2020ねん 12がつ 15にち(すいよーび、晴れ)
もう年末!一日一日確実に仕事を終わらせていきたいものだ(*^・ェ・)ノ
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今回の考古学・歴史ニュースは「石包丁の工房が見つかったよ!( ・Д・)」ってお話です(*・ω・)ノ
さて、今回の舞台は奈良県、橿原市の慈明寺(じみょうじ)遺跡です。
この慈明寺遺跡ではおよそ2500年前の弥生時代前期に帰属すると考えられる環濠集落が見つかっています。
この遺跡で石包丁の原材料となる流紋岩の岩片が約200点も見つかったのです(・∀・)つ
さて、記事の最初に挙げた写真は弥生時代の石包丁と石鏃です。
歴史の教科書には必ず出てくるのがこの『石包丁』になります。
何故かというと、「石包丁の存在=稲作の存在」を示すため、縄文時代から弥生時代への移り変わりを示すメルクマールとして有用だからです。
最初に挙げた写真のように紐を通して使うもので、実際に出土した際には上に挙げた写真のように2つの穴が開いています。
右下に穿孔が見られないものもありますが、このまま使われたのか、未成品なのか不明ですね。
超有名な事例ですから、きっと使用痕研究がなされていると思うのですがこの事例は私は知らないです( -д-)ノ
片手のみで作業する場合には紐は必須だと思いますが、両手で、つまり片手で稲を支えて、右手で石包丁を扱って切る場合は紐がなくても扱えますからね。
個々の事例については研究されていない可能性もありますね(*^・ェ・)ノ
さて実際に使う際にはこのように扱います。
写真で分かるように石包丁は穂摘み具なのですが、『包丁』という名称を冠しています。
これは明治期に最初に石包丁が出土した際に、北アメリカの「ウーマンズ・ナイフ」に形態が類似していることから「石製の包丁」として命名されました。
その後、刃部の厚さなどからナイフや包丁とは異なる機能を持ち、恐らく穂摘み具であろうと解釈・認識されるようになりましたが、最初の名称がそのまま残りました。
なので石包丁は包丁じゃないけど、『石包丁』なのですヾ(´ω`=´ω`)ノ

↑見つかった岩片の一部と完形土器(「産経新聞」の記事内画像より転載;credit: 不明)
さて、慈明寺遺跡に話を戻しますと、この遺跡は先に述べたように環濠集落遺跡なのですが、これまでのところ環濠の一部だけが見つかっている状態です。
今回の発見はこの環濠の外側で起きました。
下部に写真を載せましたが、環濠の外部に2つの穴があるのが見つかり、その中から大量の流紋岩の破片が見つかりました。
石包丁の素材には凝灰岩が使われる傾向が強いのですが、素材が限定されていたわけではなく、今回のケースのように流紋岩も使われていました(・∀・)つ
この流紋岩片が200点以上も見つかったわけですが、穴に廃棄された状態でした。
遺跡の南方500mには畝傍山(うねびやま)があり、この山は流紋岩の産地であるため、石包丁の素材の採取地の可能性があります。
慈明寺遺跡の人々は山まで石材を取りに行き、遺跡の周辺で石材を粗割りして、加工に都合の良いものを集落内に持ち込み、それ以外は環濠の外に直径2~3mの穴を掘ってまとめて廃棄していたのだと思われます(*・ω・)ノ
慈明寺遺跡内には少なくとも石包丁の製作工房があったでしょうし、もしかすると慈明寺遺跡自体が石包丁製作集落だった可能性があります。
大いに期待できますねヾ(´ω`=´ω`)ノ
おわりに
最近は遺跡間関係に興味があるので、なんだか気がせいてしまう自分がいます( -д-)ノ
しかしやはりこうした単一の遺跡における地道な調査と発見があることで、周辺との関わりに迫ることができるのだなと、改めて地道で精緻な調査研究の重要さを感じます。
今回の記事における成果の延長として、石包丁の生産と流通をやってる研究者もいそうな気がしますが、どうなんでしょうね。
来年からは暫く弥生~古墳時代のお勉強もしようと思うので、何か面白いことが分かりましたら記事として報告しますね(。・ω・)ノ゙
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とは言ってもやっぱり知りたいものは知りたいです(*^・ェ・)ノ
同じレベルで調査してくれるプロジェクトと組むか……
自分でたくさん研究費獲って、がっつり一大プロジェクトを推進するか、、、
後者だな!( ・Д・)
なんとかして、
死ぬまでにマヤ社会の都市間関係に迫りたいね!( ・Д・)
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