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あるけまや -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

タグ:日本

2020ねん 12がつ 15にち(すいよーび、晴れ)

もう年末!一日一日確実に仕事を終わらせていきたいものだ(*^・ェ・)ノ

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今回の考古学・歴史ニュースは石包丁の工房が見つかったよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台は奈良県、橿原市の慈明寺(じみょうじ)遺跡です。

この慈明寺遺跡ではおよそ2500年前の弥生時代前期に帰属すると考えられる環濠集落が見つかっています。

この遺跡で石包丁の原材料となる流紋岩の岩片が約200点も見つかったのです(・∀・)つ




さて、記事の最初に挙げた写真は弥生時代の石包丁と石鏃です。

歴史の教科書には必ず出てくるのがこの『石包丁』になります。

何故かというと、「石包丁の存在=稲作の存在」を示すため、縄文時代から弥生時代への移り変わりを示すメルクマールとして有用だからです。

最初に挙げた写真のように紐を通して使うもので、実際に出土した際には上に挙げた写真のように2つの穴が開いています。

右下に穿孔が見られないものもありますが、このまま使われたのか、未成品なのか不明ですね。

超有名な事例ですから、きっと使用痕研究がなされていると思うのですがこの事例は私は知らないです( -д-)ノ

片手のみで作業する場合には紐は必須だと思いますが、両手で、つまり片手で稲を支えて、右手で石包丁を扱って切る場合は紐がなくても扱えますからね。

個々の事例については研究されていない可能性もありますね(*^・ェ・)ノ



さて実際に使う際にはこのように扱います。

写真で分かるように石包丁は穂摘み具なのですが、『包丁』という名称を冠しています。

これは明治期に最初に石包丁が出土した際に、北アメリカの「ウーマンズ・ナイフ」に形態が類似していることから「石製の包丁」として命名されました。

その後、刃部の厚さなどからナイフや包丁とは異なる機能を持ち、恐らく穂摘み具であろうと解釈・認識されるようになりましたが、最初の名称がそのまま残りました。

なので石包丁は包丁じゃないけど、『石包丁』なのですヾ(´ω`=´ω`)ノ


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↑見つかった岩片の一部と完形土器(「産経新聞」の記事内画像より転載;credit: 不明)


さて、慈明寺遺跡に話を戻しますと、この遺跡は先に述べたように環濠集落遺跡なのですが、これまでのところ環濠の一部だけが見つかっている状態です。

今回の発見はこの環濠の外側で起きました。

下部に写真を載せましたが、環濠の外部に2つの穴があるのが見つかり、その中から大量の流紋岩の破片が見つかりました。

石包丁の素材には凝灰岩が使われる傾向が強いのですが、素材が限定されていたわけではなく、今回のケースのように流紋岩も使われていました(・∀・)つ

この流紋岩片が200点以上も見つかったわけですが、穴に廃棄された状態でした。

遺跡の南方500mには畝傍山(うねびやま)があり、この山は流紋岩の産地であるため、石包丁の素材の採取地の可能性があります。

慈明寺遺跡の人々は山まで石材を取りに行き、遺跡の周辺で石材を粗割りして、加工に都合の良いものを集落内に持ち込み、それ以外は環濠の外に直径2~3mの穴を掘ってまとめて廃棄していたのだと思われます(*・ω・)ノ

慈明寺遺跡内には少なくとも石包丁の製作工房があったでしょうし、もしかすると慈明寺遺跡自体が石包丁製作集落だった可能性があります。


周辺遺跡の発掘調査が進めば、慈明寺遺跡で造られた石包丁が出土するかも知れませんし、慈明寺遺跡を中心とした石包丁の古代の流通範囲が分かるかも知れません。


大いに期待できますねヾ(´ω`=´ω`)ノ



おわりに

最近は遺跡間関係に興味があるので、なんだか気がせいてしまう自分がいます( -д-)ノ

しかしやはりこうした単一の遺跡における地道な調査と発見があることで、周辺との関わりに迫ることができるのだなと、改めて地道で精緻な調査研究の重要さを感じます。

今回の記事における成果の延長として、石包丁の生産と流通をやってる研究者もいそうな気がしますが、どうなんでしょうね。

来年からは暫く弥生~古墳時代のお勉強もしようと思うので、何か面白いことが分かりましたら記事として報告しますね(。・ω・)ノ゙

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

とは言ってもやっぱり知りたいものは知りたいです(*^・ェ・)ノ

同じレベルで調査してくれるプロジェクトと組むか……

自分でたくさん研究費獲って、がっつり一大プロジェクトを推進するか、、、

後者だな!( ・Д・)

なんとかして、

死ぬまでにマヤ社会の都市間関係に迫りたいね!( ・Д・)



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2020ねん 11がつ 30にち(げつよーび、晴れ)

あれ、気付いたらもう11月終わる( ・Д・)

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今回の考古学・歴史ニュースは土師器と須恵器の違いはやっぱり原料だったよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台は日本、奈良県

今回の研究にどこの資料を使ったのか不明ですが、少なくとも奈良文化財研究所(所謂、奈文研)の研究成果です。

まぁ土師器と須恵器の分析なので広く分布してますし、地元で出土した資料を使ってると思います( -д-)ノ

タイトルでは「日本考古学の基本」と書きましたが、程度の差はあれ、日本で考古学を学ぶ限り、土師器と須恵器の違いについては少なくとも自然に学ぶのではないかと思います。

また高校における「日本史」でも『B』の教科書であれば、土師器と須恵器の違いについて簡単に記載されています。




上に挙げたのが一例ですが、、、

土師器⇒弥生系で赤褐色

須恵器⇒朝鮮系で硬質・灰色

これで十分です。

大学受験だけではなく、考古学を専門にしてても時代や地域が異なれば、最後に覚えてるのは(記憶に留まり続けるのは)上記のそれくらいになるのではないかと思います( -д-)ノ

一番最初に挙げた写真でも左と右で色が全然違いましたよね?

左の灰色の土器が須恵器、右側の茶色っぽいのが土師器です。

ちなみに考古学を専門にしていると、「スエ、ハジ」なんて言い方をしたりします。

スエは朝鮮語で「鉄」を意味するため、須恵器は本来「鉄のように固い土器」という意味だったようです。

土師器も須恵器も古墳時代から平安時代まで生産・使用され続けた土器です。

須恵器は平安時代には「陶器」と書いて「すえもの、すえのうつわもの」と読んでいたそうです。

土器、炻器、磁器、陶器など考古学では「器」に対して色々な呼び方があって、それぞれ定義があります。

そのため「陶器」と書くと用語として混乱するので「須恵器」と書くことになっています。

ちなみに須恵器は炻器(せっき)に分類されます。





今回は土師器(土器)と須恵器(炻器 / 陶質土器)のお話になりますので、色調と質(硬さ)以外にも特徴を示しておきますね(*^・ェ・)ノ

土師器は素焼きの土器、つまり釉薬なしで焼成温度の低い野焼きの方法で焼かれた土器です。

野焼きは密閉性がないため自然と酸素が供給される酸化焔焼成であり、結果焼成温度が低く表面が赤茶色っぽくなります。

また成形方法として輪積み法で作られています。

一方で須恵器は窯焼きの土器で、釉薬なしで焼成温度が高い登り窯を用いて焼かれた炻器です。

窯構造を有しているため密閉性が高く、酸素が供給されないため還元焔焼成となり、発生した一酸化炭素によって粘土中の酸化物である酸化第二鉄が還元されて酸化第一鉄になるため色調が青灰色になります。

高温焼成なので須恵器の方が硬くなるのです(*^・ェ・)ノ

また須恵器の成形方法は轆轤(ろくろ)法です。

こうしてみると、何だか須恵器の方がしっかりとした立派な土器のように思えますが、実際にはそうではなかったようです。

「正倉院文書」によれば、土器の器種別の価格表から須恵器と土師器のあいだの価格差はほとんどないことが分かっています。

しかし蓋が付くものかどうかでおよそ倍の価格が付くそうです。

まぁ手間だし、妥当か( -д-)ノ




さて、前置きが長くなってしまいましたが、本題に入ります( -д-)ノ

土師器と須恵器の主な違いが製作技術や焼成方法であることが古い段階から分かっていました。

特に須恵器は高温で焼成するため、登り窯を使用する必要があり、この窯は斜面に作る必要があるのです。

平地でも登り窯を造れるけど、結局大量に土を盛って斜面を形成しなきゃならないのです( ・Д・)

そのため設置する窯の傍で取れる「山の粘土」を利用した可能性が想定されていました。

一方で、土師器は低温の野焼き法で焼成するわけですが、これは平地で行うものです。

現在でも東アジアや中米において野焼きで土器を焼く人々を見ることができますが、いずれも平地で行っています。

原理的には斜面でもできるのですが、面倒です。

例えば、キャンプに行ってバーベキューをするとして、わざわざ斜面でやりますか?

可能だけど、色々大変でしょう?( ・Д・)

なので野焼きは平地で行うもので、「平地で取れる粘土」が原料であると想定されてきたわけです( -д-)ノ

今回の研究ではこの『須恵器は山の粘土』、『土師器は平地の粘土』という想定を理化学分析によって明らかにしたのです(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

ハジ・スエの原料の違いを示すために注目したのが土器胎土のリン含有率です。

リンは肥料に含まれることから、土器胎土中のリン含有率が高ければ、原料の粘土は肥料がまかれた水田などで採取されたと言えると考えたわけです。

今回使用したのは平城京から出土した奈良時代後半の須恵器3点と土師器4点です。

平城京……利用した試料がどこのものか分からないと最初に書きましたが、、、

やはり奈良県、地元の遺物ですね!

手法は『破壊分析』なので試料数がとても少ないのは、こういった「理化学分析あるある」です。

土器試料を粉末状に砕き、1000度の高熱で不純物を取り除き、土器に含まれている化学成分の比率を測定したところ、土師器のリン含有率が1・39~3・62%と高かったのに対して、須恵器は0・02~0・08%と低かったそうです。

リンは水溶性で雨や水で流れてしまったり、植物に吸収されるにも関わらず、それでも土師器は高いリン含有率を示していたと判定しています。

文献史料等から奈良時代にはすでに定期的に田畑に肥料がまかれていたとみられ、このために土師器内のリン含有率が高まった可能性が指摘されています。

一方で須恵器の表面に見られる黒色の粒子は、炭化した木片「亜炭(あたん)」であることが示されました。

亜炭が含まれる粘土は主に丘陵地帯で採掘されることから、須恵器の粘土は山で採取された可能性が高いと言えそうです。

こうした結果から、土師器の原料は平地の田んぼで取れた「田土」、須恵器の原料は山で取れた「山土」の可能性が高いことが分かったのですヾ(´ω`=´ω`)ノ

今後更にこういった研究が進めば、土器の粘土の採取場所を調べたりすることも可能になるかも知れません。

そのためには新たな非破壊分析法を確立することや、それによって数を見ること、つまり試料数(N値)を増やすことが必要になってくるでしょう。

また土器胎土の中に肥料が含まれていると考えるであれば、農耕の始まった時期、少なくとも肥料の使用が開始された時期を推測する研究も行うことができることになりますね(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!




おわりに、ー土師器の名の由来ー

須恵器の名の由来は朝鮮語と話しましたが、土師器の方はというと……

大阪府、藤井寺市に「土師ノ里駅」という場所があるそうです。

ここは古墳時代の豪族、土師氏に由来する地名だそうです。

土師氏は土師器を生産していた豪族だったのでしょうか、これが土師器の名称の由来だそうです(*・ω・)ノ

土師もそうですが、須恵器の方も、全国に須恵村とか須恵町といった地名があるようです。

かつては色んなところで生産されていて今でも地名として残っているんですねヾ(´ω`=´ω`)ノ

・・・・・・

簡単な記事にするつもりだったのに、、、

土器を扱うと長くなるぜ!( ・Д・)



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2020ねん 10がつ 30にち(きんよーび、曇り)

一年半前の記事が下書きのまま発掘されました( -д-)ノ

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今回の考古学・歴史ニュースは「土器の研究から、日本のGの起源が中国である可能性が分かったよ!」ってことです!


*本記事ではすべてのGをGと表記する方向でいきますね( -д-)ノ


この研究は熊本大学の小畑弘己教授によるもので、土器表面に対するレプリカ法(圧痕法)を用いたものです。


より正確には「土器圧痕のレプリカ法」と言います。


土器の器面(表面)に何らかの要因で押し付けられた痕跡(圧痕)に対して、シリコンを流して型を取った標本(レプリカ)を電子顕微鏡等で観察して分析する手法のことです。





対象となった資料は宮崎県、宮崎市田野町の本野原遺跡(もとのばるいせき)で出土したものです。

この本野原遺跡は縄文時代後期の遺跡であり、西日本において最大級の集落跡が発見されています。


この遺跡から出土した約4300年前の土器と約4000年前の土器の器面からGの卵の痕跡が見つかったわけです。


本記事内で述べている検出されたGの「卵」というのは実際には「卵鞘(らんしょう)」と呼ばれるもので10~11mm程度のサイズだそうです。

この「卵鞘」の中に複数の卵が入っている構造なのです。

そのため「卵のさや」と書くのですね。しかし記事内では分かり易く、「卵」と表記します( -д-)ノ




今回検出されたGの卵は、中国南部が原産とされるクロGの卵と形態的に強い類似性を示しているということが分かりました。


クロGとは屋内に生息する種のGとして代表的なものです。

ちなみにこの屋内GであるクロGが縄文時代の遺跡から確認されたのは初めての事例のようです。


つまり今回の発見によって縄文時代の家屋の中にもGがいたことになります。

どうやら我々と”G”との戦いの歴史はとても長いようですね( ・Д・)



おわりにかえて、誰得? ”G”の歴史


現在の日本には、野生を含めると約50種類のGが生息するそうです。

そんなにいるのですねΣ(・ω・ノ)ノ

北海道産の私としてはほぼ海外でしか見ないのですが( ・Д・)


その50種類のGの中でも家屋内に住む種類はヤマトG、クロG、チャバネG、トビイロGなど10種類いるそうです。

ほんとそんなにいるのですね(゚Д゚≡゚д゚)エッ!?


こうした日本の屋内Gは、在来種のヤマトGとクロGの他は全て、原産地がアフリカだと考えられているそうです。


平安時代の文献にヤマトGとみられるものが記載されているのがこれまでの初出で、今回の発見でヤマトGがクロGと酷似する可能性が指摘されたわけです。

クロGは中国南部が起源の外来種とされており、今回の土器の証拠から約4300年以前に大陸から日本に渡来したか、あるいは実は外来種ではなく、日本在来種である可能性も考えられるようです。


こうして考古学ではGの起源にまで迫れるのです(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!



……ところで、個人的にGというとモンハンしか出てこないんですけども、

まぁ少なくとも、、、

Gはモンスター!( ・Д・)

↓”G”が嫌いなひと~?(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!↓

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2020ねん 9がつ 8にち(かよーび、晴れ?)

秋、来ないな~ι(´Д`υ)アツィー



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↑綺麗に残ってるね!( ・Д・)(「朝日新聞デジタル」の記事内画像より転載)



今回の考古学・歴史ニュースは「日本最古の独楽が出たよ!コマの歴史って古いのね!( ・Д・)」ってお話です(*・ω・)ノ



さて、独楽は「こま」って読みます。

あのくるくる回す玩具の「コマ」です。



下にタカラトミーが出している「ベイブレード」の画像を挙げましたが、独楽の歴史は古くからあり、現代まで続いている玩具です。

きっと誰かやってるのだろうけど、コマの型式的変化を見てみるのも面白いかも知れませんねヾ(´ω`=´ω`)ノ



独楽の名の由来


考古学って、どんな学問? 遺跡は全国にいくつあるの? そんな子どもたちの質問に答えてくれるWEBサイト「全国子ども考古学教室」(https://kids-kouko.com/別ウインドウで開きます)ができた。ありそうでなかった入門ガイドに、子どもたちはもちろん、大人の歴史ファンからも歓迎の声が聞こえてきそうだ。( ・Д・)
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ベイブレードは基本的に誰か友達と対戦することを面白みとしていると思います。

所謂、「喧嘩独楽」です。

私は小学校の頃、「画鋲回し」で喧嘩ゴマしてましたね( -д-)ノ




勝つためにはより強い画鋲を探して独りで複数回して比較したりするわけです。

ベイブレードでも、独りでより強いベイブレードを探して、パーツを組み変えたりするわけです。


そう、コマ遊びは独りで遊ぶことが基本なのです。

だから漢字では「独りで楽しむ」と書いて独楽(コマ)なのですね(*・ω・)ノ




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独楽の歴史

さて、最古の独楽は「ひねりごま」であったろうと考えられています。

どんぐりを指先で回すような最も単純なものです。

どんぐり回して遊ばれても、考古学的には分からないので証拠はありません( -д-)ノ


……もし古代において子供らによって超強いどんぐりが選択されて、何千・何万回と回されて、

上手いこと依存体として残り、出土し、

どんぐりの先端が回転によって摩耗されていることが顕微鏡観察で確認され、

現生のどんぐりを百回~千回と回してみて、同様の使用痕(?)あるいは擦痕が確認できた場合に、

最古のひねり独楽の可能性を指摘できます( -д-)





まぁなので、考古学上・歴史学上分かっている最古の独楽は「ぶちごま」です。

「ぶち」っていうのは「例文:ジャイアンがのび太の顔面をグーでぶった!( ・Д・)」の「ぶつ」です。

つまり叩くって意味なのですが、この独楽は鞭などで独楽の側面を叩くことで回転させるタイプの独楽になります。


そのため、「鞭ゴマ」や「叩きゴマ」といった名称でも呼ばれます。

また「鞭などで叩くことでようやく働く(回る、機能するの意)」ことから「無精ゴマ」とも呼ばれます。

面白いですね(。・ω・)ノ゙




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↑日本国内で出土した独楽の形態変化(安芸毬子 2002「出土した人形と玩具」『東京大学コレクションX 加賀殿再訪東京大学本郷キャンバスの遺跡』pp.102-116、 東京大学出版会、東京)


上に挙げた図が、日本において出土した独楽の編年表になります。

こう見ると木製なのにけっこう残ってるものですねΣ(・ω・ノ)ノ

ちなみに先ほど挙げた「これまで最古であった独楽」はこの編年表の「1」の図版番号のものと同一資料です。



さて、表を見てみると、7~8世紀の最古級の独楽はいずれも高さがあるタイプであり、「ぶちごま」と考えられています。


時代は一気に飛んで、13世紀には平たい「ひねりごま」が見られ、14世紀は「ひねりごま」ばかり出土しています。

先に述べたようにひねりごまが最古のタイプと考えられていますが、これは編年における順序が逆転しているのではありません。

最も基本的な独楽であるひねりごまは現在まで続くもので、出土事例としてはこのような「ぶちごま」との逆転現象のように見て取れるというだけです(。・ω・)ノ゙



17世紀には上半分がつるっとしたものばかり出ますね。

これが紐を使った「投げゴマ」になります。

表では最古の独楽も上半分がつるっとしていますね( ・Д・)

恐らくこれは原礫面のような無加工部を示していて、下部は加工痕を示しています。

17世紀のものは同じようにつるっとしていますが、わずかに縦方向への加工痕が見て取れます。

この部分に紐を巻き付けたわけですね(。・ω・)ノ゙



ぶちごまの段階から喧嘩ゴマの性質はあったようですが、不明です。

きっと最も原初的なひねりごまの時から喧嘩ゴマの性質はあったのでしょうね。

独楽は独りで楽しむと書きますが、やはり友達とワイワイするのが楽しいのでしょう。

でも競争心も人の大事な要素です。

喧嘩ゴマで勝てるよう、より強く回せるよう工夫した結果として投げゴマが発明されたと考えられています。




江戸時代の天保年間(1830年 - 1843年)までには更に工夫され、独楽の胴部に鉄輪を加えた「鉄胴独楽」が作られます。

1870年代の明治中期までには独楽全体が金属で作られる所謂「ベーゴマ」が作られます。

そして1999年に「ベイブレード」が登場します(*・ω・)ノ



日本における独楽の発達史はざっとこんな感じですね。

……「おわりに」でベイブレードの話をちょっぴりしますヾ(´ω`=´ω`)ノ





最古の独楽の発見!

さて、今回の発見の舞台は滋賀県、大津市の南滋賀遺跡です。


古墳時代後期(6世紀後半~7世紀前半)に帰属する木製独楽が1点が出土しました。




上に挙げた写真に見られるように、長軸は約6cm、直径約4.4cmで、「ぶち独楽」の形態です。

南滋賀遺跡では古墳時代後期の集落址が検出され、該当資料の出土地点は集落内にあった溝だそうです。




この溝に堆積した同じ層から土器が出土しており、この土器が独楽の時期判定に用いられました。


また同層位から木製の斎串(いぐし)や桃の種といった祭祀に使われる道具も出土しています。


先行研究事例でも独楽が祭祀道具と共に出土しており、当時の独楽は遊戯具ではなく、祭祀具としての側面が強い蓋然性が指摘されています。





また南滋賀遺跡では古墳のドーム形石室や大壁建物跡が検出されていることから、渡来系の人々も多く住んでいたと推察とされています。


よって当時、独楽は朝鮮半島からやって来た大陸文化・先進的文化の一つだったと推定されています(*^・ェ・)ノ





先に述べたように、これまで最古とされていた独楽は、7世紀後半に帰属する藤原宮跡(奈良県橿原市)や石神遺跡(奈良県明日香村)で出土した資料です。



なので、今回の発見は日本最古の独楽として最大で1世紀ほど遡る大発見となりました!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!






おわりに

いや、ほんと、こういう発見の話を聞くと、木製の独楽がよく1400年も残っていたな~って思いますねΣ(・ω・ノ)ノ


……ところで、今回の記事はなんだか当初の予定より長くなってしましました。

独楽の編年図表を見つけたのでテンション上がったのかも知れません( -д-)ノ


また教え子と休憩時間にベイブレードで一緒に遊んだ思い出もあるもので、それもあるのかな(*^・ェ・)ノ



既に書いたように、「投げゴマ」はより独楽を強く回転させるために工夫された結果誕生しましたが、ベイブレードもより強くがポイントになっています。

この投げるという技術は紐を使ってる頃においては、色々な技があるそうで、技を磨くというのも楽しみのひとつだったようです。



一方でベイブレードでは紐は使わず手軽に回す機構(教え子宅で2種類の機構を確認しています)があり、誰でもお手軽に強く安定して回せる仕組みになっています。

これはこれで、商業性を背景に玄人志向から普及志向へと進化の方向性が変えられていて、面白いなと思います(*・ω・)ノ


それでいて、右回転・左回転を選択できたり、ベイブレードによっては回転方向によって性質が変わったりと大人でもハマりそうな玄人向けのカスタイマイズ性が残されているのも面白いなと思います。



古代から近代にかけての独楽は資料数も少ないですが、ベイブレードであれば、現在でも入手できますし、画像や情報が比較的簡単に手に入ります。

ベイブレードも強さを求めて、パーツ数や金属パーツが増えたり、サイズ自体もより大きく、より重く、デザインもより鮮やかにと変化していることが良く分かると思います。



現代であっても、我々は物質文化の中に生きているわけで、

やはり様々な部分で考古学を使おうと思えば使えるのだなと改めて感じました。



若い世代もベイブレードなら思い入れがあるかなと思って書きましたけどもヽ(TдT)ノ


どうですかね?

今回の記事……

考古学のお勉強になるよねっ!???( ・Д・)



【2020.9.13 追記】
考古学とはどのような学問か?

今回はその一端に触れたと思っておりますが、ちょっと伝わりにくいかなと感じたので追記します。



今回の記事では『モノの変化』に注目して欲しかったのです。

独楽は時期ごとに形態が変化していきましたね。


考古学はモノを扱いますが本来的に人類を研究します。

そのためまずモノの形態などの変化をみます。

次にそれが何故変わるのかを考えます。


これは学問的には難しい問題なのですが、今回のケースでは比較的分かりやすく、より強く回転させることを目的に変化していました。

ベイブレード等の近現代の独楽では形態だけではなく、「素材や重量」も変化していました。

特にベイブレードでは「デザイン性(文様)」も大きく変化していました。

またこの事例では手軽に安定して強く回転させることを目的として紐に替わる機構が生まれていました。

ビジネスとしての消費者を飽きさせない工夫として、あるいは購買意欲をそそるための工夫として、独楽本体の変化だけではなく、多彩なパーツも生み出されていました。



結局何が言いたいかというと、、、

モノの変化の裏に人間の心を捉えることが大事だよってことです。


今回は私がテキトーに深くも考えずに理由付けを行いましたが、、、

皆さんはモノの変化やその裏に潜む理由について何か感じましたか?

何かあれば是非コメント欄にご一報をお待ちしておりますヽ(・ε・)人(・ε・)ノ ナカマ


(……結局、追記も小難しい上に長くなった( ・Д・))

結論:ひとまずモノの変化を楽しめたらOK!!!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!


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2020ねん 8がつ 11にち(かよーび、曇り)

一歩ずつ進むのだ!( ・Д・)


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今回の考古学・歴史ニュースは「日本最古の土偶の事例を紹介するよ!( ・Д・)」ってお話です(*・ω・)ノ


『最古の~』ってのは話題になりやすいので、遺物の素材ごとに、あるいは地域を細分して、色々な最古があるわけです。

例えば同じ「最古の土偶」でも、「北海道最古」とか、「ヨーロッパ南部最古」とか色々パターンはあるわけです( -д-)ノ


今回ご紹介するのは純粋に日本における最古の土偶の事例です。

両者共に縄文時代草創期の事例で1万3000~1万1000年前頃の遺物と推定されています。







三重県、粥見井尻遺跡の事例

粥見井尻(かゆみいじり)遺跡は、三重県松阪市飯南町粥見字井尻で現在は「粥見井尻遺跡公園」として一般公開されています。

この遺跡では1996年に国道のバイパス工事に伴う緊急発掘が実施され、その際に一番最初の写真やこの直上に挙げた写真の2点の土偶が出土しました。

この遺跡は縄文時代草創期(1万3000~9000年前)の集落遺跡であり、これらの日本最古級の土偶の他、竪穴住居4基、無文土器片資料群、石器製作址が見つかっています。



一番上に挙げた写真だとこの粥見井尻遺跡で出た2点の最古級土偶が映っているのですが、左側のやけに小さいものは『土偶の頭部』です。

この上に挙げた全体が分かる資料(所謂、粥見井尻土偶)であっても、長軸7cm、短軸4cm程度なのでかなり小さいです。

前回紹介した中国の最古の彫像もめちゃくちゃ小さかったので、人類の最初期のフィギュアはミニチュアばかりだったのかも知れませんね( -д-)ノ




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↑日本最古の土偶!ヾ(´ω`=´ω`)ノ(「Twitter」”古墳紹介bot”さんの投稿画像より転載)



滋賀県、相谷熊原遺跡の事例

こちらは滋賀県、東近江市に所在する相谷熊原(あいだにくまはら)遺跡で出土した土偶です。

この遺跡からは5基の竪穴住居址が検出されており、間違いなく縄文時代草創期に帰属する日本最古級の土偶(通称、相谷土偶)として知られています。

サイズは長軸3.1cmとやはり小さいですね。

頭部や手足の造形はありませんが、乳房やくびれなど女性らしさは十分に表現されているとの評価です。

やはり世界的にみて、地母神だとか、母なる大地、母なる海、母なる地球とか場合によって様々な表現がありますが、新たな生命を生み出す女性を神聖視する意識は初期人類にとって共通のようですね(*・ω・)ノ




おわりに

やはり『最古』ってサイコーなわけですが(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

考古好き、歴史好きの皆さんは、古さだけに囚われず、

とある現象がなんで広く共通するのだろう?とか

この先、どうやって変化していくのだろう?とか

時間と空間の変化に思いをはせて欲しいなと思います!( ・Д・)

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2020ねん 7がつ 20にち(げつよーび、晴れ)

暑い!毎日うなぎ食べたい!( ・Д・)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




今回の考古学・歴史ニュースは「縄文時代のクワガタって遺るらしいよ!( ・Д・)」ってお話です(*・ω・)ノ


『まだ食べれるよ!』シリーズでも、すごい残り方している遺物をこれまで紹介してきました。

(*上記タイトル以外は常用の『残る』で表記していきます( -д-)ノ)

けっこう変わったものが意外に残るものなんですよね。

本記事の最後にこれまでの『よく残ったね!( ・Д・)』な記事のリンクを貼ることにして、、、





2500年以上前のクワガタが『完形』で検出されたよ!

奇跡のクワガタが発見されたのは奈良県、御所市條(ごせしじょう)に所在する秋津遺跡です。

検出されたクワガタは縄文時代晩期(約2800~2500年前)に帰属する土層中から見つかったとのことです。





検出状況は上に挙げた図のように、弥生時代の田んぼなどの層の下から縄文時代の水の流れや木の根が見つかり、川沿いに生えた常緑樹のアカガシ(ブナ科)の根元で、クワガタは仰向けの状態で土に埋もれていたそうです。

不幸にもクワガタが木から落ち、川の増水などで一気に埋まってしまった可能性が推察されています。

クワガタの死後、腐敗する前に速攻で埋没し、その後も近くの河川の影響で程好い水分が保たれる状況にあったと考えられています。

湿地帯とか特に泥炭地とかは動植物依存体を中心として遺物の残りが非常に良いものです。

水分のおかげで真空に近い状態でパックされ続けたことで、細菌による分解を免れることがあるのです(*・ω・)ノ





近くで見ると本当に保存状態がいい!( ・Д・)

検出されたのは『オスのノコギリクワガタ』と同定されています。

私たちがこの写真をパッと見て、「あ、ノコギリクワガタだ!v( ̄∇ ̄)v」って分かるように、外見上に現生種との違いはみられません。

全長は約6.35cmで結構大きいですよね。

約2.25cmの立派な大あごを持っています。

確認できなかったのは左前あしだけで、他は大あごから爪先までほぼ完形で残っています。

顕微鏡で観察すると体毛まで残っているそうですΣ(・ω・ノ)ノ

当然のことですがこのような発見は極めて珍しく、当時の環境や昆虫学の研究にも有効な資料になると考えられています。


↓こんなところで記事のリンクを紹介(*^・ェ・)ノ




↑たくさんありました。是非『脳みそ』でも検索してみてください(*・ω・)ノ


おわりに

このクワガタは樹脂で保存処理されて収蔵されているそうです。

所蔵先は考古学では有名な奈良県立橿原考古学研究所です。

この研究所が調査担当したとは言え、よく見つけたなと思います。



私は『認識が発見を作る』を常々思っています。

『ないと思ってたら、ない』のです( -д-)ノ



弥生時代の土層の下、地表下2mとは言え、「木の根なんて周囲ごとザクっと掘り飛ばす」ことは考古学の現場では往々にしてあることだと思います。

「縄文時代の水の流れ」を認識して、同時代に帰属する木の根として遺構ないし遺物として慎重な調査を行ったからこその発見だと心底思います。




もちろんこのような形で残ったのは奇跡!

そして、

検出した技術も神がかっていると思います。


ただの運じゃない、努力が奇跡を生むんだぜっ!( ・Д・)

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2020ねん 7がつ 19にち(にちよーび、まぁまぁ晴れ)

効果あり!素数足し算、日課にする!( ・Д・)

あとはイライラ対策用の牛乳と、鬱対策用のカルピス飲めば元気ハツラツのはず(*^・ェ・)ノ


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




今回の考古学・歴史ニュースは「有名な神風で沈んだ船が見つかったよ!( ・Д・)」ってお話です(*・ω・)ノ



教科書で歴史上の人物の発音は変化している!

さてさて、日本の教科書っていつの頃からか、「現地の発音に合わせる」って仕様に変更になったのご存じですか?

なので、(歴史の教科書では特に)有名なフランシスコ・ザビエルは、今では「シャビエル」なんですよ。

私は昭和生まれですから当然「ザビエル」勢ですが、皆さんは如何ですか???ヾ(´ω`=´ω`)ノ



ザビエル勢にとって(こんな言葉は今作った言葉です( -д-)ノ)、元寇で日本に攻めてきたのは「フビライ・ハン」ですよね?

シャビエル世代にとっては「クビライ・ハン」だそうです。

モンゴル語のラテン語への転写だと『Qubilai Qa'an』、このように書くそうなので、確かにクビライですよね。

じゃあ「皇帝(称号)」の意味の発音も「カーン」で良くない?(*^・ェ・)ノ

とか思いますが、まぁ大人の事情でしょう、知らんけど( -д-)ノ




クビライ・ハンと元寇と神風とぼく


さて、日本史で習ったことを簡単におさらいしましょう。

表記は新世代に合わせます(*・ω・)ノ


クビライ・ハンは、チンギス・ハンの血族として1215年に生まれます。

長いことモンゴル王朝内でハーン(カーン)の名を競って争い、1260年に漢語風の名を始めて付けた王朝を創始します。

それが『元』です。

簡単に言うならば、元はクビライ・ハンの政策により中国王朝化したモンゴル王朝です。



この元が日本に攻めてきたのが『元寇』です。

『神風』という名の、言わば台風でクビライ・ハンの船団は大打撃を受けて、二度の日本侵略に失敗するというお話です。


arukemaya919
↑再掲


発見されたクビライ・ハンの軍船

Twitterの情報なので今のところ情報も少ないのですが、元寇で沈んだ船が発見されたそうです。

水中考古学では基本的に歴史書に残っているものを探します。

続報というか論文読まないと詳細は不明ですが、史実を裏付ける発見はこれが初めてのようです。



以前紹介した、バルト海などの静かな海では船の残りも良好ですが、さすがに大荒れの日本海だと残ってるだけで奇跡のように思えます。

上の写真で見ても、、、

「これが船ですか?( ・Д・)」

ってなります。



まぁ日本海のど真ん中にこれだけしっかりとした木材が沈んでいるのは不自然ですし、『13世紀の遺構』とか「これは1281年に沈んだ船」と書かれているので、何らかの遺物(たぶん陶器とか)によって年代が割り出されているのでしょう。


・・・・・・

・・・

というか一回目の元寇って1274年……


わずか7年の差を判定できる基準があるのか、、、

文字か、文字なのか???

やはり続報に期待です( -д-)ノ





おわりに

以前は特段理由もなく水中考古学を毛嫌いしていましたが、やはり発見があるのは面白いですね。

そして文献史料で示されている事柄を、考古学的にクロスチェックするという姿勢は好きです。



【追記:2020/07/19】
↓沈没船関係の記事へのリンクを載せておきます(*・ω・)ノ







いいなぁ……

潜りたいなぁ……

マヤ文明でも場所によっては水中考古学はできるけどさ

いや、ティカルでもできるもんね!


ティカルは緑の海の中だからねっ!( ・Д・)

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2019ねん 7がつ 11にち(もくよーび、晴れ)

予定していた統計学、データ分析に関する基礎的な勉強を終えた。

ひとまず手持ちのデータを使っての考古学への導入実践も成功した。

だからずっと記事書いてなかった!

ごめんねっ!!!( ・Д・)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・



今回の考古学・歴史ニュースは、「史実として家康の居城であった駿府城から、何故か秀吉の金箔瓦が大量に見つかったよ!」というお話です(*・ω・)ノ


【目次】
  1. そもそも徳川家康と豊臣秀吉の関係とは?
  2. 金箔瓦の出土状況からの推測
  3. 金箔瓦の歴史
  4. おわりに


1.そもそも徳川家康と豊臣秀吉の関係とは?

1582年に起きた「本能寺の変」によって織田信長の死後、家臣であった羽柴秀吉は天下人としての道を突き進んでいきます。

この本能寺の変はドラマや漫画でもよく題材として取り上げられ、とても有名ですね( -д-)ノ

このビッグイベントの後すぐに、羽柴秀吉は家康を家臣にしようと考えますが、家康はこれを拒否します。

しかし秀吉が僅か3年後である1583年に関白となり、翌年1584年には正親町(おおぎまち)天皇から豊臣の姓を賜って豊臣秀吉として名実ともに天下人となります。

これを受けて家康は豊臣秀吉の家臣となります。

豊臣秀吉は家康を重用し、期待に応えた家康の官位を上げ続け、羽柴姓も与えました。


1598年に豊臣秀吉が病死した後、内大臣の家康が朝廷の官位で最高位となります。

また豊臣秀吉から息子の秀頼が成人するまで政事を家康に託すという遺言を受けていたため五大老筆頭として認められるようになります。

その後、家康は自身の権力を利用し、豊臣秀吉が禁じた大名同士の婚姻を成立させるなどの行為から反発を買い、結果として豊臣家と対立して滅ぼしてしまいます。

まぁこれがよく「家康は狸」と言われる所以ですね( -д-)ノ






arukemaya458


2.金箔瓦の出土状況からの推測

さて、今回の発見があった場所は駿府城(すんぷじょう)です。

この駿府城は静岡県、静岡市葵区に所在しています。

上に挙げた1つ目の画像に見られるように、駿府城は1635年の火災により天守が焼失しました。

その後は天守台(天守の下の石垣造りの土台)だけが残っていましたが、1896年(明治29年)に当時の軍部の下で天守台は取り壊され、その土砂で本丸堀が埋め立てられました。

静岡市では、かつて天守が建っていた跡地の整備方針を決定するため、事前に天守台の正確な位置や大きさ、石垣の残存状況などの学術的データを得ることを目的として発掘調査が計画されました。

この発掘調査は、2016年に開始し、2020年まで実施予定となっています。

駿府城は駿府城公園として公開されており、上の2つ目の画像のように公園敷地内の一部が発掘調査対象区域なのです。

まぁ恐らくは静岡市が観光資源として活用するために学術調査を行った上で天守閣の復元を行うのかなと個人的に思っています( -д-)ノ




arukemaya460




さて、先ほどの年表にもあったように、駿府城は2度、築城されています。

この2度目の築城の際に、天守を完成させたのが家康です。

この時の天守台(復元)の写真が上の1枚目のものになります。

今回のより古い天守台は家康期の天守遺構と重なる配置から検出されており、3枚目の写真のように旧天守台の一部が残存しているのが確認されました。

2枚目の写真から分かるように2つの遺構は南東角で重なっています。

この天守台は南北約37m×東西約33mで新天守台(家康期)のものよりも一回り小さいものであり、旧天守台を壊すことでその周囲の堀を埋め立てて、その後に新天守台が建造されています。

この埋め立てられた旧天守台周辺の堀から、330点もの大量の金箔瓦が出土したのです。

この旧天守台の石垣を建造する技術は新天守台とは異なっており、旧天守台の石垣では自然石を積み上げた野面積みの技術を用いていることが豊臣期の特徴です。

また金箔瓦を作る技術も豊臣期の特徴を示しています。

公式の発表では、発見された旧天守台は1590年に江戸に向かった家康の代わりに入城した中村一氏が築城したものとされています。

でもそうなると、「1585年に築城が開始された1度目の家康の天守台はどこなのか?」という問題に突き当たるのではないかと思います。

この時代に関して門外漢ではありますが、出土した遺物と遺構から、今回発見されたのは家康による一度目の天守台ではないかと思います( ・Д・)

一氏が入城したのが1590年であり、この最初の天守台は1588年に完成したばかりですから、そのまま利用した可能性もあるでしょう。

戦国時代で城主が変わると天守が変えられることが一般的でしたが、この駿府城の場合、落城したわけではありませんし、元の城主である家康は秀吉のお気に入りなわけですから、一氏が天守に手を加えたとしても一部であり、天守台の石垣などの基礎部分はそのまま利用したと考えられるのではないでしょうか。

家康が天下統一を果たしてから駿府城に戻り、二度目の築城を行ったのは過去に自分が豊臣家に仕えていた際に築造した天守を、あるいは豊臣側の一氏が少し手を加えた天守(どのみち豊臣期様式)を変えたかったからかも知れません。

やはり史料として中村一氏が築城したということが記載されておらず、かつ考古学的にも3期に渡る遺構が確認されていない以上、今回発見された旧天守台を中村一氏の城とするのは飛躍があるかなと思います( -д-)ノ

(もしかしたら史学的根拠があるのかも知れません。知っている方は是非コメントお願いします!)


arukemaya461





3.金箔瓦の歴史

金箔瓦は1576年に信長が築いた安土城で初めて本格的に導入されました。

元々、掘立小屋のような簡易な建造物しかなかった城に、礎石を用いた瓦葺きの本格的な建造物が全面的に採用されたのもこれが初めてと考えられています。

この織田信長によって始められた金箔瓦の採用を含む新しい建築様式は、「使用制限」があり、織田政権の財力・権力の象徴的として機能しました。

一方で続く豊臣秀吉は自身が金箔瓦を用いた城を築城するだけではなく、豊臣家の一門や重臣たちの間で普及させました。

そしてその後、近世城郭の普及に伴ってに金箔瓦も全国に広まっていきました。

ですので金箔瓦を有する城は多数あるわけで、近年の城跡の調査によって全国の広域に渡って金箔瓦が出土することが確認されています。

上に挙げた写真の京都府にある聚楽第(じゅらくだい)跡や、宮崎県の佐土原城、福島県の会津若松城など全部で41の城郭で確認されています。


arukemaya463
↑金箔瓦を有する城郭の分布(「攻城団」の記事内画像より転載;*上述の41の金箔瓦を有するお城について分かり易く整理されていますので、興味ある方は是非覗いてみてください(*・ω・)ノ)






さて、上に挙げましたように、金箔瓦には大きく2つの様式があります。

信長時代の金箔瓦は装飾瓦の凹んだ部分(地の部分)に金箔が貼られ、模様部分を黒く浮かび上がらせるという方法が取られていました。

一方で秀吉時代の金箔瓦は、凸部分である紋様部分や縁の部分に金箔が貼るという方法が取られていました。

また金の純度は信長時代の方が高かったようです。

秀吉の時代は豪華に飾り立てる「見せる」お城の重要性が高かったため、たくさん金箔を使うには純度を落とす他なかったのかも知れませんね( -д-)ノ




4.おわりに

たまたま瓦の研究をしていた先輩がいたため、瓦の分類や編年が存在することは知っていました。

まぁ瓦から時期や帰属する武将が分かるのは、土器の専門としてすっと理解できるんですよね。

似ている(?)と言えば似ているので( -д-)ノ

一方で城郭考古学なるものもTwitterという文明の利器のおかげで最近知りました。

詳しくはもちろん知りませんが、対象を「城郭」を中心にしているということなのでしょうか……

(では土器を扱っていれば「土器考古学」なのかという疑問も残りますが、『~(なんちゃら)考古学』あるあるなのでそっとしておきます( ・Д・))

城郭とは、城(または町)を敵の攻撃から守るための施設。城の囲い。くるわ。更に広く、城(wikiより転載)。

論文に当たっていませんが、さらっと調べたところ、やはり城郭を対象とした考古学のようですね。

私には「城郭考古学」としてカテゴリー化する必要があるほど、この分野が中近世の歴史学・考古学に強い影響を与えるのか、その評価はできません。

しかしながら石垣等の遺構の築造技術からの分類と編年作成は面白いなと思います。

城郭の総数が気にかかるのと、編年といっても築造年代は史学で大体分かっているのではないか、よほど特徴的な技術でければ同時多発的に発生するのではないか、予算等の事情で築造方法を簡易化する(旧技法を用いる)可能性もあるのではないかと諸々の疑問が溢れます。

批判しているかに見えるかも知れませんが、ぱっと疑問が溢れるということは「面白い」ということです。

どれも検討する必要があり、その複雑さが研究をより一層面白くするわけですからね(注:ドMではない( ・Д・))

さて、古代マヤの建造物に関するこの手の研究は比較的進んでいませんし、応用できるかは分かりませんが、建造物遺構に対する視点として是非加えておきたいなと思いました。

お城好きな方々も多いと最近身に染みて分かるようになりましたが、私も石垣を見れば時期と築造方法を同定できるようになりたいものです。

次の記事は「石垣の分類」かな!?

・・・・・・ところで世界も広いし、歴史の範囲も広いねっ!( ・Д・)

苦手ながらも専門外のこういう記事を書いていけば、慣れるだろうし、見識も広がるかと思っていましたが道程はほんとに長いなと思います。

でもまぁのんびり頑張ります!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

↓ぽちっとな!……ぽ、ぽちっとな!!!( ・Д・)↓

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2019ねん 6がつ 22にち(どよーび、激しく雨)

ここの日記スペースに何を書くべきかをいつも悩む(´・ω・`)

下手すると本文以上に悩んでいる( ・Д・)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・

arukemaya443
↑仙台市、沓形遺跡の所在(「Googleマップ」より画像を転載)


今回の考古学・歴史ニュースは、「仙台市、沓形(くつかた)遺跡で弥生時代に水田を廃絶してしまうほどの大津波の痕跡が見つかったよ」というお話です(*・ω・)ノ

さて、前回スマトラ島沖地震を発端とした過去の大津波被害について考古学調査が明らかにしたよというお話を紹介しましたが、今回は日本の事例です。


↓これです(*・ω・)ノ
↑もう読みました?ヾ(´ω`=´ω`)ノ


上に挙げた図から分かるように、沓形遺跡は,宮城県、仙台市の東部にある遺跡です。

標高2~4mの後背湿地に立地しており、現在の海岸線から約3.8~4.km内陸に位置しています。

この沓形遺跡では最も新しい層では近現代の水田造営の痕跡が見られる層が確認されていますが、古くは縄文時代から弥生時代、古墳時代、平安時代と水田が営まれ続けた地点であることが分かっています。








この遺跡は2007年にに地下鉄東西線建設に伴う試掘調査が実施され、調査面積は213,600㎡にも及びます。

上の1枚目の写真から分かるように広大な遺跡であり、良く見ると「白いライン」が無数に走っているのが見て取れます。

これは2枚目の写真で分かるように、古代の「畦(あぜ)」を示したラインになります。

ちなみに「畦(あぜ)」とは「稲作農業において、水田と水田の境に水田の中の泥土を盛って、水が外に漏れないようにしたもの」です。       (wikipediaより引用)

分かり易い図を探していたら「畦カバー」なる商品の紹介画像を見つけたので、貼っておきました(いつものように回し者ではありません( -д-)ノ)。

上図の中で「ピンク色の矢印が付いている部分」が畦に相当する箇所であり、植えてある稲の周囲にある盛り上がった部分のことを言うわけです。


arukemaya440



さて、この沓形遺跡の地点は先に述べたように、現在の海岸線から4kmほど内陸に位置していますが、今からおよそ2000年前の弥生時代には2kmほど内陸に位置していたようです。

発掘調査から弥生時代に1度、この一帯が大きな津波被害を受けたことが確認されました。

上に挙げた写真で見られるように、水田を覆う「砂の層」が確認されたのです。

この砂は粒度組成分析などによって海浜起源の砂であることが明らかになりました。

この砂の層によって弥生時代中期の水田跡は完全に覆われており、津波被害によって廃絶したことが推定されました。

そしてこの場所に再び水田が営まれるのは古墳時代前期であり、つまり約400年後にようやく再開したことから確認された津波被害は当時のの集落に大きな影響を与えたことが推測されます。

この発見に伴い、沓形遺跡を中心とする周辺地域での津波堆積物の分布調査が実施されました。

それによって約2,000年前に生じた津波の遡上距離は当時の海岸線から約4.2㎞と算定され、2011年に発生した東日本大震災の津波(遡上距離約4㎞)と同規模の大津波が弥生時代に仙台平野を襲ったことが明らかになりました。

また沓形遺跡は2014年まで複数回の発掘調査が実施され、弥生時代中期に営まれていた水田域は東西約300m、南北約1.2km、面積20haを超える広範囲に及ぶことが判明しました。

これが全て約2000年前の津波被害で廃絶されてしまったことが分かったのです( ・Д・)



・・・・・・・・・・・・・・・・・・



ここ最近、多忙を理由に記事の紹介ができていませんでした。

時間が取れてもサクッと書けるような記事を選択していたので、特に考古学関係のニュースには触れていなかったです。

「考古学・歴史ニュース」という副題に恥じぬよう善処していきますね( ・Д・)( ・Д・)

前回のスマトラ島沖地震・津波関連記事を書いていた時から、日本における事例の紹介をしようと思っていたので、ようやく紹介できてよかったなと思います。

この事例では「東日本大震災と津波被害の前に」この範囲まで津波が到達して大被害をもたらしていたことが考古学的に分かっていたわけです。

こういった古代の地震や津波の被害が判明している事例は他にもたくさんあると思いますが、現代の地震・津波に対する避難対策といった防災にどうにか役立てることはできないものかと思いますね(。・ω・)ノ゙

↓応援よろしくお願いしますっ!ヾ(´ω`=´ω`)ノ↓

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2019ねん 3がつ 16にち(どよーび、曇り)

もうすぐ新年度。

今年はやりたい研究が出来る最初で最後の年かも知れない。

なので、ちょっと本気出してみることにしたよ!( ・Д・)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・



今回の考古学・歴史ニュースは『奄美大島で色々見つかったよ!』です!(*・ω・)ノ


今回の発見は、鹿児島県の「奄美大島」における発見です。

色々と発見が多いのですが、一番の発見は1万3800年前の土器片が出土したことでしょう!

ちなみに世界最古の土器は(中国の例とか諸説ありますが……)日本の青森県、大平山元I遺跡の縄文土器(約1万6500年前)です。

今回の発見はもちろん奄美大島で最古となります。

そして国内どころか世界的にみて最古級の発見となります。

ところで、奄美大島ってどのような場所なのでしょうか……




ほんっとに綺麗ですよね~。

私もこういう場所をフィールドにして調査したいですね!( -д-)ノ


・・・・・・・・・・・・・・・・・・


ということで、今回の発見の舞台は奄美大島にある天城町西阿木名(にしあきな)地区内の下原(しもばる)洞穴遺跡です。

調査者は鹿児島女子短期大学と天城町教育委員会だそうで、2015~2016年に第1次調査が行われ、2019年3月から第2次調査が行われています。

この下原洞穴の中からは、先に述べました最古の土器(1万3800年前)の他に、石器製作工房や埋葬遺構も発見されています。


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人が火をおこした跡(炉跡)と考えられる炭化物集中の痕跡も見つかっており、時期は2万5000年前と推定されています。

その他の発見は比較的新しいものですが、6000年前にまで遡る生活・居住の痕跡、4000年前の石器、2500~3000年前の人骨や貝製品、土器などが出土しています。

このような様々な発見があった中で、奄美大島に関する考古学的側面からの評価が変わりました。

それは今回の奄美大島における最古の土器の発見により、奄美大島では日本列島と大差ない時期に土器文化が始まったと考えられるようになったことです。


日本列島においてこのような古い時期の人々は移動しつつ生活していましたが、奄美大島では環境的制約から定住に近い状態だったと思われます。

そのためこの洞窟内からは様々な時期に関する色々な遺物・遺構が集中的に見つかるわけです。

その点を高く評価し、今後も天城町教育委員会は下原洞穴遺跡での調査を継続的に行っていく模様です。

今後の更なる発見に期待ですね!(・∀・)つ


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