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歩け、マヤ -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

タグ:縄文時代

2020ねん 11がつ 24にち(かよーび、くもり)

どこかで伏せてた分を取り返さねば(*^・ェ・)ノ

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今回の考古学・歴史ニュースは使い方が謎!変な囲炉裏である『複式炉』が見つかったよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台は岩手県、北上市にある八天遺跡です。

岩手県の新聞記事が元ネタなのですが、写真が上の1枚しかないのですΣ(・ω・ノ)ノ

これだけだと正直、何も伝わらないので、他遺跡の事例の写真を紹介しながら本記事の紹介をしたいと思います( -д-)ノ




まずは八天遺跡での発見について概要を示しますね(*・ω・)ノ

八天遺跡は縄文後期の中頃(約3800~3500年前)の直径13mにも及ぶ大型建造物址が発見されたことにより、国指定史跡として登録されている遺跡です。

また重要文化財指定を受けている遺物も多数出ている有名遺跡なのです。

今回の発見では以前の発見よりも更に古い時期に当たる縄文中期の終わり頃(約4500年前)の竪穴式住居で囲炉裏(いろり)として使われた複式炉が発見されました。

他には縄文後期の初頭(約4400~4100年前)に帰属する、1.5mの深さの貯蔵穴も発見されています。

どうやらクリなどを入れていたようです(*^・ェ・)ノ

これらの発見により大型建造物が使われた時代よりも古い時代に既に集落が形成されており、この地に長く人々が生活していたことが分かったのです(。・ω・)ノ゙ 






珍しい囲炉裏、複式炉とは?

さて、タイトルにあるように本記事では複式炉を「謎の囲炉裏」としています。

何が謎かというと使い方が良く分からないのです( -д-)ノ

上に挙げた1枚目の写真のように、普通私たちがイメージする囲炉裏は上から吊っていて、皆で囲むようなタイプではないでしょうか。

おまけに何の役に立つのか分からん「魚を模したやつ」が付いてたりします( -д-)ノ

実はアレ、自在鈎の部品で、ヤカンなどをかける鈎の部分を上下させて固定するためにある横木と呼ばれるものだそうです。

火を使う場所なので、水に関係したものを飾って火事にならないようにするおまじないの意味があるそうです。


昔はあそこに魚引っかけて干したり燻製にしてた名残なのかと勝手に思ってました( -д-)ノ


さて、話を戻しまして、囲炉裏ってやっぱり一個のヤカンをかけたり、一個の鍋をかけたりするイメージですよね?

一方で2枚目の写真はジブリの「隣のトトロ」に出てきそうな古いカマドなのですが、これは二つの焚口があるわけです。

今回発見された炉は「『複式炉』だからこれ?」と思うかもしれませんが違います。

このトトロ・タイプは現代のキッチンでもよく見られる単にコンロが2つあるタイプです。

この場合、使いやすいように横に2つ並んでますよね?

もし縦に並んでたら、奥側を扱う際に火傷してしまいそうです。

そうです、なんと『複式炉は炉が縦に2つあるタイプ』のものなのですΣ(・ω・ノ)ノ


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複式炉の写真を見ても、「これはただこの角度から撮ったから縦に見えるんじゃないか!」と思うかともいるでしょう。

なので竪穴住居内における複式炉の配置図も用意しました。

まぁ住居内は広いので横方向からも使える気もしますが、まぁ『縦タイプ』なんです!( -д-)ノ

「複式炉」自体がレアな囲炉裏の形態で、主に東北地方で検出されています。

今回の記事は岩手県ですし、上に挙げた事例は福島県のものです。

使い方は先に述べたように「不明」なのですが、恐らく、石組みになっている部分で火を焚いていて、土器が二つ埋めてある部分は種火や灰、置き火のための空間だったのではと考えられています。

下に挙げた2枚の写真で分かるように、住居の中心側に土器が埋められていて、その外側に石組みがあります。

下の写真のパターンでは更に外側に石組みのない開けた空間があり、ここには薪を置いていたのではと考えられています。

東北地方で見られるこうした『複式炉』は、単に囲炉裏として機能しただけではなく、東北の寒さに耐えるために囲炉裏の有する暖房設備機能を強化したものだったのかも知れませんね(*^・ェ・)ノ






おわりに

囲炉裏ってなんだかとっても和風な気がするのは私だけでしょうか。

でも家に囲炉裏なんてないし、私は海辺とか山でバーベキューしに行って、その際はバーベキューセットというのか、金属製の箱みたいなのを持っていくわけですが、、、

そういう時に、たまに砂浜とか地面に直接炭を置いて貝などを焼いたような痕跡に出くわすことがあります。

マナー的には「炭もゴミも捨ててくなよ」と思いますが、考古学的には人類が残した痕跡として興味深さもあります( -д-)ノ

地面で直接火を起こし続けると、地面が焼けて焼土が残ります。

レアですが、これは考古学調査でも検出されるもので古いケースが一般的です。

時期が新しくなると、炉の形態としては「三石炉」が最初期の形態です。

3つの石の間で火を焚いて、石を支えにしてその上に土器を置いたりします。

昔の人も3つの支えだと安定することに気付いていたようですね。

皆さんも特に砂浜で見かけることが多いと思うのですが、誰かの炉跡を見つけたら観察してみてください。

面白いですよ!ヾ(´ω`=´ω`)ノ

そしてアクシデント等でバーベキューセットが使えない時は、適当な石を3つ拾って三石炉を作ってみましょう!

それだけで「文明度(?)」がアップしますので(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

……まぁこんな風に炉ないし囲炉裏というのもすごい長い歴史があって、日本国内でも海外でも様々な地域差があって面白いものなのです(*^・ェ・)ノ

何はともあれ、

囲炉裏で美味しいもの食べたいね!( ・Д・)



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2020ねん 11がつ 5にち(もくよーび、くもり)

そろそろ初雪かな!ヾ(´ω`=´ω`)ノ


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↑コップのふちにハートちゃん(*・ω・)ノ(「LINE」の通販ページより画像を転載:現在ページアクセス不可)



今回の考古学・歴史ニュースは「新潟県内最大のハート形土偶が見つかった!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、みんな大好き「最大」の遺物の発見です。

今回のケースでは「県内」という条件付きで「最大」サイズのハート形土偶が出土したってニュースになっていました( -д-)ノ

……まぁインパクト大事ですから、「最大」とか「最古」とか使いたい気持ちはわかります(*^・ェ・)ノ


さて、今回の舞台は新潟県、阿賀野市にある発土橋遺跡です。

ここでは縄文後期(約4000~3500年前)に帰属する大規模な環状集落が発見されています。




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上に挙げた図で分かるように、集落内は役割ごとに明確に場所が分けられていると推測されています。

遺跡全体はドーナツ型の環状集落で、中央部には住居の炉跡や石を規則的に配置した配石遺構が確認されています。

これは「マツリ・生活の場」で直径約6mの範囲につくられた大型の配石遺構は人々が祈りをささげる神聖な場所だったと考えられています。

西側は20基以上の墓と思われる遺物・遺構が確認され「葬送の場」だったようです。

こうした集落内が機能によって空間的にしっかり区分されているケースは新潟県内の縄文後期に属する低地遺跡では珍しいそうです。


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今回はこのドーナツ状集落内の「モノ送りの場」から県内最大となるハート形土偶の頭部が見つかりました。

ちなみにこの頭部は長軸が8.5cmあります。

このハート形土偶頭部は地元産ではない粘土で作られていることから、他地域から搬入されたもの、つまり他地域との交流を裏付ける証拠となります。

ただしこの土偶を製作するために使われた粘土がどこのものなのかは分かっていません。

こうしたハート形土偶は縄文後期前半の関東地方で多く作られていたと考えられており、新潟県内でも数点出土例が確認されています。

今回の出土品は県内の先行事例のいずれのものよりも形や粘土の質がよく、優良品といえるようです。


またこの遺跡周辺で採れる天然アスファルト塊が多数出土しています。

天然アスファルトは矢じりの固定や土器の補修に欠かせない生活必需品で、交易品として非常に重要でした。

更に糸魚川市産とみられる蛇紋岩の磨製石斧も出土しています。

こうした搬入品や交易必需品の出土量の多さ、そして今回の発見の目玉である最大サイズの精巧なハート形土偶の存在から、発土橋遺跡は地域の拠点的集落であったと推測されていますヽ(・ε・)人(・ε・)ノ ナカマ



上に挙げた写真は群馬県、郷原遺跡で出土したとっても有名なハート形土偶です。

今回発見されたハート形土偶の頭部はこれによく似ています。

これまで新潟県内最大だったハート型土偶頭部は村上市の元屋敷遺跡から出土したもので長軸が7.1cmです。

今回は1.4cm大きい8.5cmです。

上に挙げた有名なハート形土偶の全長は30.5cmなので、頭部だけだと今回の発見のものの方が大きいように思えますね(*・ω・)ノ


↓「何故、土偶はバラバラで見つかることが多いの?」について書いた記事(*^・ェ・)ノ



↑こんなこともありましたね(。・ω・)ノ゙


おわりに

今回の記事は至って単純なニュースになるかなと思いきや、それなりの文量になりました。


正直私、土偶って「一点もののイメージ」があったのですが、類似の土偶って多数出ているものなのですね~。


論文中だと全体の分かる「イイモノ」しか載ってないことが多いので、そんなイメージでした。


なので個人的には目から鱗なニュースでしたΣ(・ω・ノ)ノ



いや、何はともあれ……


私も「最大」サイズの何かを見つけたい!( ・Д・)



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2020ねん 10がつ 31にち(どよーび、曇り)

毎日充実している気分、そうそんな気分(*^・ェ・)ノ


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今回の考古学・歴史ニュースは「コクゾウムシたくさんの土器が見つかったよ&ハムスター=コクゾウムシ!?( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、前回の古代の”G”の発見に続いて、熊本大学の小畑弘己先生が、宮崎県えびの市の役所田遺跡から出土した縄文時代後期の深鉢型土器の破片からコクゾウムシ圧痕を見つけたって話なのです。


↓圧痕や”G”の話はこちらです( -д-)ノ



対象となったのは約3600年前の土器片であり、そこから28匹のコクゾウムシの痕が見つかりました。

なので土器全体として250匹のコクゾウムシが粘土に塗り込まれていたと推計されています。

圧痕法が広く用いられるようになってから、日本全国で土器の器面にコクゾウムシの痕が見られるケースが確認されています。

しかしコクゾウムシが多量に混入されるケースは稀で、今回のようなコクゾウムシ多量混入土器が九州で発見されたのは初めてとなります。



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↑コクゾウムシ入り土器の展示(後輩が撮影、ありがたい(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!)

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↑コクゾウムシ入り土器の全体、綺麗だね(後輩が撮影、ありがたい(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!)

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↑矢印部を拡大、穴ぽこ分かる?①(後輩が撮影、ありがたい(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!)

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↑矢印部を拡大、穴ぽこ分かる?②(後輩が撮影、ありがたい(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!)


北海道はでっかいどう!( ・Д・)


さて、この小畑先生(実は後輩の元指導教員)は北海道でも大きな発見をしています。


何かとスケールのデカい北海道ですが、見つかったコクゾウムシ入り土器も凄いのですヾ(´ω`=´ω`)ノヾ(´ω`=´ω`)ノ


その土器が上に示した土器です。


今回の記事では破片資料の話でしたが、こちらは修復されて半完形(ほぼ完形ってこと)状態になっています。


(*日本語としてこの用語は変な感じがしますが、元々アメリカ考古学の用語法を直訳したものなのだろうと私は思っています( -д-)ノ)



さて、この土器は北海道福島町の館崎遺跡から出土した縄文時代後期の深鉢形土器ですね


時期的には先の資料と同時期ですね。




この土器をCT撮影したところ、417点のコクゾウムシ成虫が練り込まれていることが分かりました。


写真で分かるように土器は一部が欠けているため、全体では推定500匹ほどを練り込んでいたと考えられています。



500匹!


さきほどの2倍ですΣ(・ω・ノ)ノ




ちなみに、この北海道の土器から見つかったコクゾウムシは体長もデカいことが分かりました。


なんと西日本産のものより2割ほど大きかったのです!( ・Д・)(


縄文時代の西日本では主にドングリと呼ばれるコナラ属の木の実が貯蔵されていたのに対し、北海道を含む東日本はクリが中心で、クリの高い栄養分がコクゾウムシを大きくしたと考えられているそうです。




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↑コクゾウムシと土器胎土に練り込まれたコクゾウムシ(「EurekAlert」の記事内画像より転載)




さて、本記事ではコクゾウムシ、コクゾウムシと言ってますが、これはオサゾウムシ科の甲虫で、貯蔵米の害虫として知られるものです。



従来はイネの渡来とともに朝鮮半島からやってきたと考えられていました。


なので、縄文土器からコクゾウムシが発見された当初は、「縄文農耕起源論」再燃か!?とも思われたのです。



縄文後期の土器だけではなく、中期の土器からもコクゾウムシが発見され、日本における農耕の起源は非常に古いかも知れないと沸き立ったのです。


しかしその後、1万年前の日本最古級土器からもコクゾウムシが発見され、この議論は収束していきます。


明らかに古過ぎるため、「コクゾウムシの存在=稲の渡来」とする考え方に疑問が持たれたのです。



その後、先ほども少し述べたようにコクゾウムシはドングリやクリに寄生して食物とすることが分かったため、コクゾウムシと農耕起源を結びつける論理は破綻したわけです( -д-)ノ





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↑同じ博物館の石器集中の写真、よくあるやつ!(後輩が撮影、ありがたい(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!)



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↑遺物集中を遺物で再現しつつ、実測図の取り方も表現したもの!面白い展示方法だと思う!(・∀・)つ(後輩が撮影、ありがたい(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!)



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↑可愛いので再掲!カワ(・∀・)イイ!!



おわりにかえて、考古学トリビア;先輩風を吹かそう!( ・Д・)

正確には考古学トリビアではないのですが、今となってはコクゾウムシを知らない考古学者はいないでしょうから、今後飲みの席で先輩が後輩に語るネタとしてはいいかなと思い書き連ねることにしました( -д-)ノ



さて、日本においては特にペットとして人気のハムスターですが、ハムスターってたくさんの種類がいるわけです。

ジャンガリアンとか、ドワーフとか多種にわたっています。

本来のハムスターは「ゴールデンハムスター」を指すのですが、日本ではハムスターはキヌゲネズミ全般を指す言葉として定着したのです。


ではそもそもハムスターの語源とは何か?

語源は古ドイツ語と考えられており、「強欲で大食い」を指すhamustra(ハムストラ)がそれと考えられています。



しかもこのハムストラは西暦1600年頃にはハムスター🐹の意味で使われていましたが、

元々西暦1000年頃にはコクゾウムシ🐜の意味で使われていたのです!Σ(・ω・ノ)ノ



まぁどっちも「強欲で大食い」感ありますもんね( ・Д・)


ちなみに現在のドイツ語の「買いだめする、溜めこむ」という動詞ハムスターン(hamstern)は、ハムスターの貯食の習性から派生した単語だそうです(。・ω・)ノ゙



ハムスターとコクゾウムシがまさか繋がるなんて思いもしなかったけれど、、、

やっぱり歴史は面白いですねヾ(´ω`=´ω`)ノ



少なくとも……

ハムスターはかわいい!( ・Д・)🐹💖


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2020ねん 10がつ 17にち(どよーび、晴れ)

片っ端から仕事片付けねば、年内に終わらんヽ(TдT)ノ


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↑浅い柱穴跡が多数見られる(「福島民友新聞」の記事内画像より転載)



今回の考古学・歴史ニュースは「色々大発見がありました!およそ4000年前の縄文人の人骨も多量に見つかったよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


今回の発見があったのは福島県、川俣町小綱木地区に所在する前田遺跡です。



国道の改良工事に合わせ、2018年から発掘調査が行われていました。



これまでの調査で、縄文時代中期の火おこしの道具として使われていたとされる「火切り臼」を始めとしてレアな遺物が多数出土する重要な遺跡と考えられていました。




この前田遺跡では、縄文時代中期に相当する土層から、流木が積もった小川の跡が発見されており、その周辺から大量の木製品や漆製品も出土しました。


水分があると余計腐ってしまいそうなイメージがありますが、実際には酸素の供給が絶たれるため木製品等の通常は腐敗して失われてしまう遺物が残りやすい傾向にあります。



そんな当該遺跡では保存状態の良好な木製の弓も見つかっており、縄文時代の様子が良く分かる遺跡としてその重要性が増しているのです(*・ω・)ノ



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↑柱穴の傍に横たわる人骨(「福島民友新聞」の記事内画像より転載)



今回前田遺跡では新たに埋甕や土壙墓が多数確認され、被葬者は縄文時代に一般的な屈葬の形態を取っていました。


この墓域では縄文時代の後期(約4400~3700年前)に相当すると考えられている人骨が約40~50体も出土したのです!Σ(・ω・ノ)ノ

40~50体と数が不確定なのは、複数個体がまとめて埋葬されている場合に骨の部位をチェックし個体数の確認を行う作業が完了していないためです。





日本の特に内陸部の場合、酸性土壌の影響で人骨はなかなか残りません。


そのためこの前田遺跡のように縄文時代の遺跡で大量に人骨が出土する事例は全国的に希少なのです(*・ω・)ノ



先ほど述べたように、前田遺跡ではその昔、河川が流れていたと考えられていますから、河川の流れによって堆積した水分を含む砂質の土が人骨を覆ったことで空気を遮断し、腐敗の進行を遅らせたと推測されます。


こうした良好な埋蔵環境の結果、全体の骨格が分かるほどに保存状態が良好な人骨が5体検出されているため、これを対象にDNAの解析を実施する予定でいるそうです(・∀・)つ




更に前田遺跡では縄文時代晩期(約3500~3000前)の地層から、全国的にあまり類のない木柱を伴う柱穴が100基以上も検出されましたΣ(・ω・ノ)ノ


木柱は直径約30~40cmが多く、最大で直径約60cmのものも確認されています。


木柱が残っているなんてレアケースですが、そこはやはり旧河川のおかげなのでしょう(*^・ェ・)ノ




上の写真で確認できるように、柱穴の掘り込みは浅いものばかりのようです。


木柱の周りに石を詰めた状態が確認されており、かつて掘立柱建物やモニュメントがあったと推測されています。




更に、墓域からは縄文時代後期に相当する状態の良いハート形土偶が1点出土しました。


高さ約20cmセンチで右腕が欠損している状態の女性像です。

全国的にも珍しいことに、この土偶は土器を布団のようにかぶった状態で出土し、祭祀と関連して意図的にこのような配置を取ったと考えられています。




おわりに

大発見ばかりなのに調べても写真が全然出てきませんでした。


まだ新しい情報なので、未報告資料ということもあり、伏せられているのでしょう。


これだけの発見があれば現地説明会はもちろん、最寄りの博物館で遺物の展示会も開催されるでしょうから、その際に今回紹介したレアな発見物の写真が見られるかなと思います。


写真を含め、また続報があれば紹介しますので、お互い楽しみにしましょうね!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!


これは考古学史に残る勢いだね!
……道路工事はどうなるのかな?( ・Д・)


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2020ねん 8がつ 11にち(かよーび、曇り)

一歩ずつ進むのだ!( ・Д・)


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今回の考古学・歴史ニュースは「日本最古の土偶の事例を紹介するよ!( ・Д・)」ってお話です(*・ω・)ノ


『最古の~』ってのは話題になりやすいので、遺物の素材ごとに、あるいは地域を細分して、色々な最古があるわけです。

例えば同じ「最古の土偶」でも、「北海道最古」とか、「ヨーロッパ南部最古」とか色々パターンはあるわけです( -д-)ノ


今回ご紹介するのは純粋に日本における最古の土偶の事例です。

両者共に縄文時代草創期の事例で1万3000~1万1000年前頃の遺物と推定されています。







三重県、粥見井尻遺跡の事例

粥見井尻(かゆみいじり)遺跡は、三重県松阪市飯南町粥見字井尻で現在は「粥見井尻遺跡公園」として一般公開されています。

この遺跡では1996年に国道のバイパス工事に伴う緊急発掘が実施され、その際に一番最初の写真やこの直上に挙げた写真の2点の土偶が出土しました。

この遺跡は縄文時代草創期(1万3000~9000年前)の集落遺跡であり、これらの日本最古級の土偶の他、竪穴住居4基、無文土器片資料群、石器製作址が見つかっています。



一番上に挙げた写真だとこの粥見井尻遺跡で出た2点の最古級土偶が映っているのですが、左側のやけに小さいものは『土偶の頭部』です。

この上に挙げた全体が分かる資料(所謂、粥見井尻土偶)であっても、長軸7cm、短軸4cm程度なのでかなり小さいです。

前回紹介した中国の最古の彫像もめちゃくちゃ小さかったので、人類の最初期のフィギュアはミニチュアばかりだったのかも知れませんね( -д-)ノ




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↑日本最古の土偶!ヾ(´ω`=´ω`)ノ(「Twitter」”古墳紹介bot”さんの投稿画像より転載)



滋賀県、相谷熊原遺跡の事例

こちらは滋賀県、東近江市に所在する相谷熊原(あいだにくまはら)遺跡で出土した土偶です。

この遺跡からは5基の竪穴住居址が検出されており、間違いなく縄文時代草創期に帰属する日本最古級の土偶(通称、相谷土偶)として知られています。

サイズは長軸3.1cmとやはり小さいですね。

頭部や手足の造形はありませんが、乳房やくびれなど女性らしさは十分に表現されているとの評価です。

やはり世界的にみて、地母神だとか、母なる大地、母なる海、母なる地球とか場合によって様々な表現がありますが、新たな生命を生み出す女性を神聖視する意識は初期人類にとって共通のようですね(*・ω・)ノ




おわりに

やはり『最古』ってサイコーなわけですが(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

考古好き、歴史好きの皆さんは、古さだけに囚われず、

とある現象がなんで広く共通するのだろう?とか

この先、どうやって変化していくのだろう?とか

時間と空間の変化に思いをはせて欲しいなと思います!( ・Д・)

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2020ねん 3がつ 8にち(にちよーび、曇り)

仕事が終わらない( ・Д・)

コロナ騒ぎで帰りの便が変更になった( ・Д・)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


arukemaya808


今回は考古学・歴史ニュースではないですね。

「ティカル遺跡、観光エリア(考古学遺跡エリア)でジャガーの子供が歩いているところを観光客に激写されたよ!」ってお話です(*・ω・)ノ

一番最後にどれだけジャガーとの遭遇確率が低いか所見を述べますね(下部には可愛いジャガーの赤ちゃんの写真もあります(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!)。

マヤ文明と言えば、『羽毛の生えた蛇』の神様である『ククルカン』が有名でしょうか。

別名の『ケツァル・コアトル』の方が有名かも知れませんね。

『グクマッツ』とも言いますけど、これは普通の人は知らない呼称でしょう( -д-)ノ

ククルカンとグクマッツはマヤ語表記です(グクマッツはマヤ神話「ポポル・ブフ」に出てくる表現)。

有名な『ケツァルコアトル』はアステカ文明のナワトル語表記です。

この羽毛の生えた蛇は創造神であり、人類に文明を与えた神でもあります。

またディズニーシ―の『クリスタルスカルの宮殿』で見ることができます(*・ω・)ノ




マヤ神話ではこの羽毛の生えた蛇が最も有名ですが、古代マヤ人の信仰は日本と同じ多神教的な性格を有するため、実際には様々な神様がいます。

その内のひとつが『ジャガーの神』です。

マヤ神話で最も取り上げられる『双子の英雄神話』に出てくるイシュバランケーが『ジャガー神』の人間の姿と考えられています。

中米最大の肉食獣であるジャガーは夜の王でもあり、古代マヤの人々にとって畏怖の対象でした。

そんなジャガーの子供がティカルの観光客用の普通の散策路を歩いていたようで、観光客によって写真を撮られました。

それが最初に挙げた写真になります。




残りの2枚の写真は動物園で撮られたものですが、可愛いですよね。

ネコそのものですカワ(・∀・)イイ!!


ティカルにおけるジャガーとの遭遇率

さて、私の経験からジャガーに遭える確率を紹介したいと思います。

私はティカルを最も多く訪れたことのある日本人で間違いないと思います。

勤務期間は2年でしたので、バケーションや休日を除くと500回は訪れています。

その後の発掘調査プロジェクトの期間を含めるともう少し増えるでしょうけど、キリよく500回にしておきましょう!( -д-)ノ

さて、2年間ほぼ毎日(平日のみである)ティカルに通っていて、500回もティカル中を練り歩いて、私がジャガーに遭遇した回数は・・・・・・



・・・・・・・・・



・・・・・・



・・・



1回です!( ・Д・)


たったの1回なのです。

というのも、ジャガーは夜行性ですから、私の勤務時間とは活動時間が合いません。

ティカルやワシャクトゥン(ティカルの北方23kmに位置する遺跡で、ティカル国立公園内にある遺跡&集落)に仕事関係で宿泊したことは数度しかありません。

とは言っても夜間にジャングルを出歩くのは危険すぎて無理です。

本当に真っ暗闇で道も見えません。

どこまでが道でどこまでが樹々の壁なのか判断付きません。

また樹々の背が高く、見上げても星も月もほぼ見えません。

なので普通にティカルを訪れるとジャガーを見る確率は1/500程度しかありません。

たった0.2%です。

そのためジャガーとの遭遇確率を上げるためには、ティカル内のホテルやキャンプを利用して一泊することですね。

夜間は危険ですし、そもそも暗くて見えません。

なので早朝と夕方に散策するのが良いでしょう。

ちなみに4号神殿から朝日を見るツアーもありますが、有料です。

なので夕方から閉園まで頑張って練り歩き、キャンプして朝方キャンプ傍や自然林散策コースを散歩するのが最も安上がりです。

ただ何かあったら困るので単独行動は避けてくださいね!

ディズニーランドのジャングルクルーズのセリフにあるように、

最も怖いのは文明社会・人間です( ・Д・)

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2019ねん 10がつ 12にち(どよーび、曇り)

年内最後の国内資料調査を終えた。

あとは論文を書き続ける日々だ!( ・Д・)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・


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今回の考古学・歴史ニュースは、『縄文時代のネコ形土製品が現代的にデフォルメされたねこに見えるよ!』というお話です(。・ω・)ノ゙

上に挙げた写真が問題のネコ形土製品なのですが、私もこの画像をTwitterで見かけて、「あ、可愛いな~!カワ(・∀・)イイ!!」と思いました。

ただ同時に、「縄文時代にねこ?」という疑問も浮かびました。

こうして何でも疑ってかかるのは職業病かも知れません( -д-)ノ

私が思ったのは、そもそもこの遺物は本当に縄文時代のものなのか?

そして、この遺物は本当にネコ形土製品として扱われているのか?

この2点を明らかにしなければ始まらないと思い、他の画像を探してみました。

すると……



arukemaya608


なんとまぁ、確かに「縄文時代」とありますね!

名称は「ネコ形の土製品」とあります。

わざわざ「の」を入れているので、ネコ形土製品のような専門性の高い一群として扱っているのではなく、あくまで「ねこの形に見える土製品」という意味として使っていることが分かります。

さて、では次に問題となるのは、縄文時代にネコはいたのか? 古代日本におけるネコの歴史とは?という点ですね。




私達のよく知っているネコは「イエネコ」です。

これは上に挙げた写真に見られるようなヤマネコを家畜化したものなのです。

その起源は13万1000年前に中東の砂漠等に生息していたリビアヤマネコにまで遡ることができるそうで、ネズミの捕獲を目的としたネコの家畜化の歴史はかなり古いものであることが分かります。

人類の古きパートナーとして有名なイヌの元々の役割は「狩猟の補助」ですから、イヌの家畜化の起源が古いのはそのためです。

一方でネコの家畜化は「ネズミの排除」の役割と共に始まります。

つまり人類の農耕の開始と関連しているため、イエネコがイヌより新しい時期に登場する理由はすっと理解できると思います。

農耕が始まると保存しておく必要のある財(食料等)を守る必要がありますし、定住が一般的になりますから伝染病を媒介するネズミは人類の脅威となったわけですね。

そんなわけで日本にネコが登場するのは弥生時代以降であると推測できそうですね。

調べてみたところ、日本には平安時代に倉庫の穀物や経典類の番人として大陸より輸入されたことに由来するそうです。

但し、近年の研究成果により、日本におけるネコの起源が紀元前2世紀の弥生時代まで遡る可能性も出てきたそうです。

先に述べたように農耕が広く行われるようになった弥生時代にはネコがいてもおかしくないですよね。

弥生時代には大陸からの渡来人もいるわけで、イエネコの起源が大陸であることから、その時に持ち込まれた可能性も十分にあるわけです。

縄文時代の農耕論とか、縄文時代における単発・少数的な渡来人の流入を考えると複雑になってきますが、今のところ縄文時代にイエネコが存在したことを示す証拠はない模様です( -д-)ノ


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まぁ現代人の我々には、特に日本人あるいは日本文化に慣れ親しんだ者にとってはネコに見えますよね。

というか、ねこにしか見えない。

でもねこじゃないんですよね。

なんだろう・・・・・・

逆さまになってて、耳に見えるものが脚で、縛られてるから左右がまとまって見えて、、、つまり、豚の丸焼き!

ブタも弥生時代以降か・・・・・・

じゃあイノシシかシカの丸焼き!!!( ・Д・)

↓ね~こ~、かわい~い!カワ(・∀・)イイ!!↓

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2019ねん 3がつ 24にち(にちよーび、晴れ)

法事やらなんやらで御朱印もらいに行けなかった。

せっかくの習慣を無くさぬよう、

近日中に時間を見つけて参拝します!(*・ω・)ノ


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↑遺跡の全景、広さが分かる(「読売新聞」の記事内画像より一部加工)


今回の考古学・歴史ニュースは『徳島県、加茂宮ノ前遺跡で約4000年前の水銀朱の一大生産拠点が見つかったよ!』ってことです(*・ω・)ノ

場所は徳島県、阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡です。

徳島県では他にも「朱」をかけた遺物が多く出土する遺跡や、「辰砂」の採掘址と思われる遺構を有する遺跡が見つかっています。

「朱」というのは「朱色」という表現もあるように、簡単に言うと「赤色」の顔料のことです。

赤色顔料としての朱の原料は主に、辰砂とベンガラです。

辰砂は中国の辰州で多く生産されたことからその名が付けられており、硫化水銀から成る鉱物です。

辰砂からは水銀を精製することができるため、辰砂を原料とした朱を水銀朱(有害)と呼びます。

一方でベンガラは酸化第二鉄を主成分とする顔料(無害)で、色調は鉄の赤錆の色のイメージです。

赤色は「血液の色」であることから、「生命力を表す色」として、古くから世界各地で重宝されてきました。

加茂宮ノ前遺跡は約4000年前の縄文時代後期に帰属する遺跡で、朱の付着した石臼や石杵が300点以上出土し、水銀朱の原料である辰砂原石も大量に出土しました。

そのため古代の祭祀などに使われた赤色顔料である水銀朱を生産した一大拠点であったと考えられています。

日本における朱の生産地としては最古級、最大級であり、朱の関連遺物の出土量も最多の遺跡です。


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最初に挙げた写真で分かるように加茂宮ノ前遺跡はかなり広いです。

その調査面積は約1万平方mに及ぶそうですΣ(・ω・ノ)ノ

これまで当該遺跡では、弥生時代中期から鎌倉時代にかけての遺構が発見されていました。

今回の発見で縄文時代後期に相当する祭祀に使っていたとみられる石を円形に配置した遺構14基や竪穴住居跡2基が見つかりました。

このような縄文時代後期の居住域と祭祀の遺構がまとまって確認できたのは西日本で初めての事例とのことですヾ(´ω`=´ω`)ノ



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この加茂宮ノ前遺跡では水銀朱の製造に使われた石杵と石臼だけで300点以上が出土しました。

石臼の大きいものは直径約30cm、石杵では直径約10cmのサイズだそうです。

また原料である辰砂原石や、水銀朱が施された耳飾り、土器などの関連遺物が700点以上出土し、合計1000点以上の「朱」に関連する遺物が出土したことになります。

原料として使用された辰砂原石は遺跡から約5km離れた若杉山周辺から採取された可能性が高いと推定されています。

また出土した土器の模様には九州の土器に類似した特徴が見られることから、当時から地域交流をしていた可能性が指摘されています。

加茂宮ノ前遺跡における今回の発見は、西日本における縄文時代の集落構造の解明に繋がる重要な発見であり、また水銀朱の一大生産地として古くより遠方の他地域との交易を行っていた可能性を示す重要な発見でもあります。


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さて、最後に徳島新聞による現地説明会の様子を撮影した動画へのリンクを載せておきます。


いいですね、これ!


現地説明会に参加した気分になれます(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!



↑加茂宮ノ前遺跡での現地説明会の様子(「徳島新聞動画TPV」の動画)

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2019ねん 1がつ 20にち(にちよーび、晴れ)
この週末は充実していなかったな……

まぁ今日はこれから少し頑張るか

そして明日からまた頑張ろう!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!


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↑右足も見つかるといいね!(*・ω・)ノ(「産経新聞」の記事内画像を一部加工;credit: 山形大学付属博物館)


今回の考古学・歴史ニュースは、「縄文晩期の結髪土偶が90年越しで接合された!」です!


最初に考古学用語を簡単に説明しますと・・・・・・発掘調査では様々な遺構・遺物が出土します。墓といった埋葬遺構や儀礼行為の痕跡の一種である埋納遺構からは当時の形を保った遺物が出土する場合があります。これを「完形資料」と呼びます。


一方で多くの場合、考古資料は何等かの理由(過去の人為的な理由、遺跡生成過程における人為的・自然的理由)によって破損します。

つまりバラバラの破片として出土します。これが「破片資料」です。このバラバラの破片を元の状態にすべく、くっ付けていくことを「接合」と呼びます。


あと、これは共通用語なのか不明ですが、完形ではないが本来の形を推測するには十分な残りの遺物「半完形資料」と呼ぶこともあるようです(論文中で使用したことがないため、定義の確認を行っておりませんヽ(TдT)ノ)。

まぁ土器で言えば、口縁部から底部まで(上部から下部まで)一通り揃っており、且つ残存した口縁部が口径を計算するために十分である(例えば4分の1程度)場合は「半完形」といったところでしょうか。


今回のニュースでは上に挙げた写真から分かるように、土偶の上半身部分と左足が接合しましたので、元々の残存量から破片とは思えませんが厳密には破片資料である土偶(上半身)が半完形の状態にまで接合したと言えるでしょう。


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↑同じく縄文晩期に属する遮光器土偶(「東京国立博物館」の資料カタログより転載)

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さて、問題の土偶は頭部が髪を結ったような形をしていることから「結髪土偶」と呼ばれている資料で山形県で出土したものです。


時期は縄文時代晩期(約3500~2400年前)であり、主に東北地方で見つかっている遮光器土偶の後に出土する資料として知られています。上に写真を上げましたが、遮光器土偶は広く知られていますね。


この結髪土偶は山形県寒河江市の石田遺跡で発見され、大正14年までに地主であった安達又三郎氏が上半身部と脚部を所蔵していました。


その後、各資料は寄贈され、結髪土偶(上半身部)は現在の山形大学付属博物館が所蔵し、脚部は寒河江市が所蔵していました。


郡山女子大学短期大学部の会田容弘教授は、結髪土偶の上半身と脚部双方を確認し、断面の状態や腰の刺突文が左脚部分に続いていることから、双方は一体のものではないかと推論しました。


実際に確認したところ、脚部が上半身の一部と判明し、脚部が正式に山形大学付属博物館に寄贈されました。こうして結髪土偶の出土以来、約90年ぶりの接合となったのです。


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今回の接合によって頭部から脚部まで繋がりましたので、厳密な意味で半完形資料となったと考えられます。

土偶の研究・分類をする上で脚部形態も重要な要素ですので、今回の発見は非常に意義深いものであると思います。

まだ右足が欠損していますが、左足と同じ形態と考えて良いため、研究上は特に問題になりません。

しかしせっかくですからね、右足も見つかってくっついて完全な接合資料になるといいですね。

結髪土偶自身にとってはおよそ3000年以上ぶりの完全体となるわけですから(。・ω・)ノ゙(美術的価値も上がります( -д-)ノ

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