2020ねん 5がつ 4にち(げつよーび、曇り時々雨)
昨日から米津玄師の「灰色と青」をエンドレスリピートしつつ作業している。
……悲しい気持ちになったヽ(TдT)ノ
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今日の考古学・歴史ニュースは、「2000年前のレアな日時計が見つかったし、日時計に刻まれた碑文も解読されたよ!」ってお話です(*・ω・)ノ
人類が農耕を開始して以降、どの地域でも暦の役割は大きくなっていきました。
正確な暦を作るには正確な天文観測が重要であり、太陽の観察による『時間の流れに対する意識』の目覚めはかなり古いものになります。
地域差もありますが、農耕開始直後の紀元前7000年以降には簡単な日時計(木の枝を地面に突き立てたようなもの)もあったと推測されます。
時代は下って、古代シュメール文明や古代バビロニアでも天文観測が盛んでしたのであったと思われますが、さくっと調べたところ遺構はなさそうでした。
遺構として確認できているのは紀元前3000年の古代エジプトの事例のようです。
往々にして非常に古い日時計は、『ほんとに日時計か?』って怪しいものですが、古代エジプトでは少なくとも紀元前1500年までには確定的な遺構として確認できています。
今回紹介するのは約2000年前ですからおよそ紀元前後の遺構であり、古代ローマに帰属するものになります。
さすがにこの時期のものは、熟練した石工によって製作された非常に精巧なものになります。
そして古代の初期国家に見られるような王族や神官によって独占された秘儀としての天文学が重用された時期とは異なり、個人で発注して製作・設置可能であった時代のものです(*^・ェ・)ノ
トルコで見つかったアウグストゥス帝時代の日時計
発見があったのはトルコの西部に位置する古代都市ラオディケアです。
世界遺産にも登録されている観光地となっている遺跡です。
2020年、当該遺跡の調査中に、アウグストゥス帝時代(ヘレニズム時代)に相当する約2000年前の日時計が発見されました。
ちなみにこの日時計、大理石で出来ているそうですΣ(・ω・ノ)ノ
上に挙げた写真でも僅かに読み取れますが、半球状の盤面に文字(ギリシャ語のアルファベット)が刻まれています。
この文字は、季節と月を示しています。
現代の腕時計でも季節や月、曜日、昼夜などを省略記号で示したものが不随している品がありますが、その古代バージョンですね(*・ω・)ノ
現代でもそうした時計は高級で品数は少ない傾向にありますが、当時でもこういった『時間について詳細に示した日時計』は非常に稀な事例です。
また半球状の盤面の縁には葉っぱのモチーフが連続して帯状に展開していますが、このような種のモチーフが日時計に用いられる事例もとても稀なんだそうです(*^・ェ・)ノ
ローマの南方で見つかった日時計と碑文の意味
こちらの発見はイタリア、ローマの南方80km地点のリーリ渓谷にあるインテラムナ・リレナスという町の遺跡で発見されました。
このインテラムナ・リレナスは中規模の町で、巨大な古代ローマにおいてはありふれた町のひとつでした。
この町は紀元前300年以降に建設され、紀元後600年までには放棄されました。
今回紹介する日時計は今から約2000年前の紀元前後の遺物ですので、町の歴史としては中間期くらいに相当するのでしょう。
上に挙げた写真に見られるように、日時計の半球状の盤面には時刻を表す11本の線と、これらと交差する3本の曲線(夏至、冬至、春分および秋分との近さを表す)が刻まれています。
先に紹介したトルコの事例とは異なり、盤面に影を落とす役割を担った鉄製の棒は失われています。
この日時計はかつて、町の広場に堂々と設置されていたと推測されていますが、下部の図で示すように発見されたのは町の劇場の入り口付近でした。
西暦600年までに廃墟となってしまったこの町では、放棄前後に建築材として石材の持ち出しがありました。
その際にこの日時計も運ばれて、でも「やっぱやーめた!」と放置されてしまったようです( -д-)ノ
こうした後世の人による破壊・移動もあって、指針たる鉄の棒が欠損したのかも知れません。
さて、この日時計の重要性はその碑文にあります。
解読の結果、ローマ市民であったマルクス・ノウィウス・トゥブラという人物が護民官に当選した記念に、故郷の小さな町に日時計を自腹で購入し、寄贈したとあるそうです。
先のトルコの日時計は立派な大理石製でしたが、小さな故郷のために自腹で寄贈した日時計が石灰岩製というのも趣きを感じます(*^・ェ・)ノ
↑町の劇場址と日時計の位置関係(「Nacional Geographic」の記事内画像より転載)
おわりに
どちらの発見も重要なものです。
特に後者については、古代ローマ社会において、周辺の中小都市からも出世可能であったということの発見に繋がり、歴史的にも考古学的にも重要です。
インテラムナ・リレナスという片田舎の町から、ローマの栄職に就くような人物が出たことは町の誇りであったでしょう。
護民官という役職は紀元前27年には権限のほとんどを失った名誉職となり、かの人物の就任はその前後となります。
なので彼が裕福だったようには思えません。
マルクス・ノウィウス・トゥブラという人物の出世、町の人たちの想い、故郷に寄贈した記念碑としての石灰岩製の日時計、、、
彼はどんな想いで、どんな状況で日時計を発注したのでしょう。
英傑や勇敢な王、策略を駆使した戦とその勝敗などの際立った人物や事柄、歴史の動く瞬間に目を奪われがちな歴史ではありますが、
こういった小さな町の、小さなストーリーに思いをはせるのも歴史の面白さであると、少しでも感じて頂ければ幸いです(ノд・。) グスン
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