あるけまや -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

    お金にならない考古学をお金にしよう╭( ・ㅂ・)و ̑̑ グッ ! 考古学・歴史ニュースの決定版╭( ・ㅂ・)و ̑̑ グッ !

    青銅器時代

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    2026ねん 8がつ14にち(きんよーび、晴れのち雨)

    今日は頑張るぜ!( ・Д・)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



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    ↑マスターキートンで文明の数はたくさんあるって知ってるよなぁ!?( ・Д・)





    今回の考古学・歴史ニュースは

    イタリア・サルデーニャ島で、森に覆われていたヌラーゲ文明の巨大な集団墓を発掘したら、入口近くの内部空間だけが異例の“二つの高さ”に造り分けられていて、しかも周囲には原始ヌラーゲ、聖なる井戸、集落、さらに文明以前のドルメンまでそろっていたぞ! この一つの墓から、ほとんど文字を残さなかった地中海の謎の文明が、死者をどう扱い、巨大石造建築をどう発達させたのか分かるかもしれない( ・Д・)」

    ってお話です(*・ω・)ノ




    📰 はじめに

    「巨人の墓」が見つかった。

    そう聞くと、

    身長3メートルの人骨でも出たのか?

    と期待してしまう。

    残念ながら、巨人はいない!( ・Д・)

    「巨人の墓(Tombe dei Giganti)」とは、イタリア・サルデーニャ島の青銅器時代に造られた、巨大な石造集団墓を指す伝統的な呼び名である。

    何十人、場合によっては何百人もの死者を一つの長い墓室へ繰り返し葬った巨大な墓だったため、後世の住民が、

    「こんな巨大な墓なら、巨人が眠っていたに違いない」

    と考えたことから、この名前が定着した。

    実際には普通の人間の共同墓である。

    ところが2026年夏、サルデーニャ島中北部のボルティガリにあるCarrarzu Iddia(カッラルズ・イッディア)遺跡で、これまで知られていなかった新しい「巨人の墓」が姿を現した。

    密生した植物を取り除くと、粗面岩の巨石で築かれた長い埋葬室と、その入口前に半円形に広がる巨大な前庭――エクセドラが現れた。

    そして内部を調べた考古学者が首をかしげた。

    入口付近だけ、床面が一続きではない。

    内部空間が、二つの高さに分けられていたのである。

    典型的な「巨人の墓」ではめったに見られない構造だった。

    だが、この発見がおもしろい理由を理解するには、まず、

    そもそもヌラーゲ文明とは何なのか?

    から始めなければならない。

    日本では本当に知名度が低い。

    しかし地中海考古学で見ると、とんでもなく巨大な石造文明なのである。


    🏝️ そもそも「ヌラーゲ文明」とは何者なのか?

    サルデーニャ島は、イタリア半島の西、コルシカ島の南に浮かぶ地中海第2の大島である。

    現在はイタリア領だが、青銅器時代にはもちろん「イタリア」という国家は存在しない。

    この島で紀元前2千年紀に発達した独特の文化を、現在の考古学者はヌラーゲ文明(Nuragic civilization)と呼んでいる。サルデーニャ州の文化財行政では広い意味で紀元前1800年頃からローマによる征服期までをヌラーゲ時代として扱う一方、石造塔を中心とする典型的なヌラーゲ文化が本格化するのは紀元前1600年頃以降とされる。

    「ヌラーゲ人」という民族名が古代文書に書かれているわけではない。


    文明名の由来は、島じゅうに残る巨大石造建築、

    ヌラーゲ(nuraghe)

    である。

    つまり、

    エジプト文明→エジプト人の記録

    ローマ文明→ローマ人の記録

    のように当人たちの文字史料を大量に読める文明ではない。

    主要な情報源は、塔、集落、墓、井戸、青銅器、陶器などの考古資料なのである。

    そして、ここはかなり重要なのだが、ヌラーゲ文明を一つの巨大王国や統一帝国と考えてはいけない。

    島全体で似た建築、儀礼、物質文化を共有してはいるものの、それを一人の王が統治していた証拠はない。

    強い首長層や社会階層の存在を想定する研究がある一方、地域共同体同士が緩く結び付いた、中央権力を欠く社会だったとみる研究もある。

    つまり「文明」と呼んではいるが、その政治構造そのものが研究テーマなのである。





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    ↑どうよ?古墳時代の石室みたいだぜ!( ・Д・)(「イタリア文化省」の記事内画像より転載)


    🏰 島に何千基も立つ「石の塔」――ヌラーゲ

    この文明を象徴する建物が、ものすごい。

    巨大な石をほとんどモルタルなしで積み上げ、円錐台状の塔を造る。

    内部には石を少しずつ内側へ張り出しながら積むことで、偽ドーム状のトロスを形成する。

    単独の塔もあれば、中央塔の周囲へ複数の塔と城壁を追加し、まるで石造城塞のようになった複雑なヌラーゲもある。

    島全体では完全な悉皆調査がないため数字には幅があるが、古典的ヌラーゲだけでも7000~1万基程度が存在すると推定されている。

    もっと古い段階には、いきなり巨大円塔が現れたわけではない。

    紀元前1800~1600年頃のボンナナーロ文化からヌラーゲ文明へ移る時期には、低く横長で、内部に細い通路を持つプロトヌラーゲ(原始ヌラーゲ、corridor nuraghe)が造られた。

    そこから建築技術が発達し、紀元前1600年頃以降、巨大な円形塔を持つ典型的ヌラーゲが増えていく。

    つまりヌラーゲは、突然空から降ってきた建築ではなく、サルデーニャ島で長く続いていた巨石建築の伝統から徐々に発達したのである。

    有名なのが島南部のスー・ヌラージ・ディ・バルーミニ

    中央塔を複数の塔と城壁が取り囲み、さらに周囲には円形住居が密集する巨大複合遺跡で、1997年にユネスコ世界遺産へ登録された。

    ただしヌラーゲの用途は一つに決着していない。

    防御施設。

    首長の居館。

    食料や財の集積拠点。

    共同体の象徴。

    宗教施設。

    時代によって役割が変化した可能性もある。

    巨大建築なのに文字説明がないからこそ、考古学者は建築配置と遺物から社会を逆算しなければならないのである。


    ⚒️ 農牧民なのに巨大建築、青銅器、海上交易まであった

    ヌラーゲ文明の基盤は農耕と牧畜だった。

    しかし、それだけの孤立した島社会ではない。

    サルデーニャ島には銅や鉛などの鉱物資源があり、青銅器製作が盛んだった。

    小型の青銅人形、武器、船形模型、工具など、独特の金属製品が大量に残されている。

    そして島だから孤立していた、というイメージもかなり違う。

    サルデーニャ産黒曜石はヌラーゲ文明以前の新石器時代から地中海各地へ流通していたし、青銅器時代後半にはミケーネ世界、キプロス、東地中海の商人たちとの交流を示す資料が増える。

    紀元前9~8世紀頃になるとフェニキア人の拠点も沿岸部に成立した。

    つまりサルデーニャ島は、地中海世界の端ではなく、東西をつなぐ海上ネットワークの途中にあった。

    宗教建築も独特である。

    特に有名なのが、地下水へ向かって精密な石段を降りていく聖なる井戸(pozzo sacro)

    整然と切られた石を積み、地下の泉や水を祭祀対象とした。

    ヌラーゲ、井戸神殿、集落、墓が一つの景観の中に組み合わされる例もあり、この文明では巨大建築が居住・政治・宗教・祖先祭祀を分離せず、地域社会全体を形作っていたらしい。

    そしてヌラーゲ時代後半になると、もう一つ強烈な遺物が登場する。

    モンテ・プラマの巨人像である。

    高さ2メートル前後の石像で、戦士、弓兵、盾を持つ人物などが表現されている。

    紀元前10~8世紀頃の墓域と結び付くと考えられ、およそ150基の個人墓と、多数の巨大石像の破片が発見されている。

    ただし注意。

    今回の「巨人の墓」と、

    モンテ・プラマの「巨人像」は、

    別物である。

    巨人墓の中に巨人像が入っているわけではないし、巨大人骨も出ていない。

    サルデーニャ考古学には「巨人」が二種類登場するので、ここが非常に紛らわしい!( ・Д・)


    ⚰️ 「巨人の墓」は、共同体そのものを葬った巨大墓だった

    典型的な「巨人の墓」は、上空から見ると非常に特徴的な形をしている。

    中央に細長い石室。

    その入口から左右へ、石壁が弧を描いて広がる。

    その形から、巨大な牛の頭や角にたとえられることもある。

    全長30メートル近くに達する例もあり、高さ4メートルを超えるものも知られる。

    もっとも重要なのが入口前のエクセドラである。

    ここは単なる玄関ではない。

    半円形の空間へ人々が集まり、死者や祖先に関する儀礼を行ったと考えられている。

    低いベンチ状施設や石造祭祀物が伴う例もあり、墓は死体を収納する倉庫ではなく、

    生者が死者と関係を結び直す場所

    でもあった。

    そして墓室には、一人の王だけを入れたのではない。

    何度も開けて、多数の遺体を追加していく。

    2003年段階の集成では、サルデーニャ島に約800基の「巨人の墓」が知られ、一つの墓に多数の個体が葬られた例も確認されている。

    ここにはヌラーゲ社会のおもしろい矛盾がある。

    巨大な塔を建てる。

    特殊な青銅器を持つ。

    社会的な階層差もあった可能性が高い。

    なのに墓では、少なくとも長い期間、

    多数の人間を一つの共同墓へ入れる。

    王だけを巨大な墓へ一人で葬るエジプトやミケーネとは違う。

    死後には個人よりも祖先集団や共同体への帰属を強調したのかもしれない。

    だから「巨人の墓」は、ヌラーゲ文明の社会構造を考えるうえでも非常に重要なのである。





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    ↑こんなんだったら発見とは言わない!ってくらい綺麗じゃない?( ・Д・)(「イタリア文化省」の記事内画像より転載)


    📚 ただの「謎の石塔」から文明へ――研究を変えた1950年代

    ヌラーゲ自体は昔から地上に見えていた。

    古代ギリシア・ローマ時代にも、サルデーニャ島の巨大石造建築は知られ、後世には神話的な建築家ダイダロスや英雄イオラオスと結び付けられることさえあった。

    しかし、現在の意味で「ヌラーゲ文明」という文化体系が本格的に組み立てられたのは20世紀である。

    大きな転機となったのが、考古学者ジョヴァンニ・リッリウによるスー・ヌラージ・ディ・バルーミニの発掘だった。

    1950年代、土に埋もれていた巨大石造複合遺跡を系統的に発掘し、塔、城壁、集落、時期変化を明らかにした。

    この研究によって、島じゅうに点在する巨大建築を単独の「謎の遺跡」として見るのではなく、一つの長期的な社会・文化システムとして研究する現代ヌラーゲ考古学が大きく発展した。

    その後、巨人墓、井戸神殿、青銅小像、集落、交易品、古代DNAなどが加わり、現在では「戦士王がヌラーゲから島を支配した」という単純なモデルだけでは説明できないことも分かってきた。

    地域ごとに強い共同体を持ちながら、島全体で建築様式や祭祀を共有する。

    統一国家ではないのに、驚くほど共通した物質文化が広がる。

    むしろ、その仕組みこそヌラーゲ文明最大の謎なのである。


    🌿 そして2026年、植物の下から新しい「巨人の墓」が現れた

    今回の舞台、カッラルズ・イッディア遺跡は、単独の墓地ではない。

    サルデーニャ島中北部、マコメール近郊のボルティガリにあり、Crastu Littu台地の南端付近から周囲の平野や谷を広く見渡せる場所に位置する。

    以前からこの一帯には、

    二基のプロトヌラーゲ。

    集落。

    聖なる井戸。

    広い墓域。

    さらにヌラーゲ文明以前のドルメン。

    が確認されていた。

    つまり同じ場所が、ヌラーゲ文明が成立する前から長期間にわたり、生活と祭祀と埋葬の場所として選ばれ続けていたのである。

    今回も最初から巨大墓を探していたわけではない。

    濃密な植生を取り除き、既知の遺跡周辺を整備していたところ、石造構造が姿を現した。

    掘り進めると、粗面岩のブロックを整然と積み上げた埋葬室と、入口前の巨大なエクセドラが確認された。

    ただし遺跡は過去に盗掘を受けており、内部の一部は攪乱されている。

    それでも陶器片が残っており、墓の利用時期を考える重要な資料になっている。

    そして、この墓はボルティガリで知られる「巨人の墓」として3基目。

    近年周辺では墓の発見が相次ぎ、この地域が従来考えられていた以上に巨大な先史時代景観だった可能性が見えてきている。





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    ↑外観!元々こんな感じ!( ・Д・)(「イタリア文化省」の記事内画像より転載)


    🚪 谷を向いた入口――そして、問題の「二層構造」

    墓の造りもかなり丁寧である。

    壁には粗面岩を比較的規則正しく水平に積む技術が使われ、入口は左右の縦石に横長の石を載せる三石式、いわゆるトリリトン構造になっている。

    墓は谷を見下ろす方向へ向けて造られていた。

    典型的な古いタイプの「巨人の墓」では、入口中央に巨大な立石――湾曲した頂部を持つ中央ステーレが立つものがある。

    今回の墓では、現段階でその典型的な中央ステーレは確認されていない。

    一方、石を水平に積み重ねて壁を造る方式は、巨人墓の建築が時代とともに変化していく過程を考える重要な材料になる。

    そして問題の二層構造。

    ここは報道を少し慎重に読む必要がある。

    今回確認されたのは、

    墓全体が二階建てになっている

    という意味ではない。

    公式発表の表現は、

    「入口付近で内部空間が二つのレベルに分けられている」

    というものだ。

    つまり現代住宅の1階・2階のように、上下に二つの完全な墓室が重なっているとは、まだ発表されていない。

    それでも珍しい。

    典型的な「巨人の墓」は基本的に一つの細長い埋葬空間を持つため、入口付近だけ床面や空間構成を変える理由が分からない。

    死者を置く場所を区別したのか。

    遺骨と副葬品を分けたのか。

    埋葬儀礼の途中で使う空間だったのか。

    古い墓を後から改築した結果なのか。

    あるいは施工上の事情なのか。

    現段階では、どれも仮説にすぎない。

    だが、だからこそ重要なのである。


    🧩 二つの高さは、「墓をどう使ったか」を残しているかもしれない

    考古学では、奇妙な建物ほどおもしろい。

    定型から外れている部分には、

    「なぜ普通と違うことをしたのか?」

    という社会の選択が残っているからだ。

    特に集団墓では、一度遺体を置いて終わりとは限らない。

    新しい死者を追加する。

    古い骨を端へ寄せる。

    一部だけ取り出す。

    副葬品を入れる。

    入口を閉じる。

    再び開ける。

    何世代にもわたって墓が使われる。

    そうした行為の積み重ねによって、内部構造そのものが変化する場合がある。

    だから今回の二つの高さが、最初から設計されたものなのか、使用途中で改変されたものなのかが分かれば、

    ヌラーゲ人が死者をどんな順序で墓へ入れ、墓を何世代使い続けたのか

    まで復元できる可能性がある。

    さらに「巨人の墓」自体にも建築上の変化がある。

    より古い例には、巨大な板石を立て、その上へ別の石を載せるドルメン的な構造が多い。

    後になると、切り整えた石を水平に何段も積み上げ、長い壁と天井を造るタイプが増える。

    この変化は、単なる建築技術の上達ではない。

    墓を利用する人数。

    儀礼を行う規模。

    共同体の人口。

    祖先を記憶する方法。

    そうした社会の変化と結び付いていた可能性がある。

    Carrarzu Iddiaの二層構造は、その建築進化の途中に存在する特殊例なのかもしれない。

    だから研究者たちは、墓を一個増やしたこと以上に、

    ヌラーゲ墓制の変化をつなぐ資料になる可能性

    に注目しているのである。






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    ↑元々はちゃんと埋もれてるぜ!( ・Д・)(「イタリア文化省」の記事内画像より転載)



    🕰️ 「3800年前の墓」なのか? 年代はまだ少し慎重に

    海外や日本のニュースでは、今回の墓を「約3800年前」と紹介する例もある。

    「巨人の墓」という建築伝統自体の起源を、紀元前1800年頃までさかのぼらせる研究があるためだ。

    ただし、今回のカッラルズ・イッディア遺跡の墓そのものが紀元前1800年に造られた、と年代測定で確定したわけではない。

    現地報道では内部から出た陶器について、中期青銅器時代末に属するものと説明されている。

    サルデーニャの一般的な編年では、中期青銅器時代はおおむね紀元前1600~1300年頃。

    したがって現段階では、

    「ヌラーゲ文明初期から使用された可能性がある墓」

    程度に考える方が安全である。

    さらに、陶器の年代=建物の建設年とも限らない。

    墓を建ててから何世代も使ったなら、内部には後の陶器も入る。

    逆に周囲から古い資料が混入することもある。

    今後、詳細な層位記録、人骨が残っていれば放射性炭素年代、陶器型式などを組み合わせて初めて、建設と使用の時間幅が見えてくる。

    だからこそ今回の発見は、「3800年前の珍しい墓を発見して終わり」ではなく、これから年代を組み立てる研究材料なのである。


    🌍 同じ頃、地中海では宮殿文明が栄えていた

    カッラルズ・イッディア遺跡の墓が使われた可能性の高い紀元前2千年紀中頃。

    エーゲ海ではミケーネ文明の宮殿社会が成長し、クレタ島ではミノア文明の文化を受け継ぐ世界が展開していた。

    エジプトでは新王国時代。

    東地中海では銅や錫、象牙、ガラス、陶器などが船で移動し、王宮を結ぶ巨大な交易圏が形成されていた。

    サルデーニャも、この広い海上世界と無関係ではなかった。後の青銅器時代になるほど東地中海系の製品や交流の痕跡が増えていく。

    しかしヌラーゲ文明は、ミケーネ文明の地方版ではない。

    島では島の石材を使い、巨大塔を造り、共同墓を造り、水の聖域を造った。

    外部と交易しながらも、建築や葬送は極めてサルデーニャ的だった。

    ここが面白い。

    古代地中海は、

    「先進的な東から技術が伝わり、西の辺境が真似した」

    という単純な世界ではない。

    各地域が外来品や技術を取り込みながら、それぞれ異なる社会を作っていた。

    ヌラーゲ文明は、その代表例なのである。

    そして紀元前1200年前後、東地中海の多くの宮殿社会が崩壊する時代を迎えても、ヌラーゲ社会がそのまま消えたわけではない。

    新しいヌラーゲ塔の大規模建設は次第に終わる一方、既存の塔の周囲では集落が成長し、聖域や祭祀施設が発達する。

    後にはモンテ・プラマの巨大石像まで登場する。

    つまり、

    塔を建てなくなった=文明崩壊

    ではない。

    社会の中心が、巨大塔建設から別の活動へ移った可能性が高いのである。


    🏺 一つの墓ではなく、「何千年も選ばれた場所」が見つかった

    カッラルズ・イッディア遺跡で本当に重要なのは、二層の墓だけではないと思う。

    周囲を見てみる。

    文明成立以前のドルメンがある。

    その後、プロトヌラーゲが造られる。

    集落ができる。

    聖なる井戸が造られる。

    共同墓が並ぶ。

    そして今回、さらに新しい「巨人の墓」が見つかった。

    つまり人々は、

    「空いている土地だから、ここに墓を造った」

    のではないかもしれない。

    すでに昔の墓がある。

    昔の巨大石造物がある。

    祖先が住んだ場所がある。

    そこへ次の世代が、新しい建物を追加する。

    さらにその次の世代も同じ場所を使う。

    そうして数百年、あるいはそれ以上の時間をかけ、

    土地そのものが祖先の記憶を蓄積した巨大な文化景観

    になった可能性がある。

    そして、その中で「巨人の墓」のエクセドラに人々が集まり、共同体の死者を何度も葬った。

    入口付近だけ二つの高さに造られた今回の墓は、そうした長期間の使用と建築変化を記録しているのかもしれない。





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    ↑こんなに綺麗になりましたっ!( ・Д・)(「イタリア文化省」の記事内画像より転載)


    🪨 巨人ではなく、「共同体」が眠る墓

    数千年前。

    サルデーニャ島の谷を見下ろす丘に、人々が巨大な石を運んだ。

    一個。

    また一個。

    粗面岩を積む。

    左右に石壁を広げる。

    半円形の前庭を造る。

    中央へ入口を開ける。

    その奥に長い死者の部屋を造る。

    そして何らかの理由で、入口近くの床を同じ高さにはしなかった。

    二つのレベルを設けた。

    最初の死者が入る。

    次の死者が入る。

    何年か後、また墓が開く。

    骨が動かされる。

    新しい人間が加わる。

    前庭には生きている人々が集まる。

    死者は一人の英雄としてではなく、祖先の集団へ加わっていく。

    やがて墓は使われなくなる。

    植物が覆う。

    建物の意味が忘れられる。

    後世の人々は、その巨大さだけを見て考えた。

    「ここには巨人が眠っているのだろう」

    そして数千年後。

    植物を取り除いた考古学者が、入口を見つける。

    石室へ入る。

    すると床の高さが変わっている。

    たったそれだけの違いが、

    「この墓は、なぜ他と違うのか?」

    という新しい問いを生んだ。

    ヌラーゲ文明には、巨大な王の墓も、王名を書いた碑文も、征服戦争を記した年代記もほとんどない。

    だからこそ、

    石をどこに置いたか。

    墓をどう開けたか。

    死者をどこへ置いたか。

    何度建て替えたか。

    そんな小さな違いが、社会そのものを語る。

    今回発見されたのは、巨人の骨ではない。

    何世代もの普通の人間が、祖先と共同体をどう理解していたかを閉じ込めた巨大な石の記憶装置なのである。

    しかもその墓は、まだ掘り終わってすらいない。

    二層になった理由も、

    建設年代も、

    誰が葬られたのかも、

    まだ分からない。

    だからこそ、ここからがおもしろい。

    地中海の島に何千もの石塔を残しながら、自分たちの物語を文字では残さなかったヌラーゲ人。

    その失われた社会を読み解く次の一ページが、今、カッラルズ・イッディア遺跡の「巨人の墓」から開き始めたのだ!( ・Д・)




    なにはともあれ……

    巨人よりも、、、ミニチュアみたいな遺跡ないかな!?( ・Д・)








    ↓マヤ遺跡の調査速報等をアップしてます!↓
    ↓祝!登録者数1000人突破!↓
    ↓逃避行動で実験考古学キャンプとかゲーム実況もやってるよ!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!↓

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    2026ねん 8がつ12にち(すいよーび、台風!)

    ずっと研究系の仕事に打ち込んでるのもつらいなぁ!( ・Д・)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


    arukemaya_y935


    ↑AIで生成される遺物っていい感じの時と明らかにおかしい時があると思う!( ・Д・)





    今回の考古学・歴史ニュースは

    イングランド北部の畑で金属探知機が反応し、掘り出した輪っかを最初は“牛の鼻輪”だと思ったら、実は約3000年前の金製腕輪で、しかも周囲からさらに2点が出土! 3点合わせて約518グラム、推定価値6300万円超と報じられているけれど、本当に面白いのは値段ではなく、なぜ青銅器時代の人々がこれほど大量の黄金を3本まとめて土の中へ置いたのかなんだぞ( ・Д・)」

    ってお話です(*・ω・)ノ




    📰 はじめに

    ピッ、ピッ、ピッ。

    金属探知機が反応する。

    場所はイングランド北部、スコットランドとの国境に近いカーライル北方の農地。

    土を掘ったアンディ・クラモンドは、泥の中から輪状の金属を取り出した。

    最初に頭へ浮かんだのは、

    「牛の鼻輪?」

    だったという。

    農場である。

    輪っかである。

    それほど突飛な想像でもない。

    しかし、泥を払うと妙に黄色い。

    錆びていない。

    手に持つと、ずっしり重い。

    「いや、牛の鼻輪にしては光りすぎているぞ……?」

    そこで友人のアラン・ダニエルズを呼ぶ。

    そして、最初の一つが出た場所をもう一度調べると――約90センチほど離れたところから、二つ目。

    スタッフを呼んで周辺を封鎖し、さらに探すと、そこから数メートル離れた場所から三つ目まで現れた。

    約3000年前の金製腕輪が、3本まとめて出てきたのである!( ・Д・)

    発見日は2026年5月23日。現地報道ではハーカー周辺、後の報道ではブラックフォード近郊と表記されており、カーライル北方で行われた大規模な金属探知イベントの最中だった。イベントでは約470エーカーが探索され、ヴァイキング時代のブローチ、ローマ時代の貨幣、青銅器時代の斧など、多時代の遺物も確認されている。


    ✨ 1本で終わらなかった――黄金が3本並んでいた

    発見したのは、スコットランド在住のアンディ・クラモンドとアラン・ダニエルズ。

    二人は数年前から一緒に金属探知を楽しんでいたものの、それまで高価な発見とはほとんど縁がなかった。

    この日も最初の約2時間は、アルミ缶の破片などばかり。

    そこで別の畑へ移動した直後、クラモンドの探知機が反応した。

    一つ目を発見すると、ダニエルズは作業を止めて届け出ようとした。

    ところがクラモンドが、

    「念のため、もう一回この辺を調べよう」

    と提案した。

    これが大正解だった。

    二つ目は最初の発見地点から約3フィート。

    三つ目も近距離にあり、3点はおよそ20フィートほどの範囲へまとまっていたと報じられている。

    つまり、一人の人物が歩きながら三つを別々に落としたとは考えにくい。

    何者かが、意図的に複数の黄金製品を一カ所へ置いた可能性

    が、最初から浮上するのである。

    報道では3点とも「complete」、つまりほぼ完全な形を保つ個体として紹介されている。ただし1点には、後世の鋤が当たった可能性のある傷も報告されている。青銅器時代の金製腕輪は破片だけで見つかることも多いため、三つがまとまって形を保った状態で発見されたこと自体が非常に珍しい。


    ⭕ 「トルク」なのに首飾りではなく、腕輪?

    海外記事では3点を torc/torque と呼んでいる。

    「トルク」と聞くと、ケルト人が首へ着ける巨大な首輪を想像する人もいるかもしれない。

    しかし考古学上のトルクという名称は、必ずしも首飾りだけを指すわけではない。

    金属棒や帯を曲げ、両端を完全には閉じずに残した環状装身具には、首へ着けられる大型品と、腕や手首へ着けられる小型品が存在する。

    今回の3点は後者で、arm torcs、arm-rings、braceletsなどと説明されている。

    大英博物館にも、紀元前1100~750年頃の金製ペナニュラー・ブレスレット――両端が開いた腕輪――が複数収蔵されており、端部をラッパ状に広げた形は後期青銅器時代の装身具として知られている。

    だから、

    「牛の鼻輪に見えた」

    というのも、実物の形を考えるとなかなか納得できる。

    現代の宝飾品のような留め金もない。

    ほぼ太い金属の輪なのである。





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    ↑立派過ぎるだろ!( ・Д・)(「ART news JAPAN」の記事内画像より転載;credit: Alan Daniels)


    🗓️ 紀元前1100年頃――鉄器時代になる直前の英国

    現在伝えられている暫定年代は、紀元前1100年頃。

    英国考古学の編年では、中期青銅器時代末から後期青銅器時代の入口にあたる。

    つまり、およそ3100年前である。

    当時のブリテン島には、ローマ人もアングロ・サクソン人もまだいない。

    もちろん「イングランド」や「スコットランド」という国もない。

    文字資料もないため、人々が自分たちを何と呼んでいたかさえ分からない。

    人々は円形住居を中心とする集落を営み、農耕と牧畜を行いながら、青銅の斧、剣、槍などを使用していた。

    鉄器製作が英国へ本格的に広がるのは、さらに数百年後となる。

    一方、海の向こうを見ると、地中海東部では紀元前1200年前後の「後期青銅器時代の崩壊」を経て、ミケーネ宮殿社会などが姿を消した直後。

    日本列島はまだ縄文時代である。

    そんな頃、英国北部では半キログラムを超える黄金が、誰かの腕を飾っていたらしい。


    🌊 辺境ではない――大西洋を金属が動いた時代

    現在のカーライル周辺はイングランド北端なので、「古代英国の辺境」を想像したくなる。

    だが青銅器時代の世界を、現代のロンドン中心の地図で考えてはいけない。

    西にはアイリッシュ海がある。

    海を渡ればアイルランド。

    北へ行けば現在のスコットランド。

    南西にはウェールズ。

    さらに海を越えれば大西洋岸フランスへつながる。

    青銅や黄金の装身具は、こうした地域をまたいで形や製作技術を共有していた。

    後期第2千年紀の金製トルク類は英国だけでなく、アイルランド、フランス大西洋岸、イベリア半島まで分布し、金属製品や原料が広範囲に移動したことが研究されている。アイルランドの青銅・金製品が英国やヨーロッパ大陸へ広く交換されたことも指摘されている。

    つまりカーライル周辺は、

    文明世界の端ではなく、アイリッシュ海を介した金属ネットワークの交差点

    として見る方が面白いのである。


    ⚒️ 半キロの黄金を、どうやって腕輪にしたのか

    3点の総重量は約518グラム。

    報道では少なくとも22金程度の高純度金とされている。ただし大英博物館による正式な分析報告はまだ公開されていないため、現段階では報道ベースの数値として扱う必要がある。

    22金なら金含有率は約91.7%。

    金は鉄のように赤錆を生じにくいため、3000年間土の中にあっても黄金色を保ちやすい。

    発見者が、

    「埋めたときとほとんど同じような姿で出てきた」

    と驚いたのも、この金属の性質による。

    しかし金は柔らかい。

    金塊を腕輪へするには、鋳造や鍛打を組み合わせて形を整え、表面を仕上げる必要がある。

    同時代の金製装身具を見ると、単純な輪だけでなく、棒を捩ったトルク、薄板を加工した品、端部を拡張した腕輪など、多彩な技術が使われていた。

    近年ではX線蛍光分析による合金組成研究や、加工痕の顕微鏡観察まで進み、「黄金を持っていた人」だけでなく、「黄金を作った職人」の技術体系そのものが研究対象になっている。






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    ↑前に見つけてすぐに専門家呼んだ人がいたけど、そういう法律も整備すべきじゃないかと思う!素人とは分かっていても掘り方汚ねぇ!( ・Д・)(「ART news JAPAN」の記事内画像より転載;credit: Alan Daniels)


    👑 では、これほどの黄金を誰が身に着けたのか

    「王様の腕輪!」

    と言いたくなる。

    ただし紀元前1100年頃の英国に、後世の国家王権と同じ意味での王がいたと証明されているわけではない。

    それでも半キログラム近い黄金を入手できる人物や共同体が、一般的ではなかったことは想像しやすい。

    金の産地へつながる交易関係。

    製品を作る専門技術。

    大量の黄金を社会から取り出して装身具へ集中できる経済力。

    それらが必要になる。

    したがって、高位者の威信財だった可能性は高い。

    しかし現在の研究では、トルクを単純な「金持ち個人のアクセサリー」とみなすことにも慎重になっている。

    特定の役職や儀礼の際に共同体から貸与された品。

    世代を越えて継承された家系財。

    特別な社会的立場を示す象徴。

    そうした可能性もある。

    実際、先史時代のトルクには長期間使用・修理された痕跡を持つ例があり、単なる消費財ではなく、人と人の間を移動しながら長い「履歴」を持った品だった可能性が指摘されている。


    💰 金の重さ=価値ではなかった?

    この3点が面白い理由の一つが、「金を価値としてどう考えたか」という研究につながることである。

    青銅器時代ヨーロッパでは秤や重量基準が使用され始め、金製品も一定重量で作られていたのではないかという説が長く議論されてきた。

    もしそうなら、腕輪そのものが装身具であると同時に、一定量の黄金を持ち運ぶ財産だった可能性がある。

    ところが2022年、英国・アイルランドの青銅器時代金製品約1000点を再分析した研究では、製品全体に統一的な重量規格が存在したという仮説は支持されなかった。

    似た重量が集まる例はあっても、それは通貨のような厳密な規格というより、

    「腕に着けるなら、このくらいの大きさになる」

    という身体寸法や製作上の都合でも説明できるというのである。

    つまり今回の3本も、

    金何グラムだから価値が何単位

    という現代的な延べ棒ではなかった可能性が高い。

    誰が身に着けたか。

    どこから受け継いだか。

    どんな儀礼で使ったか。

    そうした社会的履歴まで含めて「価値」だったのだろう。


    🕳️ 最大の謎――なぜ3本とも土の中へ置いたのか

    ここからが考古学的に一番おもしろい。

    三つの腕輪は近接している。

    そこで考えられる説明は、大きく二つある。

    一つは、財産の隠匿

    敵対集団の襲撃や社会不安があり、

    「しばらく地面へ埋めておこう。落ち着いたら掘り返す」

    と隠した。

    だが所有者が死亡したり、戻れなくなったため、そのまま3000年間残った。

    もう一つは、意図的な奉納

    神々、祖先、大地などへ黄金を差し出し、二度と人間社会へ戻さないため地中へ置いた。

    現地では収穫を願った奉納などの可能性も語られているが、具体的な目的までは分からない。

    そして、この二者択一そのものが少し古い考え方かもしれない。

    青銅器時代の埋納研究では、経済的な保管と宗教的な奉納を完全に分離できない場合がある。

    貴重品を土へ置く行為そのものが、財産管理であると同時に社会的・儀礼的意味を持った可能性もある。

    近年の研究では、青銅器時代の「ホード=埋納品」を、物の象徴価値、実用価値、所有者との関係をまとめて考える方向へ進んでいる。





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    ↑三つも出るのは凄いよね!一つでも凄いのに!( ・Д・)(「ART news JAPAN」の記事内画像より転載;credit: Alan Daniels)


    🏺 実は似た「黄金のまとめ埋め」は、英国で何度も見つかっている

    今回だけなら、事故による紛失を疑う余地も大きい。

    しかし英国・アイルランドでは、青銅器時代の金製腕輪やトルクが複数まとめて埋められた例が以前から知られている。

    2000年に発見されたミルトン・キーンズ埋納品には、金製トルク2点、腕輪3点などが含まれ、土器容器に納められていた。年代も紀元前1150~800年頃で、今回の3点にかなり近い。

    2004年に発見されたランボーン埋納品では、紀元前1200年頃の金製腕輪・アームレット群が浅い穴へまとめて置かれていた。

    人骨はなく、墓ではなかった。

    発見後に考古学的調査が行われたことで、「一人が何本も落とした」のではなく、意図的な埋納だったことが確認された。

    アイルランドのモーガンでも大量の金製品がまとまって出土しており、英国・アイルランドの青銅器時代社会には、非常に高価な金属製品を意図的に地中へ戻す行為が繰り返し存在したことが分かっている。

    今回の3本も、この広い文化的慣習の中へ位置付けられる可能性がある。


    📡 金属探知機の「お宝」と考古学資料は、何が違うのか

    今回の発見は金属探知イベントの最中だった。

    ここには英国考古学特有の事情がある。

    イングランドとウェールズでは、土地所有者の許可など必要な条件を満たした金属探知が広く行われ、Portable Antiquities Schemeを通じて一般市民の発見を考古学記録へ組み込む制度が発達してきた。

    政府資料によれば、一般から報告される考古資料の大部分は金属探知者によって発見されており、制度変更とPASの普及によって青銅器時代の埋納研究そのものにも大量の新資料が加わった。

    しかし、「金を見つけた」だけでは考古学として十分ではない。

    本当に重要なのは、

    3本がどの深さにあったか。

    互いにどういう位置関係だったか。

    同じ穴へ入っていたか。

    土器や木製容器が伴っていなかったか。

    周囲に住居、墓、溝などがないか。

    というコンテクストである。

    今回、最初の発見後にスタッフへ報告し、範囲を管理しながら追加探索を行ったことは重要だった。

    一方で耕作によって遺物が本来の位置から動かされている可能性もあり、今後の考古学的調査で「3本が元々一組として埋められたのか」を確認することが決定的になる。


    💷 「6300万円」は、まだ正式価格ではない

    そしてニュースで一番目立つ、

    推定6300万円超。

    これは現時点で確定した鑑定額ではない。

    海外では3点合計30万ポンド超、あるいは40万ドル超などと報道されている。

    金そのものの地金価格だけではなく、

    3000年前という年代。

    完全に近い保存状態。

    3点が一括して発見された希少性。

    考古学的価値。

    が加わった市場評価の予測である。

    2026年8月現在、3点は大英博物館で調査中。

    今後、検視官によるTreasure Act上の「Treasure」認定手続きが行われる。

    英国では該当する遺物は公的手続きを経て博物館が市場価格相当で取得する機会を与えられ、報奨金が発見者や土地所有者などへ分配される仕組みがある。対象となり得る発見は所定期間内に届け出る必要がある。

    したがって、

    「6300万円の黄金を掘り当てて、その場で大金持ちになった」

    という話ではない。

    正式な年代、材質、法的認定、評価額はこれから決まる。

    むしろ大英博物館の分析結果が出れば、金の組成から他地域の製品との関係まで見えてくる可能性がある。





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    ↑仲良さそうな3人でいいね!ちょうど3つ見つかったのも友情のおかげかね!( ・Д・)(「ART news JAPAN」の記事内画像より転載;credit: Alan Daniels)


    🔬 これから調べれば、もっと面白いことが分かる

    個人的には値段より、今後の科学分析の方がはるかに気になる。

    金・銀・銅の含有率。

    微量元素。

    製作工具の痕跡。

    摩耗。

    補修。

    表面に残る土。

    三つの重量と寸法。

    これらを既知の英国・アイルランド産金製腕輪と比較する。

    同じ工房で作られた三本なのか。

    別々の時期に集められた家宝なのか。

    三つすべてが実際に着用されていたのか。

    同じ人物が使える大きさなのか。

    この辺が分かってくると、単なる「黄金3本」から、一つの社会的物語へ変わる。

    特に英国青銅器時代の金製品研究では、型式学だけでなくXRFによる材質分析、製作痕、重量統計まで組み合わせた研究が進んでいる。約1000点を対象とするデータ研究まで成立しており、新たな完形3点セットは比較資料としてもかなり価値が高い。


    🐂 牛の鼻輪に見えたものは、3000年前の「社会関係」だった

    紀元前1100年頃。

    誰かが黄金を手に入れた。

    職人が熱し、叩き、形を整える。

    太い輪となる。

    誰かが腕へ着ける。

    祭りだったのかもしれない。

    政治的な集会だったのかもしれない。

    特別な家系を示す装身具だったのかもしれない。

    何十年も受け継がれた可能性もある。

    そしてある日、三本の黄金が地面へ置かれた。

    敵が来るから隠したのか。

    神々へ返したのか。

    死者を記念したのか。

    それは分からない。

    所有者は戻らなかった。

    集落も消えた。

    言葉も名前も失われた。

    しかし金は錆びなかった。

    3000年後。

    農場の泥の中から輪っかが現れる。

    最初に見た現代人は、

    「牛の鼻輪だ」

    と思った。

    考えてみれば、これほど考古学らしい瞬間もない。

    物だけを見れば、ただの金属の輪である。

    年代も、

    用途も、

    価値も、

    所有者も、

    埋めた理由も、

    何も書いていない。

    私たちが周囲の地層、似た埋納品、製作技術、分布、摩耗痕を一つずつ調べて初めて、

    「3000年前、人間が非常に大切にしていた物」

    へ戻っていく。

    3本の腕輪の市場価格は、最終的に6300万円になるかもしれない。

    もっと高くなるかもしれない。

    だが考古学的に本当に価値があるのは、金そのものではない。

    なぜ当時の人間が、それほど価値のある黄金を“使わず、売らず、溶かさず、土の中へ置く”という選択をしたのか。

    牛の鼻輪にしか見えなかった三つの輪は、青銅器時代の富、権力、交易、信仰、そして所有という概念まで閉じ込めた、3000年前の「社会関係」そのものだったのだ!( ・Д・)





    なにはともあれ……

    ひとり2000万円か、夢あるね!日本では成立したとして税金で持ってかれるだろうから夢ないね!( ・Д・)








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    2026ねん 7がつ26にち(にちよーび、晴れ)

    ずっと涼しくあれ!( ・Д・)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




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    ↑金属探知機系の発見は多いけど、今回のは特に良いね!( ・Д・)





    今回の考古学・歴史ニュースは

    ポーランド北部の森で、金属探知機を使っていた愛好家が、地面へ垂直に突き刺さった約2700年前の青銅剣を発見したけれど、この剣は戦いで落とされたのではなく、誰かが意図的に大地へ捧げたものだったのかもしれないぞ( ・Д・)」

    ってお話です(*・ω・)ノ




    📰 はじめに

    金属探知機が鳴る。

    掘ってみれば、出てくるのはウォッカの瓶の蓋。

    次の反応は、ビールの空き缶。

    さらに薬莢らしき金属片。

    森で金属探知をしていれば、古代の宝よりも、近現代のごみへ反応することの方が圧倒的に多い。

    その日も、また空き缶だと思った。

    ところが砂へ差し込んだ道具の先で、緑色の金属が姿を見せた。

    細長い。

    表面には、幾何学的な線が刻まれている。

    そして何より奇妙だったのは、その向きである。

    剣は横たわっていなかった。

    刃先を下にして、ほとんど垂直に地面へ突き立っていたのだ。

    発見者はポーランドの金属探知愛好家、マルチン・ヴィシニェフスキ。

    場所はバルト海に近い、ポーランド北部グダニスク周辺の森林地帯である。

    剣の年代は、紀元前900~700年頃。

    今からおよそ2700~2900年前。

    ポーランドでは青銅器時代の最終段階に当たり、鉄器時代の入口が見え始めていた頃だった。

    しかしヴィシニェフスキは、剣を引き抜かなかった。

    周囲を掘り広げなかった。

    持ち帰って磨くこともしなかった。

    場所を保護し、文化財当局へ通報した。

    その結果、剣そのものだけではなく、

    どの向きで、どの土へ、どのように置かれていたのか

    という、二度と取り戻せない情報まで残すことができたのである。

    これは「偶然見つかった古い剣」の物語ではない。

    一本の武器が、戦争、権力、金属交易、儀礼、文化財保護を一度につないだ発見なのである!( ・Д・)


    🔔 ごみの反応に交じって、青銅剣が現れた

    発見があったのは2026年6月14日の日曜日だった。

    ヴィシニェフスキは、グダニスク森林管理区域内で許可を受けた金属探知を行っていた。

    何度もごみへ反応した後、探知機が再び金属を示した。

    当初はまた空き缶だろうと思っていたが、土の中へ細長く続く青銅製品を確認し、剣である可能性に気付いたという。

    発見した瞬間には涙が流れたとも伝えられている。

    しかし、彼は興奮したまま剣を引き抜かなかった。

    遺物を再び保護し、発見地点が他人や雨によって荒らされないよう注意したうえで、グダニスクの文化財保護当局と森林管理者へ連絡した。

    翌日以降、文化財保護局の考古学担当者が現場へ入り、小規模な発掘区を設定した。

    雨が降り、気温も低下する中、剣の周囲を薄い層ごとに掘り下げ、位置と角度を記録した。

    剣の周辺から、同時に埋められた土器、装身具、人骨などは確認されなかった。

    一本だけが、砂質の土へ立つように残されていたのである。


    🖐️ 本当の功績は、「見つけたこと」だけではない

    金属探知機による発見では、見つけた人物がそのまま遺物を掘り出してしまうことがある(というかほぼ100%そうする( ・Д・))。

    すると、剣は手に入る。

    しかし、

    どの高さにあったのか。

    どちらを向いていたのか。

    周囲の土が一度掘り返されていたのか。

    細かな炭、木片、植物、革、布が伴っていなかったか。

    こうした情報は失われてしまう。

    今回、発見者が作業を止めたことで、考古学者は剣が垂直に近い状態だったことを現場で確認できた。

    「地面へ突き刺さっていた」という事実は、発見後に作られた物語ではなく、発掘時に記録された考古学的情報となった。

    剣一本の金銭的価値ではなく、その周囲に残る見えない情報を守ったのである。

    文化財当局が発見者の対応を高く評価したのは、そのためだった。




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    ↑発見当初はこんな感じ、確かに素人の掘り方だね!( ・Д・)(「CZASOPISMO」の記事内画像より転載;credit:  Marcin Wiśniewski


    ⚔️ 剣は、長さ60センチを超えていた

    発見された剣は、全長およそ60センチメートルを少し超える。

    そのうち約6センチメートルは、握りを取り付けるための細い茎状部分――「茎」や「なかご」に相当する部分である。

    青銅製の刃だけが残り、本来そこへ取り付けられていた木、角、骨などの握りは腐朽して失われた可能性が高い。

    刃は根元付近で幅が広く、その後は大きく幅を変えずに延び、先端近くで鋭く細くなっている。

    表面には二本の平行する溝があり、その周辺には弧状の刻線や短い横線が並ぶ。

    ただ人を切るためだけではなく、見られることも意識して作られた剣だったことが分かる。

    表面を覆う緑色は、最初から塗られていた色ではない。

    青銅が長期間土中の水分や鉱物と反応し、銅化合物を含む腐食層――パティナを形成した結果である。

    腐食は金属を傷める一方、条件によっては表面に安定した層を作り、細かな装飾や元の形を保護する場合もある。

    ただし土から出した瞬間から、湿度や温度の変化によって腐食状態が変化する。

    今後は専門の保存処理を受け、内部のひびや組成も調べられることになる。


    🗓️ 「紀元前900~700年」は、どうやって決めたのか

    青銅そのものには、放射性炭素年代測定を直接適用できない。

    金属には、生物由来の炭素が含まれていないからである。

    周囲に年代測定可能な木、炭、骨がなければ、剣の形や製作技術を、年代の分かっている他の資料と比較して年代を決めることになる。

    今回の剣は暫定的に、ポーランドの青銅器時代区分における第5期、紀元前900~700年頃とされた。

    この時期区分は、すべての国で共通する万能の年代表ではない。

    ヨーロッパ各地では青銅器時代から鉄器時代への移行時期が異なり、地域ごとに独自の編年が作られている。

    ポーランド北部では、まだ青銅剣や青銅装身具が重要な位置を占める一方で、南方や西方から鉄器技術の影響も近づいていた時代だった。


    🌍 同じ頃、世界では何が起きていたのか

    紀元前900~700年頃は、地中海世界ではギリシアの都市社会が再編され、後のポリスへつながる動きが進んでいた。

    西アジアでは新アッシリア帝国が拡大し、中国では西周から東周へ移る大きな政治変動が起きた。

    日本列島では縄文時代の終末から弥生時代の開始にかけての年代が議論される時期に当たる。

    ポーランド北部の森へ剣が置かれた頃、世界の各地では文字を持つ国家が発展していた。

    しかしバルト海沿岸の人々が、遅れた孤立社会だったわけではない。

    琥珀、青銅、武器、装身具、製作技術が、河川と海を通じて広い範囲を動いていた。

    文字による記録が残らないため名前が分からないだけで、彼らも複雑な交易網と社会関係の中で暮らしていたのである。





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    ↑文様のアップ!( ・Д・)(「CZASOPISMO」の記事内画像より転載;credit:  Marcin Wiśniewski


    🏘️ 剣の時代には、ビスクピンのような集落も生まれた

    今回の剣より少し新しい紀元前8世紀頃、現在のポーランド中北部では、湖に囲まれたビスクピンの防御集落が築かれた。

    木材年代学によって、建設用の木の多くが紀元前748~747年頃に伐採されたことが明らかになっている。

    木造の城壁、門、整然と並ぶ道路、ほぼ同規模の家屋を備えた集落であり、ポーランド先史考古学を代表する遺跡となった。

    もちろん、グダニスクの剣を置いた人物がビスクピンに住んでいたという意味ではない。

    両地点は離れており、地域差もある。

    それでも今回の剣が作られた時代のポーランド低地では、人々が小さな家族だけで散在するのではなく、多数の住民が協力して木材を伐採し、防御施設や計画的集落を築ける社会が形成されていた。

    一本の剣も、そのような人口、技術、交換、政治的緊張の中から生まれたものだった。


    🏺 「ルサチア文化」は民族名ではない

    この時代のポーランドを説明するとき、しばしば「ルサチア文化」という名称が使われる。

    現在のポーランドを中心に、ドイツ東部、チェコ、スロバキアなどへ広がった、後期青銅器時代から初期鉄器時代の考古学的文化である。

    火葬した遺骨を土器へ納める墓地、特徴的な土器、青銅製品、集落などによって分類されてきた。

    しかし「ルサチア文化人」という一つの民族が、同じ言語と政治組織を持っていたと決まったわけではない。

    考古学的文化とは、似た物質文化が分布する範囲を研究者が整理した分類である。

    一つの文化圏の中に、異なる集団、言語、地域社会が含まれることもある。

    今回の剣も、形と年代から周辺文化との関係を考えることはできるが、所有者の民族名までは分からない。

    後世のスラヴ人、ゲルマン人、バルト系集団の名前を、そのまま紀元前8世紀へ当てはめることはできないのである。


    🟤 青銅は、ただの「銅色の金属」ではない

    青銅は、主として銅へ錫を加えて作る合金である。

    柔らかい純銅へ錫を混ぜることで、硬さ、鋳造性、耐摩耗性を調整できる。

    しかし銅鉱石と錫鉱石は、常に同じ場所から採れるわけではない。

    一本の剣を作るためには、原料を採掘し、精錬し、運び、適切な割合で溶かし、鋳型へ流し込み、冷却後に叩き、研磨し、刃を整える必要があった。

    長い剣身を、気泡や亀裂を生じさせずに鋳造するには、高度な経験がいる。

    失敗すれば、貴重な金属を再び溶かさなければならない。

    そのため青銅剣は、誰もが日用品として持てる物ではなかった。

    ポーランドの森林当局は、当時の剣が牛の群れ一つに相当するほど高価だった可能性を紹介している。

    正確な古代価格を計算することはできないが、大量の金属と熟練労働を必要とする特別な財だったことは確かである。





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    ↑専門家を呼んだので綺麗に壁が立ってるね!( ・Д・)(「CZASOPISMO」の記事内画像より転載;credit:  Pomorski Wojewódzki Konserwator Zabytków


    🔥 青銅剣は、どうやって作られたのか

    まず、完成品に近い形を持つ鋳型へ、溶かした青銅を流し込む。

    鋳型は石や粘土で作られ、二枚を合わせる形式や、蝋で原型を作る方法などが知られている。

    冷却後、鋳型の合わせ目に生じた余分な金属を削る。

    刃先を叩いて硬化させる。

    表面を研磨し、溝や刻線を加える。

    最後に、木や角などの握りを取り付ける。

    今回の剣には細い茎状部分があるため、そこへ有機質の握りを固定していたと考えられる。

    今後X線撮影を行えば、目で見えない内部の空洞、鋳造欠陥、修理、金属の接合部分が分かる可能性がある。

    金属組成を調べれば、銅と錫の比率だけでなく、鉛や砒素などの微量元素も明らかになる。

    同地域の剣や青銅器と比較することで、地元の工房で作られたのか、遠方から運ばれたのかを検討できるかもしれない。


    ⚔️ 青銅剣は、本当に戦える武器だったのか

    かつては、青銅剣は柔らかく、実戦には向かない儀礼用品だったというイメージもあった。

    しかし実験考古学と使用痕研究は、この見方を大きく変えた。

    復元した青銅剣、槍、盾を実際に使用し、刃に生じる傷を出土品と比較した研究では、青銅剣が切撃と刺突の両方に使用できたことが示されている。

    多数の青銅剣には、刃同士の接触、盾や槍との衝突、再研磨による痕跡が確認される。

    使いこなすには、刃を無理に打ち合わせない角度、身体の動き、間合いを学ぶ必要があった。

    青銅剣は単なる飾りではなく、訓練を受けた人物が扱う実用的な武器だったのである。

    もちろん、すべての剣が戦闘で使われたとは限らない。

    未使用のまま儀礼へ捧げられた剣もあっただろう。

    重要なのは、

    武器か儀礼品か

    という二者択一ではない。

    戦える武器だったからこそ、権力や生命を象徴し、儀礼にも大きな意味を持ったのである。


    👑 剣を持つことは、戦士であること以上の意味を持った

    青銅剣を所有するには、金属、職人、交易相手へ接近できる立場が必要だった。

    剣を携える人物は、戦闘能力だけでなく、富、仲間、家系、政治的権威を示した可能性がある。

    剣の表面へ刻まれた装飾は、戦闘中の性能には直接必要ない。

    それでも職人は手間をかけて線を彫った。

    所有者が人前で剣を帯びたとき、刃を抜いたとき、儀礼で掲げたとき、その美しさが見られることを意識していたのだろう。

    剣は人を傷つける道具であると同時に、

    「私はこの金属を手に入れられる」

    「この武器を持つ資格がある」

    「この集団を守り、率いる立場にある」

    と示す社会的な装置でもあった。

    だからこそ、一本を地中へ置く行為は、大きな価値を共同体から消すことでもあった。





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    ↑考古学者が掘るとこうなる!( ・Д・)(「CZASOPISMO」の記事内画像より転載;credit:  Marcin Wiśniewski


    🌍 なぜ、貴重な剣を地面へ埋めたのか

    考古学者は、地中から単独で見つかる武器について、いくつもの可能性を考える。

    戦闘や移動中に落とした。

    壊れたため捨てた。

    盗難を避けるため隠し、所有者が回収できなくなった。

    墓へ副葬したが、人骨や墓の痕跡が失われた。

    金属を再利用するため、原料として集めていた。

    神、祖先、川、湿地、大地へ捧げた。

    今回の剣には、同時に置かれた他の遺物が確認されていない。

    墓も見つかっていない。

    したがって、現段階で「祭祀用の奉納品」と断定することはできない。

    しかし高価な剣が垂直に近い姿勢で残り、簡単に落としたとは考えにくいことから、意図的な埋納だった可能性が注目されている。


    🗡️ 刃先を下へ向けたのは、儀礼だったのか

    剣が刃先を下にして立っていたなら、誰かが地面へ突き刺した場面を想像したくなる。

    戦士が勝利を神へ感謝し、自分の剣を大地へ返した。

    亡くなった持ち主の魂を鎮めるため、武器を使用不能にした。

    湿地や森の境界へ、領域を示す標として置いた。

    そのような物語は魅力的である。

    しかし考古学では、姿勢だけから儀礼を確定できない。

    木の根が成長して剣を動かした可能性。

    斜面の土が流れ、周囲だけが失われた可能性。

    もともと穴へ斜めに置かれ、土圧によって角度が変わった可能性。

    近現代の掘削で土が動いた可能性も確認しなければならない。

    今回の発見地点が砂質土だったことも重要である。

    砂は排水性が高い一方、移動しやすい。

    発掘断面、周囲の地層、腐食の偏り、刃に付着した土を詳しく調べることで、垂直姿勢が埋納時から続くものかを判断していく必要がある。

    「儀礼だったかもしれない」というのが、現在最も正確な表現なのである。


    💧 ヨーロッパ青銅器時代では、水辺へ武器が捧げられた

    ヨーロッパの青銅器時代には、剣、槍、斧、装身具などが、川、湖、湿地、泉から発見される例が数多くある。

    壊れた武器がまとめて埋められる場合もあれば、完全な剣が一本だけ水辺へ置かれる場合もある。

    水路で失った物や、戦闘後の武器が混ざる可能性はある。

    それでも、使用可能で高価な武器が繰り返し水辺へ置かれることから、宗教的・社会的な奉納と解釈される例も多い。

    剣に戦闘時の傷を残したまま、修理せずに埋納する行為は、その武器の「生涯」を終わらせる儀礼だった可能性が指摘されている。

    今回の森が、2700年前にも現在と同じ乾いた森だったとは限らない。

    周辺にはかつて湿地、池、細い水流が存在した可能性がある。

    花粉、珪藻、泥炭、堆積物を調べれば、剣が置かれた当時の環境を復元できるかもしれない。

    現在の森林景観だけを見て、古代の景観を決めつけてはいけないのである。





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    ↑全体がしっかり残ってるね!( ・Д・)(「CZASOPISMO」の記事内画像より転載;credit:  Pomorski Wojewódzki Konserwator Zabytków


    🗺️ 100年前にも、近くの湿地から二振りの剣が出ていた

    今回の発見には、奇妙な前史がある。

    1920年代、現在のグダニスク森林管理区域内にあるリナルジェヴォの泥炭地から、青銅製の剣二振りが発見されていた。

    柄の先端が左右へ湾曲し、触角のように見えることから「アンテナ形柄頭剣」と呼ばれる型式だった。

    二振りは当時のグダニスク地方博物館へ収蔵された。

    しかし第二次世界大戦中に行方不明となり、現在まで確認されていない。

    約100年前に見つかり、戦争によって失われた二振り。

    そして2026年に見つかった新しい一振り。

    今回の剣が同じ集団、同じ儀礼、同じ工房に属するとは限らない。

    それでも、同じ森林地帯で後期青銅器時代の剣が繰り返し発見されている事実は、この地域が単なる偶然の落とし物地点ではなかった可能性を高める。

    古代の水辺、道、境界、祭祀地点が、現代の森の下に残っているのかもしれない。


    📡 今回の剣を「アンテナ剣」と呼んでよいのか

    一部の報道では、今回の剣もアンテナ形柄頭剣として紹介されている。

    しかし公開写真で明瞭に確認できるのは、細い茎を持つ剣身と、失われた握り部分である。

    左右へ湾曲するアンテナ状の柄頭そのものは、残っていないように見える。

    現段階では、

    茎を持ち、有機質の握りを装着していた青銅剣

    という説明が最も安全である。

    保存処理や型式研究の結果、特定のアンテナ剣型式と判定される可能性はある。

    だが、1920年代に見つかった二振りがアンテナ剣だったからといって、新しい剣まで自動的に同型式になるわけではない。

    考古学では、似た年代と場所だけで分類せず、刃、茎、柄、断面、装飾を細かく比較する必要がある。

    ポメラニア地方で見つかった別の後期青銅器時代剣については、形態比較やX線調査によって地元製のアンテナ剣と判断され、柄内部へ鉛を詰めた特殊な構造まで明らかになっている。

    今回の剣も、外見だけでは分からない構造を内部に持っているかもしれない。


    🔬 保存処理後に、何が分かるのか

    剣は今後、博物館や保存施設で詳しく調べられる。

    まず、表面の土や不安定な腐食生成物を少しずつ除去する。

    ただし、緑色のパティナをすべて磨き落とすわけではない。

    腐食層には、元の表面、研磨痕、刻線、布や木の痕跡が残る場合があるからである。

    X線撮影やCTでは、内部の亀裂、鋳造欠陥、修理、異なる金属の接合を確認できる。

    蛍光X線分析などを使えば、青銅の組成を大きく傷つけずに調べられる。

    顕微鏡で刃を見ると、

    実際に研ぎ直されたか。

    戦闘による欠けがあるか。

    埋納前に意図的に曲げたり壊したりしたか。

    ほとんど使用されていないか。

    といった剣の履歴を復元できる可能性がある。

    さらに腐食層に木、革、角、植物繊維の微細な痕跡が残っていれば、失われた握りや鞘についても手掛かりが得られる。





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    ↑発見者のマルチンさん!( ・Д・)(「CZASOPISMO」の記事内画像より転載;credit:  Pomorski Wojewódzki Konserwator Zabytków


    🧭 剣の金属は、どこから来たのか

    金属組成だけで、鉱山を一意に決めることは難しい。

    青銅は何度も溶かされ、異なる原料が混ぜられるからである。

    それでも鉛同位体や微量元素を、他の青銅製品や鉱石資料と比較すれば、原料供給圏を検討できる場合がある。

    バルト海沿岸は琥珀で知られ、先史時代から南北交易の重要地域だった。

    琥珀が南へ運ばれ、代わりに金属、塩、装身具、技術が北へ入った可能性がある。

    今回の剣が地元の職人によるものなら、ポーランド北部に高度な剣製作工房が存在したことを補強する。

    遠隔地製なら、この地域の有力者が広い交換網へ参加していたことを示す。

    どちらであっても、剣は一人の戦士だけで作れる物ではない。

    採掘者、精錬者、運搬者、鋳造職人、研磨職人、交易者という、多数の人間の仕事が一本に集まっている。


    🧑‍🌾 剣を埋めたのは、誰だったのか

    所有者自身が埋めたのか。

    家族が死者を記念して置いたのか。

    共同体の指導者が儀礼を行ったのか。

    戦勝後に敵の剣を捧げたのか。

    金属職人が失敗作を処分したのか。

    現在のところ、人物像を決める証拠はない。

    剣の大きさだけから、所有者を成人男性と考えることもできない。

    青銅器時代の武器と性別の関係は、地域や墓制によって異なる。

    女性が武器を所有した例や、武器が個人ではなく家系・共同体の象徴だった可能性もある。

    人骨を伴わない単独出土剣では、持ち主の年齢、性別、身分を直接知ることはできない。

    だからこそ、剣が置かれた景観と、近隣の集落・墓地・埋納遺構を探す必要がある。

    一本だけを豪華な美術品として切り離すのではなく、周囲の遺跡分布へ戻すことが重要なのである。


    📜 金属探知機は、考古学の敵なのか

    金属探知機は、地下の遺物を発見する強力な道具である。

    一方で、無許可の探索によって遺物が持ち去られ、遺跡が破壊される問題も世界各地で起きている。

    そのため「金属探知愛好家」と「考古学者」は、対立する存在として語られることがある。

    しかし問題なのは機械そのものではなく、使い方である。

    ポーランドで文化財を目的とする探索を行うには、所管する文化財保護官への申請、土地所有者の同意、探索範囲と方法を記した計画などが必要になる。

    国有林では森林管理者の許可も求められる。

    今回の探索は、合法的に実施されていた。

    発見者は当局と以前から協力関係を持ち、前年にも同じ森林地帯で青銅器時代末から初期鉄器時代に関係する装身具のまとまりを報告していた。

    発見後も自己判断で掘らず、専門家へ引き継いだ。

    金属探知愛好家と文化財行政が適切に協力すれば、農地や森林の広大な範囲から、通常の発掘だけでは見つけにくい遺物を発見できる。

    今回の剣は、その好例なのである。






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    ↑今回の発見はポーランドのポメラニア県だよ、ポメラニア地方の考古学も有名だよ!( ・Д・)(ごめん、どっかから拾ってきたポメの写真!( -д-)ノ)


    🕳️ 剣を抜いた瞬間、失われるもの

    仮に発見者が剣を引き抜き、自宅へ持ち帰ったとする。

    剣自体は残る。

    長さも測れる。

    装飾も見られる。

    金属組成も調べられる。

    しかし、垂直姿勢だったことを第三者が証明できなくなる。

    写真を撮っていたとしても、周囲の土が掘り返された後では、最初からその姿勢だったのか分からない。

    小さな木片や炭が落ちていても、ごみとして捨ててしまうかもしれない。

    剣が入っていた細い穴の形も消える。

    地層の切れ目も壊れる。

    すると「儀礼的に大地へ刺した」という仮説を検証する材料がなくなる。

    考古学資料の価値は、物の珍しさだけではない。

    位置と関係にある。

    どこにあったか。

    何と一緒だったか。

    何より上で、何より下だったか。

    発見者が剣を抜かなかったことで、2700年前の行為を考えるための最後の一瞬が守られたのである。


    🏛️ 剣は、どの博物館へ行くのか

    発見された剣は文化財保護当局の管理下に置かれ、保存処理と研究を受ける。

    その後、どの地域博物館へ収蔵するかは、ポメラニア県の文化財保護官が決定する予定である。

    現時点では、収蔵先は確定していない。

    1920年代に発見された二振りが戦争で失われたことを考えると、今回の剣を記録し、公開し、次世代へ引き継ぐ意味は大きい。

    保存処理前、処理中、処理後の三次元データを残す。

    金属分析結果を公開する。

    発見地点の環境調査を行う。

    過去に失われた剣の写真・図面とも比較する。

    そうすることで、新しい一振りは、失われた二振りの研究を部分的に引き継ぐこともできるだろう。


    🌲 森そのものが、巨大な遺跡なのかもしれない

    現在の森林は、自然だけで作られた空間ではない。

    植林、伐採、道路建設、戦争、農地化、再森林化など、人間の活動が何層にも重なっている。

    さらにその下には、現在の樹木より古い道、集落、墓地、耕作地、祭祀地点が残ることがある。

    グダニスク周辺の森では、今回の剣だけでなく、過去にも青銅器・初期鉄器時代の金属製品が発見されている。

    点として発見された剣や装身具を地図へ重ねれば、特定の湿地、谷、尾根、古道へ集中する可能性がある。

    そこで初めて、

    なぜこの場所だったのか。

    見晴らしの良い境界だったのか。

    水辺だったのか。

    集落から離れた聖域だったのか。

    という問いを検討できる。

    森を一本の剣が出た場所としてではなく、長期間にわたって利用された文化的景観として研究する必要がある。


    ⚔️ 剣を突き立てた者は、戻ってくるつもりだったのか

    約2700年前、誰かが一本の剣を持って森へ入った。

    剣は新品だったのかもしれない。

    何度も戦闘で使われ、刃を研ぎ直した物だったのかもしれない。

    亡くなった人物から受け継いだ剣かもしれない。

    その人物は穴を掘った。

    あるいは柔らかな湿地の地面へ、刃を押し込んだ。

    そして剣から手を離した。

    大切な財を隠し、後で取りに戻るつもりだったのか。

    二度と人間が使わないよう、大地へ返したのか。

    神や祖先に願いを伝えたのか。

    敵から奪った武器を、勝利の証しとして捧げたのか。

    答えは、まだ分からない。

    ただし、地面へ垂直に残された姿勢は、一本の剣が単に「なくなった」のではなく、誰かの意図によってその場所へ移された可能性を強く感じさせる。

    そして2700年後。

    その剣を見つけた人物は、古代の持ち主とは反対の選択をした。

    剣を自分の物にしなかった。

    地面から抜かなかった。

    誰にも知られない収集品にせず、専門家へ託した。

    そのおかげで、私たちは美しい青銅剣だけではなく、

    剣が最後に置かれた瞬間

    について考えられる。

    最も重要な発見は、剣そのものではないのかもしれない。

    刃先が下を向いていたこと。

    一本だけで立っていたこと。

    発見者がそこで手を止めたこと。

    その三つが重なったからこそ、青銅器時代の森で行われた一つの行為が、現代まで届いたのである。

    ポーランド北部の地面へ突き立っていたのは、単なる古い武器ではない。

    戦士の力、職人の技術、遠距離交易、共同体の記憶、そして大地へ何かを託した人間の思いが凝縮された、2700年前の「最後の動作」だったのだ!( ・Д・)





    なにはともあれ……

    ポメラニア県ってあの犬のポメラニアンの由来の土地だって!( ・Д・)








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    2025ねん 12がつ 25にち(もくよーび、くもり)

    昨晩飲み過ぎて胃腸にダメージ入ってるぜ!メリークリスマス!( ・Д・)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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    今回の考古学・歴史ニュースはスコットランドで、3300年前の集団火葬遺体を発見!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ



    📰はじめに

    ……いや、集団? しかも 火葬された遺体が、まとめて壺に入っている って、情報量が多すぎる。

    戦争?疫病?それとも事故?あるいは、私たちが想像もしていない “死の扱い方” が、そこにあったのか。今回の発見は、スコットランドの青銅器時代社会を一気に“ミステリー側”へ引きずり込むタイプのニュースです。しかも、遺体は少なくとも 8人分


    一人や二人じゃない。「まとめて」なんです。今日はこの、「静かに、しかし異様な死の風景」を、「あるけまや」視点でじっくり覗いてみましょう。



    🗺️ 発見されたのはどこ?舞台はスコットランド南部の青銅器時代遺跡

    発見現場は、**スコットランド**南部。
    道路建設やインフラ整備に先立つ調査の中で、考古学者たちが異変に気づきました。

    地中から現れたのは、複数の土器(埋葬用の壺)
    そしてその中には、焼かれた人骨が詰め込まれていた。

    年代はおよそ 3300年前(紀元前1300年ごろ)
    スコットランドがまだ文字を持たず、金属文化と共同体がゆっくりと成熟していく、青銅器時代の終盤です。



    🏺 壺の中に何が入っていた?──少なくとも8人分の火葬遺体

    調査の結果、壺の中から確認された人骨は、最低でも8人分
    しかも、

    • 年齢も

    • 性別も

    • 体格も

    完全には一致しない可能性がある。

    つまりこれは、「一族の墓」というより、
    “ある出来事”を共有した人びとの集まり だった可能性が高い。

    ポイントはここ👇

    • 同じ時期に死亡した可能性

    • 同じ場所で火葬された痕跡

    • 同じ壺(またはごく近接した壺)にまとめられている

    偶然とは思いにくい構造です。




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    ↑ごちゃごちゃ入ってるね!( ・Д・)(「Live Science Plus」の記事内画像より転載)


    🔥 なぜ“まとめて火葬”されたのか?考古学者たちの困惑

    火葬自体は、青銅器時代のスコットランドでは珍しくありません。
    でも問題は 「人数」と「扱い方」

    通常の火葬埋葬は、

    • 個人ごと

    • せいぜい家族単位

    • 壺も分ける

    のが一般的。ところが今回は、
    複数人が、ひとまとまりで、同じ容器に収められている。研究者たちが挙げている可能性は、だいたい次の3つ。

    • 🦠 疫病や中毒などの突発的災害

    • ⚔️ 集団的な暴力・争いの結果

    • 🌊 火事や事故など、避けられない悲劇

    ただし――
    どれも決定打がない。

    骨には明確な外傷が見つかっていない場合もあり、
    「戦争だ!」と即断できないのが、この発見の不気味なところ。




    🧠 重要なのは“死因”より“対応”:共同体はどう行動したか

    ここで視点を変えましょう。

    大事なのは、なぜ彼らが死んだか だけじゃない。
    死んだあと、周囲の人びとがどう行動したか です。

    • きちんと火葬されている

    • 骨が集められ、壺に納められている

    • 無造作に捨てられていない

    これは、混乱の中でも、儀礼を維持しようとした共同体の姿を示している。

    つまりこの集団火葬は、パニックの痕跡ではなく、秩序を守ろうとした結果 かもしれない。

    ここ、めちゃくちゃ人間くさい。




    🏞️ 青銅器時代のスコットランド社会が一気に立体化する瞬間

    3300年前のスコットランド。小規模な集落。血縁と地縁で結ばれた社会。

    そこで起きた「何か」。それが大きな出来事だったからこそ、
    “まとめて弔う”という、例外的な行為 が選ばれた。

    この発見は、

    • 青銅器時代社会の危機対応

    • 死者への倫理観

    • 共同体の結束

    を、静かに、しかし確実に語ってきます。派手な黄金も、王の墓もない。
    でもこれは、人類史の核心に触れる発見 です。



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    ↑遺構全景!( ・Д・)(「Live Science Plus」の記事内画像より転載)



    おわりに

    スコットランドって青銅器時代は火葬が一般的だたのね。知らんかた( -д-)ノ やっぱ火葬すると壺に詰めたくなるのは世界共通なのだろうか。海や宇宙とかに灰をばらまくパターンもあるけれど、まぁ基本は壺だよね。平安時代の武士が火葬されて壺に詰められた事例があるはず。現代日本の骨壺に通じるものがあるよね~。


    何はともあれ・・・・・・

    焼きっぱなしはないよね!( ・Д・)






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    2025ねん 10がつ 1にち(げつよーび、晴れ)

    8月9月大学休みだからって図書館閉館時間早くて死ぬ!( -д-)ノ

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



    今回の考古学・歴史ニュースはやぱこの遺跡はレベチ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ




    中国の三星堆遺跡はこれまでも扱ってますね~。

    「古代の宇宙人」とかで大好きそうな見た目なのに使ってるの見たことないや~(*^・ェ・)ノ








    ってことで以下が今回の記事!(*・ω・)ノ




    ✨ 魅惑の序章:埋もれた文明が、今、目覚める

    地中から顔を出す巨大な青銅仮面。刻まれた幾何学模様と複雑な文様。かつて「失われた王国」と呼ばれた古蜀の遺産・三星堆(サンシンデイ)。その出土品は、その奇異さゆえに、世界中の考古学者と好奇心を掻き立てる人々を魅了してきた。

    しかし、近年の発掘と分析は、それらをただの“奇怪な美術品”と見るにはあまりに多くの手がかりを与えている。金・玉・絹・象牙・水路遺構……3000年前の宗教、技術、都市構造、外交関係。それらをひとつの文明として編み直そうとする試みが、今まさに進行中だ。

    この記事では、最近公開された国内外の記事を元に、三星堆遺跡の新たな発見と、それが投げかける新たな謎を「あるけまや」風に、じっくり、長めに、読み応えある語りでお伝えする。






    🏺 出土品の数と“保存形態”がもたらす意味

    まず驚くことに、2022年–2024年の新発掘では、6基の新たな「祭祀坑(さいしこう)」から、1万5,109点以上の文化財が発見され、そのうち4060点ほどがほぼ原型をとどめていたと報じられている。


    また、これまでの祭祀坑と併せて整理された出土品は、金、青銅器、玉石器、象牙、絹布など多岐にわたる。 特に注目すべきは、青銅製品が“完全な形”で出てくる例が増えてきたという点だ。


    これまでは、祭祀坑内に“破壊・焼却・意図的な破片化”された遺物が混在することが多く、「あえて壊して祭祀に使った」「再生できないかたちで捧げられた」とする仮説が唱えられてきた。


    しかし、原型を保つ出土品の増加は、「破壊だけが目的ではなかった」可能性を示している。たとえば、ある青銅仮面や神獣像が保存された状態で遺跡から出てきたことは、それらが“遺物としての役割”を超えて、ある種の恒常的な信仰対象や権威の象徴だったことを示唆するかもしれない。




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    ↑黄金はいいぜ~( ・Д・)(「Smithonian Magazine」の記事内画像より転載;credit: China’s National Cultural Heritage Administration



    🛠 玉石器工房の発見:技術と流通の地平を変える

    もっとも衝撃的な発見の一つが、「玉石器(ぎょくせっき)」の生産・加工を行った工房跡である。


    この発見は、出土品を「輸入品」「贈与品」などと片付けがちだった過去の見方を揺さぶる。なぜなら、これによって「玉器・石器は三星堆地域で生産されていた可能性」が具体的裏付けを持つからだ。


    この工房は祭祀坑が稼働する時期よりも古く、約3500~3400年前、商(殷)代中期に位置する可能性が示されている。 出土したのは、原料、未加工品、破片、完成品といった品々。これらを通じて、当時の技術構成・原料供給・流通経路・部門分業の実態が浮かび上がろうとしている。


    この「手工業チェーン」の発見は、これまで断片的にしか語られなかった三星堆文明の“ものづくり力”を、初めて系統立てて描くチャンスとなる。






    🌌 絹の発見と「天–地」信仰の復元

    2024年、考古学者たちは三星堆の祭祀坑遺構から、「絹(シルク)」の存在を直接示す証拠を発見したと発表した。これは、三星堆における初の絹の確証であり、約3000年前の儀礼において絹が用いられていた可能性を示すものだ。


    この発見が特に魅力的なのは、絹という「飛翔する素材」が、天と地をつなぐコミュニケーション手段として祭祀に用いられた可能性を示唆する点だ。当時の人々が、「見えない世界」と「具体的世界」を結びつけようとした儀礼文化を、物質面から裏付ける手がかりになりうる。


    過去には、絹の産地や流通経路が謎とされてきたが、三星堆での絹の実証は、その交流圏の拡大、交易ルート、技術伝播という大きなテーマを呼び起こす。




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    ↑ほんと黄金はいいぜ~( ・Д・)(「Smithonian Magazine」の記事内画像より転載;credit: China’s National Cultural Heritage Administration



    🌊 都市構造と水路遺構:古代都市を再構築する手がかり

    三星堆遺跡の発掘は、もはや「出土品」を超え、古代都市の骨格を浮かび上がらせる段階にまで来ている。


    特に2024年初めの発表によれば、玉工房近傍から、6000平方メートルを超える三段階のテラス、木竹構造の基壇遺構、水路・堀・排水構造群が発見され、東南部では水路が町全体を貫く可能性が示されている。 これによって、三星堆が単なる礼拝空間ではなく、計画性をもった集落あるいは都市としての側面を備えていた可能性が高まった。


    また、水路遺構の解析では、自然水流と意図的な排水・堀構造を区別できるという報告もあり、都市インフラとしての水管理が行われていた可能性が浮上している。


    このような構造証拠は、三星堆を“宗教空間”以上に、生活と儀礼が混在する多機能な中核拠点として見直す方向を後押しする。






    🐘 象牙と隠蔽の戦略:象との関係、権力の象徴

    近年の出土報告では、青銅器などが「象牙の下に隠されていた」ケースが複数あり、意図的な埋蔵という視点が注目されている。 象牙は「高貴な副葬物」「交易品」「象徴性の高い素材」として認識されており、それを覆って器物を埋めるという行為は、戦略的・宗教的な意味合いが強いと考えられる。


    また、象牙そのものの出土は、当時の交易圏が遠方に及んでいた可能性を示唆する。アジアゾウのものと推定される大型の象牙が、三星堆首長圏に持ち込まれていた、という分析もある。


    このような重層的な“隠蔽戦略”と“物質の象徴性”を解きほぐすことは、三星堆の社会構造と宗教構成を理解するうえで避けて通れない編成要因となっている。





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    ↑これ自分の現場で出たら泣き叫ぶと思う……( ・Д・)(「Smithonian Magazine」の記事内画像より転載;credit: China’s National Cultural Heritage Administration



    ❓ 新たな謎:金の産地、青銅工房、統合文明

    ここまで見てきたように、三星堆研究は発展を続けながらも、多くの謎を抱えている。特に注目すべき未解決課題を、以下に整理しておこう。

    1. 金製品の供給源と量の謎
       修復が進んだ金製出土品の総重量はすでに1.5 kgを超え、未修復品を含めれば約2 kgに達すると報じられている。 この量は、同時期の他文化圏と比較して異例だとされ、金の採掘や流通ルートの所在が大きな謎になっている。

    2. 青銅工房の所在と体系性
       玉石器工房は発見されたが、青銅器(器具、仮面、神獣像など)の製作拠点がまだ確認されていない。出土品をただ輸入・交換の結果とみなす仮説も多いが、青銅器製作用の冶金・鋳造施設を発見できなければ、この仮説は揺らぎ続けるだろう。

    3. 多文明融合と固有性のバランス
       三星堆出土品には、中原(黄河域)との類似性を示す形制も見られるが、それらをどう位置づけるかは議論の余地がある。中原文明の影響なのか、同時代別文明の交流の結果なのか。三星堆文明を「中央王朝の一部」とみるか、「並存する独自文明」とみるか、その曲線上の位置をめぐる見解が揺れている。

    4. 象徴表現の意味論
       大きな目、奇怪な顔、神獣、動植物の混合モチーフ――これらの造形表現には、信仰儀礼、超自然への意志、政治的表象など複数の意図が重なっている可能性が高い。これを読み解く鍵は、類例文明(如く殷・周時代)との比較と、三星堆自身の文脈統御だが、まだ明確な一貫構造は見えていない。

    5. 都市統治・インフラ機能の実態
       水路・排水施設、テラス基壇、都市配置……これらは都市域の骨格を形作るものであり、三星堆が実際の都市機能を持っていたかどうかを問う重大な証拠になる。現段階では部分的な発見にとどまり、全体像再構成には至っていない。

    6. 時間軸の複層構造
       祭祀坑に埋蔵された時期と、工房稼働時期、都市構造整備期が必ずしも一致していない可能性がある。時代を重ねて機能が変化したのか、重層文明が折り重なっていたのか。時間軸をどう重ね合わせるかは、研究者たちの肝となる課題だ。





    🧭 終わりに向けて:まだ見ぬ声を聞くために

    この記事では、三星堆遺跡の最近の発見と、それが示す可能性・謎を可能な限り紡ぎ出してみた。だが、出土品が語りかけてくるその「声」は、まだ完全には解読されていない。

    研究の最前線では今日も修復、分析、比較、試論が繰り返されている。次の発表では、金の産地が特定されるかもしれない。青銅工房が見つかるかもしれない。形象表現の「意味論」が新たに書き換えられるかもしれない。

    三星堆の3000年前の出土品は、私たちにこう問いかける──「失われた声を、どう聞くか」。その答えは、これからの考古学と人文学の叡智に委ねられている。




    arukemaya_y203




    おわりに

    遺物の出方がエグいのよね~。

    青銅器も金も他の遺物に比べて保存されやすいからってのもあるんだけれど、こんな組み合わせは例を見ないと思う。


    まぁ考古学者ってたくさん遺物を見てるせいか、遺物出ても嬉しくないのよね。

    感情死んでるw

    身の周り見ててもそういうパターンは多い。



    ま、たまには喜ぶけどね!ヾ(´ω`=´ω`)ノ



    私の場合は、自分で作ってる数式上、ここの建造物をこの堆積で掘ればこれこれの遺物がそれぞれこれくらい出るはずっていう予測が立ってるからそれに即して出てくれるとめちゃ嬉しい。

    でも膨大に出る土器破片群を見て、「もういいよ( ・Д・)」ってなる。




    だって、洗浄とか注記はやってもらうけれど、基礎分類・計量・撮影とかの記録は独りでやるんだもん。

    期間短いから(限られた予算内で発掘の方に時間を当てたいから)、なまらつらい。

    最近はモノ出過ぎて実測図書く余裕もない。

    大事なことだからもう一度言う、なまらつらい!( ・Д・)




    何はともあれ、

    やぱ黄金だけでウラヤマなのに組み合わせとかずるいな!( ・Д・)



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    2025ねん 9がつ 25にち(もくよーび、晴れ)

    やりたいことたくさんある~!、、、が少しずつ研究借金減らしてるからいつか余裕できる!( -д-)ノ

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




    今回の考古学・歴史ニュースは「なんかちいさくてかわいいやつがたくさん出た!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ




    🏺新発見!トルコ西部遺跡で4500年前の「炉を囲む小偶像」列隊

    トルコ西部、クタヒヤ県タヴサンル高地、タブサンル・ヒュユク(Tavşanlı Höyük) 遺跡で、なんと 約4500年前 のヒト型偶像(人をかたどった小像)が炉(囲炉裏・炉床想定)を囲むように並べられて出土した。


    トルコ文化観光省によれば、出てきた偶像は 大理石、骨、粘土 の素材で、未完成品も混じるとのこと。
    特筆すべきは「7体が炉を取り囲むように配置されていた」点。これが意図的な儀礼配置だった可能性が高いと、発掘側は見ている。


    この発見は、従来の「偶像は単体で捧げられるもの」「屋外に置かれることが多い」という通念を揺さぶる手がかりになるかもしれない。炉という生活空間の中心に祈りの存在を据えたという解釈は、日常の中の儀礼・信仰を透かし見るようなロマンを含んでる。





    🔎発掘現場と文脈:Tavşanlı Höyükってどこ?

    • 遺跡名:Tavşanlı Höyük(タヴサンル・ヒュユク)

    • 所在:トルコ西部、クタヒヤ県近辺

    • 時代:青銅器時代初期あたり、約 4500 年前(紀元前約 2500年ごろ)に相当

    • 出土物:偶像(大理石・骨・粘土)、未成形・素焼きの粘土器、炉床構造の遺構など


    遺跡は暮らしと宗教空間が混在する複合用途地区と考えられており、発掘は限定的な範囲ながら宗教・経済・工房の手がかりを含む材料が混在しているとの発表もある。


    この配置の発表により、炉周囲という「炉=聖なる炉床」的な空間が、当時信仰儀礼における中心的舞台だった可能性が議論されている。




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    ↑こんな遺跡!丘陵みたいに残ってるのかな?( ・Д・)(「Finestresull'Arte」の記事内画像を転載)



    ⚖️偶像を囲む炉:どういう意図か?

    この「炉を囲む」配置には、少なくとも以下のような仮説・意味が考えられる:


    1. 祖霊・先祖崇拝
       炉は“家”の中心であり、生活と密接な場所。そこに先祖や守護霊を配し、生活と信仰を重ねる意義を持たせた可能性。

    2. 炉火(火神・火の儀礼性)との関係
       火は清浄・変化・再生を象徴する要素として、炉を中心に儀礼が行われたという構造。

    3. 小偶像群像+炉=象徴的物語の演出
       7体という数字も意図的で、各偶像が物語や象徴性を持っていた可能性。未完成像も混じる点から「制作と祈りが並行した場」であったとも考えられる。

    4. 住居兼儀礼空間
       この遺構は生活の場と宗教空間が重なったもので、この炉配置が“日常と儀礼の融合”を示している可能性もある。


    発掘側も「未完成品があることは、ここが偶像制作現場と信仰・祈祷の場が重なっていたことを示す証拠になりうる」とコメントをしている。






    🧩比較事例・先行類例:似たモチーフを探す旅

    こうした炉を中心にした偶像配置という類例は、他地域・他時代でほとんど知られていないからこそ、この発見が注目されてる。だが、関連するものを比べてみると、ヒントはある:


    • 近代以前の炉祭祀:ケルト圏やバルカン、ローマ期・中東でも炉祭祀(炉前での祈祷・供犠)は記録されており、炉近傍に聖なる像あるいは聖所標識を置く習俗が断片的に確認されることがある。

    • 小像群像・列像配置の信仰遺構:シュメール・メソポタミアやエジプト近東などでは、女神像や守護神像の「並べられた配置」が寺院内外で見られるが、生活炉との結びつきは希。

    • 炉床発見例 in 他遺跡:時に炉遺構が“祭祀炉”として解釈されるケースもあるが、そこに小像が組み込まれた形はあまり報告されていない。

    この新発見は、炉祭祀や信仰像配置のあり方に「もっと身近で生活と混ざった構造」を想定させる可能性を示す点で斬新だ。




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    ↑小さくて可愛すぎて私ならトバシちゃう!(気付かずに捨てちゃうこと)( ・Д・)(「Anatolian Archaeology」の記事内画像を転載)





    🧪発掘方法・解析視点:どこを見ているか

    発掘および研究で注目されている技術・観点を見ておこう:


    • 配置観察と空間解析
       偶像同士、および偶像と炉との距離関係・向き関係を精密に測定することで、意図的な配置かどうかを検証。

    • 材質・制作段階の分析
       大理石・骨・粘土での素材差、未完成像の存在、ツール痕・削り跡・研磨痕などから制作過程の断片を復元。

    • 層序・層位との関連
       偶像と炉を取り囲む堆積層(灰・炭・土砂など)の関係を上下層で分析し、儀式/通常使用の時間差を見極め。

    • 顕微鏡分析・残留物分析
       偶像表面や炉床・周辺地域に残された炭化物・顔料・有機残留物を化学分析して、燃焼物や供物成分を割り出す。

    • 比較地域同期性の調査
       周辺の遺跡・時代層で同様の偶像列像配置がないか、文献・発掘報告を照合。

    これらを統合することで、「この炉偶像列像配置が偶然なのか、信仰意図的なのか」を議論できるようになるし、信仰構造・住居構造の再構成へとつながる。






    🤔課題と慎重視点――証拠と解釈の間で

    もちろん、考古学には常に慎重さが必要で、この発見にも議論の余地は多い:


    • 偶像7体という数はところによって壊れたり消失した可能性があるから、もともはもっと多かったかもしれない。

    • 偶像の配置がたまたま炉近傍にあった可能性、あるいは後世の移動・撹乱も排除しきれない。

    • 未完成品の混在は「制作途中の放棄」など単純な理由かもしれず、それを即「祈祷場兼制作場」と結び付けるには慎重な補証が要る。

    • 炉と偶像の時間的重なり(炉使用と偶像配置の同期性)を示す層位・年代の精密測定が不可欠。

    こうした注意を前提に、今回の発見は確実に議論を刺激するタイプのものだ。






    おわりに


    想像してみて――

    夜、炉の火が静かに燃える。家人は小さな偶像を前に香を焚き、水や穀物を捧げる。偶像たちは静かに囲み、火と語らう。風が吹けば影が揺れ、偶像の輪が炎に揺らぐ。


    「今日は収穫を感謝しよう」「子らと家を守ってくれ」――そんな言葉が、何千年も前の火のまわりで交わされていたかもしれない。


    この炉と偶像は、ただの遺物じゃない。日常と信仰が入り混じる小宇宙。私たちが見ているのは、過去の祈りと生活の交錯点だ。





    ……ってことで、最近アナトリア考古学も面白いな~と思ってるんですけども、、、


    やぱ乾燥地域は残りもいいしね~(・∀・)つ


    まぁそんなこんなで今回のちいさくてかわいい遺物は青銅器時代のものなんですね~。


    ぱっと見、旧石器かな~なんて思いましたが。


    まぁでも可愛くていいですよね。




    マヤにも小さい偶像ありますけれど、造形がリアルなので、シルバニアファミリー感ありますね。


    それはそれでいいんですけど、


    今回のような抽象度のものも可愛いなって思うんですよね。




    あ、最後に言い訳程度に、、、わたしちいかわ大好きです。


    押しははちわれ!


    以前、Xで考古学を広めるためのちいかわパクリ漫画描いてたレベルですからね!


    まぁ途切れましたけど、それもその内再開します!





    何はともあれ、

    やぱ小さくて可愛いものは正義!( ・Д・)



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    昨日食中り起こして死んでた!ヽ(TдT)ノ

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





    今回の考古学・歴史ニュースは散歩してたら短剣拾ったよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ



    🪓 森の散歩で出会った 3500 年前の瞬間 — 「土の上に寝ていた短剣」


    🧭 発見の瞬間 — ふつうの散歩が“時の裂け目”になる日

    ある晴れた、と言っても雨直後の地面が洗われたあとだったようです。ドイツ、テューリンゲン州(Thuringia)のGud ersleben近郊の森を歩いていた親子が、地表に緑青色に光る小さな金属片を見つけ、「石か何か?」と思ったところ、よく見るとそれは刃先と柄の接合部まで残る青銅製の短剣でした。土の動きや浸食で古いものがぽろりと顔を出したに違いない──地形がカルスト系の不安定地盤であることも指摘されています。地元の考古担当に速やかに届けられ、保護・調査に回されています。



    🔎 どんな短剣か — 形と技術の観察メモ

    短剣は「plate-tanged(板状の柄頸をもつ)」タイプで、刃は幅広く、柄は有機質(木・骨・鹿角など)で作られていたと推測されます。現物には保存のための緊急処置が施され、修復専門チームのもとで顕微鏡観察や金属組成分析が進められています。こうした皿状(plate)や板状のタンガー(柄の金属部分)は、青銅時代ヨーロッパで比較的よく知られるタイプで、武器であり得るし、儀礼的な「奉納」品でもあり得ます。青銅は当時高価で、単純な道具以上の社会的意味を帯びることが多いのです。




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    ↑綺麗な残り方!( ・Д・)(「Arukeonews」の記事内画像より転載)



    🏺 層位と来歴のヒント — 露出の理由と地形の役割

    専門家たちは、最近の豪雨や地盤の微変動が土を洗い流し、埋もれていた遺物を表面へ押し出した可能性を指摘しています。発見地は、地下水・地滑り・沈下が起こりやすいカルスト的地形の一部で、こうした地形では古い遺物が突如姿を現すことがあります。つまり「人が掘った」わけではなく自然のプロセスで現れたケースで、その点で発見者がすぐに報告したことは非常に重要です(出土状況 / context=文脈を保存するため;日本考古学ではカタカナを用いて出土コンテクストと表記することが普通)。





    🧑‍🔬 誰が関わったか — 地方事務所と保存作業

    現地を管轄する州の保存考古局がまず受け取り、遺物は修復・保存処理のため適切な施設(州の修復ワークショップ等)に送られています。専門家はまず、表面の緑青や堆積物を慎重に除去しつつ、合金組成・鋳造痕・表面処理(装飾や鍛冶技術)を調べます。これにより短剣の年代(おおむね中期〜後期青銅器時代、今回のメディア報道では約3,500年前とされている)や、製造技術の由来(同地域の材料か、遠隔地からの交易品か)に関する初期仮説が立ちます






    🌍 考古学的な読み — 武器? 礼器? 日用品より「象徴」を考えよ

    こうした青銅短剣は、先にも述べたように戦闘道具であると同時に身分や儀礼性を示すアイテムであることが多いのですが、それは青銅の製造・入手には銅と錫(スズ)という資源の確保とそれを扱う技術が必要なためで、結果として個々の短剣はそのコミュニティ内での地位や贈与関係を示すことがあります。また、特定の様式は地域圏(文化圏)を指し示す手がかりとなり、近隣地域との交易や情報交流を可視化します。今回の発見が比較的完全な形だったことは、保存条件と幸運が重なった結果であり、分析によっては広域交流の手がかりが出てくる可能性があります。




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    ↑テューリンゲンの森は美しい!( ・Д・)(「Peapix」の画像より転載)





    🧭 市民発見の倫理 — 見つけたらどうするのが“正しい”か

    今回の発見は、発見者がすぐに専門機関に届けたことで評価が高まりました。多くの国で不法な金属探知や遺物の私的取得は厳しく規制されており、出土コンテクスト(出土位置や周囲の層位)を保存することが学術的価値を保つうえで不可欠です。森で見つけた古いものに手を加えたり移動させてしまうと、貴重な情報が失われてしまう。ニュースを追う限り、今回のケースは“住民の良識”がうまく機能した良い例と言えます。





    🔬 これからの研究で期待されること

    1. 合金分析(元素組成):銅とスズの比率、微量元素から銅鉱山の供給源可能性を探り、交易圏を推定する。

    2. 鋳造・仕上げの痕跡調査:鋳型痕や鋳湯口、打ち出し跡から職人技術の流儀が見える。

    3. 比較文化研究:周辺の既知出土品(近隣の墳墓・埋蔵品)と比較して、儀礼的埋納か喪失品かを議論する。

    4. GIS と地形学的解析:出土地点の地形変動や地下水流、浸食履歴を再現し、露出のメカニズムを科学的に裏付ける。



    これらが揃えば、単なる「ふと出た短剣」の話ではなく、その短剣が歩んできた社会的・経済的な物語を立体的に復元できるはずです。



    🗺 地域史への小さなピース — Gudersleben と古代の人びと

    中央ドイツのこの地域は、先史時代から人々が暮らし、移動し、交易してきた「古い景色」の一部です。小さな村の森が、3500 年前の誰かの所持品の最後の姿をしばらくの間守っていたと想像すると、胸に来るものがあります。発見は地域史を書き直すほどの大事件ではないかもしれませんが、日常としての交流や技術の広がりを示す一握りの証拠としてはとても大きいと思います。




    arukemaya_y104



    おわりに

    日本でも雨の後の散歩は遺物を見つけやすいです。

    特に耕作地では降雨の後、めちゃ拾えます。

    私も大学生の時に踏査の学習として休みの日に先輩や同期と車で遠出した思い出がありますね。

    でも日本の場合は、耕作地が一番見つけやすいけれど、『人様の土地』ですからね、試しにやってみてもいいとは思いますがずんずん入っていくことはしないでくださいね、怒られますよ!( -д-)ノ



    基本として駐車スペースに気を遣う(郊外に出ると路駐になることが多いため)、会った人には元気に挨拶&余裕があったら考古系の話を振ってみる(さりげなく拾っていいか訊いてみる)、畑の中には入らず周りから探してみる・・・礼儀としてはこれくらいかな、たぶん。

    どの職業でもそうだけれど、考古学者もコミュニケーション能力大事!



    あとは白地図もっていくとか、地図や野帳に記録取るとか、チャック付きポリ袋に遺物入れて、袋にもマジックで情報(取得日時、場所、簡易分類名)記載する、周辺風景の撮影を行うとかかな。

    最近はスマホあるから簡単にGPSで記録取れるよね、場所や位置情報もグーグルアースの画面をスクリーンショットでいいと思うしね。

    でも紙媒体記録も同時に取るのは大事!

    帰ったら洗浄、乾燥、注記、、、余裕あれば撮影、実測かな(*スマホやカメラなどのデジタルデータは忘れない内に速攻整理すること!)。

    それだけできればもう考古学徒として十分な気がします(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!




    何はともあれ、

    最近記事数増やしたけどやぱあまり真面目ばかりは性に似合わんな!( ・Д・)



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    引越しの荷造りなう、掃除めんどい( ・Д・)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



    今回の考古学・歴史ニュースは大量の武器と人骨が見つかったよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


    今回の舞台はドイツ東北部に位置するトレンゼ遺跡です。

    この遺跡は古戦場跡なのですが、世界最古の大規模戦闘の痕跡が見られる遺跡として超重要遺跡です。

    過去にも当サイトで取り上げていました。



    ↓結構頑張って取り上げていますねΣ(・ω・ノ)ノ


    ↑我ながら良く書けてるな~(゚Д゚≡゚д゚)エッ!?




    「戦争の考古学」なんて、良識ある考古学者から見れば大それた名前を掲げてるなと思ってしまうものですが、そうした分野や書籍は存在します。

    当たり前ですけど、考古学って遺物・遺構を主要なデータとして取り扱うのですが、戦闘の痕跡って遺物・遺構として残りにくいんですよね。




    多くの事例において、戦闘終了後に目ぼしい武器や防具は回収されてしまいますし、

    運良く人骨や武具類が残ったとしても遺跡化の過程において後世の人類活動、農耕とか都市化とかで壊されて失われることも多々あるわけです。




    なので”バトルフィールド”の遺跡自体がそもそもほとんどないんです( ・Д・)

    ざっと2000年も期間があるようなマヤ文明だって一つもそうした遺跡はないような気がします。

    あっても都市が破壊された痕跡くらいでしょう。

    なので「戦争の考古学」はそもそもデータ量的に難しいのです( -д-)ノ




    arukemaya_z059



    トレンゼ遺跡では紀元前1250年に起きた戦闘の痕跡がまざまざと残っています。

    約150体分の人骨として約1万2500本出てます。

    上に挙げた画像のように、頭蓋骨を青銅製の鏃が貫通しているような明らかな戦闘の痕跡が残るものも含まれます。

    青銅器時代なので、下に挙げた画像のような鏃が多数出ている他、剣やこん棒も出土しています。




    過去記事の方に挙げた写真で分かるように、遺跡のすぐ横を流れるトレンゼ川はうねうねと蛇行していて渓谷を形成しているのですが、

    河川の位置がコロコロ変わることで、常に水分が供給される状態になっていて、多数の人骨や木製品が残ったと予測できます。

    そして河川がもたらす土砂であっという間にパッキングされたために武器や装飾品が残ったのでしょう。

    さらにはトレンゼ川流域は一部が農地利用されているものの、大部分は未開発であることも大きな要因です。



    そうした様々な要因が重なって残った貴重な「最古のバトルフィールド」なわけです(*・ω・)ノ







    おわりに

    私も戦争・戦闘関係の研究を数的に行いたいとは思っているのですが、なかなかねぇ。

    古代マヤ文明における戦闘シミュレーションとかやりたいんだけど、、、




    お金も時間もないなぁヽ(TдT)ノ

    まぁ少しずつ取り組んでみます(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!




    何はともあれ、

    やぱお金かせがにゃ!( ・Д・)



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    結局睡眠時間削って研究時間確保してるけどヤバい眠い( ・Д・)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



    今回の考古学・歴史ニュースは「青銅器時代の盾と兜が素敵な保存状態で見つかったよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


    今回の舞台はトルコ東部、ヴァン県のアヤニス城です。

    上に挙げた画像で分かるように山というかけっこうな高さの丘?の上に立地しています。



    ウラルトゥ王国が築いた城で、古代より前の先史時代に相当する遺跡です。

    時期的には900 BCE-585 BCEで、アジアの最西端の位置するアナトリア地域(アナトリア半島域)に栄えたのがウラルトゥ王国です。

    近くにヴァン湖があるためヴァン王国とも呼ばれていました。



    ウラルトゥの呼称もアッシリア人によるもので、ウラルトゥ語ではビアインリ王国という名前でした。

    このビアインリがヴァン湖のヴァンの語源になっていて、またウラルトゥの名は聖書の洪水伝説で有名なアララト山と関係があるそうです。

    知らないことで一杯です!( -д-)ノ



    arukemaya_z052


    最初に挙げた画像から近づいてみると、こんな感じです。

    柱なのか右側に方形の遺構が並んでいます。

    右側上方にはガラス張りみたいな新しい建造物がありますが、恐らくこの中に保護すべき特別な遺構があるのでしょう。

    レリーフとか壁画みたいなものでしょうか。




    さて、その新しい建物の更に上方と左側には何やら四角い窪みが見られますが、これらは全て発掘で開けたグリッドでしょうね。

    今回の遺物の発見場所は左下の赤丸を加えた箇所です。




    arukemaya_z053

    arukemaya_z054



    で、発見した遺物がこちら!

    同じものを別の角度で撮影しています。

    大きな丸い円盤状のものが青銅製の盾で2点写ってます。

    盾は内側が上向きになっていて、中に置かれているものが青銅製の兜です。




    これで2700年前!

    凄い良い出土状態ですよねΣ(・ω・ノ)ノ




    でも落ち着いて考えてみると、、、



    青銅と言えば、日本だと銅鐸とかがパッと浮かびますが、やはり鉄器時代以前のものの方が遺物として残りは良いですね。

    新しい技術のものって使い勝手は良いけれど、遺物として残りにくいんですよね。

    現代社会のデジタル情報なんて最たるもののような気がします( -д-)ノ




    arukemaya_z055

    arukemaya_z056



    おわりに

    私、RPG好きなんで、「青銅の盾」とか「青銅の兜」って聞くだけでうぉ~!ってテンション上がります。

    実は大学に入るまではヨーロッパの考古学をやりたかったので、、、

    なんでかマヤ文明やってますけどね(笑)



    ところでこの地域の兜ってとんがりコーンみたいな形なんですね。

    受け流すには良い形状なのかも知れませんが、それにしてはかなり薄い感じがします。

    防御力低そうですね・・・

    いや~、趣味で古代・中世の武器・武具のレプリカ作って、能力値のデータ化したいけど、、、お金も時間もないから無理だな~ヽ(TдT)ノ



    ほんと、一般ウケするような面白い研究するから、誰か超金持ちにスポンサーになってもらいたいよ!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

    知り合いに富豪がいたら紹介&説得してね!ヽ(・ε・)人(・ε・)ノ ナカマ





    何はともあれ、

    やぱヨーロッパ(?)史はどこ取っても不思議な風情があるね!( ・Д・)



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    2021ねん 6がつ 1にち(かよーび、晴れ)

    やぱ新しく勉強したり研究するには、どうしても定時以降とか、休み使わないとダメだな( -д-)ノ

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



    今回の考古学・歴史ニュースは中国でなんだかフィーバーしてるね!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


    さて、今回の舞台は中国、四川省、三星堆遺跡です。

    この遺跡で大きな発見がありまして、それは下に挙げたリンク先の記事で紹介しました。





    ここでもさくっと概要を書くと、三星堆遺跡は今から約3000年前に四川省にあった青銅器時代相当の遺跡です。

    青銅器時代ですから、青銅製品が多数出てくるのは当然なのですが、ポイントはその青銅製品の精巧さと金製品を伴うことです。

    この遺跡では1986年に2基の墓が発見されており、2020年に新たに6基の墓が見つかりました。

    1986年の調査時に青銅製の人物像と黄金仮面が出土したのですが、その他にも精巧な副葬品が多数出ています。

    新しく見つかった6基の墓(第3~8号墓)からも多量の遺物が出ていて、どれも精巧な奢侈品ばかりです。


    arukemaya1548

    arukemaya1543

    arukemaya1542



    青銅製品はどれも精巧な作りですし、「黄金の葉っぱ」も細工が美しいですねヾ(´ω`=´ω`)ノ

    まぁ個人的には最後に挙げた青銅製の小像の濃ゆい眉の感じが好きですし、ついそこに目が行っちゃいますけど、重要なのは色彩が残っている点ですね。


    arukemaya1540



    さて、上に挙げた1枚目の写真は「象牙製品」です。

    これも繊細な意匠が美しいです。

    この時代に象牙を貴重品として交易していたことに驚きです。

    どこのどの種の象さんの牙なのか知りたいですね。

    そして象牙を素材として入手してこの地で加工・製作したのか、あるいは製品として入手したのか、これも気になるところです(*^・ェ・)ノ


    2枚目の写真は「玉璋」です。

    「ぎょくしょう」と読みます。

    「玉」の字があることから分かるように玉製なんですが、斧とか刀とか実用の工具類を模したものです。

    上の写真の場合は、「小刀」でしょうか?

    上部が柄部で、下部が刃部に見えます。

    この「玉璋」は三星堆遺跡で見つかっている独特の型式で、他には見られないレアな事例なのです(*・ω・)ノ

    さて最後に、インディジョーンズ的なアドベンチャー映画のワンシーンかと思えるような画像を紹介しますね(*・ω・)ノ


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    arukemaya1541a
    ↑にょろにょろとにょろにょろ型玉製品


    おわりに

    どうも玉璋の柄部と刃部の間の装飾が気になって、、、

    にょろにょろ(ムーミンに出てくるやつ)にしか見えなくて、、、

    ちょっと最後にふざけました( -д-)ノ


    ・・・さて、この感じだとまだ色々と出てきそうな感じがしますね。

    出土品が眩いので、そこばかりに着目してしまいますが、この地域の青銅器文化ってどのようなものだったのでしょう?

    一般の住居とかも発掘して研究して欲しいなって思っちゃいます。

    実はやられていて、ニュースにならないだけかもしれませんがね( -д-)ノ

    ともかく、、、

    また中国は観光で一儲けできるね!( ・Д・)



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