あるけまや -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

    お金にならない考古学をお金にしよう╭( ・ㅂ・)و ̑̑ グッ ! 考古学・歴史ニュースの決定版╭( ・ㅂ・)و ̑̑ グッ !

    科学技術

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    2026ねん 8がつ17にち(げつよーび、くもり)

    あ~!すげー連休は要らんけど、いい感じにいつも休み欲しい!( ・Д・)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


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    ↑LiDAR流行りは終わらんね~!( ・Д・)





    今回の考古学・歴史ニュースは

    世界遺産マチュピチュの東側、マンドルの城壁周辺をLiDARで調べたところ、密林の下から総延長2.5kmを超える先スペイン期の道路と、段々畑や基壇らしき地形が見つかった! そのうち少なくとも1.2kmの道には、ジグザグに斜面を上るインカ期の道路工法と整合する特徴があり、別の場所では未知の壁や段々畑を検出していた! マチュピチュは、私たちが知る“天空都市”より、はるかに広いのではないか?( ・Д・)」

    ってお話です(*・ω・)ノ





    📰はじめに


    緑。

    どこまで見ても、緑である。

    急斜面を覆う樹木。

    絡み合う蔓。

    シダ。

    低木。

    その下に何があるのか、上空写真を見てもほとんど分からない。

    ところが、樹冠の上から無数のレーザー光を放ち、樹木に反射した点を計算上で取り除いていく。

    すると、今までただの山肌に見えていた場所へ、細長い線が浮かび上がる。

    斜面を折り返しながら進む道。

    不自然に平らな場所。

    連続する段差。

    人間が山を削り、積み、歩いた痕跡である。

    2026年8月、ペルー文化省クスコ地方文化局は、マチュピチュの東側にある「マンドルの城壁」周辺で、LiDARを用いた予備的な考古学調査を行い、2.5kmを超える先スペイン期の道路区間を確認したと発表した。

    なかでも重要なのが、少なくとも1.2kmに及ぶ主要道である。

    この道は斜面をジグザグに進み、その線形にはインカ期の道路建設技術と整合する特徴が見られるという。

    周囲には、基壇、囲い、段々畑である可能性を持つ地形も検出された。

    一見すると、

    「マチュピチュの密林から、2.5kmのインカ道を大発見!」

    という話に見える。

    しかし、ここは少し慎重に読まなければならない。

    LiDARで見つかった道路区間の総延長――2.5km超。

    そのうち、現時点でインカ期の工法と整合すると判断された主要区間――少なくとも1.2km。

    この二つは、同じ数字ではない。

    さらにLiDARが直接測ったのは、土や石の表面形状である。

    レーザーだけで、道の年代も、用途も、誰が歩いたのかも分からない。

    つまり今回の発見は、

    「すべてがインカ道だと確定した」

    のではなく、

    「密林の下に、現地で詳しく調べるべき道路網が初めて地図として現れた」

    という段階なのである。

    でも、だからこそおもしろい。

    マチュピチュは、そもそも何のために造られたのか。

    なぜインカは、車輪による輸送を用いない社会で3万kmを超える道路網を必要としたのか。

    標高2430mの遺跡が、なぜ「密林」に覆われるのか。

    LiDARは、本当に植物を透視しているのか。

    そして、あれほど有名で100年以上研究されてきたマチュピチュで、なぜ今も未知の道が見つかるのか。

    今回のニュースは、単に「新しい道を発見した」という話ではない。

    絵葉書の中央にある石造都市から、周囲の山、川、畑、道、祭祀空間を含む文化的景観全体へ。

    マチュピチュ研究の視線が、いま大きく広がっているのである!( ・Д・)





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    ↑マチュピチュ行ってみたいぜ!( ・Д・)(「VELTRA」の記事内画像より転載)




    🏔️ そもそも「マチュピチュ」は何だったのか?


    マチュピチュといえば、

    「1911年、アメリカ人探検家ハイラム・ビンガムが発見した失われた都市」

    という物語が有名である。

    だが、現在この言い方はかなり修正されている。

    1911年7月24日、ビンガムが現地へ到達したことは確かだ。

    しかし彼は、誰も知らない遺跡を一人で発見したわけではない。

    彼を案内したのは、現地住民メルチョール・アルテアガだった。

    遺跡周辺では農民が暮らし、段々畑の一部も利用されていた。

    さらに「三つの窓の神殿」には、ペルー人アグスティン・リサラガの姓と「1902」という年が木炭で書かれていた。

    つまり地元社会にとって、マチュピチュは完全に「失われた都市」ではなかった。

    ビンガムがした最大のことは、その存在を欧米の学術界と大衆社会へ大規模に紹介したことである。

    そして彼自身も、最初からマチュピチュを探していたわけではない。

    探していたのは、スペイン侵攻後にインカ王族が抵抗を続けた最後の都、ビルカバンバだった。

    そのため初期の研究では、

    最後のインカの都。

    インカ発祥の聖地。

    女性祭司の避難所。

    要塞。

    さまざまな解釈が提案された。

    ところが20世紀半ば、アンデス史研究者ジョン・ロウが16世紀の植民地期文書を検討し、この一帯の「ピッチュ」が皇帝パチャクティの王領だったことを指摘した。

    現在ではマチュピチュは、15世紀にインカ国家を急拡大させたパチャクティと、その王統集団であるパナカに結びつく王領、あるいは王族のための複合的な施設だったという見方が有力である。

    王族が季節的に滞在する場所。

    祖先祭祀を行う場所。

    政治的権威を山岳景観の中で示す場所。

    農業生産を管理する場所。

    各地から集められた従者が常駐する場所。

    単なる「皇帝の別荘」と呼ぶだけでは足りない。

    都市、宮殿、聖地、農業施設、支配の舞台が重なった場所だったと考えたほうがよい。

    しかも近年、その年代まで揺れ始めている。

    長いあいだ、パチャクティが即位したとされる1438年を基準に、マチュピチュの建設は1450年頃から始まったと説明されてきた。

    しかし2021年、遺跡から出土した人骨と歯の26試料をAMS放射性炭素年代測定した研究は、マチュピチュでの活動を西暦1420~1532年頃に位置付けた。

    従来の文献年代より、開始が約20年早い。

    これは、

    「パチャクティとは無関係だった!」

    と証明したわけではない。

    むしろ、スペイン征服後に書かれた年代記をもとに組み立てたインカ王朝の絶対年代が、本当にそのまま正しいのかを問い直したのである。

    さらに2023年、マチュピチュに埋葬された34人の古代DNAが分析された。

    その結果、彼らの祖先的背景はクスコ周辺だけにまとまらず、太平洋岸、アンデス高地、アマゾン地域にまで広がっていた。

    約3分の1には、アマゾン地域と結びつく祖先成分がかなり含まれていたという。

    豪華な石造建築の内側で、実際に水路を清掃し、食事を作り、畑を管理し、王領を維持した人々は、帝国各地から移動してきた多様な集団だった可能性が高い。

    ここで「道」の意味が変わる。

    道を歩いたのは皇帝だけではない。

    職人。

    農民。

    従者。

    飛脚。

    兵士。

    巡礼者。

    リャマを連れた運搬者。

    マチュピチュは孤立した天空都市ではなく、人間が絶えず出入りすることで維持された場所だったのである。

    そして名前さえ、完全には確定していない。

    2021年に発表された歴史資料研究では、インカ期の集落名は「ピッチュ」、あるいは近くの峰に由来する「ワイナ・ピッチュ」だった可能性が指摘された。

    現在の「マチュピチュ」という呼称が遺跡へ固定されたのは、ビンガムの紹介以後かもしれない。

    100年以上研究された世界遺産でも、

    いつ造られたのか。

    何と呼ばれたのか。

    誰が暮らしたのか。

    その基本問題が、いまも更新され続けているのである。








    🛤️ 3万kmの道で帝国を作った! カパック・ニャンと15世紀アンデス


    マチュピチュが本格的に利用された15世紀。

    アンデス世界では、巨大な政治変動が起きていた。

    クスコを中心とするインカ国家が急速に拡大し、北は現在のコロンビア南部、南はチリ中部とアルゼンチン北西部にまで影響を及ぼすようになったのである。

    インカの国家は、ケチュア語でタワンティンスユと呼ばれる。

    直訳すれば、

    「四つの地方が一つになったもの」

    という意味に近い。

    クスコを中心に、チンチャイスユ、アンティスユ、コリャスユ、クンティスユという四つの地方が広がる。

    この巨大な領域を結びつけた骨格が、カパック・ニャン、すなわちアンデス道路網だった。

    ユネスコが示す道路網の総延長は、3万kmを超える。

    現在のペルーだけではない。

    コロンビア。

    エクアドル。

    ボリビア。

    チリ。

    アルゼンチン。

    六つの国にまたがる大陸規模のネットワークである。

    ただし、これも「インカが何もない場所へ一から3万kmの道を造った」と考えてはいけない。

    アンデスには、インカ以前から交易路、巡礼路、地域間道路が存在した。

    インカ国家はそれらを取り込み、改修し、新しい区間を造り、クスコを中心とする行政・軍事・宗教体系へ再編した。

    だからカパック・ニャンは、一時代だけの建造物ではない。

    何世代もの地域社会が歩いた道の上へ、インカの国家制度が重なったものでもある。

    道路の役割も、単なる「交易」ではなかった。

    チャスキと呼ばれる飛脚が情報を運ぶ。

    軍隊が移動する。

    リャマの隊列が食料、織物、コカ、羽根、貝、金属を運ぶ。

    役人が人口や貢納を管理する。

    移住させられた人々が新しい土地へ向かう。

    巡礼者が山や神殿を目指す。

    沿道には宿駅であるタンボ、食料や物資を蓄えるコルカ、行政施設、祭祀施設が置かれた。

    道は、帝国の血管だった。

    しかもインカには、馬も牛もいない。

    大型の荷車を走らせる道路でもない。

    人間とリャマが歩く。

    そのため道路は、平らな舗装路ばかりではない。

    高地では石を敷く。

    砂漠では縁石で線を示す。

    湿地では路面を盛り上げる。

    崖では擁壁を積む。

    急斜面では石段やジグザグ道を造る。

    雨の多い場所では側溝と排水を整える。

    川には石橋、木橋、吊橋を架ける。

    一つの規格を自然へ押し付けるのではなく、地形と材料に合わせて道の姿を変えたのである。

    だから今回、マンドルで「ジグザグの線形」が注目された。

    急斜面を直線で登れば、傾斜がきつすぎる。

    雨水も一気に流れ、路面を削ってしまう。

    折り返しながら高度を上げれば、人間もリャマも歩きやすくなり、勾配と排水を管理できる。

    もちろん、ジグザグだから自動的にインカ道と決まるわけではない。

    路面の造り。

    擁壁。

    排水施設。

    石段。

    幅。

    沿道遺構。

    他の道や施設との接続。

    そうした特徴を現地で組み合わせて、初めて年代と系統を検討できる。

    今回の1.2kmが「インカ期の建設技術と整合する」と慎重に表現されているのは、そのためである。







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    ↑LiDAR使った範囲らしいよ!どこなのか専門外には分らんけどね!( ・Д・)(「Cultura Cusco」の記事内画像より転載)


    🌧️ 高山なのに熱帯雨林? マチュピチュを隠す雲霧林


    ここで、マチュピチュの景観をもう一度見てみよう。

    標高2430m。

    アンデス山脈。

    「天空都市」。

    そう聞くと、乾燥した高原を想像しやすい。

    しかしマチュピチュは、アンデス東斜面とアマゾン上流域が接する場所にある。

    高地草原から山地雲霧林、さらに低地熱帯林へと環境が急激に変化する、セハ・デ・セルバ、「森林の眉」と呼ばれる地域である。

    湿った空気が山へぶつかる。

    霧が発生する。

    雨が降る。

    植物が猛烈に育つ。

    そして地形は、信じられないほど険しい。

    ウルバンバ川が山々を深く削り、狭い尾根と急斜面を作る。

    ここで都市を維持するには、建物を建てるだけでは足りない。

    水を逃がす。

    斜面を支える。

    土壌を流出させない。

    人が歩ける勾配を作る。

    石を運ぶ。

    耕作地を確保する。

    マチュピチュの段々畑は、食料生産の場であると同時に、斜面を安定させ、水を排出する巨大な土木構造でもあった。

    道も同じである。

    道だけを一本造って終わりではない。

    擁壁、排水、段々畑、建物、広場、儀礼空間と結びついて、初めて山の中で機能する。

    そしてこの環境は、遺跡を守りながら隠す。

    スペイン植民地都市として大規模に再建されなかったこと。

    森林が再生したこと。

    近づきにくい急斜面だったこと。

    それらは石造建築を残す一因になった。

    一方で植物の根は石積みを押し、豪雨は路面を削り、地滑りは遺構を破壊する。

    「木に覆われているから保存されている」

    とも、

    「木を取り除けばすべて見える」

    とも単純には言えない。

    ユネスコ世界遺産の「マチュピチュ歴史保護区」は、有名な石造都市だけではない。

    山、谷、森林を含む3万2592haの複合遺産である。

    都市中心部には約200の建造物があるが、その周囲には多数の小規模遺跡、道路、水路、段々畑が広がる。

    これまで私たちが「マチュピチュ」と呼んできた景色は、その巨大な文化的景観の中心を切り取った一枚にすぎない。

    問題は、残りの大部分が緑の下にあることだった。





    🚁 木を伐らずに地面を見る! LiDARがマチュピチュへ来るまで


    そこで登場するのが、LiDARである。

    Light Detection and Ranging。

    日本語では、光による検出と測距などと訳される。

    仕組みを極端に簡単に言えば、

    レーザー光を出す。

    何かに当たって戻ってくる。

    戻るまでの時間を測る。

    その距離と、センサーの位置・姿勢を組み合わせ、三次元の点を作る。

    これを一秒間に何万回、何十万回と繰り返す。

    すると、樹冠、枝、低木、地面、石壁が、膨大な「点群」として記録される。

    ただし、よくある説明のように、レーザーが木を幽霊のように透過するわけではない。

    多くの光は葉や枝に反射する。

    その一部が、葉と葉の隙間を通って地表へ届く。

    最初に戻った反射。

    途中で戻った反射。

    最後に戻った反射。

    それらを分類し、植物らしい点を取り除き、地面と判断した点から数値地形モデルを作るのである。

    つまり重要なのは、レーザーそのものだけではない。

    どの高度で飛ぶか。

    どれほど多くの点を取れるか。

    急斜面で機体位置をどこまで正確に測れるか。

    何を「地面」と分類するか。

    どの陰影表現なら低い壁を見つけやすいか。

    最後は、人間が何を遺構らしいと読むか。

    データ処理と考古学的解釈がなければ、ただの点の雲である。

    マチュピチュ周辺でのUAV-LiDAR研究は、今回突然始まったものではない。

    重要な実験の一つが、2018年に行われたチャチャバンバ遺跡の調査だった。

    チャチャバンバは、マチュピチュへ向かう道沿いにあるインカ期の祭祀遺跡で、水路や儀礼的な水施設で知られる。

    研究チームは、長さ約930m、幅約200~400mの範囲をドローンで測量した。

    ところが最初、地表面だけに分類した点群では、既知の石壁さえ十分に見えなかった。

    密林では、地面まで届くレーザー光が少なすぎたのである。

    そこで地表から高さ0.5mまでの点も加えると、点密度は1平方mあたり約70点へ増え、低い壁や微地形が見えるようになった。

    そして2019年、研究者が現地を歩いて確認する。

    LiDARで遺構と判断した場所の多くに、実際の石積みがあった。

    それまで知られていた建物跡の数は、ほぼ倍に増え、祭祀中心部の周囲に居住区が広がっていた可能性まで見えてきた。

    同じ2019年には、インカラクアイ周辺でも、長さ約1.35km、幅約350mの範囲が測量された。

    インカラクアイは、六月至の太陽観測と関係した可能性が検討されてきた場所である。

    LiDARは、遺跡と展望地点エル・ミラドールのあいだに、建物や道かもしれない地形を検出した。

    ただし、こちらはパンデミックの影響もあり、十分な現地検証が遅れた。

    地図に線が出たことと、考古遺構だと確認されたことは違う。

    この教訓は、現在のマンドル調査にもそのまま当てはまる。

    さらにチャチャバンバでは、地上レーザースキャンとドローン測量で水路を三次元化し、水がどのように流れるかを流体力学的に再現する研究も行われた。

    その結果は、この水施設が大量の生活用水を効率よく配る設備というより、水そのものを見せ、流し、儀礼に組み込む空間だったという解釈を強く支持した。

    レーザー測量は、未知の壁を探すだけではない。

    既知の遺構がどう機能したのかまで、別の方法で問い直せる。

    そして今回のマンドル調査には、この蓄積を担ってきたワルシャワ大学アンデス研究センターと、ヴロツワフ工科大学のリモートセンシング研究者が参加している。

    2026年の発見は、数年にわたる試行錯誤の延長線上にあるのである。




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    ↑シンプルにしてもわからん!( ・Д・)(「Cultura Cusco」の記事内画像より転載)




    🧱 マンドルの城壁に、2.5km超の道がつながった


    そして2026年7月。

    クスコ地方文化局とワルシャワ大学アンデス研究センターの共同チームは、マチュピチュ遺跡中心部の東側、マンドルの城壁周辺で予備的な考古学確認を行った。

    なお、ここには報道上の小さくない混乱がある。

    一部の英語・日本語の二次記事は、現地調査を「2023年7月」としている。

    しかしペルー文化省系の公式発表と国営紙は、予備調査を明確に「2026年7月」としている。

    そのため本記事では、一次発表に従って2026年7月とする。

    3年違えば、「最新発見」の意味まで変わってしまう。

    こういうところ、地味だけど大事である!( ・Д・)

    ここで大切なのは、

    「マンドルの城壁そのものを今回初めて発見した」

    わけではないことだ。

    城壁は以前から知られていた。

    新しく見えてきたのは、その周囲の密林下に延びる道路区間と、道路に関係する可能性を持つ地形である。

    マンドルは、マチュピチュの有名な都市中心部、ペルー側が「リャクタ」と呼ぶ石造集落の東に位置する。

    険しい地形と濃い植生のため、地上から全体の配置を把握することが難しかった。

    LiDARで植生を除去した地形を読むと、道路らしい線は合計2.5kmを超えた。

    その中で最も注目されたのが、少なくとも1.2km続く主要道である。

    斜面をジグザグに進む。

    インカ期の道路建設技術と整合する線形を持つ。

    さらに周囲には、人工的な平場、基壇、囲い、段々畑かもしれない形が見える。

    もしこれらが現地調査によって同時代の施設だと確認されれば、城壁は単独で立っていたのではなく、道と生産空間、あるいは何らかの活動区画を伴う場所だったことになる。

    しかし、まだ「もし」である。

    道路同士は、本当に一つの網としてつながっていたのか。

    すべて同じ時期に使われたのか。

    インカが新設したのか、それ以前の道を改修したのか。

    城壁は通行を管理したのか。

    農業区画を分けたのか。

    儀礼的な境界だったのか。

    マチュピチュ中心部と、ウルバンバ川沿いの低地を結んだのか。

    現時点では分からない。

    だから公式発表も、今後の現地踏査、記録、年代、機能、保存状態の確認が必要だとしている。

    調査を率いたのは、ワルシャワ大学アンデス研究センターのヤン・クラプト。

    LiDARなどのリモートセンシングは、ヴロツワフ工科大学のバルトウォミェイ・チミェレフスキが担当した。

    アプ・スペースの建築家ジェフ・ロッキー・コントレラス・ソト、ヴロツワフ環境生命科学大学のパヴェウ・ドンベクも参加した。

    現地作業は、クスコ地方文化局でマチュピチュの考古学研究調整を担当するニノ・デル・ソラル・ベラルデが監督した。

    つまりこれは、人工衛星画像を眺めた誰かが偶然線を見つけた話ではない。

    考古学。

    測量工学。

    リモートセンシング。

    建築記録。

    文化財行政。

    複数分野と複数機関が、保存を前提に同じ景観を読んだ成果である。

    それでも報道では、「2.5kmのインカ道発見」という一文に縮められやすい。

    でも本当に重要なのは、その先だ。

    城壁は、何と何を分けていたのか。

    道は、どこから来て、どこへ向かったのか。

    周囲の平場では、誰が何をしていたのか。

    一本の線が見つかったことで、点として知られていた城壁が、景観の中へ戻り始めたのである。




    🇯🇵 同じ年、日本のレーザーも別の遺構を見つけていた


    そして今回のニュースを、さらにおもしろくする出来事がある。

    同じ2026年、マチュピチュの別の場所でも、日本のUAV-LiDAR調査によって未知の遺構候補が見つかっていたのだ。

    こちらはマンドル調査とは別のプロジェクトである。

    地域も違う。

    調査チームも違う。

    一つの発見を別の報道が言い換えたものではない。

    JICA、ペルー文化省、福島県の測量会社「ふたば」が進める、3D-SACURAという文化遺産保全事業である。

    事業期間は2025年2月から2027年1月。

    目的は、未知の遺跡探しだけではない。

    高精度三次元データを取得し、石積みの変形や劣化を継続的に監視し、保存計画、観光管理、災害ハザードマップへ利用できる体制をペルー側に作ることにある。

    2026年3月に公表された調査成果では、まずマチュピチュ北東部の大規模段々畑群「アンデネス・オリエンタレス」の全体像と、隣接する段々畑とのつながりが明らかになった。

    写真では木々に隠れ、段差の一部しか見えない。

    しかし点群から樹木を除去すると、山腹を加工した巨大な構造が連続して現れた。

    さらに北側の未調査区域、月の神殿付近では、奇妙な地形が複数検出された。

    一つ目。

    高さ約2.7m、厚さ約0.6m。

    約12.9m×6.4mのL字形をなす、二面の壁状構造。

    二つ目。

    左右対称に見える三段の段々畑。

    三つ目。

    長辺約2mの、平らな直方体状の石。

    背後には空洞らしき空間も見える。

    ただし、これらもすべて「遺構候補」である。

    L字形だから建物とは限らない。

    平らだから加工石とは限らない。

    自然の岩盤、崩落、地形の段差を、人間が造った構造と誤認する可能性がある。

    だから現地確認が必要になる。

    そして、この日本・ペルー協力には、不思議な歴史のつながりがある。

    マチュピチュ村の初代村長を1948~1950年に務めた野内与吉は、福島県大玉村の出身だった。

    彼は現地で水道、電力、ホテルなどの整備に貢献した。

    その縁から、大玉村とマチュピチュ村は2015年に友好都市協定を結ぶ。

    一方、ふたばは東日本大震災と原発事故後、人が立ち入りにくくなった福島の町並みや地形を三次元で記録する技術を磨いてきた企業である。

    見えなくなった故郷を記録するための技術が、今度は地球の反対側で、森林に隠れたインカの景観を記録する。

    これ、技術史としてもかなりすごい。

    マンドルでは、城壁周辺の道が現れた。

    北東部では、大規模段々畑の接続が現れた。

    北側では、壁、段々畑、加工石らしき地形が現れた。

    2026年の二つの調査は別々だが、同じ方向を向いている。

    マチュピチュを、一枚の有名な都市景観だけで理解する時代が終わりつつあるのである。





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    ↑類似の研究とは違って全然よくわからん!( ・Д・)(「Cultura Cusco」の記事内画像より転載)



    🔬 「発見」はまだ地図の上! これから何を確かめるのか


    LiDAR画像は、圧倒的である。

    緑を消す。

    道が出る。

    段々畑が出る。

    壁が出る。

    まるで考古学者が、遺跡を一瞬で透視したように見える。

    しかし考古学的には、ここからが長い。

    まず現地へ行く。

    本当に石が並んでいるのかを見る。

    道幅を測る。

    路面の断面を調べる。

    擁壁、石段、側溝、排水口があるかを記録する。

    崩落や地滑りで偶然できた段差ではないかを確かめる。

    周囲に土器、石器、建物、炉、埋葬、炭化物があるかを探す。

    必要なら小規模な発掘を行う。

    年代測定に使える試料を得る。

    既知の道や建物との高低差、視線、移動時間を分析する。

    そうして初めて、

    いつ造られたのか。

    誰が使ったのか。

    何を結んだのか。

    どれほど長く維持されたのか。

    を議論できる。

    特に今回のマンドル道路では、2.5kmを超える区間が一つの時期に機能したのか、それとも異なる時代の道が重なっているのかが重要になる。

    インカ以前の地域路。

    インカ国家が改修した幹線。

    農業用の作業道。

    祭祀のための道。

    植民地期以後に再利用された道。

    同じ山腹には、複数の時間が重なっているかもしれない。

    マンドルの城壁についても、魅力的な仮説はいくつも作れる。

    マチュピチュ東側への出入口を管理した。

    アンティスユ、すなわち東方低地へ向かう移動を統制した。

    農業区画と居住区を分けた。

    王領の境界を示した。

    山や水に関わる儀礼空間だった。

    しかし今の段階で、どれか一つを答えにしてはいけない。

    道の接続先と沿道施設が確認されて初めて、城壁の意味も見えてくる。

    さらに、発見後の保存も難しい。

    場所は急斜面の密林である。

    植物をすべて刈れば、遺構が見える。

    しかし土壌を覆っていた根や葉を失えば、豪雨による侵食が進むかもしれない。

    観光ルートとして急いで開放すれば、踏圧、落石、廃棄物、安全管理の問題が出る。

    だから公式発表は、調査と同時に保存状態を評価し、保護措置を検討するとしている。

    今回の道が、すぐ新しい観光コースになるわけではない。

    むしろLiDARの最大の利点は、森林を大規模に伐採せず、危険な斜面を全面的に歩かず、どこを優先して調べ、どこを触らずに守るべきかを判断できることにある。

    「見つける技術」は、そのまま「壊さずに管理する技術」になり得る。

    そして何年か後、現地調査の結果、LiDARで道だと思った線の一部が自然地形だったと分かるかもしれない。

    逆に、細い線一本だと思っていた場所から、石段、排水路、宿駅、儀礼施設が見つかるかもしれない。

    どちらでもいい。

    仮説を地図にし、現場で間違いを見つけ、また地図を書き直す。

    それが考古学だからである。






    arukemaya_y978

    ↑やぱ青い空は映えるぜ!( ・Д・)(「Expedia」の記事内画像より転載)


    🌿 「天空都市」の外側こそ、マチュピチュだった


    マチュピチュの最も有名な写真には、ほとんど道が写っていない。

    石造都市。

    段々畑。

    背後のワイナ・ピッチュ。

    完成された一つの景観として切り取られている。

    だから私たちは、マチュピチュを山上に孤立した都市だと思いやすい。

    しかし都市は、道がなければ生きられない。

    食料が来る。

    人が来る。

    命令が来る。

    儀礼のための品が来る。

    石材が来る。

    そして人が去る。

    古代DNAが示した多様な人々も、空から降ってきたわけではない。

    太平洋岸、アンデス高地、アマゾン側の地域から、国家的な移動と道路網を通じてマチュピチュへ集まった。

    段々畑も、ただ都市を美しく縁取る背景ではない。

    土を留め、水を逃がし、食料を育て、斜面を人間の生活空間へ変える施設だった。

    城壁も、それだけでは意味を持たない。

    道とつながり、人の流れを分け、空間を組織して初めて機能する。

    今回レーザーが見つけたのは、2.5km超の線である。

    でも、その線が問い直しているのは、マチュピチュ全体の大きさだ。

    「都市はどこまでか」

    という問いそのものが、正しくないのかもしれない。

    インカにとって重要だったのは、石壁で囲まれた都市と、その外側にある自然を分けることではなかった。

    山。

    岩。

    水。

    森林。

    道。

    段々畑。

    建物。

    それらを一つの秩序ある景観へ組み込むことだった。

    そう考えると、密林はマチュピチュを隠していたのではない。

    私たちが、石造都市だけをマチュピチュだと思い込んでいたのである。

    LiDARは森を消した。

    しかし本当に消えたのは、

    「有名な都市中心部だけを見れば、マチュピチュが分かる」

    という古い見方なのかもしれない。

    1911年、ビンガムは密林の中に石造都市を見た。

    20世紀の研究者は、文書からパチャクティの王領を見つけた。

    21世紀の考古科学は、骨から帝国各地の人々を見つけた。

    そして2026年、レーザーは都市の外側に延びる道を見つけた。

    次に現地へ入る考古学者たちは、その線の上で、積まれた石、削られた土、排水の跡、歩いた人々の痕跡を探す。

    マチュピチュは、完成した謎ではない。

    森と石とデータのあいだで、いまも輪郭を変え続けている遺跡なのである!( ・Д・)





    なにはともあれ……

    LiDAR流行の次は何かな!?( ・Д・)








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    2026ねん 8がつ10にち(げつよーび、晴れ)

    お盆ずっと雨じゃん!まぁ今晩から記事も研究も頑張るよ!( ・Д・)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



    arukemaya_y927

    ↑なんかめんどいことになってきた気もする!( ・Д・)





    今回の考古学・歴史ニュースは

    約2000年前のローマ時代までさかのぼるイギリス・ヨークの地下7メートル超の考古学的堆積物から、本来そこに存在するはずのないマイクロプラスチックが16種類も見つかり、“地中へ残しておけば遺跡は未来までそのまま保存される”という考古学の大前提そのものを見直す研究が始まっているぞ( ・Д・)」

    ってお話です(*・ω・)ノ




    📰 はじめに

    土を掘る。

    上から現代。

    その下に近代。

    さらに中世。

    ヴァイキング時代。

    そしてローマ時代。

    考古学者にとって地層とは、古いページほど下へ重ねられた巨大な歴史書のようなものである。

    だから地下7メートルから、紀元1~2世紀頃の土が出てくること自体は不思議ではない。


    問題は、その土の中に――

    20世紀にならなければ存在しないはずのプラスチックが入っていた

    ことである。

    2024年、イギリスのヨークで過去に採取された考古学的土壌と、新たに掘削した地層試料を分析した研究チームは、合計66個のマイクロプラスチック粒子を確認した。

    種類は16種類。

    最も深い試料は、地表下約7.35メートル。

    しかも、それはローマ時代までさかのぼる考古学的堆積物だった。

    「古代人もプラスチックを作っていた!?」

    もちろん、そうではない!( ・Д・)

    現代に生まれたプラスチックが、何らかの経路を通じて古代の地層へ後から侵入したのである。

    そして、ここが今回のニュースの本当の怖さになる。

    考古学で大事なのは、土器や骨や木製品だけではない。

    それらを包む土。

    水。

    酸素。

    微生物。

    花粉。

    種子。

    昆虫。

    化学物質。

    そして「何が何と一緒に、どの層から出たか」という位置関係そのものが、過去を復元する資料なのである。

    そこへ現代物質が地下深くまで入り込み始めている。

    つまりマイクロプラスチックは、古代遺物へ付いた単なる「汚れ」ではない。

    2000年間保たれてきた考古学的タイムカプセルの中へ、現代が少しずつ侵入しているかもしれないという話なのである。


    ⚠️ まず訂正、「古代の遺物から」見つかったわけではない

    今回のニュースは「古代の遺物からマイクロプラスチック発見」と紹介されることがある。

    だが、これは少し誤解を招く表現である。

    プラスチック片がローマ時代の木皿の内部へ入り込んでいたとか、人骨から検出されたとか、古代の壺の中から出てきたという研究ではない。

    正確には、

    古代の遺物を含む考古学的な土壌・堆積物からマイクロプラスチックが検出された

    のである。

    この違いはかなり重要だ。

    「遺物からプラスチック」なら、その遺物そのものの汚染問題になる。

    「地層からプラスチック」なら、

    考古学者が年代や環境を読み取る舞台そのものが、閉じた系ではなかった

    という、もっと大きな問題になるのである。


    🏰 発見場所は、2000年の歴史が積み重なる都市ヨーク

    舞台となったヨークは、イングランド北部を代表する歴史都市である。

    ローマ帝国は紀元71年頃、この地へ軍団要塞エボラクムを建設した。

    ウーズ川沿いという交通上の立地を利用し、軍事都市から商業・行政都市へ成長していく。

    後にはローマ皇帝セプティミウス・セウェルスが滞在し、コンスタンティヌス1世が皇帝として宣言された地としても知られる。

    さらにローマ支配が終わった後にも、アングロ・サクソン期、ヴァイキング時代、中世都市、近現代の街が同じ場所へ重なった。

    つまり一つの都市の地下に、約2000年間の人間活動がミルフィーユのように積み重なっている。

    今回分析された場所の一つ、ウェリントン・ロウでは、紀元71~120年頃の道路、その下の木の枝を使った路床、排水溝、河川由来の堆積物などが確認されている。

    ウーズ川に近いため、古代には周期的に冠水し、水浸しになっていた場所でもあった。

    もう一つのクイーンズ・ホテル遺跡では、地表から約8メートル下で、2世紀初頭の排水溝まで確認されている。

    地面の下へ8メートル。

    そこには現代の道路とはまったく違う、ローマ都市の地表が眠っているのである。





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    ↑遺物・遺構ある可能性の高い地域だけどにボーリングするのだね( ・Д・)(「York Archaeology」の記事内画像より転載)


    💧 ヨークでは、「泥」が宝物を守ってきた

    普通なら、2000年前の木材は腐る。

    革靴も腐る。

    布も消える。

    植物の種も昆虫も、ほとんど残らない。

    しかしヨークでは、地下水で満たされた泥の中へ遺物が埋まった場所が多い。

    水が空気を追い出し、酸素がほとんどない状態になると、木や革を分解する微生物の活動が抑えられる。

    その結果、本来なら消えてしまう有機物まで驚くほど良好に保存される。

    有名なヴァイキング時代のカッパーゲート遺跡から、革靴、木製品、植物、昆虫など膨大な資料が出土した背景にも、この水浸しで酸素の少ない環境がある。考古学的湿地では、水位、酸化還元状態、pHなどを維持することが遺物保存に重要とされている。

    つまり考古学者にとって、

    泥は単なる土ではない。

    巨大な天然冷蔵庫なのである。

    そして今回問題になっているのは、その冷蔵庫の中へ、外から新しい物質が入り始めた可能性なのだ。


    ⛏️ 1980年代、未来のために土まで保存していた

    ウェリントン・ロウは1980年代後半、クイーンズ・ホテルは1989~1990年に発掘された。

    当時の考古学者は、遺物だけではなく土壌試料も採取して保存した。

    なぜ土まで取っておくのか。

    将来、分析技術が進歩するからである。

    1989年にはできなかったDNA解析。

    高精度同位体分析。

    脂質分析。

    タンパク質分析。

    微小化石分析。

    現在では、わずかな土から過去の人間や動植物について大量の情報を得られる。

    だから発掘時に分析しきれない土を、

    「未来の研究者への資料」

    として保管するのである。

    実際、ウェリントン・ロウでは開発によって破壊されない部分のローマ時代堆積物を残し、将来の研究へ委ねるという考え方も採用されていた。

    そして約35年後。

    未来の研究者が、その保存土を新しい装置へ入れた。

    すると予想もしなかったものが出てきた。

    プラスチックだった。


    🧪 そもそもマイクロプラスチックとは?

    一般には、5ミリメートル以下の微細なプラスチック粒子をマイクロプラスチックと呼ぶ。

    ペットボトルや包装材が砕けた破片。

    合成繊維の服から抜けた繊維。

    タイヤの摩耗粉。

    塗料。

    各種工業製品。

    下水を通じて運ばれた粒子。

    発生源は非常に多い。

    肉眼で見えるものもあれば、顕微鏡を使わなければ分からないものもある。

    「マイクロプラスチック」という言葉が科学研究の重要テーマとなる転機の一つが2004年だった。

    海洋研究者リチャード・トンプソンらが、海水だけでなく海底堆積物などにも微細なプラスチック片や繊維が広く蓄積していることを報告したのである。

    それから約20年。

    海。

    川。

    湖。

    大気。

    山。

    農地。

    人間の生活圏から遠く離れた場所。

    研究対象はどんどん広がった。

    そして2024年、

    ついに「考古学的地層」まで調べられた。





    arukemaya_y928
    ↑この分析ではサンプルってフラスコに入れるのだね!( ・Д・)(「York Archaeology」の記事内画像より転載)


    🔬 赤外線を当てると、プラスチックの種類が分かる

    研究では、μFTIR――顕微フーリエ変換赤外分光法という方法が使われた。

    名前は難しいが、考え方は比較的分かりやすい。

    物質へ赤外線を当てる。

    すると、その物質を構成する化学結合によって、吸収される赤外線の波長が異なる。

    ポリエチレンにはポリエチレン特有のパターン。

    PTFEにはPTFE特有のパターン。

    いわば、

    化学物質の指紋

    が得られる。

    研究チームは約5マイクロメートル以上の粒子を対象として、見た目だけで「これはプラスチックだろう」と分類するのではなく、その化学的指紋から材質を判定した。


    🧴 66粒、16種類のプラスチックが見つかった

    分析されたのは、二つの遺跡から1980年代に保存された試料と、同じ場所付近から近年新たに採取したボーリングコアである。

    さらに分析途中で空気や器具からプラスチックが混入していないか確かめるため、8点の対照試料も用意された。

    結果、考古学的堆積物から確認されたマイクロプラスチックは合計66粒。

    ポリマーは16種類に及んだ。

    多かったのは、PTFE、ポリブチレンスルホン系素材、ポリエチレン・ポリプロピレン系共重合体などだった。

    形状は、整った球ではなく、不規則に砕けた破片が多かった。

    そして衝撃的だったのが深さである。


    😨 地下7.35メートルで「2万588粒/kg」

    1980年代にウェリントン・ロウから採取された試料では、地下約7.35メートルの最深部で、重量換算すると1キログラム当たり約2万588個という最も高い値が算出された。

    さらに近年クイーンズ・ホテル付近から採取されたコアでも、約5.85メートルの深さで約5910個/kgに相当する値が出た。

    ここで重要なのは後者である。

    「1988年の試料をプラスチック袋へ保存したから、袋が砕けて混ざっただけでは?」

    という疑問が当然出る。

    実際、研究者自身も、保存袋に使われたポリエチレンを潜在的な汚染源として認識している。

    だからこそ、現在の地中から新しく採った試料も調べた。

    そこからも深い位置にマイクロプラスチックが出たのである。

    さらに分析室や保管環境から混入する粒子を調べる対照実験も行った。

    つまり、

    「保存袋だけですべて説明できる」

    とは考えにくい。

    ただし逆に、

    1980年代保存試料の一粒一粒が、いつ地下へ入ったのかまで証明されたわけでもない。

    今回の研究はパイロット研究であり、侵入経路と年代の解明はこれからなのである。





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    ↑AとDは波長似てるね!( ・Д・)(「York Archaeology」の記事内画像より転載)


    🚰 プラスチックは、どうやって2000年前の地層まで潜ったのか

    プラスチック粒子には足がない。

    それでも土の中は、完全に静止した世界ではない。

    地下水が動く。

    洪水が起きる。

    雨水が浸透する。

    下水管から水が漏れる。

    古い排水溝が残る。

    建物の基礎杭が地層を貫く。

    根が伸びる。

    ミミズなどの動物が土を動かす。

    土が乾燥と湿潤を繰り返し、亀裂ができる。

    特に今回の二地点は、ウーズ川の氾濫原に近く、古代から水の影響を強く受けた場所だった。ウェリントン・ロウの最古層にも河川由来のシルトや水浸しの環境が記録されている。

    小さなプラスチック片が地下水や細い空隙を通り、長い時間をかけて下へ移動することは十分考えられる。

    しかし、どの材質がどれくらい速く移動するのか。

    地下水なのか、配管なのか、発掘後の攪乱なのか。

    その詳細はまだ分かっていない。


    📚 問題①――歴史の「ページ」の間へ、現代の紙吹雪が入る

    ここからが、一般向けには一番大切な部分である。

    考古学で地層を見るとき、教科書を想像してほしい。

    一番上が2026年。

    その下が1900年。

    さらに下が中世。

    もっと下がローマ時代。

    ページごとに、その時代の物が挟まれている。

    紀元100年のページからローマ土器が出た。

    だから土器も、その頃に使われた可能性が高い。

    これが「層位」の基本である。

    ところが今回分かったのは、

    2026年のページから落ちた細かな紙吹雪が、隙間を通って紀元100年のページまで潜り込むことがある

    ということである。

    もちろん考古学者は昔から、地層が完全に密封されているとは考えていない。

    木の根。

    モグラの穴。

    後世の墓穴。

    井戸。

    建築工事。

    こうした攪乱は普通に確認している。

    しかしマイクロプラスチックは、小さすぎて肉眼では見えない。

    地層が見た目にはきれいでも、微視的には現代物質が移動している可能性が出てきた。

    これが第一の問題なのである。


    🏺 だから「ローマ層からプラスチック=ローマ人がプラスチックを使用」にはならない

    ここは逆に考えれば分かりやすい。

    もし1000年後の考古学者が、紀元100年の地層からポリエチレン片を発見したとする。

    年代だけを機械的に合わせれば、

    「ローマ人はポリエチレンを使っていた!」

    という、とんでもない結論になる。

    現在の私たちは、プラスチックの工業生産史を知っているから、すぐ後世の混入だと分かる。

    だが同じことが、

    目に見えない化学物質。

    細菌。

    微量DNA。

    有機分子。

    金属イオン。

    について起きた場合はどうだろう。

    「どこまでが古代由来で、どこからが後世に入ったものなのか」

    を見分けるのは、はるかに難しい。

    マイクロプラスチックはそれ自体が過去について誤情報を与えるというより、

    地層の中では、私たちが思っていた以上に物質が動いている

    ことを警告する、分かりやすい証拠なのである。


    🌊 湖底でも、18世紀の地層までプラスチックが潜っていた

    実は同じ2024年、別の研究から非常によく似た問題が報告された。

    北東ヨーロッパの湖底堆積物を調べた研究では、独立した年代測定によって18世紀前半までさかのぼる地層からもマイクロプラスチックが検出された。

    もちろん18世紀にプラスチックは存在しない。

    つまり後世の粒子が、堆積後に下方向へ移動したと考えられる。

    特に粒子の形によって移動しやすさに違いがあり、細長い繊維などと他の形状で分布が異なった。研究者たちは、この結果からマイクロプラスチックを単純に「プラスチック時代開始の年代指標」とすることへ警告を出している。

    これは考古学にもそのまま当てはまる。

    「この層から出た」という事実と、「この層ができた時に入った」という事実は、同じではない。


    🌾 問題②――花粉や種子から昔の環境を読む研究にも関係する

    考古学者は土の中から、土器だけを探しているわけではない。

    花粉を調べる。

    種子を調べる。

    昆虫を調べる。

    寄生虫の卵を調べる。

    炭化した植物を調べる。

    土のリン濃度や金属成分を測る。

    最近では土壌DNAや微生物群集まで調べる。

    例えば、

    「この時代に周囲は森だった」

    「ここで穀物を加工した」

    「家畜を飼っていた」

    「人間の排泄物が多かった」

    といった復元が可能になる。

    これを環境考古学などと呼ぶ。

    ところが地中へ現代の粒子や化学物質が移動しているなら、

    地層は完全に化学的に閉じた容器ではない

    という前提を、より強く意識しなければならない。

    だからといって、「マイクロプラスチックが花粉まで地下へ引きずっていく」と判明したわけではない。

    重要なのは、地下の物質移動や土壌化学を、以前より細かく評価する必要が出てきたという点である。


    🦠 問題③――2000年間遺物を守った「土の環境」が変わるかもしれない

    もっと直接的に危険なのが、保存状態への影響である。

    先ほど説明したように、ヨークの木材や革が残ったのは、

    水。

    少ない酸素。

    一定のpH。

    安定した酸化還元状態。

    微生物活動。

    などが長期間バランスを保ったからである。

    文化財保存の指針でも、水浸し遺跡を現地保存する場合には、水位、pH、酸化還元状態などを監視することが重視されている。

    そこへ大量の人工ポリマーや、その添加剤、分解生成物が入る。

    土壌の空隙が変わるかもしれない。

    水の動きが変わるかもしれない。

    微生物群集が変化するかもしれない。

    化学反応へ影響するかもしれない。

    もしその結果として酸素量や酸性度、微生物活動が変化すれば、

    2000年間腐らなかった木が、地中に置いたままなのに腐り始める

    可能性が出てくる。

    ただし、ここは非常に重要なので強調しておく。

    2024年のヨーク研究は、「マイクロプラスチックによってローマ時代の木材が実際に腐った」と証明した研究ではない。

    確認したのは、考古学的堆積物へのマイクロプラスチックの存在と移動である。

    保存環境をどれだけ変えるのかは、まさに次の研究課題なのである。


    🪵 具体的には、「水の中なら大丈夫」では済まなくなる

    例えば2000年前の木製櫛が、酸素のない泥の中に埋まっているとする。

    発掘すれば空気へ触れる。

    乾燥する。

    木の細胞を満たしていた水が抜け、形が崩れる。

    保存処理には時間も金もかかる。

    それなら、

    「掘らずに水の中へ残しておこう」

    という判断は合理的である。

    ところが、その泥へ現代の汚染物質が入り込み、微生物や水質を徐々に変えているなら、

    「掘らない=保存」

    とは限らなくなる。

    50年後に掘ったら、木がすでに失われているかもしれない。

    だから必要になるのは、

    今掘るべきか、地中に残すべきかを、遺物の希少性だけでなく地下環境の将来予測から判断すること

    になる。

    今回の研究が「考古学の保存方針を変えるかもしれない」と言われる最大の理由は、ここにある。


    🏗️ 「掘らない考古学」が、ここ30年ほどの重要方針だった

    遺跡は、発掘すれば保存されると思われがちである。

    実際には逆である。

    発掘は、遺跡を破壊しながら記録する行為でもある。

    一度地層を掘れば、元には戻せない。

    しかも未来には、

    もっと優れた年代測定。

    もっと少ない試料で行えるDNA分析。

    現在存在しない分析技術。

    が登場する可能性がある。

    そこで20世紀末以降、とくに都市開発の現場では、重要な遺跡を可能な限りその場へ残すpreservation in situ――現地保存という考え方が強くなった。

    1990年のICOMOS「考古遺産の保護と管理に関する憲章」や1992年のヴァレッタ条約など、国際的にもこの方向が強化された。英国でも1990年代以降、開発基礎を工夫して遺跡の大部分を地中へ残す方法が広く検討されてきた。

    ヨークは、そうした都市考古学と現地保存の代表的な場所の一つでもある。

    だから今回、

    「その場へ残しておけば安全、とは限らないのでは?」

    という疑問が出たこと自体が大きいのである。


    ☢️ 問題④――放射性炭素年代まで全部おかしくなるの?

    ここは、おそらく一番誤解されやすい。

    結論から言えば、

    マイクロプラスチックが見つかったから、これまでの放射性炭素年代測定が全部無効になるわけではない。

    炭素14年代測定では、もともと外部から混ざった炭素が大問題になることが知られている。

    だから骨なら、骨そのものに残るコラーゲンを抽出・精製する。

    木炭なら、酸やアルカリによる前処理で後から付着した物質を除去する。

    現在の年代測定研究でも、正確な年代を得る鍵は「測定したい対象由来の炭素を、外来炭素からどれだけ確実に分離できるか」にある。

    したがって、

    ローマ時代の骨の周囲にマイクロプラスチックがある

    骨の年代が自動的に現代になる

    ということではない。

    きちんと精製された骨コラーゲンや木炭なら、影響を取り除ける可能性が高い。


    🧪 でも、「土そのもの」を測る場合には注意が増える

    一方で、

    非常に少量の有機物。

    劣化した骨。

    土壌中の有機炭素。

    土器に残った微量脂質。

    保存処理された博物館資料。

    などでは、外来炭素との分離が難しくなる。

    考古資料に塗られた接着剤や保存剤が放射性炭素年代を乱すことは以前から知られており、合成物質を除去する特別な前処理法も研究されている。

    石油由来プラスチックの炭素は非常に古いため炭素14をほぼ含まない。

    もしそれが十分除去されず測定試料へ混ざれば、理論上は試料を実際より古く見せる方向へ影響する可能性がある。

    だから今回の発見は、

    「炭素14年代測定が使えなくなる」

    ではなく、

    微量分析ほど、採取から保管・前処理までの汚染管理を一層厳しくしなければならない

    という話なのである。


    📦 問題⑤――博物館の「保存資料」まで完全なタイムカプセルではなかった

    1988年に採取された土からもマイクロプラスチックが出たことは、もう一つの問題を突き付ける。

    考古学者は、昔に掘った資料を再分析することが多い。

    「この土は1988年に採ったから、それ以降の現場汚染はない」

    と考えたくなる。

    しかし試料は、

    袋へ入れる。

    倉庫へ運ぶ。

    容器を交換する。

    研究室で開封する。

    分析する。

    その間にも現代物質と接触する。

    今回の論文でも、保存に使われたポリエチレン袋そのものが、潜在的な汚染源として検討されている。

    今後、マイクロプラスチックや微量有機物を研究する場合には、

    どんな袋を使ったか。

    どんな手袋を使ったか。

    研究者の服は合成繊維か。

    空気中にどんな繊維が飛んでいるか。

    採取器具は何でできているか。

    まで記録する必要が出てくる可能性がある。

    これは古代DNA研究で、発掘者自身のDNA汚染を防ぐためマスクや手袋を使うようになったのと、少し似ている。

    分析技術が敏感になるほど、それまで無視できた現代の痕跡が見えてしまうのである。


    🤔 では今回の66粒は、本当に全部「地下移動」したのか

    ここも断定してはいけない。

    今回の研究は小規模なパイロット研究である。

    二遺跡。

    少数の試料。

    66粒。

    これだけで英国すべての遺跡が同じ状態だとは言えない。

    しかも1980年代試料には、保存袋による後世汚染の可能性もある。

    一方、新たに採取された地中コアからも深い位置でマイクロプラスチックが確認され、分析時の空気などをチェックする対照試料も設けられた。

    そのため著者たちは、結果全体として考古学的地層内でマイクロプラスチックが移動している現象を支持すると結論している。

    現段階で最も正確な言い方は、

    「古代地層へのマイクロプラスチック侵入が確認され、地下移動を示唆する証拠が得られた。ただし侵入時期と経路、保存への影響はまだ十分分かっていない」

    である。


    🌍 プラスチックは「人新世の化石」になれると思われていた

    ここには、少し皮肉な話もある。

    プラスチックは20世紀半ば以降に爆発的に増えた。

    だから将来の地質学者が現代の地層を掘れば、

    プラスチック。

    コンクリート。

    アルミニウム。

    放射性降下物。

    などを、現代文明を示す特徴として使えるのではないかと考えられてきた。

    要するに、

    「プラスチックが出始める層=20世紀後半」

    という年代マーカーになりそうなのである。

    ところが粒子が下へ移動するなら、

    18世紀の湖底。

    ローマ時代の都市地層。

    からも出てしまう。

    地質学的には昨日生まれた物質なのに、地層の中では何百年、何千年も前へ「タイムトラベル」する。

    マイクロプラスチックは、人類史の年代指標になり得る一方で、年代指標として使うには動きすぎる。

    なんとも厄介な「未来の化石」なのである。


    🦴 それでも土器や石器の研究が突然できなくなるわけではない

    今回の話を聞くと、

    「じゃあ考古学の地層なんて信用できないじゃん!」

    と思うかもしれない。

    そこまで悲観する必要はない。

    陶器。

    石器。

    レンガ。

    大型の金属器。

    建物基礎。

    墓。

    柱穴。

    こうした大きな遺構・遺物が、マイクロプラスチックのように地下数メートルを自在に移動するわけではない。

    土器片がローマ層から中世層へ勝手に泳いでいくこともない。

    考古学者は以前から、地下水、根、動物、後世の穴などによる攪乱を評価しながら地層を読む技術を発達させてきた。

    今回変わる可能性があるのは、とくに、

    微小な物質

    化学成分

    有機残留物

    土壌環境

    現地保存

    を扱う考古科学なのである。


    🔍 むしろマイクロプラスチック自身が「地層の動き」を教えてくれるかもしれない

    見方を変えると、おもしろい。

    プラスチックが紀元100年には存在しなかったことは確実である。

    だからローマ時代層で見つければ、

    「これは後から入った」

    と100%近く分かる。

    つまりマイクロプラスチックを、

    地下で微細な物質がどこまで、どの速さで動くのかを測るトレーサー

    として利用できるかもしれない。

    ポリエチレンはどこまで下がるか。

    繊維状粒子は止まりやすいか。

    大雨の後に濃度が変わるか。

    排水管周辺で多いか。

    地下水位との関係はどうか。

    これを調べれば、プラスチックだけでなく、他の微小物質が地層内でどう動くかまで理解できる。

    今回の「汚染」は、将来の考古科学に新しい地層形成研究を生み出す可能性もある。


    🧭 2026年、とうとう本格研究プロジェクトが始まった

    そして、まさに今年2026年。

    2024年のパイロット研究を受けて、英国で新しい研究プロジェクトが動き始めた。

    名称は「Micro-Past」。

    正式には、

    Challenging the Preservation Paradigm: The Impact of Microplastics on the Integrity of Archaeological Soils and Sediments

    ――「保存パラダイムへの挑戦:マイクロプラスチックが考古学的土壌・堆積物の完全性へ与える影響」といった意味になる。

    ヨーク大学を中心に、リンカーン大学、ハル大学、ヨークの考古学組織などが連携し、英国各地の遺跡を調べる計画である。2026年4月に開始が発表された。

    つまり2024年の発見は、

    「変な物が出たね」

    で終わらなかった。

    考古遺跡の保存方法そのものを検証する研究分野へ発展し始めている。


    🧫 今度は「本当に遺物が壊れるのか」を実験する

    新プロジェクトで重要なのは、単に全国の遺跡からプラスチックを数えるだけではないことである。

    マイクロプラスチックが、

    土壌化学へどう影響するのか。

    微生物へどう影響するのか。

    異なる材質の遺物へどう影響するのか。

    どのような遺跡が汚染されやすいのか。

    を調べる。

    さらに、マイクロプラスチックを加えた土壌・堆積物の長期実験も計画され、異なる材質の考古資料への影響を検証する研究体制が組まれている。

    これはものすごく重要である。

    2024年研究では、

    「プラスチックがある」

    までだった。

    次の段階は、

    「あると何が起きるのか」

    である。

    この二つを混同してはいけない。


    🏛️ もし悪影響が確認されたら、考古学はどう変わる?

    仮に今後、マイクロプラスチックが水浸し遺跡の保存状態を明確に悪化させると分かったとする。

    すると発掘計画は変わる。

    これまでは、

    遺跡発見

    重要部分は掘らずに残す

    建物を工夫して上へ建設

    未来の技術へ託す

    だった。

    それが、

    遺跡発見

    地下水・pH・酸化還元状態に加えてマイクロプラスチック濃度を測る

    将来の劣化速度を評価する

    安全なら現地保存

    汚染が進むなら、重要資料だけ先に発掘

    という判断になるかもしれない。

    つまり、

    「掘るか残すか」を、プラスチック汚染まで含めたリスク管理で決める

    時代になる可能性がある。

    ただし、それを決めるには今回始まった研究の結果を待つ必要がある。


    🧤 発掘現場も、「清潔さ」の意味が変わるかもしれない

    将来的には考古学現場のサンプリング方法も変わる可能性がある。

    古代DNA用試料なら、現在すでに汚染を避けて厳密に採取する。

    マイクロプラスチック研究でも同じように、

    空気中の繊維を測るブランク試料。

    使用した袋の材質。

    採取器具の材質。

    研究者の衣服。

    分析室の空気。

    まで記録する方法が必要になる。

    面白いのは、現代考古学そのものが大量のプラスチックを使うことである。

    試料袋。

    容器。

    手袋。

    防水シート。

    発掘道具の部品。

    ラベル。

    遺物収納箱。

    「プラスチック汚染を調べる考古学者自身が、プラスチックを持って現場へ行く」

    という矛盾が生じる!( ・Д・)

    だから完全なプラスチック排除より、

    何を使ったか記録し、対照試料を取り、自分たち由来の汚染を識別できる仕組み

    の方が現実的だろう。


    📖 考古学は昔から、「地層は動く」と知っていた

    実は今回の研究は、考古学の基本をひっくり返すというより、その基本をもっと細かな世界まで拡張する出来事だとも言える。

    遺物が地面へ捨てられる。

    土が積もる。

    雨が降る。

    動物が穴を掘る。

    人間が建物を建てる。

    洪水が土を運ぶ。

    地下水が化学物質を移動させる。

    遺跡は、埋まった瞬間に時間停止するわけではない。

    考古学では、こうした「遺跡が作られ、埋まり、変化して現在へ至るまで」を遺跡形成過程として研究してきた。

    今回追加されたのは、

    現代文明が作った分子レベルの物質まで、その形成過程へ参加する時代になった

    ということなのである。


    🧴 2000年前の地層は、2000年前だけでできているわけではなかった

    紀元100年頃。

    ローマ人がヨークの道路を歩いた。

    排水溝へ泥が溜まる。

    食べ残しが捨てられる。

    木片が沈む。

    革が泥へ埋まる。

    地下水が満たす。

    酸素が消える。

    そして遺物は、長い眠りに入った。

    ローマ帝国が崩壊する。

    ヴァイキングが来る。

    中世都市が成長する。

    産業革命が起きる。

    20世紀になる。

    人類は膨大なプラスチックを作り始める。

    袋。

    衣服。

    パイプ。

    包装。

    塗料。

    それらが砕ける。

    雨へ入る。

    川へ入る。

    下水へ入る。

    地面へ入る。

    そして少なくとも一部は、さらに下へ進んだ。

    2000年前のローマ人が残した泥の中まで。

    今回発見されたのは、古代のプラスチックではない。

    現代文明が、過去の地層へ到達してしまった痕跡なのである。


    ✨ 「未来の技術へ残しておけばいい」が、永遠に正しいとは限らない

    考古学では、全部を掘ることはできない。

    全部を博物館へ持ち帰ることもできない。

    だから現在の技術ではなく、未来の技術に託して遺跡を地中へ残す。

    これは非常に合理的な考え方である。

    だが、その前提には、

    「未来まで遺跡が同じ状態で残る」

    という期待がある。

    現実の地下環境は動いている。

    地下水も変わる。

    都市建設も進む。

    気候も変わる。

    微生物も変化する。

    そして今や、現代のプラスチックまで入り込む。

    だから今回の研究が考古学へ突き付けた問いは、

    「マイクロプラスチックは危険か?」

    だけではない。

    もっと根本的な、

    「未来のために地中へ残すという行為は、本当に保存なのか?」

    という問いなのである。

    2024年には、まだ答えがなかった。

    だから2026年、本格的な研究が始まった。

    もしかすると結果は、

    「多くの遺跡ではほとんど影響しない」

    になるかもしれない。

    逆に、

    「特定の水浸し遺跡では有機物保存を急速に悪化させる」

    となるかもしれない。

    それはまだ分からない。

    しかし一つだけ確かなのは、

    遺跡は、地下へ埋まった瞬間に過去だけの世界になるわけではない。

    現代は地表から地下へ染み込み続けている。

    考古学者が守らなければならないものは、土器や骨だけではない。

    土。

    水。

    微生物。

    化学環境。

    そして遺物同士の関係を保ってきた「地層そのもの」なのである。

    2000年前のローマ時代の土から見つかった小さなプラスチック片。

    それは古代人が残した遺物ではない。

    私たち現代人が、知らないうちに古代遺跡へ置き始めている“未来の遺物”なのだ!( ・Д・)





    なにはともあれ……

    胎土分析に関係しそうでちょっとやだな!( ・Д・)








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    2026ねん 8がつ6にち(もくよーび、くもり)

    昨晩ずぶ濡れになったけど風邪ひいてない!( ・Д・)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


    arukemaya_y915


    ↑やぱ技術の進歩はすごいぜ!( ・Д・)





    今回の考古学・歴史ニュースは

    フランス南西部のフォン・ド・ゴーム洞窟で、長く年代測定できないと考えられてきた黒い壁画から木炭が見つかり、バイソンは約1万3300年前、“仮面”の口は約1万6000~1万4000年前、左目だけは約9000年前という結果が出たけれど、本当に6000年後の人が描き足したのかは、まだ決着していないぞ( ・Д・)」

    ってお話です(*・ω・)ノ




    📰 はじめに

    洞窟の奥。

    岩壁の小さな膨らみに、黒い線が引かれている。

    二つの目。

    口のように見える線。

    人間の顔なのか。

    動物の顔なのか。

    それとも、どちらでもない存在なのか。

    研究者たちは、この奇妙な図像を「仮面」と呼んできた。

    もちろん、顔へ装着する仮面が発見されたわけではない。

    自然の岩肌を顔の輪郭として利用し、黒い点と線を加えることで、何者かの顔を出現させた図像である。

    そして2026年、この顔から採取された三つの微小な木炭試料が、まったく同じ時代を示さなかった。

    上唇は、現在から約1万6000~1万5100年前。

    下唇は、約1万5300~1万4200年前。

    ところが左目だけは、約9000~8600年前だった。

    口が描かれてから、およそ6000年後。

    旧石器時代が終わり、気候も森林も人々の暮らし方も大きく変わった時代に、誰かが古い顔へ片目を加えたのだろうか。

    それとも、後世の炭が偶然混ざっただけなのか。

    今回得られたのは、「数千年かけて完成した仮面」という答えではない。

    洞窟壁画が一度描かれて終わる完成品ではなく、異なる時代の人々が触れ続けた存在だったかもしれないという、新しい問いなのである。


    🏞️ 場所は、フランス南西部の「先史時代の首都」

    フォン・ド・ゴーム洞窟は、フランス南西部ドルドーニュ県のレ・ゼイジーにある。

    洞窟は、ヴェゼール川へ注ぐブーヌ川の谷を見下ろす岩山に開き、主洞はおよそ120メートルにわたって奥へ続いている。

    そこからプラ、ヴィダル、側廊などの細い支洞が分かれ、最深部には一般の見学者が立ち入れない空間も広がっている。

    ヴェゼール渓谷一帯には、ラスコー、レ・コンバレル、ラ・マドレーヌなど、旧石器時代を代表する洞窟や岩陰遺跡が集中している。

    1979年にはフォン・ド・ゴームを含む遺跡群が、ユネスコ世界遺産「ヴェゼール渓谷の先史的景観と装飾洞窟群」に登録された。

    フォン・ド・ゴームは現在も、旧石器時代の多色壁画を現地で見学できるフランス国内でも極めて貴重な洞窟であり、内部環境を守るため入洞人数は厳しく制限されている。


    🐂 200点を超える動物たちが、岩壁を歩いている

    洞窟内には、200点を超える動物、記号、線刻が確認されている。

    バイソン。

    ウマ。

    マンモス。

    トナカイ。

    オーロックス。

    サイ。

    クマ。

    ネコ科動物。

    なかでもバイソンは50点以上を占め、フォン・ド・ゴームは「バイソンの洞窟」とも呼ばれてきた。

    壁画は、白い岩壁へ平面的に絵を載せただけではない。

    岩の窪みを腹部にする。

    突出部を肩や頭部に見立てる。

    亀裂を背中の線へ利用する。

    黒、赤、褐色の顔料を重ね、刻線や削りによって輪郭を強調する。

    洞窟そのものの形と絵が結び付き、火の揺れる光の中では、動物が身体を動かしているように見えた可能性がある。

    しかし、この見事な壁画が旧石器時代に描かれたと学界が認めるまでには、長い疑いの歴史があった。


    🤨 かつて学者たちは「旧石器人にこんな絵は描けない」と考えた

    1879年、スペインのアルタミラ洞窟で、天井を埋め尽くすバイソンの彩色画が発見された。

    発見者マルセリーノ・サンス・デ・サウトゥオラは、旧石器時代の人々が描いたものだと主張した。

    しかし、あまりにも巧みだった。

    遠近感がある。

    動物の身体が正確である。

    色まで塗り分けられている。

    当時の研究者の多くは、旧石器時代人にこれほど高度な芸術能力があるとは考えず、近代人による偽造ではないかと疑った。

    暗い洞窟の奥で、照明もなく絵を描けるはずがないという反論まであった。

    その後、フランスでラ・ムート、ペール・ノン・ペール、マルスーラなどの壁画・線刻洞窟が相次いで見つかる。

    動物脂肪を燃やすランプも発見され、「暗闇では制作できない」という反論は崩れていった。

    それでも、一つひとつの発見を偽物や例外として退ける余地は残っていた。

    その論争へ決定的な一撃を与えたのが、1901年のフォン・ド・ゴームだった。



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    ↑洞窟とは言えしっかり残ってるもんだよね!( ・Д・)(「cnrs」の記事内画像より転載)


    💥 1901年、洞窟壁画が「本物」になった日

    1901年9月12日。

    地元の学校教師であり考古学者でもあったドニ・ペイロニーは、レ・コンバレル洞窟の調査を終えた直後、フォン・ド・ゴームへ入った。

    洞窟自体は古くから知られ、入口は家畜小屋としても使われ、近代人の落書きさえ残っていた。

    しかし奥へ進んだペイロニーは、多数の動物画と線刻が壁に残されていることへ気付いた。

    連絡を受けたルイ・カピタンとアンリ・ブルイユが戻り、9月21日には三人で洞窟を詳しく調べた。

    彼らは一日で77点の図像を確認し、洞窟図を作り、壁画をトレーシングペーパーと水彩で写し取った。

    わずか二日後の9月23日には、フランス科学アカデミーへ発見が報告された。

    フォン・ド・ゴームとレ・コンバレルに、同じような旧石器時代の動物表現が大量に存在する。

    偽作者が、複数の洞窟の奥深くへ何百点もの絵を描いたとは考えにくい。

    1902年、研究者たちは実際に洞窟を訪れ、旧石器時代の洞窟壁画が本物であることを正式に認めた。

    フォン・ド・ゴームは、旧石器人にも芸術を作る能力があったことを証明し、先史考古学そのものを変えた洞窟なのである。


    📝 1903年から、壁へ紙を当てて絵を写した

    1903年以降、アンリ・ブルイユは洞窟壁画の体系的な記録を始めた。

    大きな透明紙を壁へ直接当て、線を写し取る。

    それを光学器具で5分の1へ縮小する。

    再び原画を見ながら、線刻はインク、彩色画はパステルで仕上げる。

    現在なら壁面への接触は避けられるが、当時はこれが最先端の記録方法だった。

    1910年、カピタン、ブルイユ、ペイロニーによる大部の研究書が刊行された。

    そこでは198点の図像が記録され、その後100年以上にわたってフォン・ド・ゴーム研究の基礎となった。

    ところが近年、照明、写真処理、三次元測量、化学分析を用いて壁を見直すと、ブルイユたちが記録できなかった線や図像が次々と現れている。

    古い洞窟は、発見済みだから研究が終わったわけではなかった。

    見る技術が変わるたび、壁から新しい絵が浮かび上がるのである。


    ⏳ では、これまで壁画の年代をどう決めていたのか

    旧石器時代の壁画には、制作年が書かれていない。

    そこで研究者は、描かれた動物、絵の様式、線の引き方、顔料、図像同士の重なり、洞窟内から出土した石器などを比較し、年代を推定してきた。

    ある絵の上に別の絵が重なっていれば、下の絵が古い。

    特定の時代に流行した石器が床から見つかれば、その頃に人が洞窟を訪れた可能性がある。

    別の遺跡から出た年代の分かる彫刻と表現が似ていれば、同時期かもしれない。

    このような「相対年代」と様式研究によって、フォン・ド・ゴームの主要な壁画は、長くマドレーヌ文化中期、約1万5000~1万4000年前に位置付けられてきた。

    しかし床から出た石器が、壁画を描いた本人の物とは限らない。

    数千年前の人々が入った後、別の集団が壁画を描いた可能性もある。

    洞窟内の炭を測定しても、それが照明、暖房、調理、壁画制作のどれに使われたのか分からない。

    壁画そのものを測らなければ、どうしても推定の幅が残るのである。


    ⚫ 黒い絵なのに、炭素がない?

    放射性炭素年代測定は、木、骨、種子、木炭など、生物に由来する炭素を測る方法である。

    木炭で描かれた壁画なら、顔料そのものを測定できる。

    木が伐採されて炭になり、その炭で絵が描かれた時期へ、かなり直接的に近づける。

    ところがフォン・ド・ゴームの黒色顔料は、長くマンガン酸化物や鉄酸化物で作られたと考えられてきた。

    マンガンも鉄も無機鉱物であり、炭素14を含まない。

    黒く見えても、木炭とは限らないのである。

    そのため、

    「フォン・ド・ゴームの絵は旧石器時代らしい」

    とは言えても、

    「このバイソンが描かれたのは何年前だ」

    と、顔料から直接測ることはできなかった。

    ラスコーを含むドルドーニュ地方の重要洞窟でも、同じ問題があった。





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    ↑処理をかけると色々見えてくるね!( ・Д・)(「cnrs」の記事内画像より転載)


    🔦 2023年、黒い線の中に「隠れた木炭」が見つかった

    転機は2023年だった。

    研究チームは、壁へ触れずに顔料の化学的性質を調べられるラマン分光法、携帯型蛍光X線分析、可視光・赤外線撮影などを組み合わせた。

    すると、マンガンで描かれたと思われていた黒い図像の中に、木炭由来の炭素を使ったものが多数混ざっていることが分かった。

    ドルドーニュの先史洞窟で、木炭による壁画が科学的に確認された最初の例だった。

    肉眼では、マンガンの黒と木炭の黒を簡単に見分けられない。

    しかし赤外線や分光分析を通すと、同じ黒色の中に異なる材料が隠れていた。

    1901年以来、何千人もの研究者や見学者が見てきた壁に、年代測定できる顔料が残っていたのである。

    「炭素がない」と確認されていたのではない。

    長く、そのように思い込まれていただけだった。


    🌈 ハイパースペクトル画像は、色を「成分」に分ける

    今回の研究では、ラマン顕微分光法に加え、ハイパースペクトルイメージングや反射分光画像法が使われた。

    普通の写真は、主に赤、緑、青の三色として光を記録する。

    ハイパースペクトル撮影では、光をさらに細かな波長へ分け、壁の各地点がどのような光を反射しているかを測る。

    物質ごとに反射や吸収の特徴が異なるため、見た目が同じ黒でも、木炭とマンガンを分けられるのである。

    まず非破壊の方法で、木炭がどこにあるかを正確に地図化する。

    その後、本当に必要な場所からだけ、ごく少量を採る。

    貴重な壁画へ手当たり次第に刃物を当てるのではなく、科学画像によって採取場所を絞り込んだことが、今回の直接年代測定を可能にした。


    🧪 それでも年代測定には、壁画を少し削らなければならない

    放射性炭素年代測定は、完全な非破壊分析ではない。

    顔料の一部を壁から取り外し、その中に残る炭素14を測らなければならない。

    フォン・ド・ゴームでは壁への接触自体が厳しく制限されているため、微小試料の採取には特別な許可が必要だった。

    選ばれたのは、主洞の「カルフール」と呼ばれる場所に描かれたバイソン一頭と、一般公開区域から離れた側廊の最深部にある「仮面」だった。

    バイソンから一試料。

    仮面から三試料。

    合計四つの小さな黒色顔料が採取され、加速器質量分析法、AMSによって炭素14の量が測られた。

    試料が小さいほど壁画への損傷は少ない。

    一方で、混入したごく微量の新しい炭素が、測定値へ大きく影響しやすくなる。

    文化財保護と測定の確実性の間で、非常に難しい選択を伴う分析なのである。


    🐂 バイソンは、約1万3300年前だった

    バイソンの測定結果は、1万3461~1万3162 calBPだった。

    calBPとは「較正された現在以前」を意味し、この「現在」は慣例的に西暦1950年に固定されている。

    つまり、おおよそ紀元前1万1500~1万1200年頃に相当する。

    従来、絵の自然主義的な様式などから、1万8000~1万6000年前に描かれた可能性も想定されていた。

    しかし直接年代は、それよりやや新しかった。

    それでも後期旧石器時代、マドレーヌ文化の範囲に入り、このバイソンが本当に旧石器時代人によって描かれたことが、顔料そのものから初めて確かめられた。

    ただし、ここで測ったのは一頭だけである。

    フォン・ド・ゴームにいる50頭以上のバイソンが、すべて同時代に描かれたとは限らない。

    同じ洞窟、同じ動物、似た描き方であっても、制作時期が異なる可能性がある。

    今回の一測定は、壁画全体の年代表を完成させたのではなく、その最初の一点を打ったのである。




    arukemaya_y916

    ↑サンプリングの洋右!( ・Д・)(「c&en」の記事内画像より転載)


    🎭 そもそも「仮面」とは何なのか

    今回測定されたもう一つの図像は、研究上GL3D-009と呼ばれている。

    側廊の奥深い第3区画にあり、岩壁の自然な膨らみや窪みへ、黒い点と線をわずかに加えることで、顔のような形を作っている。

    人間なのか。

    動物なのか。

    両者が混ざった存在なのか。

    判断できないため、研究者は引用符付きで「仮面」と表現している。

    2020年から始まった再調査では、それまで十分に記録されていなかった支洞の壁から、同様の顔状図像が40点近く確認された。

    多くは自然の岩の突出部を顔の形として利用し、黒い線や点によって目、口、輪郭らしき要素を加えている。

    旧石器時代の洞窟美術の中でも珍しく、フォン・ド・ゴーム独特の視覚表現として注目されている。

    岩を見て、そこに隠れている顔を見つける。

    一から輪郭を描くのではなく、岩の形の中に存在する何者かを、数本の線で外へ呼び出す。

    「仮面」という名称以上に、洞窟の壁そのものと一体化した図像なのである。


    👄 上唇と下唇は、同じ時代だったかもしれない

    仮面から採られた一つ目の試料は上唇。

    年代は1万5981~1万5121 calBPだった。

    二つ目は下唇。

    こちらは1万5297~1万4246 calBPだった。

    数字だけを見ると、

    上唇が先に描かれ、

    数百年後に下唇が追加された、

    と考えたくなる。

    しかし二つの年代範囲は一部で重なっている。

    上唇と下唇が同じ制作行為の中で描かれ、測定上の誤差によって範囲がずれただけかもしれない。

    異なる時期に補修された可能性もあるが、二試料だけで「口が何世代もかけて完成した」とまでは言えない。

    年代測定は非常に精密でも、一本の線を引いた西暦何年何月まで決められる時計ではないのである。


    👁️ 左目だけが、約6000年も新しかった

    問題は、三つ目の試料である。

    左目の黒色顔料は、8993~8590 calBP。

    おおよそ紀元前7040~6640年頃に相当する。

    上唇と比べれば、6000年以上も新しい。

    下唇と比べても、およそ5000~6000年の隔たりがある。

    口が描かれた頃は、後期旧石器時代。

    左目の年代は、すでに完新世へ入り、西ヨーロッパでは中石器時代の狩猟採集社会が展開していた頃である。

    もし測定値がそのまま描画年代を示すなら、ある集団が作った顔へ、数千年後の別の人々が片目を加えたことになる。

    洞窟は、一時代の聖域ではなかった。

    気候も動物相も生活様式も違う人々が、はるか昔に描かれた顔を認識し、何らかの理由で触れ直したことになる。

    それは、先史時代の人々が古い壁画をどのように見ていたかを考える、驚くべき証拠となり得る。


    ⚠️ しかし「6000年後の加筆」は、まだ証明されていない

    研究者は、左目の若い年代について三つの可能性を挙げている。

    一つ目は、意図的な描き足し。

    後世の人が、古い顔の片目を描いた、あるいは薄くなった線を修復した。

    二つ目は、偶然の汚染。

    壁面を流れた水、微生物、現代の作業などによって、新しい炭素が試料へ混ざった。

    三つ目は、旧石器時代とは無関係な後世の落書きである。

    黒い線全体へ木炭がほぼ均一に分布していたため、図像全体が観光客の汚れから生まれた可能性は低い。

    だが、左目という局所的な部分へ、後の炭素が加わった可能性までは排除できない。

    研究チーム自身も、意図的な修復、汚染、落書きのどれかを、現段階では決められないとしている。

    外部の研究者からは、一つの部位につき少なくとも二試料を測り、結果を再現する必要があるとの指摘も出ている。

    今回の測定は極めて重要だが、「仮面が数千年かけて描かれた」という物語は、魅力的な仮説の段階なのである。





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    ↑右がパイソンで、左が「仮面」なんだけどよくわからんね!( ・Д・) (「IDR」の記事内画像より転載;credit: PNAS)


    🧍 先史時代の人々も、さらに古い「遺跡」を見ていた

    私たちは旧石器時代の洞窟壁画を、一人の天才芸術家が一晩で完成させた作品のように見てしまうことがある。

    しかし洞窟には、重なり合う動物。

    別の色でなぞられた輪郭。

    傷付けられた線。

    何度も通過した足跡。

    異なる時代の石器や炭が残る。

    フォン・ド・ゴームでも、直接年代測定以前から、壁画が複数の制作段階を持つ可能性は考えられていた。

    新しい絵を描いた人は、真っ白な壁へ向かったとは限らない。

    すでに動物や記号で満たされた場所へ入り、古い絵を避ける。

    重ねる。

    なぞる。

    一部を変える。

    あるいは、古い形を利用して新しい図像を作る。

    つまり旧石器時代人自身が、さらに古い人々の残した「遺跡」の中で活動していた可能性がある。

    彼らにとって洞窟壁画は、過去の作者から切り離された美術館の展示物ではなかった。

    現在も効力を持つ祖先の痕跡、物語、目印、あるいは人間以外の存在として認識されていたのかもしれない。


    🧊 口が描かれた頃、ヨーロッパはまだ氷期だった

    仮面の口が描かれた約1万6000~1万4000年前は、マドレーヌ文化が西ヨーロッパへ広がった時代である。

    マドレーヌ文化は、およそ1万8000~1万2000年前に展開した後期旧石器時代最後の大きな文化伝統で、精巧な石器や骨角器、銛、装身具、動産美術、洞窟美術の発達で知られている。

    当時は最終氷期の終末に当たり、現在より寒く、南西フランスにはヨモギやイネ科植物を中心とする開けた草原が広がっていた。

    人々はトナカイ、ウマ、バイソンなど、寒冷な草原に集まる大型草食獣を狩って暮らした。

    フォン・ド・ゴームの壁にバイソン、マンモス、トナカイが繰り返し描かれているのは、彼らが生きた環境と無関係ではない。

    しかし、この時代は安定して寒かったわけではない。

    急激な温暖化と寒冷化が繰り返され、氷河が縮小し、森林が回復し、動物の分布も変わっていった。

    バイソンが描かれた約1万3300年前は、その変化が進んでいた時期に近い。


    🌲 左目の時代には、景色そのものが変わっていた

    左目の約9000~8600年前になると、氷期は終わり、現在と同じ完新世へ入っている。

    温暖化によって森林が拡大し、寒冷な開放地を好むトナカイやサイガなどは北方へ後退する。

    人々は森林、河川、湖沼の資源を利用し、地域ごとに異なる中石器時代の生活を発達させていた。

    その時代の人が本当に仮面へ片目を加えたのなら、描き手は口を描いた人々とは、かなり異なる世界で暮らしていたことになる。

    描かれていた動物の一部は、身近な景観からすでに姿を消していたかもしれない。

    それでも洞窟へ入り、古い顔を見分け、線を加えた。

    何千年前の図像が、意味を変えながら記憶されていたのか。

    意味は忘れられていたが、不可思議な古物として触れられたのか。

    あるいは、古い線だとは知らず、偶然同じ岩の形に目を見いだしたのか。

    測定値が確かになっても、人々が何を考えたかという問いは残るのである。


    🔥 揺れる炎の中では、壁の顔が動いて見えた

    洞窟の奥には、太陽光が届かない。

    旧石器時代の人々は、木の松明、火を焚いた炉、動物脂肪を燃やすランプなどを使って進んだ。

    炎は一定の明るさではなく、揺れ、明滅し、壁へ影を投げる。

    自然の膨らみを利用した仮面は、現在の白色照明より、揺れる火の下でこそ強く顔として現れた可能性がある。

    見る位置を変えると、片目が消える。

    影が動けば、口元が変化する。

    人間の顔に見えたものが、動物へ変わる。

    旧石器時代の洞窟美術は、静止した写真だけでは十分に理解できない。

    壁。

    奥行き。

    暗闇。

    火。

    見る者の移動。

    これらが組み合わさって成立する体験だったのである。




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    ↑やっぱ画像処理かけると良いね!( ・Д・) (「IDR」の記事内画像より転載;credit: PNAS)


    👺 「仮面」が人間なのか動物なのかは、分からない

    旧石器時代の洞窟美術では、動物は比較的写実的に描かれる。

    一方、人間の姿は少なく、顔も省略されたり、動物的特徴と組み合わされたりする。

    そのため顔のように見える図像を、人間、精霊、シャーマン、動物へ変身する人物などと解釈したくなる。

    だが、フォン・ド・ゴームの仮面に説明文はない。

    宗教儀礼の場面を直接示す資料もない。

    「仮面」という言葉自体が、現代の研究者による便宜的な呼び名である。

    大切なのは、正体を早く決めることではない。

    わずかな黒線によって、自然の岩肌が意図的な顔状の存在へ変えられていること。

    似た仕組みの図像が、洞窟の奥から約40点も見つかっていること。

    そして、そのうち一つの内部に、大きな年代差が存在するかもしれないことなのである。


    🖼️ 洞窟壁画は「作品」ではなく、書き込み続けられた壁だった?

    現代の絵画は、作者が完成させ、署名し、完成後は改変しないことが原則とされる。

    その感覚で見ると、後世の人が目を描き足す行為は、作品への落書きに見える。

    しかし旧石器時代の壁画が、同じ作品観を持っていたとは限らない。

    古い図像をなぞる。

    新しい線を重ねる。

    岩の形から別の存在を見つける。

    薄れた部分を更新する。

    共同体の儀礼ごとに触れ直す。

    洞窟の壁は、完成後に固定される美術品ではなく、世代を越えて書き込まれる媒体だった可能性がある。

    考古学では、こうした異なる時代の行為が重なった資料を「パリンプセスト」にたとえることがある。

    古い文字を消し、その上へ別の文章を書いた羊皮紙のように、一枚の岩壁へ複数の時間が重なっているのである。


    🧫 炭素年代は、絵を描いた瞬間そのものではない

    ただし放射性炭素年代にも注意点がある。

    測定されるのは、木が大気から炭素を取り込むのをやめた時期である。

    枯れてから長く保管された木材を炭にして使えば、描画より古い年代が出る。

    古い炉の木炭を拾い、顔料として再利用した可能性も完全には排除できない。

    反対に新しい有機物が混ざれば、実際より若い年代が出る。

    今回のような微小試料では、わずかな混入の影響が大きくなる。

    それでも壁画顔料から直接得た年代は、洞窟床の炭や石器を測るより、描画行為へはるかに近い。

    「絶対にその年に描いた」という証明ではないが、従来の様式比較だけでは得られなかった、独立した時間軸を与えるのである。


    🔬 次に必要なのは、一点ではなく「年代の地図」

    今回直接測定されたのは、バイソン一頭と仮面一点だけである。

    試料は四つ。

    200点を超える図像全体から見れば、ごく小さな始まりにすぎない。

    今後は、同じ図像の複数箇所を測る。

    重なり合う上下の線を測る。

    木炭とマンガンで描かれた図像の関係を調べる。

    洞窟内の場所ごとに年代を比較する。

    そうすることで、フォン・ド・ゴームがどの時代に、どの区域から描かれ始め、どのように奥へ展開したのかを復元できるかもしれない。

    有名な多色バイソン群は一時期に完成したのか。

    異なる世代が同じ動物を描き続けたのか。

    人目に触れる主洞と、奥深い支洞では使われた年代が違うのか。

    顔状の仮面だけが長期間にわたり触れられたのか。

    一つひとつの年代が増えれば、洞窟全体を時間のある地図として読めるようになる。


    🧪 ラスコーでも、同じ方法が使えるのか

    フォン・ド・ゴームで木炭が見つかったことは、ドルドーニュ地方の他の洞窟にも影響する。

    これまでマンガン顔料だけだと思われていた黒色画の中に、未確認の木炭が混ざっている可能性がある。

    ラスコーをはじめとする著名な洞窟でも、非破壊分光分析を行えば、直接年代測定できる図像が見つかるかもしれない。

    ただし、木炭が見つかったからといって、すぐ削ってよいわけではない。

    分析は不可逆的である。

    図像の希少性、保存状態、必要な試料量、得られる情報を比較し、採取する価値が本当にあるか判断しなければならない。

    今回の研究が評価されているのは、最初に非破壊分析を尽くし、必要最小限の採取へ進んだからでもある。


    📚 125年前に「本物」と証明し、今度は「いつ」を証明した

    フォン・ド・ゴームは、二度にわたって洞窟美術研究の常識を変えた。

    1901年、この洞窟は、

    旧石器時代の人々にも高度な絵を描く能力があった

    という事実を、学界へ認めさせた。

    2026年には、

    その絵がいつ描かれたかを、顔料そのものから測れる

    という新しい道を開いた。

    しかも新しい年代は、古い様式研究をすべて否定したわけではない。

    仮面の口は、従来想定されたマドレーヌ文化の範囲に入った。

    バイソンも旧石器時代であることが確認されたが、予想よりやや新しかった。

    様式研究が大まかな方向を示し、物理化学的測定が時間を絞る。

    両者を組み合わせることで、洞窟壁画の歴史は初めて具体的な人間の時間へ近づくのである。


    👁️ 左目を描いた者は、古い口を見ていたのか

    約1万6000年前。

    誰かが洞窟の奥へ入った。

    炎を掲げ、岩壁の膨らみに顔を見つける。

    木炭を壁へ当て、口を描く。

    黒い線によって、岩の中から何者かが現れる。

    その後、別の線が加わったかもしれない。

    人々は洞窟を去る。

    気候が温暖化する。

    氷河が縮む。

    草原へ森林が広がる。

    トナカイの群れが北へ去る。

    何千年もの時間が流れる。

    そして約9000年前。

    別の誰かが、同じ暗闇へ入った。

    その人物は、古い口を見たのだろうか。

    何者かの顔として理解したのだろうか。

    薄い左目を、木炭で描き直したのだろうか。

    それとも、私たちが古い口と新しい目を一つの顔だと思っているだけなのか。

    今のところ答えはない。

    左目の若い炭素が、後世の加筆なのか、汚染なのか、落書きなのかは決められない。

    しかし今回の測定によって、洞窟壁画を見る時間感覚は大きく変わった。

    一枚の絵を、一瞬の完成品として見るのではない。

    誰かが線を引く。

    別の誰かが見つめる。

    何世代も後の人が触れる。

    忘れられる。

    再発見される。

    そして現代の研究者が、ごく微量の炭から時間を読み取る。

    フォン・ド・ゴームの「仮面」に描かれていたのは、一人の顔ではないのかもしれない。

    旧石器時代から完新世へ、異なる人々が岩壁へ残した時間そのものだったのだ!( ・Д・)




    なにはともあれ……

    技術だけではなく考古学者自体も進歩しなきゃね!( ・Д・)








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    2026ねん 8がつ4にち(かよーび、晴れ)

    昨晩元気にたくさん飲んでしまた!( ・Д・)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



    arukemaya_y900

    ↑DNA分析の考古学への貢献もすごいよね~!( ・Д・)





    今回の考古学・歴史ニュースは

    ストーンヘンジ近郊の墳丘墓から約200年前に見つかり、“屈強な男性シャーマン兼金属職人”として展示されてきた約4000年前の人物をDNA分析したら、実際には背が高く頑健な女性で、金を加工していた可能性を示す道具まで副葬されていたぞ( ・Д・)」

    ってお話です(*・ω・)ノ




    📰 はじめに

    骨が大きい。

    立派な斧がある。

    金属加工用らしい道具もある。

    動物の骨で飾られた、奇妙な衣装まで着ていたらしい。

    だから、この人物は男だろう。

    それも、ただの男ではない。

    金属を自在に操り、共同体から畏れられた、屈強な男性職人。

    もしかすると、精霊と交信するシャーマンだったのではないか――。

    そんな物語が、約200年間語られてきた。

    博物館では髭を生やした男性として復元され、本や論文でも「彼」と呼ばれ続けた。

    ところが2026年、約4000年前の歯と足の骨からDNAを取り出したところ、結果はXX。

    従来「アプトン・ラベルのシャーマン」と呼ばれてきた人物は、生物学的には女性だったのである。

    しかも、単に墓から金属器が出ただけではない。

    石製の道具を顕微鏡で調べると、その表面から古代の金が検出された。

    彼女は完成した金製品を所有していただけではなく、薄い金板を叩き、磨き、木や骨、琥珀などの表面へ被せる、専門的な金細工師だった可能性が高い。

    つまり今回の発見は、

    「シャーマンだと思ったら女性だった」

    というだけのニュースではない。

    誰が高度な技術を担ったと考えるのか。

    墓に置かれた道具を、どのように人物の職業へ結び付けるのか。

    そして、考古学者自身の先入観が、どのように過去の人物像を作ってきたのか。

    200年前の発掘資料が、現代のDNA分析によって、私たちの考古学そのものを問い返してきたのである!( ・Д・)


    🏞️ 発見場所は、ストーンヘンジから西へ約16キロ

    墓が見つかったのは、イングランド南部ウィルトシャー州のアプトン・ラベル村周辺である。

    世界的に有名なストーンヘンジから、西へ約16キロメートルしか離れていない。

    現在は牧草地や農地が広がる穏やかな地域だが、約4000年前には、大小多数の墳丘墓が築かれた、死者と記憶の景観だった。

    ストーンヘンジの最初の土塁は約5000年前に造られ、現在知られる巨大な石組みの中心部分は紀元前2500年頃に建設された。

    今回の女性が生きた紀元前1850~1700年頃には、ストーンヘンジはすでに数百年の歴史を持つ古い聖地となり、その周囲には高位者を葬った円墳が次々と築かれていた。

    彼女がストーンヘンジの建設を直接指揮したわけではない。

    巨大石を運んだ世代よりも、かなり後の人物である。

    それでも、夏至や冬至の太陽と結び付けられた巨大記念物を見上げ、その周囲に祖先たちの墳墓が並ぶ世界で暮らしていた。

    彼女の墓もまた、その広大な祭祀景観を構成する一つだったのである。


    ⛰️ 高さ30センチの土山に、二人が葬られていた

    この墓は現在、研究上「アプトン・ラベルG2a」と呼ばれている。

    直径約10メートルの円形墳丘で、1801年に発掘された時点では、地表から約30センチメートルほどの高さが残っていた。

    墳丘の中央には、白亜質の地面を約1メートル掘り下げた墓坑があり、その底から仰向けに寝かされた主埋葬者が見つかった。

    さらにその上には、「座った姿勢」と記録された別の人物が葬られていた。

    現在では、身体を強く曲げた屈葬だった可能性があると考えられている。

    したがって、この墳丘には一人ではなく、少なくとも二人が異なる時期に埋葬されていた。

    今回DNAで女性と分かったのは、従来「シャーマン」と呼ばれてきた下層の主埋葬者である。

    上層の人物は長く「シャーマンの妻」などと説明されることもあったが、その根拠となる性別判定はなく、遺骨自体も後に失われてしまった。

    「男のシャーマンと、その妻」という説明は、二人の関係を証明した結果ではなく、最初から主埋葬者を男性と仮定して作られた物語だったのである。




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    ↑石斧~!( ・Д・)(「The Gurdian」の記事内画像より転載;credit: Wiltshire Museum



    ⛏️ 1801年、発掘者は骨を見て「屈強な男」と考えた

    発掘したのは、イギリス初期考古学を代表するウィリアム・カニントンだった。

    彼は遺骨の大きさを見て、「頑健な男性らしい」と判断した。

    しかし、骨盤や頭蓋骨を用いた現代的な人骨鑑定を行ったわけではない。

    2022年に発表された研究でも、主埋葬者を男性とする正式な骨学的鑑定は、過去に公表されていなかったことが指摘されている。

    当時の発掘記録には、現在なら必ず作成される詳細な平面図も残っていない。

    どの骨の何センチメートル横から、どの道具が出たのか。

    二人の埋葬のうち、どちらに属する副葬品なのか。

    一部は文章から判断できるが、すべてを確実に復元できるわけではない。

    200年前の発掘は、遺物を現代へ残してくれた。

    その一方で、位置関係という重要な情報の一部を永久に失わせてもいるのである。


    🦴 骨で飾られた衣装は、本当にシャーマンの服だったのか

    主埋葬者の周囲からは、40点を超える細長い骨製品が発見された。

    多くは足元に集まり、胸の周辺にも置かれていた。

    さらに、穴を開けたイノシシの牙が3点、石製品、斧、骨製・石製装身具なども伴っていた。

    骨製品は衣服へ縫い付けられ、歩くたびに揺れたり音を立てたりする、特別な衣装の一部だった可能性がある。

    1962年、考古学者スチュアート・ピゴットは、この骨飾りとイノシシの牙を、ヨーロッパの狩猟採集民墓から見つかる特殊な儀礼衣装と比較した。

    そして、埋葬者を高い威信を持つ「シャーマン」と解釈した。

    その後、この墓は近隣の別の豪華な墓と区別する意味もあり、「アプトン・ラベルのシャーマン」と呼ばれるようになった。

    ただし、シャーマンという肩書きが墓碑に書かれていたわけではない。

    彼女が精霊を呼び、病気を治療し、未来を占ったという直接証拠もない。

    奇妙な衣装を着ていた。

    一般的ではない副葬品があった。

    特別な人物として墳丘墓へ葬られた。

    そこから導かれた研究上の解釈である。

    したがって「アプトン・ラベルのシャーマン」は便利な通称ではあるが、確定した職名ではない。


    🪨 一見すると、ただの石ころだらけだった

    墓には、きらびやかな黄金製品が大量に並べられていたわけではない。

    見つかった道具の多くは、地味な石だった。

    表面を擦るために加工された丸石が9点。

    溝を持つ研磨具。

    磨製石斧。

    火打石製の斧。

    壊れた戦斧。

    銅合金製の錐。

    小さなカップ状に加工された火打石の塊。

    現在の目で見ると、用途の分からない石ころの寄せ集めにも見える。

    一部の石は、長らく「護符」「儀礼品」「顔料を作る道具」などと説明されてきた。

    特殊な衣装を着た人物の墓なのだから、用途不明の品も宗教的な道具だろう――。

    そんな連想も働いた。

    しかし、道具の表面を顕微鏡で見れば、目では見えない傷と付着物が残っていた。

    石は、単に墓へ置かれた象徴ではなかった。

    生前に繰り返し叩かれ、擦られ、金属と接触した作業道具だったのである。


    🔬 2022年、石の表面から古代の金が見つかった

    研究者たちは、道具表面の微細な傷を観察する使用痕分析と、走査型電子顕微鏡・エネルギー分散型X線分析を組み合わせた。

    その結果、5点の石製品から金が確認された。

    うち4点は、この再調査で初めて金の付着が判明したものである。

    金の元素組成も、イギリスの青銅器時代初期に使われた金製品と一致しており、博物館収蔵後に偶然付いた現代の汚染ではないと判断された。

    道具には、それぞれ異なる使用痕があった。

    一部は金属を叩くハンマーや金床として使われていた。

    溝のある研磨具は、細い木製品や金属製品の表面を整えるため、長い方向へ繰り返し擦られていた。

    別の石器には、赤褐色の鉱物を砕いた痕跡があった。

    カップ状の火打石には、顔料や樹脂のような物質を少量混ぜた可能性を示す摩耗と残留物があった。

    一個の万能工具があったのではない。

    叩く。

    延ばす。

    削る。

    磨く。

    顔料や接着剤を混ぜる。

    金属の品質を調べる。

    工程ごとに異なる道具を使い分ける、まとまった製作セットだったのである。





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    ↑奥に見えるおっさんが元々の復元?( ・Д・)(「The Gurdian」の記事内画像より転載;credit: Wiltshire Museum


    ✨ 彼女は金塊を鋳造するより、薄い金板を操った

    この道具セットは、大量の鉱石を溶かし、鋳型へ流して巨大な金製品を作るものではなかったらしい。

    研究者が想定しているのは、より細かく、繊細な作業である。

    まず金を薄い板状へ叩き延ばす。

    木、骨、琥珀、黒玉、銅などで作った芯材を整える。

    その表面へ薄い金板を密着させる。

    必要に応じて樹脂などを使い、表面を磨いて仕上げる。

    中身まで純金でなくても、外側は黄金に輝く装身具が完成する。

    薄い金板は、少量の金を大きな面積へ広げられる。

    一方で、破らず均等に延ばし、複雑な芯材へ被せるには、高度な技術が必要になる。

    強く叩きすぎれば裂ける。

    弱ければ十分に薄くならない。

    硬くなった金属を適切に処理しながら、細かな形へ沿わせなければならない。

    今回の女性は、単に火を起こして金属を溶かす人ではなく、黄金の表面を作る精密加工の専門家だった可能性が高い。


    ⚒️ 金属加工は、青銅器時代の最先端技術だった

    青銅器時代の人々にとって、金属加工は日常的に誰もが行える作業ではなかった。

    鉱石を熱する。

    石だった物から、赤く光る液体が現れる。

    それを型へ入れる。

    冷えれば、まったく異なる形と性質を持つ物体になる。

    さらに叩き、磨き、黄金を被せれば、地味な木や骨が光り輝く装身具へ変わる。

    原料の性質、温度、燃料、風、金属の硬さを理解していなければ、再現できない技術である。

    博物館関係者が金属加工を、当時の「宇宙科学」にたとえたのも、共同体の大部分が理解できない専門知識を操った点にある。

    それが宗教的権威と結び付いた可能性はある。

    物質を別の姿へ変える職人が、治療、祭祀、祖先との交信なども担ったかもしれない。

    しかし、

    金属加工が不思議に見えたはずだ。

    だから金属職人は必ずシャーマンだった。

    とまでは言えない。

    技術者と宗教者が同一人物だった可能性は残るが、職人としての証拠の方が、シャーマンとしての証拠より明瞭なのである。


    🧬 DNA分析の目的は、本来「性別確認」ではなかった

    今回のDNA分析は、最初から「本当に男なのか」と疑って始まったわけではない。

    フランシス・クリック研究所では、古代人の移動や祖先構成を調べる大規模研究が進められており、アプトン・ラベルの人物も、その一環として分析された。

    研究者たちは、彼女が約4000年前のイギリス人に一般的だったビーカー系の祖先を持つかどうかなどを調べようとしていた。

    ところが、ゲノム配列を確認すると、性染色体はXYではなくXXを示した。

    約200年間、男と考えられてきたため、研究チームにとっても予想外だった。

    そこで別の試料を使い、歯と足指の骨を含む複数の部位を改めて検査した。

    結果はいずれも女性を示し、分析対象となった主埋葬者の遺骨へ、別人の骨が混ざっている証拠も確認されなかった。

    つまり、最初の一回だけ偶然読み違えたのではない。

    複数の身体部位から同じ結果が得られたことで、この人物が生物学的女性だった可能性は極めて高くなったのである。


    ⚠️ 詳細なDNA論文は、まだ公表されていない

    ただし、ここは少し注意が必要である。

    今回の性別判定は、ウィルトシャー博物館の発表と、2026年7月に開幕したフランシス・クリック研究所の展覧会を通じて公表された。

    DNAの抽出法、配列数、損傷パターン、汚染率などを詳しく示した査読論文は、2026年8月4日現在、まだ公開されていない。

    祖先構成を含む分析の全体像も、今後発表される予定とされている。

    したがって「女性だった」という結論には強い根拠があるものの、研究者が独立して詳細を検証できる完全なデータは、まだ出そろっていない。

    これは発見が怪しいという意味ではない。

    ニュース発表と科学論文では、公開される情報量と検証可能性が異なるということである。

    今後の正式論文によって、DNAの保存状態や祖先構成も、より詳しく確認できるだろう。





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    ↑確かにシャーマンっぽい感じがするね!( ・Д・)(「CNN.co.jp」の記事内画像より転載;credit: Martin Stacey/Easy Animal Studio


    👩 身長165センチ、45歳前後の頑健な女性だった

    骨格の再検討によると、女性の身長は約165センチメートル。

    当時の女性としては背が高く、身体も頑健だった。

    死亡時の年齢は、45歳前後と推定されている。

    右手首には関節炎があったが、左手首には同様の変化が目立たなかった。

    片側だけの関節炎は、右手を使って同じ動作を長期間繰り返した結果かもしれない。

    墓に金属加工道具があり、彼女の右手首に負荷の痕跡があるなら、

    右手でハンマーを握り続けた。

    研磨具を何度も往復させた。

    細かな金板を加工していた。

    という姿を想像できる。

    しかし関節炎だけで職業を確定することはできない。

    農作業や家事、負傷など、別の活動でも手首は傷む。

    彼女が金細工師だったという解釈は、関節炎単独ではなく、道具の使用痕、金の残留物、墓の構成を合わせた時に強くなるのである。


    🪦 墓の道具は、本当にすべて彼女の物だったのか

    ここでも慎重さが必要になる。

    この墳丘には二人が葬られていた。

    さらに1801年の発掘では、詳細な遺物配置図が作られていない。

    文章記録から、骨飾りや多くの石器が下層の主埋葬者と関係することは分かる。

    しかし一部の黒玉製ビーズや腰飾りなどは、二人のどちらに属したのか確定できない。

    また、墓へ職人の道具が置かれていたからといって、必ず本人がすべてを使ったとは限らない。

    家族や弟子が、職能を象徴する道具を選んだ可能性もある。

    共同体が所有する道具を、特別な死者へ捧げたことも考えられる。

    けれども、金属加工の一連の工程に対応する道具がまとまり、身体にも反復作業と整合する痕跡がある。

    現段階では、彼女自身が熟練した金細工師だったという説明が、最も自然な仮説の一つとなっている。


    🧑‍🦱 なぜ髭を生やした男性として復元されたのか

    この人物の性別を決めた直接の根拠は、長く「骨が大きい」という印象だけだった。

    そこへ、

    戦斧がある。

    金属加工道具がある。

    地位が高い。

    という情報が加わった。

    すると、人物像は自然に男性へ傾いていった。

    力仕事をするのは男。

    金属を扱うのは男。

    共同体の宗教指導者も男。

    立派な墳丘へ葬られる中心人物も男。

    一つひとつは証明されていないのに、互いを補強し合い、髭を生やした男性シャーマン像が完成したのである。

    考古学者が過去を捏造したわけではない。

    限られた証拠から、当時もっとも妥当だと思われた説明を選んだ。

    しかし、その「妥当さ」の中に、研究者が暮らす社会の性別役割が入り込んでいた。

    副葬品から性別を推測し、その推測した性別を使って副葬品の意味を説明する。

    そうすると循環論法が生まれる。

    武器があるから男性。

    男性だから戦士。

    道具があるから男性。

    男性だから職人。

    今回のDNAは、その循環を外側から切断したのである。


    🧬 生物学的性別が分かっても、社会的な「女性像」は分からない

    DNAが示したのは、彼女がXX染色体を持つ生物学的女性だったということである。

    しかし、青銅器時代の人々が彼女をどのような社会的カテゴリーで認識していたのかまでは分からない。

    現代の「女性」「男性」という役割分担が、そのまま約4000年前にも存在したとは限らない。

    彼女の社会では、金属加工が女性の仕事だったのかもしれない。

    特定の家系が性別を問わず技術を継承したのかもしれない。

    金細工師だけが、日常的な男女区分とは異なる特別な位置を占めた可能性もある。

    DNAは身体に関する重要な情報を与える。

    しかし、職業、人格、信仰、自己認識まで自動的に解読する装置ではない。

    「男性ではなかった」という答えは得られた。

    それでも「彼女は社会の中で何者だったのか」という問いは、まだ墓と道具から考え続けなければならない。

    🏺 彼女が生きたのは、人口が大きく入れ替わった後の英国

    約4000年前のイギリス社会は、それ以前から変わらず続いてきたわけではない。

    紀元前2400年頃、ベル形の土器や金属器、個人墓などを伴うビーカー文化が大陸側から広がった。

    古代DNA研究によると、それに伴う人口移動によって、数百年のうちにイギリスの遺伝的構成のおよそ9割が置き換わったと推定されている。

    今回の女性にも、当時のイギリスで一般的だったビーカー系の祖先が確認されたと暫定的に報告されている。

    彼女は、ストーンヘンジを最初に築いた新石器時代人とまったく同じ集団ではない。

    大陸ヨーロッパから移住してきた人々の子孫が、古い祭祀景観を引き継ぎ、その周囲に新たな墳丘墓を築いていた時代の人物だった。

    古い石の聖地。

    新しく移住してきた人々。

    新技術である青銅器。

    遠隔地から運ばれる金、銅、石材。

    彼女の金細工は、人口と技術と信仰が大きく組み替わる時代の中で行われていたのである。


    🌍 同じ頃、世界では何が起きていたのか

    彼女が生きた紀元前1850~1700年頃、エジプトでは中王国末期から第2中間期へ向かい、メソポタミアでは古バビロニア王国とハンムラビ王の時代が進んでいた。

    クレタ島では宮殿を中心とするミノア文明が発展し、インダス文明の大都市は衰退後の変化を迎えていた。

    日本列島は、まだ縄文時代である。

    金属器がほとんど使われていない列島の反対側で、この女性は薄い金板を叩き、異なる素材の表面へ被せていた。

    「青銅器時代」と一言で呼んでも、世界中が同じ生活をしていたわけではない。

    文字を使う王国もあれば、文字を持たず、巨大石造物と墳丘墓によって社会的記憶を表現する地域もあった。

    アプトン・ラベルの女性は、王名も職名も書き残さなかった。

    それでも手元の道具が、彼女の高度な知識を記録していたのである。


    ✨ 金細工師は、金の首飾りを持っていなかった

    今回の墓のおもしろさは、完成した豪華な黄金製品よりも、それを作る地味な道具が多数残されていた点にある。

    金製品を持つ者の墓は、富裕層の墓として理解しやすい。

    しかし金の付着した石器があれば、

    誰が黄金を生産したのか。

    どのような工程で作ったのか。

    職人がどのような道具を持っていたのか。

    という、富を生み出す側の社会が見えてくる。

    黄金の装身具は、完成品として美しい。

    けれども、その背後には、何度も石を振り下ろし、表面を磨き、失敗すれば金板を作り直す日々の労働があった。

    彼女の右手首に残った関節炎は、その華やかな黄金の反対側にある、身体的な負担を物語っているのかもしれない。


    👑 女性が高位者だったことは、本当に珍しいのか

    今回の発見だけで、青銅器時代のイギリスが男女平等社会だったと結論付けることはできない。

    女性一人が高い地位にいたことと、すべての女性が政治的・経済的権限を持ったことは別である。

    彼女が例外的だったからこそ、特別な墳丘へ葬られた可能性もある。

    それでも、

    高度な金属加工は男性だけの仕事だった。

    豪華な道具と儀礼衣装を持つ中心人物は男性だった。

    という一般化は、もはや維持できない。

    少なくとも約4000年前のウィルトシャーには、熟練した金細工と高い社会的威信を結び付けられた女性が存在したのである。


    🗡️ DNAによって「男性」から女性へ変わった死者たち

    同じような訂正は、ほかの地域でも起きている。

    スウェーデンのビルカでは、武器や軍事用の盤上駒を伴うヴァイキング時代の高位墓が、長く男性戦士の墓と考えられていた。

    しかし人骨鑑定とDNA分析によって、埋葬者は生物学的女性だったことが確認された。

    スペイン南部の銅器時代墓でも、象牙、岩石水晶、琥珀などを伴う最高位者が男性と考えられていた。

    ところが歯のタンパク質分析によって女性と判明し、現在は「象牙の女性」と呼ばれている。

    これは「昔の女性は実はすべて戦士や支配者だった」という話ではない。

    墓の豪華さや武器、専門工具を見た瞬間、研究者が男性を初期設定にしてしまう傾向があったということである。

    科学分析は過去を現代的な理想へ作り替えるためではなく、そうした初期設定を検証可能にする役割を持つ。


    📚 200年間、解釈は何度も変わってきた

    この墓の研究史を並べると、考古学の変化がよく見える。

    1801年。

    骨の大きさから、頑健な男性と判断された。

    1962年。

    骨とイノシシ牙の衣装から、高位のシャーマンと解釈された。

    1970年代。

    石製品が大陸ヨーロッパの金属加工道具と比較され、金属職人説が強まった。

    2000年頃。

    一つの石から金の痕跡が科学的に確認された。

    2022年。

    使用痕と電子顕微鏡分析によって、5点の道具から古代の金が確認され、一連の金細工道具だと判明した。

    2026年。

    DNA分析により、主埋葬者が女性だったことが示された。

    同じ墓。

    同じ骨。

    同じ石器。

    資料そのものは、ほとんど増えていない。

    しかし、問いと分析技術が変わるたび、墓の意味は変わった。

    新発見とは、必ずしも新しい遺跡を掘り当てることではない。

    博物館の収蔵庫で200年間保管されてきた石を、別の顕微鏡で見る。

    一本の歯からDNAを取り出す。

    それだけで、過去の人物は新しい姿を見せ始めるのである。


    🔮 結局、彼女は本当にシャーマンだったのか

    現在、かなり確からしいのは次の部分である。

    約4000年前の女性だった。

    背が高く、頑健な身体を持っていた。

    特別な墳丘墓へ葬られた。

    金属加工に使われた一連の道具が伴っていた。

    道具には古代の金と使用痕が残っていた。

    右手首には、反復作業とも整合する関節炎があった。

    彼女が高い技術を持つ金細工師だった可能性は、非常に高い。

    一方、

    精霊と交信した。

    宗教儀礼を主導した。

    治療や占いを行った。

    という直接証拠はない。

    骨飾りの衣装と特殊な副葬品は、儀礼的地位を示すかもしれない。

    金属変成の技術が、宗教的権威と結び付いていた可能性もある。

    それでも「シャーマン」は、今なお魅力的な仮説であって、DNAが証明した肩書きではない。

    今回確定度が上がったのは、

    男性シャーマンではなく、女性だったこと。

    そして、

    少なくとも金を扱った専門職人だった可能性が高いこと。

    この二点なのである。


    ⚒️ 200年間間違っていたのは、骨ではなく私たちだった

    約4000年前。

    一人の女性が石を握った。

    薄い金板を叩く。

    何度も叩く。

    向きを変える。

    さらに薄くする。

    芯となる木や骨を削り、金を被せ、表面を磨く。

    完成した品は、太陽の光を受けて輝いた。

    その黄金を身に着けたのは、地域の指導者だったかもしれない。

    祭祀を行う者だったかもしれない。

    彼女自身だった可能性もある。

    やがて女性は死んだ。

    人々は彼女を、普通の墓へは入れなかった。

    深い墓坑を掘る。

    身体を仰向けに寝かせる。

    骨で飾られた衣装を整える。

    金を叩いた石。

    表面を磨いた道具。

    品質を調べた石。

    斧。

    錐。

    顔料や樹脂を混ぜた小さな容器。

    彼女の仕事を構成した品々を、死者の周囲へ置いた。

    そして、その上へ土を積んだ。

    約3600年後。

    発掘者は彼女の骨を見て、男だと思った。

    さらに160年後。

    研究者は、彼女を男性シャーマンと呼んだ。

    博物館は髭を生やした姿を作った。

    しかし骨は、一度も男性だったことはない。

    金の付いた道具も、一度も「男性用」と名乗ってはいない。

    そう読んだのは、現代の私たちだった。

    今回DNAが変えたのは、彼女の性別ではない。

    彼女は4000年前から、ずっと女性だった。

    変わったのは、私たちが墓を見るために使っていた物語の方である。

    アプトン・ラベルの女性が地中から持ち帰った最大の黄金は、金の首飾りではないのかもしれない。

    力のある人物は男だったはずだ。高度な技術者は男だったはずだ――という、200年間磨かれ続けた思い込みへ入った、小さな亀裂。

    その亀裂から今、約4000年前に黄金を打った女性の姿が、ようやく光を放ち始めているのだ!( ・Д・)




    なにはともあれ……

    金細工を作れど副葬はされぬ、が、身体が大きいなら幼少時からいいものは食べれてた?( ・Д・)








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    2026ねん 8がつ3にち(げつよーび、くもり)

    暑さに負けていたら7月おわた!( ・Д・)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



    arukemaya_y892

    ↑( ・Д・)





    今回の考古学・歴史ニュースは

    アマゾン南西部の密林を航空機からレーザー測量したら、樹木の下に隠れていた432カ所もの土塁が浮かび上がり、そのうち396カ所が未記録だったうえ、紀元前600年頃から約15世紀にわたって続いた巨大な社会圏に、最盛期には125万~300万人が暮らしていた可能性まで出てきたぞ( ・Д・)」

    ってお話です(*・ω・)ノ




    📰 はじめに


    上空からアマゾンを見下ろす。

    どこまでも緑。

    木。

    木。

    木。

    大河と支流の周囲を、巨大な森林が覆っている。

    地上へ降りれば、視界はさらに狭くなる。

    数十メートル先に大きな溝があっても分からない。

    人間が何十年もかけて築いた土塁があっても、その上に木が生えれば、ただの森の起伏にしか見えない。

    石造神殿なら、木の根に覆われても壁が残る。

    しかし、アマゾンの人々が築いた記念物の多くは、土でできていた。


    穴を掘る。

    出た土を積む。

    円を描く。

    四角形を描く。

    何本もの直線道路を伸ばす。

    そして人々がいなくなれば、森が戻ってくる。

    地上から巨大文明の姿が消えたのではない。

    森の下に、そのまま隠されてしまったのである。

    今回、航空機からレーザーを照射して森林の地表面を測ったところ、確認された土塁は432カ所。

    過去に知られていたのは、そのうち36カ所だけだった。

    残る396カ所は、樹冠の下に隠れていた未記録の構造物である。

    しかも研究者たちは、調査地域全体には2万4000~3万カ所もの土塁が存在し、紀元後100~300年頃の最盛期には、125万~300万人が暮らしていた可能性があると推定した。

    これが正しければ、アマゾンは、

    「少数の狩猟採集民が、手付かずの自然の中で静かに暮らした場所」

    ではない。

    巨大な公共空間を造り、道路を伸ばし、農作物と有用樹木を育て、森の構成まで変えた人々が暮らす、もう一つの人間世界だったのである!( ・Д・)





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    ↑アマゾンらしい風景、アナコンダいそう!( ・Д・)(「Expedia」のページ内写真より転載)


    ✈️ 飛行距離4430キロメートルのレーザー調査

    今回の研究は、フィンランド、ブラジルなどの研究者からなる国際チームによって行われ、2026年7月29日付で学術誌『Nature』に発表された。

    調査対象は、ブラジル西部のアクレ州とアマゾナス州を中心とするアマゾン南西部である。

    航空レーザー測量は2024年6月6日から7月1日にかけて実施された。

    航空機は合計4430キロメートルを飛行し、約4497平方キロメートルを測量した。

    東京23区のおよそ7倍に当たる広大な面積である。

    ただし、地域全体を隙間なく塗り潰すように飛んだわけではない。

    航空機は幅約1キロメートルの帯を測りながら、約10キロメートル間隔で長い直線状の調査区を設定した。

    森全体の一部を、規則正しく切り取って標本調査する方法である。

    特に重点調査された区域では、約445キロメートルの平行線を6本設定し、リオ・ブランコ周辺からラブレア方面へ向けて測量した。

    わずかな帯状調査から、地域全体の遺跡密度を推定しようとしたのである。


    🔦 LiDARは、木々を透視しているわけではない

    使われた技術はLiDAR――Light Detection and Ranging、日本語では「光検出と測距」などと呼ばれる。

    航空機から地表へ向けて、大量のレーザー光を発射する。

    光は葉、枝、幹、地面などへ当たり、反射して戻ってくる。

    その往復時間を測れば、レーザーが当たった地点までの距離を計算できる。

    森林では、ほとんどの光が葉や枝に遮られる。

    それでも大量のレーザーを照射すれば、ごく一部は葉と葉の隙間を通り、地面まで届く。

    研究者は樹木に当たった点を取り除き、地表面に到達した点だけを集める。

    すると森林を消したような「デジタル地形モデル」を作れるのである。

    もちろん本当に森を透視しているわけではない。

    樹冠が極端に密な場所では、地面までレーザーが届かない。

    今回の調査でも、場所によって地表の約4~5割が十分に測れない区域があった。

    つまりLiDARを使っても、すべての土塁が見つかったわけではない。


    ⭕ 森の下から現れたのは、円と四角と長い道路

    発見された構造物は、単なる土の盛り上がりではない。

    巨大な円形。

    正方形。

    長方形。

    多角形。

    二重、三重に囲まれた区画。

    そこから外部へ伸びる、真っすぐな道路。

    深い溝の外側には、掘り出した土を積んだ土塁が造られていた。

    溝は幅9~13メートルに達し、発掘された例では地表から最大5メートル近く掘り下げられていた。

    一般的な施設は0.35~14ヘクタールほどだが、最大級の土塁は約50ヘクタールにもなる。

    東京ドームおよそ10個分である。

    土を掘り、何十万立方メートルもの土砂を運び、正確な幾何学形へ積み上げる。

    重機はない。

    シャベルも鉄製ではない。

    人力である。

    しかも一度造って終わりではない。

    溝が崩れれば修復する。

    道路へ木が生えれば取り除く。

    広場を使い続けるためには、長期的な維持管理が必要になる。

    それには大勢の労働力、作業の分担、測量知識、指揮する仕組みがなければならない。





    arukemaya_y893

    ↑場所はこんなとこ!( ・Д・)(Parssinen et al. 2026, Fig.1より転載)


    🏛️ ただし、432カ所すべてが「都市」ではない

    ここで注意したい。

    報道だけを読むと、森の下から432都市が発見されたようにも見える。

    だが、研究チームは多くの幾何学土塁を、常時人々が住む集落ではなく、公共的・儀礼的・政治的な集会センターだった可能性が高いと考えている。

    内部には、大人口が長期間暮らしたことを示す住居や生活廃棄物が少ない例がある。

    防御施設として造られたとも限らない。

    周辺の分散した集落から人々が集まり、祭祀、政治的決定、宴会、踊り、音楽、競技、贈与などを行った場所だった可能性がある。

    現代にたとえるなら、すべてが住宅街ではない。

    神社。

    広場。

    議会。

    市場。

    競技場。

    祭り会場。

    これらの機能を複合した巨大な公共空間だったのかもしれない。

    つまり、

    土塁の数=都市の数

    ではない。

    しかし、何百もの共同体が、共通する形の公共空間を築き、道路と儀礼によって結ばれていたとすれば、それは十分に高度な地域社会なのである。


    🌿 新しく名付けられた「アキリー文明」

    研究チームは、この幾何学土塁を共有した広域社会を「Aquiry civilization」、日本語ではアキリー文明などと呼んでいる。

    Aquiryは、現在のアクレ川に使われていた先住民系の名称に由来する。

    ただし、紀元前後の人々が自分たちを「アキリー人」と呼んでいたことが分かったわけではない。

    彼ら自身が残した文字記録はなく、どの言語を話していたかも分からない。

    一つの王国や帝国だった証拠もない。

    論文でも、アキリーは一枚岩の国家ではなく、異なる言語・文化集団を含む「多文化的な複合社会」として扱われている。

    共通していたのは、政治組織の名称ではなく、景観の造り方や儀礼の世界観だった可能性がある。

    円や四角の広場を造る。

    直線道路を伸ばす。

    一定の時期に人々が集まる。

    踊る。

    食べる。

    競う。

    贈り物を交換する。

    そうした共通の「社会宇宙観」が、18万平方キロメートルを超える地域へ広がっていたというのである。

    現在のシリア一国に近い広さであり、日本の本州より一回り小さい程度の巨大な文化圏だった。


    ⏳ 始まりは紀元前600年頃

    放射性炭素年代を統計的に整理した結果、アキリー系の幾何学土塁は、紀元前600年頃から紀元後850年頃まで造られたと推定された。

    1500年近く続く長い伝統である。

    一つの王朝が1500年間続いたという意味ではない。

    世代が替わり、集団が移動し、土器や建築様式が変わりながらも、幾何学的な公共空間を造る文化が受け継がれたと考えられている。

    紀元前600年頃といえば、地中海ではギリシアの都市国家が発展し、中国では春秋時代、日本列島では弥生時代が進行していた頃である。

    紀元後100~300年頃の最盛期は、ローマ帝国が最も広大になり、マヤ地域で巨大都市が成長を始め、日本では弥生時代後半から古墳時代へ向かう時期に当たる。

    世界各地で国家、都市、階層社会が発展していた頃、アマゾンでも別の形をした大規模社会が成立していたのである。





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    ↑よく見通せるもんだよね~!( ・Д・)(Parssinen et al. 2026, Fig.2より転載)


    📊 432カ所から、なぜ3万カ所へ増えるのか

    研究者が直接確認したのは432カ所である。

    それなのに、地域全体で2万4000~3万カ所という推定は、どこから出てきたのだろう。

    鍵となったのは、衛星画像とLiDARの差である。

    森林が伐採された区域では、以前からGoogle Earthなどの衛星画像で土塁を探せた。

    ところが同じ場所をLiDARで再調査すると、衛星画像で30カ所しか見つからなかった区域から、156カ所が確認された。

    約5倍である。

    浅い土塁や、溝を伴わない低い囲いは、草地や衛星画像では判別しにくかったのだ。

    そこで研究チームは、土塁密度の高い中核地域と、密度の低い周辺地域を分けた。

    中核部の標本調査結果を同程度の地域へ当てはめ、周辺部にはより低い密度を設定した。

    一つの計算法では2万3760カ所。

    衛星画像との比較や、レーザーが地面へ届かなかった割合まで考慮すると、約2万6400~2万9500カ所となった。

    これを丸めて、2万4000~3万カ所としている。

    したがって、3万カ所がすべて発見済みという話ではない。

    432カ所の実測値から、未調査地域へ統計的に外挿した推定値である。

    今後、別の地域をLiDARで測れば、数字は増える可能性も、減る可能性もある。


    👥 300万人という数字も、遺骨を数えたわけではない

    人口125万~300万人という推定にも、多くの仮定が含まれている。

    研究チームはまず、全土塁のうちアキリー期に属するものを約1万6660カ所と推定した。

    ただし1500年間に造られた土塁が、全部同時に使われていたわけではない。

    年代測定結果から、紀元後100~300年頃には、およそ25~60%の施設が同時に機能していた可能性があるとした。

    つまり約4165~1万カ所である。

    さらに、平均的な土塁一カ所を建設・維持する共同体を約300人と仮定した。

    すると、

    4165カ所×300人=約125万人。

    1万カ所×300人=約300万人。

    という計算になる。

    一共同体300人という数字は、必要労働力、後世の環状集落、複数家族が暮らす長大住居、現代先住民の大規模儀礼などを比較して出された。

    しかし、すべての土塁に必ず別々の300人がいたとは限らない。

    同じ共同体が複数施設を使ったかもしれない。

    一カ所へ周辺の数集落が集まった可能性もある。

    したがって300万人は、国勢調査のような確定値ではない。

    今回の研究で最も議論を呼ぶ部分は、土塁の発見そのものより、この人口推定かもしれない。

    それでも数万人程度と考えられていた地域に、少なくとも数十万、あるいは100万人を超える人口が存在した可能性が出たことは、非常に大きい。


    🏘️ アマゾンの都市は、石造都市とは姿が違った

    マヤ文明やインカ帝国の都市を思い浮かべると、神殿、宮殿、石碑、城壁を想像しやすい。

    アキリー地域には、巨大な石造建築がない。

    そもそも利用しやすい石材が乏しい。

    代わりに、人々は土、木、植物を使った。

    広場を掘り囲む。

    土を積む。

    道路を伸ばす。

    周囲へ家屋を分散させる。

    森と農園の間に居住域を造る。

    一カ所へ人口を密集させた石造都市とは異なり、広い景観の中に小さな集落と公共施設が網状に広がっていた。

    こうした社会を説明するため、「低密度都市」「森林都市」「庭園都市」といった言葉が使われるようになっている。

    研究者の間でも、これを本当に「都市」と呼ぶべきかについて合意はない。

    だが都市を、

    高層建築が密集した場所

    とだけ定義する必要はない。

    道路網。

    集落階層。

    公共空間。

    大量動員。

    政治的・宗教的中心。

    地域を結び付ける共通様式。

    これらが存在するなら、石がなくても都市的な社会は成立し得る。



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    ↑すごい密集してるね!( ・Д・)(Parssinen et al. 2026, Fig.3より転載)


    🌽 森の中で、何を食べていたのか

    かつてアマゾンで大規模社会が成立しにくいと考えられた最大の理由は、土壌だった。

    熱帯雨林は緑が豊かなので、土も肥沃に見える。

    ところが大量の雨によって栄養分が流され、多くの地域では農耕を長期間続けにくい。

    森林を切り開いても、数年で収穫量が落ちる。

    だから大人口を養う集約農業は難しいという議論である。

    しかしアマゾンの土壌は一様ではない。

    今回の調査地域には、比較的栄養分に富む場所も存在した。

    さらに住民は、トウモロコシ、カボチャ、キャッサバ、サツマイモ、豆、トウガラシ、落花生など、性質の異なる作物を組み合わせていたと考えられる。

    主食一種類を巨大畑で生産するだけではない。

    畑。

    果樹。

    ヤシ。

    木の実。

    狩猟。

    漁労。

    採集。

    多様な資源を、季節と場所に応じて組み合わせる。

    アマゾンの大規模社会は、メソポタミアの麦畑や東アジアの水田とは異なる食料生産体系によって支えられていたのである。


    🔥 森を焼き尽くしたのではなく、選びながら作り変えた

    研究者たちは、アキリー地域の住民が、竹の多い森林を周期的に焼き、耕作地や公共空間を維持した可能性を指摘している。

    しかし現代の大規模伐採のように、地域全体を一度に裸地へ変えたわけではない。

    同じ場所を選択的に焼く。

    畑を作る。

    休ませる。

    有用な樹木を残す。

    食用になる木を植える。

    森と畑を明瞭に分離するのではなく、食べられる森そのものを育てたのである。

    ブラジルナッツ。

    モモヤシ。

    バカバヤシ。

    ウリクリヤシ。

    現在も土塁周辺に多く見られる有用樹木の中には、古代の人間活動によって分布が広げられたものがある可能性が高い。

    森は「人間が触れていないから自然」なのではない。

    何世代もの人々が、特定の植物を選び、育て、残した結果として形成された部分もある。


    ⚫ 人間が作った黒い土「テラ・プレタ」

    アマゾン各地には、周囲の赤黄色い土とは異なる、黒く肥沃な土壌が存在する。

    テラ・プレタ・デ・インディオ――「インディオの黒い土」と呼ばれる土である。

    炭。

    灰。

    食物残滓。

    魚骨。

    動物骨。

    土器片。

    有機廃棄物。

    人々が同じ場所で長期間暮らし、火を使い、ごみを捨て、土を管理したことで形成された人工土壌と考えられている。

    テラ・プレタが広がる場所は、古い大規模集落の位置を示す重要な手掛かりとなる。

    つまり古代アマゾンの人々は、痩せた土壌へただ従っていたのではない。

    人間活動によって、より肥沃な土地を作り出していたのである。

    ただしアキリーのすべての土塁が、巨大なテラ・プレタ集落だったわけではない。

    公共空間と居住地は離れていた可能性がある。

    土塁だけを数えて人口を求めることが難しい理由の一つでもある。



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    ↑開けてるとこだと痕跡がしっかり残ってるものだね!( ・Д・)(「LiveScience」の記事内画像より転載;credit: Martti Pärssinen


    🌱 アマゾンの人間史は、文明よりはるかに古い

    では「古代アマゾン文明」は、いつ頃から存在したのだろうか。

    ここでは、人間の居住、農耕、複雑社会を分けなければならない。

    アマゾンに人間が暮らし始めたのは、少なくとも1万年以上前である。

    ブラジルのペドラ・ピンターダ洞窟では、約1万1000~1万3000年前の人間活動が確認されている。

    アマゾン南西部では、約1万850年前から人々が人工的な「森林島」を作り始め、約1万年前にはカボチャやキャッサバに関係する植物を栽培していた証拠がある。

    同地域は、世界でも早い段階から植物栽培が始まった地域の一つと評価されている。

    アマゾン河口域では、約8000~7000年前の土器も発見されている。

    これは南北アメリカでも最古級の土器である。

    ただし、古い居住や土器があることと、「文明」があることは同じではない。

    巨大な公共建築、地域統合、人口集中、階層化などが明瞭になるのは、地域によって異なるものの、おおむね紀元前1千年紀以降である。

    今回のアキリー土塁は、その開始を紀元前600年頃までさかのぼらせている。


    📜 1542年、最初のヨーロッパ人は「町」を見た

    大規模な古代アマゾン社会については、実は考古学より先に記録があった。

    1541~1542年、フランシスコ・デ・オレリャーナの遠征隊がアマゾン川を下った。

    同行した修道士ガスパル・デ・カルバハルは、川岸に大きな集落が連なり、道路が内陸へ伸び、豊富な食料を持つ人々が暮らしていると記録した。

    ところが、その後に訪れたヨーロッパ人が目にしたのは、人口の少ない集落と森林だった。

    カルバハルは誇張した。

    空腹と恐怖で幻を見た。

    征服の価値を高めるため、都市を作り上げた。

    長いあいだ、そのように扱われたのである。

    だが最初の遠征と後続の調査の間には、感染症が広がる時間があった。

    天然痘、麻疹、インフルエンザなどの旧世界由来感染症は、直接ヨーロッパ人と会わなかった地域へも、交易網を通じて先行した可能性がある。

    大人口を支えた社会が短期間で崩れ、畑と道路が森に戻ったなら、後から来た人々が「何もない森林」を見たことにも説明がつく。

    現在ではカルバハルの数字をそのまま信じる必要はないが、彼が大規模集落を見た可能性は、以前よりはるかに真剣に検討されている。


    🏺 19世紀から、豪華な土器は知られていた

    アマゾンに複雑な社会が存在した証拠は、完全に20世紀末まで知られていなかったわけではない。

    アマゾン川河口のマラジョ島では、巨大な盛土、墓、精巧な彩文土器、人物像などが19世紀から注目されていた。

    サンタレン周辺からも、複雑な造形を持つ土器や石製品が見つかっていた。

    問題は、

    「これほど高度な文化が、アマゾン内部で独自に発達できたのか」

    という解釈だった。

    遺物が高度であることは認めても、

    アンデスなど外部から移住した集団が、一時的に文化を持ち込んだだけではないか。

    熱帯雨林では長期間維持できず、すぐ衰退したのではないか。

    という説明が有力だった。





    arukemaya_y898

    ↑これアマゾンツアーらしいけれど、やぱティカルの中とそんなに変わらんね!( ・Д・)(「アンディーナトラベル」のページ写真より転載)


    🌧️ 「熱帯雨林は文明を育てられない」という強力な理論

    20世紀のアマゾン考古学へ大きな影響を与えたのが、アメリカの考古学者ベティ・メガーズである。

    1954年、彼女は環境が文化発展の上限を規定するという論文を発表した。

    アマゾンの痩せた土壌、豪雨、低い農業生産力では、大人口、高度な階層制、国家のような複雑社会を長期的に支えられないと考えた。

    このモデルでは、アマゾンの先住民社会は小規模で移動性が高く、余剰生産を蓄積できない。

    マラジョ島に見られる高度な文化も、外部から来た人々が環境の制約によって次第に単純化したものと説明された。

    この見方は、20世紀後半の教科書や一般認識へ強く影響した。

    「アマゾンは巨大文明の空白地帯」

    というイメージには、森林だけでなく、学術理論による覆いもかかっていたのである。


    🔄 1970年代から、反論はすでに始まっていた

    一方で、すべての研究者が環境制約論へ従っていたわけではない。

    ドナルド・ラスラップは1970年の研究で、アマゾンの大河川沿いには人口の多い農耕社会が成立し、土器文化や言語集団が河川交通を通じて広がったと論じた。

    ウィリアム・デネヴァンやクラーク・エリクソンらも、盛土畑、堤道、運河、養魚施設などを調べ、先住民が環境へ受動的に適応しただけではなく、巨大な景観を人工的に改変したと主張した。

    つまり「古代アマゾンに複雑社会があった」という発想は、突然2026年に生まれたわけではない。

    数十年にわたる論争の片側に、すでに存在していたのである。


    👩‍🔬 1980~90年代、アンナ・ルーズベルトが流れを変えた

    大きな転換をもたらした研究者の一人が、アンナ・カーテニアス・ルーズベルトである。

    彼女はマラジョ島の盛土遺跡を調査し、大規模で階層化された社会がアマゾン内部で発展した可能性を論じた。

    1991年には『Moundbuilders of the Amazon』を刊行し、マラジョ社会を単純な外来文化の衰退形として扱う見方へ反論した。

    同じ時期、タペリーニャで約8000~7000年前の土器を報告し、1996年にはペドラ・ピンターダ洞窟の古い居住を『Science』で発表した。

    アマゾンの人間史は浅い。

    土器や複雑社会は外から来た。

    という前提が、次々に崩れていったのである。

    ただし彼女の解釈も、すぐ全員に受け入れられたわけではない。

    大規模遺跡は、異なる時期の小集落が同じ場所へ重なっただけではないか。

    人口推定が大きすぎるのではないか。

    環境への影響は局地的だったのではないか。

    1990年代から2000年代初頭にかけても、論争は激しく続いていた。


    🛣️ 2003年、森の中から道路網が現れた

    学界全体の空気を変えた大きな節目の一つが、2003年だった。

    マイケル・ヘッケンバーガーらは、ブラジルの上シングー地方で、巨大な環濠集落、広場、道路、橋、管理された森林景観を報告した。

    論文タイトルは、

    「1492年のアマゾン――原生林か、文化的な公園景観か?」

    である。

    発見されたのは、一カ所の「失われた都市」ではなかった。

    複数の大集落が道路で結ばれ、一定の規則に従って配置された地域ネットワークだった。

    研究には現地のクイクロの人々も共同研究者として参加し、口承史と考古資料が組み合わされた。

    さらに2008年、同チームは『Science』で、上シングー社会を「先コロンブス期の都市的社会」として報告した。

    集落群は独立した小政治体でありながら、共通の地域システムを形成していた。

    この頃から、「石造都市はないが、アマゾン独自の都市性があった」という議論が、国際的な考古学の中心へ入り始める。


    🛰️ 2009年、アクレの幾何学土塁が「複雑社会」と呼ばれた

    今回のアキリー研究へ直接つながる土塁は、アクレ州で1977年に最初の例が確認された。

    しかし密林の中では全体像が見えず、当初は孤立した構造物と考えられた。

    1970年代以降の牧場開発と森林伐採によって木が失われると、上空や衛星画像から円や四角の形が見えるようになった。

    皮肉にも、森林破壊が遺跡を発見させたのである。

    2000年代に航空写真と衛星画像の利用が進むと、土塁が一カ所や二カ所ではなく、広域に分布していることが明らかになった。

    2009年、マルッティ・パルシネン、デニース・シャーン、アルセウ・ランジらは、上プルス川流域の幾何学土塁を報告し、西部アマゾンに複雑社会が存在したと論じた。

    当時確認されていた土塁は約200カ所、推定人口は最低6万人ほどだった。

    それが今回、2万4000~3万カ所、125万~300万人へ拡大したのである。


    🛩️ 2022年以降、LiDARが「新しい常識」を作った

    2022年、ボリビアのモホス平原でLiDAR調査が行われた。

    カサラベ文化の巨大集落、段状基壇、高さ20メートルを超える土製ピラミッド、道路、運河、貯水池が、森林の下から一気に浮かび上がった。

    最大集落は315ヘクタールに達し、大小の集落が四段階の階層を形成していた。

    研究者はこれを、南米熱帯低地で初めて明瞭に確認された「低密度都市」と評価した。

    2024年には、エクアドル東部のウパノ川流域で、道路によって接続された多数の土壇と集落が報告された。

    人々は紀元前500年頃から土壇都市を築き、2000年近くにわたって地域を利用した。

    2026年のアキリー研究は、これらよりさらに広い面積を帯状に調査し、都市一カ所の詳細ではなく、文明圏全体の規模と人口へ踏み込んだ点が新しい。


    📚 では、学術的に認められたのはいつなのか

    ここまでの研究史を踏まえると、「古代アマゾン文明が認められた年」を一つだけ挙げることはできない。

    人間の古い居住や農耕は、別々の問題である。

    マラジョ島の大規模社会。

    上シングーの道路集落。

    モホス平原の土製都市。

    アクレの幾何学土塁。

    これらも別の文化、別の年代、別の地域である。

    アマゾン全体を統一した一つの帝国が発見されたわけではない。

    そのうえで、大まかな流れを示すなら、

    1980~90年代――複雑社会説が強力な対抗仮説となる。

    2003年――上シングー研究が『Science』に掲載され、大きな転換点になる。

    2008~2009年――「アマゾン都市性」「複雑社会」が国際的な主要研究課題として定着する。

    2010年代――テラ・プレタ、栽培植物、土塁分布研究が積み重なり、地域によって大人口と大規模景観改変があったことが広く認められる。

    2022年以降――LiDARによって都市構造が視覚的に示され、疑いにくい段階へ入る。

    という感じだろう。

    つまり学術的に真剣な研究対象となったのは、少なくとも1990年代。

    大きく流れが変わったのは2003~2009年頃。

    広い意味で定説化したのは2010年代以降、と考えるのが妥当である。


    🎓 20年前なら、引いてしまったのも分からなくはない

    ここで、わたしの学生時代の話へ戻る。

    およそ20年前、2006年頃。

    「学会で古代アマゾン文明を研究したい」

    と話す学生がいた。

    それを聞いて、

    「え、アマゾン文明? 大丈夫か、この人」

    と少し引いた。

    当時の空気を考えれば、その反応はかなり理解できる。

    2005年頃には、ヘッケンバーガーの上シングー研究も、ルーズベルトの研究も、すでに発表されていた。

    したがって古代アマゾンの複雑社会は、完全な疑似科学ではなかった。

    むしろ最先端の学術論争だった。

    しかし一般的な考古学教育では、南米文明といえば、

    インカ。

    ナスカ。

    モチェ。

    ティワナク。

    アンデス高地と太平洋岸。

    アマゾンは狩猟採集民や小規模園耕民の地域として扱われやすかった。

    しかも「失われたアマゾン文明」という言葉には、黄金郷エル・ドラド、失われた都市Z、謎の白人文明など、探検家の伝説や怪しい古代文明論がまとわり付いていた。

    研究計画の中身を聞かずに「古代アマゾン文明」とだけ言われたら、

    「学術考古学じゃなくて、失われた超文明の話じゃないだろうな?」

    と警戒しても不思議ではない!( ・Д・)


    🧐 あの学生は、早すぎただけだったのかもしれない

    今から振り返れば、その学生が何を考えていたかで評価は変わる。

    アマゾン全域を支配した石造帝国を探す。

    未知の超技術文明を証明する。

    そういう話なら、やはり引いてよかった可能性が高い。

    しかし、

    モホス平原の盛土農耕。

    マラジョ島の土壇社会。

    上シングーの道路集落。

    アクレの幾何学土塁。

    テラ・プレタと森林管理。

    こうしたテーマを研究したかったのなら、その学生は怪しかったのではなく、単に日本での一般的理解より10~20年ほど先を見ていたのかもしれない。

    おそらく当時いちばん難しかったのは、

    証拠がなかったことではなく、証拠が広大な森の中へ点在し、社会全体の形として見えなかったこと

    だった。

    一個の土器。

    一つの盛土。

    一本の道路。

    黒い土。

    それぞれは知られていた。

    だが、それらが巨大な地域システムを構成していると示す地図がなかった。

    LiDARは、その散らばった点を線で結び、初めて「星座」にしたのである。


    ⚠️ それでも「古代アマゾン文明」を一つにしてはいけない

    今回の発見を受けて、

    「アマゾン文明が発見された」

    と言いたくなる。

    だが、古代アマゾンには一つの文明だけがあったわけではない。

    アキリー。

    カサラベ。

    マラジョアラ。

    サンタレン。

    上シングー諸社会。

    ウパノ川流域の文化。

    それぞれ年代も、建築も、食料生産も、政治組織も異なる。

    マヤ文明という言葉の中にも、多数の都市国家と地域文化が含まれる。

    同じように「アマゾン文明」も、複数形で考える必要がある。

    また今回のアキリー文明という名称も、今後すべての研究者がそのまま採用するとは限らない。

    一つの統一国家だったのか。

    緩やかな儀礼ネットワークだったのか。

    同じ土塁様式を共有する複数文化だったのか。

    議論は始まったばかりである。


    🌲 「原生林ではなかった」は、森を破壊してよいという意味ではない

    古代人がアマゾンを改変していたと聞くと、

    「ではアマゾンは元々人工林だから、現代人が伐採しても問題ない」

    という議論に利用される危険がある。

    これは完全な飛躍である。

    古代の住民が、モザイク状に畑を開き、有用樹木を育て、低強度の火を使っていたことと、重機で森林を皆伐し、巨大牧場や単一作物畑へ変えることは同じではない。

    古代の人口規模が大きかったとしても、1500年間にわたって森と農地を組み合わせた管理体系を維持していた。

    現在の森林には、古代人が育てた有用植物だけでなく、その後1000年以上にわたる自然回復の歴史も含まれている。

    「手付かずではない」と「保護する価値がない」は、まったく別の話である。

    むしろ古代の景観管理を理解することは、現在のアマゾンを持続的に利用する方法を考える手掛かりになる。


    🔥 西暦850年頃、何が起きたのか

    アキリーの幾何学土塁は、西暦850年頃までに使われなくなったと推定されている。

    なぜ衰退したかは分からない。

    気候変動。

    政治的対立。

    人口移動。

    交易網の変化。

    食料生産体系の変化。

    感染症。

    複数の要因が考えられる。

    同じ頃、中央アメリカでは古典期マヤ南部低地の多くの都市が衰退し、アンデスではティワナク社会も後に大きな変化を迎える。

    しかし年代が近いからといって、共通原因があったとは限らない。

    アマゾン、マヤ、アンデスを一つの「9世紀世界崩壊」で結ぶには、まだ証拠が足りない。

    またアキリー土塁が放棄された後も、この地域から人間が消えたわけではない。

    紀元後1000~1200年以降には、円形の盛土集落や長大住居を持つ別の集落形式が現れている。

    文明が突然消滅したというより、社会の形が変わった可能性もある。


    🗺️ 今回見つかったのは、森の「空白」ではなかった

    432カ所の土塁。

    そのうち396カ所は、今まで地図になかった。

    しかし、古代人がそれを隠したわけではない。

    人々は見えるように造った。

    真っすぐな道路を伸ばし、巨大な円と四角を地上へ描いた。

    当時の人々にとっては、誰もが知る集会場だったはずである。

    それが見えなくなったのは、

    人口崩壊。

    森林の回復。

    土で造る建築文化。

    研究者の少なさ。

    移動の難しさ。

    そして「ここには大文明など存在しない」という先入観が重なったからだった。

    今回LiDARが発見したのは、誰にも知られていなかった謎の超文明ではない。

    先住民の口承。

    初期ヨーロッパ人の記録。

    黒い土。

    有用樹木。

    盛土。

    道路。

    土器。

    これまで別々に知られていた証拠が、想像以上の密度で同じ景観へ並んでいたことなのである。


    🌳 森は文明を消したのではなく、保存していた

    紀元前600年頃。

    人々は森を切り開き、巨大な溝を掘った。

    出た土を積み、円や四角を描いた。

    道を造った。

    農作物を育てた。

    ブラジルナッツやヤシを残した。

    ある季節になると、分散した集落から人々が集まった。

    踊った。

    歌った。

    食べた。

    競った。

    政治を話し合った。

    祖先や人間以外の存在と関係を結んだ。

    やがて社会の形は変わった。

    広場は使われなくなった。

    道路へ草が生えた。

    溝へ土が流れ込んだ。

    その上に木が育った。

    数百年後には、巨大土塁は森の一部になった。

    そして現代人は、その森を見て、

    「ここには昔から、ほとんど人が住んでいなかった」

    と考えた。

    だが、森は歴史の空白ではなかった。

    森そのものが、古代人の活動を取り込んだ巨大な遺跡だったのである。

    20年前なら、「古代アマゾン文明を研究したい」という言葉は、少し危うく聞こえたかもしれない。

    今でも「一つの失われた帝国」という意味なら危うい。

    けれども、複数の地域社会が、土、道路、農園、儀礼、森林管理によって作り上げた文明世界という意味なら、もはや無視できない。

    今回の432カ所は、その存在を初めて証明したのではない。

    数十年かけて積み重ねられてきた議論へ、

    「あなたたちが想像していたより、さらに一桁大きかったかもしれない」

    と答えたのである。

    古代アマゾン文明を隠していたのは、森だけではない。

    石造神殿がなければ文明ではないという、私たち自身の文明観だったのだ!( ・Д・)




    なにはともあれ……

    今更だけどあの時内心引いてごめんね!( ・Д・)








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    2024ねん 5がつ 25にち(どよーび、晴れ)

    時間の制約がキツ過ぎると程良く頑張るって難しいね( -д-)ノ

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



    今回の考古学・歴史ニュースは最新技術でプラトンの墓が見つかるかも!?( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


    さて、今回の舞台はイタリア、ヘルクラネウムです!

    ヘルクラネウムと言えば、西暦79年のヴェスヴィオ火山の噴火により壊滅した都市としてポンペイと並んで有名な世界遺産の遺跡公園です。

    ポンペイはこれまでにたくさん扱ってきましたが、ヘルクラネウムについても記事がいくつかあるので挙げておきますね(*^・ェ・)ノ












    さて、このヘルクラネウムで見つかった火山噴火の影響を受けて丸焦げになった巻物がありまして、今回のお話は最新科学技術によってその中身が少し読めたよ!ってことなのです(。・ω・)ノ゙

    そして解読内容に出てくるのが、あの哲学者のプラトンです。

    紀元前427~347年に活躍した哲学者で、師匠はソクラテス、弟子がアリストテレスとして有名で、歴史や倫理の教科書などでも頻出の人物です。




    そんなすごいプラトンですが、実は奴隷として売られてしまったと考えられています。

    これまではプラトンはシチリア島滞在中の紀元前387年に売られ奴隷の身になったと考えられてきました。

    今回解読できた文章では紀元前399~404年頃に奴隷として売られた状況についての情報が記載されていたそうです。








    焼け焦げた巻物の文章は欠損も多く、普通には読めない状態にあります。

    そこで同時代の文章をAIに学習させて欠損部を予測で埋めるという手法で解読しています。

    これ、まさにマヤ文字でもやりたいなと思ってた手法なので個人的にはとても面白い研究だと思っています。




    ところで、プラトンのお墓の位置ってミステリーなんだそうです。

    どこに埋葬されたか分からず、これまでは学園内のどこかという曖昧な情報のみだったのです。

    ところが今回の解読内容ではどうやらアテネの学園「アカデメイア」内に設けられた詩神の祭壇付近の秘密の庭にプラトンが埋葬されたらしいのです。

    この学園は紀元前86年にローマの将軍スラによって破壊されましたが、まぁ恐らくは地上の上部構造だけでしょうから『プラトンの墓発見!』なんて日がやってきてもおかしくないですね!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!




    arukemaya078
    ↑アトランティスっぽい絵( ・Д・)


    おわりに

    プラトンと言えば哲学者ですけれど、アトランティス伝説でも有名ですよね。

    彼が書いた「ティマイオス」と「クリティアス」、洪水で一夜にして沈んだアトランティスの様子が描かれています。




    実は私は昔、アトランティスに憧れていて、ヨーロッパ研究やりたいなぁって思ってたんですよね。

    まぁさすがに現代文明を凌ぐほどの所謂「超古代文明」だったとは思っていないですが、

    プラトンによる完全な架空の産物と考えるよりはモチーフがあったと考えた方が浪漫があるかな~ってな考え方をしていました。




    まぁ実際に浪漫はある、というか浪漫しかない!

    今行っている考古学の社会科学化を目指す全人類史対象の研究の中で、いつかヨーロッパも研究できるといいな~なんて思いますね。


    何はともあれ、

    オリハルコン見つけたいね!( ・Д・)



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    2020ねん 6がつ 20にち(どよーび、晴れ)

    シンクタンク作りたいけどすでに多忙過ぎる( ・Д・)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




    今回の考古学・歴史ニュースは「万里の長城の役割って、チンギス・ハーンの軍勢を止めるためじゃなかったらしいよ!( ・Д・)」ってお話です(*・ω・)ノ


    まぁちょっとオーバーなタイトルかも知れませんが、今回分かったのはそういうことです( -д-)ノ



    万里の長城は現存する長さだけでも約6259kmもある非常に長い壁です。

    まぁ所謂「中国史」では北方の異民族との対立と彼らの侵入を繰り返してきたわけですが、その防御のために作られたのが「長城」です。



    長城といっても時代として8期に分かれていて、色々な場所に建設されています。

    BCE500頃から始まる戦国時代において各国が防御壁を作り始めたのが最初ですが、北方の異民族問題としては匈奴対策としてBCE214年に秦の始皇帝によって長大な防御壁が築かれたのが最初になります。

    その後も前漢、北魏、北斉、髄・明などで長城は建設され続けました。



    戦国時代の長城のように全ての長城が北方民族対策目的で建設されたのではなく、分裂期には隣国との境界にも造られています。

    しかしながら概ね北方の異民族の対策と言えるでしょう。



    arukemaya899


    万里の長城について

    こうした多々ある長城の内、最も大きいことからよく知られているのが「万里の長城」です。

    先に述べたように、最初に築いたのは秦の始皇帝です。

    BCE214年に匈奴対策として建設され、その後も増改築が繰り返され、ほぼ現在のような状態になったのは明代(CE1368-1644)になってからです。

    北方の異民族集団は騎馬民族として有名なため、漢民族系である農耕民族と北方の遊牧民族の境界線として長城が説明されることが多いです。

    しかしながら実際には長城は草原の中に建っているところが多く、長城を草原側にじわりじわりと侵入して建設することで遊牧民族に対し優位に立ち、勢力圏を可能な限り北方へと広げようとしたためと考えられています( ・Д・)

    なんかやることがセコイ気がしますが、このように万里の長城の役割は北方の異民族対策と考えられてきたのです(*^・ェ・)ノ


    arukemaya898
    ↑説明のため再掲


    今回の発見と新解釈

    ヘブライ大学のギデオン・シェラク・ラヴィ率いる研究者グループが無人機のレーダーシステムと高解像度の衛星画像を使用して長城の北線の地図を作成しました。

    その長さは約750km!Σ(・ω・ノ)ノ

    そうした中で上に挙げたような方形構造物も発見したそうです。



    立体地図を作成してみると、長城の北方線のほとんどはモンゴルを通過しているものにも関わらず、土で造られていることが分かりました。

    しかもその高さは非常に低いものだったのです。


    一方で発見された方形構造物は関所や見張り小屋のような役割を果たした可能性を当初考えていましたが、この建造物基壇も土製で、高さはともて低く、さらに交通に便利な小道の傍に造られていました。

    つまりこのエリアの長城も関所(?)も全く防御力がないことが分かりましたΣ(・ω・ノ)ノ



    この区域が建設されたのはCE1001~1300頃で、ちょうど明が現在のような万里の長城に改築する前の頃になります。

    従来はこの頃からチンギス・ハーンによる侵略から防御するために長城が改築されていたと考えられていました。

    しかし今回の発見により、(あくまでこのエリアに関して)この時期の長城の役割は敵の侵略を抑止することを目的としていたのではなく、人や家畜の動きを監視したり、妨害したりすることで、課税するためのものだったのではないかと考られるということです。



    まぁあれだけ大きい壁を建造するにもお金たくさんかかるもんね……( -д-)ノ

    世の中、金だね!( ・Д・)






    おわりに

    高解像度の衛星画像とかLiDAR(小型航空機等を用いたレーザー測量技術)とか流行ってますけど、お金がねぇ( -д-)ノ

    無料で利用できるものも存在してはいるのですが、とりあえず今の自分のやりたい研究とはマッチしないからいいかな……



    そう言えば、(私自身は文系・理系の区別を好ましく思ってはいないが……)人文科学を中心としたシンクタンクを作りたいのですよ。

    研究助成金は獲得してくるので、獲れたら誰か適切な若手研究者に手伝ってもらいたいなと思っております。

    『子供の教育問題』とか『自然環境問題』とか色々な調査研究助成はあるものなのです。

    全国の若手研究者(アンケート調査やフィールドワーク可能であれば誰でも可能)に登録して頂いて、専門性として適切な方に調査研究の仕事を振っていく形のオープンシンクタンクを構想しております。

    興味ある方は是非ご連絡下さい(ひとまずはTwitterのDMでお願い致します)ヾ(´ω`=´ω`)ノ


    あ、気付いた?そう、今回の終わりはただの宣伝だよっ!( ・Д・)


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