2019ねん 7がつ 11にち(もくよーび、晴れ)

予定していた統計学、データ分析に関する基礎的な勉強を終えた。

ひとまず手持ちのデータを使っての考古学への導入実践も成功した。

だからずっと記事書いてなかった!

ごめんねっ!!!( ・Д・)


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今回の考古学・歴史ニュースは、「史実として家康の居城であった駿府城から、何故か秀吉の金箔瓦が大量に見つかったよ!」というお話です(*・ω・)ノ


【目次】
  1. そもそも徳川家康と豊臣秀吉の関係とは?
  2. 金箔瓦の出土状況からの推測
  3. 金箔瓦の歴史
  4. おわりに


1.そもそも徳川家康と豊臣秀吉の関係とは?

1582年に起きた「本能寺の変」によって織田信長の死後、家臣であった羽柴秀吉は天下人としての道を突き進んでいきます。

この本能寺の変はドラマや漫画でもよく題材として取り上げられ、とても有名ですね( -д-)ノ

このビッグイベントの後すぐに、羽柴秀吉は家康を家臣にしようと考えますが、家康はこれを拒否します。

しかし秀吉が僅か3年後である1583年に関白となり、翌年1584年には正親町(おおぎまち)天皇から豊臣の姓を賜って豊臣秀吉として名実ともに天下人となります。

これを受けて家康は豊臣秀吉の家臣となります。

豊臣秀吉は家康を重用し、期待に応えた家康の官位を上げ続け、羽柴姓も与えました。


1598年に豊臣秀吉が病死した後、内大臣の家康が朝廷の官位で最高位となります。

また豊臣秀吉から息子の秀頼が成人するまで政事を家康に託すという遺言を受けていたため五大老筆頭として認められるようになります。

その後、家康は自身の権力を利用し、豊臣秀吉が禁じた大名同士の婚姻を成立させるなどの行為から反発を買い、結果として豊臣家と対立して滅ぼしてしまいます。

まぁこれがよく「家康は狸」と言われる所以ですね( -д-)ノ






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2.金箔瓦の出土状況からの推測

さて、今回の発見があった場所は駿府城(すんぷじょう)です。

この駿府城は静岡県、静岡市葵区に所在しています。

上に挙げた1つ目の画像に見られるように、駿府城は1635年の火災により天守が焼失しました。

その後は天守台(天守の下の石垣造りの土台)だけが残っていましたが、1896年(明治29年)に当時の軍部の下で天守台は取り壊され、その土砂で本丸堀が埋め立てられました。

静岡市では、かつて天守が建っていた跡地の整備方針を決定するため、事前に天守台の正確な位置や大きさ、石垣の残存状況などの学術的データを得ることを目的として発掘調査が計画されました。

この発掘調査は、2016年に開始し、2020年まで実施予定となっています。

駿府城は駿府城公園として公開されており、上の2つ目の画像のように公園敷地内の一部が発掘調査対象区域なのです。

まぁ恐らくは静岡市が観光資源として活用するために学術調査を行った上で天守閣の復元を行うのかなと個人的に思っています( -д-)ノ




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さて、先ほどの年表にもあったように、駿府城は2度、築城されています。

この2度目の築城の際に、天守を完成させたのが家康です。

この時の天守台(復元)の写真が上の1枚目のものになります。

今回のより古い天守台は家康期の天守遺構と重なる配置から検出されており、3枚目の写真のように旧天守台の一部が残存しているのが確認されました。

2枚目の写真から分かるように2つの遺構は南東角で重なっています。

この天守台は南北約37m×東西約33mで新天守台(家康期)のものよりも一回り小さいものであり、旧天守台を壊すことでその周囲の堀を埋め立てて、その後に新天守台が建造されています。

この埋め立てられた旧天守台周辺の堀から、330点もの大量の金箔瓦が出土したのです。

この旧天守台の石垣を建造する技術は新天守台とは異なっており、旧天守台の石垣では自然石を積み上げた野面積みの技術を用いていることが豊臣期の特徴です。

また金箔瓦を作る技術も豊臣期の特徴を示しています。

公式の発表では、発見された旧天守台は1590年に江戸に向かった家康の代わりに入城した中村一氏が築城したものとされています。

でもそうなると、「1585年に築城が開始された1度目の家康の天守台はどこなのか?」という問題に突き当たるのではないかと思います。

この時代に関して門外漢ではありますが、出土した遺物と遺構から、今回発見されたのは家康による一度目の天守台ではないかと思います( ・Д・)

一氏が入城したのが1590年であり、この最初の天守台は1588年に完成したばかりですから、そのまま利用した可能性もあるでしょう。

戦国時代で城主が変わると天守が変えられることが一般的でしたが、この駿府城の場合、落城したわけではありませんし、元の城主である家康は秀吉のお気に入りなわけですから、一氏が天守に手を加えたとしても一部であり、天守台の石垣などの基礎部分はそのまま利用したと考えられるのではないでしょうか。

家康が天下統一を果たしてから駿府城に戻り、二度目の築城を行ったのは過去に自分が豊臣家に仕えていた際に築造した天守を、あるいは豊臣側の一氏が少し手を加えた天守(どのみち豊臣期様式)を変えたかったからかも知れません。

やはり史料として中村一氏が築城したということが記載されておらず、かつ考古学的にも3期に渡る遺構が確認されていない以上、今回発見された旧天守台を中村一氏の城とするのは飛躍があるかなと思います( -д-)ノ

(もしかしたら史学的根拠があるのかも知れません。知っている方は是非コメントお願いします!)


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3.金箔瓦の歴史

金箔瓦は1576年に信長が築いた安土城で初めて本格的に導入されました。

元々、掘立小屋のような簡易な建造物しかなかった城に、礎石を用いた瓦葺きの本格的な建造物が全面的に採用されたのもこれが初めてと考えられています。

この織田信長によって始められた金箔瓦の採用を含む新しい建築様式は、「使用制限」があり、織田政権の財力・権力の象徴的として機能しました。

一方で続く豊臣秀吉は自身が金箔瓦を用いた城を築城するだけではなく、豊臣家の一門や重臣たちの間で普及させました。

そしてその後、近世城郭の普及に伴ってに金箔瓦も全国に広まっていきました。

ですので金箔瓦を有する城は多数あるわけで、近年の城跡の調査によって全国の広域に渡って金箔瓦が出土することが確認されています。

上に挙げた写真の京都府にある聚楽第(じゅらくだい)跡や、宮崎県の佐土原城、福島県の会津若松城など全部で41の城郭で確認されています。


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↑金箔瓦を有する城郭の分布(「攻城団」の記事内画像より転載;*上述の41の金箔瓦を有するお城について分かり易く整理されていますので、興味ある方は是非覗いてみてください(*・ω・)ノ)






さて、上に挙げましたように、金箔瓦には大きく2つの様式があります。

信長時代の金箔瓦は装飾瓦の凹んだ部分(地の部分)に金箔が貼られ、模様部分を黒く浮かび上がらせるという方法が取られていました。

一方で秀吉時代の金箔瓦は、凸部分である紋様部分や縁の部分に金箔が貼るという方法が取られていました。

また金の純度は信長時代の方が高かったようです。

秀吉の時代は豪華に飾り立てる「見せる」お城の重要性が高かったため、たくさん金箔を使うには純度を落とす他なかったのかも知れませんね( -д-)ノ




4.おわりに

たまたま瓦の研究をしていた先輩がいたため、瓦の分類や編年が存在することは知っていました。

まぁ瓦から時期や帰属する武将が分かるのは、土器の専門としてすっと理解できるんですよね。

似ている(?)と言えば似ているので( -д-)ノ

一方で城郭考古学なるものもTwitterという文明の利器のおかげで最近知りました。

詳しくはもちろん知りませんが、対象を「城郭」を中心にしているということなのでしょうか……

(では土器を扱っていれば「土器考古学」なのかという疑問も残りますが、『~(なんちゃら)考古学』あるあるなのでそっとしておきます( ・Д・))

城郭とは、城(または町)を敵の攻撃から守るための施設。城の囲い。くるわ。更に広く、城(wikiより転載)。

論文に当たっていませんが、さらっと調べたところ、やはり城郭を対象とした考古学のようですね。

私には「城郭考古学」としてカテゴリー化する必要があるほど、この分野が中近世の歴史学・考古学に強い影響を与えるのか、その評価はできません。

しかしながら石垣等の遺構の築造技術からの分類と編年作成は面白いなと思います。

城郭の総数が気にかかるのと、編年といっても築造年代は史学で大体分かっているのではないか、よほど特徴的な技術でければ同時多発的に発生するのではないか、予算等の事情で築造方法を簡易化する(旧技法を用いる)可能性もあるのではないかと諸々の疑問が溢れます。

批判しているかに見えるかも知れませんが、ぱっと疑問が溢れるということは「面白い」ということです。

どれも検討する必要があり、その複雑さが研究をより一層面白くするわけですからね(注:ドMではない( ・Д・))

さて、古代マヤの建造物に関するこの手の研究は比較的進んでいませんし、応用できるかは分かりませんが、建造物遺構に対する視点として是非加えておきたいなと思いました。

お城好きな方々も多いと最近身に染みて分かるようになりましたが、私も石垣を見れば時期と築造方法を同定できるようになりたいものです。

次の記事は「石垣の分類」かな!?

・・・・・・ところで世界も広いし、歴史の範囲も広いねっ!( ・Д・)

苦手ながらも専門外のこういう記事を書いていけば、慣れるだろうし、見識も広がるかと思っていましたが道程はほんとに長いなと思います。

でもまぁのんびり頑張ります!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

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