あるけまや -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

    お金にならない考古学をお金にしよう╭( ・ㅂ・)و ̑̑ グッ ! 考古学・歴史ニュースの決定版╭( ・ㅂ・)و ̑̑ グッ !

    考古学ミステリー

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    2026ねん 8がつ20にち(もくよーび、晴れ)

    連休明けのせいか今週は疲れてる気がする!( ・Д・)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    arukemaya_y992

    ↑みんな謎が好きらしい・・・研究者はそもそも謎だと思ってないってSNSで書かれてたが!( ・Д・)





    今回の考古学・歴史ニュースは

    ストーンヘンジの巨石が立つおよそ千年前、初期の農耕民たちが白亜の大地へ全長約2.8キロの土手と溝を刻んだのに、内部には住居も祭壇も大量の遺物も残さず、「道」「境界」「死者の領域」「太陽を追う装置」という説だけが積み重なった――グレーター・カーサスの正体を、研究史と赤鹿の角一本が覆した年代測定から追い直す( ・Д・)」

    ってお話です(*・ω・)ノ





    📰はじめに



    ストーンヘンジを訪れた人の多くは、当然ながら巨石を見る。

    高さ4メートルを超えるサーセン石、その上に載せられたまぐさ石、夏至の日の出と冬至の日没を意識した軸線……。

    しかし、その北側へ視線を移すと、巨石よりもはるかに大きな遺構が横たわっている。

    全長約2.8キロ、幅約110~165メートル。細長い空間を、土手と外側の溝がぐるりと囲んでいる。

    これが「グレーター・カーサス」、または「ストーンヘンジ・カーサス」と呼ばれる新石器時代の巨大土木遺構である。

    ところが、地上へ立ってみても、その全体像はほとんど見えない。

    長すぎるうえ、数千年の耕作によって土手は削られ、溝は埋まり、東端の一部は農地や植林によって姿を失ったからだ。現在見えるのは、草原のわずかな高低差や、地面を横切る淡い線にすぎない。

    それでも造られた当初、白亜質の地面へ掘り込まれた溝と、掘り上げた土を積んだ土手は、周囲の草原にはっきりとした傷のように浮かび上がったはずである。

    では、文字も都市も王宮もなかった時代に、人々はなぜ3キロ近い線を大地へ引いたのだろうか。


    🏇 競馬場だ!――1723年、奇妙な遺構に名前がついた

    この遺構を初めて詳細に記録したのは、18世紀イギリスの医師・聖職者・古物研究家ウィリアム・ステュークリである。

    1723年8月6日、ストーンヘンジ周辺を踏査していた彼は、その北側に二本の長い土手と溝が走っていることに気づいた。

    西端は丸みを帯び、東端には大きな土手がある。内部は広く、谷を挟んだ両側の高地へ延びている。

    ステュークリの脳裏に浮かんだのは、古代ローマのキルクス、すなわち戦車競走場だった。

    そこで彼は、ラテン語で「走路」「競走」を意味する「カーサス」、あるいはギリシア・ローマ世界の競馬場を指す「ヒッポドローム」と呼んだのである。

    ただし、ここは少し注意が必要だ。

    ステュークリは「ローマ人がこの遺構を造った」と単純に考えたわけではない。彼はストーンヘンジとカーサスを古代ブリトン人のドルイドに結びつけ、宗教祭礼の際に戦車や馬の競技が行われた場所だと想像した。

    ローマの競技場になぞらえて名づけた言葉だけが、用途の解釈を失った後も考古学用語として残ってしまったのだ。

    彼は東端の大土手を審判や有力者の観覧席、西端の湾曲部を戦車が折り返す場所と考え、二つの溝の間では大勢の観客が競走を見守ったと描写した。

    もちろん、戦車の車輪跡も観覧席も、ローマ時代の競技施設も発見されていない。

    それでもステュークリの測量図と風景画は貴重だった。18世紀には、現在より土手と溝がよく残っており、その後の耕作や植林で消えた東端や開口部の姿まで記録されていたからである。

    だが「カーサス」がストーンヘンジだけの特殊な遺構ではないと分かったのは、それから200年以上後だった。

    1930年代、航空写真家G・W・アレンがテムズ川上流域で撮影した畑に、平行する長大なクロップマークが現れた。1934年に考古学者E・T・リーズが長方形遺構として報告し、翌年にはO・G・S・クロフォードがストーンヘンジのカーサスとの類似を指摘した。

    その後、航空写真の利用が広がるにつれ、同じような遺構がイングランド各地、スコットランド、ウェールズ、アイルランドから次々に確認された。

    大部分は地上から消えている。埋まった溝の土は周囲より水分を保つため、その上だけ穀物が濃く、高く育つ。真夏の上空から見ると、数千年前の線が畑の色の違いとなって浮かび上がるのである。

    カーサスの長さは100メートル前後から数キロまでさまざまで、ドーセット・カーサスは複数段階の遺構を一続きとみれば約10キロに達する。

    ストーンヘンジのカーサスは、謎の巨大遺構群につけられた「最初の名前」だったのだ。





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    ↑よく手付かずで残ってるね、こんなに広いのに!( ・Д・)(「Wikipedia」より転載)


    🌾 巨石の前にやって来た、海を渡る農耕民たち

    グレーター・カーサスが造られた時代、ブリテン島では人々の暮らしそのものが大きく変わっていた。

    紀元前4100~4000年頃まで、島の人々は狩猟・漁労・採集を中心に生活していた。ところが紀元前4000年頃、海を渡ってヨーロッパ大陸から農耕と牧畜、土器、磨製石斧などの新しい技術が持ち込まれる。

    古代DNA研究によれば、これは生活様式だけがゆっくり伝わったのではない。大陸から農耕民が多数移住し、ブリテン島の人口構成を大きく変えた出来事だった可能性が高い。

    彼らは小麦や大麦、豆類を育て、ウシやブタなどを飼った。しかし、後世の農村のように一か所へ完全に定住していたとは限らない。季節ごとに家畜や資源を追い、一定の領域を移動しながら暮らしていた集団も多かったと考えられている。

    そして不思議なことに、彼らは大きな集落より先に、大地へ共同の記念物を築き始めた。

    死者の骨を納めるロング・バロウと呼ばれる長大な墳丘墓、人々が集まったと考えられる分節された溝の「コーズウェイド・エンクロージャー」、そして細長いカーサスである。

    ストーンヘンジ周辺でも、グレーター・カーサスの北西にロビン・フッズ・ボールの囲い込み遺構が築かれ、周囲には複数のロング・バロウが並んだ。

    カーサス東端のすぐ外側には、現在「エイムズベリー42」と呼ばれる全長約82メートルのロング・バロウがある。カーサスは、この古い墳丘墓へ突き当たるように延びている。

    しかも、その数世紀前の紀元前3950~3790年頃、ストーンヘンジ南東のコニーベリーでは、ウシ、シカ、ブタの骨、土器、石器が一つの穴へ大量に納められていた。

    家畜と野生動物、農耕民的な遺物と狩猟採集民的な石器が混在することから、移住してきた農耕民と、なお周辺に暮らしていた狩猟採集民が、一度の大きな饗宴に参加したのではないかという説もある。

    断定はできない。だが少なくとも、カーサス以前のソールズベリー平原では、異なる集団が出会い、食べ、死者を記憶し、共同作業を行う景観が生まれつつあった。

    王の命令を刻んだ碑文はない。労働者の名も残らない。

    それでも3キロの溝を掘るためには、複数の共同体が食料と人員を持ち寄り、作業範囲を分担しなければならなかったはずである。

    実際、南側の溝には、人が通るには狭すぎる小さな掘り残しが見つかっている。これは出入口ではなく、別々の作業集団が両側から溝を掘り進め、最後に接した境目だった可能性が指摘されている。

    カーサスは何かをする場所である以前に、「私たちはこれほど巨大な線を一緒に造れる」と示す行為そのものだったのかもしれない。





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    ↑この写真だと溝すらわからん、こんな時こそ考古学的「心の目」が大事!( ・Д・)(「Wikipedia」の画像より転載)


    ⛏️ 3キロの囲いなのに、壁はまっすぐではなかった

    グレーター・カーサスは、上空から見ると巨大な細長い長方形に見える。

    しかし実際の姿は、定規で引いたような幾何学図形ではない。

    北側の溝は比較的まっすぐだが、細部では緩やかに蛇行している。南側の溝は西寄りで外側へ折れ、遺構の幅は約110メートルから165メートルまで変化する。

    そして全体は平坦な滑走路でもない。

    西のファーゴ・プランテーション付近と、東のキング・バロウ・リッジという二つの高地を結び、その途中で「ストーンヘンジ・ボトム」と呼ばれる浅い谷へ下って再び上る。季節によって湿る低地まで、巨大な囲いの一部として取り込んでいる。

    西端では溝の幅が最大約2.75メートル、深さ約2メートルに達し、内側の土手も幅約10メートルあった。一方、側面の一部では溝の幅約1.8メートル、深さ約75センチにすぎない。

    つまり、すべてを同じ規格で一度に掘ったのではない。端部をとくに巨大化し、場所ごとの地形や意味に応じて造り方を変えていた。

    西端の大土手と、東端に接するロング・バロウは、遠くから見るとよく似た長い墳丘に見えた可能性がある。

    ドーセット・カーサスでも、既存のロング・バロウが土手へ組み込まれている。カーサスは単なる通路ではなく、祖先の墓が置かれた景観をつなぎ直し、巨大化する建築だったのかもしれない。

    一方で、内部は奇妙なほど「空白」である。

    2007年に西端部で行われた物理探査では、期待された建物や祭壇の痕跡はほとんど現れなかった。続く5本の発掘区でも、長期間の居住や大規模な飲食を示す大量の土器・獣骨・炉跡は見つからなかった。

    ただし、調べられたのは全長2.8キロに及ぶ空間のごく一部だ。「内部には何もなかった」と言い切ることはできない。

    それでも、同時代より少し後のデュリントン・ウォールズで大量の住居、土器、動物骨、饗宴の痕跡が見つかっていることを考えると、カーサスの清潔さは際立っている。

    人が日常的に暮らすことを禁じられた聖域だったのか。

    あるいは、立ち止まって物を残す場所ではなく、ただ通過するための空間だったのか。

    遺物が少ないこと自体が、用途を考える手がかりであると同時に、決定的な答えを奪っている。





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    ↑昔の絵だと確かに競馬場?的に見える気もする!( ・Д・)(「Wikipedia」の画像より転載)


    🦌 赤鹿の角一本が、遺跡を千年も古くした!

    グレーター・カーサスの研究を長く混乱させたのは、出土品の少なさだった。

    土器の型式がほとんど出なければ、造られた年代も分からない。

    最初の発掘は1917年、R・ファラーが東寄りの土手と溝を横断する小さな発掘区を設けたことに始まる。1947年にはJ・F・S・ストーンが南側の溝を調査し、サーセン石とブルーストーン系岩石の小片、石器製作の剥片、そして赤鹿の角を発見した。

    この角を後に放射性炭素年代測定すると、紀元前2890~2460年という結果が出た。

    それならカーサスは、紀元前3000年頃に始まったストーンヘンジとほぼ同時代か、場合によっては巨石が立てられた紀元前2500年頃に近いことになる。

    長いあいだ、その年代が研究へ影響を与えた。

    しかし、角が出たのは最初に掘られた溝の底ではなく、溝の側面へ後から掘り込まれたような窪みだった。1980年代の再調査では、「遺構の築造年代ではなく、後世の再利用を測っているのではないか」という疑いが強まった。

    そこで2007年、ストーンヘンジ・リバーサイド・プロジェクトの研究者たちは、西端部を物理探査したうえで5か所を発掘した。

    そして第26発掘区、カーサス西端の深い溝の最下部から、使い込まれて傷ついた赤鹿角製の掘り具が発見された。

    角は溝の底に接し、その上を掘削直後の白亜質の崩落土が覆っていた。つまり、後世に入り込んだ可能性が低く、溝を掘った作業そのものに近い年代を示す、理想的な試料だった。

    同じ角を二度測定した結果は、それぞれ紀元前3632~3375年と紀元前3630~3370年。統計的にまとめた年代は、紀元前3630~3370年頃となった。

    グレーター・カーサスは、従来の測定値よりおよそ千年も古かったのである!( ・Д・)

    ストーンヘンジ最初の円形土塁と溝が造られたのは紀元前3000年頃。カーサスはそれより数百年古く、現在見えている巨大なサーセン石が立てられる紀元前2500年頃より、およそ900~1100年も先行する。

    つまり「ストーンヘンジの付属施設」ではない。

    巨石どころか、最初のストーンヘンジさえ存在しなかった時代に、すでにこの土地の方向、境界、移動の仕方を決めていた巨大モニュメントだったのだ。

    しかも、1947年の古い測定結果が無意味になったわけではない。

    2007年の発掘では、最初の溝が埋まり始めた後、その輪郭に沿って小さな穴や掘り直しが加えられたことも確認された。紀元前3千年紀後半、ストーンヘンジの巨石やデュリントン・ウォールズの木柱建築が造られた頃、人々は千年近く前のカーサスをもう一度掘り返し、その線を再生したらしい。

    さらに青銅器時代には溝の再掘削や柵が加えられ、内部や周辺へ円墳が築かれた。

    カーサスは一度の祭礼に使われて忘れられたのではない。用途が変わっても、「ここには越えるべき線がある」という記憶が千年以上残り続けたのである。


    ⚰️ 行列の道か、死者の国境か――五つの説が競い合う

    年代は分かった。

    だが、何のために造ったのかは分からない。

    最もよく知られているのは「儀礼的な行列の道」説である。

    二本の土手に挟まれた長大な空間を、人々が歩き、祖先の墓や特別な地形へ向かったという考えだ。内部に生活遺物が少ないことも、「滞在する場所ではなく移動する場所」と考えれば説明できる。

    しかし、現代の道路のような舗装面はなく、端部は土手で閉じられていた。出入口らしい切れ目は主に長辺側にあり、必ず東端から西端まで一直線に進む構造だったとも限らない。

    第二は「死者と祖先のための景観」説である。

    東端のエイムズベリー42をはじめ、カーサスは古いロング・バロウを意識して配置されている。後世の人々もその内外へ円墳を築いた。生者が日常生活を送る場所と、祖先や死者に属する場所を分ける境界、あるいは死者を運ぶ儀礼の舞台だった可能性がある。

    ただし、カーサスと同時期の埋葬が内部から大量に見つかったわけではない。「墓に近い」ことと「葬送専用施設だった」ことは同じではない。

    第三は「領域を分ける障壁」説である。

    カーサスは川や湿地、尾根、古い墓を横断し、土地を視覚的に切り分けた。共同体の領域、季節ごとの放牧地、日常空間と儀礼空間の境を示したのかもしれない。

    第四は、ウシの移動や季節的な牧畜と関係するという説である。

    多くのカーサスが河川や低湿地、家畜が通りやすい谷筋と結びつくことから、もともとの家畜移動路を記念物化した、あるいは群れを誘導する実用的な通路から始まったという研究もある。

    もっとも、巨大な端部や古墳との関係まで、家畜だけで説明するのは難しい。

    第五は「競技・通過儀礼」説である。

    ステュークリの戦車競走は支持されていないが、一部のカーサス端部から矢尻が見つかることなどをもとに、狩猟や弓術、若者の成人儀礼、集団間の競争が行われたという提案もある。

    しかし、この説をグレーター・カーサスへ直接当てはめる証拠は乏しい。

    おそらく問題は、「カーサス」という一つの名前を持つ遺構すべてに、一つの用途を求めていることなのだ。

    長さ100メートルのものと10キロのもの、土手と溝で囲むものと木柱や穴の列で示すもの、墓へ向かうものと川を横切るものが、まったく同じ儀礼に使われたとは限らない。

    行列の道であり、境界であり、祖先を記憶する場所であり、季節の集会場でもあった――その役割が時代と集団によって変わった可能性も十分にある。





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    ↑昔は頑張ってこうして人力で工事したんだよね( ・Д・)(「English Heritage」の記事内画像より転載)


    ☀️ 夏至を示す二つの穴?――空から見えた「答え」と、その危うさ

    2010年から始まったストーンヘンジ・ヒドゥン・ランドスケープ・プロジェクトは、地中レーダー、磁気探査、電気抵抗探査などを組み合わせ、ストーンヘンジ周辺約12平方キロメートルを非破壊で調査した。

    その結果、地上から見えない墓、溝、円形遺構、穴が何百も検出された。

    とりわけ注目されたのが、グレーター・カーサスの東西寄りに位置する二つの巨大な穴である。

    いずれも直径約5メートル、深さは少なくとも1メートル。2012年の報告では、ストーンヘンジ入口外側のヒール・ストーンから見ると、一方が夏至の日の出、もう一方が夏至の日没の方向に近いとされた。

    もし穴に木柱や石が立ち、あるいは火や煙が上がっていたなら、ストーンヘンジから太陽の一日の動きを示す二つの目印になったのかもしれない。

    この発見によって、カーサスとストーンヘンジの太陽儀礼が、一つの巨大な景観として結びついたように見えた。

    だが、ここで「夏至の観測装置が発見された!」と断定してはいけない。

    二つの穴は物理探査で検出されただけで、発掘されておらず、年代も分かっていない。カーサスが築かれた紀元前3500年頃の穴なのか、ストーンヘンジの巨石が立った紀元前2500年頃なのか、それとも別の時代なのかさえ不明である。

    基準となるヒール・ストーン自体も正確な設置年代が分からず、カーサス周辺には選ばれた二つ以外にも大きな穴が存在する。

    2024年には考古天文学者クライブ・ラグルズとアマンダ・チャドバーンが、二つだけを選んで線を引く方法は、利用可能なデータを超えた解釈だと批判した。

    点が二つあれば必ず線は引ける。

    重要なのは、その二点が同時代に、人間の意図によって、太陽を示すため配置されたことを証明できるかどうかなのだ。

    そして2026年、ストーンヘンジから約5キロ離れたブルフォードで、約120メートル離れた二つの大型柱穴が、紀元前2950年頃の夏至の日の出と冬至の日没へほぼ正確に向けられていたと発表された。

    こちらは発掘され、柱を支えた構造と放射性炭素年代が得られている。紀元前3000年頃のソールズベリー平原で、太陽の転換点を意識した建造物が造られていた可能性は、以前より強くなった。

    しかし、それでも紀元前3500年頃のカーサスまで太陽信仰へ直結させることはできない。

    むしろ二つの事例の差は、考古学にとって「線が合う」だけでなく、「いつ造られたか」を確かめることがどれほど重要かを教えてくれる。

    グレーター・カーサスは、ストーンヘンジの背景ではない。

    先にロング・バロウが置かれ、その墓を意識してカーサスが大地を横切り、数百年後に最初のストーンヘンジが築かれ、さらに後に巨石が立ち、古いカーサスの輪郭が穴や溝によって掘り直された。

    この土地では、一つの聖地が完成したのではない。

    異なる世代が、すでに古くなった記念物を見つめ、その意味を読み替えながら、次の記念物を重ねていったのである。

    だから、カーサスの用途が一語で答えられないのは当然なのかもしれない。

    それはある時代には共同体を結ぶ仕事であり、別の時代には祖先へ向かう道であり、さらに後には越えてはならない境界や、忘れてはいけない古い線だった可能性がある。

    なにはともあれ……。

    ストーンヘンジへ行って巨石だけを見て帰るのは、物語の最終章だけを読んで本を閉じるようなものだ。

    北の草原に残る、ほとんど見えない3キロの凹凸こそが、巨石より千年早く始まった物語の第一章なのである!( ・Д・)





    なにはともあれ……

    なんでよくわからんけど私は昔から天文関係の遺構があんまり好きではない!( ・Д・)








    ↓マヤ遺跡の調査速報等をアップしてます!↓
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    2026ねん 8がつ19にち(すいよーび、晴れ)

    なんか暑いなぁ、やぱまだまだ暑い日続くなぁ!( ・Д・)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



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    ↑考古学ファンを増やしたいね!( ・Д・)





    今回の考古学・歴史ニュースは

    「ラオス北部に2,100基以上も残された巨大石壺が、巨人の酒壺ではなく、死者を何度も迎え入れる葬送施設だったかも、石壺が置かれてから千年以上後まで祖先祭祀が続き、ついにはひとつの石壺から、何世代にもわたる少なくとも37人分の骨が発見された( ・Д・)」

    ってお話です(*・ω・)ノ





    📰はじめに


    ラオスの山中に立ち並ぶ、2,100基以上の巨大な石壺。

    文字による記録はない。造った人々の名前も、話していた言葉も分からない。周囲には大都市も宮殿も見当たらず、残されたのは、人間の背丈を超える無数の石壺だけである。

    地元の伝承では、巨人の王が勝利の酒を醸すために造ったという。

    しかし2022~2024年に行われた発掘調査では、その石壺のひとつから、少なくとも37人分の人骨が発見された。

    しかも彼らは、一度死んで埋葬された後、再び骨を集められて石壺へ納められた可能性があるらしい。

    今回は巨人の祝宴から始まり、鉄器時代の東南アジア、1930年代の調査、日本人考古学者も参加した1990年代の発掘、戦争と不発弾による研究の中断、そして37人の骨が見つかった最新調査まで、ラオス「ジャール平原」の長い謎を追いかける!





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    ↑確かにでかいし、たくさんあるなぁ( ・Д・)(「Wikipedia」の画像より転載)


    🍶 巨人の王は、石壺で勝利の酒を醸した?

    ラオス北部のシェンクワーン高原には、かつてクン・チュアンという偉大な王がいたと伝えられている。

    クン・チュアンは人々を苦しめていた敵の王を倒し、その勝利を祝うため、巨大な壺を造らせた。そして壺いっぱいに米から造った酒を満たし、人々と盛大な祝宴を開いたという。

    別の伝承では、この高原には人間よりはるかに大きな巨人族が暮らしており、彼らが酒を醸すために使った壺が、そのまま残ったともされる。

    たしかに、目の前に高さ2~3メートルの巨大な壺が並んでいたら、「これは巨人が使ったに違いない!」と思ってしまうのも無理はない。

    だが、石壺は焼き物ではない。

    砂岩や花崗岩、礫岩、石灰岩などの大きな岩塊を削り、中をくり抜いて造られている。既知の石壺は2,100基を超え、世界遺産に登録された15の構成資産だけでも1,325基が含まれる。

    「ジャール平原」という名前から、広い平地の一か所に壺が密集しているように思えるが、実際には120か所を超える遺跡が、盆地の周辺にある丘の斜面、尾根、鞍部、森林内などに分散している。

    つまり、これは単なる「壺の置き場」ではない。

    山々を結ぶように広がった、巨大な石壺の考古学的景観なのである。


    ⛰️ 30トンの石壺を、誰が8キロも運んだのか?

    石壺の年代については、長いあいだ紀元前500年頃から西暦500年頃、すなわち東南アジアの鉄器時代を中心とするものと考えられてきた。

    しかし2021年、石壺の下にある土を光刺激ルミネッセンス法で測定した結果、サイト2の一部の石壺は、紀元前1240~660年頃には現在の場所へ設置されていた可能性が示された。

    この方法は石そのものの年代を測るのではない。石壺の下に閉じ込められた土が、最後に太陽光を浴びた時期を推定するものである。

    したがって、すべての石壺が紀元前1240年に造られたという意味ではない。それでも、一部の石壺が従来考えられていた鉄器時代より古く、紀元前第2千年紀末まで遡る可能性が出てきたことは大きい。

    さらにサイト1の石壺に含まれるジルコンを分析したところ、約8キロ離れたプーケンの採石場にある砂岩とよく一致した。そこには岩盤から切り出す途中で放棄された石壺や、荒削りのまま残された製品もある。

    問題は運搬方法である。

    現地の地形は平坦な道路ではない。起伏のある山地を越え、数トンから、最大級では30トンを超えるとも推定される石壺を運ばなければならなかった。

    木製のそりや丸太を使った可能性は考えられているが、実際の運搬施設や道具は発見されていない。

    これほどの作業には、多数の人間、石工の技術、食料供給、作業を指揮する仕組みが必要だったはずである。しかし、王宮や都市の跡は見つかっておらず、彼らが王国を形成していたのか、複数の共同体が協力したのかも分からない。

    当時のシェンクワーン高原は、メコン川流域と紅河・トンキン湾方面を結ぶ交通路の途中にあった。農耕や金属器、土器製作などの技術が東南アジア各地へ広がるなか、この高原も孤立した辺境ではなく、人と物が通過する結節点だった可能性がある。

    石壺を造った人々は、名前こそ残さなかったが、決して世界から切り離されていたわけではなかったのだ。




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    ↑場所はここ!( ・Д・)(Skopal et al. 2026, Fig.1より転載)


    🔎 1930年代に「死者の壺」を見抜いた女性考古学者

    ジャール平原を本格的に調査したのは、フランスの地質学者・考古学者マドレーヌ・コラニである。

    1930年代初頭、コラニはシェンクワーン高原の石壺遺跡を歩き、壺の形や位置を記録するとともに、壺の内部や周囲を発掘した。

    そこで見つかったのは、焼かれた人骨や歯、ガラス玉、カーネリアン製の玉、土器、耳飾り、紡錘車、鉄器、青銅器などだった。

    さらに石壺の周囲からも、土坑に納められた人骨や副葬品が出土した。

    コラニは1935年に全2巻の大著『Mégalithes du Haut-Laos』を刊行し、石壺が葬送儀礼と関係していると論じた。その研究は、英訳版で800ページを超えるほど膨大なもので、現在もジャール平原研究の出発点となっている。

    ところが、その後の現地調査は長く停滞した。

    研究が本格的に再開されたのは1990年代である。1994年には鹿児島大学の新田栄治とラオスの考古学者トンサ・サヤヴォンカムディらがサイト1を調査した。

    人形のような像が刻まれた石壺の周囲を掘ると、平たい石で覆われた7基の土坑が現れた。中には焼かれていない人骨や歯、鉄製の刀子、ガラス玉などがあり、別の土坑からは人骨を納めた高さ約60センチの土器棺も発見された。

    この結果、石壺そのものが一人の遺体を納めた単純な石棺なのではなく、周囲に複数の埋葬を配置した「墓地の中心」や「祖先を示す記念物」だった可能性も浮かび上がってきた。

    しかし、調査を阻んだのは古代の謎だけではなかった。

    1960~70年代の戦争によって、シェンクワーン高原には大量の爆弾が投下された。地表に残る巨大な穴の一部は、考古学的な遺構ではなく爆撃の跡である。

    不発弾は住民の生活を脅かしただけでなく、測量や発掘を行う考古学者にとっても大きな障壁となった。世界遺産に登録された構成資産では不発弾処理が進められたものの、周辺地域や新たに確認された遠隔地では、現在も慎重な調査が必要とされる。

    ジャール平原の研究史は、考古学の歴史であると同時に、不発弾を除去しながら失われた文化を取り戻してきた歴史でもある。


    ⚱️ 墓なのに、なぜ石壺の中は空だったのか?

    発掘が進むにつれ、石壺遺跡では複数の葬り方が行われていたことが分かってきた。

    遺体をそのまま地中へ葬る一次葬、遺体が腐敗した後に骨を集め直す二次葬、骨を小型の土器へ納める土器棺葬、そして石板の下へ骨をまとめて置く埋葬である。

    問題は、巨大な石壺の大部分が空だったことだ。

    内部から焼けた骨片や歯が見つかる場合はあったが、成人の全身骨格をそのまま納めた明確な例はほとんどなかった。一方で、壺の周囲には人骨や土器棺が集中している。

    そこで考えられたのが、石壺を使った多段階の葬送である。

    まず遺体を別の場所、あるいは小型の石壺で腐敗させる。その後、残った骨を選び、大型の石壺へ移す。一定期間が過ぎると、骨を再び取り出し、石壺周囲の土坑や別の墓地へ埋葬する。

    もしこのような儀礼が行われていたなら、現在の石壺が空であることも、壺の周囲から多数の人骨が出土することも説明できる。

    さらに大きな問題が、石壺と埋葬の年代差だった。

    サイト2では石壺の設置が紀元前1240~660年頃まで遡る可能性がある一方、サイト1周辺の人骨や木炭には西暦9~13世紀の年代を示すものがある。

    つまり、石壺が置かれてから千年以上後まで、人々が同じ場所を葬送や祖先祭祀に利用していた可能性がある。

    ジャール平原は一度造られて放棄された墓地ではなく、異なる時代の人々が、古い石壺へ新しい意味を与え続けた「生きた聖地」だったのかもしれない。




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    ↑けっこう露出してるのね、そして確かに骨たくさん!( ・Д・)(Skopal et al. 2026, Fig.2, 3より転載)


    🦴 巨大石壺の中から、37人分の骨が現れた!

    長年の謎を大きく動かしたのが、シェンクワーン県サイト75の調査である。

    サイト75はポーンサワンから北東へ約70キロ離れた山中にあり、これまで発掘されたジャール平原の遺跡では最も北東に位置する。

    調査の対象となった「石壺1」は、礫岩から造られた大型品で、底部の直径は約2.05メートル、残存する高さは約1.3メートル。側面は崩れていたが底部が残り、内部の堆積物も大きく乱されていなかった。

    2022~2024年の3回にわたる発掘で堆積物を少しずつ取り除くと、内部から大量の人骨が現れた。

    骨は一体ずつ整然と並んでいたわけではない。

    頭蓋骨は壺の縁に近い部分へ集まり、腕や脚の長骨は束のようにまとめられていた。小さく壊れやすい骨は少なく、全身骨格としてつながった状態のものもほとんどなかった。

    歯の数から計算された最小個体数は、少なくとも37人。約1歳半の幼児から成人まで、さまざまな年齢の人々が含まれていた。

    これは戦争や疫病によって37人が同時に死亡し、一度に投げ込まれた集団墓ではない。

    人骨と歯の放射性炭素年代は西暦890~1160年頃に分布しており、石壺は最長で約270年間、何度も繰り返し使用された可能性がある。

    骨の多くは、遺体が別の場所で腐敗した後に集められたものと考えられる。つまり彼らは一度葬られ、骨となった後、もう一度石壺へ迎え入れられたのだ。

    ただし、一部では頭蓋骨と下顎骨が近い位置に保たれていた。完全に白骨化する前の遺体が納められた可能性や、二次葬の際に頭部を組み直して丁寧に置いた可能性も残る。

    さらに少なくとも2人には、生前に特定の前歯を抜いた「抜歯」の痕跡があった。

    意図的な抜歯は、先史・古代の東南アジアや中国南部でも確認されている。成人儀礼、所属集団、身分、身体装飾などとの関係が考えられるが、サイト75の人々がなぜ歯を抜いたのかは、まだ分かっていない。


    🌏 死者と一緒に、インドとメソポタミアがやって来た

    石壺1から見つかったのは、人骨だけではない。

    土器、鉄製の刀子、小型の銅合金製鈴、石板、そして20点のガラス玉が伴っていた。

    このうち12点のガラス玉を化学分析したところ、9点は南アジアで製造されたガラスと整合する組成を持っていた。別の2点はメソポタミア産ガラスに近く、濃青色の1点は中国南東部またはベトナム北部に由来する可能性がある。

    もちろん、この結果だけでインド人やメソポタミア人がラオスの山中まで来たとはいえない。

    ガラス玉は複数の商人や共同体の手を経て、長距離を少しずつ移動した可能性が高い。それでもサイト75の人々が、西アジア、南アジア、東南アジアを結ぶ広大な交易網の末端に参加していたことは確かである。

    37人が石壺へ納められた西暦9~12世紀は、中国で唐が滅び、五代十国を経て宋が成立した時代にあたる。南方ではアンコールを中心とするクメール帝国が勢力を拡大し、陸路と海路の双方で人と物の移動が活発になっていた。

    ラオス北部の高原は、巨大国家の中心ではなかった。

    しかし死者に添えられた小さなガラス玉は、この山中の共同体が世界の動きと無関係ではなかったことを物語っている。

    今回の発見によって、少なくともサイト75の石壺1が、複数世代の骨を集める納骨施設として使われたことは、かなり確実になった。

    だが、ジャール平原すべての謎が解けたわけではない。

    37人を納めた石壺1は、既知の石壺のなかでも特に大型で、形も珍しい。しかも遠隔地にあったため、盗掘や近代の攪乱を免れた可能性がある。ひとつの特殊な石壺を、2,100基すべての代表とみなすことはできない。

    小型の石壺で遺体を腐敗させ、大型の石壺へ骨を移し、最後に別の場所へ再埋葬したという仮説も、現時点ではまだ検証途中である。

    これから古代DNAの分析が進めば、37人が血縁関係を持つ家族だったのか、それとも血縁を越えた共同体の人々だったのかが分かるかもしれない。

    ジャール平原の謎は、「石壺は墓だったのか?」から、「死者は石壺の間をどのように移動したのか?」へと変わり始めた。

    空っぽに見える石壺は、使われなかった容器ではない。

    人々が何世代にもわたって祖先を迎え、骨を選び、祈り、再び送り出した後に残された、葬送儀礼の抜け殻なのかもしれない。

    巨人の酒壺ではなかったとしても、そこには千年以上にわたって、人間と死者が交わした物語が満たされているのだ!( ・Д・)





    なにはともあれ……

    考古学ミステリー、人気になれ!そんなに数はないと思うけど!( ・Д・)








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    2026ねん 8がつ7にち(きんよーび、晴れ)

    もう連休にはいるね、死ぬほど研究しなきゃ!( ・Д・)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



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    ↑ややぱ謎とかミステリーはいいよね!( ・Д・)





    今回の考古学・歴史ニュースは

    古代ペルシア王カンビュセス2世がエジプト西部砂漠へ送り出したという5万人の遠征軍は、ヘロドトスによれば巨大な砂嵐に呑まれて一人も戻らなかったけれど、考古学的には軍隊の遺骨も戦場も確認されておらず、実際にはエジプト人反乱王に敗れた軍事的失敗が、“神罰の砂嵐”へ書き換えられた可能性まであるぞ( ・Д・)」

    ってお話です(*・ω・)ノ




    📰 はじめに

    朝食を取っていた。

    兵士たちは長い行軍に疲れ、砂の上へ座っていた。

    そのとき、南から強い風が吹き始める。

    空が暗くなる。

    砂が舞い上がる。

    視界から仲間が消える。

    荷駄も、武器も、軍旗も、馬も、人間も、巨大な砂の壁に呑み込まれていく。

    そして風が止んだとき、そこには誰もいなかった――。


    古代ギリシアの歴史家ヘロドトスが伝えたのは、そんな恐ろしい物語だった。

    消えたのは数人の旅人ではない。

    5万人の軍隊。

    アケメネス朝ペルシアの王カンビュセス2世が、エジプト西方にあるアメン神の神託所を攻撃するため送り出した遠征軍である。

    軍はエジプト南部のテーベを出発し、砂漠のオアシスまでは到達した。

    だが、そこから先で消息を絶った。

    目的地へ着かなかった。

    テーベへも戻らなかった。

    生存者からの報告もない。

    西方の住民が語ったのは、軍全体が砂嵐によって完全に埋められたという話だけだった。


    それから約2500年。

    探検家たちは、砂丘の下に並ぶ兵士の遺骨を探した。

    考古学者は、ペルシア式の剣、鏃、鎧、土器を探した。

    何度も「ついに発見された」という報道が流れた。

    しかし2026年現在、カンビュセスの遠征軍だと学術的に確認された集団墓、野営地、戦場、武器群は一つもない。

    では、そもそも軍隊は本当に存在したのか。

    5万人という数字は事実なのか。

    砂嵐だけで大軍が全滅することなどあり得るのか。

    そして近年の考古学が示したのは、砂の下の遺骨ではなく、まったく別の場所に残された、反乱王の名前だったのである!( ・Д・)


    👑 カンビュセス2世は、世界帝国を受け継いだ王だった

    カンビュセス2世は、アケメネス朝ペルシアを築いたキュロス2世、いわゆるキュロス大王の息子である。

    キュロスはメディア、リディア、新バビロニアなどを征服し、西アジアの広大な地域を一つの帝国へ組み込んだ。

    その後を継いだカンビュセスは、紀元前530年頃から前522年まで王位にあり、父が残した帝国の南西に位置するエジプトへ目を向けた。

    当時のエジプトは第26王朝末期。

    プサムテク3世が王位に就いていた。

    紀元前525年、カンビュセス軍はナイル・デルタ東端のペルシウム付近でエジプト軍を破り、さらにメンフィスを制圧した。

    その年の夏までにエジプトはペルシア帝国へ組み込まれ、カンビュセス自身もエジプトの王号を採用した。

    これは単なる外国軍の一時占領ではない。

    エジプトは後世の区分で「第27王朝」と呼ばれる、アケメネス朝支配の時代へ入ったのである。

    帝国は東の中央アジアから、西のエジプトとリビア方面まで広がった。

    カンビュセスは、父の帝国をアフリカへ拡張した王だった。


    🗺️ エジプトを征服した王は、さらに三方向へ軍を向けた

    ヘロドトスによれば、カンビュセスはエジプト征服後、三つの遠征を構想した。

    一つは西方のカルタゴ。

    一つは南方の「エチオピア」、現在のスーダン方面。

    そしてもう一つが、西部砂漠のアメン神託所だった。

    カルタゴへの海軍遠征は、艦隊の主力を担うフェニキア人が、同族の建設した都市を攻撃することを拒んだため実行されなかったとされる。

    南方遠征は補給不足に陥り、荷役動物を食べ尽くし、ついには兵士をくじ引きで選んで食べる寸前まで追い込まれ、撤退したとヘロドトスは記している。

    そしてテーベへ到着したカンビュセスは、軍から約5万人を分離し、アメン神の民を奴隷にして神託所を焼き払うよう命じたという。

    この遠征が、のちに「カンビュセスの失われた軍隊」と呼ばれることになる。




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    ↑これがアムン神託神殿!( ・Д・)


    🐏 なぜ砂漠の神託所を攻撃しなければならなかったのか

    一般には、目的地は現在のエジプト西端にあるシワ・オアシスだったと説明される。

    そこにはアメン、ギリシア世界ではゼウス・アンモンと同一視された神の神託所があった。

    シワの神殿はエジプト第26王朝期に建設されたとされ、後にはアレクサンドロス大王も訪れたことで知られる。

    アレクサンドロスが訪問した紀元前4世紀には、神託所の権威は地中海世界にまで広がっていた。

    神託所は、単なる占い小屋ではない。

    王の正統性を認める宗教的権威であり、オアシスを中心とする交易・政治拠点でもあった。

    エジプトを征服したカンビュセスが、中央政府の支配へ従わない西方拠点を制圧しようとしたこと自体は、軍事政策として不自然ではない。

    ただしヘロドトスは、神官がカンビュセスを侮辱したため、怒りに駆られた王が神託所を焼こうとした、という物語へ仕立てている。

    ここには事実と同時に、「外国の神を侮辱して罰を受けた王」という物語構造が見え隠れする。


    📜 軍隊消失を伝える主要史料は、ヘロドトスだけ

    ヘロドトスは、事件と同時代に現場で記録を取った人物ではない。

    彼が『歴史』をまとめたのは、事件から数十年以上が過ぎた紀元前5世紀後半である。

    しかも、軍の最期を目撃した兵士の証言を記録したわけではない。

    彼自身がはっきり書いているように、軍がオアシスへ到達したところまでは知られていたが、それ以後の話は、アメン神託所側の人々から伝え聞いたものだった。

    つまり、私たちが持っている情報は、

    「ペルシア軍が西部砂漠へ入った」

    「目的地へ到着しなかった」

    「帰還しなかった」

    「現地住民は砂嵐で消えたと語った」

    という四段階である。

    砂嵐そのものを目撃した第三者はいない。

    5万人全員が同じ場所で死亡したことも確認されていない。

    そもそも5万人という数字も、ペルシア側の軍事文書から得られたものではない。

    事件の基礎には史実が含まれているかもしれないが、伝わった物語は現地の宗教的記憶と、ヘロドトスの文学的構成を経たものなのである。


    5️⃣ 五万人という数字は、本当に現実的だったのか

    5万人が一列で歩けば、軍列は何十キロメートルにも及ぶ。

    そこへ騎兵、荷役動物、水、食料、武器、宿営用品が加わる。

    現代の舗装道路も給水車もない砂漠を、これほどの人数が移動するには、途方もない補給が必要になる。

    兵士一人が一日に数リットルの水を必要とするだけでも、一日の消費量は数十万リットルに達する。

    ラクダや馬、ロバにも水と飼料がいる。

    オアシス間の井戸が小さければ、給水だけで何日もかかる。

    オラフ・カペルは、長距離の砂漠行軍は自ら水と食料を運べる小規模部隊の方が適しており、5万人は明らかに多すぎると指摘している。

    古代史料の兵力数は、軍隊の巨大さや惨事の規模を強調するため誇張されることがある。

    実際に遠征軍がいたとしても、5万人よりはるかに少なかった可能性は十分ある。

    この数字が小さくなれば、遺骨や装備が見つからないことも、それほど不思議ではなくなる。


    🧭 そもそも「テーベからシワ」という経路がおかしい

    ヘロドトスによれば、軍はテーベから出発し、砂漠を七日間進んで「オアシスの町」へ到着した。

    この記述は、テーベから西へ向かった先にあるハルガ・オアシスへの経路とよく一致する。

    ところが、そこから遠く北西のシワへ向かうのは極めて長い迂回となる。

    シワを直接攻撃するなら、メンフィスやナイル・デルタ、あるいは地中海沿岸から西へ進む方が自然である。

    テーベからハルガを経由してシワを目指す経路は、軍事的にも補給面でも不可解なのである。

    この地理的な矛盾は、19世紀から指摘されていた。

    ヘロドトスが地名や目的地を混同したのか。

    後世にシワ神託所の物語が付け加わったのか。

    あるいは「アメンの民」が、シワだけでなく南方のダフラ・オアシス周辺にもいたのか。

    カペルは、ヘロドトスの距離記述を重視すれば、軍の真の目的地はシワではなくダフラだった可能性が高いと考えた。




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    ↑ペルシアの軍勢!( ・Д・)


    🌪️ 砂嵐だけで、軍隊を丸ごと埋められるのか

    巨大な砂嵐は危険である。

    視界を奪う。

    方向感覚を失わせる。

    テントや荷物を飛ばす。

    目や呼吸器を傷める。

    飲料水の容器を破損させることもある。

    軍列が分断され、井戸への道を見失えば、その後に渇きで死亡する可能性はある。

    しかし「朝食中の軍隊が、短時間で頭の上まで砂に埋まり、誰一人逃げられなかった」という映像は別問題である。

    サハラ研究者たちは、砂嵐そのものが多数の人間を瞬時に生き埋めにするという説明へ強い疑問を示してきた。

    カペルが引用する砂漠研究者テオドール・モノは、人は砂嵐ではなく渇きによって死ぬ、と明確に述べている。

    だからといって、気象災害説を完全に排除することもできない。

    嵐によって道を失い、給水地点へ到達できず、部隊が分散して少しずつ死んだ可能性はある。

    その場合、5万人が一カ所に整然と埋まっている必要はない。

    遺体は広い範囲へ散り、装備は生存者や後世の隊商に持ち去られ、骨は風化してしまう。

    「一瞬で砂に飲み込まれた」という伝説の裏に、数日から数週間に及ぶ補給崩壊があった可能性もあるのだ。


    😡 ヘロドトスは、カンビュセスを「狂った王」として描いた

    ヘロドトスの物語に登場するカンビュセスは、エジプトの神々を侮辱し、聖牛アピスを刺し、神官を処罰し、家族や側近まで殺す狂王である。

    南方遠征では補給計画も立てず、兵士を人肉食寸前まで追い込む。

    西方遠征では神託所を焼こうとし、軍隊は神罰のような砂嵐で消える。

    すべてが「異国の宗教を軽視した傲慢な征服者の破滅」という一つの物語へ収束している。

    しかし、同時代のエジプト資料から見えるカンビュセス像は、もう少し複雑である。

    彼はエジプト王の称号を採用し、現地の王権制度を利用した。

    エジプト人高官ウジャホルレスネトの像に刻まれた文章も、ペルシア征服期に現地の神殿制度と新政権が交渉していたことを示す重要史料である。

    占領軍による暴力や神殿収入の削減がなかったという意味ではない。

    だが「エジプト文化を理解できず、手当たり次第に神を破壊した狂人」という後世像を、そのまま史実とすることはできない。


    🐂 聖牛アピスの石碑は、「狂王物語」と矛盾していた

    ヘロドトスによれば、カンビュセスはエジプト人が祝祭を行っていることに腹を立て、聖牛アピスを短剣で刺した。

    しかしサッカラのセラペウムからは、カンビュセス治世第6年、紀元前524年頃に死亡したアピス牛の葬送碑が見つかっている。

    碑文は、牛が正式なミイラ化儀礼を受け、王の命令に従って副葬品とともに墓へ納められたことを記録している。

    ヘロドトスの「王が聖牛を刺し殺した」という記述と、かなり強く矛盾する資料である。

    この例は、失われた軍隊の物語にも慎重さが必要なことを示す。

    ヘロドトスがすべてを創作したわけではない。

    だが彼が聞いたエジプト側の伝承には、ペルシア支配への反感、神殿側の不満、後の王朝による政治宣伝が混じっていた可能性がある。

    軍隊の消失も、実際の軍事的事件が宗教的な物語へ変換されたものかもしれない。


    🔎 19世紀以来、探検家たちは「砂の墓」を探した

    失われた軍隊は、近代探検家にとって理想的な謎だった。

    広大な砂漠。

    消えた5万人。

    大量の武器。

    金銀の装身具。

    軍旗。

    荷駄。

    もし本当に一カ所へ埋まっているなら、ツタンカーメン墓に匹敵する発見になるかもしれない。

    19世紀初頭にはジョヴァンニ・ベルツォーニが関連遺物を見つけたと主張した。

    1933年には、後に特殊作戦指揮官として知られるオード・ウィンゲートが探索した。

    1930年代には、映画や小説『イングリッシュ・ペイシェント』の人物モデルとして知られるラースロー・アルマーシも、砂漠を探査した。

    1983~1984年には、ハーバード大学などの支援を受けた大規模調査が行われたが、軍隊へ結び付く遺物は確認できなかった。

    探検史を振り返ると、興味深いことが分かる。

    多くの探索者は、ヘロドトスの記述を正しい地図のように読み、シワとハルガの中間に「5万人の墓」があると仮定していた。

    しかし、出発地や目的地の解釈そのものが誤っていれば、どれだけ砂丘を探しても見つからない。




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    ↑砂漠での調査は大変そうだよね!( ・Д・)


    🦴 2000年、「人骨と武器らしき金属」が見つかった?

    2000年には、石油探査を行っていたエジプトの地質調査隊が、西部砂漠で人骨、布片、武器に見える金属を発見したと報じられた。

    エジプト考古当局が調査すると発表したものの、その後、カンビュセス軍と結び付ける正式な研究成果は公表されていない。

    砂漠から人骨や金属片が出たというだけでは、年代も所属も分からない。

    西部砂漠は先史時代から隊商、遊牧民、軍隊、巡礼者、近代戦の部隊まで、数千年にわたって利用されてきた。

    骨が見つかったことと、5万人のペルシア軍を発見したことの間には、大きな距離がある。


    📺 2009年、「ついに軍隊を発見」の報道が世界を駆け巡った

    2009年、イタリア人のカスティリオーニ兄弟が、シワ周辺で大量の人骨、ペルシア風の鏃、青銅製短剣、銀製装身具などを見つけたと発表した。

    岩陰へ避難した兵士たちが、砂嵐で死亡した痕跡だという。

    報道は世界へ広がり、「2500年間失われていた5万人の軍隊が発見された」と伝えられた。

    しかし、発表は査読付き学術論文ではなく、映像作品と記者発表を中心とするものだった。

    出土状況、正確な座標、層位、骨の年代測定、遺物組成など、考古学的検証に必要な情報は十分公開されなかった。

    さらにエジプト考古最高評議会は、兄弟が正規の発掘許可を得た調査隊ではなく、発見報道は「根拠がなく、誤解を招く」と公式に否定した。

    仮に写真の武器がアケメネス朝期の物だったとしても、それだけでは失踪軍とは断定できない。

    ペルシアはエジプトを百年以上支配し、西方への軍事・交易活動も行っていた。

    一個の鏃は、一個の鏃でしかない。

    必要なのは、同時期の多数の兵士、統一的な装備、軍営、戦闘痕跡などが、同じ考古学的文脈から確認されることである。

    その条件を満たした「発見」は、まだない。


    🏺 砂漠で見つかった最大の手掛かりは、兵士の骨ではなかった

    大きな転換が起きたのは、ダフラ・オアシスのアムヘイダ遺跡だった。

    アムヘイダは、後世にはローマ時代の都市トリミティスとして栄えた遺跡である。

    発掘調査では、古代エジプト時代のトト神殿に使われた大量の石材が、後世の建築へ再利用された状態で見つかった。

    2014年、神殿の門を構成していた石材を接合したところ、あるエジプト王の王名と称号が復元された。

    その王はペトゥバスティス4世。

    以前の研究ではペトゥバスティス3世と呼ばれていたため、現在も両方の番号が使われることがある。

    彼はペルシア支配に反抗し、自らエジプト王を名乗った人物だった。

    ペトゥバスティスの存在自体は、印章や短い文書から以前より知られていた。

    しかしアムヘイダの石材は、彼が地方の小規模な盗賊ではなく、完全な王号を用い、神殿建設を命じられるほどの支配力を持っていたことを示した。

    さらに、その重要な神殿がナイル流域ではなく、西部砂漠のダフラにあった。

    これは、彼の勢力基盤がオアシス地帯にあった可能性を強く示す発見だった。


    ⚔️ ペルシア軍は、砂嵐ではなく反乱軍に敗れた?

    オラフ・カペルが提示した仮説は、こうである。

    カンビュセスがテーベから西部砂漠へ軍を送ったのは、遠いシワの神託所を焼くためではなかった。

    ダフラ周辺で勢力を築き、反乱を準備していたペトゥバスティスを攻撃するためだった。

    軍はハルガ方面を経由してダフラへ向かった。

    そこで反乱軍の待ち伏せや攻撃を受け、壊滅した。

    勝利したペトゥバスティスは勢力を拡大し、メンフィスへ進出して正式なファラオとして即位した。

    その後、ダレイオス1世が反乱を鎮圧し、ペトゥバスティスの記録や敗戦の記憶を消した。

    やがて軍事的敗北は、「カンビュセスの無謀な遠征軍が神罰の砂嵐で消えた」という物語へ変化し、ヘロドトスへ伝わった――。

    この説なら、いくつもの不自然さを説明できる。

    なぜテーベから出発したのか。

    なぜ軍がダフラへ近い経路を取ったのか。

    なぜ帰還者がいなかったのか。

    なぜ5万人の墓がシワ付近で見つからないのか。

    なぜペトゥバスティスが突然、広い地域の王を名乗れたのか。

    そしてなぜダレイオスが、反乱後の西部オアシスで大規模な神殿建設や統治強化を行ったのか。





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    ↑こんな中で探すのは無理だよね!( ・Д・)


    ⚠️ でも、「反乱軍に全滅させられた」ことも発掘されたわけではない

    ここは非常に重要である。

    アムヘイダから見つかったのは、ペトゥバスティスの神殿石材である。

    ペルシア兵5万人の遺骨ではない。

    戦場跡でもない。

    ペルシア式武器が大量に並んだ壊滅地点でもない。

    石材が証明したのは、

    ペトゥバスティスが実在したこと。

    西部オアシスで強い政治力を持っていたこと。

    ペルシア支配へ対抗する王号を用いたこと。

    神殿を建設できる期間と領域を支配したこと。

    ここまでである。

    その軍がカンビュセスの遠征隊を破ったという部分は、地理、年代、政治状況、ヘロドトスの物語を組み合わせた歴史仮説である。

    カペル自身の論文にも、ペトゥバスティスがどのような方法で軍を破ったかは分からないと記されている。

    「謎は完全に解決した」という報道は少し大きすぎる。

    正確には、

    砂嵐説より歴史的に説明力のある、考古資料に基づく対抗仮説が登場した

    という段階である。


    📅 反乱が起きた年代にも、まだ問題がある

    ヘロドトスの遠征は一般に紀元前524年頃とされる。

    一方、ペトゥバスティスの反乱は、カンビュセス晩年からダレイオス即位直後、前520年代初めに位置付けられることが多い。

    二つの出来事が完全に同じ時点だったのかは、史料が少なく確定していない。

    ペトゥバスティスがカンビュセス治世中から活動していたのか。

    カンビュセス死後の帝国混乱に乗じて反乱を起こしたのか。

    遠征軍を破ったのがカンビュセス時代なのか、実際にはダレイオス時代の軍だったのか。

    研究者の間でも編年の復元には幅がある。2023年の研究でも、反乱はカンビュセスからダレイオスの治世にまたがる問題として再検討されている。

    軍隊消失と反乱を結び付けるには魅力があるが、年代をさらに詰める必要がある。


    🪨 ダレイオスは、本当に敗北の記憶を消したのか

    ペトゥバスティスの神殿は後に解体され、石材は別の建物へ転用された。

    後世の王名表にも、彼の名前はほとんど残らなかった。

    ダレイオス1世は即位後、帝国内各地で起きた反乱を鎮圧し、ベヒストゥン碑文に勝利を刻んだ。

    そこでは反乱者たちは正統な王ではなく、「嘘をついた者」として表現されている。

    ペトゥバスティスもまた、王としての記憶を否定された可能性がある。

    ただし「ダレイオスが失踪軍の話を意図的に砂嵐へ改竄した」という命令文は見つかっていない。

    神殿解体も、政治的な記憶抹消だった可能性は高いが、それだけが理由とは限らない。

    ヘロドトスの砂嵐説が、ペルシア王権の公式宣伝から直接生まれたことも証明されていない。

    ここも、

    可能性の高い歴史解釈

    と、

    出土資料で確認された事実

    を分けておく必要がある。


    🏹 戦いで敗れたなら、なぜ戦場が見つからないのか

    砂漠の戦闘は、石造都市のような明瞭な遺跡を残すとは限らない。

    軍が待ち伏せを受け、散開して敗走したなら、遺体は一カ所へ集まらない。

    勝者は武器、鎧、衣服、馬具、水容器を回収したはずである。

    青銅や鉄は再利用できる。

    敵兵の武器を戦利品として持ち帰ることもできる。

    死者を埋葬したり、骨だけが露出して動物や風に散らされたりする可能性もある。

    さらに、軍隊が本当に5万人ではなく数千人以下だったなら、考古学的痕跡は一層小さくなる。

    広大な西部砂漠の中から、紀元前6世紀の一回の戦闘地点を特定するのは極めて難しい。

    見つからないことは、戦闘がなかった証明にはならない。

    だが同時に、見つからない戦場を根拠に、戦闘があったと断定することもできない。


    🛰️ 現代技術なら、失われた軍隊を見つけられるのか

    衛星画像。

    高解像度地形データ。

    レーダー探査。

    磁気探査。

    ドローン。

    同位体分析。

    古代DNA。

    現代考古学には、過去の探索者が持たなかった技術がある。

    しかし、まず探す場所を絞らなければならない。

    シワとハルガの中間なのか。

    ダフラ周辺なのか。

    古代の隊商路沿いなのか。

    反乱軍の拠点付近なのか。

    砂丘は移動し、古代の地表は現在の何メートルも下にあるかもしれない。

    一方、岩石砂漠では遺物が地表に露出し、近現代の物と混ざる。

    地中レーダーで無作為に西部砂漠全体を調べることはできない。

    今後もっとも有効なのは、「消えた軍隊そのもの」を宝探しのように追うことではなく、オアシス間の古道、井戸、関所、軍営、ペルシア期集落を体系的に調査することだろう。

    その過程で、軍事行動を示す遺物群が偶然現れる可能性がある。


    🏺 考古学的に現在分かっていること

    考古学と碑文学から、比較的確実に言えるのは次のような内容である。

    カンビュセスは紀元前525年にエジプトを征服し、エジプト王として統治した。

    西部オアシスは、ナイル流域とは異なる政治的・宗教的力を持つ重要地域だった。

    カンビュセスからダレイオスへの政権移行期には、ペトゥバスティス4世がペルシア支配に反乱し、正式なファラオの称号を採用した。

    彼はダフラ・オアシスのアムヘイダで神殿建設を行った。

    反乱は一地方の騒乱ではなく、メンフィスを含む広い地域へ及んだ可能性がある。

    ダレイオスは反乱後、西部オアシスの支配と神殿整備を重視した。

    一方、まだ分からないことも多い。

    カンビュセスが本当に5万人を送り出したのか。

    目的地はシワだったのか、ダフラだったのか。

    軍は砂嵐で死んだのか。

    渇きと道迷いで分散したのか。

    ペトゥバスティス軍に敗れたのか。

    軍隊消失と反乱が同じ事件なのか。

    これらについて、直接的な考古資料はまだ存在しない。


    🧩 最もありそうなのは、複数の事件が一つの物語になった可能性

    現実の出来事は、ヘロドトスの一段落より複雑だったのかもしれない。

    カンビュセスは西部オアシスを制圧するため、一定規模の軍を送った。

    軍は補給難、砂嵐、道迷いに遭った。

    弱ったところを現地勢力や反乱軍に攻撃された。

    一部は戦死した。

    一部は砂漠へ逃げ、渇きで死んだ。

    一部は捕虜になった。

    装備は回収された。

    帰還者が極端に少なかったため、ナイル流域では「軍が消えた」と伝わった。

    現地では、アメン神が侵略軍を砂によって滅ぼしたという宗教的物語になった。

    後のペルシア政権は敗北を記録せず、反乱王の痕跡も消した。

    何十年後、ヘロドトスは、それらを一つの劇的な砂嵐の話として書き留めた。

    これはあくまで推測である。

    しかし「5万人が朝食中に一瞬で砂丘の下へ沈んだ」より、軍事・環境・政治の複数要因が重なったと考える方が、現実の出来事には近いかもしれない。


    📚 歴史ミステリーだからこそ、考古学が必要になる

    この事件は確かに、考古学より歴史ミステリーに近い。

    出発点は一つの文学史料である。

    物語の主人公は、遺跡ではなく「消えた軍隊」だ。

    けれども考古学は、この物語をそのまま信じるためではなく、分解するために役立つ。

    砂の下から5万人を発見できなくても、

    当時どの道が使われたか。

    どのオアシスに集落があったか。

    どの地域で反乱王が神殿を建てたか。

    ペルシア軍はどこへ駐屯したか。

    反乱後、どの神殿が破壊され、どこが再建されたか。

    そうした物質的証拠から、ヘロドトスが知らなかった政治地図を復元できる。

    アムヘイダで見つかった数個の神殿石材は、何万人分もの人骨より地味である。

    だが、その石に刻まれた反乱王の名前が、2500年間探されてきた軍隊の目的地を変えた。

    考古学的な最大の発見は、「軍隊を見つけたこと」ではない。

    軍隊がどこへ向かい、なぜ消えたのかという、問いの形そのものを変えたことなのである。


    🏜️ 砂漠に消えたのは、兵士か、それとも敗北の記憶か

    紀元前6世紀。

    一隊の兵士たちが、ナイルを離れて西へ進んだ。

    何人だったのかは分からない。

    彼らが知っていた目的地も分からない。

    シワの神託所だったのか。

    ダフラの反乱拠点だったのか。

    兵士たちは水袋を運び、荷役動物を連れ、砂漠の道をたどった。

    そして、戻らなかった。

    その数十年後、語られたのは神罰の物語だった。

    傲慢なペルシア王が神殿を焼こうとした。

    神は南風を起こした。

    砂が兵士を呑み込んだ。

    誰一人、姿を現さなかった。

    美しく、恐ろしく、記憶しやすい話である。

    しかし現在、砂の下から見つかっているのは兵士たちではない。

    ペルシアに抵抗したエジプト王の名。

    遠征軍の想定経路に存在したオアシス都市。

    後に壊され、再利用された神殿の石材。

    そして「狂った征服王」という物語と矛盾する、正式な聖牛葬送の碑文である。

    だから今、最も慎重な答えはこうなる。

    カンビュセスが西部砂漠へ何らかの軍を送った可能性はある。

    軍が帰還しなかったという伝承にも、歴史的事件が反映されているかもしれない。

    しかし5万人という数字も、シワという目的地も、砂嵐による瞬間的全滅も、考古学的には証明されていない。

    一方、反乱王ペトゥバスティスが西部オアシスに実在し、ペルシア支配を揺さぶるほどの力を持っていたことは、出土した神殿石材が示している。

    もしかすると、2500年間砂漠に埋まっていたのは、五万人の兵士ではなかった。

    反乱軍に敗れた帝国の記憶。

    勝者となったエジプト王の名前。

    そして後の支配者にとって都合の悪かった、一度の軍事的大失敗だったのかもしれない。

    ペルシア遠征軍最大の謎は、

    「どの砂丘の下に眠っているのか」

    ではなく、

    「そもそも私たちは、誰が作った物語を探していたのか」

    ということなのだ!( ・Д・)





    なにはともあれ……

    やっぱり物的証拠は大事だぜ!( ・Д・)








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    2026ねん 7がつ29にち(すいよーび、晴れ)

    もう今月が終わる……やぱ前進感が足りない!( ・Д・)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


    arukemaya_y882

    ↑オス同士の縄張り争いとか同族間で争うのは分かるけどそもそも飢餓などの極限状態でもないのに殺す気で闘う動物って人類の他にいるのかね?( ・Д・)





    今回の考古学・歴史ニュースは

    5300年前のアルプスで背中から矢を受けたアイスマン・エッツィは、長く“矢で大出血してその場で死亡した殺人被害者”と考えられてきたけれど、最新の医学的再検討では数時間生きていた可能性が高く、襲撃現場と遺体発見地点も違ったらしいうえ、『死んですぐ氷に封印されたタイムカプセル』という有名な物語まで書き換わっているぞ( ・Д・)」

    ってお話です(*・ω・)ノ




    📰 はじめに

    1991年9月19日。

    イタリアとオーストリアの国境に近い、標高3210メートルのアルプス。

    ドイツ人の夫婦、エリカとヘルムート・ジモンは、山歩きの途中で氷の中から突き出した人間の背中を見つけた。

    最初は、最近遭難した登山者だと思われた。

    警察が来る。

    救助隊が来る。

    身体は氷へ頑丈に固着していた。

    誰も、それが5300年前の人間だとは知らない。

    だから遺体を取り出すために、氷を削る道具まで使われた。

    9月23日、ようやく遺体は回収され、法医学研究所へ運ばれる。

    ところが、その横から出てきた奇妙な斧や革製品を見た研究者たちは気付き始めた。

    この人、最近死んだんじゃないぞ。

    そして放射性炭素年代測定が突き付けた答えは、紀元前4千年紀末。

    エジプトの巨大ピラミッドが建つよりもはるかに前。

    ストーンヘンジの巨大石造建築が完成するよりも前。

    アルプスを越えようとした一人の男が、天然のミイラとなって現代へ帰ってきたのである。

    彼の名は分からない。

    だから、発見されたエッツタール・アルプスにちなみ、

    エッツィ(Ötzi)

    と呼ばれるようになった。

    そして発見から10年。

    身体をX線で調べ直した研究者が、左肩の奥に、それまで誰も気付かなかった石の鏃を発見する。

    エッツィは遭難しただけではなかった。

    誰かに、背後から射られていた。

    5300年前の殺人事件が始まったのである!( ・Д・)





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    ↑寒空が美しいね!( ・Д・)(「South Tyrol Museum of Achaeology」の記事内画像より転載)


    🔪 ただし「史上最古の殺人」ではない

    まず、今回の記事の元になった話でよく使われる、

    「史上最古の殺人事件」

    という表現について。

    めちゃくちゃ魅力的な言葉ではある。

    ただし、文字どおりには正しくない。

    スペイン北部のシマ・デ・ロス・ウエソスでは、約43万年前の人類の頭蓋骨「Cranium 17」に、同じような鈍器で繰り返し殴られたとみられる二つの致命傷が確認されている。

    2015年の研究では、これが現在知られている人類化石記録の中で、最古級の明確な「致死的対人暴力」と評価された。

    エッツィより、40万年以上も古いのである。

    では、なぜエッツィの事件が特別なのか。

    それは「最古だから」ではない。

    被害者本人の身体、傷、胃の中身、衣服、武器、道具、DNA、そして死亡した場所の環境まで、一人の人物について異常なほど多くの証拠が残っているからである。

    犯人の名前だけが分からない。

    まるで5300年間冷凍保存されていた未解決事件の捜査資料一式が、突然警察へ届いたようなものなのだ。


    ⏳ 5300年前とは、どんな時代だったのか

    エッツィが生きたのは、ヨーロッパでは銅器時代。

    新石器時代の農耕社会を基盤としながら、人類が銅という新しい素材を本格的に利用し始めた時代である。

    石器はまだ現役だった。

    エッツィ自身も、火打石製の短剣や鏃を持っている。

    しかし同時に、彼は銅製の斧を持っていた。

    石から金属へ一夜で切り替わったわけではなく、

    石器と金属器が同時に使われる社会

    だったのである。

    金属を作るには、鉱石を見つけ、採掘し、1000℃近い高温を作り、精錬し、鋳造しなければならない。

    そのため鉱夫、金属職人、交易者など、新しい専門的な役割が生まれ、遠隔地との交換も拡大した。

    銅器時代は単なる「新素材の登場」ではなく、人間同士のつながり方や富のあり方まで変えていく時代だった。

    しかも紀元前3300年頃といえば、世界史的にも巨大な変化が起きている。

    南メソポタミアでは都市と行政の発達に伴い、紀元前3300年頃には最初期の文字が使われ始める。

    エジプトでも第1王朝成立へ向かう政治統合が進み、初期の文字体系が形成されつつあった。

    一方アルプスでは、文字を持たない農耕民たちが高い山を越え、地域をまたいで石材や金属、知識を交換していた。

    エッツィは「原始人」ではない。

    都市文明とは別のかたちで、高度な技術と長距離ネットワークを持つ社会に生きた人間だった。





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    ↑発見当時の写真!( ・Д・)(「South Tyrol Museum of Achaeology」の記事内画像より転載)


    🪓 彼が普通の男ではなかった可能性を示す、一本の斧

    エッツィの所持品の中でも、とりわけ重要なのが銅斧である。

    斧身は99.7%の銅。

    約60センチのイチイ製の柄へ差し込み、白樺のタールと革紐で固定していた。

    しかも、ほぼ完全な柄付きの状態で残っている。

    当時としては非常に価値の高い品であり、銅斧を所有できたことから、エッツィは社会的地位の高い人物だった可能性が指摘されてきた。

    そして2017年。

    鉛同位体分析によって、さらに意外なことが分かった。

    斧の銅は、アルプスで採れたものではなかった。

    イタリア中部、南トスカーナの鉱石に由来していたのである。

    現在の道路距離をそのまま当てはめることはできないが、かなり遠くから金属か製品が移動してきたことは間違いない。

    アルプスの山男が持っていた一本の斧の背後に、鉱山、精錬、職人、交易という長い物質の連鎖が存在していた。

    そして、この貴重な斧が彼の死後も残されていたことが、5300年前の事件をさらに奇妙にする。

    金品目当ての襲撃だったなら、

    なぜ犯人は銅斧を持っていかなかったのか?

    現在も答えは出ていない。


    🧥 死者の服まで残ったから、銅器時代の日常が見えた

    普通の遺跡では、石と土器と金属が残り、革や布や木は腐って消えてしまう。

    だから考古学者が復元する過去は、最初から「腐らなかった物」に偏っている。

    エッツィは、その偏りをひっくり返した。

    革。

    毛皮。

    編んだ草。

    動物の腱。

    樹皮。

    木材。

    こうした、本来なら消えてしまう品々が残っていた。

    彼の衣服には皮革や毛皮、編んだ草が使われ、縫製には動物の腱や植物繊維が用いられている。

    羊毛を織った布の衣服は確認されていない。

    イチイの未完成の弓、鹿皮の矢筒、火打石の短剣、火起こし道具、白樺樹皮製の容器まで携えていた。

    つまりエッツィは、一体のミイラであると同時に、

    5300年前の人間一人分の生活用具セット

    なのである。

    遺跡から一本の斧だけが出るのとは、情報量がまるで違う。


    🥩 死ぬ直前まで、彼は食事をしていた

    さらに彼の胃まで残っていた。

    2018年の研究では、最後の食事が脂肪分の多い食物、野生動物の肉、穀物などから構成されていたことが明らかになった。

    標高3000メートルを超える場所を移動するには、大量のエネルギーが必要になる。

    高脂肪の食事は、現代人から見れば重そうでも、高山を歩く人間には合理的である。

    ここも、事件を考えるうえでおもしろい。

    エッツィは何日も何も食べず、死にかけながら山へ逃げ込んだ人物ではない。

    少なくとも死の近くまで食事を取り、高山を移動するための装備を持っていた。

    一方で、その右手には深い切り傷があった。

    何かが起きていた。

    ただし、それが私たちが長年想像してきた「負傷した逃亡者の最後の一日」と完全に同じだったかは、今になって怪しくなってきたのである。





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    ↑ほんと生々しいよね!( ・Д・)(「South Tyrol Museum of Achaeology」の記事内画像より転載)


    🏹 2001年、一個の鏃が「遭難死」を殺人事件へ変えた

    発見から最初の10年間、死因については遭難、低体温症、疲労など、さまざまな可能性が考えられていた。

    転機は2001年。

    改めてX線画像を調べたところ、左肩の奥に石製の鏃が残っていることが分かった。

    さらに背中には、矢が入った傷口があった。

    方向からみれば、矢は背後から撃ち込まれた。

    エッツィは、何者かに射られていたのである。

    2005年にはマルチスライスCTが行われ、2007年の研究では左鎖骨下動脈に損傷と仮性動脈瘤が確認された。

    これによって、

    「矢が重要な血管を損傷し、エッツィは大量出血して短時間で死亡した」

    という説明が強く支持されるようになる。

    南チロル考古学博物館の現在の解説にも、この従来説は残っている。

    背後から射られる。

    矢が動脈を切る。

    大量に出血する。

    倒れる。

    そこへ頭部への打撃あるいは転倒が加わった可能性がある。

    5300年前の殺人事件としては、あまりにも分かりやすい筋書きだった。

    ところが2025年、この「分かりやすさ」にメスが入った。


    🩻 最新研究は、ミイラの身体をそのまま人体だと思わなかった

    問題は、エッツィが生きている人間と同じ身体ではないことである。

    5300年間のミイラ化で、水分が失われた。

    筋肉が縮んだ。

    皮膚も縮んだ。

    現在の身体をCTで見て、

    「ここからここまで矢が通った」

    と測っても、生前の身体では距離が違う。

    そこで2025年11月に発表された研究では、ミイラ化による軟組織の収縮を考慮し、生前に近い肩と腕の位置へ戻したうえで矢の通り道を再構築した。

    その結果、生前の創道は約11~13センチ。

    そのうち約8~10センチが筋肉を通っていたと推定された。

    そして、ここから意外な結果が出た。

    筋肉は柔らかく動く。

    穴が開いても組織が寄り、外への出血を抑える。

    矢が残っていれば、それ自体が栓のような役割を果たす。

    研究チームは、

    矢傷から外へ大量出血し、急性出血性ショックで直ちに死亡した可能性は低い

    と結論付けたのである。


    ⏰ エッツィは、矢を受けてから「数時間」生きていた可能性

    これは、

    「矢は死因ではなかった」

    という話ではない。

    矢傷は依然として重大である。

    しかし、これまで想像されたように、撃たれて数分で倒れたとは限らない。

    最新研究では、矢を受けてから数時間生存できた可能性が高いとされた。

    局所的な出血だけなら、即座に致命的な血液量を失うとは考えにくい。

    ところが標高3000メートルを超える高地で、負傷したまま何時間も激しく動けば話は変わる。

    酸素は薄い。

    気温は低い。

    身体は登山によって大量の酸素を必要とする。

    そこへ出血が加われば、酸素を運ぶ能力は低下する。

    つまりエッツィは、

    矢そのものによって即死したのではなく、矢傷+失血+高地+寒冷+激しい移動

    という複数の要因によって、徐々に死へ追い込まれた可能性が出てきたのである。

    これは5300年前の事件の時間軸を大きく変える。

    犯人が矢を放つ。

    エッツィが倒れる。

    犯人が去る。

    死ぬ。

    ではない。

    撃たれた後にも、エッツィには「数時間の人生」が残っていた可能性がある。

    では、その間、彼は何をしていたのか。





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    ↑これが例の立派なエッツィの銅斧!( ・Д・)(「South Tyrol Museum of Achaeology」の記事内画像より転載)


    🥾 そして「殺された場所」まで変わった

    最新研究はさらに踏み込んでいる。

    エッツィが矢を受けたあと数時間動けたなら、

    現在ミイラが見つかった場所で射られたとは限らない。

    研究者たちは、矢は山を登っている途中で撃ち込まれた可能性があり、発見地点そのものは暴力事件の現場ではなかったと結論付けている。

    これなら、発見地点に襲撃者の痕跡がなく、価値の高い銅斧まで残っていたことも説明しやすくなる。

    犯人は彼を撃った。

    しかし、その場では殺せなかった。

    エッツィはそこから移動した。

    そして別の場所で力尽きた。

    そんなシナリオが可能になったのである。

    ただし「どこで射られ、どれだけ移動したか」が確定したわけではない。

    数百メートルなのか。

    もっと短いのか。

    誰かと一緒だったのか。

    一人だったのか。

    5300年前の捜査範囲が、むしろ広がってしまった。


    🤕 「頭を殴られて殺された」説まで怪しくなった

    エッツィの頭部には長く、重い頭部外傷があった可能性が議論されてきた。

    犯人が矢を撃ったあと近づき、頭を殴ってとどめを刺した。

    あるいは矢を受けたエッツィが転倒し、岩へ頭をぶつけた。

    そんな復元も行われてきた。

    ところが2025年の臨床的再検討では、この「外傷性脳損傷」自体についても疑問が示された。

    CTで頭蓋骨の骨折のように見える部分には、正常な解剖学的構造と区別しにくいものがあり、皮膚にも生前に負った明確な対応傷が確認できない。

    顔や身体の変色についても、外傷だけでなく、死亡後に血液が重力方向へ沈む死斑で説明できる可能性がある。

    つまり、

    矢で射られ、頭を殴られて即死した

    という映画のような最期は、以前ほど確実ではなくなった。

    殺人事件である可能性は非常に高い。

    しかし、「どう殺されたか」は再び未解決になったのである。


    🩹 右手の傷には、包帯が巻かれていたかもしれない

    一方、最新研究でむしろ注目度が上がった傷もある。

    右手の深い切創である。

    傷は死亡の数日前に受けたと考えられ、皮膚だけでなく第2中手骨にも達していた。

    つまり、ちょっと手を切った程度ではない。

    刃物を伴う争いに巻き込まれた可能性がある。

    そしてエッツィの右手は、左手と比較して不自然な姿勢を取っている。

    2025年の研究では、

    死亡時に右手へ包帯のようなものが巻かれていたため、この姿勢になった可能性

    が提示された。

    もしそうなら、エッツィあるいは彼の仲間は、

    傷をそのままにするより、何かを巻いて固定した方がよい

    という実践的な治療知識を持っていたことになる。

    5300年前の殺人事件を調べていたら、5300年前の応急処置まで見えてきたわけである。





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    ↑これがアイスマンことエッツィの姿!( ・Д・)(「South Tyrol Museum of Achaeology」の記事内画像より転載)



    ⚔️ 数日前の乱闘と、最後の矢は同じ事件だったのか

    ここからは、まだ仮説である。

    右手の傷は数日前。

    背中の矢は死亡直前の数時間以内。

    この二つが関連するなら、エッツィは突然山中で偶然襲われたのではなく、すでに誰かとの対立へ巻き込まれていた可能性がある。

    集団間の戦闘だったのか。

    個人的な争いだったのか。

    政治的対立だったのか。

    盗みだったのか。

    復讐だったのか。

    その答えはない。

    だが奇妙なのは、やはり所持品である。

    銅斧が残る。

    短剣も残る。

    弓や矢も残る。

    衣類や容器も残る。

    犯人が強盗なら、高価な斧を捨てていくのは不思議である。南チロル考古学博物館も、なぜ襲撃者が斧を奪わなかったのかを現在まで事件最大の謎の一つとしている。

    「犯人が斧を持ち帰れば、自分が殺人犯だと知られるため置いていった」

    という推測もある。

    でも、それを証明する資料はない。

    5300年前なので、犯人を取り調べることもできない!( ・Д・)





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    ↑残りの良いベルト!( ・Д・)(「South Tyrol Museum of Achaeology」の記事内画像より転載)




    ❄️ そもそも「その場で氷漬け」になっていなかった

    そして近年、事件そのもの以上に大きく変わったのが、

    エッツィの保存過程

    である。

    昔の有名な復元では、こうだった。

    エッツィは山中を逃げる。

    谷状の窪地で死ぬ。

    すぐに雪が降る。

    氷河に覆われる。

    窪地のおかげで氷河の動きから守られ、そのまま5300年間、完全な氷のタイムカプセルとなる。

    だから奇跡的に保存された。

    分かりやすい。

    そして美しい物語である。

    ところが氷河考古学が発達し、世界各地の氷雪遺跡について膨大な知識が蓄積されると、この説明が合わなくなってきた。

    2023年の研究では、エッツィは春から初夏頃、現在の発見地点より上方の雪上で死亡した可能性が高いとされた。

    その後、雪や氷が融けた際、遺体と道具類が下の窪地へ滑り込んだ。

    さらに雪と氷に覆われたが、それで終わりではない。


    🌞 5300年間ずっと凍っていたわけでもなかった

    もっと驚くのはここである。

    その研究によると、エッツィが入った窪地は、死亡後およそ1500年間にわたって、暑い夏には何度も部分的に露出した可能性がある。

    融ける。

    身体の一部が出る。

    また雪が降る。

    凍る。

    また融ける。

    そうした過程によって、身体や装備の一部は損傷した。

    より新しい時代の植物なども窪地へ混入した。

    完全に雪と氷で閉ざされたのは、死亡からずっと後、およそ3800年前だったと考えられている。

    つまり、

    エッツィは5300年間、一度も外界に触れない完全な冷凍庫へ入っていたわけではなかった。

    論文は端的に、

    「5300年間の氷のタイムカプセルではなかった」

    と結論している。

    この違いは大きい。

    遺体の姿勢。

    壊れた道具。

    周囲の植物。

    発見地点。

    これらすべてを、

    「死亡直後の状態そのまま」

    として読むことができなくなるからである。


    🧊 それでも、死んだときの姿勢は残った?

    ところが、ここがまたおもしろい。

    2025年の医学的研究では、死斑の位置や胸部の圧迫、腕の姿勢などから、エッツィは死亡時にも現在に近いうつ伏せ姿勢だった可能性が高いとされている。

    一方、氷河考古学では、死亡後に雪とともに窪地へ滑り込み、何度か再配置されたと考えられる。

    これは必ずしも矛盾しない。

    うつ伏せで死亡した身体が、雪と氷ごと比較的短い距離を移動し、大まかな姿勢を保ったまま窪地へ入った可能性もある。

    重要なのは、

    発見地点=死亡地点=襲撃地点

    という一対一の対応が、今では成立しなくなっていることである。

    1991年の発掘地点は、「最後の戦闘が起きた場所」ではなく、死後の自然現象まで含めた長い形成史の結果なのである。

    これはまさに、考古学でいう「遺跡形成過程」の問題である。





    arukemaya_y889

    ↑残りの言い靴!( ・Д・)(「South Tyrol Museum of Achaeology」の記事内画像より転載)



    🧬 そして顔まで変わった――肌はもっと暗く、髪は少なかった

    研究によって書き換わったのは、死に方だけではない。

    エッツィ本人の見た目も変わっている。

    長年、博物館やテレビでは、比較的明るい肌に長めの毛髪を持つ男性として復元されてきた。

    しかし2023年、高品質なゲノムを再解析した結果、以前のDNA研究には現代人由来の汚染などの問題があったことが分かり、姿が修正された。

    新しいゲノムが示したのは、

    従来想像されたより濃い皮膚色

    そして、

    かなり進んだ男性型脱毛の遺伝的傾向

    だった。

    死亡時には薄毛、あるいはかなり頭髪を失っていた可能性がある。

    さらにゲノムには、初期のアナトリア農耕民と共通する祖先成分が非常に高い割合で残されていた。

    つまり彼は、数千年前にアナトリア方面からヨーロッパへ農耕を広げた人々の系譜を色濃く引く男性だった。

    一本のミイラを30年以上研究しているのに、

    顔も、

    死因も、

    死亡地点も、

    保存過程も、

    まだ変わり続けている。


    📅 逆に、2026年になっても変わらなかったものもある

    科学は新説を出すだけではない。

    古い研究が正しかったことを確認する場合もある。

    2026年2月、ETHチューリッヒに30年以上保存されていたエッツィの凍結組織試料について、新しい放射性炭素年代測定の成果が発表された。

    複数回の分析を合わせた値は4527±7 BP。

    最初期の1994年の測定値4550±27 BPと、きわめてよく一致した。

    現在の較正では、年代確率が紀元前3356~3326年、3232~3180年、3157~3108年という複数区間へ分かれるものの、「約5300年前の銅器時代」という基本年代は揺らいでいない。

    30年以上前の分析技術でも、年代そのものは驚くほど正確だったのである。

    新しい技術が古い結論を壊すこともあれば、

    古い結論の精度を証明することもある。

    これも科学のおもしろいところだ。


    🦠 2026年、今度は「死体の中がまだ動いている」と分かった

    そして事件捜査とは少し違うが、今年2026年にはさらにとんでもない研究が出ている。

    エッツィの身体に存在する微生物を、ゲノム解析や培養などによって包括的に調べた研究である。

    そこには、大きく三種類の微生物世界が重なっていた。

    生前の腸内細菌に由来するもの。

    死後、氷河環境から入ってきた寒冷適応微生物。

    そして1991年以降、研究・保存の過程で現代環境から加わったもの。

    つまりエッツィは、

    「紀元前3300年頃の身体」

    だけではない。

    死亡後の5300年間と、博物館で保存された30年以上の歴史まで、微生物として身体へ重ねているのである。

    しかも寒冷環境へ適応した一部の酵母などには、現在の保存環境でも活動し得るものが確認された。

    エッツィは物理的にも生物学的にも、完全に停止した「凍ったタイムカプセル」ではない。

    研究チームは今後の保存のためにも、微生物群集を継続的に監視する必要があるとしている。

    まさか5300年前の殺人事件を調べていたら、

    犯人どころか、ミイラに住む酵母の心配までしなければならなくなる

    とは誰が思っただろうか!( ・Д・)


    🔬 1991年の「遺体」が、なぜ今も新発見を生むのか

    エッツィ研究の歴史を並べると、おもしろい。

    1991年。

    遭難者だと思って回収したら、先史時代のミイラだった。

    1990年代。

    放射性炭素年代測定で約5300年前と分かった。

    2001年。

    X線を見直したら、肩に鏃があった。

    2000年代。

    CTによって血管損傷が明らかになり、殺人事件像が作られた。

    2010年代。

    胃内容物、DNA、病原体、衣服の動物種、斧の原料産地まで分かっていく。

    2020年代。

    氷河考古学が「死んですぐ永久凍結」の物語を崩した。

    ゲノム研究が「明るい肌と豊かな髪」という復元を変えた。

    医学的再検討が「矢で即死」という事件の時間軸を書き換えた。

    そして微生物学が、ミイラそのものを「変化し続ける生態系」として見始めた。

    同じ遺物なのに、答えが増え続ける。

    これは最初の研究者たちが間違っていたからではない。

    質問するための技術が変わったからである。

    目視で分かること。

    X線で分かること。

    CTで分かること。

    同位体で分かること。

    DNAで分かること。

    タンパク質で分かること。

    微生物ゲノムで分かること。

    一つの身体から読み取れる情報量そのものが、30年間で激増している。


    🕵️ それでも犯人だけは、見つからない

    現在かなり確からしいのは、エッツィが生前に暴力を受けたことである。

    数日前には右手へ深い切り傷を負った。

    死亡の近くには、背後から矢を受けた。

    その矢傷は彼の死へ大きく寄与した。

    だが最新研究では、即死ではなく、数時間生存した可能性が高い。

    発見地点は襲撃そのものが起きた場所ではなかった可能性も高まった。

    一方、誰が撃ったかは分からない。

    なぜ撃ったのかも分からない。

    人数も分からない。

    彼が逃げていたのか、追っていた側なのかも分からない。

    銅斧が残された理由も分からない。

    数日前の手の傷と最後の矢が同じ対立に由来するのかも分からない。

    科学技術がどれほど進歩しても、物質から復元できる範囲には境界がある。

    鏃は、

    「矢を撃たれた」

    とは教えてくれる。

    しかし、

    「犯人は誰で、なぜ撃ったのか」

    とは喋ってくれない。

    そこに、5300年前の殺人事件のおもしろさと限界がある。


    🏹 彼の「最後の日」は、これからも書き換わる

    5300年前。

    一人の男がアルプスを歩いていた。

    身長はおよそ160センチ。

    年齢は45歳前後。

    毛皮と革をまとい、火打石の短剣を持ち、未完成の弓と矢を運び、遠いトスカーナの銅から作られた高価な斧を携えていた。

    数日前、彼は手に深い傷を負った。

    それでも食事を取り、山へ向かった。

    そして、どこかで背中から矢を受けた。

    だが、その場では死ななかったらしい。

    負傷した身体で、さらに高地を移動した。

    寒さ。

    薄い空気。

    疲労。

    出血。

    そのどれか一つではなく、すべてが少しずつ彼の生命を削ったのかもしれない。

    やがて雪の上で倒れる。

    うつ伏せのまま動かなくなる。

    後に融雪によって身体と道具は窪地へ滑り込む。

    雪と氷に覆われる。

    時には再び露出する。

    また埋まる。

    そして約5300年後の1991年。

    ハイカーが、その背中を見つけた。

    長年語られてきた、

    「戦いで負傷した男が山へ逃げ、追っ手に背中を射られ、その場で大量出血して倒れ、すぐ氷に封じ込められた」

    という物語は、とても分かりやすかった。

    けれども現在、ほぼすべての部分に修正が入っている。

    撃たれた場所も違うかもしれない。

    死ぬまでの時間も違う。

    頭部外傷さえ怪しい。

    遺体は死亡地点から動いた可能性がある。

    5300年間永久凍結されてもいなかった。

    肌や髪の復元も変わった。

    それでも、

    一人の人間が暴力を受け、5300年前のアルプスで死んだ

    という中心だけは残っている。

    これが考古学のおもしろいところだと思う。

    新発見とは、必ずしも新しい遺跡を掘り当てることではない。

    30年以上前に発見され、世界中が知っている一体のミイラを、

    別の技術で、

    別の角度から、

    もう一度見る。

    すると、昨日まで「事実」だった物語が動き始める。

    エッツィ最大の秘密は、

    「誰に殺されたのか」

    だけではないのかもしれない。

    5300年前に死んだ一人の人間が、現代科学の進歩に合わせて、何度でも違う歴史を語り始めること。

    それこそが、アイスマンに今も隠されている最大の謎なのだ!( ・Д・)




    なにはともあれ……

    お盆休みは考古学・歴史関係のミステリー、ホラーもの探してみるかな!( ・Д・)








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    2020ねん 11がつ 16にち(げつよーび、くもり)

    寝付けなくてずっと「アンチャーテッド」観てた _(:3」∠)_


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    arukemaya1199



    今回の考古学・歴史ニュースはロアノーク集団失踪事件が少し解明に近づいたかも!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


    今回の舞台はアメリカ、ノースカロライナ州のロアノーク島です。

    以前に取り扱ったので、是非先に読んでみてくださいね( -д-)ノ

    下に挙げた前の記事を書いた時は、たぶん時間もなかったのか地図の理解で混乱してました(私たち、基本的に上が北なもので( -д-)ノ)

    本記事の作成に当たり、読み直してみたらすっと理解できました。

    記事内容の修正はしていませんので、皆さんも古地図と現代の地図を見比べながら色々と考えてみると楽しさを実感できるかなと思います(。・ω・)ノ゙


    ↓↓↓先に読んでね!(・∀・)つ↓↓↓



    私個人としてはとっても大好きなストーリーで、これぞ歴史ミステリーだな~って思ってます。

    YouTubeとかで考古学・歴史ミステリーをいくつか選ぶなら間違いなく、ロアノークの話を選びますね(*・ω・)ノ

    また最後に述べますように、この「ロアノーク島の謎」を解明すること、あるいはそのための方法論の開発は考古学の新たな未来を拓くと考えていますので、そういう意味でもお気に入りのテーマですヾ(´ω`=´ω`)ノ




    事件のおさらい

    さて、ひとまず「ロアノーク島集団失踪事件」をサクッとおさらいしましょう。

    1585年にジョン・ホワイト総督により北米最初の人開拓地の一つとしてロアノーク植民地が設置されました。

    しかし重度の食糧難に陥り、1587年にホワイト総督は入植者115名を残したまま、イギリスに一時帰還します。

    スペインとの戦争で遅れつつも3年後の1590年8月にロアノークに戻ってみると、入植者は1人もいませんでした。

    残ったのは樹や防御柵に刻まれた「CRO」、「CROATOAN」の文字だけでした。




    新しい発見とぶつかる意見

    この「ロアノーク集団失踪事件」はアメリカでは人気のある逸話となっていて、現代でも紙芝居や劇で取り扱われています。


    有名なところではホラー作家のスティーブン・キングの「悪魔の嵐」の題材ともなっているそうです。


    さて、前の記事では『地図に隠された砦のマーク』を発見したという、「ナショナルトレジャー」のような冒険映画に出てきそうな大きな発見について紹介しました。


    この砦があったと思われるポイントを『サイトX』と名付けて、「ファースト・コロニー基金」の調査チームが調査したところ、砦の痕跡は見つからなかったそうです。


    その代わりに24点の英国製陶器片を発見し、ロアノークから移動した入植者達が運んで使用したものだと解釈しています。


    またこのサイトXの北方3kmほどの地点を「サイトY」として発掘調査を実施したところ、英国製だけではなく、ドイツ製、フランス製、スペイン製の陶器を大量に発見したそうです。


    サイトYを何故掘ったのか、出土遺物量はどれほどなのかについては、まだ調査が終了して間もないためか「ファースト・コロニー基金」のページを見てもまだ何も書かれていません。


    しかしながら彼らの意見としては、「ロアノークの人々はホワイト総督を待つ間にロアノークから西方80kmの砦に移動していた」と考えているようです。


    また別の調査チームはロアノーク島の80km南方にあるハッテラス島で、消えた入植者たちに関係する遺物を発見したと報告しています。


    こちらでは16世紀の礼装用の剣(レイピア)の柄や銃の一部を含む、ヨーロッパ製の遺物が見つかったのです。



    arukemaya1197
    ↑ワニが描かれてるのでやっぱりアリゲーター川にはワニがいたんでしょうね!(「NACIONAL GEOGRAPHIC」の記事内画像より転載;credit表記は図内左下)



    どう解釈するべきか?


    ファースト・コロニー基金のチームを「チームA」、もう一方を「チームB」としましょう。

    チームAでは「ロアノークから西方80kmの砦に向かった」と考えており、サイトXの発掘では砦は見つからなかったものの、80~100人の人々が生活していただろうと述べています(根拠不明)。

    チームBでは「ロアノークから南方80kmのハッテラス島に向かった」と考えています。

    両方とも『80km』なのは偶然だとは思いますけども、重大な食糧難の渦中にある100名もの大集団がそれほどまでの距離を移動するものなのかなと、まずは疑問に思います。

    移動するのであれば、相応の理由があったはずで、

    ①先住民による攻撃の手から逃げるため

    ②食糧難を克服するアテがあったため

    が、真っ先に考えられます。

    ①に関して、ロアノーク植民地内で事前に決めていた約束事で、万が一「島を去るときには行き先を木か柱に刻んでいく」、さらに「緊急事態の場合には十字も彫っていく」というものがあります。

    発見された文字は「CRO」、「CROATOAN」だけで、「十字文」は発見されませんでした。

    素直に受け取ると緊急事態ではなく、ただ行先だけを記したことになります。

    「CRO」はクロアトアンの略のようにも思えます。

    クロアトアンは先住民とクロアトアン島(現在のハッテラス島)を指します。

    そうなるとチームBの仮説の方が有力かなという気もしてきます。

    ところが、気になる点も散見されます。

    先住民は比較的穏やかで友好的と記録に残っているのですが、ホワイト総督がイギリスに一時帰還する前にノアロークの入植者の内の1名は先住民との争いの中で命を落としているのです。

    またホワイト総督がノアロークに戻った時には、ノアローク植民地には以前にはなかった防御柵が張り巡らされていたと記録にあります。

    こういった点から一部の先住民との争いがあった可能性も残っています。

    特に当時の環境に関する研究から、彼らが入植した1585年頃からの10年間は降雨量が少なく、作物の生産量が低かったであろうことが指摘されています。

    友好的とは言え、先住民も一枚岩ではなかったかも知れませんし、飢餓に悩まされれば争いになることは、人類史において常と言えるでしょう。

    この先住民との争いに着目するとチームAの仮説が有力のようにも感じます。



    両方とも正しい説!

    歴史研究の場合、二つの仮説が対立して、両者とも正しいことがあり得ます。

    両者とも違って、いきなりブラックホースが飛び出すこともありますが( -д-)ノ

    今回の場合、入植者の数が100名規模と大きく、飢餓状態にあったことから分散して各方面に散らばったと考えているようです。

    そうして散らばった人々は先住民文化に同化していったと結論付けています。

    ・・・・・・・・・・・・

    私はもちろんこの研究テーマを専門としていませんが、個人的には、、、

    チームAの仮説に関して、ノアロークの人々は砦に行くかな?ってやっぱり思うんですよね。

    入植時期等々から考えて、「砦って建設予定」であって、砦は当時なかった気がするんですよね。

    食料の備蓄があるわけでもないのにそんなとこに飢饉の中、心機一転行くでしょうかね?

    少なくとも「砦の建設には最適な条件」なのでしょうから、一部の先住民の襲撃から逃げる先としては良いと思いますけどね(*・ω・)ノ

    当時のイギリスはスペインに負けじと北米に入植するために力を入れていたわけで、ホワイト総督も大量の食料と人員を連れて戻ってきて、重要拠点であるノアローク植民地やその周辺の探索を行ったわけです。

    ホワイト総督は砦のことを計画した人物ですからその存在は知っているでしょうし、クロアトアンと刻まれていれば、クロアトアンの集落も訪ねるでしょう。

    僅か3年後ですよ?

    同化する?Σ(・ω・ノ)ノ

    「あ~助けに来てくれた!ノアロークに戻ります~」ってならん?( ・Д・)

    ・・・・・・・・・・・・

    野ざらしにされた場合、ヒトの白骨化は1週間から数か月で十分です。

    長く見積もっても1年あれば足ります。

    私の『憶測』だと、ホワイト総督の出港後、飢饉の中で一部の先住民の襲撃を受けて、防御柵を設置、その後耐え切れそうになくなり、クロアトアン集落の本拠地に助けを求めたが半ばで全員死亡( ・Д・)

    まぁこの説だと考古学的な証拠は見つからないので困るのですけどね( -д-)ノ

    誰かクロアトアン集落に辿り着いていれば、そこにはロンドンを二度も訪れ、エリザベス1世から貴族の称号さえ受けているマンティオという先住民もいたでしょうし、無下には扱われないでしょう。

    ホワイト総督の到着前に死亡したとしても手厚く葬られるでしょうし、ホワイト総督にそのことを告げるでしょう。

    葬られてさえいれば、考古学的に色々と分かるのですが、野戦で殺されて、ないし力尽きて野ざらしだと何も残らないでしょう。

    今後の調査と陶器片などの遺物のデータ収集成果に期待するのは当然ですが、現状、私的には全員死亡です( ・Д・)


    おわりに ー考古学研究の壁ー

    チームAの見解によるとチームBの成果も取り入れ、ノアロークの人々は四散した可能性があると考えています。

    こうしてなかなか自ら、他者の意見を受け入れることは少ないと思うので、面白いなと思ってますが、お互いがお互いを批判できない状態にあることも一因でしょう。

    前回の『地図に秘められた謎の記号』ように新た歴史史料が発見されない限り、今後も発掘調査によって地道なデータ集めをして検証を行っていく必要があります。

    つまり考古学の出番なわけですが、ここに考古学研究における一つの壁が立ちはだかります。

    それは『時間』です( ・Д・)

    考古学では主に土器や陶器を型式学的研究法によって分類し、時期ごとに変化を追って、編年を組みます。

    結果、土器や陶器はタイムスケールとして機能するわけですが、この時間幅が問題になってくるのです。

    現代の食品のように「製造年月日」が書いてあれば楽なのですが、そんなことはありません。

    土器や陶器の部分的な変化に着目して時期を判定しているわけなので、「変化していなければ分からない」のが事実です。

    今回のお話は16世紀のイギリスをはじめとするヨーロッパ産陶器が年代の手がかりとなる主要な遺物です。

    この頃の陶器の様式はさほど大きく変化していなかったようですし、モノの保ちも良いので長く使用されたり、生産を終えた後も長く販売されることもあります。

    ホワイト総督が帰ってきたのは僅か3年後ですし、20年後にはジェームズタウンから南下してきた人々もいます。

    1650年までには英国商人が多数流入していたことも考えると、長く見積もっても僅か100年の間を細分する必要があるのです。

    時期・地域、特定の出土状況にもよりますが、考古学的には100年はけっこう短いスケールです!

    感覚的には50年ごとの細分が出来たらかなり優秀だと思います。

    なので、「ノアローク集団失踪事件」を解明するためには、「徹底した時期の細分」が一つの目標になると思います。

    仮に使用条件が極めて限定されたものだとしても、ここでもし画期的な方法が開発されたら、今後の考古学の未来は明るい気がしますヾ(´ω`=´ω`)ノ

    ところで、、、

    「古代マヤ人集団失踪事件」にも基金を募りたい!( ・Д・)



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    2020ねん 8がつ 11にち(かよーび、曇り)

    頑張って記事書きまくるぞ~!( ・Д・)


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




    今回の考古学・歴史ニュースは「イスラエル発!最古の仮面を紹介するよ!( ・Д・)」ってお話です(*・ω・)ノ



    たまたま『最古』ネタが続いておりますが、意図的ではございません( -д-)ノ


    今回紹介するのは石製の仮面です!

    お祭りの仮面は現在はプラスチックですし、ひと昔前は木製でした。

    古代においてはもちろんのこと、人類史の多くの期間において多くの仮面はきっと木製だったと思います。





    なので基本的に残りません。

    よっぽどの特殊な環境下でなければ、木製の仮面は有機物ですから腐敗してしまいます。



    上に挙げた写真で分かるように、今回の仮面は石製、比較的柔らかな石灰岩を削ってできているので残ったと考えられます(*・ω・)ノ




    9000年前の新石器時代の仮面の真偽

    こうした石製仮面はイスラエル南部の砂漠で見つかっています。

    その数は合計で16点です。




    この内、10点が個人所有のものであり、由来は完全に不明なのです。

    また5点は博物館所有ですが、やはり由来が不明なのです。

    最後の1点は現地の盗掘防止隊に提出されたもので匿名の人物により発見された遺跡が示されているそうです。




    つまり出土遺跡が分かっている遺物は1点のみで他は全て不明。

    どれもまともな考古学情報を有していないのです。

    そのため「偽物ではないか?」という意見も多々ある疑惑の仮面なのです( -д-)ノ





    石仮面について考えてみた(*^・ェ・)ノ

    先に述べたように、16番目の石仮面が出土したと思われる遺跡だけが分かっていて、それはヨルダン川西岸南部のプネイ・ヘベル居住区付近に位置する新石器時代の遺跡だそうです。

    次の盗掘被害を避けて遺跡に関する詳しい情報の公開は控えられています。

    当該遺跡ではイスラエル考古学庁の主導の下、調査が開始されていますがこれまでに同様の仮面は発見されていません( -д-)ノ




    遺物の特徴としてはどれも石灰岩製で、成分分析の結果、いずれの資料も周辺に分布する素材を使用しているとのことです。

    またどれも仮面の縁に刺突孔があり、お面のように紐で頭部などに縛り付けられるような仕様になっています。




    arukemaya930

    arukemaya931
    ↑正面と側面、側面には穴が見えます(*・ω・)ノ(「NACIONAL GEOGRAPHIC」の記事内画像より転載;credit: CLARA AMIT, ISRAEL ANTIQUITIES AUTHORITY)


    上に挙げた二枚目の写真の通り、目の位置よりやや高いところに穿孔痕があります。

    「お祭りのウルトラマンとか仮面ライダー(?)のお面」を想像して頂くと分かりやすいかなと思いますが、紐を通して耳にかけることを考えるとちょうど良い位置に穿孔されていると思います。



    9000年前のこのイスラエルの地は新石器時代に相当し、ようやく定住生活が始まったかなという段階です。

    定住生活の中で親族や友人の埋葬行為、それに伴う儀礼行為など、宗教観念も発達し始めた頃ではないかと予想されます。

    そういった中でこの石製仮面も製作されたのでしょうか?




    イスラエルの新石器時代における新たな葬制・風習?

    上に挙げた写真は同地域でこれまでに発見されている埋葬遺構から出土した人骨です。

    どれも頭蓋骨ですが、表面に石膏が塗られています。

    奥の1点については耳や目も造形され、彩色もされているようですね。



    この地域が当時から砂漠地帯なのか不明ですが、鳥葬にするか、火葬にするか、土層にするか、いずれにせよ、皮膚や肉などが分解された後の剥き出しの頭蓋骨に対して石膏を塗って加工しなければ、上記写真のようには残りません。

    なので一度埋葬してから、掘り起こして再度儀礼を行い埋葬する再葬が行われていたのだろうと思います。

    情報が乏しいのでどちらが時代的に先かどうかは分かりませんが、今回紹介した石製仮面はこの石膏付き頭蓋骨の風習に関連するもので、恐らく被葬者の顔に被せるために作ったものなのでしょう。





    手のかかる再葬風習を簡略化して、最初の埋葬時に仮面をつけるようになった……ような気もしますが、、、

    上の写真の奥に見える精巧な石膏付き頭蓋骨を見ると、技術的観点からも、、、儀礼が複雑化したような気もします。




    ・・・・・・

    ・・・


    きっと後者かな?

    あるいはやっぱり贋作だろうか・・・・・・( ・Д・)



    こんな風に思いを馳せるのも考古学ミステリーのひとつ、醍醐味だと思います。


    皆さんはこの事件、どう思いますか???ヾ(´ω`=´ω`)ノ





    おわりに


    さて、真面目ばかりは飽きるでしょう!

    「歩け、マヤ」らしく最後に悪ふざけを……( -д-)ノ


    arukemaya936

    arukemaya937

    arukemaya938


    うおぉぉぉぉぉぉ!!!!!(変化中)

    ……研究者も「人」でいさせてくれぃ!( ・Д・)

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