あるけまや -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

    お金にならない考古学をお金にしよう╭( ・ㅂ・)و ̑̑ グッ ! 考古学・歴史ニュースの決定版╭( ・ㅂ・)و ̑̑ グッ !

    聖書

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    2026ねん 9がつ8にち(かよーび、くもりのち雨)

    研究系雑務処理とダイエットの両立が難しいのは私だけか!?( ・Д・)
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    ↑今日もサムネ画がまぁまぁ素敵な感じで良い!考古学関係は基本茶色ばっかになるからね!( ・Д・)





    今回の考古学・歴史ニュースは

    「エルサレムの聖墳墓教会で傷んだ床を修復するため石板を外したところ、その下から古代の採石場、土を詰めた小さな耕作区画、ブドウやイチジクの痕跡、オリーブ栽培を思わせる花粉、そして岩盤を削った墓の残骸が現れ、ヨハネ福音書が描いた「処刑場のそばに園があり、その園に新しい墓があった」という二千年前の風景が、本当にこの場所に存在した可能性を高めた――けれども、それはイエス本人の墓まで証明したことになるのか!( ・Д・)」

    ってお話です(*・ω・)ノ





    📰はじめに


    今回は、ローマの十字架刑とユダヤ人の埋葬習慣、城壁の外に広がった採石場と墓地、4世紀にコンスタンティヌス帝が築いた最初の教会、破壊と再建で失われた地形、19世紀に現れたもう一つの「園の墓」、2016年に大理石の下から見えた石灰岩、そして2022~2025年の大発掘まで、信仰と考古学が重なる床下へ降りてみよう!

    エルサレム旧市街のキリスト教徒地区に、聖墳墓教会は立っている。

    教会へ入ると、右手上方にはイエスが十字架にかけられたと伝わるゴルゴタがあり、奥の円形広間には墓を覆う小さな礼拝堂がある。

    現在の見た目では、丘と墓が巨大な建物の内部へ押し込まれている。

    しかも教会は、今の旧市街を囲む城壁の内側にある。

    「処刑場と墓は、町の外にあったのでは?」

    当然の疑問である。

    ところが床を外して地層を読み直すと、現在の町並みとはまるで違う、岩と土と墓が入り交じった古代の郊外が現れ始めた。


    ⚔️ 十字架刑の場所は、当時の城壁の外だった

    イエスが処刑されたのは、ローマ皇帝ティベリウスの治世、ユダヤ属州総督ポンティウス・ピラトゥスの時代である。

    一般には西暦30年頃、または33年頃と考えられている。

    十字架刑は、反逆者や奴隷などを人目にさらして威嚇するローマの刑罰だった。福音書では、ゴルゴタと呼ばれる場所でイエスが処刑され、アリマタヤのヨセフが遺体を引き取り、岩を削った新しい墓へ納めたとされる。

    安息日が始まる前に埋葬を終える必要があったため、墓が処刑場の近くにあったという筋書きである。

    当時のエルサレムでは、裕福な家族が町の外の岩盤へ墓室を掘り、遺体を石の寝台や壁の穴へ納めることがあった。

    十字架刑の犠牲者が必ず野ざらしにされたとも限らない。

    1968年には、エルサレムの墓から、かかとの骨を鉄釘で貫かれた男性ヨハナンの骨が発見された。少なくとも一部の磔刑死者が、ユダヤ式の墓へ葬られたことを示す直接的な例である。

    そして現在の聖墳墓教会が立つ場所は、イエスの時代には城壁の外側だった可能性が高い。

    今見える旧市街の城壁は16世紀のもので、二千年前と同じ線を通っているわけではないのだ。





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    ↑これ発掘調査プランらしいけれど、めちゃくちゃ掘る気満々だね!( ・Д・)(「The Times of Israel」の記事内画像より転載;credit: Rossella Tercatin)


    ⛏️ 岩を切り出した跡が、そのまま丘と墓になった

    教会の床下にある最古の大きな痕跡は、石灰岩の採石場である。

    岩肌には工具の痕、切り出した石材の輪郭、途中まで加工しながら持ち出されなかった石が残っている。

    採石は鉄器時代から長く続き、場所によって深さが異なった。

    硬くて質のよい部分は建築石材として切り出され、割れやすい部分や形の悪い岩は残された。

    その結果、地面には段差、穴、孤立した岩の突起が生まれた。

    採石が終わると、人々は窪地へ土を入れ、低い石壁で囲んで小さな耕作区画を造った。

    別の場所では、露出した岩盤へ墓室を掘った。

    つまり当時の景観は、滑らかな丘に一基だけ墓がある風景ではない。

    採石場の傷跡に畑と墓地が入り込み、その間から切り残された岩が突き出す、不規則な郊外だった。

    ゴルゴタと呼ばれた岩山と、その近くにある園と墓。

    三つが同じ狭い場所に存在しても、不思議ではない地形ができていたのである。


    🏛️ 4世紀、皇帝は一つの墓を岩山から切り離した

    西暦70年、ローマ軍はユダヤ戦争でエルサレムを破壊した。

    2世紀には皇帝ハドリアヌスがローマ都市アエリア・カピトリナを建設し、かつて郊外だった場所も市街地へ取り込まれた。

    4世紀の教会史家エウセビオスによれば、イエスの墓と信じられていた場所は土で埋められ、その上にはローマの聖所が築かれていたという。

    やがてキリスト教を保護したコンスタンティヌス帝が、その建造物と盛り土を取り除かせた。

    工事では、信徒がイエスの墓として崇敬していた一つの岩窟だけを残し、周囲の岩盤を削って独立させたと考えられている。

    東には大聖堂、西には墓を囲む円形堂アナスタシスが建てられ、複合施設は335年に献堂された。

    この大工事が、現在の難問を生んだ。

    墓を守るために周囲の岩を削った結果、墓が本来どのような岩山の一部だったのか、比較できる外形の多くが失われたのである。

    確かなのは、4世紀にはすでに、一つの墓が特別な場所として選ばれていたことだ。

    だが、その記憶を1世紀まで切れ目なく遡れるかは、別の問題として残った。





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    ↑インディジョーンズのワンシーンを思い出す光景だぜ!( ・Д・)(「The Times of Israel」の記事内画像より転載;credit: Rossella Tercatin)


    🔥 破壊されるたび、「本当に同じ墓か」が疑われた

    聖墳墓教会は完成した姿のまま残らなかった。

    614年にはサーサーン朝ペルシャ軍の侵攻で損傷し、1009年にはファーティマ朝のカリフ、アル・ハーキムによって大規模に破壊された。

    11世紀に再建が始まり、十字軍時代の12世紀に教会全体が再構成された。

    1808年には火災が起き、墓を覆う現在の小礼拝堂は1810年に造り直された。

    石材は再利用され、床は張り替えられ、壁や柱は増減した。

    古い記録も、ギリシャ正教会、カトリックのフランシスコ会、アルメニア使徒教会など、管理する共同体ごとに分かれていた。

    20世紀にはシャルル・クアノンやヴィルジリオ・コルボが教会内を調査し、古い教会の姿を復元しようとした。

    しかし発掘場所が限られ、異なる区域の地層を一つの時間軸へ結び直すことは難しかった。

    墓は破壊を生き延びたのか。

    それとも中世に別の岩や場所を「同じ墓」と呼ぶようになったのか。

    長い再建史そのものが、聖地の真正性をめぐる疑いを育てたのである。


    🌳 19世紀の「園の墓」は、見た目が聖書に似すぎていた

    19世紀になると、聖墳墓教会とは別の候補が注目された。

    旧市街のダマスカス門の北にある「園の墓」である。

    近くの岩壁が人間の頭蓋骨に見え、墓の周囲には庭園、貯水槽、ブドウ搾り場と解釈された設備があった。

    1880年代にはイギリス軍人チャールズ・ゴードンが、この一帯こそゴルゴタとイエスの墓ではないかと主張した。

    暗く複雑な教会より、緑の庭に開いた岩窟の方が、福音書の場面を想像しやすい。

    とくに一部のプロテスタントに支持され、現在も祈りの場所として大切にされている。

    ところが墓の形を比較すると、最初に掘られたのは紀元前8~7世紀頃、ユダ王国時代である可能性が高い。

    後世に改造されていても、イエスの時代に「まだ誰も葬られていない新しい墓」だったとは考えにくい。

    聖書らしく見える景観と、考古学的な年代が一致するとは限らない。

    園の墓をめぐる研究は、その重要な教訓を残した。





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    ↑こんなところで発掘してみたい!( ・Д・)(「The Times of Israel」の記事内画像より転載;credit: Rossella Tercatin)


    🧱 2016年、500年以上隠れていた石の寝台が現れた

    聖墳墓教会の墓を覆う小礼拝堂は、長年の湿気、ろうそくの煤、地震、建物の圧力で傷んでいた。

    2016年、ギリシャのアテネ国立工科大学を中心とする修復チームが、構造を補強する大工事を行った。

    その途中、墓室内の石の寝台を覆う大理石板が、少なくとも500年以上ぶりに外された。

    上の板の下には十字架を刻んだ割れた大理石板があり、さらにその下から元の石灰岩の表面が現れた。

    墓が中世に別の場所から運び込まれた模型ではなく、現地の岩盤に属することが改めて確認されたのである。

    石灰岩と大理石の間に使われたモルタルを測定すると、西暦345年頃という年代が得られた。

    これは歴史記録どおり、コンスタンティヌス帝の時代に墓が覆われ、記念建築へ組み込まれたことを科学的に支える。

    ただし、測ったのはモルタルである。

    墓が1世紀に掘られたことや、そこへイエスが葬られたことを直接測定したわけではなかった。


    🔎 礼拝を止めず、床下を一片ずつ掘りつないだ

    次の機会は、老朽化した教会の床を修復する計画から生まれた。

    2019年、主要三教派は床、排水、配管などを改修する大規模事業に合意した。

    床石を外すなら、その下を考古学的に調査できる。

    発掘はローマ・サピエンツァ大学のフランチェスカ・ロマーナ・スタソッラが率い、2022年に始まった。

    ただし、世界中から巡礼者が訪れ、毎日礼拝が行われる教会を閉鎖することはできない。

    作業区域は11に分けられ、一か所を掘って記録し、保護してから次へ移った。大祭の前には仮設床を戻し、人々が通れるようにした。

    一度に見えるのは、巨大なパズルの一片だけである。

    そこで過去の発掘記録、古地図、写真、出土品、測量結果を共通データベースへ集め、写真測量と3D GISで離れた穴を仮想空間上につないだ。

    2022年から毎年、暫定報告が刊行され、2025年の調査報告は約100ページに達した。2026年には、方法と過去資料をまとめた600ページを超える第1巻も公刊された。

    今回の話題は、突然の一発発見ではない。

    四年分の小さな床下を、古い調査まで含めてつないだ結果なのである。





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    ↑土がしまってるだろうから掘るのつらそうだね!( ・Д・)(「The Times of Israel」の記事内画像より転載;credit: Rossella Tercatin)


    🌿 土を囲った石壁から、穀物・ブドウ・イチジクが出た

    採石場の利用が終わった後の層から、低い石壁で囲まれた小区画が見つかった。

    岩の窪みへ土を運び込み、流れ出さないよう石で押さえた耕作地と考えられている。

    その土を水で洗い、種子や木片を選別すると、穀物、ブドウ、イチジク、イネ科植物の遺存体が確認された。

    一つの区画からはブドウの木片も見つかったため、現地でブドウを栽培していた可能性が提案された。

    花粉分析からは、オリーブ栽培の可能性も示された。

    ここで「二千年前のオリーブの木とブドウ畑が、そのまま発見された」と想像してはいけない。

    出土したのは、石壁、持ち込まれた土、微細な植物遺存体、木片、花粉である。

    地層の順序から、採石場の後、4世紀の教会建設より前に行われた耕作と判断されている。

    しかし2025年3月の発表時点では、植物試料の放射性炭素年代測定はまだ行われていなかった。

    紀元33年に実ったブドウだと、年単位で結び付けられたわけではないのである。


    ⚰️ 「園と墓が隣り合う風景」までは、たしかに一致した

    ヨハネ福音書は、イエスが十字架にかけられた場所に園があり、その園に、まだ誰も葬られていない新しい墓があったと記す。

    今回の発掘で見えてきたのは、まさにその文章と比較できる景観だった。

    第一に、この場所はイエスの時代には市街地の外だった。

    第二に、古い採石場が残した岩の突起と窪地があった。

    第三に、窪地へ土を入れた耕作区画が造られていた。

    第四に、同じ採石場の岩盤には複数の墓が掘られていた。

    処刑に使える人目につく岩場、園と呼び得る耕作地、すぐ近くの岩窟墓。

    聖墳墓教会の地下が、福音書の地理的説明と矛盾しないことは、以前よりはるかに具体的になった。

    だが、発見された墓の残骸から「新品」の札が出たわけではない。

    耕作区画がアリマタヤのヨセフの所有地だったことも確認できない。

    文章と遺跡が一致したのは、人物の身元ではなく、まず場所の性格なのである。





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    ↑絶対どこかの石板の裏側に秘密のボタンとかあるよね!( ・Д・)(「The Times of Israel」の記事内画像より転載;credit: Rossella Tercatin)


    🧪 遺体も名前もない。それでも何が「裏付け」られたのか?

    今回の発掘で、イエスと書かれた墓誌、人骨、十字架刑の釘、1世紀の所有証書は見つかっていない。

    たとえ骨が出ても、比較できる本人のDNAがなければ、ナザレのイエスだと同定することはできない。

    まして復活は信仰の領域であり、考古学が実験によって証明したり否定したりできる出来事ではない。

    今回、強くなった証拠は三段階に分けられる。

    最も確かなのは、教会の下に採石場、耕作区画、植物の痕跡、岩窟墓があり、1世紀のエルサレム郊外として無理のない景観だったこと。

    次に、4世紀には現在の場所の岩窟が墓として覆われ、崇敬されていたこと。2016年のモルタル年代と今回の建築遺構が、歴史記録を支えている。

    そして最も証明が難しいのが、その墓を1世紀に使った人物の名前である。

    考古学は、三段目を飛び越えて結論を出すことはできない。

    スタソッラたちの2025年報告も「暫定報告」であり、植物、土器、石材、モルタル、動物骨などの分析は続いている。

    なにはともあれ、二千年前の一日を直接保存した墓誌は、まだ現れていない。

    けれども、香の煙と祈りに満ちた教会の床を一枚外すと、その下には都市になる前の郊外が残っていた。

    石工が石灰岩を切り出し、農民が穴へ土を運び、ブドウや穀物を育て、別の誰かが同じ岩盤へ家族の墓を掘った土地である。

    そこへ4世紀の人々が巨大な教会を築き、戦争と火災で壊れるたび、後の人々が同じ場所をもう一度覆った。

    今回の発見は、「ここにイエスがいた」と刻んだ答えではない。

    それでも福音書に短く書かれた、処刑場のそばに園があり、園のなかに墓があったという舞台が、想像だけではなく実在した可能性を、石壁と花粉と岩の傷が語り始めた。

    聖墳墓教会の本当の驚きは、墓が空だったという信仰の物語だけではない。

    その墓を包んだ二千年分の町が、いまも床下で一層ずつ、失われたエルサレムを返していることなのである!( ・Д・)




    なにはともあれ……

    私の過去への興味の始まりのひとつは聖書だったな……あと恐竜!( ・Д・)








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    2021ねん 4がつ 7にち(すいよーび、くもり)

    さて、今日も頑張るかーい!

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    今回の考古学・歴史ニュースは「エヴァンゲリオンで有名な死海文書が新たに見つかったよ!( ・Д・)」ってお話です(*・ω・)ノ


    さて、今回の舞台はイスラエル、ナハル・ヘベルの第8洞窟です。

    ナハル・ヘベルにはワディあるいはワジと呼ばれる涸れ谷(かれだに)があります。

    マヤ文明、特にティカル遺跡の話をしていて、季節的湿地帯とか季節的河川の話が出てくると思いますが、メソアメリカでは季節的湿地帯をバホ、季節的河川をアロヨと呼んでいます。

    ティカル周辺は石灰岩を母岩とした平地帯で山らしい山がありませんし、土壌が発達しないので削る対象としての土壌堆積もほとんど見られません。

    なので、季節的に川が流れてもそれで終わりですが、イスラエルの場合は山を削ることによって谷が生じます。

    これがワディですね(*・ω・)ノ

    普段は枯れた谷で、多量に雨が降った時のみ、河川が見られるのです。

    こうした谷の絶壁に多数の自然・人工の洞窟があるのです。

    有名なクムラン洞窟もそうですが、死海付近にはこうした地形が多々見られるようです(*^・ェ・)ノ




    さて、最初に挙げた画像は巷で人気の劇場版エヴァンゲリオンのポスターをいじったものですが、

    死海文書と聞くと、日本人の場合、「聖書」だけではなく「エヴァ」を思い浮かべる人も多いのではないかなと思い使用しました(世代にもよるか( -д-)ノ)。

    コピーをもじって「さらば、全ての世界文書 by米国聖書博物館」と書きましたが、、、

    実際にアメリカ、ワシントンにある聖書博物館は全16点の死海文書を所蔵しており、ここ最近の分析でそれら全てが現代の技術で作られた精巧な『偽物』であることが分かっていますΣ(・ω・ノ)ノ

    死海文書は資料のサイズにもよるのでしょうが、闇マーケットから表に出てきて、数億円の価値が付くそうです。

    なので偽物を作る側の人間も、およそ1800年前の羊皮紙や獣の皮革を用意して、古代ヘブライ語や聖書に精通した人物や、美術の修復家のような技術力のある人物を採用して勢力を挙げて作ったようです( ・Д・)

    結果としてバレてしまいましたが、作った方はもう売りさばいた後ですものね……

    アメリカの聖書博物館はいったい何億、何十億円かけて16点もの貴重な資料(偽)を収集したのでしょうヽ(TдT)ノ




    今回およそ60年ぶりに新たに見つかった死海文書が上に挙げた写真のものになります。

    約1900年前のもので、羊皮紙を用いて、ギリシア語で旧約聖書のゼカリヤ書の1節が書かれていることが分かっています。

    一部、神の名前のみ古代ヘブライ語を用いて書かれており、ゼカリヤ書の内容も現代のものとは異なる部分があることが確認されています。


    先ほども述べたように、本物の死海文書は数億円の価値となります。

    高い技術力を有するチームでない限り偽物の作成は困難ですから、一番手っ取り早いのは盗掘で本物を手に入れることです。

    なので盗掘が横行しています。

    正直盗掘はどこでも起こってて、日本でも起こってます。

    イスラエルは治安も悪いですし、当然起こるわけです。

    何度も書いていますが、「考古学的価値とは付加する情報で決まる価値」です。

    考古学者が後で検証可能でかつ後の分析に有用な様々なデータを取りつつ精緻に発掘することで付加される価値なのです。

    盗掘で真っ先に失われるのは「位置情報」ですね。

    「~遺跡」ってレベルではなく、深さ、層位、平面的位置、出土状況とかが一気に失われます。

    今回のケースではそうした盗掘による一種の文化財の破壊を未然に防ぐべく、広域に行われている調査に際して見つかりました。

    発見があったのは第8洞窟なのですが、洞窟は落盤などにより一定時間ごとの堆積が見られるためかなり細かな層序が見て取れることが多いのです。

    また地下水など水分の供給もあるため有機物製資料が良好な状態で出土するケースも多々あります。

    ここでは死海文書の他に、約1万年前の植物性の籠や、約6000年前の少女の遺体も見つかっています。

    ちなみにこの籠は完形資料としては世界最古となるそうで、今度別の記事を書きますね( -д-)ノ


    ↓日本における盗掘の話(p_q*)シクシク



    ↑盗掘と上手く付き合っている英国のお話Σ(・ω・ノ)ノ


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    ↑これが聖書博物館所蔵の偽物と分かった資料(「ナショナルジオグラフィック」の記事内画像より転載;credit: BRUCE AND KENNETH ZUCKERMAN AND MARILYN LUNDBERG, WEST SEMITIC RESEARCH, COURTESY MUSEUM OF THE BIBLE)



    おわりに 本物、偽物の見分け方

    20世紀最大の考古学的発見と言われる死海文書ですが、これまでクムラン洞窟だけでも200点以上の資料が見つかっています。

    破片資料も含めるともっと数が多いでしょう。

    こうした「本物」の死海文書は多くの場合『羊皮紙』に書かれています。

    一方で「精巧な偽物」は『皮革』に書かれていることが多いようです。

    先に挙げた本物の死海文書と偽物の死海文書を見比べてみると、本物は発見当時の修復前の写真なので丸まっていますけど、それでも本物は「紙っぽい薄さ」を感じます。

    一方で偽物は「厚ぼったい」感じがしますよね。

    これは材料が皮革だからです。

    年代を誤魔化すために実際に盗掘等で出土した古代の革製品、例えば古代ローマの靴の切れ端を使用したりするようです。


    ↓靴はたくさん出土します(*・ω・)ノ



    これはあくまで死海文書のお話ですけど、「モノ」を見る際に材料に着目することも重要だと思います。

    考古学者は古物商ではないので、モノの真贋を見極める必要はないのですし、そのようなトレーニングもしません。

    でも数を見てると自然と見る目が養われるものです。

    特に考古学だとモノに残る製作技術に関わる痕跡に着目しますね。

    実際に個人コレクションの収蔵資料などを見てると、「これは偽物では?( ・Д・)」と思える資料に出くわすこともありますし、現地のお土産屋さんとかで見てると、「これ本物では?(盗掘品か?)( ・Д・)」ってこともあります。

    こうしたモノを見る目は死海文書や土器に限った話ではありません。

    皆さんも博物館に行った際には展示ガラスに(汚さない程度に)張り付いて、色んな角度からじっくりとモノを見てみて(展示は通常、展示者が見せたい角度で設置されている)、周辺にある資料との共通性や差異性に気付くと考古学の面白みの一つに気付けると思いますよ!

    是非、お試しあれ!ヽ(・ε・)人(・ε・)ノ ナカマ


    あ、博物館に行きたい欲が強まっておる!( ・Д・)



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