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あるけまや -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

タグ:最古

2021ねん 4がつ 8にち(もくよーび、晴れ)

今日から所属変わる!頑張る!(・∀・)つ

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今回の考古学・歴史ニュースはおよそ1万年前なのに保存状態良すぎ!最古の編み籠が見つかったよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台はイスラエル、ナハル・ヘベルの第8洞窟です。

昨日の記事の続きみたいなものです。

「これ次回記事にしますね」って放っておくとすぐ忘れるので、連投みたいになりますがご容赦くださいヽ(TдT)ノ


↓これがそれ!( ・Д・)



さて、前回は紹介しませんでしたが、この「第8洞窟」と呼ばれる遺跡は別名『恐怖の洞窟』と呼ばれているそうです。

これは1960年代初頭の発掘調査で、この第8洞窟から大人と子どもを合わせて40体の遺体が発見されたことに由来しています。

これらの遺体はバル・コクバの乱(CE132〜135年)の際にローマ軍から逃れてきたユダヤ人犠牲者のものと考えられているそうですが、、、

上に挙げた写真で、作業員が命綱を付けた状態で洞窟入り口で篩作業をしていますが、洞窟の入り口が断崖絶壁にある感じしませんか?

実際にこの第8洞窟の入り口は崖の頂上から約75mも下に位置しているとのことで、古代の人々は縄ばしごを使って出入りしていたと推測されています。

75mの縄梯子ってスゴイですし、どうやって支えたのだろうとか、色々考えてしまいますね( ・Д・)

・・・・・・何が言いたいかというと、この40体の遺体はどうしてそこでお亡くなりになったのかな~と気になってしまって・・・・・・

さらっと探した感じでは当時の報告書にヒットしなかったので分かりませんが、洞窟に逃げ込んだはいいけど、追っ手に縄梯子を落とされるか何かして、洞窟に閉じ込められたのでしょうかね?( ・Д・)


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何はともあれ、今回紹介するのは上に挙げた世界最古の編み籠です。

時期として約1万500年前だそうです。

有機物製でこれだけ網目もしっかり残っているなんて物凄い保存状態ですし、どのような方法・技術で編み込んだのかも調べられますね!Σ(・ω・ノ)ノ

実際にこれより古い有機物製の依存体やら遺物やらは存在しますし、編み籠も出土しています。

なので今回、『世界最古!』となっているのは「完形資料」としてです。

しかしもっと古くてこれを超える保存状態の完形品なんて、考えられないレベルですよね。

だって固そうだけど、まだ使えそうですもの( ・Д・)




そしてこれが出土状況を示したと思われる写真・・・?(゚∇゚ ;)エッ!?

私自身、そこまで洞窟調査したことないのですが、、、

前回の記事で、洞窟では落盤などによる定期的な堆積があるので細かな層序が見られることが多いと書きました。

もう一つ特徴があって、落盤が主な堆積要因であると「しまりがすごい」のです。

考古学用語ですが、土の粒がギュッと集まってとても硬くなっている状態と思って頂ければ良いです。

図面の注記に「しまり極強」とか書きます。

写真を見て分かるように、乾燥地帯特有の乾燥した細かな砂粒が固まってますね。

籠の左手前に掘り上げた土が残っていますが、乾燥度合いと塊度合いを感じることができます。

そんな土質なのに、こんな出土状況ってあり得るのかなと驚きましたΣ(・ω・ノ)ノ

写真を見ると、なんかポンとここに置いたような印象で、ここから出た!って感じがしないのは私だけでしょうか?( ・Д・)





おわりに

最後に遺物の取り上げ時と思われる写真を載せました。

普段でも遺物の取り上げは一番緊張するところなのに、、、

ぱっと見は固そうでしっかりしてそうとは言え、この古さの完形の有機物製遺物で超貴重なのに、まさかのこのノリ!Σ(・ω・ノ)ノ

しかも左の男性なんて片手で持ってるし、、、

これだから海外の調査は面白いぜ!( ・Д・)



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2021ねん 3がつ 11にち(すいよーび、くもり)

先月のノルマを遅れて達成して、少し休み取ったらもう今月の3分の1が…

頑張りますね( -д-)ノ

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今回の考古学・歴史ニュースは日本最古!弥生時代の水路が見つかったよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台は三重県、鈴鹿市、大下遺跡です。

鈴鹿と言えば、サーキットですね!(・∀・)つ

って前にも書いた記憶があるので、、、

鈴鹿市って考古学的な発見がけっこうある土地のようですね(*・ω・)ノ


↓この遺跡も水辺周辺です


↑名前がカッコイイのでパッと思い出せました!(・∀・)つ


今回の発見は大下遺跡のものですが、この遺跡は中ノ川の左岸に立地しています。

上に挙げた過去記事の中にも書きましたが、水分があると有機物が腐敗しやすそうなイメージですが、水辺で常に一定の水分が補給され続けていると酸素に触れる機会が減るので遺物の残りが良かったりします。

飲み水や農業用水の確保のためにも川の傍は住みやすい環境なわけですが、大下遺跡の人々も川の傍に集落を作っていました。

この立地条件のおかげで大下遺跡からは今回の水道管以外にも多数の木製品が出土しているそうです(*・ω・)ノ


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↑これが検出された環濠!(「調査概要報告 2021」の画像より転載)

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↑調査区と遺構配置図;薄青色部が環濠(「調査概要報告 2021」の画像より転載)


上の写真と図で示したように大下遺跡の周りの環濠に沿う形で調査が行われました。

調査区全体から、弥生時代、古墳時代、そして近世の遺物・遺構が確認されました。

古墳時代の土器も多量に出土しており、須恵器も出土しています。

図に見られる大溝が環濠と考えられており、この地に環濠集落あるいは濠に囲まれた豪族居館があったと推測されています。

ちなみに考古学ではただ土を掘った場合の「ほり」は土片の『壕』と書いて、水を張っていた場合の「ほり」はさんずいの『濠』と書き分けたりします。

なので今回のケースでは「濠」が正しい表記になります。


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これが検出された「木樋」(「調査概要報告 2021」の画像より転載)

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「木樋」の先はどうなっているのでしょう?(「調査概要報告 2021」の画像より転載)


これが今回の目玉である木樋(もくひ)です。

水路の一形態ではありますが、ただ土を掘ったり、そこに配石を行ったりした水路もあります。

また土器を繋げた感じというか、土製の水路もあります。

この場合は形態からして木製の水道管と考えて問題ないです。

それにしてもよくこんなに素晴らしい状態で残った物ですΣ(・ω・ノ)ノ


2枚目の写真で、橋やら河川名の書かれた看板や河岸のススキ類の繁茂の存在で大体の河川との距離が分かるかなと思います。

近いと言えば近いし、ちょっと遠いと言えば遠い微妙な距離ですね。

河川までずっとこの木製の水道管が続いていたらスゴイですけど、ちょっと考えにくいかな~って思います。

その場合は、水道管の先に水に関連した遺構があるはずです。

この水道管、どうやら「蓋付き」らしいのでその可能性が高いかも知れませんね(*^・ェ・)ノ


↓水辺のレアな発見と言えばこれ!(・∀・)つ


↑水の儀礼関連と言えばこれ!ヾ(´ω`=´ω`)ノ


おわりに

今回の日本最古の水道管は現時点では環濠内の水を排水するためのものと推測されています。

でも水道管の先がどうなってるかによって、この遺構の理解は大きく変わってくるわけです。

先に述べたように、もしかしたら水に関連した儀礼場に繋がっている可能性もあるのです。

だとすると単なる水道管、排水管ではないことになりますが、

それでも最古の事例であることは間違いないですね!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

もし儀礼の場に繋がっているなら、上に挙げた過去記事のような特殊な遺物の発見もあるかも知れません。


うむ、今後の調査に期待です!( ・Д・)



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2021ねん 2がつ 6にち(どよーび、くもり)

速攻、毎日更新できなかったけど、連休で取り戻します!( -д-)ノ

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今回の考古学・歴史ニュースは「世界初!めちゃ古いお墓から義眼を付けた人骨が発見されたよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台はイランです!

今回、遺跡名が不明です( -д-)ノ

イラン南東部に位置するセイスタン-バルチスタン(Seistan-Baluchistan)州、ザヘダン(Zahedan)市の近くにある『焼けた都市(Burnt City)』と記載されているのですが、、、

もしかしたらバーント・シティ遺跡でいいのかも知れません(*^・ェ・)ノ


さて、今回お伝えするのは、およそ4800年前の古代ペルシャ期に遡る「義眼」の発見です。

下に写真を挙げましたが、裕福な人物の墓から検出された人骨に義眼が付いた状態のまま発見されました!




この義眼、頭蓋骨(とうがいこつ)の眼窩(がんか)に嵌ったままの発見というのがすごいですよね。

これがもしこの状態ではなく、地面に落ちていたら、アクセサリーとして判定されていた可能性も十分あるのではないかなと思います( -д-)ノ

上に挙げた検出状況の写真では、人骨の傍に精巧な作りの土器が複数見て取れます。

この他にも革製の袋、青銅の鏡や、様々な装飾品が副葬品として伴っており、被葬者は少なくとも裕福な人物と推測されています。

人骨の分析から、被葬者は25~30歳くらいの女性であることが分かっていますが、もしかすると王族の一員である可能性があります。

少なくともこの都市の上層部に帰属する巫女のような特別な存在であった可能性が指摘されています。


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義肢装具は古くから知られており、古代ヘブライ語で書かれた書物に「金色の人工眼」について言及されています。

しかし実際に古代における義手や義足が出土するケースはほとんどなく、ましてや遺物としてサイズの小さい義眼が出土することなどこれまでなかったのです。

 上に挙げた写真は義眼表面への加工の痕跡がよく見て取れる写真です。

義眼本体は簡易分析の結果、動物の脂肪に天然のタールを混ぜたものが使われていると判断されていますが、今後より詳細な成分分析が行われる見込みだそうです。

写真では刻線と穿孔が確認できます。

刻線によって中央部に瞳孔のような円形の文様、その周囲には目の毛細血管を描いているようです。

この刻線文を描くために金色の細いワイヤーを使った可能性が指摘されています。

もしかするとこれは刻線の凹部に僅かに残った色素の痕跡であり、かつては義眼ga
全体的に金色に装飾されていたのかも知れません。

その場合、文献に残る「金の義眼」という記載と一致し、高位の巫女の片目が金色に輝くような光景自体に儀礼的・宗教的に重要な意味があったのかも知れません。




そしてこれがお墓から検出された頭蓋骨を基に、形質人類学、法医学、古生物学などの各分野で利用可能な最新の科学技術を結集して復元されたおよそ5000年前の高位の巫女の顔です。

先ほどの写真で見られた義眼の側面にある2つの穿孔痕は紐を通す穴です。

上に挙げた写真のようにして使用したと考えられています。

しかし、こうした使用状況でこの女性の眼窩は義眼との接触が続いた結果、膿瘍ができてしまったことが頭蓋骨の分析から分かっています。




おわりに

このお墓とは関係ありませんが、同じ「バーント・シティ遺跡」からは古代ペルシャ期に帰属する、古代の計量定規、バックギャモンのゲームの破片、アニメーション装置など、多くの興味深い出土品が出土しているそうです。

特に目を見張るのが焼けた最後に挙げた「古代のダイス」ですが、非常に精巧な作りになっています。

これまで「ゲームの考古学」と題した記事も何本か書いてきましたが、この遺跡での興味深い発見に関する研究成果が公開されたら、また紹介したいなと思いますヾ(´ω`=´ω`)ノ

……義眼で膿瘍かぁ。

私は現代のコンタクトレンズすら怖い!( ・Д・)



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2021ねん 1がつ 30にち(どよーび、雪)

ボーカルレッスン、思いの外楽しかった!(・∀・)つ

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今回の考古学・歴史ニュースは「1万年前の最古級の勾玉が出たよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台は鹿児島県、種子島の長迫遺跡と二石遺跡です。

そう、鉄砲の伝来として有名なあの種子島が舞台ですヾ(´ω`=´ω`)ノ

そして今回何故、2つも遺跡名があるかというと、今回のお話は『最古級の装身具が1点出た!』ってだけではなく、『最古級の石製品が複数出た!』ってお話なのです(*・ω・)ノ

実際この2つの遺跡は種子島の東海岸の海岸段丘上に隣接して立地する遺跡なのですが、この両遺跡にて調査した際に複数の最古級の石製品が出土したのです(*・ω・)ノ




まずは長迫遺跡の方から!

ちなみに読み方は「ながさこ」です。

ところで、この事例はさほどでもないと個人的に思いますが、考古学における遺跡名って難読なものが結構あるものです。

特に海外考古の私としては、報告書のタイトル(遺跡名)が読めなくて検索が面倒だなと思うことが多々あります( -д-)ノ

さて、上に挙げた写真が同遺跡から出土した石製品のひとつになります。

この遺物は縄文時代早期に帰属する吉田式土器と共に同じ層位から出土したため、今からおよそ1万年前の最古級の石製品として判定されました。

ちなみに1枚目の「じゃがいも」みたいな遺物は10cmほどのサイズの砂岩製の石偶です。

全面に敲打痕(こうだこん;叩いた痕跡)が確認できたため、意図的に加工したものと推定されています。

左手前が頸部の如く少しくびれている印象を受けるので、頭部を造形しようとしたのかも知れませんね。

動物なのか人なのか、何を模したかまでは分かりませんが( -д-)ノ

島だし、海獣かな?(*^・ェ・)ノ



……考古学にちょいと詳しい方は本当に石偶?って思うかもしれませんね。

考古学者としてはレキ(石ころのこと)などに何かをぶつけたような痕跡があった場合、それが加工痕なのか使用痕なのかが気になるところです。

なんかちょっと握りやすそうなグリップ感あって、特定の箇所だけに痕跡が集中していたら使用痕の可能性が高いなと判定します。

今回の場合は全体的に痕跡が見られたため、この敲打痕は遺物を成形・整形するための処理の痕跡である加工痕と判定しています。

もちろん何かしらの道具を作るために全面を敲打しつつ未使用ないし、ほぼ未使用の場合、

あるいは道具(ツール)に加工しようと全体を叩いて成形してみたけど、やっぱ途中でや~めたって場合は、遺物自体に加工痕だけが残るけど遺物は本来道具あるいはその未成品なわけです。

この遺物に対して「石偶」としつつも、「用途不明」にしているのは、儀礼行為と関連して用途不明という意味だけではなく、

道具(ツール)である可能性も残して慎重な立場を取ってるのかな~なんて思ったりしますね(*^・ェ・)ノ



さて、こちらも長迫遺跡から出土したものです。

先ほどの石偶と同様の状況下で出土したため、この遺物も約1万年前のものと判定されています(*・ω・)ノ

こちらも全面に敲打痕が確認できるとのことですが、ぱっと見明らかに加工されて成形・整形されてますよね。

長軸が8.5cmでこちらも用途不明な石製品です(*・ω・)ノ


さて、、、真ん中辺りの右側に「穿孔痕らしきもの」が見られるのですが、、、

なんだろう、これ?( ・Д・)

がじった?(調査中に堀具で壊した?の意)( ・Д・)



【そんな気がする理由】

①写真で不鮮明な敲打痕について記載があるのに、これほど分かりやすい痕跡を穿孔痕と表記していないのは怪すぃ(´・ω・`)

②穿孔痕らしき箇所の内面が新しい割れ面に見える(´・ω・`)



【断定しない理由】

①マヤ遺跡の発掘調査ではミニピッケル状の堀具を使用するため、このがじり痕跡はよく見られる。しかし日本だと何で堀ったの?ってなるから(´・ω・`)

②私の心が優すぃから(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!


・・・・・・エンピでがつっといったのか、移植でぶっ刺したのか、、、なんだろう、変なとこが気になりますね~。

縄文時代早期の包含層なんて下層だろうし、文化層だと思って掘ってれば有り得ないような気もするけど、、、

きっと、、、まさか何か出ると思ってなかったのかな?

真実は闇の中ですね( ・Д・)

そして、1万年前の最古の勾玉、、、完形品だったら国宝級だったかもしれませんね!Σ(・ω・ノ)ノ




おわりに

今回は種子島なので鹿児島県のお話でしたが、南九州一帯はこれまでにも古い時期の石製品の発見が集中している地域なのです。

そんな南九州でもこれまでの石製品や装身具は縄文早期後葉に帰属するもので、今からおよそ8000年前のものでした。

今回の勾玉は石製装身具としてはこれまでの最古記録を2000年も遡るもので、しかも勾玉の形態ものは同時期では類例がないため大発見ですヾ(´ω`=´ω`)ノ


・・・・・・私、実は最近日本の研究もやってて(コロナ禍だし( -д-)ノ)、ちょうどそれがおよそ1万4000年前の縄文時代草創期の内容なのです。

土器として国内最古級を扱いつつ、その時期に既に広範囲のヒトの移動、情報の伝達、モノの交換が活発であったことを示せるのではないかなと思っている最中なので、、、

なので、今回のお話は早期ですから、個人的には当然!って感じだったりします(*^・ェ・)ノ

そろそろそれらの国内関連の論文発表も進んできたので、近い内、記事で考古学最新情報紹介したいと思います!


さて、本記事の途中で「真実は闇の中!」と名探偵コナンばりのセリフを吐きましたが、、、

我々考古学者にとって、資料の再検討も重要なのはわかってはいるものの、やはり、、、

『真実は土の中!』かな?( ・Д・)



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2020ねん 1がつ 3にち(にちよーび、雪)

訳あってサイコロ振りまくりの三が日でした( -д-)ノ

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今回の考古学・歴史ニュースはえ、縄文人も火葬してたの!?( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台は新潟県、上野遺跡です。

ちなみに上野と書いて「かみの」と読みます(*・ω・)ノ

上野遺跡ではこれまでに縄文時代の大規模な集落跡が発見されています。

今回はこの上野遺跡で火葬(?)と思われる『焼けた人骨が集中して検出」されたのですヾ(´ω`=´ω`)ノ

葬制は宗教の影響を強く受けますから、世界的にはキリスト教やイスラム教の下、火葬が忌むものとして捉えられます。

しかし知ってのとおり、現代の日本社会では火葬はとても一般的です。

これは仏教の影響と言われています。

そのため日本で火葬の風習が一般化したのは8世紀以降の仏教の伝来以降と考えられています。

しかし火葬あるいは骨を焼く行為自体は考古学的にはもっともっと古くから確認されているのです。




これまでの発掘調査とその発見から、日本国内において最古となる焼けた人骨は縄文時代中期とされています。

ただし事例数が少ない上に、該当遺構における人骨の検出量も僅かなのです。

一方で、焼けた人骨がまとまって出土するようになるのは縄文時代後期の後半から晩期と考えられています。

今回の上野遺跡の事例では、この焼けた人骨がまとまった状態で検出されたのですが、その時期が縄文時代後期の前葉と推定されています。

『前葉』という言葉は聞きなれないかも知れませんが、縄文時代後期の『初めの頃』という意味です。

ざっくり言うと、今からおよそ4000年前の事例ということになります(*・ω・)ノ

こうして焼けた人骨がまとまって見つかった事例としては、今回の上野遺跡の4000年前の事例が最古のものとなるのですヾ(´ω`=´ω`)ノ





さて、上に挙げたのが現代の真っ白に焼けた骨と、真っ黒に焼けた骨の写真です。

考古学ではどちらも「焼骨(しょうこつ)」です。

上の「白い骨」の方ですが、高温で長時間の被熱を受けた際にこのような色調になり、一部灰色や若干青みがかるような印象を受けます。

一方で「黒い骨」の方は、比較的低温で短時間の被熱の場合にこのような状態になります。

ちなみに「骨」ってそもそも白いイメージですが、焼けていない通常の骨は「黄色っぽい」色調を呈しています(*^・ェ・)ノ

今回の上野遺跡において発見された骨は、先に載せた写真で分かるように、白っぽいですよね?

なので、高温で長時間焼かれた骨、つまり火葬された人骨ではないかと推測されています。

今回見つかった人骨集中の中で、上に挙げた真っ黒の骨の写真で見られるような下顎骨が確認されており、2名以上の骨が混在しているかどうかは今後検証されます。

(*部位は合っていまずが、この写真自体は今回の発見とは無関係です( -д-)ノ)


arukemaya1318
↑記事の都合上、再掲

また先に挙げた現場の検出状況の写真の話に戻りますが、人骨の周りは気持ちへこんでいて、土の色は黒っぽい(黒灰色)感じがします。

これは浅いですが、土坑なのです。

なので骨が出ている部分は周辺より少し低いのです。

そして土の色が黒っぽいということは、、、

焼けた土(焼土;しょうど)は赤褐色を呈するため、この地点で直接人骨を焼いて、そのまま土を被せたわけではないということが分かります。

また人骨周辺から炭化物がほとんど出ていないことからも、ここで焼いたわけではないことが分かります。

以上の点から、今回の上野遺跡の事例では、遺体は別の場所で焼かれた後に、この地点に再葬されたと推定されています(*・ω・)ノ



arukemaya1320
↑近代的な火葬のイメージ(「Shuukatsu Life」の記事内画像より転載)


おわりに ~考古学的に火葬って何?~

2020年1~3月の私の調査で「古代マヤの一般層の人の焼けた骨が出たよ!」ってお話をどこかでしていると思います。

むしろ今年はそればっか話してる気がします( -д-)ノ

元々は私は葬制をテーマにしたことがほとんどなく(卒論くらい?)、そのせいもあって今年は「火葬」を中心とした葬制の勉強をしました。

さて、先に述べたように今回の上野遺跡の事例では、『見つかった地点の土が焼けていないことと炭の量の少なさから、別の場所で焼かれ再葬された』と推定されています。

こうした推定は、今回の発見があった新潟県や長野県、山梨県といった中部地方において縄文晩期に焼骨葬が広まったと考えられており、その特徴は土葬で1度葬った遺体を掘り出してから人骨を焼いて、再び埋葬するというものであるというこれまでの事例を根拠にしています。

……私の浅学の知識によると、どうやら一次的な埋葬(通常の埋葬)と、二次的な埋葬(再葬)の区別は、骨が揃っているか、解剖学的な位置を保っているかがポイントになるようです。

近現代の火葬を考えれば分かりやすいですが、焼くところと埋める(安置する)場所って異なりますよね(*^・ェ・)ノ

これって考古学的には「再葬」と判定されますよね。

平安期くらいから骨壺に入れられた火葬の遺構は見つかっていますが、現代だと骨壺に入れるのは普通で、この行為の際に解剖学的な位置は失われます。

北アメリカ先住民の事例だと、焼いた骨をピット(今回のものよりもっと深い縦穴)に埋めます。

これも解剖学的な位置は失われます。

ってことは火葬ってほとんどの場合、再葬扱いになるのでは?( ・Д・)

その場で焼いて、そのまま埋めるって事例の方が圧倒的に希少な事例な気がします( ・Д・)

更に今回の上野遺跡の事例のような場合は、一度土葬した後に骨だけ取り出して火葬しているのでしょう?

何でそう言えるのでしょう?(´・ω・`)

たぶん火力かな、、、

焼骨が黒っぽいので、テキトーに焼いている。

人体を比較的低温で短時間テキトーに焼いたら当然焼け残るし、そのビミョーな状態の遺体・人骨を別の場所に運んで埋めたとは考えにくいから……ってこと?

こういうのは前に書いた「狩猟採集時代のハンターに女性がいた!?」みたいなのや、「土器作りは女性の仕事?」をなんてのを代表として、我々現代の考古学者の思い込みかも知れませんね( -д-)ノ

ん~、土葬、火葬、再葬、焼骨儀礼、、、組み合わせアリなら、いかにしてそれぞれを区別可能か、奥が深い気がしますねヽ(TдT)ノ



……ちなみに同じ新潟県の緒立遺跡からは、弥生時代に帰属する穿孔された手や足の指の焼骨が見つかっています。

人為的に穴が開けられていることから、ペンダントのように装身具にしていた可能性が考えられます。

現代では10円硬貨とか一緒に焼いてお守りにするね!( ・Д・)



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2020ねん 11がつ 30にち(げつよーび、晴れ)

11月ラスト!今日は死ぬ気で頑張る(*^・ェ・)ノ

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今回の考古学・歴史ニュースは世界最古の地図はカルデア王国の地図!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台はイラク、バビロニアです!

メソポタミア文明で有名なティグリス川とユーフラテス川の両河川の下流の沖積平野一帯を指す歴史地理的領域である。

中米でいうと、「メソアメリカ」みたいな感じ、文化史的領域なのでしょうね、きっと( -д-)ノ

さて、このバビロニアという領域は古代においては南部のシュメール地方と北部のアッカド地方に大別され、「シュメールとアッカドの地」という表現で呼ばれていたそうです。

バビロニアでは、BCE3000年にはシュメール人やアッカド人たちはバビロニア南部でウルやウルク、ニップル、ラガシュなどに代表される多数の都市国家を構築しました。


BCE2000年までにはアッカド帝国が広がり、ウル第三王朝が続きました。


BCE2000年期に入ると有名な古代都市バビロンを中心にバビロン第1王朝が興り、「目には目を、歯には歯を」のハンムラビ法典で有名なハンムラビ王(在位:前1792年-前1750年)によってメソポタミア地域がほぼ統一されました。

この辺りまでは世界史で出てきますね(*・ω・)ノ


↓以前の「地図」に関する記事(*^・ェ・)ノ




上に挙げた過去記事ではコロンブスが「アメリカに到達」した後の最初の地球儀や、世界最古の地図のお話でした。

特に後者の「最古の地図」は集落内の地図でした。

今回紹介するのは「世界地図」です!

そしてその「世界最古の地図」はバビロニアでBCE6世紀に建国された新バビロニア王国、つまりカルデア王国で作られたものなのです。

文章と写真の配置関係の問題で、該当する遺物の写真は下部に挙げています、ご了承ください( -д-)ノ

さて、下の写真がバビロニアの世界地図、あるいはイマゴ・ムンディと呼ばれる遺物です。

メソポタミア諸文明でよく見られる粘土板です。

この粘土板は、古代都市バビロンの北方60kmに位置するユーフラテス川の東岸にあるバグダード・ビライェットのシッパルで発見されました。

粘土板の下部には世界地図が描写されており、地名などが添えられています。

粘土板の上部は一部欠損していますが説明文が刻まれています。

この説明文は1889年に初めて翻訳され、現在このイマゴ・ムンディは大英博物館に所蔵されています(*・ω・)ノ



さて、内容を詳しく見ていくと、、、

描かれた世界地図は円形で、外側に二つの円が描かれています。

この外側の二つの円はその間にある水を表しており、イドマラトゥム「苦い川」と「塩の海」と記されています

塩の海は、普通の海や『死海』のことなのでしょうね(*^・ェ・)ノ

この苦い川や塩の海で構成される大きな水の境界の外(二重の円の外)には、三角形で示される8つの地域があることになっています。

8つの地域の内、5つの地域の部分が残存していて、「ナグ;nag」と書かれています。

恐らく固有名詞ではなく、「外部の領域」の意味なのでしょう。

三角形で示されているのは「山」をイメージしているようです。




地図の中心はユーフラテス川で、北(上)から南(下)に流れています。

現在では地図の上が北を示すのは常識ですが、歴史的にみると時代や地域によってどの方位を上にするかは様々でした( -д-)ノ

世界地図の中央部、二重の円の内側には7つの小さな円があってそれぞれが都市を示しているようです。

地図中央の北側にあるのがバビロン、底部の平行線は南部の沼地(カルデア?)を表しているように見え、北から北東に向かってくる曲線はザグロス山脈を表していると考えられています。


【上の図の番号とその意味】
1. 山 ⇒ザクロス山脈?
2. 都市(アッカド語:uru) ⇒ウルのこと?
3. ウラルトゥ
4. アッシリア
5.?(アッカド語:der)
6. ?
7. 沼地 (アッカド語: ap-pa-ru) ⇒カルデアのこと?
8. スーサ(エラムの首都)(アッカド語:šuša)
9. カナル /「流出」の意味(アッカド語:ビットク)
10. ビット・ヤキン
11. 都市(アッカド語:uru)⇒これもウル……都市ってだけなのでしょう( -д-)ノ
12. ハブバン
13. バビロン(アッカド語: tin.tirki)、横長の長方形エリアでユーフラテスで分断されている。
14 – 17. 海(塩水、アッカド語:idmar-ra-tum; イドマール・ラ・タム)
18~22.外側の「地域」(アッカド語: nag)
23 – 25. 記述なし

描かれている都市の配置として、南にはエラムの首都スサが、北東にはウラルトゥが、北西にはカッサイ人の首都ハブバンが表示されていますが、位置関係を間違えているようです( -д-)ノ

まぁ古代において旅は危険なものですからね。

世界地図を描くためには並々ならぬ努力が必要だったでしょう。

所々にミスはあれど、これがカルデア王国時代の世界観なのですねヾ(´ω`=´ω`)ノ




おわりに

今回紹介した世界最古の世界地図はカルデア王国で作られたものでした。

カルデアと聞くと個人的には『Fate/Grand Order』しか出てこないのですが、、、

ゲームも人類の歴史や偉人の個人史に興味をもってもらう良い機会かな~って思ってますヽ(・ε・)人(・ε・)ノ ナカマ

私は娯楽映画としての『インディジョーンズ』とか『ナショナルトレジャー』とか、ゲーム・映画の『トゥームレイダー』や『アンチャーテッドシリーズ』とか批判しないタイプなので!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

むしろ大好きヾ(´ω`=´ω`)ノ

批判しないよ、だって娯楽だもの!

リアルな考古学じゃドキュメンタリーになっちゃうし、地道なものだからそこまでウケ良くないでしょ!( ・Д・)

しかしながら私が学生の頃は、先生や先輩方には『親の仇』かってほど嫌悪してる方々がけっこういたのが事実です。

なので一般のフツーの考古学者とお話する際には気をつけてください( -д-)ノ

きっと今の若手研究者なら、そういった所謂「大衆文化」などが入り口だったとしてもそこまで嫌がらないはずです(*^・ェ・)ノ

今でも「考古学少年」以外受け入れない人もいるけどね!( ・Д・)



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2020ねん 11がつ 21にち(どよーび、雨)

ふっか~つ!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

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↑イタリア北部に位置するってことが分かる図(「イタリア政府観光局」のページ内画像より転載)



今回の考古学・歴史ニュースは人類最古の地図って知ってる!?( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台はイタリア、ヴァルカモニカです。

ヴァルというのが「谷」を意味します。

しかし文法上は接頭辞なので、区切らずに一つの単語として扱うそうです(ヴァル・カモニカとはならないという意味)。

日本では「カモニカ渓谷」と表記されることの方が一般的なようですね( -д-)ノ


arukemaya1232


カモニカ渓谷はモンテ・フレロネなどの高い山々に囲まれた中、南側に位置するイゼーオ湖に向かって流れるオリオ川によって形成された渓谷です。

このカモニカ渓谷には「ヴァルカモニカの岩絵群」と呼ばれるものがあります。

イタリアで最初の世界遺産として1979年に登録されました。

ヴァルカモニカの岩絵群と呼ばれる特定の場所があるわけではなく、カモニカ渓谷内に点在する国立公園の中で様々な岩絵が見られ、それらをまとめて岩絵群としています。

有名なところではナクアネ岩壁彫刻国立公園、セラディーナ-ペドリーナ公園、チェート岩壁彫刻国立公園、チンベルト岩壁彫刻国立公園、パスパルド岩壁彫刻国立公園を始めとして色々な公園があります。


arukemaya1233
↑これが世界最古の地図!(「星埜 ????(発表年不明)」より画像を転載)

arukemaya1227
↑全体はこんな感じの刻線文になっている(「??? 2016(発表者不明)」の画像より転載)




さて、今回紹介する世界最古の地図が『ペドリーナ図』です。

カモニカ渓谷の岩絵群のひとつなので、単純に「カモニカ地図」として日本では広まっているようです。

しかし先に紹介したようにカモニカ渓谷内には多数の国立公園があり、この岩絵地図はその内の一つで見られるものです。

それがセラディーナ-ペドリーナ公園です。

恐らく距離が近い二つの公園がまとまって、このセラディーナ-ペドリーナ公園となっているのだと思いますが、正確には二つに分かれるようです。

ペドリーナ公園の方は実は「国立」と付いていないだけあって、正確には私有地だそうです。

このペドリーナ公園にある岩絵地図なので、現地では人類最古の地図「ペドリーナ図」として知られていますヾ(´ω`=´ω`)ノ

「カモニカ渓谷の岩絵群」は約1万年前から紀元前後のローマ帝国期に至る約8000年の間に人類によって描かれた様々な線刻画が見られます。

モチーフは農耕、航海、戦争と様々なものが計14万点も描かれており、それぞれの文化の様子を知る上での重要な資料となっています。

この人類が描いた最古の地図「ペドリーナ図」はBCE1500年、つまり今からおよそ3500年前に描かれたもので、当時の集落の様子を描写しています。

良く見ると、人の形や、家畜などの動物のモチーフ、家屋のモチーフが見られますね。

下に挙げる別の岩絵にも家屋が見られるのですが、当時のこの辺りの家屋は高床式倉庫みたいに背の高いものだったのでしょうか、気になります。

家屋に梯子が付いていて、屋根裏に人が入っている様子も描かれています。

それにしても全体としてかなり大きい集落ですし、行き交う道も複雑で、かなり正確に描かれた地図のように伺えます(。・ω・)ノ゙




おわりに

数日、不可思議な腹痛(?)で伏せておりましたが、その間に「社会経済物理学」とか「都市地理学」の勉強を軽くやっていた時に、この世界最古の地図について偶然知りました。

地図というと、私のイメージではバビロニアの粘土板に描かれた地図が思い浮かぶのですが、そちらはBCE600年なのでペドリーナ図の方が古いですね。

まぁ世界地図としてはバビロニアが最古なのか……

続けて、バビロニアを扱ってもいいかも知れませんね(*^・ェ・)ノ

そう言えばマヤで地図って知らないな、焼かれたか!?( ・Д・)



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2020ねん 11がつ 10にち(かよーび、晴れ)

次の休み、カモン!( ・Д・)


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arukemaya1160
↑川の右側の発掘区がトレンゼ遺跡(「DW」の記事内画像より転載)


今回の考古学・歴史ニュースは「トレンゼ・バトルフィールドで新たな発見と共に新たな謎が生まれたよ!ー後編ー( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、ドイツ北部、トレンゼ川のほとりにあるトレンゼ遺跡(トレンゼ・バトルフィールド)の復習をさらっとしましょう。

今からおよそ3200年前の青銅器時代に4000~5000人による大規模な「戦争」があった証拠がトレンゼ・バトルフィールドから見つかっています。

これは最古の戦争の事例であり、これほど昔から大規模な闘争が起きていたことを示す重要な事例でもあります。

前の記事にも書いたように、この争いは「1日で終わった」と考えられていますが、恐らく明確な証拠はないでしょう。

戦闘規模からの類推や、兵糧の存在を示す証拠の不在から、恐らく1日で終わったと推定しているのだと思います。

最古の戦跡なのに、この頃から既に兵糧を準備し、長期の戦闘行為に備えていたとあればそれこそこれまでの歴史の常識がひっくり返されることになります( -д-)ノ

恐らく1日で終わったとは言え、こうした大規模な戦闘(少なくとも2000人 V.S. 2000人)が何故このトレンゼ・バトルフィールドで起きたのでしょうか?

誰が戦ったのでしょうか?

ドイツ北部に住む同一集団内の抗争でしょうか?

ドイツ北部に住む他集団間の抗争でしょうか?

あるいはドイツ北部の地元集団と、他地域の集団との抗争なのでしょうか?

これがトレンゼ・バトルフィールドにおける『大規模戦闘の謎』なのです(*^・ェ・)ノ




さて、トレンゼ・バトルフィールドにおける発掘調査で進展がありました。

調査範囲が拡大することで、どうやら戦いはトレンゼ河の両岸の土手道で始まり、河下へと移動していったと推定されています。

両岸の土手道で戦闘があったのは考古学的に分かるとして、河下へ移動していったと何故考えるのかはよく分かりません( -д-)ノ

もしかすると、河下で上に挙げた写真に見られる『一風変わった』遺物が出土したことに根拠を置いているのかなと思います。

これらの遺物集中は古代の土手道から約300m下流の川床の堆積物から見つかったものです。


合計31点の青銅器で、本来有機物製の入れ物に入っていたものがここに流れ着いて堆積したと推定されています。


こうした証拠から下流へと逃げながら戦闘が続いたと考えているのだと思いますが、上流で死んだ戦士の持ち物が下流へと流されたとも考えられるので、私としてはこれだけでは下流方向へと移動しながら戦闘が続いたとは言えないと思っています。


そもそも考古学は時間を扱うとは言え、「一日で終わった戦闘中の更に細かな時間の変化」なんて捉えることができません。


考古学で扱う時間とは土器などの遺物の変化に着目したもっと長期的な時間なのです(*^・ェ・)ノ



arukemaya1157
↑丸いカンカンのような青銅製ケース(「ナショナルジオグラフィック」の記事内画像より転載)



これらの青銅製の遺物はキリ、ノミ、ナイフ, 青銅のくずなどでした。


また上に挙げた写真に見られる円筒形をした青銅製の小さな丸い箱が見つかっています。


この丸い箱はベルトに取り付けられる形になっています。


同じ下流の川底の堆積物の中から人骨も見つかっているそうです。


この人骨が破片なのか全身骨格なのかで、河に流されたのか、下流まで来てここで死んだのかを考える上で大きく変わってくるポイントなのですが、それに関する情報はまだありません( -д-)ノ


他に先に挙げた写真の中に見られる青銅製の筒状の遺物が3点見つかっています。


これは個人的な持ち物を入れる袋か箱の付属品だったと想定されており、同様の品は数百キロ離れたドイツ南部とフランス東部でしか今のところ見つかっておらず、この場所では珍しい出土品だということです。


これはトレンゼ・バトルフィールドで戦った戦士たちの少なくとも一方が遥か遠くの地域からやってきた集団である可能性を示しています。


ただ新たな疑問が生まれます。


戦場へ赴く戦士が何故、キリ、ノミといった工具類や青銅のくずといった加工過程でできる副産物を携行しているのでしょう?


「考古学あるある」であり、且つ、ある意味考古学の限界とも言えるのですが、『よく分からないことは(とりあえず)儀礼行為とする』というものがあります。


トレンゼ遺跡の調査者たちも、恐らくは青銅器時代の戦士たちが儀礼的・呪術的な目的で戦闘とは無関係に思える金属加工用品を携行していたと推定しています。


繰り返しになりますが、トレンゼ・バトルフィールドのようなケースは「SSR」級ですから、今後青銅器時代の類例が見つかるまでは、こうした金属加工用品を戦士が携行することが「普通」なのかそうではないのか未定のままとなるでしょう。


また人骨のDNA分析結果では、ドイツ北部の現地人集団と、南ヨーロッパを含む遠隔地の多様な戦士の集団との戦いであったことを示しており、ドイツ南部やフランス東部でしか出土例のない金属加工用品の出土を根拠とした現地集団と遠隔地集団との戦いという類推を後押ししています。


戦士の歯の同位体分析でも2つの戦闘集団を特定しており、1つはドイツ北部出身の現地人集団、もう1つは多様な中央ヨーロッパ、ボヘミア(ドイツ南東部)などから来たと考えられる集団です。


こうした研究成果は異なる少なくとも2つの集団が交戦したことを示唆しています。


おわりに、ー謎は謎のままー

実は新たな研究成果として、別の人骨のDNAに関する分析では戦士たちがヨーロッパ中部と北部の人々だったと結論付けています。

よくヒトとチンパンジーは2%しかDNAの違いがないなんて言い、なので人類における所謂「人種」なんてものはそれ以下の僅かな違いでしかない、だから「人種差別は不当」なんて論理展開も多々見受けられます。

ということはヨーロッパ内、特にドイツ北部を中心とした「狭い」エリアの中で、かつて住んでいた人々の間のDNAの違いはいかほどなのでしょうか?

少なくともドイツ北部の同一集団内における闘争という解釈は非常に弱まっていますが、現地人集団 V.S. 他地域集団の構図が適当にせよ、他地域集団というものが多様な複数地域出身者から成る集団なのか、そしてそれはどれだけ遠隔地なのかという点については現在も謎のままなのです。

今や、人骨に対する形質人類学的分析や、理化学的なDNA分析や歯の分析は、考古学における学際的研究として不可欠なものとなっています。

しかし地道な考古学調査も重要なわけで、やはりトレンゼ・バトルフィールドにおける調査範囲の更なる拡大によってデータを収集すること、トレンゼ・バトルフィールド周辺の「集団が居住したと考えられる拠点」の発見などがこの謎を解く上での鍵となることは間違いないでしょう。

一方で今ある状況証拠だけでも色々と考えることができると思います。

我々考古学者は「鑑識」として働きますので、皆さんも「考古学探偵」としてこの考古学ミステリーに挑戦してみてはいかがでしょうか?

(名探偵コ〇ン!)


真実はいつも土の中!( ・Д・)



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2020ねん 11がつ 9にち(げつよーび、雷を伴う暴風+霰)

今日は論考一気に書き終える日( ・Д・)


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arukemaya1161


今回の考古学・歴史ニュースは「人類史上とても重要な発見、最古の大戦場跡が見つかったよ!ー前編ー( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


戦争は「行為」であって、土器や石器のように「道具」として残るわけではないので、その痕跡はなかなか発見されにくいものです。

そのため、人類史研究において「戦争」は重要な研究対象なのですが、その残りにくさから扱いにくいテーマでもあります。

遺体は野ざらしになる傾向が強いですから、丁寧に埋葬された場合と違って腐敗が進んで朽ちてしまいますし、戦死者が埋葬されてしまうと普通の埋葬墓との区別が付かなくなってしまいます( -д-)ノ

火事場泥棒的に、戦死者の武具などが回収されてしまう場合もありますし、どうしても戦争はその性格から考古学では取り扱いにくいものなのですヽ(TдT)ノ

そういうこともあって、今回紹介する古戦場跡はその発見自体がレアな大発見なわけですが、それだけではなく欧州最古の事例&青銅器時代に大規模な戦争の痕跡という点で重要な発見なのですヾ(´ω`=´ω`)ノ





発見の舞台はドイツ北部のトレンゼ遺跡です。

上の1枚目に挙げた写真で見られるように、河のほとりにある遺跡です。

河から供給される水分が遺物や人骨の良好な保存状態を保ち、今回の大発見に繋がったと言えるでしょう。

ここではBCE1200年頃に河岸で戦って死んだと考えられる1万2000点もの人骨や武器類が見つかっています。

上の2枚目の写真に見られるように、かなりの量の人骨が集中しており、この写真の地点では12㎡の範囲から20個体分の頭蓋骨を含む1478点もの人骨が出土しました。

人骨が集中して見つかっただけでは「戦争」があったことにはならず、乱雑に配置された合葬事例や共同墓地ということも考えられます。

この事例の場合では多数の武器だけではなく、明白な状況証拠が揃っていたため、見つかった多量の人骨は戦死者と考えられたのです。

その証拠を見ていきましょう。






これらが武器を伴う人骨よりも直接的証拠として扱われた例になります。

最初の写真では、見事なフリント製の石鏃が上腕骨に突き刺さっています。

2枚目の写真では、保存状態の良い頭蓋骨の頭頂部付近に、不自然な陥没が見られます。

これは棍棒などによる強い打撃で頭を割られたことに起因する痕跡だと推定されています。

3枚目の写真では、石鏃が頭蓋骨を貫通して脳まで到達している状態を示しています。

これに加えて発見された1万2000点もの人骨が少なくとも140人分であるとの個体数を推定する結果が出たこと、この140人のほどんどが20~30代の上記のような外傷以外で病気などの見られない健康な「男性」であったことがトレンゼ遺跡がバトルフィールドである根拠になっています(*・ω・)ノ






おわりに、ートレンゼ・バトルフィールドの謎(前編)ー

さて、最後に挙げた写真と図は「Science」誌に載ったものです。

上の写真のような出土品が多数見られ、これらが「青銅器時代の戦士」の携行品と考えられています。

こうした携行品や他に出土した武器類から推定されたのが下の図の「青銅器時代の戦士」です。

勇ましく描かれていますねヾ(´ω`=´ω`)ノ

さて、人類史は戦いの歴史であり、特にヨーロッパ史は常に戦争ばかりなわけですが、20世紀までは青銅器時代のヨーロッパは比較的平和な社会だと考えられていました。

より古い時代にヨーロッパで大規模な戦いがあったという歴史記述が、ギリシャやエジプトなどに残されていましたが、最初に述べた「戦争」の痕跡は発見されにくいため、これまでトレンゼ・バトルフィールド級の古戦場の遺跡は見つかっていなかったのです。

これまでにも青銅器時代の武器は出土していましたが、埋葬遺構における副葬品や、儀礼に伴う埋納品としての出土しかなかったのです。

トレンゼ・バトルフィールドの特徴は考古学的に認められる最古の事例というだけではなく、最大規模の戦闘行為の痕跡が残る事例だということです。

調査範囲からは140人分の人骨が出ましたが、遺跡全体の10%ほどを調査したと考えられることから、全体の死者数は1400人程度になる見込みです。

戦争は生き残りをかけたバトルロワイアルではありませんので、実際に戦争に参加したのはその2~3倍程度、4000~5000人ではないかと推定されています。

戦闘自体はおそらく1日で終わったと考えられていますが、この規模の戦闘行為は青銅器時代ではこれまでに見られない圧倒的なものなのです。

ここで問題なのは、何故トレンゼ遺跡で大規模な戦闘が起こったのかということです。


欧州各地から来た他集団同士が争ったのか、トレンゼ地方の同一集団における内紛だったのか・・・・・・


誰が、何故この地で戦ったのかは現在も謎のままなのです。


どう思いますか?ー後編へ続くー( ・Д・)



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2020ねん 10がつ 30にち(きんよーび、曇り)

一年半前の記事が下書きのまま発掘されました( -д-)ノ

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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今回の考古学・歴史ニュースは「土器の研究から、日本のGの起源が中国である可能性が分かったよ!」ってことです!


*本記事ではすべてのGをGと表記する方向でいきますね( -д-)ノ


この研究は熊本大学の小畑弘己教授によるもので、土器表面に対するレプリカ法(圧痕法)を用いたものです。


より正確には「土器圧痕のレプリカ法」と言います。


土器の器面(表面)に何らかの要因で押し付けられた痕跡(圧痕)に対して、シリコンを流して型を取った標本(レプリカ)を電子顕微鏡等で観察して分析する手法のことです。





対象となった資料は宮崎県、宮崎市田野町の本野原遺跡(もとのばるいせき)で出土したものです。

この本野原遺跡は縄文時代後期の遺跡であり、西日本において最大級の集落跡が発見されています。


この遺跡から出土した約4300年前の土器と約4000年前の土器の器面からGの卵の痕跡が見つかったわけです。


本記事内で述べている検出されたGの「卵」というのは実際には「卵鞘(らんしょう)」と呼ばれるもので10~11mm程度のサイズだそうです。

この「卵鞘」の中に複数の卵が入っている構造なのです。

そのため「卵のさや」と書くのですね。しかし記事内では分かり易く、「卵」と表記します( -д-)ノ




今回検出されたGの卵は、中国南部が原産とされるクロGの卵と形態的に強い類似性を示しているということが分かりました。


クロGとは屋内に生息する種のGとして代表的なものです。

ちなみにこの屋内GであるクロGが縄文時代の遺跡から確認されたのは初めての事例のようです。


つまり今回の発見によって縄文時代の家屋の中にもGがいたことになります。

どうやら我々と”G”との戦いの歴史はとても長いようですね( ・Д・)



おわりにかえて、誰得? ”G”の歴史


現在の日本には、野生を含めると約50種類のGが生息するそうです。

そんなにいるのですねΣ(・ω・ノ)ノ

北海道産の私としてはほぼ海外でしか見ないのですが( ・Д・)


その50種類のGの中でも家屋内に住む種類はヤマトG、クロG、チャバネG、トビイロGなど10種類いるそうです。

ほんとそんなにいるのですね(゚Д゚≡゚д゚)エッ!?


こうした日本の屋内Gは、在来種のヤマトGとクロGの他は全て、原産地がアフリカだと考えられているそうです。


平安時代の文献にヤマトGとみられるものが記載されているのがこれまでの初出で、今回の発見でヤマトGがクロGと酷似する可能性が指摘されたわけです。

クロGは中国南部が起源の外来種とされており、今回の土器の証拠から約4300年以前に大陸から日本に渡来したか、あるいは実は外来種ではなく、日本在来種である可能性も考えられるようです。


こうして考古学ではGの起源にまで迫れるのです(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!



……ところで、個人的にGというとモンハンしか出てこないんですけども、

まぁ少なくとも、、、

Gはモンスター!( ・Д・)

↓”G”が嫌いなひと~?(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!↓

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