「産経新聞」の記事内画像より転載;credit: 不明)


    さて、慈明寺遺跡に話を戻しますと、この遺跡は先に述べたように環濠集落遺跡なのですが、これまでのところ環濠の一部だけが見つかっている状態です。

    今回の発見はこの環濠の外側で起きました。

    下部に写真を載せましたが、環濠の外部に2つの穴があるのが見つかり、その中から大量の流紋岩の破片が見つかりました。

    石包丁の素材には凝灰岩が使われる傾向が強いのですが、素材が限定されていたわけではなく、今回のケースのように流紋岩も使われていました(・∀・)つ

    この流紋岩片が200点以上も見つかったわけですが、穴に廃棄された状態でした。

    遺跡の南方500mには畝傍山(うねびやま)があり、この山は流紋岩の産地であるため、石包丁の素材の採取地の可能性があります。

    慈明寺遺跡の人々は山まで石材を取りに行き、遺跡の周辺で石材を粗割りして、加工に都合の良いものを集落内に持ち込み、それ以外は環濠の外に直径2~3mの穴を掘ってまとめて廃棄していたのだと思われます(*・ω・)ノ

    慈明寺遺跡内には少なくとも石包丁の製作工房があったでしょうし、もしかすると慈明寺遺跡自体が石包丁製作集落だった可能性があります。


    周辺遺跡の発掘調査が進めば、慈明寺遺跡で造られた石包丁が出土するかも知れませんし、慈明寺遺跡を中心とした石包丁の古代の流通範囲が分かるかも知れません。


    大いに期待できますねヾ(´ω`=´ω`)ノ



    おわりに

    最近は遺跡間関係に興味があるので、なんだか気がせいてしまう自分がいます( -д-)ノ

    しかしやはりこうした単一の遺跡における地道な調査と発見があることで、周辺との関わりに迫ることができるのだなと、改めて地道で精緻な調査研究の重要さを感じます。

    今回の記事における成果の延長として、石包丁の生産と流通をやってる研究者もいそうな気がしますが、どうなんでしょうね。

    来年からは暫く弥生~古墳時代のお勉強もしようと思うので、何か面白いことが分かりましたら記事として報告しますね(。・ω・)ノ゙

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    とは言ってもやっぱり知りたいものは知りたいです(*^・ェ・)ノ

    同じレベルで調査してくれるプロジェクトと組むか……

    自分でたくさん研究費獲って、がっつり一大プロジェクトを推進するか、、、

    後者だな!( ・Д・)

    なんとかして、

    死ぬまでにマヤ社会の都市間関係に迫りたいね!( ・Д・)



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    2020ねん 11がつ 30にち(げつよーび、晴れ)

    あれ、気付いたらもう11月終わる( ・Д・)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



    今回の考古学・歴史ニュースは土師器と須恵器の違いはやっぱり原料だったよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


    さて、今回の舞台は日本、奈良県

    今回の研究にどこの資料を使ったのか不明ですが、少なくとも奈良文化財研究所(所謂、奈文研)の研究成果です。

    まぁ土師器と須恵器の分析なので広く分布してますし、地元で出土した資料を使ってると思います( -д-)ノ

    タイトルでは「日本考古学の基本」と書きましたが、程度の差はあれ、日本で考古学を学ぶ限り、土師器と須恵器の違いについては少なくとも自然に学ぶのではないかと思います。

    また高校における「日本史」でも『B』の教科書であれば、土師器と須恵器の違いについて簡単に記載されています。




    上に挙げたのが一例ですが、、、

    土師器⇒弥生系で赤褐色

    須恵器⇒朝鮮系で硬質・灰色

    これで十分です。

    大学受験だけではなく、考古学を専門にしてても時代や地域が異なれば、最後に覚えてるのは(記憶に留まり続けるのは)上記のそれくらいになるのではないかと思います( -д-)ノ

    一番最初に挙げた写真でも左と右で色が全然違いましたよね?

    左の灰色の土器が須恵器、右側の茶色っぽいのが土師器です。

    ちなみに考古学を専門にしていると、「スエ、ハジ」なんて言い方をしたりします。

    スエは朝鮮語で「鉄」を意味するため、須恵器は本来「鉄のように固い土器」という意味だったようです。

    土師器も須恵器も古墳時代から平安時代まで生産・使用され続けた土器です。

    須恵器は平安時代には「陶器」と書いて「すえもの、すえのうつわもの」と読んでいたそうです。

    土器、炻器、磁器、陶器など考古学では「器」に対して色々な呼び方があって、それぞれ定義があります。

    そのため「陶器」と書くと用語として混乱するので「須恵器」と書くことになっています。

    ちなみに須恵器は炻器(せっき)に分類されます。





    今回は土師器(土器)と須恵器(炻器 / 陶質土器)のお話になりますので、色調と質(硬さ)以外にも特徴を示しておきますね(*^・ェ・)ノ

    土師器は素焼きの土器、つまり釉薬なしで焼成温度の低い野焼きの方法で焼かれた土器です。

    野焼きは密閉性がないため自然と酸素が供給される酸化焔焼成であり、結果焼成温度が低く表面が赤茶色っぽくなります。

    また成形方法として輪積み法で作られています。

    一方で須恵器は窯焼きの土器で、釉薬なしで焼成温度が高い登り窯を用いて焼かれた炻器です。

    窯構造を有しているため密閉性が高く、酸素が供給されないため還元焔焼成となり、発生した一酸化炭素によって粘土中の酸化物である酸化第二鉄が還元されて酸化第一鉄になるため色調が青灰色になります。

    高温焼成なので須恵器の方が硬くなるのです(*^・ェ・)ノ

    また須恵器の成形方法は轆轤(ろくろ)法です。

    こうしてみると、何だか須恵器の方がしっかりとした立派な土器のように思えますが、実際にはそうではなかったようです。

    「正倉院文書」によれば、土器の器種別の価格表から須恵器と土師器のあいだの価格差はほとんどないことが分かっています。

    しかし蓋が付くものかどうかでおよそ倍の価格が付くそうです。

    まぁ手間だし、妥当か( -д-)ノ




    さて、前置きが長くなってしまいましたが、本題に入ります( -д-)ノ

    土師器と須恵器の主な違いが製作技術や焼成方法であることが古い段階から分かっていました。

    特に須恵器は高温で焼成するため、登り窯を使用する必要があり、この窯は斜面に作る必要があるのです。

    平地でも登り窯を造れるけど、結局大量に土を盛って斜面を形成しなきゃならないのです( ・Д・)

    そのため設置する窯の傍で取れる「山の粘土」を利用した可能性が想定されていました。

    一方で、土師器は低温の野焼き法で焼成するわけですが、これは平地で行うものです。

    現在でも東アジアや中米において野焼きで土器を焼く人々を見ることができますが、いずれも平地で行っています。

    原理的には斜面でもできるのですが、面倒です。

    例えば、キャンプに行ってバーベキューをするとして、わざわざ斜面でやりますか?

    可能だけど、色々大変でしょう?( ・Д・)

    なので野焼きは平地で行うもので、「平地で取れる粘土」が原料であると想定されてきたわけです( -д-)ノ

    今回の研究ではこの『須恵器は山の粘土』、『土師器は平地の粘土』という想定を理化学分析によって明らかにしたのです(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

    ハジ・スエの原料の違いを示すために注目したのが土器胎土のリン含有率です。

    リンは肥料に含まれることから、土器胎土中のリン含有率が高ければ、原料の粘土は肥料がまかれた水田などで採取されたと言えると考えたわけです。

    今回使用したのは平城京から出土した奈良時代後半の須恵器3点と土師器4点です。

    平城京……利用した試料がどこのものか分からないと最初に書きましたが、、、

    やはり奈良県、地元の遺物ですね!

    手法は『破壊分析』なので試料数がとても少ないのは、こういった「理化学分析あるある」です。

    土器試料を粉末状に砕き、1000度の高熱で不純物を取り除き、土器に含まれている化学成分の比率を測定したところ、土師器のリン含有率が1・39~3・62%と高かったのに対して、須恵器は0・02~0・08%と低かったそうです。

    リンは水溶性で雨や水で流れてしまったり、植物に吸収されるにも関わらず、それでも土師器は高いリン含有率を示していたと判定しています。

    文献史料等から奈良時代にはすでに定期的に田畑に肥料がまかれていたとみられ、このために土師器内のリン含有率が高まった可能性が指摘されています。

    一方で須恵器の表面に見られる黒色の粒子は、炭化した木片「亜炭(あたん)」であることが示されました。

    亜炭が含まれる粘土は主に丘陵地帯で採掘されることから、須恵器の粘土は山で採取された可能性が高いと言えそうです。

    こうした結果から、土師器の原料は平地の田んぼで取れた「田土」、須恵器の原料は山で取れた「山土」の可能性が高いことが分かったのですヾ(´ω`=´ω`)ノ

    今後更にこういった研究が進めば、土器の粘土の採取場所を調べたりすることも可能になるかも知れません。

    そのためには新たな非破壊分析法を確立することや、それによって数を見ること、つまり試料数(N値)を増やすことが必要になってくるでしょう。

    また土器胎土の中に肥料が含まれていると考えるであれば、農耕の始まった時期、少なくとも肥料の使用が開始された時期を推測する研究も行うことができることになりますね(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!




    おわりに、ー土師器の名の由来ー

    須恵器の名の由来は朝鮮語と話しましたが、土師器の方はというと……

    大阪府、藤井寺市に「土師ノ里駅」という場所があるそうです。

    ここは古墳時代の豪族、土師氏に由来する地名だそうです。

    土師氏は土師器を生産していた豪族だったのでしょうか、これが土師器の名称の由来だそうです(*・ω・)ノ

    土師もそうですが、須恵器の方も、全国に須恵村とか須恵町といった地名があるようです。

    かつては色んなところで生産されていて今でも地名として残っているんですねヾ(´ω`=´ω`)ノ

    ・・・・・・

    簡単な記事にするつもりだったのに、、、

    土器を扱うと長くなるぜ!( ・Д・)



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    2020ねん 10がつ 30にち(きんよーび、曇り)

    一年半前の記事が下書きのまま発掘されました( -д-)ノ

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    arukemaya_0093



    今回の考古学・歴史ニュースは「土器の研究から、日本のGの起源が中国である可能性が分かったよ!」ってことです!


    *本記事ではすべてのGをGと表記する方向でいきますね( -д-)ノ


    この研究は熊本大学の小畑弘己教授によるもので、土器表面に対するレプリカ法(圧痕法)を用いたものです。


    より正確には「土器圧痕のレプリカ法」と言います。


    土器の器面(表面)に何らかの要因で押し付けられた痕跡(圧痕)に対して、シリコンを流して型を取った標本(レプリカ)を電子顕微鏡等で観察して分析する手法のことです。





    対象となった資料は宮崎県、宮崎市田野町の本野原遺跡(もとのばるいせき)で出土したものです。

    この本野原遺跡は縄文時代後期の遺跡であり、西日本において最大級の集落跡が発見されています。


    この遺跡から出土した約4300年前の土器と約4000年前の土器の器面からGの卵の痕跡が見つかったわけです。


    本記事内で述べている検出されたGの「卵」というのは実際には「卵鞘(らんしょう)」と呼ばれるもので10~11mm程度のサイズだそうです。

    この「卵鞘」の中に複数の卵が入っている構造なのです。

    そのため「卵のさや」と書くのですね。しかし記事内では分かり易く、「卵」と表記します( -д-)ノ




    今回検出されたGの卵は、中国南部が原産とされるクロGの卵と形態的に強い類似性を示しているということが分かりました。


    クロGとは屋内に生息する種のGとして代表的なものです。

    ちなみにこの屋内GであるクロGが縄文時代の遺跡から確認されたのは初めての事例のようです。


    つまり今回の発見によって縄文時代の家屋の中にもGがいたことになります。

    どうやら我々と”G”との戦いの歴史はとても長いようですね( ・Д・)



    おわりにかえて、誰得? ”G”の歴史


    現在の日本には、野生を含めると約50種類のGが生息するそうです。

    そんなにいるのですねΣ(・ω・ノ)ノ

    北海道産の私としてはほぼ海外でしか見ないのですが( ・Д・)


    その50種類のGの中でも家屋内に住む種類はヤマトG、クロG、チャバネG、トビイロGなど10種類いるそうです。

    ほんとそんなにいるのですね(゚Д゚≡゚д゚)エッ!?


    こうした日本の屋内Gは、在来種のヤマトGとクロGの他は全て、原産地がアフリカだと考えられているそうです。


    平安時代の文献にヤマトGとみられるものが記載されているのがこれまでの初出で、今回の発見でヤマトGがクロGと酷似する可能性が指摘されたわけです。

    クロGは中国南部が起源の外来種とされており、今回の土器の証拠から約4300年以前に大陸から日本に渡来したか、あるいは実は外来種ではなく、日本在来種である可能性も考えられるようです。


    こうして考古学ではGの起源にまで迫れるのです(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!



    ……ところで、個人的にGというとモンハンしか出てこないんですけども、

    まぁ少なくとも、、、

    Gはモンスター!( ・Д・)

    ↓”G”が嫌いなひと~?(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!↓

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    2020ねん 9がつ 8にち(かよーび、晴れ?)

    秋、来ないな~ι(´Д`υ)アツィー



    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    arukemaya972
    ↑綺麗に残ってるね!( ・Д・)(「朝日新聞デジタル」の記事内画像より転載)



    今回の考古学・歴史ニュースは「日本最古の独楽が出たよ!コマの歴史って古いのね!( ・Д・)」ってお話です(*・ω・)ノ



    さて、独楽は「こま」って読みます。

    あのくるくる回す玩具の「コマ」です。



    下にタカラトミーが出している「ベイブレード」の画像を挙げましたが、独楽の歴史は古くからあり、現代まで続いている玩具です。

    きっと誰かやってるのだろうけど、コマの型式的変化を見てみるのも面白いかも知れませんねヾ(´ω`=´ω`)ノ



    独楽の名の由来


    考古学って、どんな学問? 遺跡は全国にいくつあるの? そんな子どもたちの質問に答えてくれるWEBサイト「全国子ども考古学教室」(https://kids-kouko.com/別ウインドウで開きます)ができた。ありそうでなかった入門ガイドに、子どもたちはもちろん、大人の歴史ファンからも歓迎の声が聞こえてきそうだ。( ・Д・)
    arukemaya974


    ベイブレードは基本的に誰か友達と対戦することを面白みとしていると思います。

    所謂、「喧嘩独楽」です。

    私は小学校の頃、「画鋲回し」で喧嘩ゴマしてましたね( -д-)ノ




    勝つためにはより強い画鋲を探して独りで複数回して比較したりするわけです。

    ベイブレードでも、独りでより強いベイブレードを探して、パーツを組み変えたりするわけです。


    そう、コマ遊びは独りで遊ぶことが基本なのです。

    だから漢字では「独りで楽しむ」と書いて独楽(コマ)なのですね(*・ω・)ノ




    arukemaya975




    独楽の歴史

    さて、最古の独楽は「ひねりごま」であったろうと考えられています。

    どんぐりを指先で回すような最も単純なものです。

    どんぐり回して遊ばれても、考古学的には分からないので証拠はありません( -д-)ノ


    ……もし古代において子供らによって超強いどんぐりが選択されて、何千・何万回と回されて、

    上手いこと依存体として残り、出土し、

    どんぐりの先端が回転によって摩耗されていることが顕微鏡観察で確認され、

    現生のどんぐりを百回~千回と回してみて、同様の使用痕(?)あるいは擦痕が確認できた場合に、

    最古のひねり独楽の可能性を指摘できます( -д-)





    まぁなので、考古学上・歴史学上分かっている最古の独楽は「ぶちごま」です。

    「ぶち」っていうのは「例文:ジャイアンがのび太の顔面をグーでぶった!( ・Д・)」の「ぶつ」です。

    つまり叩くって意味なのですが、この独楽は鞭などで独楽の側面を叩くことで回転させるタイプの独楽になります。


    そのため、「鞭ゴマ」や「叩きゴマ」といった名称でも呼ばれます。

    また「鞭などで叩くことでようやく働く(回る、機能するの意)」ことから「無精ゴマ」とも呼ばれます。

    面白いですね(。・ω・)ノ゙




    arukemaya976
    arukemaya977
    ↑日本国内で出土した独楽の形態変化(安芸毬子 2002「出土した人形と玩具」『東京大学コレクションX 加賀殿再訪東京大学本郷キャンバスの遺跡』pp.102-116、 東京大学出版会、東京)


    上に挙げた図が、日本において出土した独楽の編年表になります。

    こう見ると木製なのにけっこう残ってるものですねΣ(・ω・ノ)ノ

    ちなみに先ほど挙げた「これまで最古であった独楽」はこの編年表の「1」の図版番号のものと同一資料です。



    さて、表を見てみると、7~8世紀の最古級の独楽はいずれも高さがあるタイプであり、「ぶちごま」と考えられています。


    時代は一気に飛んで、13世紀には平たい「ひねりごま」が見られ、14世紀は「ひねりごま」ばかり出土しています。

    先に述べたようにひねりごまが最古のタイプと考えられていますが、これは編年における順序が逆転しているのではありません。

    最も基本的な独楽であるひねりごまは現在まで続くもので、出土事例としてはこのような「ぶちごま」との逆転現象のように見て取れるというだけです(。・ω・)ノ゙



    17世紀には上半分がつるっとしたものばかり出ますね。

    これが紐を使った「投げゴマ」になります。

    表では最古の独楽も上半分がつるっとしていますね( ・Д・)

    恐らくこれは原礫面のような無加工部を示していて、下部は加工痕を示しています。

    17世紀のものは同じようにつるっとしていますが、わずかに縦方向への加工痕が見て取れます。

    この部分に紐を巻き付けたわけですね(。・ω・)ノ゙



    ぶちごまの段階から喧嘩ゴマの性質はあったようですが、不明です。

    きっと最も原初的なひねりごまの時から喧嘩ゴマの性質はあったのでしょうね。

    独楽は独りで楽しむと書きますが、やはり友達とワイワイするのが楽しいのでしょう。

    でも競争心も人の大事な要素です。

    喧嘩ゴマで勝てるよう、より強く回せるよう工夫した結果として投げゴマが発明されたと考えられています。




    江戸時代の天保年間(1830年 - 1843年)までには更に工夫され、独楽の胴部に鉄輪を加えた「鉄胴独楽」が作られます。

    1870年代の明治中期までには独楽全体が金属で作られる所謂「ベーゴマ」が作られます。

    そして1999年に「ベイブレード」が登場します(*・ω・)ノ



    日本における独楽の発達史はざっとこんな感じですね。

    ……「おわりに」でベイブレードの話をちょっぴりしますヾ(´ω`=´ω`)ノ





    最古の独楽の発見!

    さて、今回の発見の舞台は滋賀県、大津市の南滋賀遺跡です。


    古墳時代後期(6世紀後半~7世紀前半)に帰属する木製独楽が1点が出土しました。




    上に挙げた写真に見られるように、長軸は約6cm、直径約4.4cmで、「ぶち独楽」の形態です。

    南滋賀遺跡では古墳時代後期の集落址が検出され、該当資料の出土地点は集落内にあった溝だそうです。




    この溝に堆積した同じ層から土器が出土しており、この土器が独楽の時期判定に用いられました。


    また同層位から木製の斎串(いぐし)や桃の種といった祭祀に使われる道具も出土しています。


    先行研究事例でも独楽が祭祀道具と共に出土しており、当時の独楽は遊戯具ではなく、祭祀具としての側面が強い蓋然性が指摘されています。





    また南滋賀遺跡では古墳のドーム形石室や大壁建物跡が検出されていることから、渡来系の人々も多く住んでいたと推察とされています。


    よって当時、独楽は朝鮮半島からやって来た大陸文化・先進的文化の一つだったと推定されています(*^・ェ・)ノ





    先に述べたように、これまで最古とされていた独楽は、7世紀後半に帰属する藤原宮跡(奈良県橿原市)や石神遺跡(奈良県明日香村)で出土した資料です。



    なので、今回の発見は日本最古の独楽として最大で1世紀ほど遡る大発見となりました!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!






    おわりに

    いや、ほんと、こういう発見の話を聞くと、木製の独楽がよく1400年も残っていたな~って思いますねΣ(・ω・ノ)ノ


    ……ところで、今回の記事はなんだか当初の予定より長くなってしましました。

    独楽の編年図表を見つけたのでテンション上がったのかも知れません( -д-)ノ


    また教え子と休憩時間にベイブレードで一緒に遊んだ思い出もあるもので、それもあるのかな(*^・ェ・)ノ



    既に書いたように、「投げゴマ」はより独楽を強く回転させるために工夫された結果誕生しましたが、ベイブレードもより強くがポイントになっています。

    この投げるという技術は紐を使ってる頃においては、色々な技があるそうで、技を磨くというのも楽しみのひとつだったようです。



    一方でベイブレードでは紐は使わず手軽に回す機構(教え子宅で2種類の機構を確認しています)があり、誰でもお手軽に強く安定して回せる仕組みになっています。

    これはこれで、商業性を背景に玄人志向から普及志向へと進化の方向性が変えられていて、面白いなと思います(*・ω・)ノ


    それでいて、右回転・左回転を選択できたり、ベイブレードによっては回転方向によって性質が変わったりと大人でもハマりそうな玄人向けのカスタイマイズ性が残されているのも面白いなと思います。



    古代から近代にかけての独楽は資料数も少ないですが、ベイブレードであれば、現在でも入手できますし、画像や情報が比較的簡単に手に入ります。

    ベイブレードも強さを求めて、パーツ数や金属パーツが増えたり、サイズ自体もより大きく、より重く、デザインもより鮮やかにと変化していることが良く分かると思います。



    現代であっても、我々は物質文化の中に生きているわけで、

    やはり様々な部分で考古学を使おうと思えば使えるのだなと改めて感じました。



    若い世代もベイブレードなら思い入れがあるかなと思って書きましたけどもヽ(TдT)ノ


    どうですかね?

    今回の記事……

    考古学のお勉強になるよねっ!???( ・Д・)



    【2020.9.13 追記】
    考古学とはどのような学問か?

    今回はその一端に触れたと思っておりますが、ちょっと伝わりにくいかなと感じたので追記します。



    今回の記事では『モノの変化』に注目して欲しかったのです。

    独楽は時期ごとに形態が変化していきましたね。


    考古学はモノを扱いますが本来的に人類を研究します。

    そのためまずモノの形態などの変化をみます。

    次にそれが何故変わるのかを考えます。


    これは学問的には難しい問題なのですが、今回のケースでは比較的分かりやすく、より強く回転させることを目的に変化していました。

    ベイブレード等の近現代の独楽では形態だけではなく、「素材や重量」も変化していました。

    特にベイブレードでは「デザイン性(文様)」も大きく変化していました。

    またこの事例では手軽に安定して強く回転させることを目的として紐に替わる機構が生まれていました。

    ビジネスとしての消費者を飽きさせない工夫として、あるいは購買意欲をそそるための工夫として、独楽本体の変化だけではなく、多彩なパーツも生み出されていました。



    結局何が言いたいかというと、、、

    モノの変化の裏に人間の心を捉えることが大事だよってことです。


    今回は私がテキトーに深くも考えずに理由付けを行いましたが、、、

    皆さんはモノの変化やその裏に潜む理由について何か感じましたか?

    何かあれば是非コメント欄にご一報をお待ちしておりますヽ(・ε・)人(・ε・)ノ ナカマ


    (……結局、追記も小難しい上に長くなった( ・Д・))

    結論:ひとまずモノの変化を楽しめたらOK!!!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!


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    一歩ずつ進むのだ!( ・Д・)


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




    今回の考古学・歴史ニュースは「日本最古の土偶の事例を紹介するよ!( ・Д・)」ってお話です(*・ω・)ノ


    『最古の~』ってのは話題になりやすいので、遺物の素材ごとに、あるいは地域を細分して、色々な最古があるわけです。

    例えば同じ「最古の土偶」でも、「北海道最古」とか、「ヨーロッパ南部最古」とか色々パターンはあるわけです( -д-)ノ


    今回ご紹介するのは純粋に日本における最古の土偶の事例です。

    両者共に縄文時代草創期の事例で1万3000~1万1000年前頃の遺物と推定されています。







    三重県、粥見井尻遺跡の事例

    粥見井尻(かゆみいじり)遺跡は、三重県松阪市飯南町粥見字井尻で現在は「粥見井尻遺跡公園」として一般公開されています。

    この遺跡では1996年に国道のバイパス工事に伴う緊急発掘が実施され、その際に一番最初の写真やこの直上に挙げた写真の2点の土偶が出土しました。

    この遺跡は縄文時代草創期(1万3000~9000年前)の集落遺跡であり、これらの日本最古級の土偶の他、竪穴住居4基、無文土器片資料群、石器製作址が見つかっています。



    一番上に挙げた写真だとこの粥見井尻遺跡で出た2点の最古級土偶が映っているのですが、左側のやけに小さいものは『土偶の頭部』です。

    この上に挙げた全体が分かる資料(所謂、粥見井尻土偶)であっても、長軸7cm、短軸4cm程度なのでかなり小さいです。

    前回紹介した中国の最古の彫像もめちゃくちゃ小さかったので、人類の最初期のフィギュアはミニチュアばかりだったのかも知れませんね( -д-)ノ




    arukemaya929
    ↑日本最古の土偶!ヾ(´ω`=´ω`)ノ(「Twitter」”古墳紹介bot”さんの投稿画像より転載)



    滋賀県、相谷熊原遺跡の事例

    こちらは滋賀県、東近江市に所在する相谷熊原(あいだにくまはら)遺跡で出土した土偶です。

    この遺跡からは5基の竪穴住居址が検出されており、間違いなく縄文時代草創期に帰属する日本最古級の土偶(通称、相谷土偶)として知られています。

    サイズは長軸3.1cmとやはり小さいですね。

    頭部や手足の造形はありませんが、乳房やくびれなど女性らしさは十分に表現されているとの評価です。

    やはり世界的にみて、地母神だとか、母なる大地、母なる海、母なる地球とか場合によって様々な表現がありますが、新たな生命を生み出す女性を神聖視する意識は初期人類にとって共通のようですね(*・ω・)ノ




    おわりに

    やはり『最古』ってサイコーなわけですが(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

    考古好き、歴史好きの皆さんは、古さだけに囚われず、

    とある現象がなんで広く共通するのだろう?とか

    この先、どうやって変化していくのだろう?とか

    時間と空間の変化に思いをはせて欲しいなと思います!( ・Д・)

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    暑い!毎日うなぎ食べたい!( ・Д・)


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




    今回の考古学・歴史ニュースは「縄文時代のクワガタって遺るらしいよ!( ・Д・)」ってお話です(*・ω・)ノ


    『まだ食べれるよ!』シリーズでも、すごい残り方している遺物をこれまで紹介してきました。

    (*上記タイトル以外は常用の『残る』で表記していきます( -д-)ノ)

    けっこう変わったものが意外に残るものなんですよね。

    本記事の最後にこれまでの『よく残ったね!( ・Д・)』な記事のリンクを貼ることにして、、、





    2500年以上前のクワガタが『完形』で検出されたよ!

    奇跡のクワガタが発見されたのは奈良県、御所市條(ごせしじょう)に所在する秋津遺跡です。

    検出されたクワガタは縄文時代晩期(約2800~2500年前)に帰属する土層中から見つかったとのことです。





    検出状況は上に挙げた図のように、弥生時代の田んぼなどの層の下から縄文時代の水の流れや木の根が見つかり、川沿いに生えた常緑樹のアカガシ(ブナ科)の根元で、クワガタは仰向けの状態で土に埋もれていたそうです。

    不幸にもクワガタが木から落ち、川の増水などで一気に埋まってしまった可能性が推察されています。

    クワガタの死後、腐敗する前に速攻で埋没し、その後も近くの河川の影響で程好い水分が保たれる状況にあったと考えられています。

    湿地帯とか特に泥炭地とかは動植物依存体を中心として遺物の残りが非常に良いものです。

    水分のおかげで真空に近い状態でパックされ続けたことで、細菌による分解を免れることがあるのです(*・ω・)ノ





    近くで見ると本当に保存状態がいい!( ・Д・)

    検出されたのは『オスのノコギリクワガタ』と同定されています。

    私たちがこの写真をパッと見て、「あ、ノコギリクワガタだ!v( ̄∇ ̄)v」って分かるように、外見上に現生種との違いはみられません。

    全長は約6.35cmで結構大きいですよね。

    約2.25cmの立派な大あごを持っています。

    確認できなかったのは左前あしだけで、他は大あごから爪先までほぼ完形で残っています。

    顕微鏡で観察すると体毛まで残っているそうですΣ(・ω・ノ)ノ

    当然のことですがこのような発見は極めて珍しく、当時の環境や昆虫学の研究にも有効な資料になると考えられています。


    ↓こんなところで記事のリンクを紹介(*^・ェ・)ノ




    ↑たくさんありました。是非『脳みそ』でも検索してみてください(*・ω・)ノ


    おわりに

    このクワガタは樹脂で保存処理されて収蔵されているそうです。

    所蔵先は考古学では有名な奈良県立橿原考古学研究所です。

    この研究所が調査担当したとは言え、よく見つけたなと思います。



    私は『認識が発見を作る』を常々思っています。

    『ないと思ってたら、ない』のです( -д-)ノ



    弥生時代の土層の下、地表下2mとは言え、「木の根なんて周囲ごとザクっと掘り飛ばす」ことは考古学の現場では往々にしてあることだと思います。

    「縄文時代の水の流れ」を認識して、同時代に帰属する木の根として遺構ないし遺物として慎重な調査を行ったからこその発見だと心底思います。




    もちろんこのような形で残ったのは奇跡!

    そして、

    検出した技術も神がかっていると思います。


    ただの運じゃない、努力が奇跡を生むんだぜっ!( ・Д・)

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    2020ねん 7がつ 19にち(にちよーび、まぁまぁ晴れ)

    効果あり!素数足し算、日課にする!( ・Д・)

    あとはイライラ対策用の牛乳と、鬱対策用のカルピス飲めば元気ハツラツのはず(*^・ェ・)ノ


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




    今回の考古学・歴史ニュースは「有名な神風で沈んだ船が見つかったよ!( ・Д・)」ってお話です(*・ω・)ノ



    教科書で歴史上の人物の発音は変化している!

    さてさて、日本の教科書っていつの頃からか、「現地の発音に合わせる」って仕様に変更になったのご存じですか?

    なので、(歴史の教科書では特に)有名なフランシスコ・ザビエルは、今では「シャビエル」なんですよ。

    私は昭和生まれですから当然「ザビエル」勢ですが、皆さんは如何ですか???ヾ(´ω`=´ω`)ノ



    ザビエル勢にとって(こんな言葉は今作った言葉です( -д-)ノ)、元寇で日本に攻めてきたのは「フビライ・ハン」ですよね?

    シャビエル世代にとっては「クビライ・ハン」だそうです。

    モンゴル語のラテン語への転写だと『Qubilai Qa'an』、このように書くそうなので、確かにクビライですよね。

    じゃあ「皇帝(称号)」の意味の発音も「カーン」で良くない?(*^・ェ・)ノ

    とか思いますが、まぁ大人の事情でしょう、知らんけど( -д-)ノ




    クビライ・ハンと元寇と神風とぼく


    さて、日本史で習ったことを簡単におさらいしましょう。

    表記は新世代に合わせます(*・ω・)ノ


    クビライ・ハンは、チンギス・ハンの血族として1215年に生まれます。

    長いことモンゴル王朝内でハーン(カーン)の名を競って争い、1260年に漢語風の名を始めて付けた王朝を創始します。

    それが『元』です。

    簡単に言うならば、元はクビライ・ハンの政策により中国王朝化したモンゴル王朝です。



    この元が日本に攻めてきたのが『元寇』です。

    『神風』という名の、言わば台風でクビライ・ハンの船団は大打撃を受けて、二度の日本侵略に失敗するというお話です。


    arukemaya919
    ↑再掲


    発見されたクビライ・ハンの軍船

    Twitterの情報なので今のところ情報も少ないのですが、元寇で沈んだ船が発見されたそうです。

    水中考古学では基本的に歴史書に残っているものを探します。

    続報というか論文読まないと詳細は不明ですが、史実を裏付ける発見はこれが初めてのようです。



    以前紹介した、バルト海などの静かな海では船の残りも良好ですが、さすがに大荒れの日本海だと残ってるだけで奇跡のように思えます。

    上の写真で見ても、、、

    「これが船ですか?( ・Д・)」

    ってなります。



    まぁ日本海のど真ん中にこれだけしっかりとした木材が沈んでいるのは不自然ですし、『13世紀の遺構』とか「これは1281年に沈んだ船」と書かれているので、何らかの遺物(たぶん陶器とか)によって年代が割り出されているのでしょう。


    ・・・・・・

    ・・・

    というか一回目の元寇って1274年……


    わずか7年の差を判定できる基準があるのか、、、

    文字か、文字なのか???

    やはり続報に期待です( -д-)ノ





    おわりに

    以前は特段理由もなく水中考古学を毛嫌いしていましたが、やはり発見があるのは面白いですね。

    そして文献史料で示されている事柄を、考古学的にクロスチェックするという姿勢は好きです。



    【追記:2020/07/19】
    ↓沈没船関係の記事へのリンクを載せておきます(*・ω・)ノ







    いいなぁ……

    潜りたいなぁ……

    マヤ文明でも場所によっては水中考古学はできるけどさ

    いや、ティカルでもできるもんね!


    ティカルは緑の海の中だからねっ!( ・Д・)

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