
↑みんな謎が好きらしい・・・研究者はそもそも謎だと思ってないってSNSで書かれてたが!( ・Д・)
今回の考古学・歴史ニュースは
「ストーンヘンジの巨石が立つおよそ千年前、初期の農耕民たちが白亜の大地へ全長約2.8キロの土手と溝を刻んだのに、内部には住居も祭壇も大量の遺物も残さず、「道」「境界」「死者の領域」「太陽を追う装置」という説だけが積み重なった――グレーター・カーサスの正体を、研究史と赤鹿の角一本が覆した年代測定から追い直す!( ・Д・)」
ってお話です(*・ω・)ノ
📰はじめに
ストーンヘンジを訪れた人の多くは、当然ながら巨石を見る。
高さ4メートルを超えるサーセン石、その上に載せられたまぐさ石、夏至の日の出と冬至の日没を意識した軸線……。
しかし、その北側へ視線を移すと、巨石よりもはるかに大きな遺構が横たわっている。
全長約2.8キロ、幅約110~165メートル。細長い空間を、土手と外側の溝がぐるりと囲んでいる。
これが「グレーター・カーサス」、または「ストーンヘンジ・カーサス」と呼ばれる新石器時代の巨大土木遺構である。
ところが、地上へ立ってみても、その全体像はほとんど見えない。
長すぎるうえ、数千年の耕作によって土手は削られ、溝は埋まり、東端の一部は農地や植林によって姿を失ったからだ。現在見えるのは、草原のわずかな高低差や、地面を横切る淡い線にすぎない。
それでも造られた当初、白亜質の地面へ掘り込まれた溝と、掘り上げた土を積んだ土手は、周囲の草原にはっきりとした傷のように浮かび上がったはずである。
では、文字も都市も王宮もなかった時代に、人々はなぜ3キロ近い線を大地へ引いたのだろうか。
🏇 競馬場だ!――1723年、奇妙な遺構に名前がついた
この遺構を初めて詳細に記録したのは、18世紀イギリスの医師・聖職者・古物研究家ウィリアム・ステュークリである。
1723年8月6日、ストーンヘンジ周辺を踏査していた彼は、その北側に二本の長い土手と溝が走っていることに気づいた。
西端は丸みを帯び、東端には大きな土手がある。内部は広く、谷を挟んだ両側の高地へ延びている。
ステュークリの脳裏に浮かんだのは、古代ローマのキルクス、すなわち戦車競走場だった。
そこで彼は、ラテン語で「走路」「競走」を意味する「カーサス」、あるいはギリシア・ローマ世界の競馬場を指す「ヒッポドローム」と呼んだのである。
ただし、ここは少し注意が必要だ。
ステュークリは「ローマ人がこの遺構を造った」と単純に考えたわけではない。彼はストーンヘンジとカーサスを古代ブリトン人のドルイドに結びつけ、宗教祭礼の際に戦車や馬の競技が行われた場所だと想像した。
ローマの競技場になぞらえて名づけた言葉だけが、用途の解釈を失った後も考古学用語として残ってしまったのだ。
彼は東端の大土手を審判や有力者の観覧席、西端の湾曲部を戦車が折り返す場所と考え、二つの溝の間では大勢の観客が競走を見守ったと描写した。
もちろん、戦車の車輪跡も観覧席も、ローマ時代の競技施設も発見されていない。
それでもステュークリの測量図と風景画は貴重だった。18世紀には、現在より土手と溝がよく残っており、その後の耕作や植林で消えた東端や開口部の姿まで記録されていたからである。
だが「カーサス」がストーンヘンジだけの特殊な遺構ではないと分かったのは、それから200年以上後だった。
1930年代、航空写真家G・W・アレンがテムズ川上流域で撮影した畑に、平行する長大なクロップマークが現れた。1934年に考古学者E・T・リーズが長方形遺構として報告し、翌年にはO・G・S・クロフォードがストーンヘンジのカーサスとの類似を指摘した。
その後、航空写真の利用が広がるにつれ、同じような遺構がイングランド各地、スコットランド、ウェールズ、アイルランドから次々に確認された。
大部分は地上から消えている。埋まった溝の土は周囲より水分を保つため、その上だけ穀物が濃く、高く育つ。真夏の上空から見ると、数千年前の線が畑の色の違いとなって浮かび上がるのである。
カーサスの長さは100メートル前後から数キロまでさまざまで、ドーセット・カーサスは複数段階の遺構を一続きとみれば約10キロに達する。
ストーンヘンジのカーサスは、謎の巨大遺構群につけられた「最初の名前」だったのだ。
↑よく手付かずで残ってるね、こんなに広いのに!( ・Д・)(「Wikipedia」より転載)
🌾 巨石の前にやって来た、海を渡る農耕民たち
グレーター・カーサスが造られた時代、ブリテン島では人々の暮らしそのものが大きく変わっていた。
紀元前4100~4000年頃まで、島の人々は狩猟・漁労・採集を中心に生活していた。ところが紀元前4000年頃、海を渡ってヨーロッパ大陸から農耕と牧畜、土器、磨製石斧などの新しい技術が持ち込まれる。
古代DNA研究によれば、これは生活様式だけがゆっくり伝わったのではない。大陸から農耕民が多数移住し、ブリテン島の人口構成を大きく変えた出来事だった可能性が高い。
彼らは小麦や大麦、豆類を育て、ウシやブタなどを飼った。しかし、後世の農村のように一か所へ完全に定住していたとは限らない。季節ごとに家畜や資源を追い、一定の領域を移動しながら暮らしていた集団も多かったと考えられている。
そして不思議なことに、彼らは大きな集落より先に、大地へ共同の記念物を築き始めた。
死者の骨を納めるロング・バロウと呼ばれる長大な墳丘墓、人々が集まったと考えられる分節された溝の「コーズウェイド・エンクロージャー」、そして細長いカーサスである。
ストーンヘンジ周辺でも、グレーター・カーサスの北西にロビン・フッズ・ボールの囲い込み遺構が築かれ、周囲には複数のロング・バロウが並んだ。
カーサス東端のすぐ外側には、現在「エイムズベリー42」と呼ばれる全長約82メートルのロング・バロウがある。カーサスは、この古い墳丘墓へ突き当たるように延びている。
しかも、その数世紀前の紀元前3950~3790年頃、ストーンヘンジ南東のコニーベリーでは、ウシ、シカ、ブタの骨、土器、石器が一つの穴へ大量に納められていた。
家畜と野生動物、農耕民的な遺物と狩猟採集民的な石器が混在することから、移住してきた農耕民と、なお周辺に暮らしていた狩猟採集民が、一度の大きな饗宴に参加したのではないかという説もある。
断定はできない。だが少なくとも、カーサス以前のソールズベリー平原では、異なる集団が出会い、食べ、死者を記憶し、共同作業を行う景観が生まれつつあった。
王の命令を刻んだ碑文はない。労働者の名も残らない。
それでも3キロの溝を掘るためには、複数の共同体が食料と人員を持ち寄り、作業範囲を分担しなければならなかったはずである。
実際、南側の溝には、人が通るには狭すぎる小さな掘り残しが見つかっている。これは出入口ではなく、別々の作業集団が両側から溝を掘り進め、最後に接した境目だった可能性が指摘されている。
カーサスは何かをする場所である以前に、「私たちはこれほど巨大な線を一緒に造れる」と示す行為そのものだったのかもしれない。
↑この写真だと溝すらわからん、こんな時こそ考古学的「心の目」が大事!( ・Д・)(「Wikipedia」の画像より転載)
⛏️ 3キロの囲いなのに、壁はまっすぐではなかった
グレーター・カーサスは、上空から見ると巨大な細長い長方形に見える。
しかし実際の姿は、定規で引いたような幾何学図形ではない。
北側の溝は比較的まっすぐだが、細部では緩やかに蛇行している。南側の溝は西寄りで外側へ折れ、遺構の幅は約110メートルから165メートルまで変化する。
そして全体は平坦な滑走路でもない。
西のファーゴ・プランテーション付近と、東のキング・バロウ・リッジという二つの高地を結び、その途中で「ストーンヘンジ・ボトム」と呼ばれる浅い谷へ下って再び上る。季節によって湿る低地まで、巨大な囲いの一部として取り込んでいる。
西端では溝の幅が最大約2.75メートル、深さ約2メートルに達し、内側の土手も幅約10メートルあった。一方、側面の一部では溝の幅約1.8メートル、深さ約75センチにすぎない。
つまり、すべてを同じ規格で一度に掘ったのではない。端部をとくに巨大化し、場所ごとの地形や意味に応じて造り方を変えていた。
西端の大土手と、東端に接するロング・バロウは、遠くから見るとよく似た長い墳丘に見えた可能性がある。
ドーセット・カーサスでも、既存のロング・バロウが土手へ組み込まれている。カーサスは単なる通路ではなく、祖先の墓が置かれた景観をつなぎ直し、巨大化する建築だったのかもしれない。
一方で、内部は奇妙なほど「空白」である。
2007年に西端部で行われた物理探査では、期待された建物や祭壇の痕跡はほとんど現れなかった。続く5本の発掘区でも、長期間の居住や大規模な飲食を示す大量の土器・獣骨・炉跡は見つからなかった。
ただし、調べられたのは全長2.8キロに及ぶ空間のごく一部だ。「内部には何もなかった」と言い切ることはできない。
それでも、同時代より少し後のデュリントン・ウォールズで大量の住居、土器、動物骨、饗宴の痕跡が見つかっていることを考えると、カーサスの清潔さは際立っている。
人が日常的に暮らすことを禁じられた聖域だったのか。
あるいは、立ち止まって物を残す場所ではなく、ただ通過するための空間だったのか。
遺物が少ないこと自体が、用途を考える手がかりであると同時に、決定的な答えを奪っている。
↑昔の絵だと確かに競馬場?的に見える気もする!( ・Д・)(「Wikipedia」の画像より転載)
🦌 赤鹿の角一本が、遺跡を千年も古くした!
グレーター・カーサスの研究を長く混乱させたのは、出土品の少なさだった。
土器の型式がほとんど出なければ、造られた年代も分からない。
最初の発掘は1917年、R・ファラーが東寄りの土手と溝を横断する小さな発掘区を設けたことに始まる。1947年にはJ・F・S・ストーンが南側の溝を調査し、サーセン石とブルーストーン系岩石の小片、石器製作の剥片、そして赤鹿の角を発見した。
この角を後に放射性炭素年代測定すると、紀元前2890~2460年という結果が出た。
それならカーサスは、紀元前3000年頃に始まったストーンヘンジとほぼ同時代か、場合によっては巨石が立てられた紀元前2500年頃に近いことになる。
長いあいだ、その年代が研究へ影響を与えた。
しかし、角が出たのは最初に掘られた溝の底ではなく、溝の側面へ後から掘り込まれたような窪みだった。1980年代の再調査では、「遺構の築造年代ではなく、後世の再利用を測っているのではないか」という疑いが強まった。
そこで2007年、ストーンヘンジ・リバーサイド・プロジェクトの研究者たちは、西端部を物理探査したうえで5か所を発掘した。
そして第26発掘区、カーサス西端の深い溝の最下部から、使い込まれて傷ついた赤鹿角製の掘り具が発見された。
角は溝の底に接し、その上を掘削直後の白亜質の崩落土が覆っていた。つまり、後世に入り込んだ可能性が低く、溝を掘った作業そのものに近い年代を示す、理想的な試料だった。
同じ角を二度測定した結果は、それぞれ紀元前3632~3375年と紀元前3630~3370年。統計的にまとめた年代は、紀元前3630~3370年頃となった。
グレーター・カーサスは、従来の測定値よりおよそ千年も古かったのである!( ・Д・)
ストーンヘンジ最初の円形土塁と溝が造られたのは紀元前3000年頃。カーサスはそれより数百年古く、現在見えている巨大なサーセン石が立てられる紀元前2500年頃より、およそ900~1100年も先行する。
つまり「ストーンヘンジの付属施設」ではない。
巨石どころか、最初のストーンヘンジさえ存在しなかった時代に、すでにこの土地の方向、境界、移動の仕方を決めていた巨大モニュメントだったのだ。
しかも、1947年の古い測定結果が無意味になったわけではない。
2007年の発掘では、最初の溝が埋まり始めた後、その輪郭に沿って小さな穴や掘り直しが加えられたことも確認された。紀元前3千年紀後半、ストーンヘンジの巨石やデュリントン・ウォールズの木柱建築が造られた頃、人々は千年近く前のカーサスをもう一度掘り返し、その線を再生したらしい。
さらに青銅器時代には溝の再掘削や柵が加えられ、内部や周辺へ円墳が築かれた。
カーサスは一度の祭礼に使われて忘れられたのではない。用途が変わっても、「ここには越えるべき線がある」という記憶が千年以上残り続けたのである。
⚰️ 行列の道か、死者の国境か――五つの説が競い合う
年代は分かった。
だが、何のために造ったのかは分からない。
最もよく知られているのは「儀礼的な行列の道」説である。
二本の土手に挟まれた長大な空間を、人々が歩き、祖先の墓や特別な地形へ向かったという考えだ。内部に生活遺物が少ないことも、「滞在する場所ではなく移動する場所」と考えれば説明できる。
しかし、現代の道路のような舗装面はなく、端部は土手で閉じられていた。出入口らしい切れ目は主に長辺側にあり、必ず東端から西端まで一直線に進む構造だったとも限らない。
第二は「死者と祖先のための景観」説である。
東端のエイムズベリー42をはじめ、カーサスは古いロング・バロウを意識して配置されている。後世の人々もその内外へ円墳を築いた。生者が日常生活を送る場所と、祖先や死者に属する場所を分ける境界、あるいは死者を運ぶ儀礼の舞台だった可能性がある。
ただし、カーサスと同時期の埋葬が内部から大量に見つかったわけではない。「墓に近い」ことと「葬送専用施設だった」ことは同じではない。
第三は「領域を分ける障壁」説である。
カーサスは川や湿地、尾根、古い墓を横断し、土地を視覚的に切り分けた。共同体の領域、季節ごとの放牧地、日常空間と儀礼空間の境を示したのかもしれない。
第四は、ウシの移動や季節的な牧畜と関係するという説である。
多くのカーサスが河川や低湿地、家畜が通りやすい谷筋と結びつくことから、もともとの家畜移動路を記念物化した、あるいは群れを誘導する実用的な通路から始まったという研究もある。
もっとも、巨大な端部や古墳との関係まで、家畜だけで説明するのは難しい。
第五は「競技・通過儀礼」説である。
ステュークリの戦車競走は支持されていないが、一部のカーサス端部から矢尻が見つかることなどをもとに、狩猟や弓術、若者の成人儀礼、集団間の競争が行われたという提案もある。
しかし、この説をグレーター・カーサスへ直接当てはめる証拠は乏しい。
おそらく問題は、「カーサス」という一つの名前を持つ遺構すべてに、一つの用途を求めていることなのだ。
長さ100メートルのものと10キロのもの、土手と溝で囲むものと木柱や穴の列で示すもの、墓へ向かうものと川を横切るものが、まったく同じ儀礼に使われたとは限らない。
行列の道であり、境界であり、祖先を記憶する場所であり、季節の集会場でもあった――その役割が時代と集団によって変わった可能性も十分にある。
↑昔は頑張ってこうして人力で工事したんだよね( ・Д・)(「English Heritage」の記事内画像より転載)
☀️ 夏至を示す二つの穴?――空から見えた「答え」と、その危うさ
2010年から始まったストーンヘンジ・ヒドゥン・ランドスケープ・プロジェクトは、地中レーダー、磁気探査、電気抵抗探査などを組み合わせ、ストーンヘンジ周辺約12平方キロメートルを非破壊で調査した。
その結果、地上から見えない墓、溝、円形遺構、穴が何百も検出された。
とりわけ注目されたのが、グレーター・カーサスの東西寄りに位置する二つの巨大な穴である。
いずれも直径約5メートル、深さは少なくとも1メートル。2012年の報告では、ストーンヘンジ入口外側のヒール・ストーンから見ると、一方が夏至の日の出、もう一方が夏至の日没の方向に近いとされた。
もし穴に木柱や石が立ち、あるいは火や煙が上がっていたなら、ストーンヘンジから太陽の一日の動きを示す二つの目印になったのかもしれない。
この発見によって、カーサスとストーンヘンジの太陽儀礼が、一つの巨大な景観として結びついたように見えた。
だが、ここで「夏至の観測装置が発見された!」と断定してはいけない。
二つの穴は物理探査で検出されただけで、発掘されておらず、年代も分かっていない。カーサスが築かれた紀元前3500年頃の穴なのか、ストーンヘンジの巨石が立った紀元前2500年頃なのか、それとも別の時代なのかさえ不明である。
基準となるヒール・ストーン自体も正確な設置年代が分からず、カーサス周辺には選ばれた二つ以外にも大きな穴が存在する。
2024年には考古天文学者クライブ・ラグルズとアマンダ・チャドバーンが、二つだけを選んで線を引く方法は、利用可能なデータを超えた解釈だと批判した。
点が二つあれば必ず線は引ける。
重要なのは、その二点が同時代に、人間の意図によって、太陽を示すため配置されたことを証明できるかどうかなのだ。
そして2026年、ストーンヘンジから約5キロ離れたブルフォードで、約120メートル離れた二つの大型柱穴が、紀元前2950年頃の夏至の日の出と冬至の日没へほぼ正確に向けられていたと発表された。
こちらは発掘され、柱を支えた構造と放射性炭素年代が得られている。紀元前3000年頃のソールズベリー平原で、太陽の転換点を意識した建造物が造られていた可能性は、以前より強くなった。
しかし、それでも紀元前3500年頃のカーサスまで太陽信仰へ直結させることはできない。
むしろ二つの事例の差は、考古学にとって「線が合う」だけでなく、「いつ造られたか」を確かめることがどれほど重要かを教えてくれる。
グレーター・カーサスは、ストーンヘンジの背景ではない。
先にロング・バロウが置かれ、その墓を意識してカーサスが大地を横切り、数百年後に最初のストーンヘンジが築かれ、さらに後に巨石が立ち、古いカーサスの輪郭が穴や溝によって掘り直された。
この土地では、一つの聖地が完成したのではない。
異なる世代が、すでに古くなった記念物を見つめ、その意味を読み替えながら、次の記念物を重ねていったのである。
だから、カーサスの用途が一語で答えられないのは当然なのかもしれない。
それはある時代には共同体を結ぶ仕事であり、別の時代には祖先へ向かう道であり、さらに後には越えてはならない境界や、忘れてはいけない古い線だった可能性がある。
なにはともあれ……。
ストーンヘンジへ行って巨石だけを見て帰るのは、物語の最終章だけを読んで本を閉じるようなものだ。
北の草原に残る、ほとんど見えない3キロの凹凸こそが、巨石より千年早く始まった物語の第一章なのである!( ・Д・)
なにはともあれ……
なんでよくわからんけど私は昔から天文関係の遺構があんまり好きではない!( ・Д・)










































