にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ

歩け、マヤ -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

タグ:纏向遺跡

2019ねん 4がつ 29にち(げつよーび、晴れ)

ゴールデンウイークの間に太る予感。

ここ2か月で痩せたのに元に戻りそう( ・Д・)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・

arukemaya245
↑カエル、かわいい!カワ(・∀・)イイ!!(「情報速報ドットコム」の記事内画像より転載)


今日の考古学・歴史ニュースは『纏向遺跡で祭祀・儀礼に用いられたカエルの骨が見つかったよ!』というお話です(*・ω・)ノ

さて、今回の舞台は奈良県、桜井市に所在する纏向(まきむく)遺跡です。

ここは邪馬台国論争、畿内説で有名な3~4世紀の大規模集落跡です。

つまるところ『卑弥呼』が収めた邪馬台国だった蓋然性の高い遺跡なのです。

この時期には古代中国で霊力のある果物とされていた「桃」の種が多く出土する遺跡が多数見つかっており、纏向遺跡でも以前に多量のモモの種が検出されました。

このモモの種などが多数出土した土坑内部の掘り上げ土を詳細に調べたところ、カエルの骨が100点以上含まれていることが確認されたのです。


↓関係する記事のバックナンバーですヾ(´ω`=´ω`)ノ
↑併せてどうぞ(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

馬台国の最有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡から多数のカエルの骨が見つかり、分析の結果、3種12匹程度のものと判明した。多くが、祭祀(さいし)に使われたとみられる大量のモモの種や魚の骨などと同じ層(3世紀中ごろ)から出土し、「神への供え物にカエルが使われた」との見方が浮上している。
邪馬台国の最有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡から多数のカエルの骨が見つかり、分析の結果、3種12匹程度のものと判明した。多くが、祭祀(さいし)に使われたとみられる大量のモモの種や魚の骨などと同じ層(3世紀中ごろ)から出土し、「神への供え物にカエルが使われた」との見方が浮上している。
邪馬台国の最有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡から多数のカエルの骨が見つかり、分析の結果、3種12匹程度のものと判明した。多くが、祭祀(さいし)に使われたとみられる大量のモモの種や魚の骨などと同じ層(3世紀中ごろ)から出土し、「神への供え物にカエルが使われた」との見方が浮上している。

邪馬台国の最有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡から多数のカエルの骨が見つかり、分析の結果、3種12匹程度のものと判明した。多くが、祭祀(さいし)に使われたとみられる大量のモモの種や魚の骨などと同じ層(3世紀中ごろ)から出土し、「神への供え物にカエルが使われた」との見方が浮上している。
邪馬台国の最有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡から多数のカエルの骨が見つかり、分析の結果、3種12匹程度のものと判明した。多くが、祭祀(さいし)に使われたとみられる大量のモモの種や魚の骨などと同じ層(3世紀中ごろ)から出土し、「神への供え物にカエルが使われた」との見方が浮上している
arukemaya246


arukemaya247



arukemaya244
↑検出された依存体の一部と該当部位(
藤原弘
藤原弘
藤原弘
「毎日新聞」の記事内画像より転載; credit: 藤原弘)



この土坑は3世紀前半の大型建造物の傍に位置していることから、3世紀中頃までに作られたものと考えられています。

検出されたカエルの骨は全部で117点あり、ツチガエル(94点)、ナゴヤダルマガエル(13点)、ニホンアオガエル(10点)などと計12個体分の骨を確認しました。

それぞれのカエルの推定体長は4~7cmで同定された3種のカエルは現在の遺跡周辺では生息していません。

しかし奈良県にある同時期のもう一つの有名遺跡である唐古・鍵遺跡ではこの3種のカエルの骨が出土していることから、当時の奈良盆地には生息していたと推定されています。

上に挙げた写真に添えてある図面から分かるように、カエルの骨の表面にはたくさんの小さな傷があります。

この傷は人為的に付けられた可能性があります。

またカエルの骨の8割以上が土坑内のモモの種やその他の動植物、土器、木製品と同じ土層で見つかったことから、当時の祭祀・儀礼行為の一環として用いられ、埋められたものと考えられるそうです。

現代の我々にはカエルと神事は結び付かないようにも思えますが、奈良県の無形民俗文化財で、舞や歌などを奉納する「国栖奏(くずそう)」という吉野町の伝統行事では現在でも神前にカエルが供えられるそうです。

古代中国ではカエルも強い霊力を有した動物とされていたことから、モモと共にカエルが儀礼に用いられて神に捧げられたのでしょうね(・∀・)つ


↓読者登録しておくれ!( ・Д・)↓

このエントリーをはてなブックマークに追加

2018ねん 6がつ 21にち(もくよーび、時に激しい雨)

6月は毎日書くよ!って言いながら、

初旬は忙殺されてサボり気味……

ちゃんと更新頻度まともにしますね( -д-)ノ

ロクに更新もしてないのに来訪者も多く、本当に感謝しておる!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

・・・・・・・・・・・・
a153

【目次】
  1. はじめに
  2. 今回の研究成果
  3. 邪馬台国論争とは
  4. 論争が終結し得るのか?
  5. おわりに

1.はじめに
今回紹介するのは名古屋大学の研究成果です。ニュース元はYahoo!Japanニュースの記事です。そこでタイトルが「モモの種で『邪馬台国論争』終止符か?」となっている件が気になって記事にしてみました。

邪馬台国論争と言えば、その所在の問題として、大きくは2説あります。「畿内説」と「九州説」です。後ほど取り上げますが「吉備説」もありますよ。

今回紹介する記事の元である纒向学研究センターの研究紀要では「畿内説」を支持する方向で書かれていまして、Yahoo!Japanニュースの元記事でも「畿内説」支持で書かれている模様です。

私は古典期マヤ(後3世紀~9世紀頃)とほぼ同時期の弥生時代後期~古墳時代(後1~7世紀頃)に関心がありますが、「邪馬台国論争」については素人ですし、諸説ある中でニュートラルな立場におります( -д-)ノ


2.今回の研究成果
今回の記事に関連する遺跡は、奈良県桜井市に所在する纏向(まきむく)遺跡です。この遺跡で2009年に大量のモモの種が出土したそうです。その数、2765個!

3世紀前半の居館の跡と思われる柱穴が発見され、それは東西に一直線に並ぶ4棟の巨大な建物だと分かりました。その中でも最大の規模である「D棟」は3世紀前半では最大の建物跡(東西約 12.4m、南北約 19.2m)とされており、卑弥呼の宮殿とみる研究者もいるとのこと。

この建物(D棟)の5m南側から平面形態が楕円形の土坑(東西約 2.2m、南北約 4.3m、深さ 80cm)が検出され、その中から約2800個のモモの種核(直径約 2.5cm)が出土したのです。

竹笊(たけざる)6点(直径 30~60cm)や木製の剣、故意に割られた土器片、漆塗りの弓、獣骨なども出土し、いずれも祭祀に関連するものという解釈です。

中村俊夫(名古屋大)がこの約2800個のモモの種核の内、ランダムに抽出した15点を放射性炭素年代測定法にかけて時期を算出しました。測定できなかった3点を除き、全て西暦135~230年のもの判明しました。また山形大が行った測定でも同様の結果が出たそうです。

つまりモモの種核の年代である西暦135~230年は、女王・卑弥呼(248年ごろ没)の年代と重なり、邪馬台国畿内説を補強する成果であるという研究なのです。

纏向遺跡は巨大な集落跡であり、箸墓古墳(一部で卑弥呼の墓と言われている)を含む6基の古墳が分布しています。これまで(特に畿内説否定派の根拠として)後4世紀頃の遺跡と言われていましたが、今回の研究成果から、遅くとも3世紀半ばまでには既に非常に大規模な集落であった可能性を指摘できるとのことです。


3.邪馬台国論争とは
さて、邪馬台国論争とは何かですが、簡単に紹介します。

邪馬台国(やまたいこく)は、2世紀~3世紀に日本列島に存在したとされる国のひとつ。邪馬台国は倭女王卑弥呼の宮室があった女王国であり、倭国連合の都があったと解されている。

古くから大和国(やまとこく)の音訳として認知されていたが、江戸時代に新井白石が通詞今村英生の発音する当時の中国語に基づき音読した、ことから(やまたいこく)の読み方が広まった。邪馬台国の所在地については21世紀に入っても議論が続いている。

(Wikiより引用;筆者により一部変更)
教科書にも出てくるアレですね。中国の『三国志』の一部である「魏志倭人伝」にて記載されていて、親魏倭王卑弥呼は、約30の国からなる倭国の都として、邪馬台国に居住していたそうです。

この邪馬台国論争自体はいくつか種類がありますが、一番の焦点はやはり『どこにあったのか?』です。

先にも述べましたように、「畿内説」、「九州説」、「吉備説」、「四国説」、「東遷説」があります。「東遷説」は九州で最初に王朝が成立し、後に畿内に遷都したとする説です。


4.論争が終結し得るのか?
さて、問題のモモの種ですが、本当に邪馬台国論争が終結し得るような決定打になるのでしょうか?

ちなみにモモの原産地は中国です。紀元前7500年の裴李崗(はいりこう)文化においてモモの種核が出土しています。日本では、縄文時代前期(紀元前4000年)の伊木力(いきりき)遺跡(長崎県)で出土したモモの種核が最古になります。

そうです。縄文時代にはすでにモモがあったんですよ。
a155
↑縄文時代のモモの分布(「岡山大学、埋蔵文化財調査研究センター報No.55」より転載)

しかもかなり広く分布しておるΣ(・ω・ノ)ノ

まぁ確かにこれだけ見ると、弥生時代以前に、縄文時代にはすでに全国分布してるじゃないかーってなりますけども、出土数は非常に少ないのです。各遺跡で僅か1~2点程度のようですね。
a156
↑モモの大きさの比較(「岡山大学、埋蔵文化財調査研究センター報No.55」より転載)

Wikiによると、「モモは弥生時代後期に大陸から栽培種が伝来し桃核が大型化」するとあるのですが(2018.6.21現在)、この岡山大の提示するデータからすると間違いですね。

モモの種核のサイズ自体は変化ないのです。変化があるのは出土数!今回紹介した纏向遺跡のように約2800点も出るのですからね。

モモは産地として中国由来なだけではなく、その文化的思想も中国由来なのです。つまり仙果として食す者に仙力を与え、また邪気を祓い、不老不死の効果(ギリシア神話の黄金のリンゴみたいな感じ)も有していると考えられており、実際に薬に調合していたようです。

日本でも古来より、モモは邪気を払う力があると考えられてきました。『古事記』では、伊弉諸尊(いざなぎのみこと)が「桃」を投げつけることによって鬼女、黄泉醜女(よもつしこめ)を退散させたことが記載されています。

日本の昔話である「桃太郎」や、3月3日の「桃の節句」も、この邪気を払う桃の効果に由来しているのです。

さて、このようなモモですが、中国由来ということは分かりましたね。弥生時代後期頃に邪馬台国は当時の中国(魏、晋)へ朝貢を行っていますから、

このような外交の中で「桃」をある種神聖視する文化を取り込んだ結果として、弥生時代後期において「桃の一大ブーム」が起きたと考えるのは問題ないように思えます。

ではこの時期にモモが文化的・儀礼的に重要視される中で、多量に生産・消費されるようになったのであれば、そのような文化が広がったのは邪馬台国だけなのでしょうか?

邪馬台国の地として有力な纏向遺跡以外では多量にモモの種核が出土することはないのでしょうか?

調べてみました……うん、たくさん出てるΣ( ̄ロ ̄|||)

場所は岡山県ですね。現在も桃の栽培が盛んな地域です。その出土量は、県内の合計出土数が約13000点だそうです。県内最古は、津島岡大(つしまおかだい)遺跡で出土したもので縄文時代後期(約3500年前)です。

弥生時代~古墳時代において遺跡で出土するモモの種核の出土点数は、縄文時代より多いとは言え、3~50点くらいが多いようです。その意味では纏向遺跡の約2800点は驚異なわけですが……

岡山県のモモの種核出土数第2位、津島遺跡では2415点!纏向遺跡とそんなに大きく変わらないですよね。




・・・



・・・・・・



・・・・・・・・・


そして第1位、上東遺跡では9606個!

纏向遺跡の3倍も出てるし(゚Д゚≡゚д゚)エッ!?

先に述べましたように纏向遺跡では土坑内に、儀礼具等と共に見つかりました。一方でこの岡山県の2遺跡でも儀礼具を伴うそうです。ただ出土地点は河道や河口付近の波止場状遺構といった河川の傍で見つかるようで、どうやら「水」に関係する儀礼行為に用いられたようです。


5.おわりに
纏向遺跡が邪馬台国の有力候補地である根拠は、箸墓古墳の存在、巨大建造物群の存在、魏志倭人伝の記述などなどいくつかあります。何もモモの種核だけが根拠なわけではありません。

でも今回紹介した記事では、モモの種核の研究によって邪馬台国論争に終止符が打たれるような書き方でしたね。名古屋大教授が書いた紀要も確認しましたが、研究者はそのようなことは書いていません。ネットの記事がそう誇張して書いたのです。

タイトルと内容が乖離し過ぎるのはどうかなと思います。まぁタイトルが読者を惹き付けますし、気持ちは分かりますが、内容読んだ後に???ってなります( ・Д・)

論文じゃないので他者のこと批判しても大した意味はありません。ただ、私がタイトル付ける時は今後気を付けようと思うのみです( -д-)ノ

今回のモモの種核の研究だけでは論争の決め手にはなりそうにないのですが、仮にその出土数だけで述べると「吉備説」になりますよね。

一方で吉備の9606個はいつのものか分かりません。もちろん弥生時代のものですが、纏向遺跡は「一度の儀礼で使用して、一度に廃棄した」と考えられているのです。もし吉備の9606個が「貝塚のように」長い時間の中で堆積したものであれば、当然解釈も変わってくるのです。

個人的には、もし、一発でこれだ!って永きに渡る論争に終止符を打つものがあるとしたら、「箸墓古墳」の発掘ではないかと思います。宮内庁の管轄なので掘れませんから、まぁ古代日本の浪漫はまだまだ続きそうですね。

そういう意味で、宮内庁書陵部はもしかしたら私たち日本人に悠久に続く浪漫を保持させ続けてくれているのかも知れませんね( ・Д・)……掘りたいけどね!( ・Д・)

↓久々の更新だ~!久々に押してみる?(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!↓

このエントリーをはてなブックマークに追加

↑このページのトップヘ