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あるけまや -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

タグ:考察

2019ねん 1がつ 20にち(にちよーび、晴れ)

自由に研究できる環境というのはとても重要であると実感している。

「金と政治」と言うが、

「金と研究」、「金と考古学」といって良い。

あるいは「コネと考古学」か……( ・Д・)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・

日ユ同祖論01
↑現代のユダヤ人と侍並べてほとんど同じってあり得ませんけど、まぁイメージってことで( -д-)ノ(「いらすとや」さんの素材を使用して作成)



【目次】
  1. はじめに
  2. 日本までの移動可能性について
  3. 使用ルートの判定
  4. 移動手段からみた到達時間について
  5. おわりに 


1.はじめに
バックナンバー紹介しておきます(*^・ェ・)ノ

↓問題のつまらんお話ヽ(TдT)ノ

↓関係する人気記事ヾ(´ω`=´ω`)ノ


↓前回の記事

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さて早くも「日ユ同祖論」のテーマで第四回となりました( -д-)ノ


これまでに主として確認してきたことは、


①紀元前721年のアッシリア捕囚が契機

②移動主体者は古代イスラエル(北王国)の指導者層

③移動者数は27,290人

④移動距離は直線距離で9079km

⑤移動ルートは「草原の道」

以上の5点になります。


今回は紀元前721年にサマリアないしアッシュールを出発した北王国の指導者層が、どのような手段で、いつ日本に到達したのか?について検討したいと思います。


前半部では移動手段の検討を行い、実際にいつ到達し得るのかを問題とします(今回の記事(*・ω・)ノ)。


後半部では「日ユ同祖論」における先行研究(支持者)が根拠とする日本の史料を取り上げ、いつ到達すべき、あるいはいつ到達しなければならないのかを問題とします(次回の記事です( -д-)ノ)。


では、元気にいってみましょー!ヾ(´ω`=´ω`)ノ


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↑めちゃ綺麗!それでも砂漠を陸路移動したくないけど!( ・Д・)(「エアトリ」の記事内画像より転載)


2.日本までの移動可能性について
さて、前回みてきたように現在のイスラエル(当時の位置とほぼ同じ)から日本までの距離は9079kmでした。

「草原の道」はステップ地帯を利用してユーラシアを東西に横断するルートですが、イスラエルから北部のステップ地帯まではかなり遠いことも分かりました。


現在の舗装道路や高速道路と違って、舗装されてもいないし、直線的な道でもないわけですから、実際に移動すべき距離は延びるでしょう。


時期は紀元前8世紀の終わりですから、「草原の道」はスキタイによってルートとして開けていたかどうかは不明であり、ルートとして使用できたとしても最初期のものとなります。

そのためルートに関する情報も遠く離れた他国では限られていたと考えられます。


よって北イスラエル王国の指導者層は、スキタイの中心地であるウクライナまで移動して情報を得た後に東に向かった(aルート)と仮定することができます。

一方で北イスラエル王国はその存続時から他国との交易を行っていたため、何かしらの情報を入手していた、あるいは経験知に基づき砂漠地帯を避けてステップ地帯を移動する方法に自ら辿り着いた(bルート)とも仮定できるでしょう。


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↑イスラエルから日本への移動経路(青ラインがaライン、赤ラインがbラインである;「Google Map」の画像を加工)


上に示した図が、現在の地図に基づき、イスラエルから日本への経路を示した概略図になります。

ステップ地帯はモンゴルの東端で一度北上しますのでルートは三角形状を呈しています(参照;前回の記事にステップ地帯の分布図を載せています)。


素直にステップ地帯を抜けると朝鮮半島から日本への渡航ルートを選択することが想定されるため、図にはそのようにラインを挿入しています。ただし、日本のどこに着いたかは不明であり、かつ歴史上あるいはその他の諸点で大きな問題であると予想されるため敢えてラインの挿入を避けています( ・Д・)


さて、この図に則して考えた場合、aルートは黒海を東から回り込んでスキタイの中心地に寄り道するルートbルートは黒海とカスピ海を抜けて最短でステップ地帯に侵入するルートになります。


aルートではウクライナまでイスタンブールから黒海を渡るルート(約2590km)もありますが、大集団ですので船は使わなかったと仮定しています。

よって陸路で黒海を東回りするとウクライナまで約2726km、カザフスタンのアスタナまで約5933km、モンゴルのウランバートルまで約3281km、北上してブラゴベシチェンスクまで約2631km、韓国の釜山まで約1713kmとなります。


(経由地はステップ地帯のルートからおおよそで選択しており、距離は現代の車道ないし車が通行できる道を利用しています)

以上から、aルートの総距離は約16,284kmと推定できます。


一方でbルートでは、黒海とカスピ海を抜けてカザフスタンのアスタナまでが約5515km、以降のルートはaルート同様となります。

そのため、bルートの総距離は13,140kmと推定できます。


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実際に移動主体者(古代イスラエルの民)がaとbのどちらを選択したかは不明(史料もないので検討不可)ですので、以上のことから、移動主体者がイスラエルから日本まで「草原の道」を利用して移動した場合、少なくとも釜山まで約13,000~16,000km移動する必要があるということになります。



3.使用ルートの判定
さて、イスラエルから日本までの直線距離9000kmよりかなり長い推定値となりました。

地球は赤道直下を一周すると約40,000kmですから、少なく見積もっても4分の1周以上する必要があることになります。

16,000kmで考えると地球半周とはいきませんが、40%も移動する計算になります。



さて、実際に移動するとなると可能なのでしょうか?

そしてどれくらいかかるものなのでしょうか?



古代や中世においてキャラバンはシルクロードを交易路として東西に移動していたかに思えますが、実際には東西の起点から中間地点にある敦煌やバーミヤンといった都市までを移動して交易を行っていたため、東西を横断する必要がなかったと考えられています。


まぁ何かしらの理由で横断する必要がある場合にはしていたでしょうけども、『東方見聞録』で有名な13世紀のマルコ・ポーロは「オアシスの道」を使って横断していました。

先に述べた敦煌とバーミヤンも「オアシスの道」にあります。



一方でこれまでの検証で、紀元前721年頃に古代イスラエル王国(北王国)の指導者層が使用できたと考えられるルートは「草原の道」です。

当時「草原の道」を使った東西交流を支えていたのがスキタイの遊牧民たちですから、「草原の道」に特定の固定的な中間地点、あるいは休憩地点はないと思われます。


つまり所謂「古代イスラエルの民」が「草原の道」を使って東西を横断するためには、約3万人の大移動を支える食料・水の確保の問題から、スキタイとの接触と協力なしでは極めて困難と考えられます。



そうすると「古代イスラエルの民」は一度、スキタイの中心地を訪れてから「草原の道」や東国に関する情報、長期移動のための援助を得る必要があるため、前述のaルートの使用、及び16,000kmの移動が必要であった蓋然性が高まります。






4.移動手段からみた到達時間について
さて、古代~中世における移動手段と移動可能距離については様々なデータがあります。


①徒歩:時速5km
やはり徒歩が基本となる移動手段です。古代の都市の立地を見てみると、徒歩半日圏内、一日圏内に立地する傾向が見られるなんていう研究もあります。

実際の歩く速度の平均は4~6km程度で、一日で25~40kmほど移動できます。


仮に一日6時間歩いて30km移動したと仮定すると、単純計算では「16,000÷30」で534日で踏破できます(小数点以下繰り上げ)。

釜山からの海路、日本上陸後の陸路移動の時間を加味しても2年あれば到着できることになります。



実際には肉体・精神的疲労や体調、地形の緩急、天候といった様々な条件でより時間がかかるでしょう。

現代の事例ではシルクロードを徒歩で横断した際に2年半かかったとありますので、諸条件を加味しても3~4年あれば到着しそうですね(*・ω・)ノ


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↑暑い砂漠より、涼しいプール!・・・って溺れるゥ~!( ・Д・)(「産経ニュース」の記事内画像より転載)


②馬:1日40km
さて、古代の移動手段として馬があります。馬に全力疾走(ギャロップ)させると、時速20~25kmで走るそうです。

でも長旅で全力疾走させるわけありませんので、急いでても1日で50~60km程度と言われています。


総距離が16,000kmに及ぶと移動者らは知らなかったでしょうが、具体的な目的地や期限があったわけではありません。

そのため「古代イスラエルの民」は恐らく商人や隊商(キャラバン)のように急がずに移動したと考えられます。

この場合の移動速度は1日30~45km程度となります。



馬での旅では、4~6日置きに休息を取ると言われています。馬も疲れますから( ・Д・)

18世紀には替え馬のできる駅も登場しますが、「古代イスラエルの民」は当然馬を替えることができません。

そして馬での旅も天候等の諸条件で遅れますから、1日40km程度で400日、およそ1年と1ヶ月で移動できることになります。




③ラクダ:時速5km
「ラクダの移動速度、徒歩と同じじゃん!( ・Д・)」と思った方もいらっしゃるかと思います。

ラクダは一日で約48kmを移動することができます。これをアラブでは「ラクダ日」と言います。

スピードは遅いのですが、ずっと歩き続けるのです。そのため「砂漠の船」という別名が付いています。



さて、馬と比べると、長距離の連続走行に耐えるアラブ馬はイネ科植物の草だけを食べ、1頭あたり1日に4~5kgも食べます。


一方でラクダはあらゆる植物を食べ、サボテンすら食べますし、食料がなくても背中のこぶに蓄えた脂肪で生きていられます

また体重の4割もの水分を失っても生存可能で、130~180kgの荷物を載せたままで数か月間の旅ができます。


ただし時速5kmです!

さすがは「砂漠の船」ということで「草原の道」のステップ地帯を移動するにしても、長距離移動の観点から馬よりも有用だったと考えられます。

徒歩だと荷物が問題になりますし、恐らく「古代イスラエルの民」は頭数は不明ですがラクダを用いた移動を行った蓋然性が高いと思います。


……まぁ古代イスラエルの民が滅ぼされた直後に大量の馬を有しているのもおかしいですからね( ・Д・)


ということで、「古代イスラエルの民」がラクダと共に移動したとして、やはり2年~4年で横断できる見込みとなります。





5.おわりに 
長くなりましたが、とりあえず古代イスラエル王国(北王国)の指導者層の一団、つまり所謂「失われた十支族」は、(移動したのであれば)スキタイの土地に寄ってから「草原の道」を使って2~4年で日本まで移動可能であったと分かりました(*・ω・)ノ


これだけのことを言うのにこんなに長くなりましたが、次回も引き続き「時間性」の問題についてお付き合いくださいヾ(´ω`=´ω`)ノ

↓ラクダに乗ると楽だ( ・Д・) くすっとしたらぽちっとな!ヽ(・ε・)人(・ε・)ノ ナカマ↓

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2019ねん 1がつ 16にち(すいよーび、晴れ)

気付いてしまった・・・・・・

長ーく下書きにしておくと、せっかく記事にしても最初に書き始めた時間に従って投稿されてしまい、埋もれてしまう( -д-)ノ

気合入れた記事が読まれづらいのはこのせいか!(ノ◇≦。) ビェーン!!

・・・・・とは限らないけど、それでも投稿した時間にして欲しいものだヽ(TдT)ノ


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日ユ同祖論01
↑現代のユダヤ人と侍並べてほとんど同じってあり得ませんけど、まぁイメージってことで( -д-)ノ(「いらすとや」さんの素材を使用して作成)



【目次】
  1. はじめに
  2. 日本までの距離と移動ルートについて
  3. おわりに 


1.はじめに
バックナンバー紹介しておきます(*^・ェ・)ノ

↓問題のつまらんお話ヽ(TдT)ノ

↓関係する人気記事ヾ(´ω`=´ω`)ノ

↓前回の記事



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さて、前回の整理では「失われた10部族」=指導者層の少なくとも一部(約27000人以下の集団)がアッシリアではなく他の地域に向かったということを明らかにしました。


この指導者層の大量の移動は、紀元前721年の北イスラエル王国の首都、サマリアの陥落に伴って、アッシリアによって「捕囚」されたことを契機としています。



……今回のテーマは「ルート」!

前回の時点でも「日ユ同祖論」における2点の歴史的矛盾点が見つかりましたが、聖書・外典等の史料的価値の検討・史料批判が(私には)困難なため、指摘するに留めました。


本当は今回「時間性」をテーマにしたかったのですが、例によって長くなり過ぎたのでカットしました。重要なテーマは次回以降に持ち越しです( -д-)ノ


まぁしょうがないので今回は「ルート」です!

・・・・・・ではいってみましょー!(・∀・)つ


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↑距離は9000km、約地球4分の1周ですね( ・Д・)(「Google」の計算結果より画像を転載)



2.日本までの距離と移動ルートについて
さて、「失われた10部族」が離散する契機となったのが紀元前721年の首都陥落です。

第四エズラ書では「1年半」とか書かれてましたけど、実際にはどれだけの時間でイスラエルあるいはアッシリアの辺りから日本まで来れるのでしょうか?( ・Д・)



上に挙げた図を見て分かるように距離は約9000kmです。スタート地点をサマリアにするのか、アッシュール(当時の新アッシリア時代の首都)にするのかによっても違いますけど、おおよそ9000kmということにします( -д-)ノ

出発年も紀元前721年とすべきかは難しいですが、紀元前721年ということにします( -д-)ノ少なくともそれ以降の近似する年代でしょうからね。


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(1)シルクロードの概要
さて、古代イスラエルの民(北王国の指導者層の一団)が遥か東方へと移動したと仮定した際に、使用したと想定されるルートとしてシルクロードがあります。


シルクロードという呼称は19世紀にドイツの地理学者リヒトホーフェンが、著書である『China(支那)』において使用したのが最初とされています。



この時のシルクロードの意味は古来より中国で「西域」と呼ばれていた東トルキスタン(現在の中国新疆ウイグル自治区)を東西に横断する交易路である「オアシスの道(オアシスロード)」を経由するルートを指していました。


現在では広義には、「シルクロードとは、近代(大航海時代)以前のユーラシア世界の全域に渡って行われた南北の交易路や海上の交易路を含む国際交易のこと」を指します。



(2)シルクロードの種類と時期
シルクロードは大きく分けて3種に分類でき、それぞれを「オアシスの道」、「海の道」、「草原の道」、と呼んでいます。


先にも述べたように、リヒトホーフェンが言及した「オアシスの道」は東トルキスタンを横切って東西を結ぶ隊商路であり、更に三つのルートに分類されます。

それが「西域南道」、「天山南路(西域北道)」、「天山北路」であり、前者2ルートは紀元前2世紀頃の前漢の時代には確立していたとされます。他方で後者の「天山北路」が「オアシスの道」における最古のルートであり、紀元後に確立したと考えられています。

つまり古代イスラエルの民はこの「オアシスの道」は使えなかったと考えるのが妥当でしょう。




次に、「海の道」は中国の福建省泉州市を起点として、東シナ海、南シナ海、インド洋を経てインド、アラビア半島へと至る海路です(逆もまた然りです)。


このルートはプトレマイオス朝の時代(紀元前306年-紀元前30年)からエジプトによってインドとの通商に用いられていました。

また古代ローマ(共和政ローマ; 紀元前509年-紀元前27年)は南インドのサータヴァーハナ朝(紀元前230年-西暦220年)と通商を行い、やがて絹を求めて中国にまで達したことは中国の史書に記録されています。


つまり紀元前721年の離散時期を考慮すると、この「海の道」も使えないルートであると分かります。

そもそも『国を追われた3万人近くの大集団』が当時として最高技術の結晶とも言える船を多量に使った長期の大航海が可能であったとは思えませんよね( ・Д・)



さて、最後が「草原の道」です。

「草原の道」は中国から北上して、モンゴルやカザフスタンの草原(ステップ地帯)を通り、アラル海やカスピ海の北側から黒海に至るルートです(逆もまた然りです)。

このルートがシルクロードにおいて最も古いとみなされている交易路になります。


この地に住むスキタイや匈奴、突厥(とっけつ)といった多くの遊牧民・騎馬民族が、東西の文化交流の役割を担ったとされています。

上記の遊牧民・騎馬民族で最も古い歴史を有するのがスキタイ紀元前8世紀〜紀元前3世紀に現在のウクライナを中心として盛衰した遊牧国家を築きました。




上の図に示したように、ウクライナとイスラエルではかなりの距離がありますね。実際、問題となる時期ではイスラエルを含むウクライナより南方の地域はアッシリアの領域でした。

この「南方の地域」では紀元前609年にはアッシリアが滅亡し、続いて新バビロニアやアケメネス朝ペルシアの隆盛と滅亡の舞台となります。


北イスラエル王国の離散時期である紀元前721年はスキタイの存亡期間とぎりぎり重なりますので、この「草原の道」はルートとして使用できた可能性があります。



ただ問題点としては、重なる期間がスキタイの最初期であるのでルートとしてどの程度確立していたのかが不明です。

使えたとしてもひどく辛い道程だったと思われます。ルートとして最低限確立していたとしても、その最新情報をいかにして得ることができたのでしょうか?


そして「日ユ同祖論」を支持すると、世界で最初にユーラシア大陸を東西に横断した民族大移動を認めることになります。



・・・・・・まぁ本当に様々な問題を内包している「日ユ同祖論」ですが、前回に引き続き、この時点で否定していると先に進まないので、「草原の道」を使ったってことにします( -д-)ノ


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3.おわりに 
この「日ユ同祖論」に関して書いてると毎回長過ぎて短く切ってるから、目次の意味ほとんどない!( ・Д・)

・・・・・・読みづらいと思いますが、お付き合いください( -д-)ノ



さて少しずつ「日ユ同祖論」が成立するための論理を確認していく中で、問題点を敢えて無視しています。詳しく検討することもなく。

一部の方にはもしかしたら「日ユ同祖論」を弱い根拠によって支持しているように感じるかも知れませんが違います。



論理的に、時間的な前後関係に問題ないように成立する道筋を定めることで、それ以外の可能性を全て否定しているのです。

つまり逃げ場を潰してるのですね( -д-)ノ



(ニュートラルな立場のつもりなんだけど、、、基本的に演繹的な考え方をする「癖」があるのでヽ(TдT)ノ)

こういう効果は後々利いてくる・・・・・・はずですので、「そんなもんか~」って感じでふんわりとお付き合いください、今のところは(*・ω・)ノ

↓たまにはぽちっとしてくださいな!ヾ(´ω`=´ω`)ノ↓

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2019ねん 1がつ 12にち(どよーび、晴れ)

ビールが美味い。

頑張って働いて、美味しいツマミの脂をビールで流し込む・・・

幸せです!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

注:ビール会社の回し者ではありません( -д-)ノ


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日ユ同祖論01
↑現代のユダヤ人と侍並べてほとんど同じってあり得ませんけど、まぁイメージってことで( -д-)ノ(「いらすとや」さんの素材を使用して作成)



【目次】
  1. はじめに
  2. 古代イスラエル史における離散についての検討
  3. おわりに 


1.はじめに
前回、色々と調べまして、その一部をメモ的に記述したわけですが、まぁ内容つまらないなと自分でも思いました( ・Д・)




つまらん話を読み返して感じたこと・・・・・・


①文字ばっかりである、つまり写真ないとなんかイヤだ( ・Д・)

②文字ばっかりのくせに、メモ書きだからオチも何もない(/TДT)/


やはりね、記事として一つの作品としてまとめにゃあかんということですね!





……あとですね、ひとつ思ったことが、、、前回、先行研究者に学者がほとんどいないな~って初見で感じてそれを書いたわけですが、

読み返してみると、多くが牧師さん等の教会関係者だなと気付きました。


ユダヤ教って積極的な布教活動をしないと聞いたことあったんですけどね。「日ユ同祖論」は旧約聖書を聖書に内包しているキリスト教の関係死者による布教活動が背景にあるのかとも思ってしまったり・・・・・・

まぁ先入観はよくないので、頭の片隅に留めておく程度にしますね(*・ω・)ノ



さて、以下、前回の反省を活かしてきっちりと内容のある文章にしていきます。今回のテーマは「集団」!

ではいってみましょー!( -д-)ノ





2.古代イスラエル史における離散についての検討
「日ユ同祖論」という日本語表記が正しいのかは分かりませんが、字義的には「日本とユダヤが同じ祖先を持つという考え方」ということになります。

この「共通の祖先をもつ」というのがどのレベルでの話なのかは不明ですから、今回の「時間」についての話の総括として一部最後に触れたいと思います。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・


祖先の分化タイプ2


さて、共通の祖先を持つとはどういうことでしょうか。祖先に関するルーツというものは実際には非常に複雑ですが、理論上は単一型と複数型に大きく分けることができるでしょう。


「日ユ同祖論」の場合は、この②複数ルーツ型のことを指していると考えられます。この場合、”もし十分な量の集団の移動と混血、あるいは結果としての文化的影響が見られるのであれば”、現代の日本人から見ると二つの祖先を有することになります。



つまりこの「日ユ同祖論」を考える上で、

①流入した人口量の問題
②遺伝学的系統性・類似性の問題
③文化的共通性の問題

が検討すべき問題となるでしょう。



これらの諸問題ついては後の記事に譲るとして、「日ユ同祖論」が「②複数ルーツ型」である以上、少なくともユダヤ系の祖先である古代イスラエル人が日本に移動したことをまず認める必要があります。


つまり、「誰が」(具体的にどのような人々が)日本に来たのか、これを明らかにする必要があるのです( -д-)ノ



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↑古代イスラエル王国(北王国)の陥落と民の離散(「アクアコンパス2」さんの記事内画像より転載)



そのためにまずは古代イスラエルの歴史を概観しましょう。

①紀元前1080年、サウルが古代イスラエルの最初の王となる。

②サウルの死後、北の11部族と南のユダ族の王国に分離する。

③紀元前995年、ダビデ王が南北を統一し、イスラエル王国を築く。

④紀元前963年、ダビデ王の息子であるソロモン王が即位。エルサレム神殿を建設する。

⑤ソロモン王の死後、再度南北に分離する。北の10部族から成るイスラエル王国(北王国)とユダ族・シメオン族から成るユダ王国(南王国)である。

紀元前721年北王国の首都サマリアがアッシリアによって陥落する。サマリアのイスラエル人指導層などを奴隷として連れ去りまたは追放して、代わりにサマリアにメソポタミアなどからの異民族を移住させた。

これによりイスラエル王国(北王国)が滅亡。またこの際にイスラエル王国の土地から引き離されたイスラエル人達が後に「失われた十部族」と呼ばれるようになる。






・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さて、ここで「日ユ同祖論」において日本に来たと想定することのできる人々は北イスラエル王国の民であることが分かります。

このイスラエル王国(北王国)の民とは、旧約聖書に書かれたイスラエルの12部族のうち、行方が知られていない10部族(ルベン族、シメオン族、ダン族、ナフタリ族、ガド族、アシェル族、イッサカル族、ゼブルン族、マナセ族、エフライム族)のことを指します。


この行方の知れない「失われた10部族」という呼称は、ユダ王国(南王国)によって付けられた名称です。紀元前721年の「アッシリア捕囚」後にその行方が文書に残されていないためにそう呼ばれたのです。


首都の陥落後に10部族の指導者層2万7290人が連行されたと記録されています。これは北王国滅亡直前の段階の北王国の全人口の約20分の1程度と推定されており、広義には「失われた10部族」は捕囚とならなかった北王国の住民を含んで言う場合があるそうです。



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・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さて、「失われた10部族」がユダ族等の南王国からの呼称であり、歴史記録がないことによって付けられた名前ということが分かりました。


アッシリアは強い武力を用いて戦争を繰り広げていましたが、多神教国家であり、文化や宗教の広い受入れを行っていたことが分かっています(一神教を信じ、文化・思想的に排他的な国ではなかったのです)。そうしたアッシリア内にて、連行された民が自分たちの教義や文化を文字記録にすることも許されていました。


となると、普通に考えると、「失われた10部族」はアッシリアにて在地化したと考えられます。そのことが記録に残っていないだけなのではないでしょうか。

また後年に一部はイスラエルの土地に帰還したようですので、その際にアッシリアに残った人たちも当然いたでしょう。



しかし「失われた10部族」=アッシリアで在地化と考えると、「日ユ同祖論」は根本的に破綻しますし、検証しようがないので可能性として指摘するに留めます( -д-)ノ


また連行された指導者層以外の民の離散を「失われた10部族」に加えるべきではないでしょう。

指導者層を失い、イスラエルの土地でさえアイデンティティを失っていくような民達が統率力をもった大きな集団として遥か彼方まで移動でき、かつ大きな文化的影響を与えたとは思えません。




そのため「失われた10部族」=連行された指導者層の約2万7千人の内の一部と考えることにします。


キリスト教の聖書の外典である第4エズラ書(第13章)には、「こうして彼らは異国に連れて行かれた。しかし彼らは異邦人の群れを離れ、かつて人のやからが住んだことのない更に遠い地方へと行こうと相談した・・・・・・」とあります。

続きとしては「一年半の遠さのアルツァレトという呼ばれる地域だった」と書かれているので、これが「日ユ同祖論」の根拠になっているのでしょう。


まぁこの記述者は地元に残った方なので実際に移動したわけではありませんから、記述内の距離(要した時間)や地名は正しくはないでしょうね。



(また新アッシリア時代(紀元前934-紀元前609年)のアッシリアではこのような「捕囚」を征服地の民に対して幾度か行ってきたわけですが、その理由は征服地での反乱の防止と首都における職人の確保でした。


つまりアッシリアとしては連行した古代イスラエルの指導者たちを、少なくとも職人確保の観点からみすみす逃すわけないと思うのですが、まぁこれも「日ユ同祖論」の根本的な破綻に繋がるので指摘するの留めておきます( -д-)ノ)



……ということで第四エズラ書の記述を根拠にすると、「失われた10部族」=指導者層の少なくとも一部(約27000人以下の集団)がアッシリアではなく他の地域に向かったということになります。


これでようやく「誰が」という疑問について、少しは具体的に理解できたかと思います(*・ω・)ノ





4.おわりに 
長くなりましたね・・・・・・次の記事もまとめて一つの記事の予定でしたが、長くなり過ぎなので二つに分けてみました( -д-)ノ

何はともあれ、今回の「誰が?」という問題を明らかにすることで、「日ユ同祖論」を検討していく際のスタート地点にようやく立てたかなと思っております。

続きも乞うご期待!ヾ(´ω`=´ω`)ノ

↓人類、皆兄弟!ヽ(・ε・)人(・ε・)ノ ナカマ↓

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2019ねん 1がつ 7にち(げつよーび、雪)

やはり心穏やかじゃないと仕事進みませんね。

なんだかイマイチやる気が起きないのです。

まぁやるしかないので、やりますけども!( ・Д・)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・

日ユ同祖論01
↑現代のユダヤ人と侍並べてほとんど同じってあり得ませんけど、まぁイメージってことで( -д-)ノ(「いらすとや」さんの素材を使用して作成)



【目次】
  1. はじめに
  2. 先行研究一覧
  3. 先行研究における日ユ同祖論の根拠①
  4. おわりに


1.はじめに
さて、どの企画もなかなか続いていない中、新しくやりたいな~ってものを見つけてしまいました。

まぁそれが『日ユ同祖論』なわけですよ。このテーマについては以前、違う形で取り上げてみました↓↓↓


そもそも何故このテーマなのか……年末年始とYouTubeをよく観てて理論物理学を題材にした動画を選んで観てたわけですが、ついに観るものなくなっていわゆるオカルトとか都市伝説の類の動画を観ていたわけです。

特に超古代文明とか古代宇宙飛行士説とか観てると、誤解なのか意図的な改ざんなのか知識レベルのミスにも気付くし論理的におかしいということで、観ながら速攻いくらでも論破できてしまうんですよね( -д-)ノ



そこでふと思ったんですけど、日ユ同祖論だけは即座に全部の指摘された類似性を批判できなかったんですよね。なのでちょっと本気出して取り組んでみようかなと。

記事として少しずつ整理していって最終的に一冊の本になれば面白いですけどね。そこまでモチベーションが続けばですけど( ・Д・)


のんびりとやっていくので、興味ある方はお付き合いください(*・ω・)ノ


・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さて、この日ユ同祖論を継続的に取り扱っていく上で、理想的には毎回研究ノート的な感じで、実際は私のメモ的な内容になると思うので、毎回オチとかあるわけではないのでご了承くださいヽ(TдT)ノ

さくっと考えた私の日ユ同祖論に関する構成は以下の通りです。

  1. 日ユ同祖論に関する歴史情報の整理と定義付け
  2. 研究史の整理
  3. 先行研究における根拠の整理と問題点の把握
  4. 考古学的アプローチの導入 -対象遺物と方法論-
  5. 分析と解釈
  6. 結論

まぁざっとこんな過程になるでしょうね。最終的な構成なので、記事としてはこの順序を無視して書いていきます。追記もあるでしょうね(*・ω・)ノ



2.先行研究一覧
がっつり思い付きで始めてるので手元に書籍も何もありません。なのでWikipediaに頼り切って学習を開始したいと思います( ・Д・)

日ユ同祖論の代表的論者は以下の通りです。


ほぼ全員が学者じゃないですね。この中で唯一、佐伯好郎だけが言語学者です。歴史学にも大きく貢献した優秀な学者のようですが、日ユ同祖論に関係した1908年の論文「太秦を論ず」で示された「秦氏=ユダヤ人景教徒」説は当時も現在も歴史学会では受け入れられていないとのこと。

彼の説の問題点は根拠の薄さ、実証性の低さだったようです。秦氏の本拠地であった京都、太秦の地名・遺跡などを根拠としながらもほとんど語呂合わせ的なものだったそうです。

まぁ恐らく上に挙げた方々は同様の理由か、論理展開の不確かさで論破できそうですね、やってみなきゃわからんけど( -д-)ノ


・・・・・・・・・・・・・・・・・・

参考文献に挙げられていたのは以下の通り。
  • 川守田英二『日本言語考古学』(友愛書房)
  • 川守田英二『日本ヘブル詩歌の研究』(八幡書店、1987年) ISBN 4-89350-222-0
  • 川守田英二 著/中島靖侃 編『日本の中のユダヤ イスラエル南朝二族の日本移住』(たま出版、1990年) ISBN 4-88481-220-4
  • ラビ・マーヴィン・トケイヤー 著/久保有政 訳『聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史 失われた10部族の謎』(徳間書店、1999年) ISBN 4-19-860965-9
  • 久保有政&ケン・ジョセフ 著/ラビ・マーヴィン・トケイヤー 解説『聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史2 仏教・景教篇』(徳間書店、2000年) ISBN 4-19-861144-0
  • 長山靖生『偽史冒険世界 カルト本の百年』(筑摩書房ちくま文庫、2001年) ISBN 4-480-03658-X
    第四章 日本ユダヤ同祖説と陰謀説のあいだで p157〜p190
  • ノーマン・マクレオド&久保有政『〈超図説〉 日本固有文明の謎はユダヤで解ける』(徳間書店、2004年) ISBN 4-19-861887-9
  • 上杉千郷『狛犬事典』(戎光祥出版、2001年) ISBN 4-900901-20-2
  • と学会『トンデモ本の大世界』(アスペクト、2011年)   (wikiより転載)

見ての通り1本も論文がなく、全て一般書ですね。気になるのは「長山靖生『偽史冒険世界 カルト本の百年』」。彼はこの本で大衆文学研究賞・研究・考証部門を受賞しているそうです。

つまり彼が「偽史」や「カルト」と評価した内容を考証したということで、内容として日ユ同祖論の批判を行っているはずですよね。



一般書に参考文献付いてるか分からないですけど、まぁ少なくとも上に挙げた論者・書籍は検討対象でしょう。特に佐伯(1908)と長山(2001)が重要先行研究になりそうです。あと最初の提唱者であるマクラウド(1878)もしっかり読まなきゃですね。

長山(2001)のやったことは個別具体的な先行研究あるいは論者の批判だと思います。私もほぼ同じ内容になりそうです。違いはその後に考古学的な手法で検証することです。あ、ちなみに私は現時点でニュートラルな立場にあります。先行研究で指摘される根拠は批判するでしょうが、私が行う予定の分析自体と関係がありません。

つまり私は日ユ同祖論論者でもないし、否定論者でもありません。まだ分からん!という立場です。

まぁただこのテーマのために新しく発掘するわけでもないので、既存の資料だけを扱ってどれだけ踏み込めるのかは怪しいところがありますね。考古学研究としては既に一定の評価がなされているでしょうしね( ・Д・)



3.先行研究における日ユ同祖論の根拠①
一覧にしたかったんですけど、思いの他、共通点が多いため、①として区切ることにしました。とりあえず今回はいくつかを列挙してみるだけにして、次回あたりに簡単に分析してみますね。

【根拠(類似点)】
①カタカナとヘブライ文字(形態と発音)
②ひらがなとヘブライ文字(形態と発音)
③ヤマト言葉とヘブライ語(単語の発音と意味)
④大化の改新(日付と内容)
⑤皇室神祇(日付、内容)
⑥皇室・神道の紋章 ー獅子と一角獣ー
⑦仁徳天皇陵の形状 ーマナの壺ー
⑧禊の習慣と方法
⑨お祓いの方法
⑩護符の形態?
⑪16弁の菊花文


けっこうありますよね。この他に少なくとも27の類似性が指摘されています。全部批判するのは骨が折れる( ・Д・)



4.おわりに
何故、この日ユ同祖論が日本でも世界でも人気があるのかなと考えてみました。日本人は自分たちのルーツについて知るといった歴史テーマが昔から大好きですからね、そのせいでしょう!

ユダヤの人々は「~ユ同祖論」って好きらしいです。「英ユ同祖論」もあるそうです。様々な地域のルーツに自分たちの祖先が関係していると思いたいんでしょうね、気持ちは分かります。

その他、世界的に見てもそれなりに興味あるテーマなようです。研究分野ではなく、都市伝説の類ですけども。オカルト的なものとして好きなのか、あるいは宗教的理由から失われたアークの行方と関係して興味があるのかも知れませんね。


考古学的な分析に入れるのはいつ頃になるだろう……

そこからが本当に大変な部分ですね・゚・(ノД`;)・゚・

↓まぁ日本人とユダヤ人はとりあえず押しときなさいよ( -д-)ノ↓

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