にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ

あるけまや -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

タグ:最多

2021ねん 10がつ 2にち(どよーび、だいたい晴れ)

生まれ変わるぅ~( ・Д・)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



今回の考古学・歴史ニュースはお墓251基出ただけでスゴイのに、三種の神器も出たってさ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台は佐賀県、大和町の七ヶ瀬遺跡です。

弥生時代後期(1~2世紀頃)に属する遺跡で長軸61m、短軸25mの大規模な墓域遺構が見つかっています。

これまでの調査で251基の墓がまとめて見つかりました。

私が調査者なら嬉し涙半分、哀し涙半分ってくらい、231基の墓ってめちゃくちゃ多いんですけど、、、

これでも九州北部域では有数ってくらいで最多記録ではないのですΣ(・ω・ノ)ノ

縄文時代は土壙墓(どこうぼ)っていう単純に穴掘って埋葬する方式が一般的でした。

縄文時代でも後期や晩期になると所謂「甕棺(墓)」(かめかん(ぼ))のような土器棺墓が一部見られるようになります。

弥生時代になると集団としての規模も多くなるので、自然と墓の数も増えるのはなんとなく分かるでしょう?

それだけではなく、弥生時代の葬制が変わることで考古学的に墓が発見しやすい状況になるのです(*・ω・)ノ


arukemaya1633
↑弥生時代の埋葬方法(赤穂市立有年考古館 2015の画像を一部加工)


上に挙げたようにまず弥生時代には埋葬方法が少し変わります。

土壙墓と土器棺墓は継続的に見られますが、弥生時代になると被葬者の身分によって異なる埋葬方法が取られるようになると考えられているのです。

縄文時代から見られる最も一般的な土壙墓は相変わらず一般的に見られる一方で、特に新たに見られる木棺墓や石槨墓は有力者と思われる人物に用いられるのです(*^・ェ・)ノ


arukemaya1634
↑弥生時代の埋葬方法2(赤穂市立有年考古館 2015の画像を一部加工)


弥生時代には墓域を形成しますが、上に挙げたように一般向けの墓(左)と有力者向けの墓(右)に分けられる傾向が見られるようになります。

時期差もありますし、本当に『一般向け』なのかは問題ですが、こういった方形周溝墓や円形周溝墓は考古学的に検出しやすいのです。

更にこの(恐らく家族のためのお墓だから)複数のお墓を有する方形周溝墓は墓域において集中する傾向が見られます。

単独で立地するわけではなく、すぐ隣接した他の方形周溝墓が見られるのです。

なので結果として弥生時代の遺跡において一つの墓域を検出した際に非常に多くのお墓が見つかることがけっこうあるものなのです(*・ω・)ノ


arukemaya1630
arukemaya1631




さて、話を戻しますと、七ヶ瀬遺跡では多数の墓が見つかっているわけですが、その中の墓から三種の神器が見つかりました。

三種の神器は天皇一族の伝世品として有名なもので、日本神話において天孫降臨の際に天照大御神が瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に授けた三種の宝物、つまり八咫鏡(やたのかがみ)・天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ;草薙剣)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を指します。

三種の神器がセットで見つかる事例としてはこれが佐賀県で初の事例となります。

勾玉は翡翠製、剣は鉄製、鏡は銅製でした。

鏡は4面いずれも中国製であり、前漢に作られたものと後漢に作られたものを含んでいます。

一つの墓に鏡が複数面伴う事例は全国的にはけっこうあるのですが、佐賀県では4面も出ることは珍しく、同県の二塚山遺跡に並んで最多の事例となります。

こういう発見を見ていると、邪馬台国論争、九州説の論者の気持ちも分かる気がしますね(*^・ェ・)ノ




↑天叢雲剣(草薙剣)について触れてます(*・ω・)ノ


おわりに

「三種の神器発見!」ってだけで私は『お~!』ってなったのですが、「佐賀県で初」ってだけあって全国的にはけっこう出土例があるようですね。

私はそっちの方に驚きました、全然知らなかった!Σ(・ω・ノ)ノ

次回は国内出土の三種の神器の事例について調べて記事にしてみようかなと思います!

あ、今日誕生日だから生まれ変わって記事もYoutubeも頑張るよ!( ・Д・)



↓マヤ遺跡の調査速報等をアップしてます!↓
↓登録者数、目指せ1000人!↓
↓逃避行動で実験考古学キャンプとかゲーム実況もやってるよ!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!↓

このエントリーをはてなブックマークに追加

2020ねん 11がつ 2にち(げつよーび、雨)

最近雨多くて寒いや(。・ω・)ノ゙


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

arukemaya1121



今回の考古学・歴史ニュースは「エルサレムで古代ユダ王国の税務署跡が見つかったよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


発見の舞台は、中東、西エルサレムのアロナ地区です。

ここで上の写真に見られるような切石で造られた壁の一部が残る屋敷群の遺構が発見されました。

この住居建造物から出土した土器などの遺物の分析から、古代ユダ王国に帰属する住居址と推定されています。
 

この古代ユダ王国は統一イスラエル王国が南北に分裂した際に出来た王国で、南王国とも呼ばれます。

エルサレムを首都とし、紀元前約940年から紀元前586年まで続き、最後には有名なバビロニアのネブカドネザル王によって滅ぼされたという歴史を持ちます。  



この遺跡の出土遺物の中で特徴的であるのが、上の写真に見られるような壺の取手(「取っ手」、あるいは「把手」とも。本記事では「取手」で統一)です。

壺の同定結果から約2700年前の土器であることが分かっています。


通常、遺物は色々な種類が出ますし、土器の破片も色々な器形のものや、壺だとしても口縁部や胴部、底部といった他の部位も出ます。


でも何故、写真のように壺の取手だけを集めて表示しているかというと、

これらの壺の取手に「印影」が見られるからですヾ(´ω`=´ω`)ノ


観光地にあるスタンプやハンコって朱肉に付けた後に紙に押し付けるわけですが、そういったスタンプ類をただ柔らかな粘土に押し付けた際に出来る痕跡が印影です。

こうした印影付きの壺の取手が120点も出土したのです(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!


今回の発見ではイスラエルで発見された印影付き遺物の集中出土事例として最多資料数となりましたヾ(´ω`=´ω`)ノ


arukemaya1119


arukemaya1120


上に挙げたように壺の取手には様々な印影があることが確認されました。

とある印影はヘブライ語で「王の所有物」を意味するものでした。


また古代ユダ王国の役人や経済にとって重要な資産家だったと推定される人物の名前の印影も見つかりました。


古代ユダ王国の税は農産品の形で徴収されていたと考えられているため、今回の遺跡は農産物の集積・貯蔵施設としての機能を果たしていた可能性が高いのです。

調査チームは、建造物の特徴ある構造や古代エルサレムに近接していること、発見された印影の数と種類を考え合わせた結果、この遺跡が古代ユダ王国の税徴収施設跡であると結論付けました。


arukemaya1123


arukemaya1124



おわりに

文献史料も併せると、オリーブ油や果実酒が入っていたと思われる壺は、王のために徴収され、後に各国の指導者らに配られたと考えられています。

その中には当時この地域全体に勢力を広げていたアッシリア帝国の指導者らも含まれていたようです。

今回の遺跡が、古代ユダ王国の首都エルサレムに近接する戦略的立地にあることを考えると、行政上の拠点として重要なものだったのでしょう。



……人類史において人間集団はどんどんその規模が大きくなり、やがて古代国家が形成されて、それが現代国家へと続いているわけです。

そう考えると国家という形態と機能は基本構造として遥か昔から大きくは変わっていないように思えますね。


そう、、、


古代も現代も税金、税金!( ・Д・)


↓マヤ遺跡の調査速報等をアップしてます!↓
↓登録者数、目指せ1000人!↓
↓逃避行動で実験考古学キャンプとかゲーム実況もやってるよ!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!↓

このエントリーをはてなブックマークに追加

2019ねん 3がつ 24にち(にちよーび、晴れ)

法事やらなんやらで御朱印もらいに行けなかった。

せっかくの習慣を無くさぬよう、

近日中に時間を見つけて参拝します!(*・ω・)ノ


・・・・・・・・・・・・・・・・・・

arukemaya_0146
↑遺跡の全景、広さが分かる(「読売新聞」の記事内画像より一部加工)


今回の考古学・歴史ニュースは『徳島県、加茂宮ノ前遺跡で約4000年前の水銀朱の一大生産拠点が見つかったよ!』ってことです(*・ω・)ノ

場所は徳島県、阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡です。

徳島県では他にも「朱」をかけた遺物が多く出土する遺跡や、「辰砂」の採掘址と思われる遺構を有する遺跡が見つかっています。

「朱」というのは「朱色」という表現もあるように、簡単に言うと「赤色」の顔料のことです。

赤色顔料としての朱の原料は主に、辰砂とベンガラです。

辰砂は中国の辰州で多く生産されたことからその名が付けられており、硫化水銀から成る鉱物です。

辰砂からは水銀を精製することができるため、辰砂を原料とした朱を水銀朱(有害)と呼びます。

一方でベンガラは酸化第二鉄を主成分とする顔料(無害)で、色調は鉄の赤錆の色のイメージです。

赤色は「血液の色」であることから、「生命力を表す色」として、古くから世界各地で重宝されてきました。

加茂宮ノ前遺跡は約4000年前の縄文時代後期に帰属する遺跡で、朱の付着した石臼や石杵が300点以上出土し、水銀朱の原料である辰砂原石も大量に出土しました。

そのため古代の祭祀などに使われた赤色顔料である水銀朱を生産した一大拠点であったと考えられています。

日本における朱の生産地としては最古級、最大級であり、朱の関連遺物の出土量も最多の遺跡です。


arukemaya_0147




最初に挙げた写真で分かるように加茂宮ノ前遺跡はかなり広いです。

その調査面積は約1万平方mに及ぶそうですΣ(・ω・ノ)ノ

これまで当該遺跡では、弥生時代中期から鎌倉時代にかけての遺構が発見されていました。

今回の発見で縄文時代後期に相当する祭祀に使っていたとみられる石を円形に配置した遺構14基や竪穴住居跡2基が見つかりました。

このような縄文時代後期の居住域と祭祀の遺構がまとまって確認できたのは西日本で初めての事例とのことですヾ(´ω`=´ω`)ノ



arukemaya_0149




arukemaya_0150


この加茂宮ノ前遺跡では水銀朱の製造に使われた石杵と石臼だけで300点以上が出土しました。

石臼の大きいものは直径約30cm、石杵では直径約10cmのサイズだそうです。

また原料である辰砂原石や、水銀朱が施された耳飾り、土器などの関連遺物が700点以上出土し、合計1000点以上の「朱」に関連する遺物が出土したことになります。

原料として使用された辰砂原石は遺跡から約5km離れた若杉山周辺から採取された可能性が高いと推定されています。

また出土した土器の模様には九州の土器に類似した特徴が見られることから、当時から地域交流をしていた可能性が指摘されています。

加茂宮ノ前遺跡における今回の発見は、西日本における縄文時代の集落構造の解明に繋がる重要な発見であり、また水銀朱の一大生産地として古くより遠方の他地域との交易を行っていた可能性を示す重要な発見でもあります。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・


さて、最後に徳島新聞による現地説明会の様子を撮影した動画へのリンクを載せておきます。


いいですね、これ!


現地説明会に参加した気分になれます(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!



↑加茂宮ノ前遺跡での現地説明会の様子(「徳島新聞動画TPV」の動画)

↓ツイッターフォロワーさんは着実に増えております!↓
↓ブログリーダーの方も是非宜しく!ヾ(´ω`=´ω`)ノ↓

このエントリーをはてなブックマークに追加

↑このページのトップヘ