2020ねん 2がつ 2にち(にちよーび、曇り)
アルコール&トマト効果が切れてきた。
暑い……ヽ(TдT)ノ
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今回の考古学・歴史ニュースは「古代マヤ文明の中心地を研究するための拠点、フローレスを紹介するよ!」ってお話です(*・ω・)ノ
『中心地』とか言うと、専門が被るレベルの同業者には文句言われるでしょうけどね。
日本におけるマヤ文明の知名度はたかが知れてますから、古典期マヤ(CE250-1000)を語る上で絶対に外せないペテン地域を中心と言っても過言ではないのです!
……なんて強い心で、今回の記事をお届けします(*^・ェ・)ノ
フローレス市はどこ?
所在地としてはグアテマラ共和国、ペテン県、フローレス市ですね。
そもそもグアテマラってどこよ?
ってよく訊かれますけど、私はこう応えるようにしています。
「アメリカの南がメキシコでしょ? そのさらに南!」
まぁ経験上、これで大体伝わります。
伝わらなければ、メキシコってことにします。
それでもだめならアメリカ、さらにダメなら地球の裏側!って言いますね( ・Д・)
↑(「Pinterest」の画像より転載)
フローレスの歴史
フローレス自体はとっても大きいのです。
北に約60kmに位置するティカル国立公園まで含みます。
普段「フローレス」と言うならば基本的に「イスラ(島)」の意味で使いますね。
まぁ間違えないように現地人は「イスラ」の方を良く使います。
混乱を避けるため、この記事では以下、「フローレス島=島の範囲」という意味で表記していきますね。
じゃないと観光客とかには訳分からんことになるので( ・Д・)
写真にあるように、フローレスは島です!
島と言っても大きな湖にある島です。
この湖を「ペテン・イツァ湖」と呼びます。
気付いたでしょうか?
ペテンは、フローレス市を含む『県』の名前です。
ペテンは元々マヤ語で『島』を意味する言葉なのです。
「イツァ」も聞いたことありませんか?
メキシコ、ユカタン半島北部にある有名な世界遺産、「チチェン・イツァ」です。
↑「歩け、マヤ」のトップ画にも使用しているチチェン・イツァのエル・カスティーヨ
チチェン・イツァは観光地として非常に有名で、特に春分・秋分の日にエル・カスティーヨで見られる「ククルカンの降臨」イベントが大人気ですね(*・ω・)ノ
1221年にこのチチェン・イッツァのトルテカ・マヤ系の支配者に対して反乱が起き、ユカタンに中心となる統治機構をつくろうと集まり、「マヤの旗」を意味する「マヤパン」を建設します。
15世紀にはこのマヤパンが衰亡し始め、それに伴ってチチェン・イツァの王族が現在のペテン県に向かって南下、設立した王国が「タヤサル」です。
このタヤサルは「イツァの場所」を意味するタフイツァ(TajItza)に由来した現在の呼称で、かつては王国として首都だけでなくイツァ族の支配する土地全体を意味していました。
現在はタヤサルはフローレス島の北に位置する1遺跡を指します。
先ほどのペテン・イツァ湖は「イツァ族の島」を意味しており、この島がフローレス島のことなのです。
つまりタヤサル王国の王都がかつてノフペテン(Nojpetén;大きな島)と呼ばれたフローレス島にあったのです(*^・ェ・)ノ
↑これが王都だ!( ・Д・)(「ドラクエウォーク」の画面のスクショ)
さて、16世紀前半までにスペイン人は北のユカタン半島と南の高地マヤを征服しました。
しかし亜熱帯ジャングルであるマヤ中部低地の内陸部であるペテン地方は侵略が困難でした。
そのためペテン県のマヤ王国、つまりタヤサルは独立を維持できていました。
タヤサルに関する西洋人の最初の記録は1525年で、エルナン・コルテスはホンジュラス遠征の途上でタヤサルを通過し、タヤサルのカネク王に歓迎されたとあります。
17世紀にはいると宣教師による布教が何度か試みられたが、成功しませんでした。
その結果、ユカタン総督のマルティン・デ・ウルスアはユカタン半島北部のメリダからタヤサルまでの道を建設して侵攻、1697年にタヤサルは軍事的に征服されました。
ちなみにこの時のスペイン軍はたったの108人だったのですΣ(・ω・ノ)ノ
フローレスにまつわる伝説
かつての王都であるフローレス島やその周辺には写真の通り、スペイン植民地期に西洋風の建物が建てられました。
征服者であるスペイン人はどこでもやったことですが、ここフローレス島でも例外なく、マヤ人の神殿や建物を破壊し、その石材を使ってキリスト教会や他の建造物を建設しました。
結果として現在タヤサルの正確な領土の範囲等は分かっておらず、そのまま観光地になり得るような地上に残る遺跡もありません。
かつてのマヤ王国の王都ならば博物館などもありそうなものですが、当時はそういった文化財を守るような感覚はなく、何もかも徹底的に破壊されたため、博物館も何もありません。
一方でタヤサル王国やその王都であったフローレス島にまつわる伝説・逸話は数多く残っているのですが、どれも後世の創作であるようです。
有名なのはタヤサル王国のお姫様「サク・ニクテ(白い花)」のお話などです。
今回はタヤサル王国の滅亡に関わる伝説を紹介しますね!(*・ω・)ノ
先に述べたように17世紀にはタヤサル王国をキリスト教化しようと布教活動が開始されます。
1695年にはフランシスコ会のアンドレス・デ・アベンダーニョ・イ・ロヨラが直接タヤサル王国を訪れました。
この時、スペイン側からタヤサル王国へ、『1頭の馬』が贈られたそうです。
馬は新大陸にはいませんし、侵略戦争時にはマヤ人にとって大きな脅威となっていました。
そんな珍しい馬をタヤサルの人々はもらい受けたはいいものの、馬が何を食べるのかも知りません。
飼い方をそもそも知らないため、ほどなく馬は死んでしまいます。
この馬を大切に思っていたカネク王は『馬の石像』を造らせました。
さっそく完成した『馬の石像』を石工のいる領域から、王都フローレスへとペテン・イツァ湖を通して舟で運ぼうとします。
しかし舟が転覆して『馬の石像』が湖に沈んでしまったそうです。
結局、スペイン人宣教師はカネク王への布教が失敗に終わり、ま『たせっかく送った馬を殺した』という口実の下、軍を派遣してタヤサル王国を滅ぼしてしまいます。
タヤサルは滅び、かつての栄華を象徴する遺物はほとんど残っていませんが、最後の傑作である『石の馬』は今でも巨大な湖のどこかに眠っているそうです。
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馬の写真追加スペース( ・Д・)
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おわりに
この伝説に出てくる「石の馬」は現地では有名な話で、現在はフローレス島の対岸にこの伝説を象徴した馬の石像が造られて設置されています。
カネク王の下に辿り着けなかった『石の馬』が遥か遠くの対岸からフローレス島の方を見つめるように設置されていたかと思います。
近々、別の調査でこの対岸に行く予定なので、上に追記として馬の写真アップしておきますね(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!
さて、地名等、聴き慣れない名前がたくさん出てきましたが、これまでの文章を暗記すればもう現地のツアーガイドより詳しくなれますよ( ・Д・)
↓出張中は物凄く高いモチベーションで仕事とダイエットが捗ります!(*・ω・)ノ↓