2019ねん 7がつ 13にち(どよーび、雨)

毎週土曜日は徹夜の日にしようかなと考え中。

時間の確保のために( ・Д・)


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一乗谷朝倉氏遺跡復原町並
一乗谷朝倉氏遺跡復原町並
一乗谷朝倉氏遺跡復原町並
一乗谷朝倉氏遺跡復原町並
福井県、「一乗谷朝倉氏遺跡復原町並」における戦国時代の城下町の様子(「毎日新聞」の記事内画像より転載)


今回の考古学・歴史ニュースは、『駿府城にて国内でも非常に珍しい戦国時代の「道」が見つかったよ!』というお話です(*・ω・)ノ

  1. 駿府城における「戦国時代の道」の発見
  2. 日本における「道の歴史」
  3. おわりに


1.駿府城における「戦国時代の道」の発見

つい先日、静岡県、駿府城公園の天守にて大きな発見があったばかりですが、更なる重要な発見がありました。


↓瓦の歴史】安土桃山時代、徳川家康の駿府城から豊臣秀吉の金箔瓦が大量に出土したよ!( ・Д・)【歴史考古学・城郭考古学】↓



上に挙げた写真は福井県にある「一乗谷朝倉氏遺跡復原町並」で行われたイベントの様子で、戦国時代の城下町に武士や町人に扮した人々を配置して当時の雰囲気を味わってもらうというものです。

この「朝倉氏遺跡」では国内でも数例しかない「戦国時代の道」が検出されており、「復原町並」ではその調査成果を活かした復原がなされています。

写真には復原された「武家屋敷の石垣と道」が写っていますが、けっこう道幅が広い印象を受けます。

一方で今回、駿府城周辺にて検出された「石垣に囲まれた道」はイメージとしては同様のものですが、道幅はより狭いものになります。



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上の1枚目の画像で分かるように、前回の発見の舞台は駿府城公園内の天守台でしたが、今回の発見場所は公園の周辺に当たります。

この位置に歴史文化施設を建設すべく、事前に調査がなされていたところ今回の発見に至りました。

「戦国時代の道」は貴重な発見ですから、博物館展示の目玉の一つとして、床面をガラス張りにして遺構を確認できるような方法を取るのかなと私は予想しております( -д-)ノ

さて、最初に挙げた朝倉遺跡の写真は当時の道の様子をイメージしてもらうのに最適で、上に挙げた2枚の画像は実際の遺構の状態と道の様子をリンクさせるのに適切かなと思って載せました。

次に実際の遺構の写真を挙げますが、「よく分からないよ!ヽ(TдT)ノ」という方はこれまでの3枚の画像と比較してみると理解が深まるかと思います(。・ω・)ノ゙




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これが検出された道なのですが、お分かり頂けたでしょうか?

現地表面から60~100cm掘り下げた位置にて検出されたとのことで、けっこう浅目ですからね、よく残っていたなと思います(・∀・)つ

検出された道の全長は約30m、幅は約2.7mでした。

この「戦国時代の道」の検出場所は三の丸であり、この一帯には駿府城の本丸、二の丸を囲むように、重臣級の武家屋敷が立ち並んでいたと考えられます。

武家屋敷の石垣と考えられる石列に挟まれた道は、表面が土で固められており、その表層部分は厚さ約10cmとなっています。

検出された石垣の高さは約30cmであり、天然の石がそのまま積まれる技法の「野面積み」です。

これは前回の記事で紹介した駿府城の「旧」天守台における技法と同じものになります。

この石垣に用いられた技法と出土品から、「旧天守台」と類似の時期(家康期~中村一氏期;1585~1606年頃)に造営されたものと推測されています。

また天下人となった家康が駿府城に戻った1607年以降、大御所政治を始めたころ、秀吉時代に築かせた天守閣とともにこれらの武家屋敷や道も埋められた可能性が高いとされています。



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2.日本における「道の歴史」

「其实地上本没有路,走的人多了,也便成了路」
(訳:実際、地上に道は初めからあるのではなく、多くの人が歩くから、それが路となるのだ)

魯迅『故郷』より引用、一部改変(着色・太文字化のみ)

僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る

ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちにさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため

高村光太郎『道程』より引用、一部改変(着色・太文字化のみ)

さて、上に引用したように「道」に関するカッコイイ表現があります。

これらの場合の道は「物理的な道」のことのみを取り扱っているようには思えませんが、字義通りに捉えるとすると、まぁ確かに道は元々あるわけではないですし、人が歩くことで道は出来ますね。

「獣道」っていうんですど( -д-)ノ

獣道は実際にイノシシなどの大型の哺乳類が頻繁に通ることで形成されますが、一部の林道・山道など整備することなく人がただ歩くことで形成される場合も獣道と呼びます。

考古学の性質上、人類を対象とした場合、こうしてヒトによって踏み固められることで自然と出来上がった所謂「獣道が最初の道」と言えるでしょう。

こういった最初期の道は原始的な生活を送っていた文化に見られるものというイメージがありますが、青森県の三内丸山遺跡では縄文時代に帰属する全長約12mの舗装された道路が検出されており、国内における道路の歴史はかなり古いものと言えます。

また日本書紀における神武東征の箇所で、「皇師兵を勅へて歩より龍田に赴く。而して其の路嶮しくして、人並み行くを得ず。」という記述が見られます。

これが国内における道路に関するの最も古い記述であり、当時の道路は人が2列で行進することができないほど狭いものであったようです。

同じく日本書紀の推古天皇下の613年に「難波より京に至る大道を置く」とあり、これが日本における道路整備に関する最初の記述です。


上に挙げた図は、7世紀後半に律令制が制定されて広域地方行政区画として定められた五畿七道の図です。


ここから日本で最初の計画的な道路網の整備が始められることとなります。


鎌倉時代には、源頼朝が支配圏を拡大していくために道路整備を積極的に行っており、特に東国の関東武士が鎌倉へ集結するための関東各地と鎌倉とを結ぶ鎌倉街道が切り開かれました。

一方で室町時代は、道路や交通に対する目立つような施策はほとんど見られず、数多くの関所を設けて通行人から通行税をとる政策しか行われなかったようです。


さて、今回の記事と繋がる戦国時代には、各戦国大名にとって物資の往来、敵からの防御が死活問題であったため、軍事面の問題から領内の道路整備や峠の開削が積極的に行われました。


室町時代からの慣習で領国の境には多くの関所が設けられて通行税の徴収が行われるようになっていたましたが、織田信長や豊臣秀吉は天下統一のための支配圏拡大を行っていくにあたり交通路を重要視し、道路改修や橋梁整備を積極的に行い、国の境にあった関所を廃止しました。


「全ての道はローマに通ず」とありますけども、あちらでも古代の道路網は軍道の整備として充実していきますから、「道の歴史」として共通性を感じますね。

何はともあれ、物流の効率化を図ること、そのための道路整備は国家段階の集団にとって重要だったのだろうと思います(*・ω・)ノ



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3.おわりに

静岡市では駿府城公園を文化資源として活用しようという動きが活発であり、現市長が全面的に支援しています。

そうした中、このように立て続けにニュースになるような発見がなされることは市長だけではなく、静岡市民、関係者らにとっても嬉しいことだろうなと思います。

戦国時代好き、歴史好きな皆さんにとっても、貴重な「戦国時代の道」を博物館で生で見ることができるようになるかも知れないと思うときっと喜ばしいことだと思います。

ふるさと納税など様々な試みがなされている中、こういった各市町村が有する具体的な文化財をしっかりと調査して歴史的意味付けを行い、上手に活用していくことで、「真の地元愛」を育てたり、歴史ファンを含む多くの観光客を惹き付けることに繋がるんだろうなと思います(。・ω・)ノ゙

↓あ~それそれ!ヽ(・ε・)人(・ε・)ノ ナカマ↓