あるけまや -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

    お金にならない考古学をお金にしよう╭( ・ㅂ・)و ̑̑ グッ ! 考古学・歴史ニュースの決定版╭( ・ㅂ・)و ̑̑ グッ !

    日本

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    2020ねん 7がつ 20にち(げつよーび、晴れ)

    暑い!毎日うなぎ食べたい!( ・Д・)


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




    今回の考古学・歴史ニュースは「縄文時代のクワガタって遺るらしいよ!( ・Д・)」ってお話です(*・ω・)ノ


    『まだ食べれるよ!』シリーズでも、すごい残り方している遺物をこれまで紹介してきました。

    (*上記タイトル以外は常用の『残る』で表記していきます( -д-)ノ)

    けっこう変わったものが意外に残るものなんですよね。

    本記事の最後にこれまでの『よく残ったね!( ・Д・)』な記事のリンクを貼ることにして、、、





    2500年以上前のクワガタが『完形』で検出されたよ!

    奇跡のクワガタが発見されたのは奈良県、御所市條(ごせしじょう)に所在する秋津遺跡です。

    検出されたクワガタは縄文時代晩期(約2800~2500年前)に帰属する土層中から見つかったとのことです。





    検出状況は上に挙げた図のように、弥生時代の田んぼなどの層の下から縄文時代の水の流れや木の根が見つかり、川沿いに生えた常緑樹のアカガシ(ブナ科)の根元で、クワガタは仰向けの状態で土に埋もれていたそうです。

    不幸にもクワガタが木から落ち、川の増水などで一気に埋まってしまった可能性が推察されています。

    クワガタの死後、腐敗する前に速攻で埋没し、その後も近くの河川の影響で程好い水分が保たれる状況にあったと考えられています。

    湿地帯とか特に泥炭地とかは動植物依存体を中心として遺物の残りが非常に良いものです。

    水分のおかげで真空に近い状態でパックされ続けたことで、細菌による分解を免れることがあるのです(*・ω・)ノ





    近くで見ると本当に保存状態がいい!( ・Д・)

    検出されたのは『オスのノコギリクワガタ』と同定されています。

    私たちがこの写真をパッと見て、「あ、ノコギリクワガタだ!v( ̄∇ ̄)v」って分かるように、外見上に現生種との違いはみられません。

    全長は約6.35cmで結構大きいですよね。

    約2.25cmの立派な大あごを持っています。

    確認できなかったのは左前あしだけで、他は大あごから爪先までほぼ完形で残っています。

    顕微鏡で観察すると体毛まで残っているそうですΣ(・ω・ノ)ノ

    当然のことですがこのような発見は極めて珍しく、当時の環境や昆虫学の研究にも有効な資料になると考えられています。


    ↓こんなところで記事のリンクを紹介(*^・ェ・)ノ




    ↑たくさんありました。是非『脳みそ』でも検索してみてください(*・ω・)ノ


    おわりに

    このクワガタは樹脂で保存処理されて収蔵されているそうです。

    所蔵先は考古学では有名な奈良県立橿原考古学研究所です。

    この研究所が調査担当したとは言え、よく見つけたなと思います。



    私は『認識が発見を作る』を常々思っています。

    『ないと思ってたら、ない』のです( -д-)ノ



    弥生時代の土層の下、地表下2mとは言え、「木の根なんて周囲ごとザクっと掘り飛ばす」ことは考古学の現場では往々にしてあることだと思います。

    「縄文時代の水の流れ」を認識して、同時代に帰属する木の根として遺構ないし遺物として慎重な調査を行ったからこその発見だと心底思います。




    もちろんこのような形で残ったのは奇跡!

    そして、

    検出した技術も神がかっていると思います。


    ただの運じゃない、努力が奇跡を生むんだぜっ!( ・Д・)

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    2020ねん 7がつ 19にち(にちよーび、まぁまぁ晴れ)

    効果あり!素数足し算、日課にする!( ・Д・)

    あとはイライラ対策用の牛乳と、鬱対策用のカルピス飲めば元気ハツラツのはず(*^・ェ・)ノ


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




    今回の考古学・歴史ニュースは「有名な神風で沈んだ船が見つかったよ!( ・Д・)」ってお話です(*・ω・)ノ



    教科書で歴史上の人物の発音は変化している!

    さてさて、日本の教科書っていつの頃からか、「現地の発音に合わせる」って仕様に変更になったのご存じですか?

    なので、(歴史の教科書では特に)有名なフランシスコ・ザビエルは、今では「シャビエル」なんですよ。

    私は昭和生まれですから当然「ザビエル」勢ですが、皆さんは如何ですか???ヾ(´ω`=´ω`)ノ



    ザビエル勢にとって(こんな言葉は今作った言葉です( -д-)ノ)、元寇で日本に攻めてきたのは「フビライ・ハン」ですよね?

    シャビエル世代にとっては「クビライ・ハン」だそうです。

    モンゴル語のラテン語への転写だと『Qubilai Qa'an』、このように書くそうなので、確かにクビライですよね。

    じゃあ「皇帝(称号)」の意味の発音も「カーン」で良くない?(*^・ェ・)ノ

    とか思いますが、まぁ大人の事情でしょう、知らんけど( -д-)ノ




    クビライ・ハンと元寇と神風とぼく


    さて、日本史で習ったことを簡単におさらいしましょう。

    表記は新世代に合わせます(*・ω・)ノ


    クビライ・ハンは、チンギス・ハンの血族として1215年に生まれます。

    長いことモンゴル王朝内でハーン(カーン)の名を競って争い、1260年に漢語風の名を始めて付けた王朝を創始します。

    それが『元』です。

    簡単に言うならば、元はクビライ・ハンの政策により中国王朝化したモンゴル王朝です。



    この元が日本に攻めてきたのが『元寇』です。

    『神風』という名の、言わば台風でクビライ・ハンの船団は大打撃を受けて、二度の日本侵略に失敗するというお話です。


    arukemaya919
    ↑再掲


    発見されたクビライ・ハンの軍船

    Twitterの情報なので今のところ情報も少ないのですが、元寇で沈んだ船が発見されたそうです。

    水中考古学では基本的に歴史書に残っているものを探します。

    続報というか論文読まないと詳細は不明ですが、史実を裏付ける発見はこれが初めてのようです。



    以前紹介した、バルト海などの静かな海では船の残りも良好ですが、さすがに大荒れの日本海だと残ってるだけで奇跡のように思えます。

    上の写真で見ても、、、

    「これが船ですか?( ・Д・)」

    ってなります。



    まぁ日本海のど真ん中にこれだけしっかりとした木材が沈んでいるのは不自然ですし、『13世紀の遺構』とか「これは1281年に沈んだ船」と書かれているので、何らかの遺物(たぶん陶器とか)によって年代が割り出されているのでしょう。


    ・・・・・・

    ・・・

    というか一回目の元寇って1274年……


    わずか7年の差を判定できる基準があるのか、、、

    文字か、文字なのか???

    やはり続報に期待です( -д-)ノ





    おわりに

    以前は特段理由もなく水中考古学を毛嫌いしていましたが、やはり発見があるのは面白いですね。

    そして文献史料で示されている事柄を、考古学的にクロスチェックするという姿勢は好きです。



    【追記:2020/07/19】
    ↓沈没船関係の記事へのリンクを載せておきます(*・ω・)ノ







    いいなぁ……

    潜りたいなぁ……

    マヤ文明でも場所によっては水中考古学はできるけどさ

    いや、ティカルでもできるもんね!


    ティカルは緑の海の中だからねっ!( ・Д・)

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    2019ねん 7がつ 11にち(もくよーび、晴れ)

    予定していた統計学、データ分析に関する基礎的な勉強を終えた。

    ひとまず手持ちのデータを使っての考古学への導入実践も成功した。

    だからずっと記事書いてなかった!

    ごめんねっ!!!( ・Д・)


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・



    今回の考古学・歴史ニュースは、「史実として家康の居城であった駿府城から、何故か秀吉の金箔瓦が大量に見つかったよ!」というお話です(*・ω・)ノ


    【目次】
    1. そもそも徳川家康と豊臣秀吉の関係とは?
    2. 金箔瓦の出土状況からの推測
    3. 金箔瓦の歴史
    4. おわりに


    1.そもそも徳川家康と豊臣秀吉の関係とは?

    1582年に起きた「本能寺の変」によって織田信長の死後、家臣であった羽柴秀吉は天下人としての道を突き進んでいきます。

    この本能寺の変はドラマや漫画でもよく題材として取り上げられ、とても有名ですね( -д-)ノ

    このビッグイベントの後すぐに、羽柴秀吉は家康を家臣にしようと考えますが、家康はこれを拒否します。

    しかし秀吉が僅か3年後である1583年に関白となり、翌年1584年には正親町(おおぎまち)天皇から豊臣の姓を賜って豊臣秀吉として名実ともに天下人となります。

    これを受けて家康は豊臣秀吉の家臣となります。

    豊臣秀吉は家康を重用し、期待に応えた家康の官位を上げ続け、羽柴姓も与えました。


    1598年に豊臣秀吉が病死した後、内大臣の家康が朝廷の官位で最高位となります。

    また豊臣秀吉から息子の秀頼が成人するまで政事を家康に託すという遺言を受けていたため五大老筆頭として認められるようになります。

    その後、家康は自身の権力を利用し、豊臣秀吉が禁じた大名同士の婚姻を成立させるなどの行為から反発を買い、結果として豊臣家と対立して滅ぼしてしまいます。

    まぁこれがよく「家康は狸」と言われる所以ですね( -д-)ノ






    arukemaya458


    2.金箔瓦の出土状況からの推測

    さて、今回の発見があった場所は駿府城(すんぷじょう)です。

    この駿府城は静岡県、静岡市葵区に所在しています。

    上に挙げた1つ目の画像に見られるように、駿府城は1635年の火災により天守が焼失しました。

    その後は天守台(天守の下の石垣造りの土台)だけが残っていましたが、1896年(明治29年)に当時の軍部の下で天守台は取り壊され、その土砂で本丸堀が埋め立てられました。

    静岡市では、かつて天守が建っていた跡地の整備方針を決定するため、事前に天守台の正確な位置や大きさ、石垣の残存状況などの学術的データを得ることを目的として発掘調査が計画されました。

    この発掘調査は、2016年に開始し、2020年まで実施予定となっています。

    駿府城は駿府城公園として公開されており、上の2つ目の画像のように公園敷地内の一部が発掘調査対象区域なのです。

    まぁ恐らくは静岡市が観光資源として活用するために学術調査を行った上で天守閣の復元を行うのかなと個人的に思っています( -д-)ノ




    arukemaya460




    さて、先ほどの年表にもあったように、駿府城は2度、築城されています。

    この2度目の築城の際に、天守を完成させたのが家康です。

    この時の天守台(復元)の写真が上の1枚目のものになります。

    今回のより古い天守台は家康期の天守遺構と重なる配置から検出されており、3枚目の写真のように旧天守台の一部が残存しているのが確認されました。

    2枚目の写真から分かるように2つの遺構は南東角で重なっています。

    この天守台は南北約37m×東西約33mで新天守台(家康期)のものよりも一回り小さいものであり、旧天守台を壊すことでその周囲の堀を埋め立てて、その後に新天守台が建造されています。

    この埋め立てられた旧天守台周辺の堀から、330点もの大量の金箔瓦が出土したのです。

    この旧天守台の石垣を建造する技術は新天守台とは異なっており、旧天守台の石垣では自然石を積み上げた野面積みの技術を用いていることが豊臣期の特徴です。

    また金箔瓦を作る技術も豊臣期の特徴を示しています。

    公式の発表では、発見された旧天守台は1590年に江戸に向かった家康の代わりに入城した中村一氏が築城したものとされています。

    でもそうなると、「1585年に築城が開始された1度目の家康の天守台はどこなのか?」という問題に突き当たるのではないかと思います。

    この時代に関して門外漢ではありますが、出土した遺物と遺構から、今回発見されたのは家康による一度目の天守台ではないかと思います( ・Д・)

    一氏が入城したのが1590年であり、この最初の天守台は1588年に完成したばかりですから、そのまま利用した可能性もあるでしょう。

    戦国時代で城主が変わると天守が変えられることが一般的でしたが、この駿府城の場合、落城したわけではありませんし、元の城主である家康は秀吉のお気に入りなわけですから、一氏が天守に手を加えたとしても一部であり、天守台の石垣などの基礎部分はそのまま利用したと考えられるのではないでしょうか。

    家康が天下統一を果たしてから駿府城に戻り、二度目の築城を行ったのは過去に自分が豊臣家に仕えていた際に築造した天守を、あるいは豊臣側の一氏が少し手を加えた天守(どのみち豊臣期様式)を変えたかったからかも知れません。

    やはり史料として中村一氏が築城したということが記載されておらず、かつ考古学的にも3期に渡る遺構が確認されていない以上、今回発見された旧天守台を中村一氏の城とするのは飛躍があるかなと思います( -д-)ノ

    (もしかしたら史学的根拠があるのかも知れません。知っている方は是非コメントお願いします!)


    arukemaya461





    3.金箔瓦の歴史

    金箔瓦は1576年に信長が築いた安土城で初めて本格的に導入されました。

    元々、掘立小屋のような簡易な建造物しかなかった城に、礎石を用いた瓦葺きの本格的な建造物が全面的に採用されたのもこれが初めてと考えられています。

    この織田信長によって始められた金箔瓦の採用を含む新しい建築様式は、「使用制限」があり、織田政権の財力・権力の象徴的として機能しました。

    一方で続く豊臣秀吉は自身が金箔瓦を用いた城を築城するだけではなく、豊臣家の一門や重臣たちの間で普及させました。

    そしてその後、近世城郭の普及に伴ってに金箔瓦も全国に広まっていきました。

    ですので金箔瓦を有する城は多数あるわけで、近年の城跡の調査によって全国の広域に渡って金箔瓦が出土することが確認されています。

    上に挙げた写真の京都府にある聚楽第(じゅらくだい)跡や、宮崎県の佐土原城、福島県の会津若松城など全部で41の城郭で確認されています。


    arukemaya463
    ↑金箔瓦を有する城郭の分布(「攻城団」の記事内画像より転載;*上述の41の金箔瓦を有するお城について分かり易く整理されていますので、興味ある方は是非覗いてみてください(*・ω・)ノ)






    さて、上に挙げましたように、金箔瓦には大きく2つの様式があります。

    信長時代の金箔瓦は装飾瓦の凹んだ部分(地の部分)に金箔が貼られ、模様部分を黒く浮かび上がらせるという方法が取られていました。

    一方で秀吉時代の金箔瓦は、凸部分である紋様部分や縁の部分に金箔が貼るという方法が取られていました。

    また金の純度は信長時代の方が高かったようです。

    秀吉の時代は豪華に飾り立てる「見せる」お城の重要性が高かったため、たくさん金箔を使うには純度を落とす他なかったのかも知れませんね( -д-)ノ




    4.おわりに

    たまたま瓦の研究をしていた先輩がいたため、瓦の分類や編年が存在することは知っていました。

    まぁ瓦から時期や帰属する武将が分かるのは、土器の専門としてすっと理解できるんですよね。

    似ている(?)と言えば似ているので( -д-)ノ

    一方で城郭考古学なるものもTwitterという文明の利器のおかげで最近知りました。

    詳しくはもちろん知りませんが、対象を「城郭」を中心にしているということなのでしょうか……

    (では土器を扱っていれば「土器考古学」なのかという疑問も残りますが、『~(なんちゃら)考古学』あるあるなのでそっとしておきます( ・Д・))

    城郭とは、城(または町)を敵の攻撃から守るための施設。城の囲い。くるわ。更に広く、城(wikiより転載)。

    論文に当たっていませんが、さらっと調べたところ、やはり城郭を対象とした考古学のようですね。

    私には「城郭考古学」としてカテゴリー化する必要があるほど、この分野が中近世の歴史学・考古学に強い影響を与えるのか、その評価はできません。

    しかしながら石垣等の遺構の築造技術からの分類と編年作成は面白いなと思います。

    城郭の総数が気にかかるのと、編年といっても築造年代は史学で大体分かっているのではないか、よほど特徴的な技術でければ同時多発的に発生するのではないか、予算等の事情で築造方法を簡易化する(旧技法を用いる)可能性もあるのではないかと諸々の疑問が溢れます。

    批判しているかに見えるかも知れませんが、ぱっと疑問が溢れるということは「面白い」ということです。

    どれも検討する必要があり、その複雑さが研究をより一層面白くするわけですからね(注:ドMではない( ・Д・))

    さて、古代マヤの建造物に関するこの手の研究は比較的進んでいませんし、応用できるかは分かりませんが、建造物遺構に対する視点として是非加えておきたいなと思いました。

    お城好きな方々も多いと最近身に染みて分かるようになりましたが、私も石垣を見れば時期と築造方法を同定できるようになりたいものです。

    次の記事は「石垣の分類」かな!?

    ・・・・・・ところで世界も広いし、歴史の範囲も広いねっ!( ・Д・)

    苦手ながらも専門外のこういう記事を書いていけば、慣れるだろうし、見識も広がるかと思っていましたが道程はほんとに長いなと思います。

    でもまぁのんびり頑張ります!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

    ↓ぽちっとな!……ぽ、ぽちっとな!!!( ・Д・)↓

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    2019ねん 6がつ 22にち(どよーび、激しく雨)

    ここの日記スペースに何を書くべきかをいつも悩む(´・ω・`)

    下手すると本文以上に悩んでいる( ・Д・)


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    arukemaya443
    ↑仙台市、沓形遺跡の所在(「Googleマップ」より画像を転載)


    今回の考古学・歴史ニュースは、「仙台市、沓形(くつかた)遺跡で弥生時代に水田を廃絶してしまうほどの大津波の痕跡が見つかったよ」というお話です(*・ω・)ノ

    さて、前回スマトラ島沖地震を発端とした過去の大津波被害について考古学調査が明らかにしたよというお話を紹介しましたが、今回は日本の事例です。


    ↓これです(*・ω・)ノ
    ↑もう読みました?ヾ(´ω`=´ω`)ノ


    上に挙げた図から分かるように、沓形遺跡は,宮城県、仙台市の東部にある遺跡です。

    標高2~4mの後背湿地に立地しており、現在の海岸線から約3.8~4.km内陸に位置しています。

    この沓形遺跡では最も新しい層では近現代の水田造営の痕跡が見られる層が確認されていますが、古くは縄文時代から弥生時代、古墳時代、平安時代と水田が営まれ続けた地点であることが分かっています。








    この遺跡は2007年にに地下鉄東西線建設に伴う試掘調査が実施され、調査面積は213,600㎡にも及びます。

    上の1枚目の写真から分かるように広大な遺跡であり、良く見ると「白いライン」が無数に走っているのが見て取れます。

    これは2枚目の写真で分かるように、古代の「畦(あぜ)」を示したラインになります。

    ちなみに「畦(あぜ)」とは「稲作農業において、水田と水田の境に水田の中の泥土を盛って、水が外に漏れないようにしたもの」です。       (wikipediaより引用)

    分かり易い図を探していたら「畦カバー」なる商品の紹介画像を見つけたので、貼っておきました(いつものように回し者ではありません( -д-)ノ)。

    上図の中で「ピンク色の矢印が付いている部分」が畦に相当する箇所であり、植えてある稲の周囲にある盛り上がった部分のことを言うわけです。


    arukemaya440



    さて、この沓形遺跡の地点は先に述べたように、現在の海岸線から4kmほど内陸に位置していますが、今からおよそ2000年前の弥生時代には2kmほど内陸に位置していたようです。

    発掘調査から弥生時代に1度、この一帯が大きな津波被害を受けたことが確認されました。

    上に挙げた写真で見られるように、水田を覆う「砂の層」が確認されたのです。

    この砂は粒度組成分析などによって海浜起源の砂であることが明らかになりました。

    この砂の層によって弥生時代中期の水田跡は完全に覆われており、津波被害によって廃絶したことが推定されました。

    そしてこの場所に再び水田が営まれるのは古墳時代前期であり、つまり約400年後にようやく再開したことから確認された津波被害は当時のの集落に大きな影響を与えたことが推測されます。

    この発見に伴い、沓形遺跡を中心とする周辺地域での津波堆積物の分布調査が実施されました。

    それによって約2,000年前に生じた津波の遡上距離は当時の海岸線から約4.2㎞と算定され、2011年に発生した東日本大震災の津波(遡上距離約4㎞)と同規模の大津波が弥生時代に仙台平野を襲ったことが明らかになりました。

    また沓形遺跡は2014年まで複数回の発掘調査が実施され、弥生時代中期に営まれていた水田域は東西約300m、南北約1.2km、面積20haを超える広範囲に及ぶことが判明しました。

    これが全て約2000年前の津波被害で廃絶されてしまったことが分かったのです( ・Д・)



    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・



    ここ最近、多忙を理由に記事の紹介ができていませんでした。

    時間が取れてもサクッと書けるような記事を選択していたので、特に考古学関係のニュースには触れていなかったです。

    「考古学・歴史ニュース」という副題に恥じぬよう善処していきますね( ・Д・)( ・Д・)

    前回のスマトラ島沖地震・津波関連記事を書いていた時から、日本における事例の紹介をしようと思っていたので、ようやく紹介できてよかったなと思います。

    この事例では「東日本大震災と津波被害の前に」この範囲まで津波が到達して大被害をもたらしていたことが考古学的に分かっていたわけです。

    こういった古代の地震や津波の被害が判明している事例は他にもたくさんあると思いますが、現代の地震・津波に対する避難対策といった防災にどうにか役立てることはできないものかと思いますね(。・ω・)ノ゙

    ↓応援よろしくお願いしますっ!ヾ(´ω`=´ω`)ノ↓

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    2019ねん 3がつ 16にち(どよーび、曇り)

    もうすぐ新年度。

    今年はやりたい研究が出来る最初で最後の年かも知れない。

    なので、ちょっと本気出してみることにしたよ!( ・Д・)


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・



    今回の考古学・歴史ニュースは『奄美大島で色々見つかったよ!』です!(*・ω・)ノ


    今回の発見は、鹿児島県の「奄美大島」における発見です。

    色々と発見が多いのですが、一番の発見は1万3800年前の土器片が出土したことでしょう!

    ちなみに世界最古の土器は(中国の例とか諸説ありますが……)日本の青森県、大平山元I遺跡の縄文土器(約1万6500年前)です。

    今回の発見はもちろん奄美大島で最古となります。

    そして国内どころか世界的にみて最古級の発見となります。

    ところで、奄美大島ってどのような場所なのでしょうか……




    ほんっとに綺麗ですよね~。

    私もこういう場所をフィールドにして調査したいですね!( -д-)ノ


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・


    ということで、今回の発見の舞台は奄美大島にある天城町西阿木名(にしあきな)地区内の下原(しもばる)洞穴遺跡です。

    調査者は鹿児島女子短期大学と天城町教育委員会だそうで、2015~2016年に第1次調査が行われ、2019年3月から第2次調査が行われています。

    この下原洞穴の中からは、先に述べました最古の土器(1万3800年前)の他に、石器製作工房や埋葬遺構も発見されています。


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    人が火をおこした跡(炉跡)と考えられる炭化物集中の痕跡も見つかっており、時期は2万5000年前と推定されています。

    その他の発見は比較的新しいものですが、6000年前にまで遡る生活・居住の痕跡、4000年前の石器、2500~3000年前の人骨や貝製品、土器などが出土しています。

    このような様々な発見があった中で、奄美大島に関する考古学的側面からの評価が変わりました。

    それは今回の奄美大島における最古の土器の発見により、奄美大島では日本列島と大差ない時期に土器文化が始まったと考えられるようになったことです。


    日本列島においてこのような古い時期の人々は移動しつつ生活していましたが、奄美大島では環境的制約から定住に近い状態だったと思われます。

    そのためこの洞窟内からは様々な時期に関する色々な遺物・遺構が集中的に見つかるわけです。

    その点を高く評価し、今後も天城町教育委員会は下原洞穴遺跡での調査を継続的に行っていく模様です。

    今後の更なる発見に期待ですね!(・∀・)つ


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    2019ねん 2がつ 21にち(もくよーび、晴れ)

    某100均での話。

    理科の実験で使うシャーレが欲しかった。

    店の人に訊いたら、ポカ~ンってされた。

    説明したら、「あ~、ビーカーならあります!」

    ……ビーカー!?( ・Д・)


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    arukemaya_0067
    ↑レプリカ法で見つかったゴキブリの卵(「EurekAlert」の記事内画像より転載;credit: 小畑弘己、熊本大学)



    今回の考古学・歴史ニュースは「土器の研究から、日本のゴキブリの起源が中国である可能性が分かったよ!」ってことです!


    この研究は熊本大学の小畑弘己教授によるもので、土器表面に対するレプリカ法(圧痕法)を用いたものです。


    より正確には「土器圧痕のレプリカ法」と言います。


    土器の器面(表面)に何らかの要因で押し付けられた痕跡(圧痕)に対して、シリコンを流して型を取った標本(レプリカ)を電子顕微鏡等で観察して分析する手法のことです。





    対象となった資料は宮崎県、宮崎市田野町の本野原遺跡(もとのばるいせき)で出土したものです。

    この本野原遺跡は縄文時代後期の遺跡であり、西日本において最大級の集落跡が発見されています。


    この遺跡から出土した約4300年前の土器と約4000年前の土器との器面からゴキブリの卵の痕跡が見つかったわけです。


    本記事内で述べている検出されたゴキブリの「卵」というのは実際には「卵鞘(らんしょう)」と呼ばれるもので10~11mm程度のサイズだそうです。

    この「卵鞘」の中に複数の卵が入っている構造なのです。

    そのため「卵のさや」と書くのですね。しかし記事内では分かり易く、「卵」と表記します( -д-)ノ




    今回検出されたゴキブリの卵は、中国南部が原産とされるクロゴキブリの卵と形態的に強い類似性を示しているということが分かりました。


    クロゴキブリとは屋内に生息する種のゴキブリとして代表的なものです。

    ちなみにこの屋内ゴキブリであるクロゴキブリがが縄文時代の遺跡から確認されたのは初めての事例のようです。


    つまり今回の発見によって縄文時代の家屋の中にもゴキブリがいたことになります。

    どうやら我々と”G”との戦いの歴史はとても長いようですね( ・Д・)



    日本の在来種とされるヤマトゴキブリは平安時代(CE794-1192)の文献に記載されています。

    それに対して今回の発見は約4300年前のことですので遥か昔の話になります。


    このクロゴキブリが船によって渡って来たのか、本当は日本の在来種であるのかはまだ分かりませんが、日本におけるゴキブリの起源に関わる重要な発見なのです。


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    レプリカ法、面白そうですね!(・∀・)つ


    だが、私のフィールドではどのような発見に繋がるのだろうか……

    やってみなきゃ分からんか!( ・Д・)

    ↓”G”が嫌いなひと~?(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!↓

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    2018ねん 10がつ 20にち(どよーび、晴れ)

    カラ咳が止まらない。

    乾燥しているのだろうか。

    もう秋というか……すでに寒い!

    この前、「雪虫」見たしね!

    も~そろ冬なのですね( -д-)ノ

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    ↑エルサレムの建設現場にて出土した古代の石柱、下部に文字が刻まれているのが見える(「AFP BB NEWS」の動画より加工・転載)


    【目次】
    1. エルサレムの表記の昔と今について ~碑文入り石柱の発見~
    2. 日本の古代都市の名前の変化 ~日本の都市は2文字が多い?~
    3. 古代マヤ文明の都市名の昔と今について
    4. おわりに

    1.エルサレムの表記の昔と今について ~碑文入り石柱の発見~

    さて、今回の考古学・歴史ニュースは「エルサレムという表記が遥か昔から同じ!」ということです。

    エルサレムと言えば、内紛等のニュースで何だかおっかないところというイメージがありますが、他方で「イスラム教」、「キリスト教」、「ユダヤ教」という世界的な3つの宗教の聖地としても有名です。

    そのため都市が有する歴史は非常に深く、多数の聖地巡礼者が訪れるだけではなく、観光地としても人気があります。……ちなみに「エルサレム症候群」ってご存知でしょうか?

     エルサレムを訪問することで引き起こされる、宗教を題材とする強迫的思考、妄想、その他の精神病的体験の発症を伴う一連の心理現象のこと(from wiki)。

    世の中、本当に色々な物事があるなぁと感心します。まぁ私自身もとあるホラー映画をきっかけにしてその存在を知ったのですが( ・Д・)


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    話を戻しますと、エルサレムの建設現場にて、現代ヘブライ語と同じつづりで「エルサレム」と刻まれた約2000年前の石柱が出土しました。それが上に挙げた写真になります。

    この石柱は切り出してイスラエル博物館(Israel Museum)にて公開が開始されたそうです。石柱に刻まれた碑文にはヘブライ文字で書かれたアラム語で「エルサレムのドダロスの息子のハナニヤ(Hananiah son of Dodalos of Jerusalem)」と記されているとのことで、約2000年前にすでに現代と同じつづりが使われていたことを示しています。


    西暦の1世紀に相当する第二神殿時代と呼ばれる時期に現代と同じ「Yerushalayim(イェルシャライム)」の発音で記されていることは珍しいそうです。


    通常は宗教的または政治的な文脈で使われることが多いそうで、この碑文が重要なのはその内容が宗教的、救世主的またはプロパガンダ目的で使われているわけではなく、男性がこの都市の出身だと名乗っているだけの日常的なものであることだそうです。




    この発見された石柱は元々、紀元前2世紀のエルサレム近郊の陶器村にあったそうです。村は現代のエルサレム市内にあり、2世紀初めごろにローマ軍第10軍団の作業場となり、陶器製の建材を作っていたとのこと。


    碑文内に現れる「ハナニヤ」さんは芸術家または職人の名前で、石柱は作品の売り込みのために、公共建築の建材として寄付した可能性があるそうです。


    また碑文内の「ドダロス」はおそらく、ギリシャ神話に登場する職人「ダイダロス(Daedalus)」の愛称だということで、この碑文だけでも色々なことが分かるものだなぁと感慨深く思いますね。


    そのため今回出土した石柱の存在は、エルサレムが紀元前332年にアレキサンダー大王(Alexander the Great)によって征服された後、エルサレムに住むユダヤ人たちが数百年に渡り、建築の際にギリシャ様式を取り入れてきたことを示唆しているとのことです。



    2.日本の古代都市の名前の変化 ~日本の都市は2文字が多い?~

    さて、そもそも古代の都市名が昔と今が同じというのはそれほど珍しいことなのでしょうか?

    日本の事例で見てみますと、現在の日本の地名は漢字2文字による表記である場合が非常に多いことが分かります。

    例えば都道府県では、北海道、神奈川、和歌山、鹿児島以外はすべて漢字2文字による表記です。これはなぜなのか。



    それは古代の日本の地名の文字数には規定がなかったが、西暦713(和銅6)年、律令政府は「好字二字化令」と呼ばれる決まりを広め、諸国の郡名、里名を漢字2文字に揃えたのです。

    この時期の日本は大陸の大国である唐を手本にして政治を行っていたため、地名についても唐に倣った結果なのです。こうして10世紀初頭に成立した『和名類聚抄』によれば薩摩国の鹿児島郡を除いて全て2文字に揃えられているのです。

    このような国の御触れのせい、という事例は少ないかも知れませんが、都市の名前と言うのは長い年月の中で変わっていくものなのですね。まぁより簡単な例を出せば、江戸から東京になったような感じです( -д-)ノ

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    3.古代マヤ文明の都市名の昔と今について

    長くなりましたが、最後に古代マヤ文明の事例を簡単に紹介しますね。

    古代マヤ文明では古典期(西暦250-1000)に多くの都市国家が林立し、石碑に王の個人史や王朝史、国家間の戦争や儀礼に関する内容が刻まれました。

    この時、都市あるいは支配領域の名前が表現されることが分かっています。それが「紋章文字」です。

    ちなみにジョイス・マーカスの研究(Marcus 1976)ではマヤ都市は4つにランク分けされていて、紋章文字を中心として石碑から都市間の主従関係が分かると結論付けました。

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    上に挙げた図のように、数多くの紋章文字が存在しているわけですが、聞きなれない音感の名前がありますよね?

    アルトゥン・ハとかイツァンとか……こういう名前の都市はマヤ語由来の名称です。ただし多くが16世紀以降のスペイン征服期、あるいはそれより新しい時期に付けられた名称になりますので、古典期マヤにおける当時の名称とは異なる場合が多々見られます。

    一方でアルタール・デ・ダクリフィシオスとかカラコル、エル・ペルーといったスペイン語の名称は明らかに新しく命名されたもので、当然、古典期における都市の名称とは異なります。

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    古典期マヤ、特に中部低地域で最も有名かつ有力な都市であった「ティカル」について書かれた碑文が上の画像になります。

    この中で紋章文字は右下の1文字になりまして、読み方は「ムタル(ムトゥル、ヤシュ・ムタル)」となります。


    紋章文字の発見によって、現在の都市遺跡名と当時の名称が同じであったことが判明した事例もありますが、実際にはほとんどがやはり異なる名称が使われていたことが分かっています。

    やはり古代の都市名が昔も今も一緒というのは珍しいことなのですね( -д-)ノ


    4.おわりに

    おまけも含めるとなんだか長い記事になってしまいました……が、いかがでしたでしょうか。

    調査等々で様々なところに赴く機会がありますが、郷土史家の方あるいは郷土史研究会に入っているといった郷土史が大好きな方にお会いすることが多々あります。

    お話を聞いていると、やはり村や町の名前の変遷についてよく聞くわけです。「ここは旧~村で……」のような感じですね。

    旅行や帰省の際には是非、郷土資料館等に立ち寄ってみて、地名や市町村名の変化について気にしてみるといいかも知れませんね。それも一つの歴史ですから(*・ω・)ノ

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    2018ねん 10がつ 15にち(げつよーび)

    ラーメンを食べに行く時間もなかったので

    自宅でラーメンを作ってみた。

    鍋の残りにラーメンを入れた状態と同じ味になった……

    やはり店の味とは違う(´・ω・`)

    それはさておき、気付けばめっきり寒くなったものだ。

    鍋が旨い季節である(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!


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    さて今回紹介するのは、奈良県の天理市にある黒塚古墳から出土した三角縁神獣鏡の理化学分析結果についてです。この黒塚古墳は3世紀後半の古墳で、1997~1998年に行われた発掘調査によって33面の鏡が出土しました。これは一つの古墳からの出土数としては全国最多の事例なのです。



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    新聞でも話題となり、記事では32面とありますが、最終的に33面の三角縁神獣鏡が発見されました。竪穴式石室は長軸8.2m、短軸1.2mで、遺体の周辺に鏡や刀剣等の武具といった副葬品が配置されていました。出土した三角縁神獣鏡はその文様や銘文から、33面の全てが中国から輸入された舶載鏡(はくさいきょう)と考えられてきました。

    多量の三角縁神獣鏡の発見から20年という歳月を経て、今回、京都市の泉屋博古館(せんおくはっこかん)が大型放射光施設「スプリング8」にて蛍光X線分析を行い、鏡の素材に含まれる成分を調べました。

    結果として鏡に含まれる錫(すず)、銀、アンチモンの3元素の組成数値を調べ、グラフ化したところ、紀元前1世紀~3世紀に相当する古代中国の前漢後期~三国時代に鋳造された鏡の組成数値と近似することがわかりました。

    また黒塚古墳から出土した画文帯神獣鏡1面についても、その化学組成が上記の古代中国鏡とほぼ一致することが分かったのです。

    そのため黒塚古墳で出土した三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡と、前漢後期~三国時代の古代中国鏡が、同じ原材料で作られている可能性が高まったのです。つまりやはり黒塚古墳出土の古代鏡は中国製だった可能性が高いのです。

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    さて、元々、文様や銘文から鏡が中国産と考えられていたのに、成分分析を行ってやっぱり中国産でしたというのは、理化学的な手法によっても証明されましたという意味はあっても、それほど大事なことなの?と思われるかも知れません。

    ではこういった研究が何故重要なのかを説明しますと……

    三角縁神獣鏡は卑弥呼が中国から得た鏡であるとする説があるのです。日本史の教科書にも出てくる邪馬台国の女王、卑弥呼は魏に遣使していたとされており、中国の歴史書である「三国志」や「魏志倭人伝」には239年(景初3年)魏の皇帝が卑弥呼に銅鏡百枚を下賜したとする記述があることから、三角縁神獣鏡がその鏡であるとする説があります。

    この三角縁神獣鏡は日本各地の古墳から出土していることから、ヤマト王権が卑弥呼に下賜された古代鏡を各地の豪族に与えたとする古代政権成立過程が提唱されています。

    以上の説では、三角縁神獣鏡=中国産になるわけですね。まぁ魏の皇帝が卑弥呼にあげた銅鏡が三角縁神獣鏡であれば、かつヤマト王権がその内の少なくとも数枚を引き継いでいたらですけども。

    一方で、三角縁神獣鏡=日本産の説があるわけです。何故か?三角縁神獣鏡は中国で一枚も見つかっていないからです!

    他にも根拠はいくつかありますので紹介しますと、


    ①日本国内では三角縁神獣鏡が540枚以上見つかっているため国内における大量生産が窺えること

    ②卑弥呼が得た鏡の総数である100枚を超えて存在すること

    ③卑弥呼の時代である邪馬台国時代に相当する3世紀の墳墓からは一枚も出土していないこと

    ④中国で既に改元され、存在しないはずの年号の事例が1例あること(島根県雲南市加茂町大字神原・神原神社古墳出土の鏡に景初3年の銘、しかし魏の皇帝は景初3年1月1日に崩御している)


    とまぁ、三角縁神獣鏡は古代日本におけるミステリーの一つと言えるでしょうね。中国製説、日本製説、日本における中国系渡来人製説、日本における中国鏡の倣製鏡説と色々ありますが、みなさんはどこ産だと思いますか?

    三角縁神獣鏡は博物館等の展示でも見られることも多い資料です(レプリカのことも多々あります)。次に博物館を訪れる際には是非、三角縁神獣鏡をまじまじと見て「メイド イン~」か思いをはせてみるのも良いかと思います(*・ω・)ノ
     
    ↓左を押したら「日本製」、右を押したら「中国製」の説に一票……( ・´ー・`)ドヤ!??↓

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